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多くの日本人はセオドア・ルーズベルトを親日家だと信じている。ホワイトハウスに畳を入れて柔道をやったとか、日露戦争では継戦能力のない日本のために講和の労を取ってくれたとか。しかし彼の本音はまったく違い、日本を叩き潰すことにあったのです。ロシアから一銭の賠償も取れない講和を押し付けるルーズベルトを本気で恩人と思ったりする。しかしルーズベルトの思いは一つ。米国にとって脅威の日本が賠償獲得でより強力にならないようにすることでした。反日という彼の衣鉢を継いだウッドロー・ウイルソンは日本を弱体化するために国際社会からも締め出そうとしました。彼は第一次大戦のパリ会議で五大国十人委員会を解散し、日本を追い出して英米仏伊の四か国委員会にして日本の発言力を弱め、さらにワシントン会議で日英同盟を破棄させ、日本を孤立に追い込んだのです。
2026年05月29日
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旧軍においては明石元二郎大佐の工作活動に百万円の国家予算を充当して、自由に使わせた。明石大佐は地下組織のボスであるコンヤ・シリヤクスなどと連携し、豊富な資金を反ロシア勢力にばら撒き、反帝勢力を扇動し、日露戦争の勝利に貢献しようとした。当時の国家予算が2億5000万であったことから、渡された工作資金は単純計算では現在の2000億円を越える額であった。明石の活動に国家的支持が与えられていたことがうかがえる。
2026年05月28日
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日本海海戦における日本の圧倒的勝利は、世界中を驚かせました。戦争遂行に自信を無くしたロシア軍は国内の革命運動もありアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の斡旋の講和会議を受け入れ、1905年9月にポーツマス条約を締結した。条約により日本は朝鮮の支配権をえました。ヴィルヘルム2世はアメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領に対し、日露戦争が黄白人種間の人種戦争であることを訴えた。1905年9月5日に日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が締結された際には、翌9月6日の『ニューヨーク・タイムズ』紙のインタビューにてヴィルヘルム2世はドイツ外交当局の意図を超えて黄禍を訴え、日露戦争の勝利によって列強間の門戸開放政策を崩しかねない日本をアメリカ合衆国の力で対抗させようと試みている。
2026年05月27日
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一九〇二年一月三〇日、日英条約は調印された。アジアでの単独の戦いに一締約国が介入させられたとき、各締約国は中立を守る。ただし、どちらかが二国との戦争に巻き込まれたら双方はお互いの支援を行う。英国との条約が、ロシアの同盟国フランスの手足を縛ることを信頼して、一九〇四年、日本はロシアの海軍基地、旅順港に奇襲をかけた。怒りに燃えたツァーリは、報復のためバルティック艦隊を回航させた。バルト海から北海、大西洋を南下して喜望峰をまわり、インド洋に出た艦隊は、朝鮮と日本を分かつ対馬海峡で東郷平八郎提督の待ち伏せに会い、壊滅した。ロシア側でウラジオストックに到着できたのは、一隻の小さな巡洋艦と二隻の駆逐艦だけだった。日本は二隻の水雷艇を失った。日本にとって、スペインの無敵艦隊(アルマダ)沈没に匹敵する大勝利であったが、西欧列強としてはアジア人から蒙った史上最悪の打撃となった。
2026年05月26日
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しかし、ほかの歴史家たちは、一世紀にわたる英米の確執の解消に英国が主導権をとったことを歓迎し、「偉大なる和解」と呼んだ。ベルリン生れのエール大学の歴史学者、ヘイジョ・ホルポーンは、緊密な英米関係の構築を、多分「世界史の観点からみて、英国外交の一大成果」と評している。アメリカが平穏になると、英国はアジアに向かった。朝鮮を脅かす在満洲のロシア陸軍、及び旅順とウラジオストックにいるツァーリの海軍を目の前に、日本は、ロシアの同盟国、フランスとバランスを保つ同盟関係を必要とした。ドイツは適切ではない。皇帝ウィルヘルムは東洋人を嫌い、徹底的に「黄禍(イエロー-ペリル)」を叫んでいたからだ。米国を見ると、ロシアが満洲で動いたとき、その門戸開放政策は災厄と脅威をもたらすことが証明された。英国が残った。日本人は英国人を、島国の国民でありながら世界の最大の帝国を築いた戦士の国民として賛美していた。
2026年05月25日
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十九世紀が終わりに近づくにつれ、英国は古いライバルたちのご機嫌をうかがい始めた。最初に接近したのは米国である。欧州列強のなかでイギリスだけが、一八九八年の米西戦争で合衆国を支援した。次にロンドンは、アラスカの国境問題をアメリカ側が有利になるよう解決した。五十年前に調印されたクレイトン=バルワ一条約の見直し交渉を始め、パナマ横断の運河の建設、運営、防衛の排他的権利をアメリカに譲った。その上で英国はカリブ海から艦隊を撤退させた。英国の歴史家、コレルリ・バーネットは書いている。「大西洋から太平洋への英国艦隊の経路は、今や合衆国の好意に委ねられている」、そしてアメリカのスペインに対する勝利で、「アメリカの植民地となったフィリピン、キューバ、プエルトリコは、アメリカ側に立つライバルたちのための保護関税で、徐々にイギリスの商人を閉めだす方向に向かっている」。
2026年05月22日
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日本は日清戦争には勝ったものの三国干渉を受けて、単独で自国を防衛することは難しいと考えた。政府としては英国と同盟するかロシアと同盟するかの選択をせまられた。ロシアと同盟しても、いずれロシアは満州を占領し、南下して朝鮮をも獲得するだろう。他方、英国はすでに香港を根城に清の南方に商圏を獲得しているのでそれ以上の領土的野心はないと読んで日英同盟に踏み切りました。英国も、ボーア戦争で疲弊しており東アジアにおけるロシアの南下を牽制するために日本の力を利用したいという思惑がありました。
2026年05月21日
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日本が徳川の215年にわたる鎖国を経て、開国に踏み切った時、眼前にあった外国は米、英、露、仏の四か国でした。ロシアは西欧列強と異なり、海洋でなく陸路東進して領地を拡大しました。ロシヤがこの植民政策で最初に直面した巨大国家は清国です。清国に敗れ、支配したアムール川流域の支配権を放棄したのは1689年の「メルチンスク条約」です。しかし18世紀に入るとピヨートル大帝の下でロシアの近代化が促進され海運力も強化され対日通商の必要性も拡大しました。
2026年05月20日
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下瀬火薬(しもせかやく)は、大日本帝国海軍技師の下瀬雅允が実用化した火薬(砲弾の炸薬)で、日露戦争当時の帝国海軍が使用し、日露戦争における大戦果の一因です。成分は純粋ピクリン酸ですが、砲弾への充填方法に特徴があります。具体的には、金属と反応するピクリン酸を、腔発が発生しないように、かつ大量に砲弾に充填する技術を確立しました。火薬は1888年(明治21年)に実用化され、1899年(明治32年)には大量生産が開始され、日露戦争(1904年〈明治37年〉― 1905年〈明治38年〉)で大きな役割を果たしました(当時、他国海軍の用いていた炸薬は黒色火薬や綿火薬(ニトロセルロース)ですが(ロシア帝国海軍は綿火薬を用いていました)、下瀬火薬は、それらより爆発力が強くピクリン酸は、鉄と接触すると、ピクリン酸塩を生成して爆発し爆発の際には摂氏3千度の高熱を発します。日露戦争当時の世界で最大の爆発力を持つ炸薬であった下瀬火薬は、いわば帝国海軍の秘密兵器でした。大日本帝国海軍が砲弾に下瀬火薬を14%充填していたのに対し、ロシア帝国海軍は綿火薬を2.5%しか充填していません。
2026年05月12日
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