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この間、こどもたち(小学生)の放課後のあり方が様変わりしてきている。各地での呼称は違っても、学童保育と全児童健全育成事業が進展し、さらにその二つの流れをくむ、国の「放課後児童健全育成事業」(厚生労働省所管)と「放課後子ども教室推進事業(地域子ども教室推進事業)」(文部科学省所管)の両事業が、その内容はさておき大きく進展してきている。 さらに、昨今の物騒な世相を反映して、2007年度より国の両事業の「一体的あるいは連携」をはかる目的で、「放課後子どもプラン」が実施され現在に至っている。まだ、全ての小学校区で実施されてはいないが、多くの小学生たちが、何らかの施設で放課後を、日常的に集団で過ごすようになった。 この事は、当然こどもたちの放課後の生活の様相、中でもあそびの様相を大きく変化させているように思われる。その点についての私見を進めるにあたり、国が大々的に進めはじめている「放課後子どもプラン」の現状を見ていく。まずは、文部科学省・厚生労働省放課後子どもプラン連携推進室による、国の「放課後子どもプラン」の特設サイトからの引用を以下に掲載する。【子どもが犠牲となる犯罪・凶悪事件が相次いで発生し社会問題化したことや、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下が指摘される中、平成18年5月に当時の少子化担当大臣より、「地域子ども教室推進事業」と「放課後児童健全育成事業」の放課後対策事業を、一体的あるいは連携して実施してはどうかとの提案を踏まえ、当時の文部科学大臣及び厚生労働大臣の両大臣が合意し、「放課後子どもプラン」を創設しました。】(【】内は前記「放課後子どもプラン」の特設サイトから一部引用、2008年9月29日現在) これまで所管も事業内容も別々であった「地域子ども教室推進事業」と「放課後児童健全育成事業」の両事業の連携を強化し、可能ならば一体化をはかろうとするものだ。そこで、その両事業の違いを同上サイトの説明で見ておく。【「放課後子ども教室推進事業」は、すべての子どもを対象に、地域の方々の参画を得て、学習やスポーツ・文化活動等の取組を推進。「放課後児童健全育成事業」は、保護者が労働等により昼間家庭にいない概ね10歳未満の児童に、適切な遊び及び生活の場を提供。】(【】内は前記「放課後子どもプラン」の特設サイトからの抜粋・編集、2008年9月29日現在) この様に、両事業は本来は違った目的をもった事業なのだが、両事業の現場でのあり方が十分に洗練されておらず、対象児童が違うだけで同じ内容の活動が行われている事業として、一般的には思われている。その事は、これまで「学童保育」事業を行っていた少なくない自治体が、「学童保育」事業を廃止し「全児童健全育成事業」に統合し、さらにその後「放課後子ども教室」事業に移行していることにも端的に現れている。 要するに、両事業とも、こどもたちに対して、おとなが何らかの指導・援助することでは同じで、その指導・援助の内容や方法について、両事業の違いが明確になるほどは洗練されていないことが、前記のような状況をつくっている。この事は、国(厚生労働省・文部科学省)による両事業の「一体的あるいは連携」を安易にはかろうとする「放課後子どもプラン」が生まれる素地ともなっている。 しかし、「文部科学省・厚生労働省放課後子どもプラン連携推進室」が実施した調査結果には、「現行どおりで良い」と回答した自治体が35%であり、「両事業の一本化が必要」と回答した自治体が27%に留まっていることを考慮すると、「放課後子どもプラン」の進展はまだまだというところだ。 その結果、小学生の放課後は、民間の純粋の学童保育所や民間の塾的性格の強い「学童保育所」を含め、「放課後児童健全育成事業」の「放課後児童クラブ」、「放課後子ども教室推進事業」の「放課後子ども教室」、さらには各種様々な形態の「子どもの居場所」などが混在する、極めて複雑な状況にあると言える。 ともかく、数十年前までにはほとんど存在しなかった、放課後における日常的な集団生活の場が、ほぼ全国的に多数存在する事となった。すでに「学童保育所」や「放課後児童クラブ」に在籍するこどもたちはかなりの数になっている。さらに、塾や習い事などの関連で「放課後子ども教室」や「子どもの居場所」に、常時放課後の生活を送る小学生が、まだ大多数になっていないが今後の増加もあり得る。このように、放課後に集団生活をおくる小学生の数も、この数十年で格段に増加している。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.30
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アメリカからこんな「女の子の遊び」に関する記事が飛び込んできた。【アメリカの大手市場調査会社のNPD Groupが、女の子は昨年以上に多くの時間をエンターテイメント関連の活動に費やしており、特に仮想世界は女の子との間に密接な関係を築いているとの調査レポートを発表した。(中略)9~12歳までの思春期前の世代では、従来までの玩具で遊ぶことも選択範囲内にあるものの、多くの女の子はゲームや仮想空間などデジタルな遊びに多くの時間を費やすようになり、13~14歳になると既に”ゲーマー”となり】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/Second Times:2008年9月26日) ゲーム機あそびが女の子にも浸透してきているとの調査報告だが、確かに日本でもそうした傾向にあることは実感できる。ゲーム機やテレビゲームが出始めた頃は、それらを使ってあそんでいるのは、男の子が中心で女の子は少なかった。 それは、その当時はシューティングやカーレースなどの、いわゆるアクション系のゲームが多かった事に一因がある。その後の、ロールプレイングゲームや育成ゲームなどの出現が、女の子にゲームあそびへの門戸を大きく広げる事となった。 こうしたゲームだけでなく、昔の「チャンバラごっこ」と「おままごと」とで代表できるように、男の子と女の子のあそびにおける性差は、その差が小さくはなりつつあるが、時代を超えて存在している。記事に言う、「仮想世界」はゲームだけに存在するものでなく、例えば「おままごと」は典型的な「仮想世界」でのあそびだ。もちろん、ゲームでの「カーレース」も、昔の「チャンバラごっこ」も「仮想世界」のあそびだ。 そもそも、あそびは本来「仮想世界」の事なのだ。ただ、昔ながらのあそびは「仮想世界」が実世界の中で展開されるのと、ゲーム機でのあそびは、「仮想世界」がゲーム機のソフトの中と言う「仮想世界」で展開される違いがある。 当然、昔のあそびではあそび相手も実世界のこどもたちであり、ゲーム機でのあそびではあそび相手も仮想世界のものとなる場合が多い、という違いが生まれる。このゲーム機に存在する多重の「仮想性」こそ、ゲーム機あそびの一つの本質なのだ。 そして、インターネットを介したゲームの出現により、この多重の「仮想世界」を通して実世界同士が繋がると言った、極めて複雑で混沌とした「世界」が、あそびの中に出現することとなった。要するに、多重の「仮想世界」と実世界が、虚実混沌として絡み合った「世界」に、こどもたちが直面するようになったのだ。 昔とは違って、今のこどもたちが抱えるようになった、様々な諸問題の幾つかは、ゲーム機あそびによる虚実混沌とした「世界」が引き起こしているのかも知れない。特に、ゲームの水準がリアルになればなるほど、その「世界」はより虚実混沌としていく。 そして、その混沌とした「世界」であそぶこどもたちの年齢が下がれば下がるほど、抱えなければならない問題も大きくなっていくだろう。複雑・多重の「仮想世界」とこどもたちの関りについて、おとなが考えなければならない課題は、けっして小さくはないだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.29
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(その1からの続き) 設問数の少なさからくる不確かさは、算数だけでなく国語にも言える、例えば「小学校国語A」にある純粋の「読み」と「書き」の設問数は、それぞれ三問だけなのだ。これだけ少ないと、たまたま知っていた、知らなかったと言う、いわば運を判定するようなもので、けっして学力の実像を知ることは出来ない。 このように、今回の「全国学力テスト」が、こどもたちの生(なま)の「学力」のほんの僅かな一部だけを切り出した「テスト」であるが故、どれだけ優秀な「分析ソフト」でも、記事にある「子どもに身につけさせたい学力の課題」を導き出すのは難しいと考えられる。それよりも、下手をすれば、こどもたちに間違った課題を強いることにもなる。 このような単発で設問数も限られた「全国学力テスト」では、全国的な大雑把な傾向は、知りうることは可能かもしれないが、けっして個々のこどもたちの「学力」の、正確な姿は浮かび上がっては来ないのだ。そんな不確かな「全国学力テスト」の結果公表に、右往左往する教育委員会や自治体の多さには呆れかえる。 なお、「全国学力テスト」都道府県別正答率の公表の後、市町村別の正答率の公表を強いる知事がいるが、前記のような、「全国学力テスト」のもつ限界性や不確かさを理解しているのだろうか。おそらく、こどもたちに寄り添って算数を教えたことは無いのだろう。もしあれば、きっと「全国学力テスト」の限界やおかしさを見抜けるはずだ。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2008.09.28
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【京都府総合教育センター(京都市伏見区)はこのほど、8月末に返却された本年度の全国学力テストの調査結果を各校で簡単に分析できるソフトを開発した。ソフトは設問ごとのつまずきの原因をはじめ、学力と生活習慣調査との相関なども把握でき、教員の具体的な指導対策も盛り込んでいる。(中略)センターによると、前年の全国学力テストの分析作業は、各校とも約1週間かかっていたという。新ソフトは返却されたテストデータを入力すると約30分で分析を終えるため、教員の作業時間を大きく短縮できる。(中略)新ソフトは京都市を除く府内の小中学校などに配布し、各校で順次分析を始めている。センターの山口恭一所長は「ソフトの活用で子どもに身につけさせたい学力の課題を明らかにし、指導に対応できる」と話している。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/京都新聞:2008年9月26日) ざっと一見すると、さも素晴らしい「全国学力テストの分析ソフト」が開発されたかのように思える。しかし、そもそもの「全国学力テスト」もそうだが、こうした「分析ソフト」に頼る指導が、このソフト開発関係者が言う「子どもに身につけさせたい学力の課題を明らか」にするには問題点があるように思われる。以下に、記事の引用部の流れに沿って、その点に関して私見を述べていく。 まずは、こうしたソフトで、記事に言う「設問ごとのつまずきの原因」を把握できるかどうかを検証していく。その実例として、文部科学省のHPに掲載されている、今回の「全国学力テスト」での「小学校算数A」にある問題を取り上げていく。 「小学校算数A」の最初には、以下の計算問題がある。 (1) 132-124 (2) 52×41 (3) 6+0.5 (4) 68.4 ÷36 (5) 3+2×4 (6) 2÷3 (商を分数で表しましょう。) 小学校で習う計算に出てくる課題が、ほぼ網羅されており、こどもたちが「繰り下がり」「四則演算の順序」などにおいて、どこで「つまづいているか」を知るようには、考案されているように見える。しかし、単独の計算問題としては、《たったこれだけ》なのだ。たったこれだけの問題数で、計算の「つまづき」を分析しようとすること自体に問題がある。 例えば、設問(1)の「132-124」の一問だけでは、繰り下がりのある計算の「つまづき」の正確な状況は判断できない。こども達の中には「132-124」は正解しても、設問とは違う「532-224」が不正解な子も少なくない。何故なら、「132-124」の答えは「8」で一桁だが、「532-224」は「308」で三桁になり、こどもの個々の状況にもよるが、一般的に後者の方が誤答が多くなる傾向がある。 「全国学力テスト」の設問が、前者なら正解で「繰り下がり」に「つまづき」無し、後者なら誤答で「つまづき」有り、と判定するのだろうか。さらに、設問が「522-224」なら、もっと誤答が増え、結果として全体の正答率が下がってしまう。 このように、「繰り下がり」ができるかどうかを見るための設問がたった一問であると、出題される設問の違いにより、「できるかどうか」の判定が違ってくるのだ。当然、そのような状況では、こどもたちの「繰り下がり」の力を正確には判定できないのは言うまでもない。 さらに、設問(6)にいたっては、不正解でも、うっかりミスで答えを小数で記した「0.67」、その「0.67」を分数にした「67/100」、分数の理解不足の「3/2」などをどの様に分析するのだろうか。また、設問(6)に対しての無解答(空白)を、分数の理解不足か、「商」の意味がわからないのかをどの様に区別するのだろうか。 要するに、どれだけ優秀な分析ソフトでも、これだけの少ない設問数で、「設問ごとのつまずきの原因」を究明することは不可能なのだ。それより深刻なのは、「132-124」が出来ても「532-224」が出来ないのに、この設問には「つまづき」無しと判定すれば、そこからは誤った「指導課題」が導き出される恐れもある。(その2に続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2008.09.27
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昨日紹介した、雑草だらけだった、杉本町公園ともう一つの公園は、法律に「都市公園」として明記された公園だ。ところが、大阪市は公園整備が進んでいることを、公園の箇所数や総面積をとりあげて、誇っているのだから始末が悪い。以下に、大阪市のHPより都市公園についての記述を引用しておく。【うるおいのある都市環境をつくるうえで、オープンスペースとりわけ都市公園の果たす役割は非常に大きい。 都市公園は、うるおいのある豊かな都市環境を形成する緑の拠点であり、ヒートアイランド現象の緩和など都市環境の改善に寄与し、災害時に避難場所となるとともに、市民のレクリエーションとコミュニケーションの場、心身の健康増進の場として、また大阪固有の文化を引き出し、国際集客を支える都市施設として重要な役割を果たすオープンスペースである。 本市においても、都市公園の整備を施策の重点目標として強力に推進してきており、その結果、20年前の昭和63年には786か所、759.9ヘクタール、市民1 人当たりの公園面積2.87平方メートルであった都市公園を、平成20年4月1日現在969か所、930.6ヘクタール、市民1人当たりの公園面積3.52平方メートルにいたるまで造成整備した。】(【】内は大阪市のHP/ゆとりとみどり振興局/平成20年度事務事業概要/第6 公園・緑化/3 都市公園整備の現況から一部引用:2008年9月25日) 上記引用にあるように、大阪市の位置付けでも都市公園は、市民にとって極めて重要な役割を持った施設であることがわかる。しかし、その都市公園の実態が、例えそれが一部ではあっても、昨日のブログ記事のような状態では、その重要な役割を果たしていないのは明白だ。 大阪市の都市公園の現状は、「本市においても、都市公園の整備を施策の重点目標として強力に推進してきており」と言える様な状況ではなく、大変お粗末な現状だ。都市公園は定期的で適切な管理が行われて、はじめてその日常的な役割を果たす。 箇所数や総面積を誇っても、一部にすぎなかったとしても、雑草で埋もれたままの遊具があるようでは、大阪市の公園行政のお粗末さを隠すことはできない。こどもたちに外あそびをどんなに勧めても、都市部では僅かになったあそび場である公園が、この様な実態ではその効果は上がらないだろう。 この様に、実際の公園の実情が極めてお粗末な状況にあるにも拘らず、HP上でその公園行政の進展振りを自慢するような、大阪市の欺瞞的な態度は、遊具点検のズサンさにより、少なくないこどもたちが、楽しいはずの遊具で事故にあう事と無関係ではないだろう。 大阪市は、HPにあるように「うるおいのある豊かな都市環境を形成する緑の拠点」として、都市公園がその本来の役割を確実に果たすように、日常的な公園の維持管理を厳格に実施していただきたい。そうすれば、都市公園はこどもたちからお年寄りまで、市民全てが憩える公園となるだろう。そんな日が早く来ることを願っている。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2008.09.26
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前回は、雑草でうずもれた樹木や切り株を紹介したが、大阪市の公園管理のズサンさは、それだけに留まらなかった。その端的な実例が、所用で訪れたわが母校である大阪市立大学近くの公園にあった。公園のほぼ全面が雑草で覆い尽くされていたのだ。地面が露出するのは、公園入り口から墓地への道筋だけだった。 墓地のようにそれなりの利用者があって、人により適度に踏みしめられておれば、雑草は蔓延(はびこ)らない。と言うことは、この辺りのこどもたちがブランコであそぶことが少なくなったのだろうか。こどもたちがブランコなどであそぶために、この公園に頻繁にやって来ていれば、こんな状態にはならなかったかも知れない。 しかし、右図のような状況では、ブランコへ近づくことも、誰もが躊躇してしまうだろう。昔のこどもたちの様に、こうした草むらに慣れていない、今のこどもたちならもっと尻込みをしてしまうに違いない。 それでも、雑草の生え方を仔細に見てみると、ブランコの直下よりも、危険防止柵の外側の雑草の方が背丈が高い。そのことから推測すると、まだそんなに雑草で覆われていない頃には、こどもたちがブランコであそんでいたのかも知れない。 その後も、雑草の刈り込みが無かったことにより、こどもたちがだんだん近づき難くなって行ったのではないだろうか。この様な、雑草の刈り込みに見られる公園管理の不十分さは、大阪市における公園遊具での事故が少なくない事と無関係ではないだろう。 そして、こうした公園の管理の不十分さ、と言うより公園管理の怠慢さは、最近に始まったことではない。かなり以前に、このブログでも紹介した次の画像でも明白だ。これは、2002年に撮影したものだが、砂の部分にも雑草が生え、砂場であることさえ判別できない有様だった。公園が公園としての使命を果たすためにも、大阪市による公園管理の改善を強く要望する。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2008.09.25
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(その1からの続き) そればかりではなく、1980年代当時問題となっていた大学・高校受験の競争過熱が、今や中学校・小学校、時には有名幼稚園へと、受験競争が低年齢化している。「歩き始めた時期から、足の骨が出来上がる10歳ぐらいまでの間」の「外遊び」の機会さえ、こどもたちから奪っている現状になっている。 今、二回目となった「全国学力テスト」の結果公表が、多くの自治体や学校を巻き込んで、さらに大きなうねりとなって、新たな「学力?」競争が起き始めようとしている。「夜スペ」と称する取り組みが、もっぱら「おとな」たちの間でもてはやされ、あるタレント知事までがその気になるなど、勉強時間の更なる増加が広まりつつある。 かのタレント知事は、学校の運動場の芝生化も提唱しているが、もし足が「退化」してしまうと、そんな足にとって芝生化はどんな意味があるのだろうか。また、せっかくの芝生でも、勉強につぐ勉強で疲れてしまった気力や体力で、「鬼ごっこ」や「ドッジボール」であそぼうとするこどもたちを、増やすことはできないだろう。 こどもたちの健全な足のためには、何よりも「外あそび」ができる「ゆとり」を、こどもたちに保障するのが最初で重要な一歩となる。しかし、実際は「ゆとり教育」が「ゆとり」をこどもたちに保障しきれないまま、授業時間と教科書のページが増えようとしている。あたかも「子どもの足の“退化”」を促進するかのように。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.24
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まずは、次の記事を見ていただきたい。【医師など「足の専門家」で作るNPO法人「オーソティックスソサエティー」(東京)は2001年から4年間、千葉県内の幼稚園児約300人の足のサイズや足裏の形を測定した。約70%は小指が内側に曲がる「内反小趾(ないはんしょうし)」だった。半数は、指が地面に着かない状態の「浮き指」。「外反母趾(がいはんぼし)」も約5%いた。 兵庫教育大学名誉教授・原田碩三さん(71)の調査でも、5歳児で土踏まずがある子は、1980年の75%から04年は46%に減り、浮き指のない子は93%から8%に激減した。(中略)足の健康の助言もする靴店「アスリートクラブ」社長の三宅秀敏さん(57)は、2万人以上の足を観察した経験から、子どもの足の“退化”を実感している。「電子ゲーム遊びなどで、室内でじっとしている時間が長いと足は弱まる一方」と話す。 “退化”を防ぐには、歩き始めた時期から、足の骨が出来上がる10歳ぐらいまでの間に、とにかく歩かせること。鬼ごっこやドッジボールなど、瞬間的に前後左右に動く外遊びは最も効果がある。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/大手小町:2008年9月22日) こどもたちの足のおかしさは、想像していたより深刻だ。1980年から2004年までの変化を記事で見ると、「土踏まずがある子」が75%から46%へ、「浮き指のない子」が93%から8%へとある。この変化は尋常な数値ではない。文部科学省は、学力の向上もさることながら、こどもたちの身体の変化を抜本的に改善する施策を、真剣に取り組む必要がある。 「土踏まず」に関して言えば、1980年代にはすでに問題視されていたし、当然その事は文部科学省も承知の事実だろう。しかし、この記事のような状況だと、この間の文部科学省(各地方自治体の教育委員会も)が、有効な対策をとってこなかったと、言わざるを得ない。 記事引用部後半にあるように、「子どもの足の“退化”」を防ぐには、「歩かせること」・「鬼ごっこ」・「ドッジボール」などの、簡単な事で効果があるならば、それは文部科学省や教育委員会がとるべき対策が決して難しい課題ではなかった事を意味している。(その2に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.23
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住吉区の複合庁舎建設のあおりをくって、無理に移植された木が、枯れ果て切り倒され無残な姿をさらしていた事は、以前にこのブログでも度々紹介した。これまでに合計9本もの木が切り倒されたが、また別の場所に新たな犠牲木があった。場所は、左図にある元サッカーグランド跡に、複合庁舎建設に伴って移転設置された児童公園と一体となる予定の場所にあった。 今後、複合庁舎と一体となった都市公園の一部として(手元にある資料には「森の遊び場」とある。)、整備される予定と聞き及ぶが、まだこの部分の整備は、ほとんど進行していない。移植を待つ木々が、今や伸び放題の雑草に囲まれたまま放置されている。そこに、新たに犠牲になった木が、雑草にうずもれて悲しい姿をさらしていた。 右図には、将来の再移植に備えるためか、添え木がしてある木が写っているが、今のところ健在なようだ。ともかく、ここに多くの木が移植されて二年ぐらいたったように思うが、その間に雑草が一面に生えて、それを押し分けて中に入るには、かなり躊躇するくらいになっている。 その雑草の中に切り株はあった。そのうち1本は、図のような形に切られており、こうした形は前にも紹介した犠牲木の何本かに見られた。椅子代わりに利用してもらおうと言う考えなのだろうか。それにしては、仕上げ加工も無く、やはり伐採時に何らかの事情があったのだろう。 元はサッカーグランドなので、移植に当り土や肥料などで土壌改良を施してはあると思うが、十分な手入れが行き届いていなかったことが、この様な事態を招いたのだろう。公園の整備にあと何年かかるか、一区民には知る由も無いが、急がないと、さらに多くの樹木たちが犠牲になるだろう。環境保護を市民に説く「お上」は、まず範を示すべきだ。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2008.09.22
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まずは、次の記事を見ていただきたい。【テレビゲームで遊ぶ米国の若者が、ほぼ全員に匹敵する97%に達していることが、米調査機関ピュー・インターネットが16日に発表した調査結果で明らかになった。(中略)また、テレビゲームで遊ぶ頻度は高く、回答者の半数が質問された前日にも遊んでいた。 テレビゲームを一人きりで遊ぶ子供は少なく、ほぼ3分の2が友人や家族と顔を合わせながらゲームを楽しんでいるという。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/CNN Japan:2008年9月17日) 記事には、男女別の数値も出ていたが、男女合わせて「97%」と言う数値が突きつけるインパクトは大きい。「テレビゲームを一人きりで遊ぶ子供」が3分の1を、少ないと見るか多いと見るかは意見が分かれるが、「友人や家族と顔を合わせ」ていても、ゲーム機であそんでいるのは一人だけの場合が多いだろう。 この記事が参考にしている同じ調査結果が、全く別の記事にも掲載されていた。【ゲームを一人でプレイしていると答えたのはわずか24%と少数派で、ほとんどの若者がオンラインで他のプレイヤーと一緒にゲームをプレイしていることが分かった。 このうち、63%が「プレイ中に、不親切だったり過度に攻撃的なプレイヤーに会ったことがある」と答え、さらにこのうちの48%が「人種・性別について差別的な言動をするプレイヤーに会ったことがある」と答えたという。しかし若者のほぼ3/4が、そのような反社会的な言動をするプレイヤーを注意した経験があると答え、アメリカの若者のゲーム・リテラシーはかなり高いことが浮き彫りとなった。 尚、近年ゲームを活用した慈善活動の事例が多くなっているが、調査をした若者のうち64%がなんらかの慈善活動イベントに参加し寄付をしたことがあるという。 これらのデータから同レポートは、「『ゲームに熱中すると社会性の無い人間になる』という俗説を裏付けるデータはなく、むしろゲームを通した体験学習は子供の社会性を育むのに有用」と指摘している。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/CNN Japan:2008年9月17日) この記事で意外だったのは、【「『ゲームに熱中すると社会性の無い人間になる』という俗説を裏付けるデータはなく、むしろゲームを通した体験学習は子供の社会性を育むのに有用」と指摘している。】の一節だ。この記事には、参考元のレポート全文のリンクが貼ってあったが、英語で書かれたいたので詳細は理解できなかったが、ざっと見た印象では、前記【】内のような結論になることは理解できなかった。 記事引用部前半には、【このうち、63%が「プレイ中に、不親切だったり過度に攻撃的なプレイヤーに会ったことがある」と答え、さらにこのうちの48%が「人種・性別について差別的な言動をするプレイヤーに会ったことがある」と答えたという。】とあるが、このような状況であるにも拘らず、「ゲームを通した体験学習は子供の社会性を育むのに有用」と言えるのだろうか。 この様に、同一の調査結果が記事になると、異なったサイトでニュアンスの違った内容になる。特に、後者の記事は、ある「バーチャルワールドに特化した情報ポータルサイト」に掲載の記事なので、いくらかは割り引いて見る必要があるかも知れない。 さらに、記事がアメリカの社会的な国情を反映していると思われるので、日本での同様の調査で同じ結果が出るとは限らないだろう。例えば、「慈善活動イベント」などは、アメリカでは宗教上、こどもたちがそのようなイベントに参加する率は高い傾向にある。 そして、この調査の対象年齢が12~17歳となっているので、ゲーム機であそぶ年齢が急速に低年齢化している今日、ゲーム機で今現在あそんでいる彼らより幼いこどもたちが、大きくなって調査すれば違った傾向が現れるかもしれない。ともかく、「ゲームを通した体験学習は子供の社会性を育むのに有用」と結論付けるのは、問題が多いようだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.21
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ネットニュース検索結果の一つに目が留まった。【小学3年生くらいから、だんだん難しい説明文がテキストに出てきます。言葉が難しかったり、興味のない内容だったりすると、2、3行読んだだけで、「ムリ、意味不明!」というように拒絶してしまうお子さまも少なくないと思います。(中略)さて「説明文を正確に読み取り、意味を深く理解するにはどうしたら良いか?」というご質問ですが、結論から言えば、「説明文に慣れること」です。文章の構造や接続詞の使い方は塾や参考書で勉強していると思いますので、あとは多くの文章を読んで慣れることが大切です。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/MSN産経ニュース:2008年9月19日) 算数や数学の応用問題が苦手とされる日本のこどもたち、その原因のひとつに、「設問の意味を読み取れない」と言うことが考えられる。記事は、その一端を物語っていると考えられる。ただ、中学受験の小学三年生の親の質問に、ある入試研究所の先生が回答している事とは言え、「文章の構造や接続詞の使い方は塾や参考書で勉強している」の記述は気になるところだ。 私自身の小学三年生の頃(1950年代)を思い返しても、「塾も参考書」も全く無縁で、おそらく大多数の同年代のこどもたちも、当時は私と同様だった。しかし、当時でも説明文を正確に読み取れないこどもたちも当然いたが、印象としては少なかったように思われる。それでも、今ほど深刻な状況ではなかった。 中学受験を目指しているこども達と言えば、おそらく学校での成績も悪くは無いだろう。しかし、記事のように説明文が「ムリ、意味不明!」となるのは、どうしてだろうか。それだけ、中学受験向けの「テキスト」の「読解問題」の説明文が難しすぎるのだろうか。(記事に、「テキスト」とあるので、学校の教科書ではないと判断した。) この相談の解決方法としては、記事には「説明文に慣れるために「ゲーム性」を入れる」とある。そして、楽しみながら「説明文に慣れること」を、回答者はひとつの例をあげて説明しているが、そういう方法もあるかと思いつつも、どこか納得できないところもある。 そうした特別の手立てをとってまでしないと、理解できないような「説明文」そのものに問題は無いのだろうか。その年齢で理解できる「説明文」であったとしたら、「文章の構造や接続詞の使い方は塾や参考書で勉強している」にも拘らず何故理解できないのだろうか。 どちらにせよ、「ゲーム性」を取り入れて「説明文に慣れること」だけでは、「ムリ、意味不明!」の本質に迫れないと思っている。例え、受験のために「説明文に慣れること」は成果があるにしても、そうした解決策は、その場しのぎの策に過ぎないだろう。 なお、記事の表題には、[中学受験合格言コラム]とあるが、この記事により現在の中学受験の実態の一断面を垣間見ることができた。決して長くは無い記事だが、そこには「どこか変!」と思わせる内容が詰まっていた。少なくとも、「塾や参考書」とはほぼ無縁の小学生時代を楽しく過ごした(あそんだ)私にとっては。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2008.09.20
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レアカードが意図的に造られる販売戦略は、対戦型トレカにも見られる。スペシャルカードを少なめに販売したり、イベントに参加して特殊カードなどをゲットできるような、販売・集客戦略が時にはとられることがある。そうなると、思考を尽くして作戦を立てるより、レアカードを取得する方向に、ともすれば陥り易く、せっかくの対戦型トレカの良さが台無しになってしまう。 対戦あそびは、実践型や思考型の別なく多くの場合、こどもたちに大なり小なりに、工夫する事を教えてくれる。昔の紙物おもちゃの代表のメンコは、作戦だけでなくこどもたちの手先や身体の使い方にも、工夫を生み出した。頭(頭脳)と身体を鍛えてくれたのだ。今のトレカ(対戦型・思考型)は、頭脳を鍛えてくれる事では有意義だが、トレカがトレカ的に留まっている限り、手先や身体を鍛えるのは不可能だ。 トレカもメンコ的に脱皮すれば、手先や身体を鍛えてくれるようにもなるだろう。それは、十分に可能な事だが、少なくとも価格が初期のメンコ程度に安価にならないと難しい。なぜなら、メンコは勝負により、メンコを本当に取ったり取られたりするから面白かった。それは、メンコが極めて安価だったからに他ならない。大企業がトレカを販売する限り、トレカがメンコに脱皮するのは夢の話の事かも・・・・・「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.19
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昔の紙物おもちゃのメンコ(ベッタン)が、実践型対戦あそびであったことに対して、今のトレカ(トレーディングカード)が思考型対戦あそびであったことは前回に紹介したが、トレーディングカードには、もう一つ特筆すべきあそび方がある。 それは、そもそもトレーディングカードという呼称が物語っている。カードとカードを交換(トレード)したりして蒐集する事も多いので、トレーディングカードと総称されているのだ。自分で買ったり、他の人と交換したりして、蒐集(コレクション)して楽しむあそび方が、トレカのひとつの特徴となっている。 珍しいカードを競い合ってコレクションし、お互いに自慢しあったりもする。さらにエスカレートすると、レア物カードを専門店で買ってコレクションするようにもなる。対戦型トレカには、限定的ではあるがあそび相手がいたが、この蒐集型トレカには自慢する相手があっても、その相手との関り方は、対戦型より希薄となる。 この蒐集型トレカの販売方法は、一般的には中身がわからないようになっており、いわば「くじ引き的」な販売方法となっている場合が多い。そして、販売する企業により販売戦略として、意図的にレアカードが造られる場合も多く、その事の弊害さえ少なくない。 同じカードを何枚も所持していても意味がないので、他の子との交換が成立するので、その場合は問題は少ない。しかし、蒐集枚数が増えると、当然交換できる相手が無くなってしまうほど、カードが何枚もダブル状態が起きる。そうした際の最悪のケースとして、新たなダブりカードは買って直ぐに捨てられることにもなる。 実際に、コンビニなどのゴミ箱に捨てられている何枚ものカードを見受けた時がある。これは、こどもだけを一概に咎めるだけではダメで、そうした販売方法自体を見直していく事が大切だ。トレカメーカーには、少なくともこどもを対象とした販売においては、そうした販売方法は自粛していただきたいと思っている。(明日に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.18
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(昨日からの続き) ところで、この思考対戦型トレカあそびは、あそび仲間を必要とするのだが、トレカゲームを詳しくは知らないが、基本的には二人対戦が基本と思われる。実際に、街中(まちなか)で見かけるトレカあそびも、ほとんどが二人で対戦している。 もちろん、その周りに何人かの友達もいるのだが、良くて対戦の順番待ちで、傍観者(観戦者)の場合も少なくない。ごく稀に、二人で組んで都合四人で、チーム対戦しているくらいだ。これは、昔のメンコが、数名が同時に対戦してあそぶことが出来き、基本的に傍観者が存在しないのとは、質的な違いがある。 対戦型トレカも、あそび仲間を必要とはするが極めて限定的で、最近では専用マシン(据え置き型ゲーム機)と対戦する対戦トレカも増えつつある。それでなくとも友達とのあそびが貧弱になり、一人あそびの比重が飛躍的に増大した、今のこどもたちにとっては、それは不幸なことだろう。 最近の玩具の傾向として、「一人でもあそべる」玩具が目立つが、この「一人でもあそべる」事は「一人であそんでしまう」事に陥りやすい。「一人ではあそべない」玩具、「数人で一緒にあそぶと、もっと面白い」玩具、そんな玩具を期待する。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.17
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基本的に紙だけで作られた玩具を総称して、「紙物玩具(かみものがんぐ)」や「紙物おもちゃ」と言う事がある。昔でいえば「面子(メンコ・べったん)」であり、今は「トレカ(トレーディングカード)」が、最も代表的な紙物玩具だ。 このトレカは、一人でもあそべるおもちゃが大勢を占める昨今のおもちゃ事情の下で、珍しく基本的にあそび相手が必要となるあそびとなっている。それは、トレカの一般的なあそび方が、対戦(バトル)方式となっているからだ。 昔のメンコも対戦型であることでは同じなのだが、昔は実際にメンコを投げたりぶつけたりする実戦系の対戦あそびで、今はお互いに作戦を練って戦う思考系の対戦あそびの違いがある。その違いは当然、屋外系と室内系に分けることも出来る。 ただ面白いのは、トレカあそびは本来室内系のあそびなのだが、実際のあそびの現状では、路地や公園など、時には地べたに座り込んであそんでいるこどもたちをよく見かける。これは、今の住宅事情や家庭事情を反映して、家の中に友達を入れてあそぶことが、難しくなっているからだろう。しかし、それは公園での携帯ゲーム機使用と同様、あまり感心できない光景でもある。 さて、この対戦型トレカだが、試しに幾つかの公式サイトであそび方やルールを見ると、それがけっこう複雑で難しいのだ。おそらく、一読しただけでそれをマスターする事は、おとな(少なくともトレカ以前の年配のもの)でも難しい。それを小学校低学年のこどもたちが、なんなく理解して、あそびこなしているのだ。 対戦型思考ゲームは、論理的な思考が必要とされるが、こどもたちもそれなりに論理的に推測しながら対戦をしている。応用問題が苦手と言われる、今時の日本のこどもたちの姿とは、かなり違った印象となる。と言うより、好きになれば、難問・難題でも克服するのが当たり前で、好きなあそびだからこその姿なのだ。 たった二回の実施で、その効果より弊害が目に付く「全国学力テスト」など早く止めて、どうしたらこどもたちが(学校の)勉強が好きになってくれるかを、真剣に考える事こそ文部科学省に求められている。そんなことすら、今のこどもたちのトレカあそびは、教えてくれているのかも知れない。(明日に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.16
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(その1からの続き) 都会育ちの私が、こどもの頃(1950年代)に作ってあそんだ遊具(おもちゃ)の主なものは、記事に例示してあるものではなく、ザラ半紙などで作った折り紙飛行機、細い木の棒と輪ゴムで作る紙鉄砲、ボルトとナットで作る手榴弾などだった。これらは、かえって街中の方が材料が手に入り易いので、都会的な手作りおもちゃと言えなくも無い。 そして、どちらかと言えば、こうした手作りおもちゃよりも、ビー玉・べったん(メンコ)、ボール(マリ)、虫取り網があれば一年過ごせたし、それらも含めた遊具やおもちゃを一切使わないあそびも多かった。だから、手作りおもちゃであそぶのは、あそび全体から見ればほんの一部だった。 そんな、状況ではあるが何年も繰り返してあそべば、他の子に教えるくらいの事は、当時のこどもたちにとっては珍しいことでもなかった。おかげで、私も学童保育の指導員の仕事には大いに役に立った。振り返れば、こうした手作りおもちゃを、他人に教えられるくらいに上達するのは、それぞれの手作りおもちゃで、あそぶ機会は少なかったが、十分にあそび込んでいたからだ。 今、このように他の子に教えられるくらいに、あそびこめるあそびを数多く知っているこどもたちは、どれくらいいるだろうか。ましてや、手作りおもちゃとなれば、その種類は高が知れているだろう。「竹とんぼ」や「竹馬」などの難しいものでなくてもいいから、他の子に教えられるくらいにあそびこめる「手作りおもちゃ」をたくさん作ってほしいものだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.15
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【幼稚園(ようちえん)や小学校(しょうがっこう)で昔(むかし)の遊(あそ)びを教(おし)えてくれるお年寄(としよ)りもたくさんいます。おじいちゃん、おばあちゃんが子(こ)どものころ、今(いま)のようにゲームやおもちゃの種類(しゅるい)は多(おお)くはありませんでした。ゴム跳(と)びやお手玉(てだま)、あやとり、竹(たけ)とんぼ、竹馬(たけうま)など、身(み)の回(まわ)りにあるもので手製(てせい)の遊具(ゆうぐ)を作(つく)って遊(あそ)んでいました。昔(むかし)の遊(あそ)びは作(つく)る楽(たの)しさを味(あじ)わい、集団生活(しゅうだんせいかつ)の基礎(きそ)を学(まな)ぶ場(ば)でした。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2008年9月11日) 記事はルビがふってある事でもわかるように、こども向けの記事だ。ところで、記事にある「手製の遊具」に例示されているあそびの中で、イベントなどの取り組みを除いて、こどもたちが今でも作ってあそんでいるのは、「ゴム跳び」と「あやとり」ぐらいだろう。どちらもその材料であるゴムひも(ゴムバンド)や毛糸・紐が、今でもこどもたちの身の周りにあり、比較的に手に入りやすいからだ。 残りの遊具のうち、「竹とんぼ」と「竹馬」は、その材料の竹は、少なくとも都会では手に入り難くなっている。また、これらと「お手玉」は、比較的にその遊具を作る作業自体が難しいのも、こうしたおもちゃをこどもたちが作り上げる上での、マイナス条件ともなっている。 だから、団塊の世代の私でも、お手玉・竹とんぼ・竹馬などは、自分で作ってあそんだのは、かなり年齢が上がった小学校高学年ごろだった。また、お手玉や竹とんぼは、駄菓子屋さんでも売っていたので、日常的には市販品を使ってあそんでいた。(その2に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.14
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(その1からの続き) 「テレビ視聴時間と学力の関係」の二項目だけで考える事の問題点もさることながら、テレビ視聴時間の調査結果が示す、こどもたちの「テレビ視聴時間」の長さには、注目する必要があるだろう。今のこどもたち、とりわけ調査対象である小6・中3の、携帯電話の所持やパソコンの使用、さらに携帯ゲーム機の所有が、この間飛躍的に増大している。長い「テレビ視聴時間」に、さらに携帯電話・パソコン・ゲーム機の使用時間を加えると、こどもたちの平日の生活はどうなるのだろうか。 平日の放課後の時間は、その日のうち(深夜12時まで)では最大8時間がせいぜいだろう。食事・入浴など日常生活に必須の時間、さらに宿題、場合によっては塾などの、学習時間を差し引くと、さらに短くなる。そんな残り少ない時間で、テレビに携帯電話・パソコン・ゲーム機、こんな生活実態の改善こそ文部科学省は考える必要があるだろう。 この様な今のこどもたちの生活実態は、細かな数値には違いはあるが、これまでにも同様の調査結果があったし、昨年の「全国学力テスト」時の同様調査でも、ある程度わかっていたことだ。では、この様な深刻なこどもの生活実態を改善するため、この間文部科学省はどのような施策を実施してきたのだろうか。 この一年での小6の「テレビ視聴時間」の異常とも思える増加は、そうした調査はするが、その後何もしない文部科学省への、こどもたちからの警告の意味を込めた、断固としたメッセージかもしれない。さらに、肝心の「全国学力テスト」の方も、一年目の結果を受けての、具体的な改善策も未だハッキリとはしない。 その一方で、自治体や学校段階、あるいは家庭段階で、場当たり的「全国学力テスト」対策の模擬テストもどきや、予想問題集が売れているそうだ。これらは、本当の学力向上とは縁遠い対応で、「全国学力テスト」の愚かではあるが素直な反応と言えるだろう。また、来年も繰り返されるのだろうか・・・・・エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2008.09.13
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ネットニュース検索結果の見出しの一つに目が留まった。【全国学力テスト・生活習慣アンケート調査 テレビ「短時間」正答率高め(以上は見出し、以下は記事)平日にテレビやビデオを3時間以上見る子供は、小6は昨年度調査より11.8ポイント増の45.8%、中3は同6.4ポイント増の38.8%と、ともに大きく増加。正答率との対比では、小6の国語Aで「1時間より少ない」は69.0%で、「4時間以上」の61.4%を上回るなど、相関関係が表れた。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/MSN産経ニュース:2008年9月10日) テレビ視聴時間と学力の関係は、これまでにも度々調査も行われており、調査結果は目新しくない。にも拘らず文部科学省が、テレビ視聴時間と学力のクロス集計をした結果を公表したのが不思議に感じたからだ。ともかく記事を見てみると、テレビ視聴時間と学力の関係よりも、「平日にテレビやビデオを3時間以上見る子供」の結果数値が昨年度より大きく増加していることの方がインパクトがある。この事を文部科学省はどうとらえているのだろうか。 一年と言う短い期間にしては、その増加数値が大きすぎる事に、全く疑問を感じなかったのだろうか。小6で11.8ポイントの増加は、34.0%から45.8%への増加を意味すると思うが、これは異常とも思える数値だ。この一年で、こどもたちの事情に劇的な変化は無かったと思われるので、この調査自体の信憑性を疑った方がいいかも知れない。 また、もともとの「テレビ視聴時間と学力の関係」の二項目だけで考えること自体が妥当かどうかも疑わしい。なぜなら、「テレビ『短時間』」が意味する内容として、塾や家庭教師などで放課後の勉強時間が増え、結果としてテレビ視聴時間が短くなったと言うこともある。それなら、国語Aでの正答率が上がるかも知れない。 さらに、テレビ視聴時間が長いという事は、睡眠時間が短いとも考えられ、それが正答率を下げているのかも知れない。要するに、単に「テレビ視聴時間と学力の関係」の二項目だけ取り上げたクロス集計は、事の真相を探る手がかりにはなるかも知れないが、こどもの生活実態と学力の関係の真の姿がそこに存在するわけでもないだろう。(その2に続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2008.09.12
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(その1からの続き) この他にも将棋の駒を使ったあそびは数多くあった。そのどれもが、おそらくこどもたちがおとなが指していた駒を使って生み出したあそびだろう。中には、おとながこどもたちを楽しませるために生み出したあそびもあるかも知れない。しかし、あそびが生まれてからは、主にこどもたちがあそび伝えてきたことは間違いがないだろう。 なお、「将棋あそび」のそれぞれのあそびには、地域ごとに違った呼び名が付けられていることが多い。そのことも昔は盛んにあそばれたあそびだった事を物語っている。当然、同じ「将棋あそび」であっても、ルールも地域色が豊かだ。 今、「崩し将棋」「ひょこまわり」「積み将棋」と言われても、キョトンとするこどもたちがほとんどで、そうした言葉さえ知らないおとなも急速に増えつつある。かろうじて、ニュース記事に掲載される「将棋倒し」と言う言葉さえ、意味不明の言葉になる日も近いかもしれない。「ドミノ倒し」がとってかわる例もぼちぼち見かける。なぜか、そのドミノの本当のあそび方は、ほとんど知らないのに。不思議な世の中だ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.11
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【ジェンガや将棋崩しのように積み上げられたブロックを消していくというゲームなのですが、ポイントはブロックは崩しても大丈夫だけれどもその上に乗っている黄金の像を落としてはいけないという点。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/GIGAZINE:2008年9月8日) 記事は、あるゲームソフトの説明だが、「ジェンガや将棋崩し」のように、ピースや駒を取っていくあそびは、慎重で繊細な「指先の動き」が必要とされる。現在のゲーム機では再現できないあそびだ。とりわけ、汎用性の少ないおもちゃにあって、将棋(の駒)は、それを使った様々なあそびが生み出され伝承されてきた。 記事の「将棋崩し」もそうで、「山崩し」とか「崩し将棋」とも呼ばれており、将棋の駒を使った最も代表的なあそびになっている。また、こどもたちにも最も人気のあった「将棋あそび」の一つだ。ただ、将棋の駒が各家庭から姿を潜めるにつれて、今や風前の灯火(ふうぜんのともしび)のあそびになってしまった。 「本将棋」や、「歩回り(ひょこまわり:回り将棋)」など「将棋あそび」の幾つかは、ゲーム機でも再現できるが、「山崩し」などは再現が難しい。たとえ再現できたとしてもあまり面白くないあそびになってしまうだろう。 この「山崩し」と全く正反対のあそび方が「将棋あそび」には存在する。それは、「積み将棋」と呼んでいたあそび方だ。駒を一つづつ交代に積んで行き、早く持ち駒を無くした者が勝ちというあそびで、途中で崩せば崩れた分だけ持ち駒が増えるといったルールだ。もちろん、この「積み将棋」もゲーム機での再現は難しい。(その2に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.10
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(その1からの続き) このゲーム機自体のソフトによる汎用性と、コントローラーによる「指先の動かし方」が限定性の、二つの特徴がある事により、ゲーム機のこどもたちのあそびに多大な好ましくない影響がおよぼされる。これまでは、けん玉にあきればコマ、コマにあきればお手玉など、こどもたちはおもちゃを次々と取り替えることにより、違った「指先の動かし方」を経験することができた。 一方、ゲーム機はその汎用性があるが故に、ソフトを替えることにより、一つのあそびにあきても違ったあそびを、同じゲーム機で次から次へとあそぶことができる。しかし、「指先の動かし方」はほとんど変化することは無い。ともすれば、全く違った「指先の動かし方」を必要とするあそびに、こどもたちが挑戦することを妨げかねない大きな弱点を持っているのだ。 「指先を動かす」あそびも慣れてしまえば、脳への刺激も弱くなる。脳への刺激は、新鮮であればあるほど、良い刺激となるだろう。もちろん、全く「指先を動かす」事をしないよりも、ゲーム機で適度に「指先を動かす」のは悪くはない。それでも、ゲーム機だけであそぶよりも、適時色んなおもちゃを取り替えながら、「指先を動かす」方が、脳にとってはベターであることは間違いが無いだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.09
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【おもちゃの魅力を引き出し、子育て支援などに役立てる「インストラクター養成講座」がこのほど、宇多津町の香川短期大学であった。参加者は、おもちゃ遊びで指先を動かすことが脳を刺激し、コミュニケーションづくりにつながることを学んだほか、牛乳パックなどを使って玩具を作り、子どもたちを夢中にさせる仕掛けの大切さを感じ取った。(中略)保育士や子育て中の母親、子ども学科の学生ら合わせて約100人が参加した。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/四国新聞:2008年9月7日) 「おもちゃ遊びで指先を動かすことが脳を刺激し、コミュニケーションづくりにつながる」、記事は要約されており「おもちゃ遊び」が直接「コミュニケーションづくり」につながるかどうかはわからないが、少なくとも「脳を刺激」するのは、その通りだろう。そして、そのおもちゃを使って友達とあそべば、当然こどもたちに「コミュニケーション」能力を育んでくれるだろう。 さて、ゲーム機(テレビゲーム機・携帯ゲーム機・パソコンゲーム・アーケードゲームなど)や携帯電話機をおもちゃに分類する事が妥当かどうかは別として、少なくともそれらを使ってあそぶ事もあるので、おもちゃに類するものとして考えていいだろう。 そうすれば、これらゲーム機や携帯電話機(以下、ゲーム機として論を進める。)によるあそびでも、「指先を動かす」こととなり「脳を刺激」することは、記事の「おもちゃ遊び」と同じと考えられる。しかし、他の「おもちゃ遊び」とは決定的な違いがあることも忘れてはならない。 ゲーム機の特徴として、動かすソフトによって様々なあそびが出来ること(これをあそびの汎用性としておく)があるが、この汎用性が良い面でも悪い面でも、あそびに様々な影響を与える。あそび相手が必要だった盤ゲームを一人でもできるようにした事や、普段はできないあそびができるなど、良い面は数あるが、ここでは悪い面について「指先を動かす」事に絞って話を進める。 けん玉・コマ・お手玉などゲーム機以外のおもちゃは、あそびの汎用性が例えあっても極めて限定的で、基本的には汎用性が無いと言っていい。言い換えれば、けん玉にはけん玉特有の「指先の動かし方」があり、コマにはコマ独特の「指先の動かし方」がある。このあそびに固有の「指先の動かし方」があるという特徴は、ゲーム機以外のほとんどのおもちゃに共通の特徴となっている。 一方、ゲーム機は、ソフトを換えることによりあそべるあそびの種類は無数にあるが、その「指先の動かし方」は極めて限定的になる。例え、コントローラーの種類や形状を変えたとしても、そのコントローラーに固有の「指先の動かし方」は限定される。(その2に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.08
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「クイズ!ヘキサゴン」で、「単位の変換」とともに気になるのが、「アナウンスクイズ」での「漢字の読み」だ。携帯電話やパソコンなどによる日本語変換がごく普通の生活となった昨今、私も直ぐには書けなくなった漢字は少なくない。それでもまだ漢字の読みの方は、少しぐらいは難読漢字も読むことができる。 また、携帯メールやパソコンメールは若者層だけでなく、こどもたちから高齢者まで浸透し、日常生活において文章を書く(打つ)機会は増えているようにも思われる。だから、書く方は変換で苦手になるかも知れないが、読む方は昔より機会が増えている分、得意にはならなくとも苦手になるのはどうしてだろうか。 この事を冷静に考えてみると、「漢字の読み」を間違える言葉の多くが、日常生活で使う言葉ではなく、どちらかと言えば、主に書籍などでお目にかかる非日常的な言葉だ。携帯メールやパソコンメールで使用される言葉は、日常生活でよく使われる言葉、もう少し突っ込んで言えば「書き言葉」ではなく「話し言葉」が主流となっている。 今、「活字離れ」と言われるが、確かに生活の中でテレビ・ビデオ・インターネットなど、文字情報より画像・映像情報に依拠する度合いが増えてきている。当然、小説・エッセイなどの主として文字に頼るような書物を読む機会は相対的に減らざるを得ない。しかし、一方で電子メール文化は漢字を含めた文字に接する新たな機会を作っている。 だから、「活字離れ」の実体は、前記の日常生活における「書き言葉」の減少から考えると、「書き言葉離れ」と呼べる状況になっていると考えられる。そして、そのメールに書かれた(打たれた)文章からは、絵文字やデコ文字が幅をきかせ、漢字のみでなく文字そのものも、その生息範囲を狭めつつある。 「漢字の書き」だけでなく「漢字の読み」さえ苦手になりつつある若者やこどもたちのことを考えれば、そろそろ国語教育のあり方を抜本的に見直しをしていかなければならないだろう。 世界的に見ても、表意的な性質を兼ね備えた文字を現在まで保ち続けている文化は珍しい。そんな文字である漢字を捨て去るのもひとつの方向だが、私はこの漢字文化は、それがユニークであるが故、おそらくそのユニークさに見合って、漢字文化独特の発想が生まれ、ユニークな発明・発見につながってきたと思っている。国語教育、とりわけ漢字教育のより良い発展を心から願っている。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2008.09.07
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(昨日からの続き) 次に、学校での教育の問題点を見て行くこととする。前記ように、こどもたちの生活が単位と縁遠いものとなっているにもかかわらず、学校での「単位」教育がそうした生活実態に見合ったものになっていないことが、まず考えられる。要するに、実践の裏打ちの乏しいまま、ともすれば昔より短い時間で「単位の変換」が教えられていると思われるのだ。 この点を改善するには、「単位の変換」の授業時間を長くすることはもちろんのこと、実際に計(量)ってみる実践的な授業を十分に行う必要がある。今でも、そうした計る授業内容もあるにはあるが、昔ほどの単位と密な生活に代わるものとしては、不十分なのではないだろうか。 さらに、「1mが100cm」であることの認識を深める意味でも、長さの基本単位が「m(メートル)」であること。そして、「c(センチ)」が100分の1を意味していることをわかりやすく教えてあげることが大切だ。できれば、「c(センチ)」は「C(世紀:センチュリー)」や「¢(セント:アメリカの通貨単位)」と同じ仲間で、百を意味するラテン語の「centum」からきていることなどを教えてあげるとより効果的だ。同様に、「m(ミリ)」は千を意味するラテン語「mille」からきており1000分の1を意味し、「K(キロ)」はギリシャ語からきており1000倍を意味する。重さ(グラム)や容積(リットル)なども同様だ。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2008.09.06
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「クイズ!ヘキサゴン」は人気のあるテレビ番組だ。その真偽はともかく、出演者の奇想天外な解答が視聴者に受けているようだ。今日も、視ていると、長さの単位の問題が出題されていたが、「1cmが5mm」「1mが60cm」との答えも出ていたのには驚いた。 小学校で習得することになっている「単位の変換」だが、実際にそのような間違いをするこどもたちも少なくない。もちろん、長さの単位だけでなく、重さ・面積・体積などの「単位の変換」も同様だ。特に、日ごろなじみの薄い体積の単位の「cm3(立法センチメートル)」や「m3(立方メートル)」などは間違いが多い。 こうした「単位の変換」を間違うこどもたちは昔もいたが、印象としては今ほど多くは無かったように思う。団塊の世代である私がこどもの頃には、まだ「尺貫法」が一般的で「メートル法」は学校教育の場での事だった。だから、「1リットルが5.5合」だとか「1貫が3.75キログラム」と言った変換さえ知っていたくらいだ。 今は、昔と違って「メートル法」表記の品物で溢れかえっている生活をしておきながら、この「単位の変換」の苦手なこども(時にはおとなも)が少なくないのは何故だろうか。その事についての思い付きを以下に綴っていく。 当然、学校での教育のあり方に問題点もあるが、それ以前の問題として、日常生活において度量衡の単位を使うような機会が昔に比べて少なくなっているように思われるのだ。こどもたちはもちろんのこと、おとなもそうだ。例えば、商品の販売方法として、いわゆる「計り(量り)売り」がほとんど見かけなくなった。 私の経験で言えば、祖父のお使いで酒屋さんにお酒を買いに行くのだが、一升瓶を持って行き、5合だけお酒を買ってくるようなことはよくあった。また、市場へ行ってお味噌を400匁だけ買ってくることもあったし、布を3尺だけ切り売りしてもらったりもした。要するに、こどもですら度量衡の単位を頻繁に使うような生活をしていたのだ。 今もパック売りの商品には、185グラムなどと表記したシールが貼ってあったり、500ml(ミリリットル)などの表記したボトル飲料などもあるが、実際にはそうした「単位」は、ほとんど意識せずに生活しているし、生活できるのだ。店先に計量器類を一切置いていない販売方式が定着している事も、単位との関係を疎遠にしている。(明日に続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2008.09.05
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【公園遊具の点検不備による重大事故が増えていることを踏まえ、国土交通省は2002年3月に策定した安全指針を改訂し、8月26日、自治体など公園管理者に通知した。改訂のポイントは(1)遊具に使用期間の標準値を定めること、(2)維持管理の計画内容を明確にすること、(3)部材の種類や特性に応じた点検事項を明らかにすること、(4)点検と整備の内容を履歴に残すこと――の4点。公園を管理する際の判断材料を示している。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/nikkei BPnet:2008年9月2日) もう少し早く改訂していただきたかったが、ともかく、こどもたちが安心して公園の遊具であそべる事につながるように願っている。改訂ポイントの(1)は、今までそうした基準が無かった事が問題だったので、この改訂は当然のことだろう。 改訂ポイントの(1)(3)(4)は、自治体などの全ての公園管理者が、これまでそれらの事を行ってきていなかったのが問題で、国から指示されるまでも無く公園管理者が行っていて当然の内容だ。今回、あえて国が指示しなければならないほど、自治体などの公園管理者の遊具管理がズサンであった事を意味している。だから、国は単なる指示に留まらず、厳正なる指導・監督をしなければならないだろう。 なお、現状として地方財政の厳しさから、公園遊具の維持管理が実質上後回しにされる場合も少なくない。それは、遊具のズサンな点検・整備が頻発する背景ともなっていた。本来、財源が厳しくとも地方自治体がしなければならないことだとは思うが、財源整備も含めた国の援助も必要だろう。 「維持管理の計画内容」が明確になっても、「点検事項」が明らかになっても、実際の「維持管理」がふさわしい回数だけ実施されなければ、「点検と整備の内容」を履歴に残しても全く意味を成さない。要するに、公園管理者が遊具の「維持管理」を、必要なだけ確実に遂行できるよう、「点検と整備の内容」の履歴を、国はしっかりと点検する必要がある。 前にもこのブログで述べたことだが、残念ながら今の公園管理者の点検水準は、点検の点検が必要なくらいに低レベルなのだ。せっかく、時間をかけて改訂した「安全指針」を効果あるものにするためには、国はこの「安全指針」に則った点検を公園管理者に対して実施することが欠かせない。そして、国民は国の「点検の点検」を、しばらくの間は点検してもいいだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.04
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(その1からの続き) ところで、あそびのイベントなどで見かける「石けり」のなかには、どこかしっくりいかない光景を垣間見る時もある。それは、「石けり」のためのマス目が、運動会などでよく見かける、あの白線で描かれているのだ。そもそも「石けり」は、この線を踏まずに跳んで行くあそびなのだが、それでは線があまりにも太すぎる。 土の地面は、棒切れなどで線を描けるのだが、多人数が長時間参加するようなイベントなどでは、消えてしまって難しいのかもしれない。消えたら描き消えたら描くのが、本来のあそびかたでもあり、その努力や苦労があそびにもあるという点が、私には好きなところなのだが。 最近、学校の校庭や公園を芝生化する動きも増えてきているが、それもいいことだとは思うが、「石けり」だけでなく、棒切れで線を描いてあそぶあそびも数多い。また、ある種のビー玉あそびでは地面に穴を掘る必要もある。雨の後の泥んこあそびもまた楽しい。そうしたあそびのためにも、本物の土の地面のある校庭も残してほしいものだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.03
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昔懐かしいあそびのなかで、ゴム跳びや竹馬などは街中(まちなか)でも時折見かけるが、ほとんど見かけなくなったのが「石けり」だ。一般的に「石けり」と呼ばれるあそびは、地面にマス目を書いて、そのマス目に石を投げ入れて、片足跳びで進んでいくあそびだ。石などを用いないものを単に「ケンパ」、石を用いるものを「石けりケンパ」とも呼ぶようだ。 ところで、最近では学校の帰り道などに、路上に落ちている石を蹴り蹴り歩いて行くあそびを思い浮かべるこどもたちやおとなも多い。それだけ、「石けり」が過去のものとなっているのだろう。学校や子ども関連の団体などのイベントなどで、ほんのたまに見かけるぐらいだ。なお、石を用いない「ケンパ」は「石けり(ケンパ)」よりは多く見かける。 このように、「石けり」が廃れてしまった原因には幾つかあるが、町の空間的条件として、「石けり」に適当な場所がめっきり減ったことがある。この「石けり」は、そもそも狭い路地でもあそべるあそびとして、こどもたちに人気があったのだ。 その路地は、今やコンクリートやアスファルトなどで覆われ「石けり」にはあまり向いていない。まず、肝心の「石けり」に適当な石そのものが落ちていない地域も多く、瓦や市販のガラス製の玉は、地面が固ければ割れやすくなる。そして、その路地さえ今時は車が進入しない路地は少ない。 こうした街の変化もあり、「石けり」にふさわしい場所は、公園か学校くらいになってしまった。しかし、公園や学校にも適当な平たい石はほとんど落ちていない。もちろん、予め石・瓦・ガラス玉などを用意すればいいのだが、本来そうした道具を前もって用意する必要の無いあそびが「石けり」の長所でもあった。(その2に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト
2008.09.02
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(その1からの続き) かの知事は、いわゆる「夜スペ」を「学力」の向上に導入するお考えだが、その「夜スペ」元校長の発言も感心できない。【今月6日に府特別顧問に就任した東京都杉並区立和田中学校前校長、藤原和博氏は「全国第2の都市としては考えられない結果。先生方は熱心で頑張っていると感じるが、システムが成り立っていないのだと思う」。課題として、国際学習到達度調査(PISA)に対応した学力の育成を挙げ、「先生方の熱意が効果を発揮するシステムを作れば大阪でも不可能ではない」との見方を示した。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/MSN産経ニュース:2008年8月29日) 「国際学習到達度調査(PISA)に対応した学力の育成」とは、どういった育成方法なのだろうか。「調査に対応」的教育は、ともすれば「受験対策」的教育と大差がなくなってしまう恐れもある。そうした場当たり的な「教育」手法よりも、本当に必要な学力をすべてのこどもたちに育むのかを徹底・一貫して取り組むべきだ。 「夜スペ」元校長は、【学力が高い子を引っ張り上げることだけが和田中の教育と誤解している人も多いと思うが、底支えはしっかり行ってきた】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/MSN産経ニュース:2008年8月29日)との発言もあるが、その「底(記事の言葉を引用した)」に位置すると評価されたこどもたちは、学校教育や「夜スペ」だけでは、難しい勉学環境にあるこどもたちも少なくない事を、どう考えるのだろうか。 この「底支え」という言葉を選んだ元校長の真意はそうではないと思いたいが、少なくとも教育者はこどもに対しては使ってはいけない言葉だろう。自分の努力だけではどうにもならない事情を抱えて、学力を十分に獲得させてもらえないこどもたちを、突き放すようなニュアンスのある、「底」という言葉は慎むべきなのだ。 ともかく、高支持率の知事や著名な元校長まで惑わせた「全国学力テスト」の結果公表だが、それに右往左往する全国的な動きも、教育の序列化が必然的に招く典型的な例として心に留め置くことが大切だと思う。特に、テスト結果の平均の序列化の公表は、すべてのこどもたちに豊かな学力を育む道とは全く見当はずれの道となる。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ
2008.09.01
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