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『十二人の手紙』井上ひさし(中公文庫) ごく個人的な話で申し訳ないのですが、この拙ブログでは、橋本治は「文芸評論家」のカテゴリーに入っています。多分私がこのブログに最初に報告した橋本作品が、文芸評論だったからだと思います。 ところが、岸田國士は、私が最初に報告した岸田作品は小説だったにもかかわらず、「劇作家」のカテゴリーになっています。 そんなんお前さんが自分で勝手にそうしてんねんやろどーでもえーやんと、まー、その通りでございます。すみません。 でも、まー、申し訳ないながら一言だけ言わせていただくと、まー、なんといいますか、私なりのその作家についての評価なんですね。(もっとも、岸田國士は私の評価ではないですよね。劇作家岸田國士は、日本文学史上の評価であります。) で、この度の井上ひさしですが、私のブログ・カテゴリーでは劇作家であります。 これも、一般的評価として、ほぼ「誤っていない」とは思っているのですが。 実はわたくし、井上ひさし作品はあまり読んでいないのでやや不安な気もしますが、私の読み違いなのでしょうか、私は井上小説にさほど感心感動した記憶がないんですねー。(すみません。何となく、先に謝っておきます。) 一方戯曲はと言いますと、いえ、実はこちらについてもたくさん読んでいるわけではないのですが、私の中では『父と暮らせば』一作だけで十分な気がしています。 いわば私は、『父と暮らせば』のファンなんですね。(作品に対するファンなんて言い方はあるんですかね。あってもいいようには思うのですが。) というわけで、少々「疑心」と共に読み始めた短編小説集であります。 十三の短編からできています。一応、前から順番に読んでいったのですが、んーー、何と言いますか、ちょっと、イヤ、なんですね。 私の持っている文庫本には詳しい情報が書かれていないのですが、この短編は、何かの雑誌に連載されていたんでしょうかね。 短編集というのは、大概そうですね。特にこれは、本当は短編というより連作(ほぼ女性の手紙を中心に描いた書簡体小説集)と言うべきでありましょうから。 私が「イヤ」と感じたのは、少なくないお話に殺人とか自殺が描かれているからでしょうか。殺人・自殺が描かれるということは、当然そんなすさんだ人間関係が描かれてきます。それがイヤなのかなとも思いましたが、なんか違うんですね。 何と言いますか、うまく言いづらいのですが、ああでもないこうでもないと考えながら、いくつかの言葉が思い浮かび、しかしその言葉の意味の中に収まりきらない思いも感じながら挙げてみますと、「志の低さ」「グロテスク」「下品」。 んー、重ねてすみません。 こんな風に書いてしまうとマイナスイメージがとても強くなってしまうのですが、そんなことはありません。これらの言葉の意味する内容の、ごく表面をかすっているみたいな気がする、そして、なんとなく「イヤ」だな、というだけであります。 それと、こちらは上記の単語よりも私の感想の中心に位置するのですが、例えば本文中にこんな風に書かれたところがあります。 「……とりわけどうにもならないのは、戯曲全体を覆う、救いがたい感傷性である。」 作中表現の引用というのはひょっとしたら少し「ズルい」のかもしれませんが、そしてこの表現ほど強くはないでしょうが、「感傷性」は全作品に感じられるところでありました。そしてそれが、作品作りのリアリティを少しゆがめているんじゃないかと、わたくし、申し訳ないながら愚考した次第であります。 本書を半分くらい読んだあたりから、実は私は『父と暮らせば』をちらりと頭に思い浮かべながら、なぜこんな話しになるのかなー、と何度か思いました。 この「イヤ」さは、どこかで似たものを感じたことはないかなー、とも思いました。 で、はっと、気づきました。 松本清張の初期短編集を読んだ時に感じた「イヤ」さがこれに近いんじゃないか、と。 関川夏央が「あまりに他責的」といった松本清張の初期の短編集には、自らの傷口に砂を擦り付けるような学歴コンプレックスが、これでもかと描かれています。それは読んでいて、かなり暗い気持ちになってくるものであります。 しかし、多分作者は、一度はこれを書かねばならなかった、と。 振り返って本書には、筆者井上ひさしの少年時代体験が重なっていると思われる主人公が、何人か出てきます。成人後そこから救い出される話もありながら、しかしその描かれ方は、読んでいてはらはらと辛い……。 本書は、私にとってはそんな印象の短編集でした。 読み終えてしばらくして、そういえば、と思い出したものがもう一つあります。 ジョン・レノンがソロ活動を始めて最初のアルバムの一曲「マザー」です。 ここではもう詳しくは説明しませんが、何となく制作事情の似た、そして、こちらはまがうことなく、ポップス史上の名作であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.12.27
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『パーク・ライフ』吉田修一(文春文庫) 少し前に、薦められて吉田修一という作家の本を初めて読みました。 『ウォーターゲーム』という本でした。 前もっての情報もあまりなく読みました。いえ、二つだけこの作家についての情報がありました。 一つは芥川賞受賞作家だということ。もう一つは、いつだったか、NHKの番組で飼い猫と一緒に映っている番組宣伝を見ました。(その番組は見ていません。) まずまずの長さの長編小説でしたが、読み始めました。 しばらく読んでいたら、殺し屋が主人公の村上春樹の『1Q84』を連想しました。そんな話かな、と思いました。 ところがあれよあれよととんでもない展開になって、終盤は「007」か「ルパン三世」みたいな感じになっていきました。 少し、いえ、かなり、あっけにとられて読み終えました。 もちろん「007」や「ルパン三世」がだめと言っているつもりは毛頭ありません。 ただ、例えば今回は人間ドラマみたいな映画が見たいなーと思って映画館に入ったのに「ルパン三世」のアニメの上映だったとしたら、やはり戸惑いますよね。(しかしまー、映画では、いくらなんでもそんな勘違いはないでしょうが。) とにかくそんな感じでありました。 読み終えて、しばし呆然としながら少し考えたんですね。これはいくらなんでも芥川賞とはあまりに違うだろうと。 で、ググッてみまして、この作家が純文学と大衆文学と両方書く器用な方だと知りました。 そこで一応納得して終わってもよかったのですが、まーせっかくだから、この作家の芥川賞系の作品も読んでみたいものだと考え、そして今、その芥川賞受賞作の読書報告をいたしております。 さて、この文庫本は二つの作品が収録されています。 芥川賞受賞作の「パーク・ライフ」と、受賞の3年前に「文学界」発表された「flowers」という作品です。私は、「パーク・ライフ」から読み始めて、「ウォーターゲーム」との違いにこれもまたかなり驚きました。 この小説には、「ルパン三世」のような(何度も「ルパン三世」を出してすみません)次々とスリリングに展開していくストーリーが全くありません。 ここに描かれているのは、例えば似通うイメージの作家で言えば保坂和志の世界あたりでしょうか。保坂和志の芥川賞受賞作も、これは極端に何の出来事も起こらない小説でしたが、あそこまで何も起こらないわけではないものの、似通った雰囲気を持つ作品でした。 わたくし思うのですが、これは芥川賞の「好み」ではないか、と。 何年かに一回ずつ、この何にも出来事の起こらないタイプの小説が受賞するように思います。 表立った出来事が何もなくて、かわりに文体や雰囲気や余情みたいなもので読ませる小説ですね。(なんとなく、波乱万丈のストーリーよりこちらの方が、純文学っぽい気もしますしねぇ。斎藤美奈子も確かそんな事書いていました。) でも、私もこのタイプの小説がさほど苦手というわけではありません。 何となく入り込んでしまえば、なかなか心地の良い世界のような気がします。 ただ本作は、すぐにそんな心地よい世界に入れたというわけでもありませんでした。しかし半分を過ぎたあたりから、えらいものてすねー、段々そんな感じになってきました。 特に終盤、気球を上げる老人が出てくるのですが、この老人はなかなか良かったです。 私は読みながら、これは「逆・ライ麦畑」かなと思いました。 ご存知のようにサリンジャーの「ライ麦畑」には終盤幼女が登場して、実にいい展開に導いていきます。 確か、芥川龍之介の「戯作三昧」にも終盤幼児が出てきて、いい雰囲気を作りませんでしたかね。 それの老人版かなと、思ったわけです。 でも、そうでもありませんでした。作者は、そんな老人もさほど書き込もうとしませんでした。 ひょっとしたら、このストーリーに「イベント」がほとんど起こらないタイプの小説の難しさは、いかに意味を持っていそうな形に落とし込まないかではないかと思いました。 意味を持たせない。象徴しない。 なるほどそう考えれば、これはこれで、結構難しいかなと思いました。 (もう一作、受賞3年前の小説は、「パーク・ライフ」と「ウォーターゲーム」の真ん中みたいな小説でしたが、「ウォーターゲーム」を読んだ時にも感じた、少し厳しく言えばご都合主義な不誠実さを感じました。3年で見違えるともいえそうですし、「三つ子の魂百まで」ともいえそうに思いました。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2020.12.13
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