全694件 (694件中 251-300件目)
< 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 ... 14 >
さる方のブログに、このままでいけばコロナは10月7日には収束するとあった。ただし、減少が少し緩やかになったために第6波があるとしたら波の底は10月2日になると予測している。https://plaza.rakuten.co.jp/turbo717/世界的にみても、大きな流れでは減少傾向にあり、このまま収束あるいは人類との穏やかな共存となればよいのだが、予断を許さない。ただトンネルの向こうに光が見えてきたことは事実だろう。そこでちょっとコロナ後を考えてみる。コロナで生まれたものや消えたものの中には、コロナ前に戻るものとしばらくは続くものとがある。まず、マスクや手指消毒の習慣はしばらく残るだろう。コロナは収束しても、感染の再拡大や変異株、新たなウィルス性疾患の不安はしばらく残るだろうから。同様の理由で、電車内や公共の場所で大声で談笑するようなことも影をひそめるかもしれない。もともと周囲への配慮を欠く行動で、マナーとして定着していくわけである。冠婚葬祭の小規模化ももとには戻らない。もともと兄弟数が多くその兄弟がそろって成人するという特異な世代が退場するとともに、親族付き合いも減ってきているし、職場関係者が冠婚葬祭に参加する習慣も薄れている。コロナは今までにあった潮流を加速化したにすぎない。会食は復活するだろうが、アクリル板はしばらくのこるかもしれないし、斜め着席も定着するだろう。新たな需要として家族での外食やお一人様外食などはもっと増えても良いと思う。単独世帯や二人世帯は今後も増えるのだろうから、需要としてはあると思うのだが。旅行はリベンジ消費というのも考えられるが、観光バスでの旅行や海外旅行の復活は時間がかかるかもしれない。観光地で行くまでは車の大渋滞というのが、以前より増えたように思うが、公共交通を避け、自動車での旅行が増えているのだろう。キャンプをやる人や釣りをする人も多くなったように見えるが、これも密をさけたレジャーが人気を集めているのかもしれない。職場では、テレワークもそこそこに定着するが、出張は減っていく。テレワークで従来通りの能率を上げるというのは、特定の職種に限られるのだが、そうした人の中には郊外の住宅に拠点を移す人もいるだろう。一方、テレビ会議は遠隔地でも実際に会うのとほとんど変わらない効果があるので、わざわざ出向く必要はなくなる。といろいろ考えてみたのだが、さてどうなるのだろうか。
2021年09月26日
コメント(16)
現代世界には「リベラル能力資本主義」と「政治的資本主義(権威主義的資本主義)」とがあるという。詳細は検索をすればすぐに出てくるのであるが、この場合のリベラルというのは政治的に自由ということで、左派に使用されるリベラルとは意味が違う。日本はいうまでもなく、リベラル能力資本主義の社会で、ここで、古典的資本主義を前提とした「階級闘争が~」といったって響くわけがない。リベラル能力資本主義では、生まれた階級がどうかということよりも、生まれついての能力やそれを基盤に努力で獲得した能力の方がはるかに重要である。そしてこの「リベラル能力資本主義」では、能力や才能とは関係ないものによる差別はなくなっていく。男女や人種による差別がそうで、今や能力のある黒人女性が政府高官になったとしても、かつてのような驚きはない。LGBTによる差別だって同様だろう。それではこうしたリベラル資本主義下ではかつての古典的資本主義や身分制社会のような生まれながらによる差異はないのだろうか。やはり親が莫大な資産を蓄積すれば、子供に恩恵があるという意味での差異はある。そしてもう一つは遺伝的な能力継承によるものもあるかもしれない。男女差別の薄れたリベラル資本主義の下で起きることは顕著な同類婚の増加である。配偶者を選ぶ際に身分や財産ではなく、自由に交際して自由に配偶者を選ぶようになれば、自然に同じ世界で話の合う相手を選ぶようになる。リケ女はリケ男を、アスリート女はアスリート男を、医師は医師同士、音楽家は音楽家同士という結婚が多くなる。女性が自由に才能を伸ばし、活躍できる社会では必然的に起きることだろう。最近、五輪だけではなく、他の分野でも若く才能ある人の活躍が目立つが、これもそうした同類婚の増加と関係あるのかもしれない。ただ、財産や身分と違い、能力や才能は受け継がれる確率が高いというだけで、個々のケースを見れば、必ずしも受け継がれるというわけでもない。隔世遺伝もあれば突然変異もあるのが遺伝というものである。同類婚のエリート家庭で重圧でつぶれる子供や兄弟格差の中でゆがんで育つ子供も増えていくのかもしれない。今までもエリート家庭の悲劇のような事件があったが、今後もそうしたものが社会問題の一角となってゆく可能性もある。
2021年09月25日
コメント(8)
最近親ガチャという言葉がネットで流布されているという。ソシャゲーのガチャに例えて、子供は親を選べない、親によって当たり外れがって、それで人生が決まるということらしい。この言葉は親ガチャに当たったという人は、あまり使わず、主に外れたという人が言っているように見える。これは使う人によって親の社会的地位や財力、養育態度を指す場合と、もっと広く能力才能など「親から貰ったもの」全般を指す場合とがあるようだが、前者の意味で使う人の方が多いようだ。親ガチャには当たったけど肉体ガチャは大外れを引いた…というように。こんな言葉が流行る背景は何なのだろうか。今のような、能力主義社会(リベラル能力資本主義)は、自己責任論と表裏一体で成功できない場合には自分に能力がないという現実に向き合わなければならない。しかも技術が進歩し、社会が複雑になればなるほど成功できる人は一握りになる。身分社会はそれなりに安定するというが、それは諦観の中で自分の能力とかそういったものには向き合わずにすむからだろう。生まれついての貴種が贅沢三昧をしていたとしても、あまり嫉妬の感情は起きないものである。親に社会的地位があれば、親に金があれば、自分ももっと成功できたはずだという親ガチャの考えは、今の世の中を能力主義社会ではなく、一種の身分制社会と思うことで精神的安定を得る手段のように思う。親の収入と学力との相関が喧伝されるのも、これと同根だろう。実際には相関関係は因果関係とは別物である場合が多いのであるが。また、親ガチャは社会的地位や財力だけでなく、養育態度の問題を意味して使われることもある。これも最近言われるようになった毒親という言葉と同根である。自分の子供時代を思い、そして自分も親になって実感するのだが、世の中に完璧な人がいないように、親も完全な人間でない。三面記事の児童虐待のような極端な例はともかく、親の不完全なところはむしろ反面教師として成長していけばよい。完璧な親なんていれば、それもまた窮屈で嫌なものであろう。広い意味での親ガチャ、つまり突然変異的なものも含めてであるが、生まれついての能力才能、容姿、健康などでの差異…人生の上では、実はこれがかなり決定的であろう。しかしこれは親ガチャと言って親の責任にするのは筋違いであるし、自分から能力がない、才能がないと諦めてみてもよいことなど一つもない。努力すれば夢がかなうというのは嘘っぱちであるが、努力によって得られるものはあるし、そうして得られるものがあるような努力をするのも人生の知恵である。まあ、そんなわけで親ガチャという言葉には、ちょっと批判的なのであるが、親ガチャがあるのであれば、子ガチャもあるのではないか。あの元次官などは自身のガチャは当たりくじだったが、子ガチャで、はずれをひいてしまったということだろう。どんなガチャがでても、子供がまともに就職するのがあたりまえの社会ならよいのだが、今のようにそうでなければ子ガチャをひくのに不安だという人も多いのかもしれない。出生率の低下の背景には案外こうした子ガチャ不安があるのかもしれない。
2021年09月24日
コメント(12)
コロナ第5波が急速に収束している。今回は緊急事態宣言でそれほど人々の行動が変容したとも思えず、もしかしたら人為とは関係なく、今までの波も考えると、4か月くらいで収束していくものなのかもしれない。9月からは学生の新学期も始まり、その限りでは人流は増えているはずなのに、それで増加しているようにもみえない。そうなると、この減少傾向が第5波前の谷くらいまで行くのか、それとも、もっと高いところでとどまるのか、逆に第5波前の谷を越えて真の収束に向かうのか、実際のところは誰にもわからない。世界的に見ても感染が収束しつつあるとはとてもみえないのだが、英国では感染者数は多いものの死者数はかってほどではないし、イタリアでは大きな波はやってきていない。ワクチンが実用化し、普及したことで、コロナの性格も変わってきたのかもしれない。最近の欧米の映像などをみていると、もうやってられるかとばかりに、思いっきり密に生活を楽しんでいるような場面が多い。完全終息がもちろんよいにこしたことはないのであるが、次第にコロナと共存していくような緩やかな収束もあるのかもしれない。この間、鎌倉に行ってきたが、人手はかなりのものだった。高齢者が目立ったのは、観光地の性格なのかもしれないし、ワクチンの普及によるせいなのかもしれない。ただ外国人観光客がほとんどいないことと、団体客の姿がなかったことは、コロナ前とは違う。鎌倉は寺社の多い町で仏事やお祝いの集まりもあるのだろうけど、そうしたものもコロナ禍でずいぶんと減っている。今ではすっかりあたりまえになった入り口での検温やあちこちに置かれているアルコール消毒器、そして飲食店でのしきりであるが、こうしたものは1年後にはどうなっているのだろうか。
2021年09月23日
コメント(11)
雨の名前には数百以上のものがあるという。思い立って調べてみると、今まで意味を知らなかったり、間違って記憶しているものもいくつかある。たとえば村雨という言葉。里見八犬伝には名刀の名前として出てくるが、さて、そのもとになった村雨というのは村に降る雨くらいの意味だと思っていた。よく俳画などに、雨の中に藁ぶきの民家が並んでいるようなのがあるが、ああいったイメージである。ところが実際には村雨は叢雨とも書き、ざっと一時的に降る強い雨のことだという。叢には集まっているという意味があり、群れとか村も同じ語源なのだろう。それにしても村などという字をあてるから紛らわしい。また、時雨という言葉も、なんとなく梅雨に対して秋雨前線の雨を時雨というのだと思っていた。実際には秋から冬に向かう頃の弱い雨をいうのだが、それでは、梅雨、時雨に対するような初秋の雨の呼び名がないのが不思議だ。まあ、秋雨という名があるではないかということなのか。世に経るは 苦しきものを 槙の屋に やすくも過ぐる 初時雨かな経ると降るとをかけ、多少理屈の勝った歌という感じがするのだが、憂愁に満ちた雰囲気がよく、昔から好きな歌であった。ただ季節は昔思っていたような秋のはじめではなく、晩秋ということであろう。歌のイメージも少し変わってくるようだ。なお、作者も間違えて記憶しており、式子内親王と思っていたが、二条院讃岐という別の女性であった。この間は、数を0で割ることができないという説明をyoutubeで見て、なんでこんなことを今まで知らなかったのかと、われながらあきれたが、本当にいくつ年齢を重ねても知らなかったことは山ほどあるものだ。
2021年09月10日
コメント(8)
菅総理の退陣表明の後で株価があがっているという。普通はこうした場合、政局の混迷をみこして株価は下がるのに逆である。おそらく、菅総理の退陣で政権党はますます盤石になる…と市場は判断したのではないのだろう。たしかに菅内閣支持率は低下の一途なのだが、野党の支持はさっぱりあがっていない。コロナの第五波が今のところピークアウトしたようにみえることも、政権党にとっては有利だろう。第五波で終わるとは思えないが、一応収束した後の次の波であれば五輪との関係はあまり意識されない。国体も中止、東京マラソンも中止という報道をみると、なぜあの第五波の大波でオリンピックパラリンピックをやったのかは不思議なのだが。
2021年09月08日
コメント(26)
この年になるまで知らなかったということが世の中にはあるものである。別に遠い世界のことではなく、すごく身近なことであるにもかかわらず…。youtubeで映像を辿っていて、たまたま「0を0で割るとどうなる」という映像を見つけた。かわいらしいひよこのキャラを使ったもので、内容は小学生でもわかるようにできている。そういえば、小学校の時、この映像と同じように「0で割ることは禁止されている」と教師に教わった。でも、「禁止されている」というのはちょっと変だと子供心にも不思議に思ったものだった。禁止するというのは誰かが禁止しているわけで、そうだとしたら、それは誰がどうやって決めたのだろう。禁止なら破ることもできるわけで、じゃあ実際に0で割ったらどうなるのだろう。禁止していない世界があるのだろうか。そしてこんな風に考えたものだ。割り算というのは何回引けるかを考える計算だ。10個のものを2つずつとれば5回だから答えは5。3つずつ取ると3回で一つ残るのだから3あまり1。もしも0で割ろうとしたら、0を引いていって、何回引けるかを考えるのだが、0は何もない数なので、何回引いても減るわけがない。だから答えはどんどんと大きな数になっていって、そんな大きな数の回数分引いても全く減らないので最後は名前のない数になってしまう。だから「禁止」しているのだろう。そんなふうに考えて、その後は深くも考えてみたこともなかった。ところが実際はそうではなかった。0を0で割ると答えはすべての数となり、ある数を0で割ると答えはない。割り算を何回引けるかを求める計算と考えるのは間違いで、10割る2というのは、2にある数をかけると10になるときの、その「ある数」を求める計算である。たしかに2に5をかけると10になる。ということは、0割る0というのは、0にある数をかけると0になるという数を求めるわけで、これはすべての数があてはまる。また、0以外の数を0で割るということは、0にある数をかけると0以外の数になるわけで、そんな数は存在しない。なるほど…。こうしたことって小学生も含めて世の中の人のほとんどが知っているのだろうか。知らないのが自分も含めてごくごく少数だとしたら恥ずかしくって人生本当にやり直したい。同年輩の人で、なぜ四季があるのか知らない人がいてすごく驚いたことがあるが、自分もどうやらその類なのかもしれない。嗚呼
2021年08月20日
コメント(23)
女子ボクシングについてさる著名人が「嫁入り前のお嬢ちゃんが顔を殴りあって」と言って猛反発をくらっている。問題の番組はお気楽な娯楽対談番組で、別に局の意見をうちだすとかそういうものではない。だから一方の発言を一方がたしなめる…というのも対談の面白さだろう。いかにも昭和オヤジ的な発言があっても、それはこうした対談番組では許容範囲ではないか。たぶん普通ならこういう発言の後で、相手がそんなのは時代遅れで今やボクシング女子はかっこいいくらいのことを言ってフォローすればなんの問題もなかったのだろう。問題があるとしたら、「嫁入り前のお嬢ちゃん」という言葉である。これは社内のOL(死後?)に言ったら失礼きわまるセクハラ発言になるのだが、押しも押されもせぬボクシングチャンピオンに言うのだから、むしろジョークの類だ。この発言については、ボクシング連盟が抗議したりして、問題が大きくなっているが、これでテレビの対談やコメントは一層つまらないものになるのに違いない。120%のきれいごとの建前論なんて、わざわざ時間をつぶして聞きたくもない。話は変わるが、パラリンピックについて小中学生の観戦が予定されているという。オリンピックでやらなかった学校単位の観戦をなぜパラリンピックでやるのかさっぱりわからない。感染状況は極めて深刻で、感染爆発という様相を呈しているのに、マイクロバスをしたててわざわざ集団で移動する。「人流」抑制が要請されているのに、そんな必要がどこにあるのか。教育的意義をいうのであれば、テレビ観戦の呼びかけでもよいように思うのだが。
2021年08月17日
コメント(21)
東京の離島に行くには船で行く航路の他に飛行機で行く方法がある。そうした飛行機は調布市にある飛行場から発着する。たまたまその近辺に行ったので調布空港の建物をのぞいてみた。例年ならばきっと夏休みを離島で釣りや海水浴、キャンプ、マリンスポーツなどをして楽しもうという人々がおしよせると思うのだが、今年はその待合室も閑散としている。そして建物の中に、何枚かキャンプ場閉鎖を知らせる貼り紙があるのが目を引いた。このコロナ禍で密を避けて楽しむものとしてキャンプが人気だと聞いているのになぜ…と思ったが、これは本土からウィルスを持ち込まれることへの警戒なのだろう。海水浴場は閉鎖はしていないようなのだが、民宿の数は限られているので、キャンプ場閉鎖でかなり本土からの「人流」は抑えられる。医療機関の脆弱な離島では、都会とは別の不安があるようだ。帰省や旅行シーズンを迎え感染の拡大が懸念される。人の移動を控えるようにという呼びかけもなされているが、オリンピックの祝祭ムードの中、多くの人々が国を越えて移動するのを見ていながら、国民だけにそうした呼びかけをしても効果はないのではないか。早くもネット上ではオリンピックの定型句をもじった帰省についても文言が大流行りだという。安全安心の帰省、コロナに打ち勝った証の帰省、帰省しないのではなくどうやったら帰省できるのか考えてほしいなどなど。
2021年08月15日
コメント(26)
感染者急増が泊まらない。昨日の一日当たりの感染者数は1万5千人を超え、しかもなおピークは見えない状況である。過去の波に比べてもたちあがりは急なことも、この第五波の特徴だ。多くの人はオリンピック開催に不安を持っていた。オリンピック開催による万単位の海外からの訪問者が爆発的感染の引き金になるのではないか。変異株が海外から持ち込まれるのではないか。オリンピック開催からまもなくして急拡大が始まったことや、急増がまず首都圏で起きて、それが全国に拡散していることなど、どうしてもオリンピックと結び付けてしまう。しかし、官邸は感染爆発とオリンピックとの関連は頑として認めないだろうし、実際にも認めていない。いちいち感染経路を追うなんて言う段階は過ぎているし、五輪関係者の感染は全感染者数の中では微々たるものだというのも理屈だ。感染爆発にはいろいろな要素があるし、厳密にオリンピックと感染爆発の因果関係を証明するのは無理だろう。感染爆発は自然現象ではあるが、そこには人間の心理や行動という要素もあるのだから。ただ、それでも、オリンピックの開催が妥当だったかどうかという問いはやはり残る。当初言っていた安全安心はどこまで守られたのだろうか。ルールブックがあるから大丈夫という話は実際にルールブックを破った例がみられた。選手村での感染はあり得ないというはずが実際にはクラスターが発生した。ワクチンは十分にあるはずが、選手村に関係者を送迎するバスやタクシーの運転手でも未接種の人がいる。たしかに選手関係者あるいは報道陣から国内にもちこまれた感染というものは、今の万を超える感染者数の中では微々たるものかもしれない。しかし、オリンピックの祝祭ムードが自粛の阻害要因となったり、オリンピックと連動した入国規制の緩和が変異株流入を促進したという面はあったのではないか。どう考えるかは人それぞれの判断だし、庶民の持つ唯一の権力である「投票権」をこれに結び付けて考えるかもやはり人それぞれだ。ただ一つ、オリンピックの強行開催に怒りを感じるのであれば、投票権行使を通じて政権への責任を問うという道は誰にでもある。はっきりと言ってしまおう。他人の獲ったどうでもよい「メダル」なんかよりも自身の健康の方が何億倍、何兆倍、何無量大数倍重要である。
2021年08月06日
コメント(51)
冗談のようだが、検査数を抑えれば感染者数は増加しなくなり、日本の感染者数も検査能力が限界に達すれば増えなくなるという説がある。日本ではなぜか検査数が異様に少なく、そういう意味ではこんな話も現実味を帯びる。東京では感染爆発と言ってもよいくらい感染者が急増しているが、それにもまして陽性率が上昇している。つまり今年の3月ころには5%をきっていた陽性率が、現在では19・5%に達しており、これでは実際の感染者はもっと多いのではないか。そして今まではそれなりに効果のあった「緊急事態宣言」はさっぱり効果がみられない。知事会がいくら県をまたいだ移動はダメといって見たところで国をまたいで運動会をやっているので全く説得力はない。それに今までの緊急事態宣言では今我慢すればコロナは収束し元の生活が戻ってくるという希望があったが、今では「lコロナ後」を語る人も少なくなったように思う。若い人には1年は長く、老人には1年は貴重だ。レジャーを諦めたり孫と会うのを我慢するのは、1年ならよいが2年続けては難しい。ただ、明るい材料としては高齢者のワクチン接種を反映してか、死者はまだ少ない。これが本当にワクチン効果なのだとしたら、販売や外食、旅客などの人の接する業界に勤務する40代50代の接種を急ぐべきだろう。本来ならこの業界で接客に携わっている人は医療従事者の次くらいに優遇すべきであったのかもしれない。
2021年08月02日
コメント(46)
すごく古い話で恐縮だが、昔、「一杯のかけそば」という話が話題になった。マスコミによると「日本中が感動して泣いている」ということになっていて、某新聞などは、「一斉にころがる一億の豆のように」同調して感動する光景を批判してみせたりもしていた。ところでその「一杯のかけそば」であるが、筋書だけみたのだが、正直、ばかばかしさしか感じなかった。大体、父親が交通事故を起こし、二家族に賠償しなければならないので、母親と二人の子供が窮乏生活をするという設定からして変だ。父親の損害賠償債務は相続放棄すればよいだけの話で、十年以上も母親が支払い続ける必要はないだろう。そしてこの物語のハイライトである蕎麦屋のかけそばを親子三人で分けて食べるというのもどうだろうか。当時でも、袋に入った家庭用そば麺が安価で売られており、外食で分け合って食べるくらいなら自宅で食べた方がよいだろう。そして最後は息子二人が一流銀行員と医師になるという「ハッピーエンド」なのだが、これって世にはびこる学歴社会の価値観そのままではないのだろうか。周囲でも、ばからしいとか、くだらないという感想が多く、マスコミでいう「日本中が感動」というのとはずいぶん距離があると思った。だから今、マスコミが騒いでいる「メダルラッシュに日本中が熱狂」というのも本当なのだろうかと思う。五輪の拝金主義や五輪貴族の傲慢ぶりに嫌気がさした人も多いと思うし、ついに1万人の大台を超えた感染者数も不安だ。やはりオリンピック開催前から懸念されていたことがついに起こったという思いでいっぱいで、メダルラッシュに熱狂する気になれない人もけっこういるのではないか。
2021年07月29日
コメント(32)
NHKでは気象予報士になる若い女性を主人公にした朝ドラが放映中である。こうした朝ドラは視聴率が高いのだが、誤った情報や誤解をうえつけることにならないのだろうかと不安におもうものもある。例えば…相当に昔のものだが、出版社に勤めた人がすぐに自分の名前で本を出すとか、OL(これも死語か?)が会社を辞めて3年かそこらで司法試験に合格するとかいう話になると、これはさすがにないだろうと思う。宇宙飛行士になるなんていう話なら、これは単なるお話と誰もがわかるのだろうけど。気象予報士も同じようなものではないか。気象予報士試験は難関なのだが、それではそうした資格取得者を採用する民間予報会社というのはどのくらいあるのだろうか。おそらく1年間で採用する人数というのはごくわずかなのではないか。そのほか天気予報と言えばなんといっても気象庁の予報官なのだが、あれば別途公務員試験を受験して入るので気象予報士とは全く別物である。気象予報士の資格を持っていたから採用に有利という話も聞かなければ、普通の事務職で入った人が気象予報士の資格を取ったからと言って予報官になれるわけでもない。テレビにもときどき「気象予報士」の肩書で出てくる人がいるが、あれも局アナが資格を取っていたり、それ以外となると局アナで入る以上の難関だろう。特に専門的な学校にいったわけでもない人が気象予報士の試験に挑み、合格後は気象予報士として活躍するというのは、あくまでもドラマの中の話で、進路選択を考えている中学生や高校生はそこをよく認識しておいた方がよい。
2021年07月26日
コメント(24)
小山田氏の辞任があったとき、どうせお友達人事でやってきたのだろうから、他の方々の中にも似たような考え方や感覚の人がいるのかもしれないと思っていた。だから小林賢太郎氏の騒動もやはりという気がするだけで全然驚いていない。弱い立場の人間に対して、ちょっと内容を書けないような凄惨なリンチを行って、その苦痛を面白がるような感性の人なら、ホロコーストだってきっと笑いのネタにもするだろう。ただ、それだけのことだ。自分はもちろんそんなネタを笑う気にはなれないが、この小林賢太郎氏に対する官邸の対応には笑ってしまった。もしかしてこれこそ最新のギャグかもしれない。午前中に総理が勢いよく解雇をぶちあげたと思ったら、午後には開会式は予定どおり行うという。例えてみればこんなものだ。家を建てるために設計者を雇った。家は完成し、住むばかりになったときに、設計者を解雇した。でも、その家はそのまま住むこととし、設計者にも当然に報酬を支払う。こういうのって普通は解雇とはいわないだろう…。外国、とりわけ、ホロコーストの問題に敏感な欧米ではどういう反応をするのか興味深い。さてさて五輪の負の連鎖…次にくるのは何だろう。お台場の汚水は絶対に来ると思うのだが、小林賢太郎氏の問題のようなでっかい伏兵がまだあるかもしれない。ああ、怖い怖い…。
2021年07月23日
コメント(43)
オリンピック開会式にはスポンサー企業の首脳は欠席するという。これは、国民の意見が分かれている状況を踏まえた上での識見というよりも、泥船から逃げ出しているようにしか見えない。開会式は直前になって小山田氏が辞任し、彼の楽曲も使用されないというのだが、開会式にかかわったメンバーは一つのチームとして準備を進めてきたはずだ。そうだとしたら、同じような価値観同じような考え方の方々なのではないか…とつい想像してしまう。渋谷系だのサブカルだのといってもさっぱりわからないし、テレビはつけても開会式はあまりみないだろう。予想どおりというかやはりというか、東京では感染者が急増している。死者はまだ顕著な増加はないのだが、これで死者の数も増えてきたら社会の雰囲気はきっと変わる。何人感染しようが、そして何人死のうが政府は絶対にオリンピック開催と感染急増との因果関係をみとめないだろうけど、それは各自が判断すればよい。幸い、政府だって一人一人の考えまでは縛れないし、そして日本では一人一票の参政権も保障されている。それにしても、呪われた五輪の負の連鎖。競技場、エンブレム、招致疑惑、酷暑のマラソン会場変更、障碍者リンチ吹聴の小山田氏辞任…次はいったい何だろう。恐ろしい…。
2021年07月22日
コメント(30)
いよいよオリンピックまで2週間足らずとなった。コロナに打ち勝った証といっていたのを嘲笑うかのように感染者数は増え続け、一説によるとピークは8月上旬ということになるという。ちょうどオリンピック開催期間中に日々感染者数が増加しつづける状況で、メダルのニュースの前か後かに感染者数がこれだけ増えたというニュースが入るのであるから、タイミングは極めて悪い。オリンピックで盛り上がるというわけにはいかないのではないか。また、今週からはいよいよ外国選手や役員の選手村入居が始まる。ルールブックがあるとはいえ、選手村は酒持込も自由だし、交流スペースもある。元気あふれる人たちが一人で酒を飲むとは正直考えにくい。酒だけではなく、会食もそうなのだが、選手村でクラスターが発生する可能性というのはないのだろうか。オーストラリアでのテニス国際大会では入国した選手達はホテルに閉じ込められ、仕方なく部屋の中で球打ちの練習をしていたというが、そんな厳格な管理が行われるとはとても思えない。入国した選手団の中の中国選手団の写真をみて思わず笑ってしまった。なんと防護服である。開会式の入場行進も防護服でやるのだろうか。いかにもコロナ禍らしいシュールな映像になるだろう。
2021年07月11日
コメント(15)
オリンピック開催の問題は感染拡大の可能性の問題でどこまでも科学の問題であり事実認識の問題のはずなのだが、それを一部では右か左かの問題にする人がいることが不思議であった。感染拡大の懸念は多くの人が共有しており、それは最近の新規感染者の増加でますます高まっている。だからといってそうした懸念を有している人が「左」というわけではあるまい。だから、元総理で一定の影響力を持っている人が、東京五輪に反対する人は反日的だと言っていることについては、驚くというよりもあきれている。ものごとを考え判断する基本はあくまでも事実認識であり、それを支える科学のはずだ。オリンピック開催の問題だけではなく、他の問題についても同様だ。元総理のような思考をする人は、「日本が沈み続けている」という議論についても同じように反応するのだろう。「日本が沈み続けている」という説に反論をするのであれば、事実や経済学という科学をもって反論しなければならない。「日本を貶めている」というのは感情的反発であって反論ではない。高い賃金、社員の身分保障…そうしたものが日本の競争力を削いでいる。今までのような「悪平等」では国際競争を勝ち抜けない。そんな主張をしてきた御用学者や財界人、政治家の主導で、労働法制は改悪され、非正規雇用や低賃金労働者、ブラック企業労働者、労基法適用外のギガワーカーなどがどんどん増えていった。そしてその結果、日本の国際競争力は向上したのだろうか。最後に元総理のいう歴史認識の問題であるが、世界史についての価値判断は最大公約数的なところでは、少なくとも主要国の間では一致をみている必要があるのではないか。そうした意味で、元総理の考えるような反日的ではない歴史認識も堂々と国際社会に向けて主張していけばよい。国内だけで日本人の中の反日分子を名指ししバッシングしても意味はないように思う。
2021年07月04日
コメント(11)
「コロナが終わったら」という言葉を去年の今頃はよく聞いた。しかしいつの間にか、こういう言葉は聞かれなくなった。去年の1月からコロナが始まり、そして今年も半分が終わったが、まだコロナの終息はみえない。たしかにワクチンは開発され普及しつつあるのだが、ワクチンが普及した国で感染が再燃しているという話もあり、また、ワクチンの効かない変異株もあるのではないかという話もある。要するに、ワクチンはコロナ収束の切り札でないかもしれないということだ。そして本当は多くの人がwith coronaになれちゃったのかもしれない。友人との会食や飲み会…なければないでいいんではないの。よくよく考えたら一人の方が気楽でよい。冠婚葬祭の集まりが減った…今までなんであんな無駄なことをやっていたのだろうか。海外旅行に行けなくなった…コロナが収まってもアジア系に対する反感は相当続くだろうね。人との接触はwebで十分、一人の方が気楽でよい。とまあ、こんな具合だ。そしてテレビのワイドショーをみていたら、名前は知らないがあるコメンテーターが、友人なんていらないという趣旨のコメントを力説していた。友人と会食したり飲んだり集まって騒いだりしなくても十分、そんな生活に多くの人が慣れつつあるのかもしれない。
2021年07月02日
コメント(9)
今月から続々と各国の選手や役員が入国してくるという。感染対策というのがどうにも気になるのだが、ワクチンは二度接種が必要で、しかも間隔は三週間開けなければならず、しかも効果が出るのに時間がかかるという。そうなると五輪選手に最近内定した選手など、どう考えても間に合いそうもない。選手も全員間に合うというわけではないし、ましてやボランティアとなると今からの二回接種など不可能であろう。さらに選手村には、ボランティア以外にも多くの人が働くことになる。そうした人のワクチンなどは議論にもなっていない。報道によると選手村でウーバーを使いたいという希望があるという。また、著名な選手や大物選手は選手村ではなく、ホテルに宿泊するという。そうした場合にウーバー配達員やホテルの従業員でワクチンを二回接種し、しかも効果が表れるだけの期間を置いた人がどれだけいるのだろうか。おそらくあまりいないのではないか。つまり世界各国から見えないウィルスをもって多くの人がやってくるのに、それを迎える側は丸腰だということ。これで国内にまん延しない方がおかしい。あと、オリンピックの観客について官邸がこだわっているのはIOC関係者やスポンサー枠の観客が目立たないために一般の観客も入れたいのだという説がある。真偽のほどは不明なのだが、観客席にいなければならないIOC関係者とかスポンサー枠の人というのは具体的にどんな人なのだろうか。どう考えてもセレモニーや競技は観客席がからでもできると思うのだが。
2021年07月01日
コメント(10)
相変わらず「徳川家康」を読んでいる。感想は近々書くつもりなのだが、小田原評定の由来を恥ずかしいことに初めて知った。というのはこの小田原評定は秀吉の北条攻めの時の言葉だとは知っていたのだが、水攻めか何かで有効な対策をたてられないまま延々と会議ばかりをくりかえす…なんかそんなイメージであった。どうやら毛利の水攻めと混同していたようで、小田原城は何度も見たことがあるが、あの城は水攻めなどできっこないことくらい、ちょっと考えれば分かりそうなものだった。実際は全国の大半を統一した秀吉が北条にも服属を呼びかけたのだが応ぜず、そのため、大軍をひきいて関東に下り、小田原城を見下ろす場所に一夜城を建設してようやく降伏したという故事による。なぜ服属のタイミングを失したかというと、強硬派と服属派の間で際限のない討議(評定)が行われていたという。戦国時代も終わりになると、合戦ではなく、こうした決着もでてきたのだろう。小説「徳川家康」が世に出たのは、まだ戦争の記憶の新しい時代だ。小田原評定で服属の機会を失い滅亡していった北条家に戦前の日本軍部を重ねているというのは考え過ぎなのだろうか。そもそもなぜ小田原評定は繰り返されたのか。史実はともかく、小説では二つの要素があるように見える。一つは大量の鉄砲の購入や農兵の訓練など、日ごろから軍備に大変な金と労力をかけていたこと。これによって例の悪魔のささやきともいえるサンクコストの論理が生まれる。単に服属してしまうと今までの金と労力が無駄になるというアレである。そしてもう一つは小田原城内に強硬派と服属派が拮抗していたということである。服属にしても抗戦にしても犠牲は大きい。誰も責任を負いたくないので、強硬派も服属派も押し切るようなことはせずに、評定を繰り返していたのだろう。小田原評定…辛い決断を先延ばしにしていると、もっと酷い結果になるという意味でなら現代にも通じる教訓である。
2021年06月28日
コメント(19)
ネットサーフィンをしていたら「貧乏国家に堕ちた日本」という記事があった。https://news.infoseek.co.jp/article/moneypost_804606/?p=2日本が他のアジアの国に比べて、貧しくなってきているのではないかという趣旨の記事で、これに対してはいろいろな見方があるだろう。日本を貶める記事でけしからんというのは単なる感情論なのだが、他のアジアの国々が豊かになるのはよいことではないかという見方はもっともだし、ダウンサイジング過程に入った日本では今ぐらいの水準を維持できればよいではないかという考えもあるだろう。ただ、この記事に追加してなのだが、実感として自分の見聞きしたことを書いてみたい。まず第一であるが、10年ほどまえ、東欧に海外旅行にいったときのこと。プラハの旧市街広場には各国の観光客がやってきていたが、アジア系の観光客の中で日本人は本当に少なかった。出張の途中に弾丸観光をしていると思しき背広姿の韓国人男性の二人連れや、イケメンの警察官と記念写真をとっている台湾?人の若い女性三人組などはすぐにめについたのだが。聖堂の中でぼそぼそと日本語のガイドの説明を聞いている高齢者の一団がいただけで、若い日本人旅行者は目につかなかった。広場中央には各国語のパンフレットを売っていたが、日本語のものはすぐには見当たらず、人のよさそうなおばさんは中国語のパンフレットをさしだしてくれた。これは10年前なので、今(コロナ禍前)ではますます日本人観光客は目につかなくなっているだろう。第二に国際結婚である。善い悪いは別にして、バブルの頃は某中央紙に中国人女性や東欧人女性との国際結婚仲介の広告が掲載されていた。そして現実にも知り合いくらいで、そうした仲介を通じて中国人女性と結婚したという人がいた。最近ではそうした国際結婚の話を聞かず、実際に日本人男性中国人女性という組合せは減っているという。そして最後は100円ショップの品物である。100円ショップの商品の中に、神社や富士山の絵のついたトートバッグなど、日本土産とおぼしきものがある。かつては日本人が他のアジア諸国で安い土産を買っていたが、いまでは逆になっているのだろうか。これにかぎらず、日本は安い国になって来たことが外国人観光客が増加してきた背景なのだろう。
2021年06月27日
コメント(22)
朝日新聞の天声人語にこんな歌が紹介されていた。転勤の 娘(こ)の背に春の 陽はとおる 良き友を得よ 良き上司得よ女性も男性並みに転勤をして責任ある仕事をするようになったというのは当世風であるが、子供の人生を応援する親の気持ちが表れたよい歌だと思う。自分をふりかえってみても、本意のとおりの就職ではなかった、望んだとおりの職業生活ではなかったにしても、気がつけば友も喜びも楽しみも、その多くは職場にあった。安定した職業生活がなければ継続した人間関係も築けないし、その意味で、現役世代の非正規雇用を増やした「雇用改革」は多くの人を不幸にしたのではないか。冒頭の歌は父が娘を詠ったものであるが、逆もある。俵万智の短歌で「サラダ記念日」に収録されているものである。希土類元素(レアアース)と ともに息して来し父は モディリアーニの 女を愛すたった31文字であるが、どんな父だったのか。ライフワークを究めながら、一方で芸術の美も愛する。すごく幸福な人生だったのだろうな、そんな父を娘もまた敬愛していたのだろうな…と想像がふくらむ。
2021年06月23日
コメント(10)
五輪の観客の上限は一万人だがスポンサー枠とIOC関係者は別だという。ならばそのスポンサー枠とIOC関係者が何人くらいで、スポンサー枠というのは具体的どういう人達なのだろうか。今後、外国からの選手団も続々と入国する。感染の深刻な国は派遣をとりやめるのかと思っていたがどうもそうではないようだ。選手村では行動を規制し、感染が拡大しないようにするというが、酒持込OKで交流スペースもあれば、普通はそこで酒盛りをするのではないのだろうか。選手村と個人の自宅は違う。個人が自宅に酒を持ち帰っても一人や家族で飲むだけなのだが、選手村では指呼の間に仲間がいる。さらにウーバーの出前を要求する声もあるというが、配達する人はワクチンなどまだ間に合いそうもないので、そこからだって感染が広がる可能性もある。相手はウィルスであり、感染症だ。五輪を開催することも、観客を入れることも、一種のかけであり、もちろん何事もなく終わるかもしれない。その一方で、選手村でのクラスター発生、医療ひっ迫、五輪を震源地としての変異株拡大となったら現政権にとっては悪夢だろう。この場合には、できるだけ総選挙を先延ばしにして情勢の変化と国民の移り気に期待するということなのかもしれない。それにしても、本当に五輪直前なのだろうか。街の本屋に行っても普通なら五輪の見どころ特集の雑誌などが平積みになっているはずなのに、そうしたものもない。誇らかにスポンサー企業であることを謳ったCMもあまりみかけない。旗手も決まらないようだが、拒否する選手が多いのではないか。もしも、五輪で感染拡大となったら、実際には関係ないのだが、反感をかうおそれもある。
2021年06月22日
コメント(13)
最近、喫茶店でもテレワークのできることを売りにする店や、カラオケ店が個室をテレワーク空間として売り出す例がでてきた。また、レンタルビデオショップもネット配信におされたのか、テレワーク用のラウンジにリニューアルしたところもある。たしかにテレワークと言っても家が狭かったり、個室がなかったりしたら難しいという人も多いだろう。こじゃれた快適空間でテレワークができれば悪くない…と思うのだが、いくつか難点がある。まず値段が高い。これはやむを得ないのだろうけど、テレワークとなると一日6時間7時間といるわけなので、それだけで一日当たりの給料の何割かがふきとぶことになる。よほど高収入のクリエイティブ?な仕事をしているならともかく、そうでなければ狭い家で我慢して…となってくる。次に、会社によっては情報管理の必要から、街の喫茶店やテレワーク用のラウンジでは情報にアクセスできない場合がある。このあたりどういう仕組みになっているのかよくわからないのだが、そういう例は多いように思う。最後にこれも情報管理とも関係するが、手洗いやコーヒーを取りにいったりするために席をはずす場合がある。オフィスに置いているときには、ワイヤーをつけたりして紛失を防いでいるのだが、喫茶店やラウンジでは不安がある。そのせいか、そうしたラウンジに行っても、テレワークという人はあまりみかけず、ちょっと贅沢な喫茶店という感じで読書にふけっている人の方が目立っていた。
2021年06月21日
コメント(2)
コロナ禍で出生数が急減している。この出生数急減については、そもそも結婚数が減少しているのか、兄弟数が減少しているのか、子供のいない夫婦が増加しているのかを分けて考える必要があるだろう。子育て支援や不妊治療の助成は後二者に対する対策であって、独身者にとってはあまり関係がないからである。同じように少子化社会といっても、婚姻率は減少しないが夫婦間の出生数が減少している社会と、そもそも未婚化が進んでその結果少子化が起きている社会とは全然違う。社会の様相をがらっと変えていくのは、夫婦間の出生数の減少ではなく、未婚化ではないかと思う。そして以前にも書いたのだが、未婚化は二つの要因がある。一つは結婚が人生の必然的な選択ではなくなったこともう一つは十分な収入や時間がなく結婚したくてもできない人が増えたことあえていえば前者の要素は女性に強く表れ、後者の要素は男性に強く表れているのではないか。だいぶ前のデータだが、独身者の貯蓄額は男性よりも女性の方が高いという。経済力のある自立した女性と経済力のない男性が、結婚しにくいということなのだろうか。しかし、最近では経済力ある男性もまた同等の女性を相手に望む傾向があり、そうなると結婚して子供も持つ高収入パワーカップルとそうではない独身無産大衆に社会は分断されていく。まあ、それでも良いという考えや価値観もあるのだろうけど。善い悪いは別にして…生涯未婚者の多い社会というのは、それだけ、後の世代を考える人が減るということだろう。国家とか民族はある意味、血縁の承継ともいえるので、そうした国家意識も減る。家とか祖先とかそうした意識もなくなる。具体的には…子供の騒音苦情が大問題になったり、前の世代の勲章なんかをネットオークションに出す人が増えたり、とまあそういう時代になるわけである。
2021年06月20日
コメント(19)
オリンピックがまもなくやってくる。普通なら都知事の会見の後ろにはあのマスコットが飾られ、ワイドショーはのきなみ期待の選手のインタビューをやり、CMではオリンピック関連の広告があふれていると思うのだが、そうならないのはやはり今回のオリンピックが特別だからだろう。そしてこういうときに必ず話題になる聖火の最終走者や開会式で君が代を歌う芸能人の予想もきかれない。いったい開会すれば国民は盛り上がる…なんてことがあるのだろうか。いい悪いは別だが、今の五輪選手は日の丸の重圧のもとで戦うストイックな代表戦士ではない。五輪を自分の人生の成功の一手段と考えるアスリート達だ。そんなメダルで一喜一憂感動なんてするのだろうか。そしてやはりというかなんというか緊急事態宣言解除の後の波はやってきそうである。これがちょうど今までの波の形からするとオリンピック開催後しばらくしてくらいでピークが来る。これが今進行中のワクチンの普及とあいまってどういう形になるかで、今後の政権の命運が決まるのだろうなと思う。いずれにしてもオリンピック自体は低調なものになるのは必至だろうけど。
2021年06月18日
コメント(25)
最近はテレワークが普及してきたせいで、都心のマンションよりも郊外の一戸建てが人気だとか、別荘を購入する人が増えているという話を聞く。たしかにテレワークやステイホームだと運動不足になりがちであるが、さりとてこのコロナ禍、外に出て人ごみを歩くのは嫌だ。豊かな自然環境の中(つまり密ではない環境)を散策できればどんなによいであろうか…私でもそんなことを考える。しかしこの一戸建てや別荘が人気だというのは本当かなという気がする。もちろん地域とか条件によっては人気のものもあるのかもしれないのだが、最近、ちょっと郊外に出ると目につくのは空き家である。高齢者の一人世帯が増加しているということはよくいわれるが、そうした高齢者の多くは若い頃東京にでてきて憧れのマイホームを手にした世代である。そして子供も巣立ち配偶者にも死別し、一人暮らしとなった世帯主も、施設に移ったり亡くなったりすれば、マイホームがそのまま空き家として放置されるのも珍しくもないだろう。そんな空き家が多くあるのに、いまさら郊外の一戸建て人気というのも信じがたい。別荘人気だって、それはあくまでも地域によるもので、所有者が持てあましている別荘も多いのではないか。知人でかなり前に別荘を買った人がいる。山の傾斜地を利用した山荘風の建物で、温泉がでるわけでもなければ、周囲に有名な景勝地があるというわけでもない。こうしたものは、代が変わればもてあますのではないか。ところでこうした不動産は空き家として放置していても税金はかかってくる。不審者が住み着いたり、不審火がでたりすることもあるだろう。長いこと放置して倒壊して、それが事故の原因になれば賠償の問題も起きてくる。世の中にはこうした手放したくても手放せない不動産というのもけっこうあるのではないか。不動産というのは買い手がなければ手放すこともできず、そして買い手のなさそうな不動産は業者も仲介を拒否する。そのうえ、不動産税を滞納すれば自治体が没収してくれるかというとそんなことはない。税の滞納はまず貯金とか給与とかからとられるので、じゃまっけな不動産はそのまま自分のものであり続け、税金という債務を生み続ける。…というわけで、最近では、こうした不動産にはマイナス価格のものもあるという。タダでもいらないのなら、金を出すから引き取ってくれというわけである。
2021年06月13日
コメント(24)
第四波で感染の深刻だったところとして札幌と沖縄がある。沖縄はGWにおける大量の観光客の来訪があるし、札幌も同じような状況だろう。ただ札幌については五輪マラソンのテスト大会との関連もあるのではないか。観客や関係者の間でクラスターが確認されたわけではないし、証明はしようもないのだが、要因の一つとしてはあるように思う。札幌は、本番の五輪でマラソンと競歩が予定されており、すでにホテルは予約で埋まっているという。再び感染拡大の悪夢とならなければよいのだが。東京五輪は東京というものの東京以外で開催される種目も多い。自転車競技は静岡県、サーフィンは千葉県というように。ただ、そうした競技の行われる自治体の中には医療体制の脆弱なところも多いし、選手を選手村で管理するというわけにはいかない。おまけに競技の性格上、路上に多くの人が集まることも考えられる。沖縄や札幌で起きたようなことがこうした競技会場となった市町村で起きたらどうなるのだろうか。それにしても五輪は商業主義の浸透とともに、競技も肥大しすぎたように思う。3人制バスケというとなにそれと思うし、おまけに男子にある競技は女子にも作るのでますます競技数は増える。観客の制限が検討されているというが、競技の削減というのは、なぜ議論されないのか不思議である。少なくとも東京以外の会場で行う競技、今回の東京五輪で新規に入った競技は削ってもよいという議論はあってしかるべきではないか。彼は昔の彼ならず…と同様、東京五輪も1964年の五輪ではない。そんなのがよいとは思えなかったがかつては五輪は商業主義とは無縁で選手は「日の丸の重圧」の下でさしたる報酬もなく競技をした。今はプロ選手の参加は普通になったし、それ以外の選手も代理店や企業と契約し知名度を生かしてCMに出たりしている。五輪は黄金のとびかう華やかな夢舞台となり、IOC委員をはじめとする五輪貴族らの金城湯池となったわけである。
2021年06月11日
コメント(46)
東京五輪については「開催したら盛り上がる」という議論がある。たしかに前回の東京五輪も半年前までは批判的な論調もあったが開催したら盛り上がった。どうせ大衆は熱しやすく冷めやすい。今、五輪反対を叫んでいる人だって、ひとたび五輪が始まれば日本人選手の活躍に声援をおくるはずだというわけである。その可能性はあるだろう。ただし、それはコロナが収束したり、少なくとも今の第四波が一定のところで収まっていて次の波がこない場合だ。要は五輪が盛り上がるかどうかなんてことはすべてコロナ次第だということだ。現在、ピークアウトしつつあるようにみえる第四波だが、あの山の感じだと7月に次の波がきてちょうど五輪の頃にピークになる可能性もある。ワクチンの効果もまだ確認できたわけでなく、ワクチンの普及したイギリスでのインド株の蔓延が懸念されているという。最悪の場合には、〇〇選手の活躍のニュースの前に、どこそこの感染者最多更新なんていうニュースが入るわけで、そうなれば人々は五輪どころではない。スポーツを通じての夢だの希望だのは別に否定しないのだが、そうしたものは平和であってこそだ。いつ感染するか、そして感染しても医療機関にたどり着くかが不安という状況ではスポーツ観戦の余裕などはない。今でも、五輪が感染拡大に不安を抱く人々にとっての攻撃の的であるように、感染が蔓延すれば五輪自体批判の目でみられるだろう。そうなれば協賛企業もまたイメージダウンとなる。
2021年06月10日
コメント(13)
オリンピックの開催はすでに既成事実なのだろうか。競技場周辺では交通規制が始まっているという話もあり、お台場公園も開催に向けての工事が行われている。もちろんトライアスロン会場に使うためである。ただこのお台場のあたりは行ったことがあるが、人が泳いでいるのは見たことはない。そしてネットで調べてみると、人が泳げる海にするように現在も水質浄化が進行中だとのことである。そして相手は海である。競技に向けて水をきれいにしても、降水によってはやはり汚染された水になるのではないか。水をきれいにしても臭いは残るのではないか。少なくとも、現在の東京住民が泳ぎたくない海を競技会場にすることのどこが「おもてなし」なんだろうか。オリンピックに向けて緊急事態宣言は今月下旬で解除されるだろう。この緊急事態宣言が第四波のピークアウトにどの程度貢献していたかは不明だが、今後、考えられることとして第四波がそのまま収束するか、それとも第五波がやってくるかの二つの場合がある。もし第五波がやってくると、それはちょうど感染拡大期と五輪の開催時期とがぶつかることとなり、とても「盛り上がる」という状況にはならないだろう。スポーツで希望と感動を…と言っても、それは健康や安全になんの不安もない場合のことである。感染拡大の状況の中で、五輪そのものが怨嗟の目でみられる可能性も十分あるし、そうなれば協賛している企業だってイメージ低下は免れない。その後、非常に楽観的前提かもしれないけど、秋になって第五波がおさまり、ワクチンも希望者にほぼいきわたったとしても、政権に対する支持にはならないだろう。ただこの楽観的前提では野党もあまりにも酷いので政権交代とまではいかず、看板のつけかえくらいでしのげる…とそれを狙っているのかもしれない。
2021年06月10日
コメント(6)
有名な「浜辺の歌」の元の詩には実は三番があるという。ただこの三番の詩は不適当ということで、歌詞には入れなかったという経緯があるらしい。それは以下のような詩である。はやちたちまち 波を吹き赤裳(あかも)のすそぞ ぬれひじしやみし我は すでに癒(い)えて浜辺の真砂(まさご) まなご今はたしかに、もしこの三番を入れたら、全く別の歌になってしまう。歌には、多くの人が体験するような普遍的情景を歌ったものと、特定の物語的情景を歌ったものとがある。「浜辺の歌」の一番や二番は朝や夜に浜辺を散策しながら回想にふけるという多くの人が体験するような情景を歌っているし、実際にこの歌を思い浮かべながら砂浜を散策した人も多いことだろう。歌詞の昔のひとや昔のことも、子供時代の想い出でもよいし青春の頃の記憶でもよい。ところがこの三番が入ると、歌はとたんに物語性を帯びた歌になる。浜辺を散策しているのは赤裳を着た女性。小説「不如帰」にあるように病気になって離縁された妻が婚家に残してきた愛児を想っているのだろうか。そうなると一番や二番にでてきた昔のことや人も、若くて健康だった頃の夫や子供との想い出ということになる。三番で描かれているのは孤独で哀切な情景であり、一番や二番の淡い哀愁のこもった抒情とは別物である。やはり「浜辺の歌」は、二番まででよい。もちろん物語性のある歌がよくないというのではなく、「喝采」や「百万本の薔薇」は物語のある歌の傑作だと思う。けれども「浜辺の歌」に限ってはそうした物語のある歌にしておくよりも、万人が自分の体験として解釈できる歌にしておく方がよいし、それだからこそ、今でも多くの人に愛されているのだろう。
2021年06月07日
コメント(9)
オリンピックについていままでいろいろなことを書いてきたが、どうやら開催することとなりそうである。国にしても自治体にしても、いまさらやめたところで「政治的得点」にはなりそうもないし、撤退戦の困難さを思えばどうしてもしり込みをするだろう。それに中止の場合の巨額の賠償という問題もある。実際には契約の話で賠償責任の有無は解釈によるし、IOCが東京都なりに巨額の賠償請求をしたところで、具体的にはどこに訴えて、どうやって強制執行するのだろうか。いや、素朴な疑問なのかもしれないけど…。ただ、この巨額賠償説は、日本国内で開催推進派が中止派に反論する根拠として使われたという面があり、IOC委員の一連の発言と相まって、中止派だけではなく中立派も含めてオリンピックが嫌いになった人も多いのではないか。そして開催へのレールがひかれているということと、開催機運が盛り上がっているということとは別である。通常の五輪なら今頃になると、選手の本が書店には平積みになり、テレビには選手を使ったCMが流れるものだが、今回はそうしたものはみられないように思う。五輪グッズも売れていないというし、どうも盛り上がっているという感じはしない。その一方で、中止論がますます勢いづくかと言えばそうでもない。これにはいくつかの要素があって、一つは開催がいよいよ避けられなくなった場合のあきらめ、また、もう一つは感染者数だけをみると第四波についてもピークアウトしたようにみえること、さらにもう一つはワクチン接種がすすんでいることがあるであろう。今後のことは予測しにくいが、五輪の頃に感染の悲劇的拡大ということさえ起きなければ、五輪も多少しょぼいながらも平穏にすむかもしれない。やってくる選手や報道陣、スポンサー枠の多くはワクチンをうってきているだろうし、その性格上、そんなに無茶な行動をするような人はあまりいないであろう。とにかく社会に迷惑かけずに無事に終わってくれ、これがオリンピックに対する願いである。
2021年06月02日
コメント(48)
世界的にみるとコロナの感染者は減少傾向にあり、ワクチンの普及とともに、「人類はコロナに打ち勝ちつつある」のかもしれない。しかし、その一方で、マレーシア、ベトナム、台湾など感染を抑えてきた国で拡大傾向があり、まだまだ予断を許さない。特にアジアの国で増加していることは、アジア人に対して感染を防いできたとみられるファクターXの効かない変異株が出てきている可能性もあるのではないか…と素人考えをしてみたりもする。いずれにしても、今のところできることは、体調管理に気を付け、極力三密を避けるくらいだろう。そうした意味で、国や自治体の施策をみるとどうしてもちぐはぐな感じがする。劇場はよいのに映画はだめというのが、まずわからない。劇場は舞台で人々が大声を出すし、劇場も狭いところが多い。一方、映画館は演劇に比べれば広いところが多いし、スクリーンから飛沫は飛ばないだろう。マスク会食の薦めというのも変だ。マスクをしてどうやって食べろというのだろうか。実際に飲食店で人々の様子を見ても、耳にマスクをかけてつけたり外したりなんていう光景はまず見ない。単に一人か家族、または少数のいつもの仲間以外とは会食をしないようにといえばいいではないか。酒類の提供は8時までとしながら、選手村には種類を持ち込みOKというのもよくわからない。店が閉まって仕方なく路上飲みするのは問題だが、選手村で屋内で集まって飲むのはよいのだろうか。ちなみに選手村ではコ〇ドームも配布されるというが、それはお持ち帰り用なのだという。日本の土産がコ〇ドームというのも変だし、なんでわざわざそんな土産を配るのか不思議である。酒に濃厚接触となれば、選手村でのクラスター発生の危険もあるのだが。きわめつきは、人々が集まるのを防ぐために津々浦々の花の祭りが中止になっているのに、大規模な五輪用のパブリックビューイングを設置する計画があったという。さすがに批判が高まって止めたようなのだが、一方で集まるなといいながら、人々が集まるようなものをわざわざ税金で設置しようとする。いったい何を考えているのだろうか。
2021年06月01日
コメント(11)
最近、若者のテレビ離れということが言われる。若者の〇〇離れというのは、だいたい若年層で所得の低い者の比率が高くなっていることの反映なのだと思うが、テレビはそうではないだろう。原因は簡単でテレビ以外に見るものにことかかなくなっていることと、テレビがつまらなくなっていることによるのだろう。だいたいテレビ離れを問題視する論調には、どこか、マスコミが今までと同じように世論を作り国民を導く存在であってほしいし、あるべきだというマスコミ人士の願望があるように思う。しかし、実際にはテレビの論調が世論になるという時代は終わっている。テレビでは五輪中止論なんてほとんどいわないのに、世論調査では中止が多くを占めているのだってその証左だ。テレビでの言論はしょせんはスポンサーよりのことしか言わないし言えない。コロナのニュースをさんざんやった後で、五輪では〇〇選手n活躍が楽しみだと持ち上げる。それに番組もつまらなくなっている。特に、なんの芸があるんだかわかんない人たちをひな壇にならべてどうでもいいことを話題にするバラエティなんか時間の無駄だとしか思えない。いまどきテレビを見ているのは足腰が不自由な高齢者くらいで、そのせいかテレビには高齢者向けの健康食品の広告ばかりがめにつく。
2021年05月31日
コメント(14)
オリンピックについての議論で不思議でならないことがある。それは「オリンピックの夢」とか「アスリートの夢」という言葉についてである。夢の数なんてきっと人間の数以上にあり、人はみんなそれぞれの人生で自分の夢を追いかけて生きている。思い出してみると、それが決していいことだとは思っていないが、子供の頃のオリンピック選手というのは、まだ日の丸を背負って競技するというニュアンスがあった。だからマラソン選手の自殺なんていう衝撃的なニュースもあったし、日の丸の重圧などという言葉もあった。選手の多くは自衛官や警察官などの公務員だったし、企業に所属している選手も引退後は社員として勤務するのが普通だった。今ではアマチュア規定もずいぶんと緩み、人気選手ともなればCMやバラエティなどでひっぱりだこになる。そしてアスリートが「商品化」されるのに比例して、マスコミでも、日本人選手の追いかけが激しくなり、朝のワイドショーやスポーツ紙では「感動をありがとう」が連呼されるようになる。オリンピック選手ともなれば、もちろん図抜けた才能と超人的な努力の賜物なのだろうが、それは音楽や演劇も同様である。彼らもオリンピック選手と同じく、自分の人生の成功のために、研鑽を積んでいる。コロナ禍では音楽や演劇の舞台がいくつも消えており、一期一会の機会を奪われ、夢をあきらめた人もいたであろう。さらにいえば、そんな図抜けた素質や超人的努力の世界でなくとも、外食産業、旅行業界、冠婚葬祭業等に夢や人生をかけていた多くの人々も、コロナ禍で職を失い、生活にも困っている。そんな中でアスリートの夢だけが特別だとか、オリンピックという大舞台だけが特別だといった議論はどう考えてもおかしい。そしてそんなオリンピックという大舞台のために多くの人が犠牲になって当然だという議論はもっとおかしい。
2021年05月24日
コメント(32)
よく日本人は三つのものを過大評価していると言われる。国連、ノーベル賞、そしてオリンピックである。このオリンピックについてはずいぶんと認識が変わった人が多いのではないか。幻想が醒めたわけである。「感染状況がどうあろうとオリンピックは開催する」というIOC委員の発言には、日本人が何人コロナで死のうが重症になろうがオリンピックには関係ないというわけで、たぶんこんな発言はIOC委員の母国の開催だったらしないにちがいない。総理や担当大臣の開催するか否かはIOCの判断という発言にも、おいおい、国民の感染症対策に責任を持つのは日本の政治家ではないのか、IOCはGHQなのか…と突っ込みをいれたくなる。まあ、オリンピックが開催されるとして、今後、考えられる可能性は三つある。一つは感染爆発し、文字通りの「変異株五輪」となった場合。この場合でもすでにゆるゆるの入国規制で変異株も入っているだろうし、予選だの事前合宿だのもある。感染拡大も五輪前にすでに起こるだろうし、政治や都は決して五輪と感染爆発の因果関係は認めないだろう。二つは恐れているほどの感染拡大が起こらなかった場合。コロナの予測は専門家も外しているので、この可能性ももちろんある。不安があれば人はますます用心するし、オリンピックの与える不安感がプラスに働くかもしれない。そして三つめは感染はどうであれ、9月ごろにはさすがにワクチンもかなり普及し、それが効果があって、社会の不安感はかなり和らいでいるという可能性である。いまさら、五輪を中止しても、感染者数が急減するとも思えず、政府は第二、第三の可能性にかけているのかもしれない。最後に五輪の後にきっと起きそうなこととして、国民の多くはオリンピックにも競技スポーツにも、かってのように熱狂することもなくなるのではないか。多くの人が金、利権まみれの内情を知った以上、「元気を与えたい」だのといった上から目線の言説にもうんざりしていると思うから。
2021年05月23日
コメント(13)
東京五輪はどうやら開催されそうだ。これで日本はゴリンジュウ…とならないことを心底願っている。ただ、考えてみれば、五輪を中止したところで、今のコロナの感染状況がいっきに好転するわけもなく、不安を煽る専門家の予測もはずれることも多い。だから後は五輪開催となっても「心配したほどではなかったね」ですむことを心より祈ろう。それにこれだけ国民の間に不安感が広がれば皆用心をする。感染の不安故にボランティアの辞退もあいついでいるが、むべなるかなである。おりんピッグなんていうダジャレをみても開会式のセンスは推して知るべきだし、こんな歓迎されない五輪もないだろう。人気のアスリートを使用したテレビや新聞の広告もみかけないが、このあたりスポンサー企業は敏感である。国民の間に、オリンピックに対する嫌悪感が広がっているのに気付いているのかもしれない。そういえば普通なら話題になるはずの聖火の最終走者が誰かとか、開会式に誰がでるかということも全くと言っていいほど話題になっていない。みんな嫌なんだよねえ。
2021年05月21日
コメント(23)
よく梅雨入り宣言とか梅雨明け宣言とかいうけど、梅雨は自然現象であり、別に気象庁が宣言したから始まったり終わったりするものではない。それは冥王星が人間が惑星の範疇に入れようが外そうが変わらず回り続けているのと同じである。人為的なものは権力をもってすればなんとかなるかもしれないが、自然はそんなものの枠外にあるということだ。コロナのような疫学的現象も、一種の自然現象であり、自粛要請や補助金で個々の人間の行動に影響を与えることはできるが、出てきた数字はどうにもならない。五輪のために事前合宿や選考会が行われつつあるが、これから死者が増えていった場合、政府当局や自治体がいくら「五輪との因果関係はない」と宣言したところで、数字は変えられない。御用マスコミや御用学者はなんとかなるかもしれないけど、ネットの発言を封じることはできない。コロナの問題は自分の生命や健康の問題であって、きわめて身近である。そこが安保の問題や憲法の問題とは違うところである。右も左も関係ない。それを望むわけではもちろんないのだが、五輪後に感染者数が拡大を続けた場合には怨嗟の声は、コロナ対策よりも五輪を優遇した政府に向かうことだろう。政権交代ということも十分にありうる。バッハ会長はIOC調整委員会の挨拶で「…安全安心な大会を可能にするのは、日本のみなさんの粘り強さの精神と逆境を耐え抜く能力を持っているからだ。日本の美徳に感謝したい…」と挨拶したという。安全安心というのは誰にとっての安全安心なのだろうか。それにそもそもオリンピックの開催って「逆境を耐え抜いて」行うものなのだろうか。楽しく華やかな世界の祭典であり、それが耐え抜かなければならない逆境に変じたのならやめればよいではないか。それとも、この方、もしかして日本人は精神論でおだてれば、どんな無謀なことでもやってのけると思っているのかしら。
2021年05月19日
コメント(31)
昔、広告代理店に勤める友人といろいろと雑談する機会があった。以下に述べる話はそうした雑談から創作したので、実在の人物とは全く関係ないのだが…友人はよく美男美女を使った広告のコピーを見せてくれたが、その日見せてくれたものはどうみても美男美女というには無理があったように思った。男の方はそこらのあんちゃん風だったし、女の方は色が黒いし目も細くて小さい。でも、友人によると男の方は女性に圧倒的人気のイケメン騎手で、女の方はこれまた人気急上昇中の美人プレイヤーだという。スポーツにうといとこうして世の中の動きに遅れてしまうのだろうか。いわれてみると、たしかに顔は整っている。よくよく考えてみると、こうしたものは、人気があるからCMに起用するというよりも、人気を盛り上げてCMを作るといった方が正確かもしれない。そういう意味でスポーツ選手と言うのはまさにCM向きだ。常人には想像できない才能と努力で好成績を上げていれば好感度は高いし、彼彼女を応援しようという心理はそのまま商品への応援につながる。この意味でオリンピックもマスコミが盛り上げて、広告代理店が選手をCMに起用するという構図は同じだろう。大手マスコミ各社、それに広告代理店はオリンピックのスポンサーにもなっている。それがよいとか悪いとかではなく、プロスポーツだけではなく、オリンピックのような最先端の競技スポーツもまた一大産業になっているように思う。平和な時ならそうしたものも文化の一環なのだが、コロナ禍の中では、感染への不安が高まる国民をよそに、オリンピックを強行しようとする競技スポーツ界、それを後押しするマスコミや広告代理店には疑問を持つ。こんなことは、人の生命や健康を犠牲にしてやるようなことなのだろうか。感染の不安のある中で、人々は素直にテレビをみながら「感動」だの「元気をもらった」だのと思うのだろうか。そしてまたなによりも、オリンピック選手を使ったCMを流す企業に好感を持つのだろうか。いずれもNOではないか。
2021年05月18日
コメント(10)
コロナについて思うところを書いてみる。優等生とされてきて、今まで感染者のほとんどいなかった台湾、モンゴル、ベトナムと言った国々で感染者が増えている。こうした数字はgoogle検索ですぐにでてくるのだが、例えばモンゴルでは、5月15日の感染者が541人、死亡者が2人となっている。かの国の人口規模を考えるとけっこうな数字である。今まで感染を抑えていた国で感染が拡大している理由は何だろうか。変異株の存在が関連しているのだとしたら、今まで比較的被害が少なくてすんでいた東アジアも、今後は欧米並みの被害がありうるというのだろうか。オリンピックと言えば東京で7月に開催されるというイメージが強いのだが、テスト大会や予選、事前合宿と言う形の前哨戦はすでにはじまっている。こうしたものは大都市以外で開催される場合が多く、コロナ感染者がでた場合の医療体制に不安がある。事前合宿については、あちこちで取りやめたと言うのがニュースになっているが、取りやめないでそのまま入国している例はあるのだろうか。インドの変異株が問題になっているが、黒部市ではインドのアーチェリーチームの事前合宿が予定されており、住民は気が気ではないだろう。全国の感染状況をみると札幌市の急増ぶりが目を引く。これとこの間のマラソンのテスト大会との関連はどうなのだろうか。おそらく札幌市の感染者数とマラソンテスト大会との関連は検証もされないだろうし、そうした問題提起すらなされていないように思う。五輪も同様である。もし、五輪開催後に感染者が急増する事態になっても、五輪との因果関係は絶対に認めないだろう。
2021年05月16日
コメント(31)
特にスポーツが好きと言うのではなかったが、オリンピックだけは昔から興味をもってみていた。入場行進にみられる民族衣装や各国のお国ぶりも楽しかったし、競技では、体操などはよくみていたように思う。東京五輪のチャスラフスカやアスタホワは子供心にも綺麗だと思ったし、メキシコ五輪のクチンスカヤも可愛らしい丸顔で親しみやすかった。モントリオール五輪のソ連体操チームもイケメンぞろいで印象的だったし…今年の東京五輪が消えたら、こうした過去の名場面を放送したらよい。それにしても、オリンピックはずいぶんと変わった。まず競技が非常に増えた。これは新たにオリンピック種目化されたものもあれば、男子だけの競技を女子にも広げたものもある。新しい種目の中にはごく小さなビキニを着て跳んだり跳ねたりする深夜のお色気番組のようなのもあるし、壁をよじのぼるバラエティ番組のようなものもある。こんな競技までオリンピックに入れる趣旨がどうもわからない。また、女子競技の中には、さほど普及しているとも思えないものもあり、男子にあるからといって女子にも同じ競技を無理に入れることもないだろう。男子にある競技は必ず女子にも入れ、その一方で女子にしかない競技もあるというのは一種の差別ではないのだろうか。また、開会式や閉会式のショー化もすすんだ。そこでは開催国の一番みせたいものだけがでてくる。シドニー五輪のときには流刑船はでてこなかったし、アトランタ五輪では黒人たちは歌を歌いながら笑顔でやってきたことになっていた。そしてなによりもかわったのはアマチュア規定がなくなったことだろう。プロ選手が出るようになったことばかりではない。それ以外の競技でも人気選手ともなれば広告代理店や有力企業に所属し、活躍すれば、その選手を使ったCMがあふれる。もちろんそこには巨額の金が動く。東京2020でも、大手広告代理店や有力企業だけではなく、主だったマスコミ各社もスポンサーとなっているので、マスコミでは五輪中止論はなかなかでない。それで外国のメディアにでてくる中止論がせっせと引用されるわけである。
2021年05月14日
コメント(15)
全国のワクチン接種をめぐる混乱をみていて、きっとこういうことがあるのだろうな…と思っていたらやっぱりあった。愛知県西尾市で起きた、さる企業の会長夫妻をめぐる予約騒動である。会長の秘書から市の保健センターに電話があったことに端を発したもので、「健康福祉部長と副市長が相談し、一般接種の枠で配慮することとし」た上で、5月6日に予約が完了したというものである。市のHPにこうした経緯が掲載されており、これによると会長夫妻は10日に予定されていたワクチン接種は行わなかったということである。ここで、どうしても以下の疑念がわく。こうしたことは普通内部告発がないと表に出ない。逆にいえばこうしたことは氷山の一角なのではないか。また、記者会見で説明されたことはどこまで事実なのだろうか。HPの説明によれば、会長の秘書と健康福祉部長と副市長が関与し、それ以外の人は何も知らなかったように読めるのだが。氷山の一角という点については、やっぱりというかなんというか、他にも首長の優先接種の事案がでてきた。そのうち、疑心暗鬼はますます高まり、オリンピック開催を主張しているような人は上級国民枠で接種済なのではないか…なんて憶測がでるようになるかもしれない。ワクチンは重要なのだが、接種を始めたからには、相当のスピードで行わないと社会不安と分断を招く。米国は格差の酷い社会と言うが、誰でも、いつでも、接種できる会場がニュースで紹介されていた。高齢者以外でも闘病中で接種を一日千秋で待っている人もいる。介護従事者や保育従事者も医療の枠からは外れているようだが、感染の不安という意味では医療従事者と変わらない。
2021年05月13日
コメント(34)
東京五輪のニュースで思うところを書いてみる。最近はこの五輪について、総理は「安全安心の五輪」と言っているようだ。誘致の時は震災からの復興五輪を謳っていたが、そのうちコロナが流行し始めると「コロナに打ち勝った証」となり、それが「安全安心の五輪」となったようだ。ただ、復興とかコロナに打ち勝つというとプラスの意味があるのだが、安全安心というのは、ただ単にマイナスをゼロにする話なので、ならばいっそ初めからゼロでいいんじゃない…とつい思ってしまう。某内閣参与の方が、日本のコロナ被害は「さざ波」で、これで五輪中止とか笑笑いとツイッターに書いて批判をあびている。えらい方から見るとコロナで死ぬ庶民の命などは泡のようなものなのかなあ…という感想は横に置くとして、この言い方のおかしなところは被害をより大きな外部の被害に比べて「さざ波」と過小評価しているところだ。こんな言い方が許されるのなら日本の戦争被害者の数などはソ連に比べれば「さざ波」でたいしたことないとなるのだが、誰もこんな言い方はしないだろう。それに欧米と比べるのではなく、近隣諸国と比べると日本の感染状況はむしろ劣等生の方だ。台湾、中国、豪州、NZ、ベトナムはほぼ感染を抑制している。IOCを通じてアスリートにワクチンの優先接種が行われる見込みとなっている。たしかに密着競技の場合、日本のアスリートがワクチンをうっていないとなると相手は不安かもしれない。ただワクチンは提供されても、それをうつのには人手がいる。今のワクチン接種の遅れは注射を打つ人を確保しにくいこともあるので、やはりアスリートの割り込みという印象は残る。IOCが注射を打つ人まで提供するわけではないだろう。人手といえば、総理がぶちあげた高齢者一万人接種センターも自衛官の看護師だけではとうてい足りず、人材派遣会社に丸投げしているという。接種センターには大勢の人がやってくる。注射を打つ側の非常勤看護師や会場運営にあたる人の感染対策は大丈夫なのだろうか。医療従事者としてのワクチン接種はしていないように思えるのだが。
2021年05月10日
コメント(34)
先の大戦では、なぜあそこまでの被害に立ち至ったのだろうか。悲劇の根源はどこにあったのだろうか。まず、「終戦の決断」を下す人が誰もいなかったということがある。ひとたび降伏を言い出せば、敗戦の責任はその者が負うことになる。だから誰もそんな責任をとりたくない。これは指導層だけでなく、庶民レベルにもそんな空気は伝わっていたのか、「戦争は止めろ」と言えば非国民と言う罵声が飛んできた。そして精神論の横行と非科学的楽観論。大和魂で戦争は勝てる、本土決戦になれば竹やりで勝利できる、そして最後には神風が吹くといった類のもので、内心はバカバカしいと思っていてもそれを口に出せる人はいなかった。また、精神論とともに、さかんにいわれたのは、「ここで撤退したら英霊に申し訳ない」とか「戦地の兵隊さんを思いやれ」という言葉。特に前者は日中戦争のときに撤兵しようという論がでるたびに言われたという。そして敗戦、焼け野原となった後には責任の所在の徹底的なうやむや化と責任逃れが行われた。つまり一億総懺悔だが、これはみんなが悪いという議論で、みんなが悪いのだから特定の誰かが悪いわけではないんだということとなる。そして当時の権力者や戦争を煽った言論人の中からは、「オレは実は反対だったんだ」という声があがる。戦争に例えるのは何だが、今回のオリンピックもこれによく似ている。中止を言う人が誰もいないのだ。総理や担当大臣は中止を決めるのはIOCの権限と言っているようだが、ことは日本国民の健康と生命の問題であり、IOCに丸投げするのは日本の政治家としては無責任だとしか思えない。精神論の横行も同じだ。ポエムのような元気を与えるだの日本を元気にするだのと言う言葉は出てくるが、感染拡大阻止のために何を行うかと言う具体的議論はない。バッハ会長の「日本人が粘り強さや、へこたれない精神を持っていることは歴史が証明している」といえば、ああ「大和魂のことだね」と思うし、元総理が「オールジャパンで対処すれば」といえば、ああ「一億火の玉ということね」と思う。そして、「ここで撤退したら英霊に申し訳ない」というのは、「今までかけた費用と努力が無駄になる」という典型的なサンクコストの議論に、そして「戦地の兵隊さんを思いやれ」という言葉は、「中止というのは頑張っているアスリートに失礼」という言葉によく似ている。ただ、兵隊とアスリートが違うのは、前者は自分の意思にかかわりなく召集されたのに対し、後者は自分で人生の成功のためにアスリートという生き方を選択したということだろう。もし五輪が強行され、決してそれはあってはならないと思うのだが、日本の感染状況が非常に深刻になったらどうなるのだろう。その時にも、きっと「誰も悪くない」とか「自分は実は反対だった」ということがさかんに言われるのではないか。たしかに戦争と五輪は全く違う。ただ、国民の生命や健康をへとも思わずにつきすすむ政府の姿勢はどうしても両者をだぶってみせてしまう。
2021年05月10日
コメント(12)
コロナ禍であってもひたすら家にだけ閉じこもるのは人生の無駄としか思えない。ウィルスは人から人へとうつるもので、それを考えるとただ単に感染した人とすれ違っただけで感染するとは思えない。注意するのは密閉空間で飛沫の飛んでくるような状況なのだが、最近では美容理容や歯科などは、すごく用心深くなって、マスクにフェイスガード、そして無用な会話を避けるということが徹底されている。当然ながら、不特定の顧客や患者を相手にする方こそ、強く感染の危険を感じているのだろう。そしてバスなども窓をあけて走行するのが普通になっているし、電車でもおしゃべりに興じているような光景は少なくなった。肩がすぐにぶつかるような混雑ならともかく、普通に街を歩いたり、観光名所を散策するくらいだったら、それほど不安に思うこともないだろう。そう思っているので、家族と自動車で花の名所などに行くことは普通にやっている。ただそうしたところに行くと明らかにコロナ前と違うと思うことがある。まず、当然ながら外国人が非常に少なくなっている。そして二つ目は若い人が目立つ。以前はさすが高齢社会というくらいどこに行っても高齢者ばかりだったのが様変わりである。これは、若い人が増えたというよりも高齢者が減ったので相対的に若い人の比率が高くなったのだろう。最後にバスでやってくる人が減っている。観光旅行社のツアーバスをみかけなくなっただけでなく、駅からのアクセスを提供する路線バスの利用者も減っている。その代わり自動車の渋滞や駐車場の混雑は酷い。人間の考えることは皆同じというが、コロナが不安なので公共交通は避けるし、そうした不安感は高齢者ほど強いので若い人が目立っているということなのだろう。
2021年04月19日
コメント(26)
東京には来ないで、路上飲みも自粛、GWも家に居て…どうやらここではコロナ対策というのは、庶民に我慢を要請することにあるようだ。自粛して我慢して、そしてその先に光が見えれば、自粛しがいもあるだろう。しかし、一方では聖火リレーをやり、7月には万単位の選手関係者を読んで大運動会をやるという。東京を中心に変異株ウィルスまみれになっていくのに、はたして今現在の路上飲みを我慢する気になるであろうか。そりゃ五輪がはじまれば、格好のネタなので、テレビは感動をありがとうの大合唱になるだろうし、大手広告代理店も広告で使えそうな選手を探すのに虎視眈々となるだろう。そして祝祭ムードの冷めないうちに選挙勝利だなんてもくろんでいるとしたら選挙民をあまりに愚民視するものとしか思えない。大手マスコミや広告代理店が世の中を動かす時代は終わりつつあるし、そうした者に対する拒否反応もあるのではないか。それにマスコミや広告代理店の思い通りにならないものがもう一つある。感染状況である。第四波はいまだにピークが見えないし、五輪由来の波も閉会式をまたずに現れるだろう。どんなミーハーでも、感染状況がぐんぐん悪化している時期に、オリンピックの祝祭ムードに浮かれて政権党を支持するなんてことにはならないのではないか。
2021年04月17日
コメント(27)
一人当たりのGDPや賃金水準の国際比較をみてみると、日本が相対的に貧しくなっているというのは事実だろう。なぜこれについての報道が少なく、議論もあまりなされないのか、不思議である。実態把握の問題なので右とか左とかの政治的立場とは関係ないし、それが悲観的なものであったとしても「日本を貶める」というわけではない。そういえば、かって、経団連などの経済団体では、日本の賃金が高いので競争力がないとか、終身雇用だから国際競争に勝てないとか、そんな議論が幅をきかせていた。しかし、その後、賃金が低下し、非正規雇用が拡大して、日本の競争力は強化されたのだろうか?むしろ日本を代表していた優良企業が見る影もなくなっていったというのが実態ではないか。どんな時代にも上り坂局面と下り坂局面がある。上り坂の時代には子は親よりも豊かであり、生まれてくる孫はもっと豊かに過ごせるだろうと人々は期待する。だから高度成長時代には結婚率は高く、ニュースのひまネタといえば海や山でレジャーに興じる若者の映像であった。それが下り坂になると逆で、若者から貧しくなっていく。若者の車離れ、海外旅行離れ、酒離れ…これらは皆先立つものがなくなってきたからだろう。
2021年04月16日
コメント(35)
ウィルスの好物は心の隙…こんなことを都知事はいったとき、なんだこりゃと思った。正直こうした精神論はもう沢山だ。コロナが現れて一年以上になるのに、国や自治体の対策のほとんどは、国民に対する自粛要請やうがい手洗い咳エチケットのよびかけばかりだ。そしてその一方でワクチンの接種完了の予定は今だ空白で、入国規制はゆるゆるで防げたはずの変異株が流入して猛威をふるっている。ウィルスの好物は心の隙なら感染した人は隙があったので自己責任なのだろうか。https://news.yahoo.co.jp/articles/828b716d37af1bd100e36398e7bac20fc1b08920東京にまん延防止措置がとられるが、去年の今頃の緊急事態宣言とは世の中の雰囲気が違う。去年はしばらく自粛をすればコロナは終わると思っていた。いわば自粛と言うトンネルの向こうに光をみていたわけだ。でも、今は違う。コロナは収束したようでも次の波がやってくる。いつまでこうしたことが続くのかわからない。そして外食を自粛しろだの不要不急の外出を避けろと言っている政治家や官僚が会食を行っていることも知られている。それになによりも、国自体が聖火リレーやオリンピックと言う不要不急をやろうとしている。たしかにできるだけ家にこもっていれば感染の危険は少ないかもしれない。ただそれでは時間の無駄だし、足腰も弱ってくる。コロナ禍の中で実は高齢者の寝たきりや痴ほうが増えているのではないのだろうか。最近とんとみなくなった老人の歩く会。ああ言ったものがどれだけ生活のはりをもたらしていたことか。不要不急の外出をやめましょう…その呼びかけの意味はわかる。でも、その一方でこんなふうにも思う。不要不急なくしてなんの人生か…と。
2021年04月13日
コメント(3)
こんな話をきいたことがある。セールスマンが商品の宣伝をし、いかに自分の売る商品がよいものであるかを説明した。聞き手は思いつく限りの疑問点を挙げたが、セールスマンはいずれについても反論の余地のないほど理路整然と答えた。彼の説明は完ぺきであったが、聞き手は全くその商品を買う気を失った。これに似た経験は誰にでもあるのではないか。人間とはやっかいなもので、理屈とか理論でだけ、動くものではない。逆に「説得された」とか「論破された」と思うと、あえて反対の選択をしようとすることもある。こんな人間の性癖を思うと、もしかして人と人との争いを解決する際に法律というものはさほど有効ではないのではないか。利益とか権限とかで結び付く者同士、例えば企業とか行政とか、そうした者同士であれば、たえず法律を確認しながら、紛争を未然にさけ、紛争が起きた場合にも、その被害を最小限にとどめることができる。しかし、そうでない生きた人間(自然人)同士の紛争の場合には、法律的処理で金を動かすことはできても、感情はかえってこじれる。だから法律というものは、紛争があった場合の、殴り合いなどの実力行使よりはましな最後の手段ではないかと思う。実際にも、人間同士の間では法律上の権利義務関係とは別に様々な感情や相手の細かな事情を察した解決がなされていることが多い。そうした見地からすれば、かって金銭的に恩を受けた人が困窮していたら法的な義務とは別に何かしようとするのが普通なのではないのだろうか。だからこうした場合に、感謝しようとする気も、できる範囲で何かしようとする気もさらさらなく、むやみと法律論をふりまわすような人はあまり尊敬されないように思う。
2021年04月11日
コメント(9)
学校時代を通じて体育の成績はよくなかった。小学校の頃は何も思わなかったが、中学生の頃になると、こうしたものってそもそも成績評価するのはおかしいのではないかという気がしてならなかった。中学も2年生くらいになると、そろそろ高校入試を意識する。都立高校入試については内申書重視の政策がとられており、体育の1と理科や社会科の1とは入試では同評価となるのが不条理に思えてならない。教師の恣意が入りやすい内申書はそもそも問題が多いと思うが、事実上、学力別の授業が行われる都立高校の入試で実技教科の成績が合否を左右するのはおかしい。昔、血友病で体育の授業を欠席せざるを得なかった少年が、体育1の内申書のために希望の高校に入学できなかったことで訴訟を起こしたことがあるが、こうした問題は病気の少年だけの問題ではない。知育、徳育、体育がすべて重要だということは異論はないが、知育、つまり主要5教科に比べると、徳育とか体育というものは、成績評価になじまないのではないか。徳の程度などはペーパー試験や限られた時間でしか生徒と接しない教師が評価できるわけもないし、体育も先天性によるところの多い身体能力の評価になりがちである。身長や体重で成績評価をするといえば誰しもばかげたことと思うが、走る速さや球技の巧さで成績評価をするのもそれと似たようなものではないか。さらにいえば部活というのも不思議である。学科授業では成績による差別や選別には非常に神経質になっているのに、部活ではレギュラーとそれ以外の厳しい区別がある。そしてそれが大会に向けて猛烈な練習を重ねる。何かを一生懸命やる時期があるというのはよいし、教育効果もあるかもしれない。ただそこには、試合とか勝敗とかとは別に単にスポーツを楽しみたいという子供の受け皿はない。学校教育の段階では体育の授業は生涯スポーツとか健康づくりとかに重点を置き、学科の成績評価とは切り離した方がよいし、部活も、ただ単にスポーツを楽しみたい子の受け皿になるようなものがあってよい。
2021年04月06日
コメント(14)
全694件 (694件中 251-300件目)