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彼らは革新者というよりも、むしろ仲間の考えについていく方でした。文字は読めますが、決してインテリではありません。その見解には昔流儀のところがあったが、反啓蒙主義ではなかったのです。当時の君侯や制度に対し忠誠でしたが、熱狂的ではなかったのです。勉学時代に注入された尊王思想や神道思想の多くを認めてはいましたが、学究とかインテリとかいうものではなく、神道とも儒学とも深い結びつきはありません。西洋の学問や価値については、なおさらでした。彼らは表向きには従う義務のある支配階級が当時直面した経済的難局について、初めはほとんど気づくところがなく、それを深く知るようになったのは、ずっと後年です。彼らの受けた教育が、その地方特有の問題によって制約されていた点は重要ですが、彼らがそれに示した反応は概して同世代に通有のものでした。
2025年11月28日
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以上の一般的叙述を具体化するために、目を全国的な情景から土佐地方に転じ、坂本龍馬や中岡慎太郎が知っていた当時の社会経済事情を見ることにします。土佐でも他の藩と同様、深刻な経済問題から、藩政府は収入を増加するために大胆な改革を企図せざるをえませんでした。この改革は伝統的な利害関係や集団と衝突し、不信と恐怖の状況をうみ出すことになりました。維新の指導者たちが、まず頭角を表わしたのは、この状況のなかからです。西洋に関する知識はまだひろまっておらず、日本の弱体さが曝露されたことは、青年武士たちに強力な刺激として働きました。こうした青年武士の多くは、田舎の指導者群から立ち現われたもので、彼らは上級武士が不在のため、農村地方で支配権を握っていました。勤王党が結成されると、その指導者は神道研究と儒教的忠義観の一種の混合の中で教育されたものたちです。外国からの危険に対し彼らがまず示した反応は、外人排斥でし。これらの点で、坂本と中岡は当時の代表的人物でした。
2025年11月27日
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それは、すでに支那におけるイギリスのやり方に先例の現われている現象です。それはまた、オランダ人が長崎の貿易所からかねて通報していた問題であり、彼らは迫りつつある事態にまじめな警告を発していたのです。この危険の詳細とその諸結果は、いやしくも文字を解するすべてのひとの目に、まもなく明らかとなりました。というのは、〃蘭学者〃が用心しながら事態の重大さを考えていただけでなく、支那で書かれたものも種々流布されて、それは教養ある日本人には和訳の必要がなかったからです。同時にこうした報道はすべて、日本の著述家や解説者の手で適度に単純化され屈折されて、文字の読める広範な日本人大衆の間に急速に伝播したのです。
2025年11月26日
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福沢の場合といえども、その有名な自伝は古い昔の記憶をつづったもので、彼が青年時代の反抗を誇張して書いたのでしょう。福沢の場合には、個人的にも、その成長期をおさえつけていた階級、身分制度を憎むようになるだけのいくつかの理由がありました。いいかえれば、言葉になるのを待っていたあらゆる潜在不満がはっきり表面化するには、何か新しい、並はずれた問題が外部から現われることが必要だったのです。この挑戦となったのが西洋人の到来です。それは、ロシア人に対し北辺諸島の防衛を憂慮した人々が早くから予見していた問題でした。
2025年11月25日
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学者の知的探求心は決して破壊的になどなるものではありませんでした。学者たちは藩や幕府の指令に従順に従っていましたし、思想的にも当時は彼らが自分で儒学の「事物探求」のごく普通の応用と考える範囲内を進んでいました。徳川末期から明治の初期にかけて、「原理探求」を意味する窮理という術語が内容的に変化をきたし、朱子の新儒学的な一般物の研究から、西洋の「科学」を意味するようになりました。冷徹な論理性をそなえていたならば、これは儒学の全体系に疑問をいだかせることになります。福沢の場合がそうです。しかし他の多くのものは、知的経験の区分けをするのがやっとでしたが、西洋の科学より立ちおくれていて理論や方法論などを諭ずる仕事がなかっただけに、比較的容易だったのです。
2025年11月20日
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個々の学者は西洋の事物を研究していても、その根は伝統的な儒教思想や封建的な価値判断にしっかり立脚しているのが普通で、その洋学に志した動機も、反乱と挫折の鬱積した感情のはけ口を求めるなどといったものではなく、むしろ新時代の技術家として興味ある仕事を約束してくれそうな分野に、生活の道を求めただけのことでした。当時の時代の本質は、彼らには明らかではありませんでしたが、はっきりしていたのは、医術や軍事における西洋応用科学の知識を身につけておけば、国が人材を求めているときに競争上有利な立場に立てるような、そういう時代が来つつあるということでした。大方の書生の場合、こうした実際上の利益から出発して、それがやがて真の知的探求心に導いたのです。
2025年11月19日
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どんな後援者といえども、幕府以上に大きな利益を引き出せるものはなかったし、他地域の学者を惹きつけ報酬を与える能力の点でも、幕府の右に出るものはありませんでした。大阪の緒方洪庵塾(福沢諭吉はここで学んだ)でさえ、有名な後援者をもたないために、一層慎重に用心深くしなければなりませんでしたし、蔵書や資料類も後生大事にかかえこんでいました。それにしても、幕府の研究センターの便益は彼らにも閉ざされてはいませんでした。福沢は後年の回想のなかで、彼が成長期をすごした徳川体制に対し軽侮のありったけを示していますが、その彼も、幕府の研究施設の図書を利用できたし、そのうえ幕府の仕事についてもいたのです。
2025年11月18日
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一八五三年の第一回ペリー来航から、一八五八年のハリスとの通商条約交渉、一八六七年の徳川軍事政府の倒壊までの知的なまた政治的な激動が明治維新を醸成したのです。維新は日本を民族的な統一国家に導き、国際的平等とアジアの指導権獲得に努力させることになりました。日本の指導者たちの成功は、アジアの隣接諸国に対し、ちょうどフランスの革命が西欧諸国に及ぼしたのと同じくらい刺激的な影響を与えました。孫逸仙、煉有為、金玉均、エミリオ・アギナルド、スバス・チャンドラ・ボースその他の人々は、西欧の力と才能に対しアジア人として初めて対等の立場を日本にうちたてることを可能ならしめた、あの推進力と統一を、彼らの国にもつくりだしたいと願った。これらの人々は日本の成功を、維新を指導した多彩な献身的な民族主義者に帰していました。その結果、維新の志士たちは、その行動に追随しようと熱望するアジアの人々にとって英雄です。日本国内では、明治推新指導者は新時代の政治家の理想的タイプの範例ともなりました。尊王の大義のためにすべてを捧げた理想主義的な、個人主義的な、勇敢な愛国者-その名は志士です。
2025年11月17日
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この条約は、日清両国がおたがいに治外法権制度をみとめ、たがいに同一の関税をもうけようという対等なものでした。日清両国はたがいにたすけあい、なかよくすべきだと明示してあり、アジアは連帯して西洋列強のアジア進出に対抗しようとした意図がくみとれます。明治の新政府は、まず、それまで大名によって分割統治されていた藩の制度を廃止し、天皇を中心とした統一国家をうちたてることに全力をつくしました。そして、その新政府の政治体制については、明治元年(一八六八年)の「政体書」で、立法・行政・司法の三権を分立させた近代的な議会政治をめざすことがのべられています。その根本にあるのは、国民が国家の主人公であるという民主主義の思想だったのです。
2025年11月14日
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佐久間象山は、安政五年(一八五八)の四月、日米通商条約の折衝が大詰に達したときに、罰せられて幽閉中の身であるにもかかわらずどうにかして自分の意見を幕府にとどかせようと努力しました。その意見の要旨は、彼自身はこのときすでに開国主義者であるにもかかわらず、アメリカはじめヨーロッパ諸国の非道をとがめて条約を拒絶せよというのです。アメリカは天地公共の道理によって日本の開国を求めるといいながら、般初の来航のときから数々の無礼非道の行為をおこなっている。特に、同じ西欧近代の原理に立っているイギリスが支那の国禁を犯してアヘンを押しっけているのを黙ってみているのは許せない。「英国においてこのような無道がおこなわれているとすれば、西洋諸国が天地公共の道理に従って行動しているとは決して言えない。また逆に、もし西洋諸国が天地公共の道理に従って行動しているのであれば英国があのような無道なおこないをするはずがない」と問いつめろというのです。この基本原則で相手を黙らせておいて、なお他の非礼.不都合を責め、改めてこちらから本国へ使節を派退するからと通告して交渉を打ち切れというのです。西欧諸国との交渉においてこの原則を押し通すことは象山の一貫した主張であって、このかぎりでは、今日からみてもきわめて正しいものです。
2025年11月13日
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佐久間象山(1811年〜1864年)は信州松代藩の兵学者・洋学者・思想家で、勝海舟や吉田松陰など多くの志士に影響を与えました。東アジアの文化世界の東端にあった我が日本では、明治維新後の「明治改革」の初期において、「文明」こそ良きものとされ、近代西欧をモデルとする改革の進行は「文明開化」としてとらえられた。「ちょんまげ頭をたたいてみれば、旧弊固陋(きゆうへいころう)の音がする、ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」などというざれ歌まで流行し、手放しで「文明」が礼賛されました。もっとも、佐久間象山の「東洋道徳、西洋芸術」に始まり、「和魂洋才」にいたる、いわば近代西欧の技術と固有の精神を対比する論もあります。そしてその後、欧米列強との競争が職烈化し、様々な面での遅れと比較劣位が自覚されてくると、今度は欧米の浮薄な文明に対し固有の精神文化が鼓吹(こすい)されるようになり、ついには第二次世界大戦末期の「竹槍精神主義」にまで堕するにいたったのです。
2025年11月12日
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肥後の学者横井小楠(一八〇九-一八六九)は、百五十石どりの肥後藩士の二男坊です。名は時存、通称を平四郎といいました。秀才の平四郎青年は、現実の政治と無関係な官学にあきたらず、当然、知行合一をとく陽明学を独習しました。したがってその学問的なながれからいえば、中江藤樹、熊沢蕃山、佐藤一斎、大塩平八郎(中斎)、佐久間象山、高井鴻山などの人材水脈につながります。彼がもっとも評価したのは、水戸藩の藤田東湖、幕臣では川路聖謹の二人です。小楠は、楠木正行(父正成を大桶公、正行を小楠公と称す)の人物を慕ってつけたものです。国是三論」にて日本の近代化の方向性を示しました。国是三論はこれは直接的には越前藩の「国是」としているが、その内容は日本国の「国是」を論じたものとなっている。その『国是三論』は、(天)富国論、(地)強兵、(人)士道、の具体策が論じられています。小楠は、西洋諸国が国内において民主的に公共の原理で動く方向に向かっていながら、国際的には「四海兄弟」という理念を掲げつつも、実際にはそれぞれの国家の利益を求めて争っているという国際関係の現実はよく知っていました。
2025年11月11日
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江戸時代末期に日本人はアジアにたいしてどのような考えをもち、そして明治政府は当初どのような対外政策をもっていたのでしょう。幕末にすでにアジア侵略をとなえていた人もいましたが、西洋の東洋進出にたいして、支那と日本がおなじ利害でむすばれており、アジア人は協力して西洋を撃退しなければならないという考えは、幕末に根強くあらわれていました。幕末の代表的な志士である横井小楠は「支那と日本とは唇歯(くちびると歯のように密接な関係でむすばれた間柄の国)である。支那の衰退を目前に見ながら、座視すべきではない」といっています(一八六○年の『国是三論』より)。いっぽう、新しい明治政府のアジア外交の最初の重要な成果は、一八七一年(明治四年)に清国とむすんだ日清修好条規です。
2025年11月10日
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アジア人の抵抗は、太平天国とセポイの反乱だけにかぎりません。たとえば、ベトナムへ侵略したフランスは、一八五八年ベトナム人のすさまじい抵抗にあって、一時全滅しかけたほどです。清がイギリスに敗れ、香港を割譲し開国したという情報は、「オランダ風説書 (ふうせつがき)」をとおしてわが国にただちに知らされ、幕末の指導者や知識層に深い衝撃を与えました。しかし、朝鮮では危機意識がうすく、9ヶ月もたってから、報告書が提出された。その内容も簡単なものだったので、指導者層も国際情勢の急変に気がつきませんでした。戦争に敗れた当の支那自体も、日本人を驚かせたほどの衝撃は受けなかったのです。支那は古代から何度も異民族に侵入されて、その支配を受けることも多かったが、支配する異民族を逆に自国の文明の中に取り込み、同化させてしまう傾向が強かったのです。現に、清は満州人の支配する国です。支那人は異民族に支配されることに慣れ、支配されても自分は変わらないという自信をもっていました。西欧列強の進出という、今度ばかりは問題の質が少し違う重大事にあっても、彼らは同じ姿勢を崩そうとはしなかったのです。
2025年11月07日
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反乱は一八五七年五月北インドのメーラト市におこりましたが、ついに北インド全域と中央インドをおおう大規模なものとなり、二年あまりにわたって、イギリスをあわてさせました。王族も、地方の有力者も、また宗教者も、そして多数の農民がこの反乱にくわわっています。広大な農村地域で人民が蜂起し、多くの都市でも民衆が立ちあがりました。そして一時イギリスの支配機構が全面的なまひ状態におちいりました。しかし、四か月のたたかいののち、九月にデリーが陥落し、また各地の闘争がばらばらであったために、しだいにイギリスに制圧されてしまいました。旧支配層には、立ちあがったセポイや住民のエネルギーを組織する能力も、軍事問題を処理する能力もなかったので、失敗したのです。しかし、それでも農村では散発的なたたかいが長いあいだつづきました。たたかいは一八五八年後半からゲリラ戦となり、五九年半ばについに鎮圧されてしまっています。
2025年11月06日
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太平大国のたたかいとほとんど同時におきた、インドのセポイの反乱についてのべます。セポイの反乱は一八五七年に北インドにおきた、イギリスへの反抗のたたかいでしたが、支那の太平天国のように統一された行動としておきたものではなく、場所によって反乱の形態がいろいろとあり、各地のたたかいがばらばらにすすめられたという、特殊な戦乱でした。共通していたのはイギリスへのはげしい反抗ということです。「セポイ」とは、イギリスの東インド会社にやとわれていたインド人兵士のことです。すなわち、イギリスのインド侵略のためにあつめられた軍隊が、イギリスにたいしてぎゃくに反乱をおこしたのです。
2025年11月05日
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太平天国は革命運動として歴史的に大きな意義をもっています。第一は、異民族・清朝の独裁政権を打倒すべきだという情熱を漢民族に点火したことです。第二に、太平軍の鎮圧に列強が協力したことからもわかるように、腐敗した政権をささえるものが帝国主義者であることを、人びとが知るようになりました。それ以後、支那人は独裁的な清朝から解放されなければならないのと同様に、支那から利潤を吸いとる帝国主義者の圧力もはねかえさなければならなくなりました。また、第三に、まえの二点にもおとらず重要なのは、農民のなかからたたかうエネルギーをほりおこし、将来への遺産として後世にのこしておいたことです。支那のしいたげられた農民がついに立ちあがったことは注目すべきであり、二○世紀の支那革命に重要な役わりをはたしたのも農民です。
2025年11月04日
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