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最初にいっておくが大相撲には全く関心がない。だからかもしれないけど、昨今の大報道には違和感をもっている。そもそも暴力事件といっても仲間内の酒の席、殴られた被害者は翌日土俵に立っていた。相撲の横綱に「品格」を求める声もあるのかもしれないけど、しょせんは格闘技の興行であり、実際にはそんな上品な世界でないことくらいは誰だって知っているのではないか。こういうのはどうみても芸能ネタ、それもあんまり大きくもない芸能ネタで、こういうのが総合ニュースで「もりかけ」疑惑そっちのけで報道されているのは変である。証拠隠滅のおそれも逃亡のおそれもない籠池氏が、それも妻までも一緒に、長期勾留されているのなど、人権上の大いに問題なのにろくに報道されない。そしてもう一ついやなのは、この騒動の背景に相撲界を席巻しているモンゴル勢への反感があるのではないか…という気がすることである。たしかに一時相撲を席巻したハワイ勢にくらべてもモンゴル勢の天下は長い。それにハワイ勢はいっちゃなんだが「悪役」とか「わき役」という印象があったが、モンゴル勢はいつのまにか主役をはっている。こうした状況への反発を感じる人がいても不思議ではない。ただ、もしそういう面があるのなら、それなら最初から外国人を入れなければよい。モンゴルは人口小国だが格闘技の伝統があり、モンゴル勢力の席巻は予想できたではないか。本当に残念な騒動である。
2017年11月30日
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昔、わが社にアルバイトとして勤務していた女性とたまたま会う機会があった。生活も厳しく、健康にも恵まれない様子だったのだが、話の随所に「…結婚できなかったから…」と言っていたのが気にかかった。まるで思い通りにならなかったことが「…結婚できなかったから…」の一点にあるような口ぶりだったのだ。結婚できなかったといっても、特定の誰かとの結婚をさしているのではない。誤解かもしれないのだが、この女性にとっての結婚とは「終生の生活保障」を意味しているように聞こえた。そういえば、この方と一緒に働いていたころ、たまたまこんな会話をしたことがあったのを思いだした。「男の面食いなんか可愛いもので女の打算はいやらしいよね」と私が言ったところ、その方は「いや、女は弱いのだから男を経済力でみるのはあたりまえじゃない」と力説していた。当時は、専業主婦志向というのはごく普通であり、一生仕事を続けるという女性は明らかに少数派だったように思う。男は普通に生きていれば妻子を養うほどの収入が得られ、逆に女は多少高偏差値で「よい学校」を出たくらいでは、会社の雑用係がせいぜいであった。そんな時代に比べると、世の中は変わった。男の結婚率と収入は明らかに「正の相関」があるのだが、女の結婚率と結婚前の収入にもやはり同じような相関があるのではないか。自分の全生活を男性に依存しようという女性はおそらく伴侶としては好まれていない。そういえば「永久就職」という言葉は今でもあるのだろうか。
2017年11月29日
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最近、高等教育の無償化ということが言われており、憲法に書き込むという動きまであるという。けっこうな話のようだが、その原資は税金であり、国の金である。現在、膨大な財政赤字をかかえており、しかもその赤字は増加中である。こうした中で高等教育の無償化を憲法に書き込んでまで行う理由がよくわからない。高等教育を無償化する原資があれば、介護士の確保や処遇改善、待機児童対策や保育士の処遇改善に使うこともできると思うのだが、高等教育の無償化が、こうした課題よりも重要だとはどうしても思えない。 そしてまた、ある人は高等教育の無償化を行うことで貧困の連鎖を防ぐことができるという。これもまたよくわからない。貧困は連鎖使用がしまいが、それ自体が問題ではないか…というつっこみもさることながら、いまどき大学に入ることが、それだけで貧困からの脱却になるとは思えない。大学を出ても貧しい生活をしている人はいくらでもいるし、それどころか大卒のホームレスがいたとしても誰も驚かない時代だ。もちろん貧しい子どもが無償で高等教育を受けられるというのであれば、その制度を利用する人は多いかもしれないが、いわゆるFランをでたとしても、将来の収入に結び付かないだけではなく、その間に別のこと、例えば職人として修業を積む等の機会を逸する損失の方が大きいのではないか。それに本当に貧困家庭の子弟が貧困からの脱却を目指すのであれば、形ばかりの学歴よりも勤労の習慣の方が重要であり、そういう意味で、生活保護家庭の子供がアルバイトをしたような場合に、一律に世帯に支給される保護費が減額されるような制度こそ議論が必要かもしれない。 もちろん学問的素質に恵まれているのに、家庭の経済的事情で進学できないという子には進学の途が開かれるべきである。ただそれは一律の高等教育の無償化ではなく、国立大学の授業料免除や安価な生活費で暮らせる寮の提供などでよいように思う。そういうものは昔もあったし、今もあるのではないか。
2017年11月26日
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こまつ座の「きらめく星座」を見てきた。舞台は昭和15年秋から16年冬。日中戦争が膠着状態になり、太平洋戦争へと向かう時代である。戦中というと太平洋戦争を連想するが、この時代にはもう戦時体制は始まっていた。憲兵による監視やもの不足、そして赤紙という召集令状や白紙という徴用動員…。そしてその戦時体制は権力が国民を押さえつけるというよりも、国民相互が監視しけん制しあう体制でもあった。脱走兵がでた家を「非国民の家」と非難する場面が劇中にでてくるが、これは脱走兵に限らず、戦争に反対した者の家族も、同様に「非国民の家」と排除していたのではないか。庶民こそは戦争の最大の被害者のはずなのだが、その庶民が、戦争に反対する者や脱走によって兵役を免れたものをよってたかって非難する。同様に牛肉の匂いがもれないように雨戸を閉める場面もあったが、もの不足の中で肉の匂いなどを出すと近所から批判されるという配慮である。庶民の怒りの矛先が本当に自分たちを苦しめるものには向かわずに、自分たちの中でちょっと「いい思い」をしているところにだけむかう。そしてまた「愛国者」の言説の矛先も同じ庶民である。今もそうなのかもしれないが、こうした人々は自国の美点を賛美することよりも、同国人の中の「非国民」を批判することに熱心なように見受けられる。劇中の傷痍軍人は西洋音楽を楽しみ、西洋の嗜好品を好む同胞に怒りをぶつける。愛国的でないと判断する同胞を非難することにエネルギーの大半を使う「愛国者」というのは奇妙である。もっとも傷痍軍人は、戦争で暴利を貪っている者の存在を知っていくことで次第に考えを変えていくのだが。そして「きらめく星座」の最後の場では舞台となるレコード店は解散する。昭和16年12月7日。レコード店主夫妻は長崎に、同居人の宣伝文案家は満州に行くことになるのだが、いずれも終戦にかけて大変な苦労をすることになるのだろう。
2017年11月24日
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最近、外食企業などで人手不足による倒産が増えているという。http://toyokeizai.net/articles/-/181710総理はアベノミクス効果としてさかんに求人倍率の上昇をいっていたのだが、求人倍率が高いということは人手不足の裏面であり、そうだとすればこれも「アベノミクスの効果」ということになる。それにしてもよくわからない。今までも好景気のときには常に人手不足があった。そして人手不足の結果、賃金が上昇し、賃金が上昇すれば需要も喚起されていくので、人手不足による倒産ということはあまりなかったように思う。特に外食産業など、こっちの会社の従業員はあっちの会社では顧客でもあるので、給料が上がれば、全体の売り上げは上がっていくはずなのだが。どうもよくわからない。求人倍率の上昇とか人手不足とかいう現象は賃金上昇の見込めない職種でだけ起こっているのだろうか。そしてまた、この間、関西(淡路島)と四国に観光に行ったのだが、四国の観光はいまや落ち込んでいるという。そうなのかもしれない。どこにいっても、自分も含め、もう若くない観光客ばかりで、元気がよいのはむしろ外国人の一団で彼らの中には若者も多い。ある調査によると、今の20代の男性の休日の外出頻度は70代よりも少ないらしい。たしかに観光地、映画館、レストランに行ってもカップル以外の若い男性を見ることは少ない。30歳以下では自炊派も増えているという話もあり、結局は金のない人が多くなっているのかもしれない。
2017年11月22日
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徳島県観光の後には淡路島と小豆島に行ってきた。両方とも瀬戸内海の島であるが、淡路島はすでに橋で本州や四国とつながっており、実質的には島でなくなっているのに対し、小豆島はやはり離島の雰囲気を持っている。とはいえ小豆島も大きな島でそこにはコンビニもあれば大型スーパーもある。干潮のときにだけできる「エンジェルロード」という道や寒霞渓の紅葉と奇岩美など見どころも多い。もっとも寒霞渓は古くから知られていたようであるが、「エンジェルロード」というのは最近の命名で、恋人の道として人気を集めているという。ちょうど韓国人の一団が、たぶん若者の映画サークルかなんかだと思うのだが、ドローンを使って撮影をやっていた。住民にとっては、なんてこともない場所だったのかもしれないけど、これも立派な観光資源になる。そしてまた、小豆島といえば「二十四の瞳」の舞台としても有名で、ロケ地の記念施設もある。これも海岸の風景と一体となって、戦前の学校や村をほうふつとさせるつくりで見ごたえがある。昔、原作を読んだことがあるが、12人の子供たちのうち、男の子の多くは戦死したり、戦傷を負ったりし、女の子も苦界に入った子もいれば、辛い労働で体を壊して死んだ子もいた。戦前の庶民の生活の実態なのだが、それでも、そうした貧しい子供たちにも教育が普及し、向学心がある人には男女を問わず師範学校への途が開かれていたというプラス面もあった。「二十四の瞳」は高峰秀子主演の映画で有名なのだが、この施設は田中裕子主演の映画の際に作られたものだという。記憶ではこの二度目の映画化作品はあまり流行らなかったのではないかと思う。同じ監督の作品である「喜びも悲しみも幾年月」も二度目の映画化は話題にならなかったし…こういうものは有名な名画なのだが、実際に見る人はあまりいないのかもしれない。この「二十四の瞳」映画村でも、映画を上映していたが、あまり見ている人はいなかったようである。
2017年11月21日
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徳島県に観光旅行に行ってきた。主な目的は鳴門の渦潮と大塚美術館である。もちろん両方とも見るのは初めてだ。渦潮は、なんとなく、海の真ん中に大きな渦ができる光景を想像していた。渦潮といえば、ほぼこうした写真がでている。ところが、実際にみると、海のあちこちに小さな渦巻きが現れては消える…そういった現象である。考えてみればあたりまえだ。海の真ん中に大きな渦巻きがでてくるようでは、危険で観潮船で近づいてみるなんてありえない。これにかぎらず観光写真では大きさのわからないものが多い。伊豆韮山の反射炉も観光ポスターでみると、非常に大きなものであるような印象を受けるし、人と一緒に写っているポスターもあまりない。これで「世界遺産」とあるので、どんなにすごいものかと思うと…まあ、それは人それぞれの印象である。渦潮を観た後、大塚美術館に行った。ここには本物の絵は一つもない。すべて世界名画の陶板である。ただ展示の仕方が原画の雰囲気を活かすようにしているので、実際は本物をみるのと同じである。少なくとも、本物を見たことがあるものも何点かあったが、それらについては本物と変わらないと断言できる。最後の晩餐の壁画を修復の前後で向かい合わせに展示したり、モネの睡蓮を自然光の中で展示したりと見せ方にも工夫を凝らしてある。一度はお勧めである。
2017年11月20日
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関西方面に旅行に行っていたが、その話は明日以降に書くことにする。天候にも恵まれよかったのだが、唯一不快だったのは連日朝のテレビをつけるたびに流れてくるあのニュースである。なんなんだ、これは…と思っていたら、なんと地方紙の一面トップでもこれを取り上げていた。思わず「これはスポーツ新聞だったのかしら」と確かめてしまったのだが。相撲取りの暴行のニュースである。酒の席で、仲間内の飲み会。そして被害を受けた力士は翌日土俵に立っている。これは連日大報道するようなことなのだろうか。犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛むとニュースになるという。国会議員が自分の政策秘書に「こ~のはげ~」といった後、暴行を加えたというニュース、弁護士がタクシーの運転手を暴行したというニュース、そしてこの力士が仲間同士の酒の席で暴行を行ったというニュース。いったい「人が犬を噛んだ」というのにあたるのはどれなのだろうか。
2017年11月18日
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題は忘れたが、明治か大正の小説を読んでいたとき、「外国で死ぬなんて不幸なこと」という表現があって違和感をもったことがあった。外国に移住し、あるいは長期滞在していて、そこで平穏に死んだとしたら、今日ではそれは「不幸なこと」とは誰も考えないのではないか。ところがそんなに遠くない時代にはそうは考えない人生観もあった。今と違って祖先の墓に入るということが重視されていたせいなのかもしれないが…。同様に、少し前、昭和40年代くらいまでは、老後は「子や孫に囲まれて」暮らすのがもっとも幸福であるという価値観も根強く残っていた。それの裏返しなのだろうか。老父母を一人暮らしさせたり、ましてや施設に入れるのは親不孝とされていた。そのころ、老人ホームが土砂崩れに遭い、多くの入居者がなくなったということがあったが、遺族は誰もマスコミには出てこず、身元も隠していたようであった。これも今では考えられないことだろう。この頃では子や孫との同居と言えば、自立できない子供が成人して同居を続けるか、結婚してもやっていけないので、どちらかの親と同居するというケースが多いのではないか。このように、幸福や不幸についての考え方は時代とともに変わる。実際に問題があるのであればその改善をめざさなければならないのだが、そうではないのに、社会通念にふりまわされて、不幸だと思い込み、そして不幸になるのはばかばかしいことである。最近、どなたかが「友達のいない人でも幸福に暮らしている人は案外多い」ということを言っている人がいたが、これも一面の真理、目から鱗なのかもしれない。なぜなら友達が出来ない、友達がいない・・・で悩む人は多く、どうかともおもうが、これで大学を中退する人もいるという。こういう人の中には友達がいないから不幸なのではなく、「友達がいないのは不幸である」という観念に縛り付けられて自分で自分を不幸にしている例もあるように思う。このように考えていくと、何が幸福で何が不幸かということもあいまいになっていく。貧争病…つまり貧困、争い、病気は絶対的に不幸かもしれないが、真ん中の争いは自らそれを招き寄せるような人もいてまぎらわしい。となると、貧困、病気、こうしたものから免れてさえいれば、自分の幸福は自分の人生観で決めればよいことだろう。世間では○○は不幸だと言うことになっているから、自分は不幸だと思い込むのはもったいない。
2017年11月14日
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座間の連続殺人事件の不気味さは犯人に異常さをうかがわせるエピソードがないという点ではないか。同級生にタリウムを飲ませ老女を斧で殺害した女子大生は中学生の頃から斧を持って近所を歩き回っていたという。小学校に乱入して子供を殺害した男はいくつものトラブルを起こしていた。これに対して、座間の事件では逮捕歴があるというものの、職を転々としているうちに、そうした違法なスカウト稼業にゆきついたというようなもので、異常な性癖というのとは違うように思う。子供の頃のエピソードも、報道で見る限り、友人もいれば、部活にも熱中するような、ごく普通の少年という印象しかうけない。そしてなによりも、事件発覚当初、異様に見えたバラバラにした頭部を部屋に置いて暮らしていたという点も、好き好んでというよりも、自動車の運転ができず、頭部だけは処理できずに仕方なく…ということだったのだろう。最近の事件で、子供時代はごく普通だったというエピソードしかなく、家庭にも特段の問題のなかった犯罪者の例が他にも思い浮かぶ。相模原の殺傷事件、さらに古くは秋葉原の通り魔殺人である。いずれも犯罪の異様さとはうらはらにサイコパスといった匂いはしなかった。そして職を転々としたあげくに、短期間の間に何人もの人を殺害したという共通点がある。彼らは特異例であるにしても、その背景に裾野があるのかどうかが気になるところである。そして座間の遺体についてはすべて身元が確定され、被害者についての報道もでてきている。これも配慮なのか肯定的な話しか報道されないが、週刊誌によれば被害者の中にはかなりの逆境にいた人もいるようである。高校生の頃は普通の人でも自殺ということを想像する。ましてや、本当に辛い状況にある人は、自分も同じ悩みを持っているんだよ、君のことはとてもよくわかるよ…という人にやすやすと引き寄せられる。被害者が求めたのは、一緒に死ぬ相手ではなく、救いの手だったのではないか。座間の犯人は非常に優しい声をしていたという。この事件を受け、政府は閣僚会議を開き対策を検討しているようであるが、どうやらSNSの規制とかそっちの方に行きそうである。そこではないだろう…と思うのだが。
2017年11月10日
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ある方のブログで、樋口一葉、石川啄木そして宮沢賢治について、評価のわりには良さがわからないと書かれていた。樋口一葉と石川啄木については同感である。まず樋口一葉。お札にもなっていて、名前を知らない人はいないのだろうけど、じゃあ、彼女の作品が今どのくらい読まれているのだろうか。おそらくそれほど読まれていないのではないか。流麗な擬古文で、たしかに文章はすばらしいが、代表作とされる「たけくらべ」にしても少女の淡い恋の話でそれほどの傑作だとはどうも思えない。もっとも今改めて再読すれば、また別の印象をもつのかもしれないが…。石川啄木については、人間性そのものにかなり問題があったという話があり、それはおそらく事実だおる。もちろん人間に問題があっても、素晴らしい芸術を残せばそれはそれで評価すべきなのだろうが、短歌芸術というものはまさにまるごと人間性がでる。啄木の短歌は当時の屈折したインテリの心情を知る上では傑作ともいうべきかもしれないけど、「友が皆~」とか「はたらけど~」とか言ったよく知られている歌については、嫉妬心やひがみ根性まるだしでどうもよいとは思えない。さて、それに比べて…宮沢賢治である。生活無能力だったというのは、たぶんそうだろう。家は裕福で生活無能力であっても暮らしていくことはできたし、戦前は遊んで暮らしていたような資産家というのも存在していた。だからその生活無能力ぶりも、自分が恵まれた境遇にあることに一種の罪悪感を感じ、その結果、純粋で不器用な生き方しかできなかった…という印象を受ける。宮沢賢治の童話は好きで、全集で読んだが、なつかしくて、ちょっと不気味な感じがよい。私もいわゆる宮沢賢治教の信者なのだろうか。でも、宮沢賢治の人気は今も根強く、20年ほど前だったか、彼の伝記映画がたてつづけに二本公開されたことがあった。映画館には一人で見に来ている中高年の男性が多かったのが印象的だった。
2017年11月09日
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読みづらい長編小説を読んだ後は、気楽にさっと読めるものを読みたくなる。そこで読んだのは井上ひさしの「きらめく星座」。昭和15年秋から昭和16年の冬にかけての庶民の生活を描いたものだ。中味はなかなか「気楽にさっと読める」なんて言っていいものかどうかというくらいの重いテーマも秘めている。戦中というと、今の感覚では昭和16年冬から昭和20年夏を想像するのだが、この戯曲の時代にはすでに戦争は始まっていた。日中戦争は昭和12年に始まり、非常時が連呼されていく。戦死や戦傷、物資不足、憲兵による監視、洋楽などの大衆文化に対する圧迫…戦前という時代を考える場合、指導者目線ではなく、庶民目線でみていけば、あの時代はまさに「暗い時代」であった。と言いながらもまたこうも思う。暗い時代だが、舞台は浅草のレコード屋、出入りするのは広告文案作成を職にする男やピアノを弾く苦学生。店の後妻は元歌手志望。戦前は貧しい時代とはいうものの、金を出してレコードを買う人々が一定層いた。苦学しても、才能があれば上級学校に行く途もあった。それなりに人々は生活を楽しみ、生きていたのではなかったのだろうか。戯曲の最後の場は昭和16年12月8日。セリフでは米国との戦争に言及したものはない。庶民が必死に生きているうちに太平洋戦争はその庶民と関係のないところで始まっていったわけだ。気が付いたら戦争が廊下の向こうにたっていた…というわけである。
2017年11月08日
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メルヴィルの「白鯨」を読んだ。名作はできるだけ読んでおきたい…という主義なので、この本も図書館で見つけたのをきっかけに読んでみた。最初はめんくらう。小説らしい部分は少なく、クジラの生態や捕鯨のこまごまとした道具などについての説明が非常に多い。登場人物の性格描写も少なく、人間ドラマの部分もほとんどない。この小説が傑作でないというわけではないが、ただ他の小説とは、かなり類型が違っている。文章は冗長であるが流麗である。随所に比喩表現やこった表現があるので、すいすい読み飛ばすというわけにはいかない。筋書きは、モービーディックとよばれる巨大な白鯨を追って航海を続ける捕鯨船の物語であり、最後が悲劇で終わることは、随所に暗示されている。それでも捕鯨船は、運命のように、その悲劇に突き進んでいく。これは一種の象徴小説(そんな分類があるとしたらだが)なのではないか。白鯨とは人智を超えた巨大な災厄のようであり、神のようでもあり、運命のようでもある。小説を読みながら、昔テレビで見た映画版を思いだした。あれは面白かった。後の傑作「ジョーズ」のようなパニック映画的な興趣もあったし、グレゴリーペックもかっこよかった。映画も小説もよいのだが、その面白さの質がこれほど違うというのも珍しいのかもしれない。
2017年11月06日
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この連休中に二つ映画をみた。「ミックス」と「ラストレシピ」である。前者は低予算で映画の常道を踏まえた気楽にみられる映画、後者はその反対とでもいおうか。当然後者の方がおすすめとなりそうなのであるが、これは後者の設定(ネタバレになるが)の無理くささをどこまで気にするかが判断の分かれ目になるだろう。もっとも、いくらなんでもそんなことってあったわけないよね…と思ったとしても、料理の映像や満州国の町並みを再現した映像はそれはそれで楽しめる。実際に五族協和をイメージした料理なんて、だれかがどっかで考えていたのかもしれないし、しかも、五族を象徴しているらしい豆や木の実をみると、ちゃんと当時の満州国で使われていた各民族のイメージカラーになっている。主観的には随所に無理があり、たぶんこれで原作の小説を読もうという気にはならなかったが、映像美や俳優の熱演で見ていて損はないという映画である。これに対して「ミックス」は、きわめて正統的な映画だと思う。ストーリーもそうなるかなあと思ってみていると、やっぱりそのとおりになって、それで安心してみていられる。登場人物の一人一人が人生の問題をかかえていて、それが一つの目的に皆で邁進しているうちに問題が解決していく…つまり不仲だった夫(妻)と和解したり、ひきずってきた過去の不幸をふっきれたり…といったベタな音楽映画にあるようなパターンなのだが、こういう映画というのは演奏を試合におきかえてもできるのだなあと改めて感心した。そしてまた「ミックス」では観客に若い子が多くて、これも驚きであった。最近ではどこに行っても高齢者が目につくのだから。
2017年11月05日
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サプリメントなるものを始めて頼んでみた。実はお試しで1か月ほど試用してみたのだが、なんとなく調子が良いような気がする。人間にはプラシーボ効果というものがあって「健康によい」とか「これで病気が治る」とかいうと、効くはずのないものでも、それなりの効用をもつという。古来から行われているまじないとか祈祷の効果というものは、ほとんどがこれであろう。そうだとしたらサプリメントも宗教なき時代の祈祷なのかもしれない。電話で申し込むと、さっそく気になる症状を聞いてくる。具体的に数値や診断名を出すと「そういうのには効果が確認されていないのですよ」という。たぶんそういうことをいうように行政から「指導」されているのだろう。そのかわりに熱心に勧めたのが「血液サラサラ効果」である。血液サラサラというのも変な言葉で、血液は血液でサラサラもドロドロもない。これもコレステロール値いくらとか数値を持ち出すと「そういう効果は確認されていない」となるのだろう。ただ、古来、理論は解明されていなくても、健康によいとされるものは多い。漢方の多くはそうなのではないか。もとより自然科学に洋の東西などあるわけもない。それなのに、医学にいまだ東洋医学なるものがあるのは、自然科学では解明しきれない効果というものもあるのだろう。というわけでとりあえず一月、サプリを試してみることにする。
2017年11月04日
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大いに世人の注目を集めている座間市の大量死体損壊事件…というか大量殺人事件について書く。事件の全容は不明なのであるが、現時点の報道でみるかぎり、容疑者の男は外面的には異常ではなく、入院歴やひきこもり歴もない。ともかくも、大人になるまで普通に生活していたことから、サイコパスとは考えにくい。そしてまた、快楽殺人としてこの事件をみた場合、違和感があるのは、死体処理の手際の良さ、それもクーラーボックスに保存という職業的な手際のよさである。すでにネット上では何人もの方が指摘されているのであるが、臓器売買が背景にあるというのも説得力がある。ただ、ここで疑問が出る。移植医療に使う臓器というのであれば、医療機関の関与がなければできない。日本で移植医療を行いうるような医療機関で、そうした闇のネットワークに関与しているところがあるというのだろうか。病院側がドナーについて不問に付してそうした手術を行っているとは考えにくいし、場合によれば病院だって刑事責任を問われることにもなりかねない。事件の詳細を知りたいところである。それにしても、無職の男がなぜアパートを借りることができたのか、入居直後から殺人を繰り返していたというが、アパートを借りたのは最初からそれ目的だったのか。これもわからないところである。このアパートは今後どうなるのだろうか。この部屋はもちろん、他の部屋も空室になっていくのではないか。大家さんは大変だろうな…と思う。アパート経営はうまくいけばよいが、こんなリスクもある。空室になって家賃は入ってこないのに税金は容赦なくかかってくる。取り壊すのにも費用がかかるし、いわくつきの土地になってしまったので、更地になっても買い手が現れるとは限らない。その昔、幼女連続殺人事件があったが、犯人の男(おそらくサイコパス)は自宅の部屋で殺害した幼女の死体を解体していた。その自宅だったという場所は今でも更地のままで買い手はなかなか見つかっていないようである。
2017年11月01日
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