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読レポ第2059カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「深いところから話さないクライアント」への対応として、フォーカシングを発見(3/6) 一方、はなの内容が、過去に観た映画のことだとしよう。もしあるクライアントが、映画の内容の説明を淡々と続けて、それに終始する場合には、この人に変化は生じない。しかし、もしこの人が映画の主人公について説明しながら、その途中で「なんて言ったら、いいんでしょう……。あの主人公をみていると、なんていうか、なんだか、よくわからないですけど『滝に飛び込め。人生は、一瞬だ』という言葉が、浮かんでくるんです……。なんででしょう……・うーん(沈黙、5分。クライアントは、目をつむって、自分の内側の何かをまさぐっているかのような表情、手は、胸のあたりをさわって、何かを、内側で探しているような雰囲気が伝わってくる)。そうか、あの人の発するあの雰囲気は、今の自分に一番、欠けている、というか……ん……そうじゃないですね……えっと……『自分にももともとは、あるけども、今は、見失っているもの……それは、人生の流れの中に飛び込むことだ、と言われているような、そんな感じがするんです。……迷うな、飛び込め、……そんなふうに、あの主人公から、言われているような気がする』というか……」。 こんなふうに話しているならば、たとえ、話の内容は、自分のことや自分のかかえている問題についてほとんど語られていなくても、変化は生じる。クライアントは少しずつ、着実に、生き生きとした自分を取り戻すことができていく、そこには、「深さ」があるから、である。クライアントが、自分の内側の深いところに触れて、その内側の深いところに直接意識を向けながら、そこからものを考えたり、語ったりすることができる。すると「変化」が生じ始めるのである。そしてその、内側の深いところの「何か」こそが、ジャンドリンが、修士論文でディルタイのErleben(エアレーベン)(「生」「体験」)の訳語として当てたexperiencing(エクリンピング:経験する)という概念、そしてまだ哲学の大学院生だった時にロジャーズの研究室をはじめて訪ねた理由、「私は、セラピィにおいて、クライアントは、experiencing(エクリンピング:経験する)というインターフェイスからものを語っているに違いない、と考えた。私はそのことを確かめるために、実際に見に行く必要があったのだ」と語っている、まさにそれであったのだ!と著者は述べています。 面接でクライアントは映画の話しを雑談と思っていたが、その映画からクライアントは、自分の内側の深いところに触れる変化を示してきた。映画の主人公から人生の流れの中に飛び込むことだ、と言われているような、そんな感じをうけて、自分の内側の深いところに触れていき「変化」が生じ始めるのたのである。 ジャンドリンは内側の深いところの「何か」とあるとロジャーズの研究室に訪れて、「私は、セラピィにおいて、クライアントは、experiencing(エクリンピング:経験する)というインターフェイスからものを語っているに違いない、と考えた。私はそのことを確かめるために、実際に見に行く必要があったのだ」と語っている、まさにそれであったのだのである。 私もこの項を読んで、クライアントは映画の話しを雑談と思い込まないようにしないとならないと、思った。しっかり、クライアントに心の耳を傾けないとな。沈黙も。
2024.04.30
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読レポ第2058カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「深いところから話さないクライアント」への対応として、フォーカシングを発見(2/6) 一方。「通常のクライアント」の中にも、いくらカウンセラーが「受容、共感、一致による深い傾聴」をしても、なかなか自分の内側に入っていかない人がいる。そうした人は。「深い傾聴」が通用しない。回数を重ねても、よくならない。しかもそのことが、面接の2回目・3回目のその人の様子、特に「話し方の深まらなさ」でわかってしまう。このことに着目したのが、カートナーの研究であった。 しかしこれは、自分の申し込みでカウンセリングセンターに来る人に限定した話しである。カウンセリングセンターの外に出れば、カウンセリングやこころのことにまったく関心がない人はたくさんいる。むしろそういった人が大半である。そうした人に「深い傾聴」をしても、ただ雑談して「あー、すっきした」となって、それで終わりである。精神科に長期入院してボーッとして過ごしている人も、いくら「深い傾聴」をされても、あまり深まらない、セラピィは成功しないのである。 では、どうすればよいのか。何をすることができるのか。 カウンセリングで自己探索が深まらない人は、「深さが欠如」していた。自分の内側の深いところに触れて、その深いところからのものを考えたり語ったりすることができずにいた。浅い表面的な話を続けていた。だとするならば、とジェンドリンは考えた。 鍵はクライアントの「話し方」にある。クライアントが「話す内容」は、それほど重要ではない。現在のことについて語ろうが、過去のことについて語ろうが、自分のことについて語ろうが、映画のことについて語ろうが、あまり関係ない。 鍵は「話し方」にある。たとえば、今の自分のことについて「そうですね。今の私は、なんてダメなんですよ。えっと、こういうことがあってですね……」と、50分間ノンストップで話すクライアントは少なくない。そして、それだけで返っていくのである。これだけでは、クライアントに「変化」は生じない。たくさん喋って、スッキリするかもしれない。カタルシスはなるかもしれない。けれども、それだけ、なのである。と著者は述べています。 ここでは、「深いところから話さないクライアント」として、カウンセリングやこころのことにまったく関心がなくて、たくさん喋って、スッキリしたいクライアントも多くいる。そのようなクライアントは、カウンセラーが「受容、共感、一致による深い傾聴」をしても浅い表面的な話をするばかりであり、自分の気持ちさをスッキリするだけで終わってしまう。「心の中に溜まっていた澱(おり)のような感情が解放され、気持ちが浄化されるだけのカタルシスで終わり、クライアントには「変化」は生じない。一時的にスッキリするだけです。また心の中に澱(おり)のような感情が溜まっての繰り返しが続いている。 そんな、散々喋って、「スッキリしたと言う表情」の人に私も出会う。まあ、それでも、本人が「スッキリ」したなら良いと思うが、クライアントのコンフォートゾーンの自己成長しないし、変化しないです。再び、散々喋って、「スッキリ」の繰り返しを続けてしまう。 それから抜け出すためには、カウンセラーがクライアントの言葉の背後にあるモノを感じて、クライアントへ心の変化を促す働きかけをすることだと思う。カウンセラーは、どんな事がクライアントの本質課題を意識して、クライアントの自己変容を促すことだと思います。
2024.04.29
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読レポ第2057カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「深いところから話さないクライアント」への対応として、フォーカシングを発見(1/6) 1956年に「いいかい。大切なのは、ここからどう進むでいくのかだ、君は、それを発見していく人間の一人だ」とロジャーズから未来を託されたジェンドリはその後、どのような道を歩んだのか、ジェンドリ自身、次のように述懐している。 ロジャーズがウィスコンシン大学に招かれた時、私は研究主任として同行した。ほどなく、相談室に入ろうとしない「統合失調症」の患者と並んでホールに立っている自分がいた。患者は何についても深く話すことはなかったし、このことは精神科の入院患者に共通していた。私たちは対照群として近所の農家から「正常な」人々を募集した。雨水を溜めるために水平に農耕することや、親類総出で数日間で刈り取れるだけのタバコを植え付けることなどを彼らから学んだ。これらの「正常な」クライアントもセラピィに関連するような話はしなかった。 この深さの欠如(lack(ラックー:足りない) of deqth(ダッ:死))は、シカゴ大学で会っていた通常のクライアントに認められるものだった。カートナーは、カウンセリングの最初の2、3回でクライアントが自分の内側での体験を語っていないことがわかったら、そのクライアントは、長期間のカウンセリング面接をおこなってもうまくいかないことが予測されることを示していた。私は1963年にシカゴ大学に戻った。そしてこの問題に取り組んだ。多くの学生が忍耐強く、クライアントが自分の直接のexperiencing(エクリンピング:経験する)を見出すことができるようになるための「インストラクション(他者に物事を教え示すこと)」を記述した実験したりして協力をしてくれた。私たちはそれをセラピィの時間外で試み、多くの研究が生まれた。私たちはセラピィにとって決定的に重要な一つの変数(one crucial (クション:重要な)therapeutic (ベラキュデ:治療) variable(ベリヤボー:変数))を見いだすことに成功し、またそれを教えることもできるようになった。私たちは、あるケースの失敗が予測された場合に、それを逆転させることができるようになったのである。(Gendlin,2022) ジャンドリンは勝利した!つまりは、こういうことである。傾聴は、何のためにするのか。それはただ、「わかってもらうため」でも、話したいことを話してすっきりするため(カタルシス効果)でもない。本書第4章で示したように、人は他者から、深く聴いてもらっていると、本人自身も、自分自身の内側を深く聴くようになる。自分の内側に意識を向けていなかった人が、自分の内側に意識を向けるようになる。内面探索を始めるようになる。つまり、深く傾聴されることで人は、自分の内側を深く探索するようになる。それが、大きな自己発見や、今の自分がどうすればいいのかを発見することにつながる。と著者は述べています。 ジャンドリンは、1955年のカートナーの修士論文でのロジャーズへの異論をしめした「カウンセリングの最初の2、3回でクライアントが自分の内側での体験を語っていないことがわかったら、そのクライアントは、長期間のカウンセリング面接をおこなってもうまくいかないことが予測される」と言っていたことに対して、それを覆す発見した。 人は他者から、深く聴いてもらっていると、本人自身も、自分自身の内側を深く聴くようになる。自分の内側に意識を向けていなかった人が、自分の内側に意識を向けるようになる。内面探索を始めるようになる。つまり、深く傾聴されることで人は、自分の内側を深く探索するようになる。と述べていることに、私も同感です。 それには、私流に言うとたゆまなく心のベクトルをクライアントに注ぎ続けることだと思います。クライアントに深く傾聴の心のベクトルに耳を傾けることだと思います。
2024.04.28
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読レポ第2056カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1950年代後半ロジャーズ論文におけるexperiencing(エクリンピング:経験する)概念(2/2) ではロジャーが、ジャンドリンの言うexperiencing(エクリンピング:経験する)のdirect referent(ダイレクト:直接、レフレント:指示対象)としての特質をまったく軽視していたのかというと、そうではない、微妙な揺れが感じられるのが、第6段階についての記述である。第6段階のクライアントについてロジャーズは、「それについて感じるのではなく、体験の中に主観的に生きている」と言い、クライアントの発した「ワアーッ!これも変だ!」と言葉を引きながら、この言葉は「彼の中で進行し、彼がその中で生きている!experiencing(エクリンピング:経験する)」を表したものだ、と言うのである。ここでもやはり、experiencing(エクリンピング:経験する)は、クライアントがその体験そのものになって生きる、という実存的ニュアンスが濃厚であり、direct referent(ダイレクト:直接、レフレント:指示対象)としての性質は希薄である。しかしその後、同じ第6段階の説明として次のようにものべられている。 十分に体験するその瞬間の体験の流れ(the moment(モンメント:一瞬) of full experiencning(エクリンピング:経験する))は、明瞭にして明白な参照体となる。前の例で、このような瞬間に自分に突然生じたものがなんであるか、クライアントはしばしばあまりはっきりとは気づいていないことがわかるだろう。しかし、そのことはそれほど重要ではない。というのは、この事象(event(アベント:イベント)は、それについてもっと多くのもを見出すために、必要ならばたびたび引き返していることのできる実体であり、参照体だからである。これらの例に表れている懇願や、「自分を愛する」感情は、正確なものではないと後でわかるかもしれない。しかし、それらが何であるかについて、クライアントが満足のいくまで引き返していくことのできる、確固たる参照体(point(ポイント:ポイント) of reference(レフリーズ:参照)なのである。おそらくそれは、意識生活の下層であり、はっきりした生理的な事象を構成しているのもあり、クライアントが探索的な目的でそこへ引き返していくことができるものである。ジェンドリンはexperiencing(エクリンピング:経験する)の持つ参照体としてのこの重要な特質に、私の注意を向けてくれた。彼はこれを基盤とした心理学理論を展開しようとしている。(Rogers,1958) おそらくこのように理解していいのではないだろうか。1956年から1957年にかけてロジャーズは、心理療法の過程に関する自身の考えをまとめることに没頭した。1年間。録音された心理療法の面接の記録を聴くのに何時間もかけ、できるだけ無心に聞き入っていた。心理療法の過程に関して、またクライアントの変化について、どの要因が重要かについて、とらえるすべての手がかりに身を浸した。その結果、「自らのその瞬間その瞬間の体験そのものになりきって生きる」という実存的なニュアンスの強いイメージがゴールとして設定された。そしてそこに向けて、クライアントの変化過程を7段階に区分けし、ジャンドリンをはじめとした当時の共同研究者の提示したさまざまな概念をその過程の中にちりばめていった。experiencing(エクリンピング:経験する)概念はそこに取り入れられた概念の中に最も重要なものであるけども、まず先に設定されたロジャーズ自身のクライアントの変化過程に関するイメージが先行し、そこに組み込まれていく作業の中で、ジャンドリンがこの概念に込めた意味合いと若干ずれた使われ方がされたところもあるだろう。 筆者は、『オン・ビカミング・パーソン』(Rogers,1961a)(邦訳『自己実現の道』)の翻訳の中心的な作業を担当したが、その際、最も訳し分けに苦労し困惑したのが、「心理療法の過程概念」においてロジャーズが使うexperiencing(エクリンピング:経験する)の訳し分けであった。direct referent(ダイレクト:直接、レフレント:指示対象)としての性質が明確で、ジャンドリンに忠実にexperiencing(エクリンピング:経験する)の語を使っており、したがって「体験過程」と訳していいと思われた箇所と、たとえば先に引用した「十分に体験するその瞬間の体験の流れ(the moment(モウメント:一瞬) of full experiencing(エクリンピング:経験する))」といった表現のように、experiencing(エクリンピング:経験する)でも「体験過程」とは訳しづらい箇所(そう訳してしまうと、the moment(モウメント:一瞬) of full experiencing(エクリンピング:経験する)は、十分に体験過程の瞬間、となって、意味が取れなくなってしまうが至るところで混在していたからである。と著者は述べています。 ここでもロジャーズは、ジャンドリンのexperiencing(エクリンピング:経験する)より、クライアントの変化過程に関するイメージが先行して、ジャンドリンのexperiencing(エクリンピング:経験する)も混在していることを著者は、語っている。著者は、このロジャーズとジャンドリンのexperiencing(エクリンピング:経験する)をどう訳すか苦労し困惑したようです。 私は、ロジャーズのクライアントの変化過程をよく見て、観察して、クライアントの変化の瞬間をつかむことに心ベクトルを向けて、クライアントが言葉を鏡になって、別な言葉で反射したりしながら、クライアントの自己変容を促すことに働きかけたい。 誰かの指示よりもクライアント自身が自己変容しなければ、成長はしていかないと思う。
2024.04.27
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読レポ第2055カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1950年代後半ロジャーズ論文におけるexperiencing(エクリンピング:経験する)概念(1/2) 1955年以降のロジャーズ理論は旧モデルと新モデルの「混合体」であると述べた。また特に50年代後半から60年代のロジャーズ理論には、キルゴールの影響から「変化の流れの渦へと、危険を冒して我が身を投げ入れる」といった実存的なニュアンスが濃厚である、と指摘した。このことは、この時期のロジャーズの論文におけるexperiencing(エクリンピング:経験する)概念が、ジェンドリのそれとは若干異なるニュアンスで用いられていることに見て取れる。この時期のロジャーズの論文を改めて読み直してむると、論文中でexperiencing(エクリンピング:経験する)概念が援用される時、そこに、direct referent(ダイレクト:直接、レフレント:指示対象)としての意味が幾分か希薄であることがわかる。この傾向は、3年後の「心理療法の過程概念」(Rogers,158)においても引き継がれている。 この論文は、心理療法におけるクライアントの変容過程を7段階に分けて論じたものである。第1段階の特徴として、experiencing(エクリンピング:経験する)が固定されており、それから隔絶されえていることがあげられている。階段が上がるにつれてexperiencing(エクリンピング:経験する)の固定性が解消されて流動的になり、隔絶や遅延がなくなっていく、とされている。 第5段階では、そのことが「生命体的な事象とそれを主観的に十分生きることとの間にほとんど遅れがない」と説明されている。少なくてもこの時期に書かれた論文に限って見れば、ロジャーズの用いるexperiencing(エクリンピング:経験する)という語は、クライアントが自分のある感情についてそれと隔絶されている感じることができなかったり、あるいはだいぶ遅れて感じたり、といった状態から脱して、自分の内側である感情が生じた時、たとえば怒りなら怒り、驚きなら驚きといった感情そのものに即座になりきり、といった実在的なニュアンスが濃厚である。そこではdirect referent(ダイレクト:直接、レフレント:指示対象)としての意味合いはどちらかと言えば希薄である。と著者は述べています。 ここでロジャーズの1955年頃から、旧モデルと新モデルの「混合体」になっていることを表している。旧モデルでのexperiencing(エクリンピング:経験する)が固定されており、それから隔絶されえているが、階段を登っていくように面接を繰り返していくと、クライアントはxperiencing(エクリンピング:経験する)することで、クライアントが自分のある感情についてそれと隔絶されている感じることができなかったり、あるいはだいぶ遅れて感じたり、といった状態から脱して、自分の内側である感情が生じた時、たとえば怒りなら怒り、驚きなら驚きといった感情そのものに即座になりきり、といった実存的なニュアンスになっていくと述べているということは、まさしく、「混合体」ということでしょう。 1955年のカートナーの修士論文でのロジャーズへの異論はロジャーズの進化の役に立っているだろう。人は変化してくるものですね。自己成長していくものですから、ロジャーズも当然自己成長して行っています。その自己成長には、肯定的受容があると思います。肯定的受容が自己成長につながると私は思います。
2024.04.26
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読レポ第2054カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 旧モデル・新モデルの「混合体」として世に残されたロジャーズ理論 では、ロジャーズ理論は、1955年のあの出来事をきっかけに、すっかりモデル・チェンジを果たしたのか、すっかり理論を変更したのか。いや、していない。 では、どのようになったか。新モデルと旧モデルが混然一体となった「混合体」として、世に残されたのである。(ロジャーズ理論が一見シンプルに思えて意外理解が難しいのは、ロジャーズ理論の中に、このような、新モデルと旧モデル、といった方向性の相矛盾する要素が混然一体となったまま提示されているからである)。 ロジャーズは、頑固である。1956年にあのような「事件」があったにもかかわらず、翌年1957年に公刊されたロジャーズの代表的な論文、「治療的人格変化の必要十分条件」においては、やはりそれは「必要十分条件である」という姿勢を崩していない。また、第3章でみたように、その「補足」として「クライアントのタイプが違えば、別の条件が必要であるとは述べられていない」と示している。すなわち、「ここに述べたことは、どのクライアントにも、どんなタイプのクライアントにも有効である」という「強気一辺倒」の姿勢をまったく崩していない。これは、不誠実なのか。ロジャーズは、インチキなのか。 私はこれでよかったと思う。カウンセラーが相手を評価したりアドバイスしたりせず、相手をその内側から深く、深く理解していくこと。そして真実の自分として、そこにあること。「受容、共感、一致」は、クライアントがそんなカウンセラーの姿勢に守られ、安心して自分の内側に入っていくことにおいて、きわめて重要な意味を持っているからである。それはいくら強調してもしすぎないほど、重要で大きな意味を持っている。したがって、その後の研究や実践を通じて批判的に吟味、修正されていくことを前提としながらも、それはいったんは、「必要十分条件」として言い切られる必要があった。「この3つさえあればそれでいい」「すべてのタイプのクライアントに必要だ」「これに例外はない」と、いったん「見得をきられる」必要があってのである(その意味でいうと、1957年論文の正式な刊行前に出されたカートナーの修士論文は、「ほんの1,2年だけ、早すぎだ」と言ってもいいかもしれない。得てして、歴史とはそういうものであろうが)。と著者は述べています。 1955年のカートナーの修士論文でロジャーズに異議を言っていらい、ロジャーズも批判的なこと受容して、吟味、修正されていき、大きくロジャーズは変化していたが、ロジャーズの理論の「必要十分条件である」という姿勢と「受容、共感、一致」はjの姿勢は貫いていた。 「受容、共感、一致」は、クライアントがそんなカウンセラーの姿勢に守られ、安心して自分の内側に入っていくことにおいて、きわめて重要な意味を持っているからかれと言っている。 私もカウセリングなどでは、クライアントへの安心感が一番重要だと思います。安心感がなければ、クライアントは、遠慮して本当の事を喋らなくなり、自己変容へとならないと思います。なりよりも、カウンセラーは、「受容、共感、一致」の姿勢を貫くことだと思う。
2024.04.25
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読レポ第2053カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1956年学会発表―「変化の瞬間(Moments:瞬間(モーメンツ) of Movement:動き(ムーブメント)」への没頭(2/2) ここから代表作『オン・ビカミング・ア・パーソン』の刊行、そして同じ年に刊行された「心理療法の過程方程式」(Rogers,1961d)執筆の1961年あたりまで、筆者から見た、心理療法の研究者としての「ロジャーズは全盛期」である。54歳から59歳くらいまで―これが、セラピストとして、研究者としてのロジャーズのピークである。それを境に、ロジャーズの活動はエンカウンター・グループや平和活動、教育革命、結婚革命といった「社会的な広がり」を見せていく。その一方で、50代前半に撮影されたミス・マンとの面接におけるような精緻さ、引き締まった美しさは失われていく。60代の時のグロリアの面接は幾分雑になったかのように感じられるのは、致し方ないことであろう。 いずれにせよ、1956年のあの出来事を境に、ロジャーズ自身も変化をとげていく、その後、7、8年、ロジャーズは「クライアントが、まさに変化するこの瞬間」「それに引き続いて起きてくるプロセス」の解明に心血を注ぐ。固定された考えから離れ、より自由になり、この瞬間瞬間に自らを賭しているかのように生きる。そんな変化の方向性を丹念に追っていくことに専念するのである。その成果が本書第2章で見たロジャーズの「自己生成論」である。と著者は述べています。 ここでも、1955年のカートナーが修士論文ころからのロジャーズは変化して固定された考えから離れ、より自由になり、この瞬間瞬間に自らを賭しているかのように生きていることが書かれている。 他者からの自分の異論をロジャーズは、肯定的受容して、自分の固定された考えから離れて、より広い視点になり、「クライアントが、まさに変化するこの瞬間」「それに引き続いて起きてくるプロセス」などの新ない広い視点の論文を生んできた。 人は、他者からの刺激により、自由になれることがここで書かれている。肯定的受容がロジャーズの新たな変化を起こしたのです。まさしく、ロジャーズは、「自己生成論」を自ら示していた生き方をしていったのである。
2024.04.24
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読レポ第2052カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1956年学会発表―「変化の瞬間(Moments:瞬間(モーメンツ) of Movement:動き(ムーブメント)」への没頭(1/2) あの出来事以降、ロジャーズに最初に生じた変化はどのようなものであったのか。1957年論文、1959年論文といった有名どころに目を向けているとわかりにくいが、ロジャーズ自身の繊細な変化は、1956年の学会発表の抄録に示されている。最初の変化の兆しを感じることができるのが、1956年に学会発表の抄録として配布された小論文The Essence of Psycherapy:Moments:瞬間(モーメンツ) of Movement:動き(ムーブメント)(「心理療法の本質―変化の瞬間―」)(Rogers,1956b)である。この小さな論文においてロジャーズは、クライアントの変化の瞬間の体験について、「これはほとんど身体的なものなんです」と語ったあるクライアント(オーク夫人)の面接の逐語をとりあげている。興味深いのは、その後で、ここに描かれているのは「変化の瞬間(Moments:瞬間(モーメンツ) of Movement:動き(ムーブメント)」であり、「しかもこの瞬間、クライアントは一つの統合された体験そのものであって、何の障壁も禁止も伴わない an experienccing(エクシピリアリング:経験する)となっている」と指摘している点である(Rogers,1956b) 筆者がこの論文をはじめて手にしてその重要性に目を引かれたのは、たしか2000年に英国イーンスト・アングリア大学に日本人数名が訪問する形で開催された「英国ロジャーズ派カウセリング学習ツアー」いった際、キャンベル・バートンが講義の資料としてこの論文を配布した時のことである。筆者はまだこの時は、「あれ、身体的なものだ、とか、experienccing(エクシピリアリング:経験する)とか、ロジャーズが何だかジェンドリンみたいなことを言っているが、まだ1956年だ。ジェンドリンの哲学の博士論文さえ執筆される前のはず。ロジャーズがそんなに早くジェンドリンのから大きな影響を受けているわけはないし、何だろう……」と「不思議な違和感」を抱いていたのであるが、何のことはない。単なる筆者の調査不足、資料収集不足であった。 田中(2018)をはじめとした一連の論文のおかげで、ようやく謎が解けた。ロジャーズとジェンドリンは哲学の修士論文作成中にすでに親交を持っており、その後、1955年という、ロジャーズ、ジェンドリン、そしてチーム・ロジャーズにとって最も重要な一年を迎えていた。その影響をもろに受けて、ロジャーズが「新たな一歩」を踏み出したのが、この1956年の学会発表だったのである。と著者は述べています。 ここでも、1955年のカートナーが修士論文ころからのロジャーズのフルモデルチェンジ的な変化について、述べているようだ。 この1955から1956年頃にロジャーズは、大きく変わっていった。「心理療法の本質―変化の瞬間―」という論文から見られるように、ロジャーズは、「変化の瞬間(Moments:瞬間(モーメンツ) of Movement:動き(ムーブメント)」であり、「しかもこの瞬間、クライアントは一つの統合された体験そのものであって、何の障壁も禁止も伴わない an experienccing(エクシピリアリング:経験する)となっている」と唱え始めた。 今までは、ロジャーズは、「必要十分条件」が満たされることに注目していたが、クライアントの変化の瞬間(Moments:瞬間(モーメンツ) of Movement:動き(ムーブメント)に着目するように大きく変化していた。その要因は、カートナーの修士論も刺激になったが、弟子のジェンドリとの出会いからの影響が大きくロジャースを変化させたのではないかとおもう。それは、ジェンドリンの哲学の修士論文から見えてくるようだ。
2024.04.23
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読レポ第2051カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 「旧モデル(自己理論モデル)」から「新モデル(体験様式モデル)」へ では、この1955年から56年の出来事をきっかけに、ロジャーズはどう変わったか。もし、あの、1955年の出来事がなければ、ロジャーズはどうなっていたか。ロジャーズの主著『オン・ピカミング・ア・パーソン』は、(少なくともあのような形では)書かれることがなかったであろう。 1955年の出来事をきっかけに、ロジャーズの主たる関心テーマは、(セラピストの態度条件への関心以上に)「クライアントの変化過程」へ移った。もちろん、それ以前からもロジャーズの関心はクライアントの変化に注がれていた。セラピィによって、クライアントの何がどう変化するのか注目していた。その一つが自己概念の変化であり、この、言わば旧モデル(自己理論モデル)に基づく研究の集大成が1954年の『心理療法と人格変化』である。 1955年の出来事、そしてチーム・ロジャーズのメンバーとの相互交流によって、ロジャーズ自身も生まれ変わった。「旧モデル(自己理論モデル)」から脱皮して「新モデル(体験様式モデル」へと展開していった。「カウンセリングの前と後でクライアントの自己概念はどう変わったか」という旧モデルから、「クライアントが今まさにこの瞬間に変化している、その変化の瞬間におけるクライアントの内側ではどのようなことが起きているのか」という新モデルへと、ロジャーズ自身の関心も大きくシフトしていった。 1955年を境としたロジャーズのモデル・チェンジはもっと注目されてよい、大きなものだ。これをきっかけに、ロジャーズは、「人間はこのように変化しうるのだ」というセラピィの可能性、セラピィという持つ人間変容のパワーに目覚め、「クライアントの変容過程」の探究に没頭していく。そしてそれに加えて、ロジャーズが執筆時に愛読していたキルケゴール(著者も一時記キルケゴールを読むためにデンマーク語を多少学ぶほどキルケゴールにはまっていた時期がある)、特に『死に至る病』(1849年)自己生成論や『哲学的断片への結びとしての非学問的なあとがき』(1846年)などの影響もあって、ロジャーズの主著『オン・ピカミング・ア・パーソン』は書かれたのであろう。逆に言うと、もしも1955年のあの出来事がなければ、ロジャーズのモデル・チェンジは本格的には生じず、代表作『オン・ビカミング・ア・パーソン』もあのような形では、書かれなかったであろう。すると、ロジャーズがフロイトやユングと並ぶ「ビッグネーム」となることもなかったであろう。と著者は述べています。 ここでも、1955年の出来事をきっかけに、ロジャーズの主たる関心テーマは、(セラピストの態度条件への関心以上に)「クライアントの変化過程」へ移ったて、ロジャーズは、本格的にモデル・チェンジのきっかけになり、代表作『オン・ビカミング・ア・パーソン』を生み、フロイトやユングと並ぶ「ビッグネーム」となったのであるようだ。 1955年のカートナーが修士論文でロジャーズの今までの理論に対して異議を唱えた論文に対しての出来事で、ロジャーズが肯定的に受容して、チーム・ロジャーズたちとの対話の議論によって、ロジャーズは代表作『オン・ビカミング・ア・パーソン』を生みたのです。 いかに、肯定的受容が新しい変化を生むかがここでも解る。肯定的受容がいかに大事かを私も感じる。私もミーティングファシリテーターをしているときに、新しい視点が参加者の対話から生まれる場に立ち会っている。 肯定的受容からの対話の議論がいかに大事かを感じる。
2024.04.22
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読レポ第2050カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1955年のロジャーズとジャンドリン(6/6) 興味深いのは、チーム・ロジャーズのメンバーたち、そしてロジャーズやジェンドリンがこの「事件」に対して示した反応である。カートナーが修士論文を提出した翌年、カートナーの研究を一部紹介したディスカッション・ペーパー(Cartwright,1956)がカウンセリングセンターのスタッフのもとに届いた。1956年のことである。この研究結果が配布されたとき、カウンセリングセンターのスタッフは一同激怒した、という(ジェンドリンの回想により)。とても信じられなかったのだ。この研究の結果によれば、自分たちが会っているクライアントには、成果が上がらないとあらかじめわかっている人たちがいるということになってしまう。しかも、カウンセリングの面接が始まってほんの数回で、このケースが失敗するかどうか、おおよその見当がついてしまうという。「きっと何か間違いではないか。間違いに違いない、と私たちは口々に言った」(Gendlin,2002)。自分たちは、面接を続けても結果は変わらないことがあらかじめわかっているクライアントに会っている。それはやはり、ショッキングであったことは間違いない。ジェンドリンはこのリサーチに加わっていなかったので、カートナーの結果は予期していないものであった。この場面で、ロジャーズはどうしたのか。ほかのたくさんの弟子がいるなかで、一人の弟子から、「あなたの理論は間違っています」「これが十分条件である、などと大胆なことは言えません」と、研究データを付けられたのである。 ジェンドリンは、その様子をこう言う。 ただ、そんな中で、ひとりロジャーズだけがじっと黙っていた。そしてこう言ったのである。「事実はいつだって味方だよ」(Gendlin,2002) 部屋に戻ったロジャーズのあとをジェンドリンは追った。ジェンドリンは、カートナーの研究のことでロジャーズに喰ってかかろうとした、という。その時、ロジャーズはこう言ったのである。「今回の研究結果が、きっと次の研究への足がかりになると思うよ」。ロジャーズはカートナーの研究に真実が表現されていることをわかっていたに違いない。 別れ際にドアのところで、ロジャーズは私の方にしっかり手を置きこう言った。 「いいか。大切なのは、ここからどう進んでいくかだ。君はそれを発見していく人間の一人だ」。ロジャーズはただ例として、私のことを出したのかもしれない。しかし私は、ロジャーズのこの言葉を深いところで受け取った(Gendlin,2002) この時何かが、ロジャーズからジェンドリンに手渡された。そうしてこうした出来事があった1955年から1956年を一つの区切りとして、それぞれは、やはりこの「出来事」なくしてはそちらの方向には向かわなかったであろうような「その後の展開」を迎えていく。 共通する一本の柱は「クライアントが変化する、とは、どういうことかであるか」というテーマである。クライアントが変化するとは、どのようなことであり、それはどのようにして生じるのか、というテーマであった。その鍵となったのがジェンドリンのexperiencing(エクスピング: 経験する)概念である。と著者は述べています。 ここでは、カートナーが修士論文でロジャーズの今までの理論に対して異議を唱えた論文に対して、ジェンドリンやそのチーム・ロジャーズのカウンセリングセンターのスタッフ達が、カートナーが修士論文に対して、一同激怒していた様子が見えてくる。異議を唱えられた本人、ロジャーズは、「今回の研究結果が、きっと次の研究への足がかりになると思うよ」 「いいか。大切なのは、ここからどう進んでいくかだ。君(ジェンドリン)はそれを発見していく人間の一人だ」と、まさしくロジャーズの人間性が現れていると私は思います。 ロジャーズは、まさしく、カートナーが修士論文からカウンセリングで唱えている「(肯定的)受容」 している。そして、ロジャーズは、カウセリングの本質での「クライアントが変化する、とは、どういうことかであるか」という、カウセリングのテーマをジェンドリンに問いをなげかけた。それが、後のジェンドリンのexperiencing(エクスピング: 経験する)概念を生み出したのだと思う。 このロジャーズのカウンセリングの「(肯定的)受容」 は、コミュニケーションには、重要であると思う。人は、話し手が受け止めてもえない非受容や否定的であると、コミュニケーションは、上手く働かないことが多いのです。コミュニケーションを上手く交わすには、お互いに肯定的に受容して否定的に受容しないことです。 やりがちですが、人の脳は、「自分の考えや感情を否定されると、反発する」癖があります。そのへんをロジャーズは、知っていたのかもしれません。
2024.04.21
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読レポ第2049カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1955年のロジャーズとジャンドリン(5/6) 田中(2018)は、カートナーのこの論文の「尺度Ⅳ」に着目する。尺度Ⅳは「能力感:状態に十分に対処できるという感じから、状況に対処する内的資源の無力感と欠如まで」である (Kirtner & Cartwright,1958)。セラピィで成功するグループは「感じられた不安の原因や解決を自己の内部に求める」(同前)傾向があるという結果が示されていた。平たく言うと、こういうことである。カウンセリングの中で、自分を深く見つめ、内面を探索していく傾向が見れた人は治っていった。逆にそうした傾向がなく、「運が悪かったんです」「ま、そういう時もありますよね」「あの人が問題なんです」と「外」に原因や解決を求めた人は治らなかった、というものである。よくわかる話である。 しかし、これはたいへんな衝撃であった。ロジャーズの理論が一応の完成を見せたまさにその同年に、ロジャーズ自身の門下生から、しかも修士論文という形で、ロジャーズ理論を覆す論文、すなわち、ロジャーズの言う「必要十分条件」が満たされていても成功しないクライアントがいること、したがって、ロジャーズの提示している「受容、共感、一致」は、「必要十分条件」と言っても「十分条件」とは言えない、ということ指摘した論文が提出されたのであるから、騒然としたにも当然である。と著者は述べています。 カートナーは、ロジャーズの提示している「受容、共感、一致」は、「必要十分条件」と言っても「十分条件」と言うことに対して、カウンセリングの中で、クライアントが自分を深く見つめ、内面を探索していく傾向が見れた人は治っていくが、クライアントが「外」に原因や解決を求めた人は治らなかった、と指摘している。 私としても、カートナーのクライアントが「外」に原因や解決を求めた人は治らない傾向があると思う。そのためにも、カウンセラーはクライアント自身が自分を深く見つめ、内面を探索していく傾向を促すように働きかけることだと思う。 ロジャーズの提示を完璧主義思考で考えないことだと思う。すべてが、ロジャーズの「受容、共感、一致」の理論の前に、クライアントへの下記の働きかけが必要です。 それには、カウンセラー等がクライアントが「安心感」を抱く環境づくりをしていき、ロジャーズの「受容、共感、一致」の意識した姿勢を続けることだと思う。 そのようにしても、治らない人もいます。完璧主義思考を手放して、完成主義思考でいることです。また、カウンセラーとのクライアントの相性もあります。
2024.04.20
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読レポ第2048カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1955年のロジャーズとジャンドリン(4/6)しかし、何かが上昇の道を上り詰め、そのピークに達する時、同時にそれはすでに、下降への道を内包している。暗黙のうちに、インプライしている。ロジャーズはの理論が一応の完成を見せ、刊行から65年ほど経っいまも「カウンセリング」の分野で最も有名な論文として繰り返し読まれ続けている1957年論文(必要十分条件)及び1959年論文(その包括バージョン)の2論文の原型となる論文が学内紀要に掲載された、よりによてその同年に、ロジャーズ理論をある意味で正面から否定する破壊生を秘めた論文が、しかもチーム・ロジャーズの一員である大学院生から修士論文として提出されたのである。それが、ウィリアム・カートナーが1955年に提出した修士論文「パーソナリティ変化の関数としてのクライアント中心療法における成功と失敗」(Kirtner,1955)である。 カートナーのこの修士論文は、カウンセラーがどれほど相手を受容し共感していようと、よくならないクライアントはよくならない。治らないし、成長しない。そんな、言われてみれば当たり前の真実を、よりよってロジャーズ理論が完成に至る同ねんに突き付けたものであった。しかし、当時53歳と学者としても臨床家としても全盛期にある自分の恩師(ロジャーズ)の研究を正面から否定する修士論文を提出できる、というのは、この研究チームに、真実だけが奨励される真に自由で活気に満ちた雰囲気があったから可能になったことであろう。まさに「いい意味で非常識でクレイジーな集団」であり、そんな雰囲気があったからこそ、ロジャーズはみずから主宰する研究会に「クレイジー・アイディア」という名称を付けていたのだろう。 カートナーのこの修士論文、そしてそれをもとにした論文で明らかになったのは、「セラピィの期間と結果は、治療開始時におけるクライアントのパーソナリティ構造と関連している。最も顕著な差異は、こうした尺度上に見出される成功グループと失敗グループ間の差異であったから」 (Kirtner & Cartwright,1958)というものである。つまり、セラピィの開始の時点ですでに、クライアントのパーソナリティ構造の違いによって、受容や共感をベースにしたセラピィが通用するかどうかはほぼ決まっている、というものである。セラピィの上手い、下手ではなく、クライアントがどんな人であるかによって、カウンセリングが成功するか失敗するかは最初からほぼ決まっている、というのである。身も蓋も無い話と言えばそうであるが、ある程度経験を積んだカウンセラーであれば、誰でも思い当たる節のある話ではないだろうか。「あの人は、カウンセリングが効く人だよね」「あの人は、カウンセリングが効かないタイプだ」という話は、カウンセラー同士が、スタッフルームで時折話題にする会話である。またそれが偽らざる実感であろう。 どんな天才的なセラピストであっても、どんな専門家集団で尊敬されているセラピストであっても、「あの人だったら、どんな人でも治る」ということは、まずない。それは、その人をカリスマ扱いしたい集団内での、ただの幻想である。逆に、それほど上手くないカウンセラーであっても、安心感の雰囲気を毎回提供しこころを込めて聴いていれば、おのずと治っていく人は、治る。そんなクライアントは一定数いる。ガチャガチャと邪魔することさえしなければ、底力のあるクライアントは治癒と成長の道を歩むことが多いものだ。カートナーの修士論文は、おそらく当時から多くの臨床家が感じていたこのような素朴な実感を仮説として検証したものと言っていいだろう。そこには否定しがたい真実が示されており、そうした研究をきっかけに学問も実践も発展してくるものだ。と著者は述べています。 ここでも、ロジャーズの人間性が現れている。ロジャーズの研究会が「クレイジー・アイディア」という名称をつけた事の意味が解る。ロジャーズは、年齢も経験も、知識も関係なく、グループ間での言いたい事が言える、まさしく肯定的に受容している姿勢が解る。 ロジャーズに対する否定的なウィリアム・カートナーの論文「パーソナリティ変化の関数としてのクライアント中心療法における成功と失敗」に対しても、肯定的に受容して、その論文の指摘を受けて、さらなる変化でのアップデートをロジャーズはしている。 まさしく、カウンセラーでの「受容」を普段からカウンセリング以外でおこなっている。相手を「受容」する習慣をつけると自分の自己成長へと私もつながっていくと思う。 また、「それほど上手くないカウンセラーであっても、安心感の雰囲気を毎回提供しこころを込めて聴いていれば、おのずと治っていく人は、治る。そんなクライアントは一定数いる。ガチャガチャと邪魔することさえしなければ、底力のあるクライアントは治癒と成長の道を歩むことが多いものだ」と言うことは、私もそう思う。 いままでも私も述べているが、カウンセラーは、クライアントにまずは、安心感を持ってもらうことが役割である。最終的には、クライアントの自己治癒力を引き出してあげることだと思います。何よりも、カウンセラーは、「安心感」をあげることです。
2024.04.19
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読レポ第2047カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1955年のロジャーズとジャンドリン(3/6) ③カートナー 修士論文において「必要十分条件」説を否定するデータを公表(1955年) そんな中、チーム・ロジャーズのその後の命運を大きく左右することになるもう1つの論文が世に出された。ウィリアム・カートナーが1955年に提出した修士論文「パーソナリティ変化の関数としてのクライアント中心療法における成功と失敗」(Kirtner,1955)である。この修士論文の主要部分は3年後、共同研究者デズモンド・カートライトとの共著で公刊されている(Kirtner & Cartwright,1958) カートナーはこの修士論文で「ある種のクライアントたちはロジャーズ派のセラピィで失敗が予測される」ことをしめしたのである。なんと大胆な!先述のように、1955年というのはこのチームにおける絶対的な存在であったはずのロジャーズがその公式理論を学内紀要で公刊した年である(Rogers,1955)。当然のことながら、この論文は、チームの中でもしばしば話題になったはずである。そしてそれをもとに翌年の1956年には、ロジャーズの最も著名な論文、「治療的人格変化の必要十分条件」論文が学内紀要に掲載されている。「必要にして、十分なる条件」である。それさえあれば、何もいらない、というわけである。第2章で見たように、ロジャーズは、セラピストの態度という「左辺」があるならば、それに伴ってクライアントの変化という「右辺」が必然的に生じるという「方程式」を想定していた。Aという条件が満たされているならば、Bという結果が生じる、という形の素朴な仮説を立てていた。それは「受容」「共感」「一致」という条件がみたされるならばその時必ず肯定的な変化が生じるはずだ、という人間に対する希望に満ちた理論であった。他者からほんとうに理解され受け入れられた人間は、しかもそれが相手の真実の姿だと思われたならば、生命としての力を活性化させ、困難から立ち直り、おのずと成長していくはずだ。必ずそうなるはずだ。ロジャーズの「必要十分条件」は、一見化学方程式のような装いをとりながら、人間に対する、そして、人を理解して援助するということに対する、絶対的な信頼に裏打ちされたものであった。 これはたしかに、「人間についての、普遍的な真実を突いている」と私は思う。人は、他者にその内側からほんとうにわかってもらえた時、ただそのままを受け入れてもらえた時、しかもそれを本心からそうしてもらえていると思えた時、生命の力を活性化させていく。生きる力がよみがえって、困難を乗り越えようとする力を獲得できる。これは間違いなく真実であり、ロジャーズの理論はこの真実に、科学的な装いを与えたものであった。それは、「人間という弱き存在にとってのかすかな希望」と言ってもいいものである。と著者は述べています。 ロジャーズたちは、ウィリアム・カートナーが1955年に提出した修士論文「パーソナリティ変化の関数としてのクライアント中心療法における成功と失敗」の中かで、「ある種のクライアントたちはロジャーズ派のセラピィで失敗が予測される」ことをしめたのです。その論文の刺激から、ロジャーズは、最も著名な論文、「治療的人格変化の必要十分条件」論文が生まれたようである。 その内容は、、他者からほんとうに理解され受け入れられた人間は、しかもそれが相手の真実の姿だと思われたならば、生命としての力を活性化させ、困難から立ち直り、おのずと成長していくはずであると言っている。 私流に言えば、前回と同じように述べたように、ひたすら、クライアントに心のベクトルを向けてクライアントの変化に焦点を当てることだと思う。クライアントの言葉にならないことを感じるには、心のベクトルをクライアントに注ぎつづけることだと思う。そうすると、クライアントの暗黙の世界を感じることができるようになると思う。その暗黙の世界に寄り添うことができることで、クライアントは自ら自己変容して行くのだと思う。
2024.04.18
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読レポ第2046カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1955年のロジャーズとジャンドリン(2/6) ②ジャンドリン 心理療法におけるクライアントの変化の鍵として「体験過程(experiencing:(エクスピング: 経験する))」概念を提示(1955年) そんななか、同じ1955年に出された二つめの刺激的な論文が、ジャンドリンが「体験過程(experiencing(エクスピング: 経験する))という概念を(哲学のディルタイ研究の文脈においてでなく)心理療法におけるクライアントの「変化」を説明する概念として、はじめて用いていたexperiencing(エクスピング: 経験する)という概念をはじめて心理学の概念として世に出したのである。 ところで、ロジャーズから臨床実習生になることを許可され、トレーニングを積んだジェンドリンは、なかなか優秀だったようである。「ある時、ロジャーズは、自分の門下生たちに、『私がカウンセリングを受けるなら○○さんに受けます』『友人がカウンセリングを受けるとすれば、○○さんを推薦します』という質問紙調査をおこなった。相談相手のカウンセラーを、セミナー出席メンバーから選ぶ想定でおこないました。ジェンドリンがトップになりました」(Rogers & Russell,2002)。今これをしたらハラスメントになるのではないか、とちょっと心配になるエピソードである。実際、この時の雰囲気についてロジャーズは次のように語っている。「反撃のような雰囲気が生じました。「ちくしょう!仲間を評価されるなんて!僕たちは平等主義で、力を合わせているんだ。それなのに、あなたは私たちをランクづけさせた』というわけです。全体の空気が険悪になり、二度とやりませんでした」(Rogers & Russell,2002)。ロジャーズにはこうした「いたずら心」が旺盛であったようだ。この時、仲間からの投票で一位に選ばれたのが、ジェンドリンであった。大学の仲間たちからも「あいつは、心理学出身ではないけども、臨床が一番できる」と一目置かれた存在であったようだ。 1952年からは、ロジャーズのもとで仕事をさせてもらえるようになった。そんななか、先に述べたように、みずから「クライアント体験」をするなかで生まれたテーマ―カウンセリングは、クライアントは自分の「感情」「気持ち」を語りセラピストがそこに応答することが大事だとれているが、正確に言えば、そうではないのではないか。実際に起こっていることは、そうではなく、怒りや悲しみといった気持ちの背景にある、まだ言葉にならない、生々しい、微細で複雑な暗黙の何かに触れながら、そこから語るということであり、セラピストはそこから何かがうまれてくるのを持っている。するとそこから「もっと深い何か」が生まれるのではないか、という疑問―に、修士論文の哲学論文で使っていたexperiencing(エクスピング: 経験する)という概念を使って取り組み始めたのである。ロジャーズのもとでカウンセリングの実践をしているうちに、ジャンドリンは「その場で起こっていることに哲学の考え方を適用できる」(Gendlin & Lietaer,1983)のではないか、と考え始めたのである。 まず、1954にジャンドリンは、フレッド・ツィムリングとともに、ロジャーズが主宰する「グレイジー・アイディア」という研究会において、experiencing(エクスピング: 経験する)概念について、心理療法研究の鍵概念として最初に発表している(田中 2018)。「グレイジー・アイディア」とロジャーズ主宰の研究会の名前からは、一見奇妙なもののように思えても、自分の中から生まれてきた考えであればどんどん発表してみよう、という、実に自由でチャレンジングな雰囲気が伝わってくる。この研究会で、おそらく1954年に発表がなされ、1955年にカウンセリングセンターのディスカッション・ペーパーに寄稿されている(田中 2018) 40代からの研究成果を1955年、53歳の時に「自己理論」としていったん体系化してまとめてロジャーズであったが、ジャンドリンのこのexperiencing(Gendiin & Zimring,1955(エクスピング: 経験する))という独創的な概念に刺激を受けて、一段と新たなステージにみずからの理論を展開させていくことになる。ロジャーズのそれまでの理論は、「自己理論」を主軸としたものであった。「自己概念」や「自己構造」に焦点を当て、その変化を研究するものであった。しかしそれは、いくら細分化して細かに研究しても、変化の「前」と「後」を比較する研究しかできない。自己概念がこのように変わった、という研究しかできない。いくら単位を細分化し、たとえば50分の面接中に5分ごとの変化を追っていったとしても、それは「5分前」と「5分後」の「結果」の比較であって、「変化するということ自体」に焦点を当てたものではない。ジャンドリンのexperiencing(エクスピング: 経験する)概念は、ロジャーズの研究を(とうようより、チーム・ロジャーズの研究の方向性を)「まさにこの瞬間にクライアントが変化している、その瞬間に起きていること」に焦点を当てる方向へと転換させたのである。 1956年にジャンドリンらが「患者たちが何を話すかという点に違いはない。違いは患者たちがいかに話すかという点にある」という報告をした学会発表(Gendlin,Jenney & Shlien,1960)をおこなったことで、話の「内容」にではなく、どのような体験し、どのように話しているか。という「体験の様式」に焦点を当てる方向性が加速化していく。本書第2章でみたような、クライアントの変容過程についての生々しい記述、そしてそれを柱としたロジャーズの代表作『オン・ピカミング・ア・パーソン』も、ロジャースとジェンドリンの出会い、そして二人を要とした展開していくチーム・ロジャーズの協働作業なくしてはとうてい不可能であったように思われる。つまり、ロジャーズのセラピィ論の到達点である1950年代後半から1960年前半の論文や著作そのものが、ロジャーズ一人がなした仕事、というよりも、ロジャーズとジェンドリン、そして二人を要としたチーム・ロジャーズの「合作」としてはじめて可能になったところがある。その元も大きな原動力となったのが、ほんの数年前まで若き哲学の大学院生であったジェンドリンであった. ジェンドリンによって提示されたexperiencing(エクスピング: 経験する)という概念だったのである。と著者は述べています。 ここでも、ロジャースはジェンドリンと二人が要のチーム・ロジャーズがあってこそ、ロジャーズの代表作の『オン・ピカミング・ア・パーソン』が生まれた。特にジェンドリンの、いくら細分化して細かに研究しても、変化の「前」と「後」を比較する研究しかできないとの指摘であったようだ。、たとえば50分の面接中に5分ごとの変化を追っていったとしても、それは「5分前」と「5分後」の「結果」の比較であって、「変化するということ自体」に焦点を当てたものではない。「まさにこの瞬間にクライアントが変化している、その瞬間に起きていること」に焦点を当てる方向へと転換させたのである。 それが、ロジャーズの「自己理論」を主軸としたものであったものを変えることになり、代表作の『オン・ピカミング・ア・パーソン』が生まれたようです。 カウンセリングでは、「前」と「後」を比較するのではなく、クライアントが変化している、その瞬間に焦点を当ててのカウンセリングではないかと思う。 私流に言うと、ひたすら、クライアントに心のベクトルを向けてクライアントの変化に焦点を当てることだと思う。クライアントの言葉にならないことを感じるには、心のベクトルをクライアントに注ぎつづけることだと思う。そうすると、クライアントの暗黙の世界を感じることができるようになると思う。その暗黙の世界に寄り添うことができると思う。
2024.04.17
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読レポ第2045カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 1955年のロジャーズとジャンドリン(1/6) ロジャーズとジャンドリン、そして、チーム・ロジャーズにとって決定的な瞬間が、1995年に訪れる。田中(2018)を読んで知ったのであるが、この同じ年にきわめて重要な論文が3つ、書かれている。 ①ロジャーズ、最も公式的な論文「セラピィ・パーソナリティ及び対人関係の理論」の元論文を学内紀要で公刊(1955年) ロジャーズの生涯で最も有名な論文、「治療的人格変化の必要十分条件」(Rogers,1957a)の元論文(Rogers,1956a)が、1957年の学会誌での掲載に先だって、学内紀要論文として刊行されている。一般的には、1957年の論文「治療的人格変化の十分条件」(Rogers,1957a)が有名であり、その内容を含んだより完成された1959年の論文「クライアント中心療法の枠組みにおいて発展したセラピィ、パーソナリティ及び対人関係の理論」(Rogeras,1959)がロジャーズ理論の一応の完成体とみなされている。しかし実際には後者が先に書かれており、この論文の元論文が、まず学内紀要として、1955年に刊行されている(Rogers,1955)「必要十分条件」論文の元論文(Rogers,1956a)はその翌年、1956年に学内紀要として公刊されているのである。 53歳、学者としても心理療法家としても、全盛期にあったロジャーズ。その周りには、慕って集まってきた若き優秀な研究者や臨床家がたくさんいた。その中の一人が、当時29歳のジェンドリンである。そんな環境のなか、ロジャーズがみずからの公式見解となる理論をいったん完成させ、学内紀要において公刊したのである。当然ながら、この刺激的な環境は、そこに集まっていた多くの研究者を刺激し、思考を活性化させていくことになる。と著者は述べています。 ロジャースの中で最も有名な論文「セラピィ・パーソナリティ及び対人関係の理論」などは、ロジャーズを慕って集まってきた多様な若き優秀な研究者や臨床家などの刺激によって活性化した論文であるようだ。 私は、このロジャーズは、若き優秀な研究者や臨床家などとの対話によって、ロジャーズ自身の中で生まれて来た論文だと思う。相手を否定せず肯定的に受容したロジャーズの対話の力を改めて感じる。
2024.04.16
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読レポ第2044カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 二人の出合い(5/5) 私たちが真剣にもの考える時、ただの概念を超えて、自分の内側の「暗黙の何か」に触れている。「うーん、ここは、どう考えればいいか……」。内側の、暗黙の、体験の流れ、experiencing(エクスピング: 経験する)に直接触れている。そうしてしれを言葉にすることができれば、体験のほうが変化していく。私たちが何かを創作しようとしている時、ただの概念を超えた、内側の、なまの体験の中の流れexperiencing(エクスピング: 経験する)に直接触れる。それは何かの形にすることができれば、表現されようとしていた体験自体が変化する。このような、内側の、なまも体験の流れということがexperiencing(エクスピング: 経験する)に直接触れる、ということが、セラピィでも決定的に重要な役割を果たしているのではないか。ジャンドリンはそのことをクライアント体験する中で明確に意識するようになった。 しかし、実習生のジャントリンがクライアント体験をする中で理解したこのセラピィの核心は、当時の文献では記されていなかった。1950年代初頭のクライアント中心療法では、セラピストは、クライアントの怒りや悲しみといった「感情」「気持ち」に応答していると考えられていた。けれど実際に重要な役割を果たしていたのは、クライアントが「感情」「気持ち」を語りセラピストがそこに応答することではない。そうではなく、実際にクライアントが暗黙の、微細で複雑な何かに触れながら語ることであり、セラピストと共にそこから何かが生まれてくるのを待つことである。「正確に聴いてもらていると、もっと深い何かが、暗黙の複雑な何か(インプリシット・イントルカシー(the implict intricacy)から生まれてくるのである」(Gendlin,2002) その原因の一つは、experiencing(エクスピング: 経験する)に相当する概念が存在しなかったことにある。ジャンドリンは言う。 ふさわしい用語にめぐまれなかったがために、現在の体験(experience)こそ大切なのだ、というロジャーズの見解は、あちらこちらで誤解されてきた。クライアントは過去の体験に取り込む必要などないのだ、という意味にとらえられてきたのである。ロジャーズの考えをそのように受け取ると、ロジャーズの言う現在とは、概念的な内容のころを示すのだということになってしまう。ロジャーズは誤解され、クライアントは現在の生活の内容にだけ取り組めばいいのであって、幼い頃の体験に取り組む必要などない、といたかったかのように受け取られてしまっている。だが、ロジャーズがいいたかったのは、取り組む概念的な内容が過去のものであろうと、現在のものであろうと、クライアントは現在のexperiencing(エクスピング: 経験する)を通してだけ、うまい具合に問題に取り組むことができる、ということなのである。(Gendlin,1962)(田中 2018の訳を参照) しかしこのことが認識されていなかった。ここからexperiencing(エクスピング: 経験する)概念の研究が始まり、ロジャーズ理論もそれに刺激されて変化していく。と著者は述べています。 この項で、ロジャーズのクライアント中心療法で誤解されていることを、述べている。ロジャーズは、クライアントは過去の体験に取り込む必要などないのだ、という意味にとらえられてきたのであったが、ロジャーズは、、取り組む概念的な内容が過去のものであろうと、現在のものであろうと、クライアントは現在のexperiencing(エクスピング: 経験する)を通してだけ、うまい具合に問題に取り組むことができればいいと言っている。 そして、クライアント中心療法は、クライアントが「感情」「気持ち」を語りセラピストがそこに応答することではなく、実際にクライアントが暗黙の、微細で複雑な何かに触れながら語ることであり、セラピストと共にそこから何かが生まれてくるのを待つことである。 確かにクライアントの語りに対してではなく、その語りの中の暗黙の、微細で複雑な何かに触れながら鏡となり語ることのようだ。ついつい、クライアントの語りに対して応答してしまいがちです。巷のカウンセリングでもそのように書いている書籍が溢れている。その語りの微細で複雑な何かに触れられるようになるには、量稽古が必要な気がする。 正直言って、私には習得はできていないかもしれない。experiencing(エクスピング: 経験する)の量稽古がつねに、そのような姿勢が必要だと思います。
2024.04.15
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読レポ第2043カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 二人の出合い(4/5) 共感的な理解においては、クライアントとセラピストの協働作業のなかで、より正確でぴったりした理解に徐々に徐々に近づいていく、という意味合いを強く持たせたかったのだと思う。その箇所を紹介する。 共感的と表現できるようなありようで、他者とともにいることには、いくつかの側面がある。共感的であるとは、他者の私的な知覚的世界に入り込み、完全にくつろいでいることを意味している。共感的であるとは、この瞬間瞬間、他者の内側に流れる感じられた意味を感じ取ることである。それが、恐れであれ、怒りであれ、やさしさであれ、困惑であれ、何であれ、その他者が体験しつつあるころを感じ取ろうとするのである。 共感的であるとは、一時的にこの他者の人生を生きることである。評価を下すことをせずにその人生の中を繊細に動き回ることである。他者がほとんど気づいてない意味を感じること、しかしその人の気づきにまったくのぼっていないいない感じは明るみに出さないことを意味する。なぜならそれはあまりに脅威でありうるからである。 共感的であるとは、この他者の世界を、自分が新鮮な恐れのない目で、どのように感じ取っているのかを伝えることが含まれる。 共感的であるとは、自分の感じ取ったことの正しさについて、この他者とともにつねに検証すること、他者から受け取った反応につねに導かれていくことを意味する。 共感的であるとは、他者の内側のexperiencing(エクスピング: 経験する)の流れに含まれる、可能な意味を指し示すことである。それによって、その他者自身が experiencing(エクスピング: 経験する)というこの便利で有益な参照体に意識の焦点を当てるように助け、その意味を十分に体験すること、そして前進していくことができるようにするのである。 共感的に生きるとは、しばらくの間自分の視点や価値観を脇に置いて、偏見を持たずに他者の世界に入り込むことを意味している(Rogers,1975)。(訳出においては、小林(2004)を参照した。と著者は述べています。 ここでも、。共感的であるとは、「この瞬間瞬間、他者の内側に流れる感じられた意味を感じ取ることである。それが、恐れであれ、怒りであれ、やさしさであれ、困惑であれ、何であれ、その他者が体験しつつあるころを感じ取ろうとするのである」と言っています。 さらに、評価を下すことをせずにそのクライアントとの人生の中を繊細に、自分が新鮮な恐れのない目で、どのように感じ取っているのかを伝えることであると言っています。 私流に言えば、自分の恐れであれ、怒りであれ、やさしさであれ、困惑であれ、何であれを手放して、クライアントとに心のベクトルをひたすら注ぐことであると思う。 それによりクライアントとが安心・安全に自分を表現していくためにも。答えは、人それぞれの中にあるからだと思う。クライアントが安心・安全に自分を表現してことが、カウンセラーはの使命と思う。
2024.04.14
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読レポ第2042カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 二人の出合い(3/5) では、共感的理解とは、具体的にはどうするのか。クライアントの言わんとしていることの意味(エッセンス)をクライアントのこころの「内側」に立って、クライアントの自身になりきったかのような姿勢で、パッとつかんで、的確に伝え返していく。その理解が正しいかどうかをクライアント自身に確かめてもらい、微妙なニュアンスに至るまでぴったりくる表現を探していく。クライアントからしてみてば、カウンセラーは、自分の言わんとしていることの意味(エッセンス)の身をつかんで(余計なところは捨像して)映し出してくれる「優れものの鏡」である。「自分がほんとうに言いたいことのエッセンスを自分以上にわかってくれて表現してくれる存在」である。 違う言い方をしてみよう。共感的理解とは、クライアントの私的な世界を、その微妙なニュアンスに至るまで、あたかもその人自身になりきったかのような姿勢で感じ取り、そこで感じ取ったことえおていねいに相手に「伝え返していく」(リフレッシュン)ことである。ここで重要なのは、「あたかも」という性質を見失わないようにすることである。これを見失ってしまうと、クライアントの間に必要な心理的距離を失い、相手を受け止められなくなってしまう。 実践的には、クライアントがまさに言わんとしているその「感じ」の「エッセンス」を、「あなたのおっしゃるていることは……ということでしょうか」と、クライアントの感じているまさにその同じ次元に踏みとどまりながら、ていねいに、ていねいにクライアント自身の側に身を置きつつ、、「確かめつつ、たしかめつつ、暗闇の中をともに歩んでいくような姿勢」のことである。 このように共感的理解では、クライアントに、こちらはこのように理解していますがそれでよろしいでしょうか、それはあなたの感じている意味合いとかニュアンスにぴったりくるでしょうか。とつねに確かめながら進めていく。ニュアンスが異なっていたら微修正してもらいながら、よりぴったりくる理解に少しずつ接近していく。そんな営みである。 ロジャーズも、1970年代半ば、ロジャーズが70歳位を超えた頃「現時点の定義」とした上で、「現在、私が満足できる共感の定義を試みたいと思います。今ではそれを「共感という状態(state)と定義しません。それはプロセス(process)であって状態ではないと思うからです」(Rogers,1975)と述べている。と著者は述べています。 ここでも、共感的理解とは、具体的な説明をしてる。「クライアントの自身になりきったかのような姿勢で、パッとつかんで、的確に伝え返してす優れた鏡なる姿勢でいて、クライアントに常に微妙なニュアンスを確かめながら、クライアント一緒に共に暗闇の中を一緒に歩んでいくよな姿勢」であると。これは、クライアント中心療法のプロセスとロジャーズが70歳になり言っていていた。 私も、現在の「鏡の法則」の野口嘉則氏の本を読んでいるので、そのロジャーズの言っていることが、理解しやすいです。 カウンセリングでは、本人の中に本人の答えがあると私も思う。カウンセラーは、クライアントに安心感を保ち寄り添い、本人の中の答えを自分が気づけるように鏡になって、引き出していくことだと思います。カウンセラーは、自分の価値観や考え、感情を手放して、クライアントに自分の心のベクトルを向け続けることだと思う。
2024.04.13
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読レポ第2041カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 二人の出合い(2/5) 精神分析では、クライアントの現在の「心の内側の動き」を、「外側での出来事(成育史、過去の出来事、幼少期からの両親との関係のパターン当)」から理解する。認知行動療法では、クライアントの思考や行動(外側の動き)を、数値化されたデータをもとに「外側から」理解する。これに対して、クライアント中心療法では、クライアントの語ったことや、絵などで表現されていることを「そのまま」その内側から理解するのである。クライアントの言葉の意味などについて、あれこれ邪魔せず、解釈せずに、「そのまま」受け止める。「真に受ける」のである。 相手が言っていることを、そのまま、「相手自身の内側の視点」に立って、その「内側」を、「インターナル・フレーム・オブ・レファレンス」とは、その人が自分の内側に持っている、ものの見方、感じ方、考え方、価値観などの枠組み(フレーム)のことである。人がそれを通して世界を見て人生を生きている「内側のフレーム」のことである。 ロジャーズのカウンセリングでは、カウンセラーは、自分を消す。クライアントの内側の世界に自分を投げ入れる(自己投入)。クライアントの内側の視点に立ってクライアント自身になりきったかのようにして、クライアントが生きている内的な世界を共に体験する。クライアントを本人の内側から理解していく。「もし私がこのクライアントで、このクライアントと同じ価値観、感じ方、考え方をしているとしたならば……」と仮定して、そのクライアントの心の内側をありありと想像し、その人自身になりきったかのような姿勢で、そのクライアントの心の世界をその内側から理解しようとしていく、そしてそこで得た理解を「このように理解しているのですが、それでよろしいでしょうか」と、クライアント自身に確認し吟味し修正してもらうような姿勢で聴いていくのである。と著者は述べています。 ここでは、おそらくロジャーズは、ジェンドリンと交流して行き、「クライアント中心療法」に気づいて来たことを述べているのではないか。 『クライアント中心療法』は、クライアントの言葉の意味などについて、あれこれ邪魔せず、解釈せずに、「そのまま」受け止める。「真に受ける」て、カウンセラーは、そのクライアントの内側をありありと感じて、理解してカウンセラーの見方、感じ方、考え方、価値観などの「内側のフレーム」の手放して、クライアントの見方、感じ方、考え方、価値観などの「内側のフレーム」にカウンセラー自身が自分を没入していき、カウンセラー自身で理解したこと鏡のよに反射して、反射したものにクライアントに確認して修正していき、クライアント自身の自己変容を促すものでは、ないかと思う。 答えは、自分(クライアント自身)の中にあると思う。カウンセラーはそれを促すファシリテーターではないかと私は思う。
2024.04.12
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読レポ第2040カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン 二人の出合い(1/5) この二人の出合いはどのようにして生まれたのか。そのあたりの詳細が記されているのか、初期ジェンドリンとフォーカシングの生成に至る過程について書かれた田中秀男の博士論文『フォーカシングの成立と実践の背景に関する研究:その創成期と体験過程理論をめぐって』(田中 2018)である。ここに記されたロジャーズとジェンドリンの物語は、下手な小説より面白い。本章の以下の内容は、田中論文と、ロジャーズの口述の伝記(Rogere & Russell,2002)の冒頭にジャンドリンが寄せてた「序文」(Gendlin,2002)に大きく基づいている。これがまた抜群に面白い。ロジャーズとジェンドリンとの二人の交流が、ジェンドリン自身の口から具体的なエピソードをもとに記されている。またロジャーズという人間がこの世界でなした仕事の「本質」を、私が知る限りどの文献よりもよくとらえている。つまるところ、ロジャーズという人間とその仕事の意義の本質を誰よりも深く理解していたのが、ジェンドリンであったということが、すごくよく伝わってくる文章である。ロジャーズ、ジャンドリンのみならず、カウンセリングや心理療法について、あるいは、人間の成長、進化ということについて考える際の最もすぐれた文章の一つであると思われる。 さて、二人の出会いである。田中の博士論文(田中 2018)をもとに解説しよう。 話はジェンドリンが哲学の大学院生として修士論文を書いていた1950年にさかのぼる。ジャンドリン24歳、ロジャーズ48歳の時の話である。 ジェンドリンはシカゴ大学の哲学の大学院生であった。修士論文は『ヴィルヘルム・ディルタイと精神科学における人間的有意味性の把握の問題』(Gendlin,1950)である。ドイツ系の哲学を少しかじったことのある方なら Erfahrung(エファーゴ) と Erleben(エリーブ),Erlebnis(エブリネス)の違い、という点に一度は関心を持たれたことがあるだろう。日本語では、前者は「経験」、後者は「体験」と訳し分けられている。 ヴィルヘルム・ディルタイは、一般に「生の哲学」の提唱者として著名であるが、ディルタイは、「生」に等しい語としてErlebenを用いていていた。ジャンドリンはディルタイのErleben、Erlebnisの区別に着目した。Erlebnisは「単位となった体験(a unit experience)」であるのに対して、Erlebenは「過程ないし機能(the process of function)」を示すのでexperienceとexperiencingうぃ修士論文で使い分けていた。 そしてここが重要なのであるが、この修士論文(Gendlin,1950)中で、ロジャーズの代表作の一つ『クライアント中心療法』(Rogers,1951)を、しかも刊行前に引用している。田中(2018)は「少なくとも、この時点でジャンドリンはシカゴ大学学内で公刊前のロジャーズの草稿を入手できる立場にあったことは確かな事実である」と指摘するにとどめているが、ロジャーズの草稿を刊行前に入手できるとなると、何らかの個人的な交流があった可能性は低くない。つまりロジャーズとジェンドリンの交流は、ジャンドリンがまだ修士論文を作成中の23歳、ロジャーズ47歳くらいの時にすでに始まっていたのかもしれないのである。 そしてまたも、筆者はの、しかし常識的な連想であるが、1950年提出の修士論文の執者は1949年におこなわれた可能性が高く、その時点で二人の交流があり、2年後に刊行される『クライアント中心療法』のキーコンセプトの一つである「visceral experiene(内臓感覚的体験)」という言葉も、ロジャーズがジャンドリンとの対話から着想を得て考案した可能性も否定したがいのである。このあたりはすでに二人とも亡くなった今、確認のしようもない。しかしジェンドリンが修士論文を書いている22、23歳の頃にロジャーズと出会い、多少なりとも親密になった際にロジャーズから『クライアント中心療法』の草稿を見せてもらい、会話を交わした可能性は十分にあるのである。 いずれにせよ、ジェンドリンがはその頃ロジャーズのもとを訪れている。「『概念を超えたころの経験とは何か』ということをもっと知りたかったのです。セラピィのなかではそれがいつもおこなわれているではないかと思いつきました」(ジェンドリン・伊藤 2002)『我々は体験[=経験]をどのように象徴化しているのか」といった自分の哲学の課題をはっきりと抱えてセンターを訪れたようである(田中 2018)。センターをはじめて訪れた時のことは、こう回想されている。 待合室に、センターのスタッフが書いたものが置いてあるのを見つけました。……クライアントのふりをして一冊借りて帰りました。読んでますます興味を持ちました。まさに人々は生き生きと体験を象徴化していたんです。(Gendlin & Lietaer,1983) 想像してみてほしい。修士論文を書いている最中か、書き終わったばかりの23,24歳のジャンドリンが、何だか気になって仕方がなくて、哲学の大学院生なのにカウンセリングセンターを訪れた。ここでは「なまの体験の象徴化」という自分の関心が実際におこなわれているかもしれない。そう思って「クライアントのふりをして」カウンセリングセンターにやってきた。そして、スタッフの一人が書いたものを持ち帰り、読んでみた。そして興奮した。「ここに私の関心事が実現している!」。読んでいるこちらのほうが、興奮を覚えるくらいの、興味深い場面である。「クライアントのふりをして」ジャンドリがカウンセリングセンターを訪れたことから、ジェンドリンとロジャーズの交流は始まったのだ。と著者は述べています。 ここでは、ロジャーズとジャンドリンの初めての出会いのエピソードが書かれている。ロジャーズの『クライアント中心療法』のキーコンセプトの一つである「visceral experiene(内臓感覚的体験)」という言葉も、ロジャーズがジャンドリンとの対話から着想を得て考案した可能性があると可能性があるようだ。 この若いジャンドリン24歳とロジャーズ48歳の対話の中から「visceral experiene(内臓感覚的体験)」という言葉が生まれた可能性は、私はあると思う。 私も話し合いのファシリテーターをしていて、異なる分野と異なる年齢との会話から対話へと話し合いをすると、参加者が思いもしないアイディアを生み出される現場に立ち会うこともあった。異なる視野を持っているので、お互いの発言を通じて、お互いが刺激されて、思っていなかったアイディアが生まれることもある。一人では、なかなかアイディアが浮かばないが。 アイディアマンは、本などや他の人との交流からの刺激で新しいアイディアが生まれると思う。本などの読書は、著者との対話みたいなものです。それに、読書は、主体的でなければ、著者との対話にはなりません。 アイディアは、受身的なことからは、生まれません。主体性がなければ、生まれないと私は思います。この本を読んでいるうちに私も多少なりとも著者との対話で刺激や知識をもらっています。この積み重ねが新しいものを生むと私は、信じています。 このロジャーズの「内臓感覚的体験」という言葉も、ロジャーズがジャンドリンとの対話から生み出されたと私は確信します。人にとって対話は重要です。
2024.04.11
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読レポ第2039カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン ロジャーズとジャンドリン―二人で「一つのもの」をつくりあげた同志(2/2) 大学院生の論文の中で、指導者のほうが変わるということは、しばしばある。若手は多くの場合、光るアイディアを持っているが、うまく言葉にならない。まだ言葉にならない大切なことを言葉にしようとしてできずに苦闘している。大学院生が言葉にしようとしてできていない、けれども言わんとしているその何かをその内側から理解するために私は問いを発する。「そこであなたが言わんとしていること、ほんとうに大切にしたいことは、こういうことかなぁ?」。こんなふうに言葉を投げかけ、その本質を理解し、確かめようとする。よい論文指導というのは、基本的にカウンセリングやフォーカシングのプロセスと同じである、と私は考えている。そのプロセスの中で「そうか、これは、こんなふうに言うことができるのか。なるほど」と目を開かされることがたまにある。そうした時に、指導者の側に変容が起きる。以前からうっすらと感じていたこと、大切だと思っていたことを、今、目の前の大学院生がうまく言葉にすることができている。そのものごとの本質をより的確につかむことができている。そんな時、すぐれた教え子との相互交流の中で指導者の側が変わらざるをえなくなるのである。 おそらく、ロジャーズとジェンドリンの間にも、相互交流の中でお互いが変化せざるをえなくなっていくような、そうした幸福な出合いが、きわめて高度なレベルで起きていたのであろう。それは奇跡に近いような仕方での出会いであり、相互交流である。 ロジャーズとジェンドリンの二人が、そして「チーム・ロジャーズ」がなしとげたこととは、何か。それは①人間が真剣にものを考えるには、「内側の、暗黙の、まだ言葉にならない内臓感覚的体験」に直接意識を向けて、それを言葉にしようとしていること。ロジャーズのように「体験を十分に体験すること。アウェアネスにもたらすこと」と言ってもいいし、ジェンドリンのように「ダイレクト・リファー」とそれに続いて展開される「フォーカシング」の過程、と呼んでもいい。それが人生の出来事であれ、論文制作であれ、芸術の創造であれ、カウンセリングであれ、人が真剣にものを考える時には、自分の内側に直接意識を向け、内側と深くつながり、それを言葉やイメージにしていく、ということがおこなわれている。それが言葉やイメージとなる中で単に進路が決まり、論文が書けたり、作品ができる、問題が解決する、といったことが起きるだけでなく、自分自身が変わっていく。変化が起きてくる。 ②そしてそのような深い内省、自分の内側と深くつながってものを考えることが可能になるために必要なものは、信頼できる誰かにこころを込めて「聴いてもうらう」体験である。ただ情報を聴くのではなく、自分の内省に深く入ってその内省から理解してくれるような、そのような「聴き手」の存在である。 この二つの「ワンセット」。①自分の内側と深くつながりながらものを考える「内臓感覚的思考」「内臓感覚的内省」が、人がより自分らしく、クリエイティブに生きるためには必要であるが、そのことと②その人の内側からその人を理解し深く耳を傾けてくれる人による「深い傾聴」とは、相互に分かちがたく、ワンセットである。この「一つのこと」が、人間が幸福になり社会がよくなっていくために最も不可欠なものである。それは「人類の幸福と進化のための最強のツール」であると筆者は考えている。1950年半ば、「チーム・ロジャーズ」によってこの「ワンセット」がなしとげられていったのである。と著者は述べています。 カウンセリングなのでは、、一般の生活での人間的な成長の変化にもつながることをこの項目でもロジャーズとジェンドリンその仲間まちの「チーム・ロジャーズ」が示しています。それは、お互いに尊重しながらの相互交流からのものです。それには、①人間が真剣にものを考えて、「内側の、暗黙の、まだ言葉にならない内臓感覚的体験」に直接意識を向けて、それを言葉にしようとすることです。自分の内側に直接意識を向け、内側と深くつながり、それを言葉やイメージにしていく、ということがおこなわれていると自分自身が変化してきます。それを生み出すためには、②そのような深い内省、自分の内側と深くつながってものを考えることが可能になるために必要なものは、信頼できる誰かにこころを込めて「聴いてもうらう」体験があることが必要です。 それが、ロジャーズとジェンドリンとの尊重しながらの相互交流が、ともに心理療法の新たな扉を開けていったのだと、私は思います。 私も自分の成長には、数々の師匠と呼ぶ友人やお互いを尊重し合える友人が今の自分の成長へと影響・やる気スイッチを入れてくれたと確信します。 お互いにお互いの意見を否定しないで相互交流することで人は成長するものだと思います。それは、ミーティングファシリテーターや学校教育&社会教育の講師を務めているなかで感じました。私の学校教育&社会教育の講師では、一歩的に話すのではなく、相互交流を大事しています。 人はお互いを尊重しながらの対話による相互交流が人の成長を生みます。
2024.04.10
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読レポ第2038カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第6章 1955年ロジャーズとジャンドリン ロジャーズとジャンドリン―二人で「一つのもの」をつくりあげた同志(1/2) 一般的には、ロジャーズは来談者中心主義やパーソンセンタード・アプローチの創始者で、ジャンドリンはフォーカシングの創始者として知られている。両者は、シカゴ大学における子弟の関係にある。そのように説明されることが多い。間違いではない。ロジャーズはセラピストとクライアントの関係を重視し、ジェンドリンはクライアントの内側での変容を重んじた。そのように言われることがある。しかし実際は、そう簡単にくくれるものではない。 本書を書くにあたって改めてロジャーズの代表作『オン・ビカミング・ア・パーソン』を読み直した。筆者が改めて感じたのは、この本に収められている論文の大半が、ロジャーズとジェンドリンを含む共同研究者らによる「チーム」の協働や葛藤の中でなしとげられた成果である、ということである。本書第2章・第5章で見た。ロジャーズの心理療法論やクライアントの変容過程論も、それを柱として構成されているロジャーズの代表作『オン・ビカミング・ア・パーソン』も、そしてジェンドリンのフォーカシングも、言わば「チーム・ロジャーズ」の仕事の成果である。これらすべてが、ロジャーズとジャンドリン、そしてその仲間たちとの「合作」とでも言っていいような側面がある。 ロジャーズが著作の中で、クライアントの変化過程にちいて説明する時、彼の中でもどこからどここまでがジェンドリンの考えで、どこからどこまでが自分のオリジナルの考えなのか、混然としてよくわからなくなっている感じがあったのではないか。たとえば、ロジャーズがexperiencingという言葉を用いてクライアントの変化を説明する際、ジェンドリンの考えを説明しているのか、そこからヒント得てジェンドリンのとは異なる自分の考えを述べているのか、おそらくロジャーズの中にでも混然一体となってわからなくなっていたようなところが多分ある。ロジャーズがexperiencingという言葉を用いて人間の変化を説明する時には、「変化の渦の中に自分を投げ入れ、この一瞬一瞬を生きる」という実在的なニュアンスが、ジェンドリンの用法に比してかなり濃厚である。また同じ論文の中で、おそらくこのexperiencingは少し違うニュアンスで用いられる、と思われる箇所がいくつもあった。同じ論文の中の同じexperiencingという言葉でも、かなりニュアンスが異なるのである。 筆者が『オン・ビカミング・ア・パーソン』の翻訳の中心作業を担った2003年から2004年に、同じ論文の中の同じ言葉なのであるから揃えて同じ訳語をあてがいうべきか、それともその都度訳し分けて、ジャンドリンの意図に近い使われ方をしている場合には「体験過程」と訳し、より実在的なニュアンスが濃厚な、ロジャーズ独自の用法がされている場合には「体験の流れ」などと異なる訳語を使うべきか、かなり迷った。 しかし、ロジャーズの中のこの「ぶれ」は決して悪いものではない。優れた若手研究者との交流の中で刺激を受けて中高年の研究者が変化し始め、その変化の途中で本人の中でも「ぶれ」が生じることは、むしろその研究者の柔軟性と可搬性を示すものである。筆者自身も優れた大学院生の指導などにおいて時折体験することであることであるが、「ほんとうにすぐれた教え子」との相互交流の中で、指導者のほうが変わるということは、しばしばある。と著者は述べています。 ここでは、ロジャーズが教え子のジャンドリンなどの優れた若手研究者と交流の中で、ときよりロジャーズ自身が「ぶれ」ることで、よりいっそう、交流の中で刺激を受けて、柔軟性と可搬性を示すしロジャーズ自身が変容していったことが書かれいる。 年齢には、関係なく相手を尊重したロジャーズ自身が見えてくる。多様性を肯定的に受容することで、ロジャーズ自身も成長していった。協働的にロジャーズ自身がこの分野を成長していったのではないかな。 私もロジャーズを見習って、多様な人とも交流して自分の成長につなげたい。幸いにオンライン講座や北欧にいる師匠のワークショップに参加して、様々な海外在住の日本人とも交流して、自分に刺激をもらっています。今 日は、WWFジャパンでのオンラインセミナーで環境の事を学びました。地域に関係ないで学べます。地方にいても、学べて成長できる時代です。
2024.04.09
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読レポ第2037カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 ジャンのケース―スピリチュアルな次元へ 最後に紹介するケースは、死の前年に公刊された『著名な心理療法家の実例例』所収のもの。ロジャーズ自身が、みずからの生涯におけるカウンセリン実践の到達点を示すものとして、セレクトしたものである。この面接は1986年、人種問題の解決のためにおこなわれた南アフリカ・ヨハネスブルクのワークショップにおいて、デモンストレーションとして提示されたものである。ワーケーションの参加者は実に600人。クライアント役の志願者は何人もいたが、同僚のルース・サンフォード(Ruth Sanford)がジャンという女性を選んだ。ロジャーズは、この重要な著作において、自身の数ある面接記録の中から、このケースを選んだ詳細は検討を加えている(Rogers,1986a) ジャンは35歳の女性で、結婚と子供の恐怖、年齢という二つの問題を抱えていた。30分のデモンストレーション面接である。ジャン:このことお話ししたほうがいいかもしれません。私がやっているアマチュア演劇と関係しているかもしれないと思うんです。よくわからないですが、私は。いたずら好きな少女を演じるのが好きなんです。何かよくないことをやりおおせようとしたり、何かが欲しくなった時、私はいつも、いたずら好きな少女を演じたくなるんです。ロジャーズ:その役のことをあなたはよく知っているんですね〔ジェン:笑う〕。そして何回もそれを演じてきや〔ジャン:そうするとうまくいくんです〕。うまくいく―いあたずら好きな少女は、何かをやりおおせるのが得意なんですね。数分後、ジャンは強い絶望感にとらわれ始め、「誰かに助けてほしい」「どこかから救がやってくるに違いない」という気持を話し始める。ロジャーズ:誰かの他の人がどこからかやってきて、あなたをこの苦しみから救い出してくれる、そうしてもう大丈夫だよって言ってくれる。それを待っているんですね。ジャン:えぇ、それで私はお祈りをしているんですけど、私の宗教についての感じ方は、他の人と少し違うみたいなんです。私は、スピリチュアルな成長というものを信じています。私がこんなふうになってしまうのは、多分、業によるものです。そういう宿命なんです。でも、もちろん私の心の中では別なものが動いています。言ってみればそれは、私のスピリチュアルな成長の一部なんです。でも、せれだけでは十分じゃありません。私は、からだとの接触を求めてしまう。〔沈黙〕私がかかわることできる誰かと……。ロジャーズ:あなたがかわることのできる誰かと。私は思うのですが―これは、少し馬鹿げた考えだと思われるかもしれませんが―そんな友だちの一人に、あのいたずら好きの少女がいたらいいのになぁと思うんです。こんなことを言ってあなたにとって意味があるかどうかはわかりませんが。ただもし、そんな陽気でいたずら好きな少女があなたの内側に棲んでいて、そして、あなたが光の中にいる時か暗闇の中にいる時まで、あなたの側にいてくれたらって思うんです。こんなこと、あなたには何の意味もないことかもしれませんが。ジャン:〔困惑した声で〕もう少し説明してくれませんか。ロジャーズ:私は、あなたの最もいい友だちの一人は、あなの中に隠れているあなた自身ではないかと思ったんです。つまり、あなたの中に隠れているおびえた少女。いたずら好きな少女。あまり顔を出さない真実のあなた。ジャン:〔沈黙〕たしかに、そう思います。あなたが今言われたとおりです。今、振り返っているんですが、ずっと、いたずら好きな少女を失っていたような気がします。実際、この1年半というもの、そのいたずら好きな少女は、ずっと消えていないくなったままでした。ロジャーズはこの箇所にコメントを加えながら、気持のたかぶりを抑えられなかったようである。ロジャーズによれば、ここで彼がおこなっている応答は、「直観」レベルの応答、すなわち、クライアントの世界にすっかり没入することができ、そしてその世界とびったり調子があった時にだけ可能となるような応答であったからである。 クライアントのジャンが前に語った「いたずら好きな少女」のことを、ロジャーズはここでかなり唐突に、しかし以前とはまったく異なる文脈で語り始めている。「この応答は意識レベルでの応答ではなく、クライアントの内面的世界を直観的かつ無意識的に感じ取ることから自然と生まてきた応答であった」「カウンセラーとして自分自身が幾分か変性意識状態にある時、このような応答が生まれてきたのだ」とロジャーズは言っている。そしてその応答が、クライアントの心の中に失われた何かに触れたのである。「このセンシティヴな共感がとても深くなっていったある時、私の直観がひらめきました。そして、不思議なことなのですが、その直観が、彼女の中の大切な部分、彼女がつながりを失っていたその部分に触れたのです。この時、私たち二人はおそらく。お互いに変性意識状態にあり、影響を与え合っていたのでしょう」。この面接についてコメントをロジャーズは次のように締めくくっている。 翌朝ジャンは、「あの『いたずら好きな少女』をめぐるやりとりから、私の自分探しの旅がはじまりました」と言ってくれました。彼女はこの1年半「いたずら好きな少女」ばかりでなく、自分自身のさまざまな部分を失ってしまったところに気づいたのです。「私が一人の人間全体として、自分の人生に立ち向かっていくことができるためには、自分の中の失われた部分を探し出さなくてはならないということがわかったんです」。自分にとってこの面接は「魂を揺さぶる体験(soul-shaking experience)」でした。ジャンはそう言ってくれました。(Rogers,1986a)と著者は述べています。 ここでは、人種問題の解決のための南アフリカでのワーケーションでのデモンストレーション面接でのジャンのカウンセリンの例がのっていて、クライアントの些細なことから、ジャン自身の問題を解決するためにロジャーズは、シャンに没入していった例が示されいる。 具体的にロジャーズの没入の姿が見える。 ジャンのアマチュア演劇の「いたずら好きな少女」が影響しているとは、私などなら、そこまで見つけることは出来なかったかもしれない。 人には、複数のパーソナリティがある。大人の男性なら、結婚していれば「夫」として、「会社員」として、「子供の父親」としてなど、さまざまなパーソナリティを人は持っているものです。場所によって、人はパーソナリティを変えてゆくものです。 それが極端にかわることをパーソナリティ障害といいます。人には、多様なパーソナリティを持っているのですが、このジャンは、本来持っていたパーソナリティが行方不明になっていて、不安や絶望感に無意識的になっていたのかもしれない。自分を見失っていたのかもしれない。本人は気づかずにロジャーズが没入していたカウンセリンおかげで、気づいていったのであろう。
2024.04.08
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読レポ第2036カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 後期ロジャーズの「直観」を生かしたカウンセリング(3/3) 死の前年に公刊された『著名な心理療法家の事例集』所収の論文では、「成長を促進する関係の特質として「受容」「共感」「純粋さ」の3つを取り上げ説明した後で、「もう一地の特質」という説を設け、そこに「私が自らのうちなる直観的自己の最も近くにいる時、私がみづからの未知なるにに触れている時、そして私が、クライアントとの関係において幾分か変性意識状態にある時、その時私がするどんなことでも癒しに満ちているように思えるのです。その時、ただ私がそこにいることが、ひとを解放し援助します」という箇所を再掲している。 素直に読めばロジャーズが、「受容」「共感」「純粋さ」の3つと並ぶ「もう一つの特質」、つまり「第4の条件」として、「うちなる直観的な自己の近くにいること」や「クライアントとの関係の中で変性意識状態にあること」を加えたと受け取る内容である。そうなれば、ロジャーズ理論が公式に更新されることになる。「中核条件」は3つではなく、4つになった可能性があったのだ。 ロジャーズの晩年の同僚で、彼のスピリチュアリティへ傾斜に最も影響を与え他と言われているマリア・ボウエンは、この論文を読んで後、これを文字どおり「第4の条件」と受け取っていいものかどうか疑問を感じた。そして私信でダイレクトな質問をしている。数日後、ロジャーズからボウエンのもとに届けられた返事には「直観の意義はまだ十分にリサーチで研究されていない」し、「直観についての満足のいく定義すらまだ知らない」から、「あなたの質問にどう答えるればいいかわからない」と断った上えで、次のように述べている。「私がもし、直観は必要条件の一つだと言い始めたら、セラピストたちはこぞって、自分は直観的でなければならないと考えるようになるおそれがあります。これは不幸な結果を招きます。私が今はっきり言えるこちはただ一つ、直観というものは、セラピストがベストな瞬間に至った時、しばしば現れる特質だということです」(Bowen,unpublished) 自分がセラピィについて何か発言をすれば、周りの人間がこぞてそれを真似し始める―こうした現象に、ロジャーズがどれほど嫌気がさしていたかがよくわかる返事である。この返事を受け取り、ボウエンは次のように結論をくだしている。直観は、新たに付け加えるべき「第4の条件」ではない。むしろそれは、「高度な共感の一種」である。直観はセラピストがクライアントの内的世界に注意を集中し没入していき、それ以外のすべてのことが意識から消え去るセラピィの特別な瞬間に働く。そしてその時それは、強い癒しの力を発揮するのである、と。実に深い洞察であると思う。筆者も同意したい。と著者は述べています。 ロジャーズは、晩年に「受容」「共感」「純粋さ」の3つと並ぶ「もう一つの特質」、として「第4の条件」として、「うちなる直観的な自己の近くにいること」や「クライアントとの関係の中で変性意識状態にあること」を加えたが、同僚のボウエンは、その「第4の条件」をむしろそれは、「高度な共感の一種」である。直観はセラピストがクライアントの内的世界に注意を集中し没入していき、それ以外のすべてのことが意識から消え去るセラピィの特別な瞬間に働くものと洞察していたと述べている。著者もそのボウエンの指摘に同感しているようだ。 私的も「受容」「共感」「純粋さ」の3つと、いつの間にか「一致」が語れるいないが、ロジャズの「第4の条件」は、共感が深まった時の一部のような気がします。共感していくに連れて深まっていくなかで、直観的なスピリチュアル的な状態にカウンセラーの一部の人がなっていくのだと思う。
2024.04.07
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読レポ第2035カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 後期ロジャーズの「直観」を生かしたカウンセリング(2/3) 78歳のロジャーズがみずからの心理療法の到達点として示した言葉である。しかもこの箇所は、1986年、つまりロジャーズの死の前年に公刊された『著名な心理療法家の事例集』所収の、ある意味では彼の治療論の集大成とも言える重要な論文(Rogers,186a)においても、まったくそのまま再録されている。したがって、この箇所こそ、ロジャーズ自身が自身のセラピスト論の到達点として認めた内容+9を示したものと言っていいだろう。 この6年後、おそらく84歳の時点で、口述の伝記(Rogers & Russell,2002)においてロジャーズは、「共感的理解のための直観的能力」ついて次のように表現している。 私がきがついたのは、注意深く耳を傾けると、得られるものが大きいということでした。それから徐々に、感情と個人特有の意味を理解しようと耳を傾けていることに気づきました。―2番目の点を飛ばしてしまいがちです―感情に耳を傾けているだけでなく、その人が体験している個人としての意味を理解しようとしている点です。その次に気づいたのは、相手の私的な内面世界に入って、その内的世界のありのままの姿を感じとろう取ろうとしていていること、そこで自由に動いてみるようとしていること、内面世界からそれをかんじてみよとしていることでした。共感というのは、相手が自分自身の体験を探究する同行者であり続けることを意味することに気づきました。こうして、だんだん私自身の直観的な理解を信頼するようになり始めたのです。クライアントが言ったこととは関係のないことを言いたくなることがあります。しかし私には、それを発言することが大切だと思われるのです。 やがて私にとっての共感への直観的能力へと広がっていきました。浮かびあがってくる自分が言いたいことを、見つけようとするわけです。奇妙に聞こえるかもしれません。相手の表現を超えているかもしれません。しかし、わたしがそれを言葉にすると、まさに相手の琴線に触れて、クライアントがかすかに感じてはいるけれどもまだ体験されるまでになかったさまざまなことが開かれてくるのを発見しました。私はまだ直観の働きというものをほんとうに理解していません。私はノンバーバル(非言語的)な手がかりを拾い上げただけなのか?それだけでは十分な説明にはなりません。ともかく、私の内面的な核と相手の内面的な核がふれあう道がある。私には、自分の精神とか頭脳より広大で、私が意識的に理解しているスピリチュアルな働きは意識的な理解を超えているので、自分でもわからない、相手のなかで動くものに応答することができるのです。と著者は述べています。 ロジャーズは、「共感というのは、相手(カウンセラー)が自分自身の体験を探究する同行者であり続けることを意味することに気づき、それにより、私(カウンセラー)自身の直観的な理解を信頼するようになり始めたと」言っています。「それを言葉にすると、まさに相手(クライアント)の琴線に触れて、クライアントがかすかに感じてはいるけれどもまだ体験されるまでになかったさまざまなことが開かれてくるのを発見したのである。」 そのことで、ロジャーズは、「自分(カウンセラー)の精神とか頭脳より広大で、私が意識的に理解しているスピリチュアルな働きは意識的な理解を超えているので、自分でもわからない、相手(クライアント)のなかで動くものに応答するよになったと」スピリチュアルな直観を説明しています。 私も自分の中にスピリチュアリアルと言うか、説明できない湧き出てくる、直観的なものを大事にしています。自然活動でも自分の中に湧いて来る直観的なものを大事にして、一度も怪我や事故は20年以上起こしていません。人間の直観は、説明はできないが、自分の直観を信頼することが、私は今の自分を作ってきたのです。自分を信頼することです。 カウンセリでの答えはクライアントの中にあると言われています。カウンセラーはその支援するだけです。あくまでも、答えはクライアントの中にあると思います。
2024.04.06
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読レポ第2034カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 後期ロジャーズの「直観」を生かしたカウンセリング(1/3) ロジャーズは70歳を過ぎた頃から、妻のヘレンの死に際しての神秘体験や、当時のワークショップの体験、同僚からの影響などにより、スピリチュアリティアルへの関心を急速に深めていった。中でも大きかったのは、娘のナタリーや同僚のマリア・ボウエン(Maria V.Bowen)と共におこなった大規模なグループでの体験だったのである。かなり大規模なエンカウンター・グループで、参加者全員が「一つ」になり、宇宙意識の一部であると感じられるような体験であったという。 ボウエンは、ロジャーズが最初に直観やスピリチュアリティについて語り始めたのは、グループのプロセスについて述べた次の言葉だったと言う。 グループの進行中のプロセスの中で、メンバー同士がますます心を通い合わせていき、一体感が生まれ、魂の集合的な調和(a collective harmonious psyche)が生まれてきます。これは、本質的にスピリチュアルな性質のものです。(Roges,1980) このような大規模なグループの体験や他のスタッフからの影響が、晩年のロジャーズをスピリチュアリティへと向かわせていった。 娘であり仕事の仲間でもあったナタリーも、当時の同僚たちからロジャーズが大きな影響を受けていたことを指摘している。 父は晩年とトランスパーソナルの領域に関心を抱き、スピリチュアルとか神秘的といった言葉を好んで使い始めました。このことは、マリア・ボウエンと私が父に与えた影響が大きいと思います。(Rogers,]N,1997) ロジャーズはこうした体験について、晩年の主著『一つの在り方』(rogere,1980)(A Way ofBeing)の「変性意識状態」という節において記している。ロジャーズにも大きな影響を与えた大規模グループに参加したあるメンバーは、その体験について、次のように語っている。 とても深いスピリチュアルな体験でした。このコミュニティのスピリットが一つになった(the oneness of spirit in the communiy)と感じました。私たちはお互いに話をしているのだけど、一緒に息をし、一緒にかんじていました。私たち一人一人に、強烈な「いのちの力(the power of the life force)」が吹き込まれたのです。それが何であるにしても。 「私が」とか「あなたが」といった普通はあるその壁がなくなって、その力の存在を感じることができたんです。自分の意識の中心であるような感じ。自分が何か大きな宇宙意識の一部となったような、そんな瞑想のような体験でした。この異様なまでの一体感中で、そこにいる一人一人が切り放された存在だという意識はすっかり消えてなくなっていたのです。 その後ロジャーズは、この体験は神秘的な性質のものであり、「私のセラピィやグループの体験が、何か超越的なもの、記述不可能なもの、スピリチュアルなものにかかわっていることは明らかだ」と述べている。こうした体験を積み重ねていくうちに、ロジャーズのセラピィ観にも変化が生じ始める。そして彼のセラピストとしての到達点ともいえる次の言葉を記している。 私は、自分のグループのファシリテーターやセラピストとしてベストの状態にある時、そこに、これまで論じてきたのとは別の、もう一つの特質があることを発見しました。私が自らのうちなる直観的な自己の最も近くにいる時、私が自らの未知なるものに触れている時、そして私が、クライアンの関係において幾分か変性意識状態にある時、その時私がするどんなことでも癒しに満ちているように思えるのです。 その時、ただ私がそこにいること(presence)がひとを解放し援助します。 この経験を強めるために私ができることは何もありません。けれど、私がリラックスして、私の超越的な核心に近づくことができる時、私は奇妙かつ衝動的な仕方で振る舞うことができるのです。合理的に正当化することのできない仕方、私の思考過程とはまったく関係のない仕方で。 そしてこの奇妙な振る舞いは、後になって正しかったのだとわかります。その時、私のうちなる魂が外に届き、他者のうちなる魂に触れたように思えるのです。私たちの関係はそれ自体を超えて、より大きな何ものかの一部となります。そこには、ふかい成長と癒やしとエネルギーとがあります。(Rogers,1980)と著者は述べています。 後期のロジャーズは、「直観」からスピリチュアリティなカウンセリングへと変容していた。それは、仕事を一緒にしていた娘のナタリーや同僚のマリア・ボウエンの影響も受けて、スピリチュアリティな大規模なエンカウンター・グループでのカウンセリングへと変容していった。 「自らのうちなる直観的な自己の最も近くにいる時、私が自らの未知なるものに触れている時、そして私が、クライアンの関係において幾分か変性意識状態にある時、その時私がするどんなことでも癒しに満ちているように思える」のです。 まさしく、ロジャーズは、トランスパーソナルの領域へと関心を向けていった。 私もスピリチュアリティ的なことは、あると思っています。すべてが科学的に解明などできでいませんし、科学的にすべてが解明できるとは思っていません。今の紅麴問題などが良い例です。 そのスピリチュアリティ的なことの一つが、ロジャーズが言っている「直観」だと私は思います。最近の日本でもメンタ関係の本でも「直観力」を唱えている人もいます。実は、学びの中にも「非認知力」が、これからAI社会には重要だと言われて、数字化できない言葉化ができない「直観力」がこれから必要と言われています。
2024.04.05
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読レポ第2034カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 グロリアのケース―「治療的出合い」とはさて、中年期の危機を経て、「一致」の意義を説き始めたロジャーズの面接は、相当に自由になっていく。ミス・マンとの美しい、実に整った面接がロジャーズの全盛期のそれであるとするならば、それ以降の面接には、ある種の揺れが感じられるようになる。もちろんそこには老いも関係するだろう。しかしロジャーズの場合。還暦を超えてから、自由に弾けた感じになっていく。より大胆に自分を出すようになっていくのである。 ロジャーズのカウンセリング場面で最も有名なのが、グロリアのケースだろう。 『サイコセラピィの3つのアプローチ』という16ミリフィルムが1964年に制作され、グロリアというクライアントがロジャーズ、ゲシュタルト・セラピィのフレデリック・パールズ、論理療法のアルバート・エリスという3人のカリスマ・セラピストにセラピィを受ける様子が記録されている。日本でも『グロリアと3人のセラピスト』というタイトルでビデオが販売されたことがあり、観た方もかなりいると思われる。 30歳くらいの魅力的なシングルマザーであるグロリアは、自分の性行動と、それにかかわった9歳の娘に嘘をついていることに罪悪感を抱いていることを語る。最初、グロリアは自分の性行動が娘に与える影響についてロジャーズに意見を求めるが、次第に自分自身の感情に目を向けていく。グロリア:私は、自分がどんなことをしても、いい気持でいたいんです。パミーにほんとうのことを言わなくても、まだわからないんだからと安心していた。でもそうできないです。私は、正直でいたいんですけど、同時に自分を受け入れることのできないものがあるようにも感じています。ロジャーズ:自分の中にあるその部分を、自分で受け入れることができない。なのに、そのことをパミーに話してもいい気持でいられるなんてことがあるのかしらと、ろう思うんですね。グロリア:そうです。ロジャーズ:でも自分の中には、こんな欲望や、あんな気持ちもたしかにあって、それがいいものと思えない。グロリア:そうです。でも、先生はただそこに座っているだけで、私はだんだん混乱していっている気がします。私は、先生にもっと何かをしてほしい。私が罪の意識から逃げられるように手助けしてほしいです。嘘をついたり、男の人と寝ても罪の意識を感じなくなれば、もっと楽な気持になれるはずでしょう。ロジャーズ:「いいえ、あなたを混乱さたいなんて思ってはいまさんよ」と言いたい気もしますが、また、この問題はとてもプライベートな問題だから、私があなたに代わって答えてあげることあげることなんてできないような気もしているんです。でもともかく、あなたが答えを求めていくのを助けたいと思っています。こんなこと言って意味があるかどうかはわかりませんけれど、私はそう思っているんです。 グロリアはいったん、何も答えを与えてくれないロジャーズに対して、「先生はただそこに座っているだけで、私はだんだん混乱していっている気がします」と詰め寄る。ここでロジャーズは、「ともかく、あなたの力になりたいんです」と、自分の気持をストレートにつたえることで面接を立て直している。 面接の後半部からも、1箇所紹介する。ロジャーズ:そんなユートピアの瞬間に、あたたは全体を感じるんですね。一つのこちの中に全体を感じるというか。グロリア:ええでも、そんなふうにいわれると息が詰まるような感じがします。というのも、そんなにいつも感じているわけではありませんから。でも、私はその全体の感じがとても好き、それは私にとってはほんとに大切なもの。ロジャーズ:その感じをそんなにしょっちゅう感じることができる人なんていないと思いますよ。でも、とてもわかる気がします。(沈黙。涙がながれる)。それはあなたをほんとに感動させるんですね。グロリア:ええ、今、私、まったく違うことを考えていたんですけど、おわかりですか。おかしなことなんですけど、先生とお話ししていて突然、こう思ったんです。「なんてうまく話ができるだろう、私は先生に私を認めてほしい、先生のことは尊敬できる。でも、父は先生みたいに私に話をしてくれなかった」って。「あぁ、先生が私のお父さんだったらな」って、そう言った気持ちなんです。どうして、そんな気持ちになったのかわかりませんけど。ロジャーズ:私には、あなたがとてもよい娘のように思えます。でも、お父さんに自分の気持ちを話せなかったことをほんちに残念に思っているんですね。 ロジャーズはここでグロリアに、「私には、あなたがとてもよい娘のように思えます」と言い、これにより面接は深められていく。面接のふり返りでロジャーズは、これを「逆転移」という言葉で解釈することもできるが、それは真実の関係の世界について言葉遊びをしているにすぎないと言って、それを退けている。 たった一回きりの面接、しかもわずか30分の面接を映像に撮られ、パールズやエリスのそれと比較されることもあって。かなり力んでいたのではないだろうか。 『ミス・モノクロームとの面接』と見比べてみるとわかるが、この面接でロジャーズはかなり自分から話している。ツィムリングによれば、このグロリアとの面接で、ロジャーズは驚くほど頻繫に自分の人生観を語っている。クライアントの感情への共感よりも自分自身の感情や価値感の表明に重点が置かれてた応答は、実に20にも上るという。しかもこのうちの約半分はグロリアから質問に答えたものであるが、残りの半分は、自分のほうから語りはじめたものだという。そしてロジャーズのこれらの応答の多くは、グロリアの注意を彼女自身の感情の流れからそらすことになってしまっている、という(Zimring.1996)。 グロリアのケースにおけるロジャーズの応答は、決してスマートなものではない。『ミス・マンとの面接」の無駄のない美しさに比べればそれは歴然としている。 このことに気づいた筆者は、記録を残すなら、やはり50代の時の面接を記録に残しておかなくてはならないと思い、一昨年面接場面の映像を収録した。 グロリアとロジャーズの間には、長い間かなり親密な関係が維持されていった。ロジャーズ、エリス、パールズの3人の面接を終えた直後、インタビュアーから質問されグロリアは、「次に会うとしたらバールズに会いたい」と語っている。しかし実際には、この面接の2年後グロリアはロジャーズのワークショップに参加する。そしてそれ以降、彼女が若くして不慮の死を遂げるまでの15年間、グロリアはロジャーズ夫婦を精神的な両親とみなして、交友を深めていったのである。 『グロリアと3人のセラピスト』収録から20年後、ロジャーズはこう記している。 対等な一人の人間同士として真に出会った、あの30分間の関係が持っていた何から、グロリアとの15年間にわたるつながりが生まれたという事実を前にして、私は敬虔な気持ちになる。たった30分ともいえども、その30分がその後の人生を大きく変えることもある。そのことを知っておくのは大切なことであると私は思う(バリー 1986)。 一方、グロリアは後に、「ロジャーズが私に何かを”与えてくれた”というのは正しくありません。でも、あの短い時間の中で生じたことは、私の中にあれからずっと生き続けています。彼はただ、私の自分の潜在力―ひとりの人間としての自分の価値―を認識できるように援助してくれた。どんな言葉を費やしても、そのことが私にもたらした重要性をすべて表現することは不可能です」と手記に書いている。 また、グロリアの娘パメラ(バミー)も、「彼(ロジャーズ)はグロリアの自分自身の声を探すための後押しをしてくださった。親から子へと代々伝わっていくよう手助けしてくださったので、私も自分自身の声を持つことができた」と述べている(同前)。と著者は述べています。 今回からもロジャーズは、グロリアのカウンセリングからも、カウセラーは、クライアントへ援助している姿勢を感じる。グロリアの混乱した気持ちも寄り添いの応答して。時には半分くらい自分自身の感情や価値感の表明をしながら、クライアントの感情の流れからそらすことしたりしながらクライアントの気持に寄り添うことが、ここの項目からも良く読み取れると私は思う。 グロリアはその後15年間もロジャーズと交流があって、グロリアは、後で、ロジャーズに「私の自分の潜在力―ひとりの人間としての自分の価値―を認識できるように援助してくれた」と言っている。 このことからもカウンセラーは、クライアンが混乱していても寄り添いながら、クライアンの混乱を乗り越える援助していることがわかる。混乱を避けるのではなく、共に乗り越えるよに寄り添う援助が大事であるように感じる。混乱も避けるのではなく、クライアンが乗り越えられるようにカウンセラーは、援助することがこの項からも私は感じます。
2024.04.04
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読レポ第2033カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 三条件とはなにか これまで見てきて、いかがだろうか。ロジャーズの言う「受容」「共感」「一致」といった条件が。よくカウンセリングのテキストなどに記されているような「カウンセリングの基本」などでは決してないということがわかったのではないだろうか。 かつて河合隼雄はさまざまな折に、ロジャーズの言っていることは「カウセラーの究極目標」であって、決して基本などではない、といった趣旨のことを語っていた。 また、著名な精神科医の成田善弘は、「なぜ不可能なのか?からの出発」という論考において、ロジャーズの三条件は、「それに向かって務めることはできても、現実に達成することはほとんど不可能な理想」であり、「治療者たる者まずそれにクリアしなければならない条件」などととらえてしまうと、「お前が治療者として至らないからだ」といった思いにかられるのだけで終わってしまう、との理論がもたらしかねない弊害について指摘する(成田 2015)。 実際に日本のカウセラートレーニングの現場でしばしば起こってきたことである。あまりに禁欲主義で、自罰的。「まだダメだ」「まだダメだ」と自分を責めてはがんじがらめになっているような人をしばしば見かけてきた。その背景にあるのが、この「受容」「共感」「一致」の三条件であった。 なぜか。「三条件」しか与えられていないと、うまくいかないクライアントを前にして、セラピストに自らの面接を吟味するための理論的な手がかりが与えられないからである。そして、自分は「相手を受容できたか」「ほんとに共感できたか」「純粋でいられたか」と、ただ精神主義的な内省を繰り返す他なく、袋小路に追いやれてしまうのである。このような弊害を「必要十分条件説」は内包していることをかねて筆者は警告してきた(諸富 2004) もちろん、すぐれたロジャーズ派臨床家はこれまでも、相手の状態像の的確な見立てに基づいた柔軟な治療実践をおこなってきたことは言うまでもない。しかしだからと言って、それを裏づける理論的装置が不要であるということにはならない。 本書で見てきたように、ロジャーズ本人は相当に自由な人であった。その人がつくった理論が人を不自由にしているとするならば、それは(これを教条主義的に教え込もうとしてきた指導者の側の責任も相当にあるが)、最終的には、理論には踊らされている人間のほうの責任であるように思える。 では、「三条件」とは何か。重要なことは、これら「三条件」は、ロジャーズがいうように、「理想なセラピィがおこなわれている時に体現されるそのセラピストの在り方を、異ならる3つの角度から焦点を当てた異なる3つの側面」であるにすぎない、ということである。理想的なセラピィには、結果として、その異なる側面として、受容や、共感や、一致が立ちあらる、ということをロジャーズは見てとったのであって、決してその逆ではない。つまり、受容と共感と一致をいくら足し合わせたところで、理想的なセラピィには、近づけない。これを別個に議論してもあまり意味がない。むしろ意味があるのは、ロジャーズがこれらの言葉を使って言い表そうとしていた「カウンセリングや心理療法の本質的な何か」を私たちが、自分なりの言葉でつかみ直し再検討していくことではないだろか。本章の冒頭で取り上げた3点は、そして、現在筆者が構築中である「体験―アウェアネス― 意味」生成セラピィ(EAMA)は、筆者なりにその課題に挑んだ中間的な成果である。と著者は述べています。確かに、私の中にロジャーズのカウンセリングが「カウンセリングの基本」と思い込んでいるふしがあるな。「カウンセリングの父ロジャーズ」と良く聞いて、その影響で、勝手に思い込んでいる節がある。 著者の指摘のように「相手を受容できたか」「ほんとに共感できたか」「純粋でいられたか」と、精神主義的な内省をしがちで、自分が自罰的な思考になりがちになっていたことがあった。 でも、ここの項目を読んで「受容」「共感」「一致」の三条件を足すために合成するのではなく、それぞれを独立して、複眼的に捉えることだと私は思う。 そうすることで、複眼的な見方をするとクライアントのこんがらがっていて、表現できないことが徐々に見えてくるように思う。複眼的思考がカウンセリングに大切なような気がする。
2024.04.03
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読レポ第2032カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 最後の条件「セラピストについてクライアントの知覚」 「必要十分条件」論文に示された「最後の条件」は、「クライアントが最小限にでも、セラピストが自分に対して経験している受容と共感を知覚しているということである。これらの態度的な条件がある程度伝わっていなければ、クライアントに関する限りこれらの条件はその関係のなかに存在していないのであり、私たちの仮説によれば、セラピストの過程はまだ始まっていないのである」 いくらカウンセラーの側が、クライアントを受容し共感しているつもりでいても、それがクライアントにつたわっていなければ変化は生じない、というのである。当然と言えば当然のことであるが、それが「知覚というレベルで伝わるものか、そのあたりは、議論の分かれるところであろう。ロジャーズ自身も「態度というのは直接知覚することはできない」と断りをいれている。この点については、ロジャーズが最大の信頼を置いているジェンドリンもこう述べている。 カール・ロジャースは「純粋性(genuineness)」を(「共感」及び「無条件の肯定的配慮」とともに)心理療法の三条件の一つにあげているが、これはまことに正当な指摘であった。 ロジャーズはさらに、クライアントがこれら3つの態度をセラピストの中に「知覚する」必要があると付け加えているが、その点は全面的に正しいとは言えない。 付け加えるべきは、3つの態度がセラピストの内側にとどまるだけでは仕方がないということではなかろうか。これらの態度は、セラピストの行動として表面に現れており、何らかの効果・具体的影響を与えている必要がある。 人間のからだはそのような影響を即時に直接的に体験する力を持っている。その体験は意識的な知覚や思考以前のものである。クライアントの多くははじめ、誰かが自分のことをわかってくれていたり気にしてくれるなどはとても知覚できないところから出発する……。しかしクライアントには知覚できなくても、具体的な相互作用は効果を及ぼすのである。生命体としての過程が働き、その人を前進させ変化させる。具体的な変化が十分起こった後ではじめて、クライアントはセラピストのこれらの態度を知覚することができるようになる。(Gendlin,1996) セラピストの態度は、知覚以前の次元で、すでにクライアントに影響をおよぼしている。クライアントに知覚されうるのは、変化が起こった後でのことだ、というのである。と著者は述べています。 ここで、セラピストの態度での行動として表面に現れは、クライアントに知覚的に何らかの効果・具体的影響を与えている必要がある。それが、クライアントに伝わらなかったらクライアントに影響をおよぼすことできない。私もセラピストの態度は、心のベクトルがクライアントに向いているかにかかっているように思う。クライアントに心のベクトルが向いていないとクライアントに変化をもたらすことはできないと思う。
2024.04.02
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読レポ第2031カール・ロジャーズ~カウセリングの原点~著:諸富祥彦発行:㈱KADOKWA第5章 ロジャーズのカウセリング/心理療法 「ディープ・インタラクティヴ・リスニング」(2/2) ここでは、「インタラクティブ・フォーカシング&リスニング」の基本順だけを紹介する(聴き手、話し手、1~2人の観察者の3~4のグループでおこなう)。①話し手が、今考えたいテーマについて、自分の内側でどう考えているかを確かめながら、絶えず自分の内側に触れつつ、短く区切って、ゆっくりと話をする。②聴き手がリフレクションをおこなう。聴き手は、話し手の話のエッセンスを自分の内側深く感じ取りながら聴き、理解した大切な点をゆっくりと伝え返す。③話し手は、聴き手から返された言葉を、自分の内側に響きかせる。それがぴったり、しっくりくるかどうか、自分の内側に響きかせて確かめる。それが言いたかったことかどうか確かめて、ニュアンスが違ったら修正しながら、ゆっくりと話していく。 ここまでは、ていねいに深い「共感的傾聴」である。 重要なのはこの後の④二重の共感の時(double empathic moment)である。 ①~③までを「一応、一段つける」という感じを得ることができるところまで進めていったら、一区切りをつける。そして④「ダブルでの、共感の時」に進む。聴き手、話し手、観察者の全員が目をつむって、2~3分ほど、自分の内側深くに入っていく。そして、聴き手と観察者は、話し手の話を共感的に聴いてきて、話し手にとってそれはどんなことなことだったと感じているか、そのエッセンスのようなものを何か言葉、イメージ、動作、ストリーなど、それにぴったりとくるもので表現して、伝える。 私は、この方法こそ、ロジャーズの言う「共感」ろ「一致」を深いレベルで同時に習得するための最も体系的なトレーニング法ではないかと考えている。聴き手は、自分を無にして、話し手の話の(内容ではなく)エッセンスを、自分の深いところでとらえてクリエイティブに伝えていく。聴き手は、五感のほか、からだの感じ(ボディセンス)、想像力、直観力、直覚などを総動員していく。それはしばしば、話し手の側に深い「たましいの響き」を生じさせずにはおかない。と著者は述べています。 ここでは、著者のカウンセリングでの傾聴のトレーニング法の概要が紹介されている。私も、この項での「聴き手、話し手、観察者の全員が目をつむって、2~3分ほど、自分の内側深くに入っていく。そして、聴き手と観察者は、話し手の話を共感的に聴いてきて、話し手にとってそれはどんなことなことだったと感じているか、そのエッセンスのようなものを何か言葉、イメージ、動作、ストリーなど、それにぴったりとくるもので表現して、伝える。」これからを自分の中でも意識していきたいとおもう。 目をつむると確かに、自分の内側深くに意識が向き、周りの雑念が減少して、話し手に自分の心のベクトルをひたすら向けるトレーニングになる。そのトレーニングで習慣化すれば、目を閉じなくても、話し手に心のベクトルを向けて、話し手の表情を見る余裕ができてくると思う。話し手の表情から言葉の背後にある感情や考えもしっかり感じとることができるようになると私は思う。
2024.04.01
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