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何十年も前のことなのだが、墓地不足ということがさかんにいわれた。将来的に死者数は増えていくし、人口の都市集中により、田舎の墓に入らずに、都市周辺に墓を求める人も増えていくはずだということがその背景である。一時期八王子などはさかんに墓地が作られたし、あわてて生前簿を用意した人もいた。そして時がたち、墓地不足は起きているだろうか。否である。葬送についての考え方が変わり、樹木層や散骨も普通になってきたからである。墓じまいも増えているというし、墓地の面積は全体では減っていくのかもしれない。そして葬送儀礼についての考えも変わった。寂しいお葬式は不幸な人生の象徴のようにいわれ、盛大な葬儀こそが幸福な人生のフィナーレとされた時代もあった。今は全然そんなことはないだろう。どこにいっても、家族葬が普通になり、大きな葬儀式場は探すのも大変だろう。そしてまた、葬儀場の広告はかつてははばかられたようなところがあったが、今ではテレビで普通に広告が流れているし、電車の車内広告も結婚式場よりも葬儀場の方が多いようにみえる。このように葬送儀礼は変わりつつあるのだが、ただ、一点これだけは無理だろうと思うものがある。それは土葬である。昔は土葬だったではないかというが、それは昔は火葬設備もなかったからだろう。自然災害の多い日本で土葬墓地が土砂崩れなどという光景は想像したくないし、雨の夜などに土葬墓地で燐火が舞う光景も見たくない。土葬専用墓地建設に周辺住民が反対するのももっとだと思う。
2026年08月31日
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法務省が「ラヴ上等」とコラボしたポスター、厚労省が「ママがもうこの世界にいなくても」とコラボしたポスターをいずれも不適切として廃棄したという。前者のラヴ上等は見たことがないが、元暴走族や元少年院入所者が共同生活を送る様子を撮影した恋愛リアリティ番組だという。こういうものと更生とは別物ということはわかりそうなものだ。人気テレビ番組とコラボすれば更生を願わなければならない人々に届くだろうというのは浅はかというものである。元非行少年や犯罪者を永久に社会で差別しつづけるべきだとは思わないが、元非行少年や元少年院入所者がそれを公言したうえで、テレビに出るのには疑問があるし、そうしたマイナスからの出発を称賛するのもおかしい。非行少年には直接間接の被害者がいるはずだろう。これが、事故の被災者や難病患者、犯罪の被害者などが、不幸を克服したというのなら惜しみなく拍手をおくりたいが、元非行少年が更生して。逆にそれを売り物にして脚光を浴びるとなると首をかしげざるをえない。テレビに出なくとも、犯罪を犯した人間がその体験をもとに本などを書くということもある。これは昔からあり、中には作家になった人もいるくらいである。特に目立ったのはオウム事件の後、元信者の本がいくつもでたことがある。ただ、こうしたものもあの「絶歌」の騒動でかなり少なくなっているようだ。「ママがもうこの世界にいなくても」はもっと酷い。こうした難病ものの映画やドラマというのは昔からあるし、その都度、生命や人の絆について考えさせられる。この映画自体は一ミリも問題があるとは思わないが、これをガン患者向けの啓発に使うという神経がわからない。現に厚労省とのコラボで病院に貼りだす予定だったという。日常生活でも闘病中の人と会話する際には、死や終末を連想させる話題や言葉は極力避ける。「ママがもうこの世界にいなくても」はタイトルからして死を想像されるもので、それだけで闘病中の患者からは隠したくなるものだろう。複数の役人がこうしたポスターのコラボには関与していたはずなのに、誰もなんとも思わなかったのだろうか。もし、身近に闘病中の人がいたら、このポスターをみせますかと聞いてみたいものである。
2026年08月28日
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新しい政治団体護憲リベラル共生(ごりら)が発足したという。公明と立憲民主の合併でできた中道がどうやら泥舟らしいので、今後参加する現職前職の議員も増えていくのかもしれない。ただ、護憲は現憲法がある以上、護憲なのは当然で、改憲の動きが具体化していない限りは、護憲といっても生活に密着したテーマとは言えない。憲法9条があるから戦争はないとかミサイルは飛んでこないといった議論は失笑を買うばかりだろう。せめて憲法9条があるから戦後自衛隊員は戦場に行かなかったくらいのことを言えば、まだよいのだが。リベラルについてはさらにわからない。リベラルの主張とされる夫婦別姓やジェンダー平等、LGBT差別撤廃などは財界にもそうした動きはあり、特に国内で鋭い対立があるテーマとも思えない。いやそれよりも、普通の国民にとってはまったくどうでもよいことなのではないか。LGBTを禁忌とするような宗教風土のある国では、草の根レベルでの意見の対立があるのだが、日本はそうした状況にはない。LGBTですか、どうぞご自由に…といったところだろう。共生というのも中味がみえないのだが、これが外国人との共生という文脈であれば、財界でも外国人労働力の流入を推進している。むしろ一般庶民の方が野放図な外国人の流入に警戒感がある。つまりリベラルとか共生とかといっても、それはごく普通の庶民層や経済的困難をかかえる層にはほとんどひびかないテーマであり、むしろ一部は財界の推進する方向ともかぶっている。よく右とか左とかいうのだが、そろそろこの区分はやめてもよいのではないか。リベラルの票田となる層は庶民層ではなく、意識高い系インテリとでも言った方がよい層であろう。こうしたリベラルの票というものは、おそらくは多くはないし、今後も増えていくことはないように思う。そうしてみると、庶民層のうちで経済的困難をかかえる層、いわゆる上下で分けると、下の部分の票がまさにブルーオーシャンとなる。そこに目をつけて伸びた政党は参政(一部は岩盤保守層からの移行もあるが)であり、れいわなのではないか。れいわはいのちの党に衣替えしたが、後継の政治家がれいわの従来の票田をどの程度意識するのだろうか。既存のリベラルによりすぎると、あまり伸びないかもしれない。※※ICCの所長に対する米国の制裁がニュースになっており、マスコミの論調は日本総理の弱腰を非難するものが多い。しかし、こうは考えられないのだろうか。国連の組織というものは非常に肥大化しており、ICCにしてもそれほど古くからあるわけではない。ICCがプーチンに逮捕状を出したというのだが、むろんこれに実効があるわけではない。なにか法の支配という言葉が錦の御旗のように独り歩きをしているようにもみえるが、全く実効のない逮捕状を一国の元首に出すあたりICC自体それほど意味のある機関だとも思えない。不要な機関は見直し、国連の組織はもっとスリム化して加盟各国の拠出金を減らすことを考えるべきではないのだろうか。
2026年08月27日
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いわゆるリベラルとされる方々は、外国人問題となるとどうしても、外国人を「弱くてかわいそうな人々」とか「差別の被害者」だとか思いたがるようだ。そういう面もあるかもしれないが、そうでない面もある。外国人実習生が雇用主から暴行を受けた事件は大きく報道されるのだが、外国人犯罪の事件は扱いが小さいし、取り調べの困難さから暗数も相当に多いと思うのに、それも報道されない。特に最近気になったのは、公園を外国人の宗教行事に使用する許可をめぐる問題である。報道では外国人に同情的な論調だったかと思うのだが、こうした宗教行事は異教徒は立ち入ることができないのではないか。そうなると、公共の場である公園に日本人は立ち入れなくなるという事態になるのだが、それでもよいのだろうか。宗教行事だけではない。宗教施設など日本人も立ち入れない施設や外国人コミュニティ専用の店舗などもできてくることも考えられる。いわば日本にいて日本人が差別されるということもありうるわけである。多文化共生という言葉はよくきかれるが、それ自体は目的でもなんでもない。多文化共生だから外国人を入れましょうということではなく、現に居住している外国人と日本人との文化的共生をめざそうということが多文化共生というわけだ。そしてそのためには、排他主義を離れて互いを理解しようという姿勢が重要になるが、この姿勢は双方になければならない。世界には日本以上に排他的な文化を持つ人々もおり、いくら日本人が共生を呼び掛けても、日本国内に日本人を排除した排他的コミュニティのできる可能性もあるだろう。そういうことにも留意する必要がある。
2026年08月26日
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韓国ドラマ「2度目の20歳」を見始めた。最近、あまり面白いドラマにあたってないな…と思っていたがこれは面白い。タイトルだけを見ると、最近多いタイムスリップとか中身入れかわりファンタジーかと思ったのだが、正真正面専業主婦が大学生になる話だ。主演はチェジウで、正直、悪女役の似合う女狐顔だと思っていたが、さすがに演技達者で、役名のノラは人形の家を意識しているのだろう。権威主義的なモラハラ夫とのやり取りは人形の家にも似たような場面があったように思う。今まで実質的な夫婦の対話などなかったではないか…という場面である。物語は高校卒業後、大学教授と結婚し、18歳で子供を産んだ後はひたすら専業主婦をやってきた主人公が、話が合わないという理由で離婚を迫られ、しかも、検査した病院では余命告知を受けるというかなり悲劇的な状況から始まる。しかし、ここはコメディで、余命告知は誤りであり、やりたいことをやってやるというつもりで入った大学にも次第になじんでいく。しかし、その大学には息子も通い、夫もなぜか主人公の知らないうちにその大学に赴任してくる。さらにそこには高校時代の友人の演出家も兼任教授として来ており、夫の浮気(離婚後に結婚を約束しているので浮気ではないかも)相手の女性教授もからんで、中年の四角関係となっていく。主人公には経済的問題はあまりなさそうなのだが、このドラマを見て、もう一度大学に通いたいと思う主婦もでるのではないか。何歳になってもやりたいことを見つけよう、何事も遅すぎるなんてことはないのだというのが、ドラマのメッセージならおおいにけっこうなように思う。
2026年08月25日
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司馬遼太郎の小説は「翔ぶが如く」、「坂の上の雲」あるいは「菜の花の沖」のような様々な史料を駆使した、いわば歴史ルポルタージュのようなものが多いように思っていたが、「風神の門」はずっと虚構に偏った小説らしい小説になっている。主人公の霧隠才蔵は伊賀忍者という設定で、非現実的な忍術物語が流行っている当時にしては、忍術の描写もかなり合理的とされている。しかし、それでも、今読むと、やはり非現実的だ。例えば白土三平の忍者漫画にはもっともらしい説明があったが、超高速で動くと同じ人が複数いるように見えるのが分身の術だというように、考えると不可能なのと同じだ。読み手として、どうも若さを失っているせいか、こういうファンタジー色の強い冒険ものには素直に入り込めない。しかし、それでも最後まで上下二巻を読ませるのは作者の筆力だろう。霧隠才蔵は、真田幸村に惹かれ協力をするが部下として忠義を尽くすわけではない。己の忍術の技量で、強敵を倒しながらたくましく戦国の世を生きていく。そして次から次へと現れる美女たちにやたらもてる。己の卓越した技量で生きる無敵の人物というと、どうしてもゴルゴ13を連想する。組織の窮屈さの中にいるサラリーマンにとってそういう人物は憧れかもしれないが、無敵な人物には感情移入しにくい。関ケ原から大阪夏の陣までも興味深い時代なのだが、この時代を扱った小説としては、今のところ「真田太平記」が一番面白いように思う。
2026年08月24日
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障碍者施設で働く16歳の少女が暴行の疑いで逮捕され、釈放後に衰弱死するという事件があった。勾留期間は18日間だったという。普通に暮らしていれば自分が警察に逮捕、勾留されるなんてことはほとんど考えないものだが、意外にこうしたことは誰の身にも起こりうることなのかもしれない。同じ警察署管内では、同級生の男児の〇〇に触ったと言って小学校六年の少女が三時間半事情聴取を受けたという例もあったというが、少女側の言い分だと「鬼ごっこのタッチ」であったという。そういえば、以前には滋賀県のスーパーで弁当を万引きした疑いで70歳代の女性が二日間勾留されたことがあったし、東京では、少女が匿名電話相談に父親の暴行の話をしたら警察が親子喧嘩の場に現れ父親を逮捕したこともあった。警察はこんなことまで迅速に動いて、厳格に市民の安全を守ってくれているのかと思うのだが、その一方で、北海道では、陰惨極まる性犯罪で被害を受けた少女の訴えが「悪ふざけ」と黙殺され、追い詰められた少女が死亡した痛ましい事件があった。さらにさかのぼると、埼玉の高校教師が出会い系でであった少女の背後にいた暴力団に脅され、金を奪われたうえ、惨殺された事件があったが、高校教師は拉致される直前に警察に駆け込んでいた。その際、警察官は、何かあったら来てくださいといったというが、その時点で、すでに部屋が荒らされ、金を奪われるなどの被害を受けていた。それは「何か」ではないのだろうか。いったい警察はどういうときに動き、どういうときに動かないのかその基準がよくわからない。そういえば、こんな話をきいた。古い靴を買い取るという案内電話かチラシがあったので、家にあった古い靴を並べて待っていたら男がやってきて、靴には見向きもせずに貴金属を買い取っていったという。似たような話で、不要な食器を買い取るとか、着物を買い取るとかいったものもあるらしい。配偶者に死に別れ、子供も巣立った家で、そうしたものをもてあましている家も多い。ただ、その買い取るという話を本気にして、いったん家に上げたらその後が怖い。話を貴金属など金になるものの買い取りに移し、売るまで立ち退かないということもあるらしい。結局はおそろしくなって、貴金属を安く売ってしまったという話もある。刑法には不退去罪というものが一応はあるのだが、こんなのは警察に電話をしても、警察官がやってくることはないのではないか。電話をして相手を激昂させるのも怖いのかもしれないし、こういう悪質買い取りのようなものはけっこう野放しになっているのではないか。
2026年08月23日
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ある時期まで東京やその周辺に育った人には共通の思い出がある。ユネスコ村への遠足である。世界中の変わった家の模型があり、特にオランダ風車が目玉であった。今だったらオランダ風車で客をよべるとも思えないのだが、当時はそういう時代だった。このユネスコ村は1951年に日本が国際連合教育科学文化機関(UNESCO)に加盟したことを記念して開園したもので、当時の日本の悲願は国際連合への加盟であった。本体の国連に先駆けてユネスコに加入したことは日本にとっては大変な慶事であった。もちろん1956年に本体の国連に加入したことはまさに悲願達成で、この国連加盟については、それを契機に恩赦が行われたほどだった。それ以来、日本では国連というものは非常に大きな存在になっていたように思う。その後の国連に対する日本の基本的態度は、国連中心主義という外交政策として表明された。小中学校の頃の社会科ではそんなふうに習ったのだが、今ではどうなのだろうか。国連本部は米国にあり、国連の中心は米国と言う状況はゆるがないようにみえたのだが、最近では米国の国連離れが起きている。組織は昔は考えられないほどに肥大化し、予算は膨張しているが、それに比して国連の機能は低下しているようにみえる。国際紛争に無力なだけでなく、コロナについても十分な役割を果たしたとも思えない。国連の分担金でみても、米国一位、中国二位となっているが、米国は費用負担を制限する傾向にあり、将来的には中国が一位となるのかもしれない。いずれは国連本部も中国に移転するとかといった動きもでてくる可能性もあるのではないか。なお、国連軽視について、トランプ現大統領を批判する向きもあるかもしれない。しかし、米国は民主国家であり、多くの有権者がトランプを選んだわけである。トランプ自身の支持は落ちることがあっても、再びトランプのような姿勢の大統領が選出されることはおおいにありうる。米国は分断と格差の激しい国であり、日本に声の届く都市知識階級と地方の労働者とでは、所得だけでなく、考えることもずいぶんと違うだろう。
2026年08月21日
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世の中には人種リアリズムという考え方があるという。それは、人種ごとに生まれつきの能力差があり、それが社会的格差を正当化しうるというものだという。そしてまた、一方では人種と言う概念は生物学的には存在しないことが証明されているともいう。英国で最近亡くなったアーディ氏についても、彼に対する非難を人種差別とする見方がある一方、人種リアリズムの視点で登用自体に疑問を呈する見方もある。実態はどうなのだろうか。まず、人種リアリズムについてであるが、オリンピックの基礎的な種目のメダル数や、自然科学系のノーベル賞やフィールズ賞の受賞者数に人種の偏りがありそうだというのはだれしもうなづくことだろう。IQも一つの指標にしかすぎないが、国別のIQ格差というものもある。これを見ると、極端な形質の出現数や統計的な数値には、遺伝的なものかどうかはともかくとして、なんとなく人種の違いというものはありそうだ。ただそれが個々の人にとってどんな意味があるのだろうか。21世紀になってから日本人のノーベル賞受賞者は非常に多く、それは誇らしいことではあるが、ノーベル賞を輩出する日本がすごいというのと、日本人である自分がすごいというのは別物だ。それにまた、統計にしてもそれはあくまで全体の傾向であって、個々人にあてはまるわけではない。結論からいえば、任意の白人が任意の黒人に対して、俺はお前よりも上だなんて思う理由は露ほどもない。次に人種と言う概念が生物学上存在しないというのも、どこまでを個体差、どこまでを種類による差とみるかだろう。生物で種類が違えば交配ができないし、できても一代限りだったりする。人種にはそういうこともないので同じ種だと言える。しかし、その一方で犬と狼も交配ができるが、普通は犬と狼は別物とされている。結局のところ、どこで線を引くかと言うことではないか。なお、冒頭の人種リアリズムにはちょっと危険な部分もあると思う。それは、「人種ごとに生まれつきの能力差があり、それが社会的格差を正当化しうるというものだという」ことは、結局は能力差による格差を正当化する。格差の原因にそれがあるにしても、格差を縮小するという視点が抜けている。世界のすべての人間の格差を縮小しようなんていうメルヘンを唱えるつもりはないが、国内においては、格差の少ない穏やかな安定した社会に住みたいと思う。そうした格差縮小の方向はもちろん能力を無視した登用などではなく、最低賃金、労働者の権利擁護、累進税による再分配、セーフティネットの構築などが主なものであろう。
2026年08月20日
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琵琶湖三市合同花火大会の中止が話題になっている。8月22日に長浜市、彦根市、高島市の三市で同時に花火を打ち上げるということで、有料席を販売したり、飲食店から出展料を集めていたという。花火大会を楽しむ人は多いのだが、ああいった行事はどこが企画してどこがお金をだしているかということはあまり気にしない。実際には地元の企業の協賛金やスポンサーによってまかなわれているが、最近ではそうした金も集まりにくく花火大会は減少傾向だという。そのため、最近では有料席を設置する場合も多いようだ。有名なびわこ大花火大会にしても、主催は実行委員会となっていて、これだけでは、どこの誰がやっているのかよくわからないが、有料席は有名になっている。琵琶湖三市合同花火大会も有料席となれば、さほど疑わずに購入した人が普通だったのではないか。この琵琶湖三市合同花火大会というのは、「三市合同」という名称が大きいように思う。三市合同という日本語には三つの場所で一緒にやるという意味があるので、虚偽を書いているわけではないのだが、さらっと読むと自治体としての市が共同で主催しているようにも読める。この三市合同と言う言葉で安心して金を振り込んだ人も多かったのではないか。また、三市合同とあることで、逆に、市に問い合わせる人も少なくなったのかもしれない。これが琵琶湖彦根市花火大会だったら、まず、市の広報に何も書いていないのはおかしいとか、市に問い合わせてみようとかいったことになるのだろうから。最初から金品を詐取するつもりであれば詐欺ということになるのだが、それなりの準備をしたが結果的に開催できなかったのであれば詐欺にはならない。もっとも刑事責任を問うたとしても金が還るかどうかは別の話だ。そして、返金となると、民事となるが、還る可能性の低い金ならあきらめるのが普通だろう。結局はこういう場合、金を出すときにはよく相手をたしかめるしかないのかもしれない。特に聞いたことのないもの、初めて聞くものには用心する必要がある。
2026年08月19日
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冬ソナの頃からなのだが、韓国ドラマには完璧な主人公が多いと思っていた。「明日も出勤」でも大手電子企業を舞台に家庭用AIの製品開発に邁進する男女の物語である。最初は地味でさほど美人にもみえなかったヒロインも次第に知的美女にみえてくる。ヒロインから見て嫌な上司であった男が、次第に理想的な上司であることが明らかになり、さらにヒロインと心が通うようになっていく。それが恋へと発展するのだが、ライバルがいるわけでもなければ、韓流ドラマによくある身分違いや出生の秘密などの恋の障害があるわけでもない。しいていえば、男性の離婚歴なのだが、それとても日本よりは気にする人がいるという程度である。また、製品開発といっても、泥臭さや大変さはあまり描かれず、おしゃれなオフィスでの業務が主であり、汗と努力といった場面はない。ヒロインの見せ場は英語での製品紹介である。いささか漫画チックなパワハラ上司以外は、登場人物は概ね良い人ばかりであるし、いってみれば敵役がいない。そのため、続きも気にならず、かといって、リタイヤするほどでもないので、最後まで見たというわけである。いわゆる韓国ドラマらしさを期待する向きにはおすすめしない。
2026年08月18日
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英ケンブリッジ大で黒人として同大史上最年少の教授に就任したことで知られるジェイソン・アーデイ氏が自宅で亡くなったという。41歳であった。彼については、最近、論文盗用疑惑が持ち上がっており、教授職を辞任したことも、死亡の背景になっているのかもしれない。彼は最年少の教授就任ということだけでなく、その経歴の異色さでも知られていた。自閉症により、11歳まで言葉を話せず、18歳までは読み書きができず、体育教師から出発して学術界に転じたという、学習障害を抱えた少年が英国最高峰の教授になるというサクセスストーリーである。論文だけでなく、この経歴にも疑惑がもたれているという。たしかに、普通に考えれば、18歳まで読み書きのできなかった人間が、高度な論文を読んだり、書いたりするというのは考えにくい。このニュースを見ていると、まるで人々が望む物語の主人公を皆で一斉に持ち上げて、そしてそれを一斉に叩いたような感じだ。英国では黒人人口に比して黒人の大学教授の比率が低くなっているという。これは米国などでも同様かもしれないのだが、黒人の大学教授登用を妨げているのは人種差別のせいであるとされ、そのため、多様性の尊重の視点からも黒人教授の登用が望まれていたのだろう。若く清新な人物の登用は大学にとっても大きな看板になったのかもしれない。そしてまた、彼には障害の克服と言う一般受けする物語もあった。彼の物語はよく考えてみると変なところもあるのだが、障害が大きければ大きいほど、それを克服した人物の話は受け手に勇気と希望を与える。彼はそんな感動的な物語の主人公でもあった。ただ、有名になればなるほど、スターになればなるほど、そのあら捜しをしようとする人も出てくる。皆が持ち上げる人物で批判しにくい場合であっても、いったん閾値を超えるといっせいの非難に転じる。この人ならいくら叩いてもよいという雰囲気になってくる。これはどんな社会であっても、共通に見られる現象なのではないか。黒人最年少教授の悲劇は、世間が望むポリコレや人種差別克服の物語、そして障害克服のサクセスストーリーの次に続く物語のような気がする。余談だが、自然科学を別にすると、世の中には政治的に正しい言説というものがある。黒人の知的労働者が少ないのは黒人が差別されているからである。女性が数学や科学を専攻しないのは、女性は自然科学に向かないという偏見があるせいである。さらにいえば、民主主義は最良の政治体制であるとか、一夫多妻は不道徳だとかも、それに近いのかもしれない。政治的に正しい言説が不動の真理であるかどうかはよくわからない。ただ、今の社会で賢く生きるにはこうした政治的に正しい言説も受け入れるしかないのだろう。
2026年08月17日
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戦争の反省という言葉はどこか曖昧だと思う。例えばスポーツの試合で負けた時、反省といえば、こうすれば勝てたとか、ここでのこういう判断が負けにつながったとかきわめてわかりやすい。試合に勝つという目標については誰も異議などあるはずはないからだ。これに対して戦争の反省とはなんなのだろうか。これには四つほどの種類があるように思う。1戦争に負けた個々の原因についての反省。スポーツの負け試合を反省するのと同じで、この作戦は無謀だったとか、全体に補給を軽視していたのが問題だったとかいう議論である。この反省はわかりやすい。2そもそも勝てない相手に勝負を挑んだことについての反省。無謀な戦争を起こしたとか、明治まではよかったのに昭和は駄目だったといった議論は、言ってみれば米英のような強い相手と戦争をしたのが間違いだったということであろう。戦争の反省と言う場合、少なからぬ場合、この意味で使われているようにみえる。強い相手に戦争をしかけた太平洋戦争は反省するけど、それ以前の戦争は反省しないということなのだろうか。3先の大戦は日本がしかけた侵略戦争であり、勝敗ではなく、侵略を行ったことについての反省。東京裁判史観がこれにあたるのだろう。侵略といった場合、それは太平洋戦争で突然始まったわけではなく、その前の日中戦争、満州国建国、シベリア出兵…というように、近代日本の歴史そのものが侵略の歴史でもあったともいえる。しかし、近代日本の歴史は同時に、非西洋の国が近代化に成功した輝かしい歴史でもある。今ではあまり言わなくなったのだが、子供の頃は明治維新は「世界史上の奇跡」と言われていた。光と影は不可分に結びついている。近代日本の歴史で何を反省し、何を誇るべきなのだろうか。4ナチスの蛮行を反省するのと同様に、日本の蛮行に対する反省。日本による蛮行としては、南京大虐殺、七三一部隊の人体実験、真珠湾の奇襲攻撃などがあたるだろう。もっとも、日本国内だけかもしれないが、これらの事実については異議を唱える人々もいる。以上のように反省といってもいろいろな意味がある。先の大戦について反省という言葉を使う人に対し、いったいその反省はどの意味ですかと聞いてみたいものである。
2026年08月16日
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トルストイの後期短編の「なんのために」を読んだ。1830年のポーランド蜂起を背景に、流刑になったポーランド貴族とその妻を描いたもので、ロシア人の作家がこれを書き、これが出版されていることの方に驚く。物語は最後まで、ポーランド貴族とその妻の視点で描かれており、ドイツ人よりもさらに嫌いなモスコーク(ロシア人のポーランド語での蔑称?)による支配がポーランドにとっていかに反発をかうものであったかが描かれている。ウラル地方に流刑になった貴族を追って彼を慕うアリビーナも同地に行き、二人の間には子供も生まれる。しかし、医療事情の悪さもあって、子供たちは死に、夫婦は流刑地からの逃亡を図ったものの、途中で見つかり、今度はシベリアに流刑となる。夫婦の逃亡を見つけたコサック兵は、逃亡の告発がよかったのかどうか悩む。不条理な運命、人生の苦しみはいったいなんのためなのであろうか。一方、そんな苦しみとは無縁で、最後まで自分は偉大だと信じていた人もいた。物語の最後はこういう風に終わる。 彼(ニコライ一世)は「心から自分が偉人であること、自分の生涯は人類にとって、とくに自分が無意識のあいだに全力をその堕落と痴呆化に向けたロシア人にとって、偉大なる福祉であったと信じてしまった。」(中村白葉訳)余談だが、ロシア支配下のポーランドの惨状については明治期から日本でも知られていた。岩倉使節団は行くときは一緒であったが、帰りはばらばらで、その中で木戸孝允は最後まで欧州に留まっていた。その間、ポーランドで、元は相応の身分だったらしい老人が物乞いをするのを見て衝撃を受けたという。これについては1893年に波欄ポーランド懐古という日本の歌まである。戦前は何でも歌にしていた。今では忘れられているのだが検索するとちゃんと出てきて聞くこともできる。ロシアの西隣の惨状は同時に東の隣国である日本にとっての警鐘と受け止められていたのかもしれない。歌ができたのは日清戦争の前年、ロシアの脅威を強く意識していた頃である。
2026年08月14日
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子供の頃、「グッドバイ」という童謡があった。そういえば、この歌はその後は忘れられたようだと思って調べてみると、1937年に世に出た歌らしい。戦後のアメリカ人気の中で生まれた歌だとばかり思っていたが、戦前というのが意外な気がする。会社に電車で通勤する父、原っぱで遊ぶ友達、街から来たおばさんにグッドバイとあいさつする歌詞になっている。当時の都市中産階級の子供向きに響きのよい外国語の挨拶を取り入れたのが目新しかったのだろうか。それとも、グッドバイという挨拶は、当時の日本でもある程度普及していたのだろうか。この後に英語が敵性外国語などといって追放される時代がくるなんて信じられないのだが。このグッドバイは出勤する父やお昼で家に帰る友に使われており、また会いましょうくらいの軽い別れの歌になっている。しかし、本来の英語のグッドバイには決別という意味があり、二度と会うことはないというニュアンスがある。いろいろな国の言葉には別れの挨拶を、すぐに会える別れと、決別という意味の別れとで表現を変えていることがある。日本語の「さよなら」にはそこまでの区別はなく、小学校の頃などは、学校で授業が終わると先生にさよならと挨拶をしていた。ところが、日本語でも、最近はこのさよならは決別の意味でつかわれることが多くなっているという。昔、なにかの洋画で、悪役が主人公を殺した時に、サヨナラと日本語で捨て台詞を吐く場面があったがそんなものも影響しているのかもしれない。また、流行歌の歌詞でさよならを恋人の別れの言葉に使う例があり、この影響もあるのかもしれない。いずれにしても、さよならは、友人同士が単に別れるような気楽な場面では使われにくくなっている。こうした意味の変遷を考えると、病院のお見舞いで帰るときなどでは絶対に使わない方がよいだろう。
2026年08月13日
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行くたびに衰退しているなと思う町がある。某市である。日本全国そんなところはいくらでもあるのかもしれないが、シャッター通りが目立ち、櫛の歯のかけるように空き地があり、チェーン店もほとんどみかけない。人口は急減し、かつては県でも有数の市だったものが、今では小さな町ほどでしかない。ダウンサイジングする日本の縮図を見る思いだ。この市のように、賑わいの場が完全にシャッター通りになり、商店街ともいえなくなったものもあちこちにあるのだろうけど、商店街の衰退にはいくつかのパターンがあるように思う。完全廃墟型 商店街を支えていた社宅などが撤退したため、看板等は老朽化していないのにシャッターを閉めた店ばかりとなるもの高齢化型 医院とか薬局とか高齢者の需要が多いものだけが残っているもの観光地型 観光客の集まる蕎麦屋などの名物料理店だけが繁盛し、後はシャッター通りになっているか、普通の住宅になっているものそのほか、一見して元気のよい商店街でも、食べ物屋や総菜屋ばかりで、総菜も家に持ち帰るよりも、その場で食べるのが主になっていたりする。生活のための商店街と言うよりも、それ自体が観光地化した商店街である。今は、買い物袋を下げて夕食の準備をするなんていう時代でもないし、生活に必要なものはスーパーや量販店で買うのかもしれない。コンビニ、スーパーなどの商店が成立するにはある程度の人口集積が必要で、それがなくなると、店が撤退し、それが買い物難民をうんで、ますます人口減少に拍車がかかる。冒頭で書いた街はかつては地方の中核都市だったものが急激に衰退している例なのだが、一戸建て志向が強いころに人口が急増した地域では、高齢化とともに、空き家が増え、スーパーも撤退して、限界集落化しているところもある。
2026年08月11日
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不思議の勝ちはあっても不思議の負けはないという言葉がある。これは野球監督の名言ともいわれるが、ネットで見るとどうやら平戸藩第九代藩主で剣術の達人でもあった松浦清という人物の言葉であるらしい。勝負は一方が勝てば一方が負けるものなのだから、不思議の勝ちは相手からみれば不思議の負けということにならないかとも思うのだが、自分に甘い人間はついつい勝ちは実力、負けは運が悪かったと思いがちでもあるので、それをいさめた言葉なのかもしれない。そろそろ終戦記念日なのだが、先の大戦くらい、不思議でない負けはない。個々の戦闘では、並外れた働きをする英雄や天才級の軍師がいたとしても、結局のところ、最後に勝敗を決するのは経済力であり、それを支える国力だろう。昔も今も変わらない。あの時代、日本と米国の間には隔絶した経済力の差があった。日本では自動車所有など相当の金持ちでなければ持てなかったのだが、「怒りの葡萄」では労働者一家がトラックにのって移動をしていた。総天然色のディズニーのアニメも戦前にはすでにできていた。彼我の国力の差はエリートほど認識していたはずなので、開戦の報を聞いて大変なことになったと思った人も多かったことだろう。戦死や戦傷はもちろん、空襲被害や原子爆弾、ソ連参戦による悲惨やシベリア抑留を思うと、なぜもっと戦争を早く終わらせることができなかったのだろうかと思う。いや、それどころか日中戦争の時点で、軍事行動を終わらせることもできたはずなのだが、「英霊に申し訳ない」という典型的なサンクコストの誤謬で戦争終結ができなかったのも残念だ。東京裁判では多くの人が、実は自分は開戦には反対だったといった趣旨のことをいったというが、まんざら嘘を言っていたわけではないだろう。無謀な戦争だということは、指導層の多くが知っていた。それなのになぜ始めたのだろうか。そして講和の前の「決定的勝利」なるものにしても可能性が薄いことも知っていただろう。それなのに、なぜもっと早く戦争を終わらせることができなかったのだろうか。本来やるべき国民の側からの責任追及にしても、「一億総ざんげ」という言葉、つまり皆が悪いのだから誰も悪くないという言葉でうやむやにされ、戦争の名称すらも「先の大戦」とか「あの戦争」でぼかされ、敗戦とか占領と言う言葉も終戦や進駐と言う言葉でぼやかされた。戦後81年。そして今日は長崎原爆とソ連参戦の日。
2026年08月09日
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トルストイ後期の短編「壺のアリョーシャ」を読んだ。働き者の下男の物語で、給金は父が受け取り、料理女との結婚は反対され、最後は雪下ろしの事故でなくなってしまう。それでもアリョーシャは誰を恨むこともなく、あの世もそんなに悪いところじゃないだろうと平穏なうちに死んでいく。壺のアリョーシャと呼ばれるゆえんは子供の頃壺を割ってしまったので、そんなあだ名をつけられた。短いのだが、印象深く、爽やかな読後感のある小説である。アリョーシャの人物像は同じ作者の「イワンの馬鹿」のイワンにも似ているようだし、宮沢賢治のでくのぼうにも似ている。また、遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」のミツにも通じるようである。周囲からは馬鹿のように思われ、軽く扱われるのだが、それでいて、無私の境地に生きる人間とでもいうのだろうか。意地悪い目でみれば、アリョーシャは作者の家で料理人の下働きをしていた下男をモデルにしたというのだが、作者は彼と友人であったわけではない。同じ人間として接したというよりも、別世界から善良な庶民の代表として彼を観察し、描いたように思う。ちょうど「戦争と平和」の理想化された農民出身の兵士のように。それくらい当時のロシアでは貴族階級と農民階級が隔絶した存在だったというわけだろう。現代の米国をグロテスクな格差社会というが、帝政ロシアはそれに数倍するグロテスクさであった。皇帝一家が世界の富の一割を保有する一方で、多くの人口を占める農民は無知のままにすえおかれ、日露戦争ではロシア兵士の捕虜の多くは自分の名も書くことができなかったという。革命という形のハードランディングは起こるべくして起きたのだろう。余談だが、アリョーシャという名はロシアではよくある名で、普通、アリョーシャと言うと、連想するのは、「カラマーゾフの兄弟」の三男ではないのだろうか。佐藤愛子の「血脈」は一族のことをこれでもかと書いた力作なのだが、その中で佐藤紅緑が死んだ後の遺産争いについても描かれている。佐藤紅緑の才能を受け継いだ幸運な子供はサトウハチロウと愛子だけではなく、芸者の子の大垣肇も劇作家として名をなしている。遺産が問題となったとき、大垣肇が遺産相続を辞退すると、愛子と元女優だった母との間で、肇のことをまるでアリョーシャみたいだという会話がはずむ。まったくげんきんな話なのだが、そんなことまで描いているのが「血脈」の面白さだろう。ここでいうアリョーシャはもちろんカラマーゾフのアリョーシャで、母子の間ではそれで話が通じたのだった。
2026年08月06日
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大阪でスーパー前の路上で包丁を持った男に警察官が発砲し、男が死亡するという事件があった。こうした事件が起きると、必ず、警察官の銃の使用の是非を問う議論が起きる。大昔のシージャック事件では犯人射殺について、広島県警本部長と狙撃した巡査部長をわざわざ刑事告発までした御仁(弁護士ら)までいたくらいだ。今回はまさかそういうのはでてこないとは思うのだが。こういう議論を見るといつも思うのは、銃使用を批判する人は、じゃあ、自分が銃なしで刃物を持って向かってくる犯人に対峙できるのですかと問うてみたい。安全地帯から、理想論をふりかざし、むやみな批判をするの無責任どころか有害と言うものだろう。いつの世も社会を害するのは悪意ではなく、偽善や現実無視の理想論のように思う。警察官も、逮捕術とやらで、警棒などで確保する訓練をしているにしても、実戦は別だろう。いくら防刃チョッキをきていたって顔は無防備だ。ましてや今のように国際的に人が移動する時代には、本国で軍隊経験のあるような人までがやってくる。ちなみに大昔のシージャック事件では、狙撃した巡査部長は結局辞職することになったのだという(ネット情報)。犯人射殺によって人質となった多くの乗客の生命や人生を救ったかもしれない英雄なのに、酷い話である。また、左胸ではなく、脚を狙ってはと言う議論もあるかもしれないが、普通に考えれば手足に充てるのは至難の業だ。胴体を狙ったところ左胸に当たったということだろう。スーパー前の午後7時と言えば人通りもあるだろうし、流れ玉が通行人に当たるような事態はさけなければならない。報道によると刃物を持った犯人は血だらけだったという。他に殺傷事件を起こしている可能性もあるかと思ったが自分の血だったという報道もある。米国などでは警官を使った自殺という犯罪類型があり、通り魔事件を起こして警官に射殺されることで、自殺をするという事件があるという。これからも無敵の人(職や人間関係など犯罪で失うものを持たない人)が増えるにつれ、こうした事件が日本でも普通になっていくのだろうか。
2026年08月05日
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皇室典範の改正についてはいろいろな人がいろいろな意見を言っている。改正の趣旨は旧宮家から養子を迎えることによって、将来的に男子が生まれない事態になっても、男系男子が続くようにするというものであろう。これに対しては女性天皇を認めないのはおかしいとか、女系天皇を認めるべきであるとか、男系男子というものは虚構ではないかといった批判がある。ここで不思議でならないのは、こうした意見をいう人々の天皇制に対するスタンスがはっきりしないことである。天皇制について、廃止すべきという人は別にしても、絶対存続すべきという立場と、場合によってはフェイドアウトもあるのではないかという立場とがある。後者についてはさらに濃淡の差があるのかもしれない。これと前述の旧宮家からの養子の是非、女性天皇や女系天皇の考え方、男系男子についての考え方はつながっているように思うのだが、あまりこれにふれた報道はない。世界をみれば、欧州の王室には女王を置くところが多い。ただし、欧州には貴族制度があり、ハプスブルグ家などの名門も存続している。詳細は知らないが、王室の多くは外国の王室や貴族から配偶者を迎える場合が多いのではないか。一つの名門家族がいくつもの国の王家につながっていることもあるようだし、一つの国家で一つの王家というわけでもない。もっともその欧州では、最近では、王女がアメリカの霊媒師と結婚したり、王太子の連れ子が性犯罪を犯したりといろいろな話題があるようである。
2026年08月04日
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日本の超高層ビル第一号は霞が関ビルである。このビルの建設は大変なニュースで「超高層のあけぼの」という映画までできていたと記憶する。ちょうどその頃、従兄家族も東京にやってきたので、皆で新名所の霞が関ビルを見に行こうということになった。そこそこ高いところから見た景色はよく「車がマッチ箱のようだ」と表現されていたのだが、霞が関ビルから見た自動車はマッチ箱どころではない。展望スペースはそれ自体が観光名所でビルの形をした霞が関ビルチョコレートなるものまで販売されていた。それからも高層ビルはどんどん増えていった。京王プラザホテルや新宿三角ビルなどだが、三角ビルにも展望スペースがあり、こちらはよく行ったものだ。高層ビルからの眺めは好きなのだが、無料で展望できるところと言うのはどうも限られている。展望自体が有料なところ、レストラン等を利用しないと入れないところ、そもそも一般向けの展望スペースがないところがほとんどのように思う。霞が関ビルにしても、一般向けの展望スペースというのはいまでもあるのだろうか。思いつくままに無料の展望スペースをあげていくと、新宿三角ビル、文京区シビックセンター、恵比寿ガーデンプレイス、汐留カレッタ、東京都庁展望室といったところだろうか。ただし、シビックセンターは改修工事のため、現在は閉鎖されているようだ。東京都庁展望室は圧巻なのだが、いつも外国人観光客で混んでいて、列に並んでエレベーターに乗るまでに時間のかかることがある。
2026年08月03日
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たまたまそういうところが写っただけなのかもしれないが、何年か前に台湾で地震が起きた時、避難所には家族ごとのテントが設置されているのに驚いたことがある。しかし、よく考えれば人間が生活する上で区分された空間は必須でテントがある方が普通なのだろう。今度の熊本地震で避難所の映像が流れたが、日本はあいもかわらぬ雑魚寝のようだ。着替えなどをする空間のプライバシーが確保されていないというのはかなりのストレスであり、なぜ台湾のようなことができないのか不思議でならない。世の中には愛国心を唱える人は多い。しかし、愛国心とは、突き詰めればこの社会を愛し、よくしていこうという心ではないのだろうか。いくらこの国は素晴らしい国だと言ってみても、現実の社会が欠陥だらけではしょうがない。そうであるならば、この社会を支えている人々に十分に報いること、感謝することこそが愛国心の神髄であるように思う。今でも、熊本の地震では、不明者捜索や復旧のために多くの人が働いている。国では、防災庁なる役所を新設するというのだが、そのために多くの公務員ポストを造り、多額の税金を投入するのであれば、同じ税金を自衛官の災害出動手当てに使った方がよいのではないか…と思う。ところで不思議なのは、愛国心というものは、それを強調すればするほど、非国民探しそして非国民糾弾になっていくのはなぜなのだろうか。国に対する愛が、同国民の中での排除や排斥につながっていくわけである。その時代を生きていたわけではないのだが、戦前の社会のいきぐるしさは、そんなところにあったのではないかと思う。
2026年08月02日
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最近読んだ小説「下流の宴」の中の登場人物にこんな女性がいた。美貌に自信があり、最初から高収入の男をゲットして専業主婦に収まることを狙い、そのための人生設計をたてている。高偏差値の学校を狙ったり、自立できそうな職業を目指すことは初めからせず、イメージのよい女子大で婚活に励む。昔はこんな女性は珍しくなかった。いやけっこう普通だったのではないか。そうした女性が減ったというのも、ここ何十年かの社会変化で大きなものの一つかもしれない。女子高が進学校として名をはせるようになったのもこれと連動しているのだろう。もともと男子進学校に入る子と同等のレベルの女子が本格的に受験戦争に参入しだしたわけである。医師と結婚したければ、合コンに励むよりも、自分が医師になる方がよい。医師に限らず、高スペック男性を狙うなら自分もその中に入った方がよいというわけである。もちろん婚活が人生の最大目標でないにしてもだ。そのためかつては硬派で男の世界?とされた政治経済あるいは国際情勢といった分野でも女性の専門家は普通になっている。ただこうしたものは過度期がある。硬派な世界は男ばかりが当たり前と言う時代と、女もいて当たり前という時代の中間があったように思う。お堅いテーマのシンポジウムや座談会、あるいは対談で、男ばかりでは彩に乏しい、女性がいればよいのだが…という時代である。それは専門家でなくともよいが、美しく頭のきれる女性で、中身のある発言は期待しないが、適度に話に入ることができればよい。ある時期、そうした知的タレントの需要が高まったように思う。これはその後の女子アナのタレント化にもつながっていくと思う。一方、そうした知的タレントの需要が高まったのは同時にタレントの志望者も増えていたということでもあった。単に英語ができて、有名大学を出た美人というのなら、いくらでもいる。それにひきかえ、多少盛った経歴でも、特異なものがあれば有利になる。こうした知的タレントは、シンポジウムに花を添えるだけでなく、政財界人とのインタビューや対談でもひくてあまたであった。そんな時代もあったわけである。
2026年08月01日
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