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九州の志賀島と、吉備に 根拠地をもった海人族(吉備一族)は 大陸や半島にも目を向けていました。 あらゆる先進技術の導入に都合のよい瀬戸内海は、 吉備にとってもまた自らが直面する重要航路であり、 西へ東へと急ぐ多くの吉備水軍の大船が それぞれ目的地へ向かつて出船しました。 吉備は東西の両方面に目を開き、 瀬戸内海の一画に存在した強力な海人族の勢力でした。 しかし、畿内大王家が、 支配体制を強化して統制を強めようとするうえで、 吉備の生産力や海上交通の支配は脅威です。 あまりにも強大であった吉備王国に 吉備地方(岡山県南)を平定に吉備津彦をさしむけました。 上道臣田狭の乱のあと、田狭の妻の椎媛は、 雄略天皇に奪われ妃となります。 このことに端を発し、 椎媛が、雄略との間に生まれた星川皇子を擁立し、 大蔵を占拠する話にまで発展し、 吉備からは水軍が畿内をめざします。 しかし、この謀叛は失敗に終わり、 椎媛も星川皇子も、炎上する大蔵と運命をともにします。 吉備の軍船はやむなく引き返します。
2022年01月31日
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日本の第7代天皇 (在位:孝霊天皇元年1月12日 - 孝霊天皇76年2月8日)で、 『日本書紀』での名は大日本根子彦太瓊天皇。 父帝の孝安天皇が崩御した年の12月、 それまでの山裾にあった宮と異なり大和盆地の中央に位置する 黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移します。 翌年の1月に即位し、即位2年、 磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命を皇后とし、 彦国牽尊(後の孝元天皇)を得ました。 また春日千乳早山香媛、倭国香媛らを妃にしています。 倭国香媛との間には 御間城天皇(崇神天皇)の時代に四道将軍となった彦五十狭芹彦命、 疫病や反乱を収めるのに重要な役割を果たした 倭迹迹日百襲姫命を得ました。 即位76年2月、崩御。享年は128歳、 『古事記』では106歳といいます。 孝元天皇6年9月6日、片丘馬坂陵に葬られました。
2022年01月28日
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崇神とそれに続く垂仁天皇の呼称をみると、 崇神はミマキイリヒコイニエ、 垂仁はイクメイリヒコイサチです。 イリを含む人名を調べてみると、 そのほとんどが崇神の血統につながるもので、 後世の諱号にはみられないものです。 したがって。この点から 崇神・垂仁の実在性はきわめて高いとみられています。 また、崇神に関しては、輪山の祭祀に関する伝承が多く、 しかも崇神の宮は磯城瑞範宮(しきのみつかきのみや)、 垂仁の宮は纏向珠城(まきむくのたまきの)宮(妃) あるいは師木玉垣宮(しきのたまがきのみや)(記) に営まれたとされています。 磯城・纏向はいずれも三輪山山麓の地です。 こうした点から四世紀前後に、 ミマキイリヒコ(崇神)を初代の王とする政治権力が 奈良盆地東南部の三輪山山麓を中心に成立したとみられ、 この政権を三輪王朝、あるいはイリ王朝ともよんでいます。
2022年01月27日
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古事記において 皇位互譲説話が語られる意味として 次のような 3 点が考えられます。 Ⅰ,謙譲・譲るという精神の美徳を示すことにより、 天皇(皇族)たちが徳の高い人物たちであることを描いている。 Ⅱ,皇位継承において、 基本的には、年かさの者が優先されることを示す。 Ⅲ,皇位継承の語り方として、年長者相続と同時に、 それと相反する末子成功譚の要素をもつ形を提示する。 皇位互譲説話から読み取れる皇位継承のあり方とは、 年長者が優先される、及び、有徳者が即位する、 というものであると考えられます。 したがって、古事記における皇位互譲説話は、 皇位継承のあり方として、 年長者優先、有徳者の即位等の要素を それとなく提示しているものであるといえます。
2022年01月26日
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懿徳天皇の懿(い)という字は この天皇のためにだけあるような字です。 別名は「大日本彦耜友尊」 (おおやまとひこすきとものみこと)、 あるいは、大倭日子鋤鋤友命 (おおやまとひこすきとものみこと)です。 古事記によれば、師木県主波延(はえ)の娘 阿久斗比売(あくとひめ)との間に、 日本書紀では事代主神の孫鴨王(かもおう)の娘、 淳名底仲津媛命(ぬなそこなかつひめのみこと) との間に生まれた第二子です。 綏靖天皇29年に誕生し、 安寧天皇11年に16歳で立太子、 同38年に安寧天皇崩御に伴って即位しました。 都は「軽曲峡宮」(かるのまがりおのみや)と、 古事記、日本書紀でも一致し、 現在の奈良県橿原市大曲町と考えられています。 懿徳天皇も第二皇子であり、 ここにも末子相続思想の跡がみえます。 即位2年1月、 軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)に都を移し、 同年2月、息石耳命の娘の天豊津媛命を皇后として 観松彦香殖稲尊(後の孝昭天皇)を得ました。 即位34年、9月、崩御。享年は77歳、 『古事記』では45歳といわれています。 翌年10月、畝傍山南纖沙溪上陵に葬られました
2022年01月25日
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『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するが その事績(旧辞)が記されない 第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇は、 次の通りです。 綏靖天皇 - 神渟名川耳天皇 (かむぬなかわみみのすめらみこと) 安寧天皇 - 磯城津彦玉手看天皇 (しきつひこたまてみのすめらみこと) 懿徳天皇 - 大日本彦耜友天皇 (おおやまとひこすきとものすめらみこと) 孝昭天皇 - 観松彦香殖稲天皇 (みまつひこかえしねのすめらみこと) 孝安天皇 - 日本足彦国押人天皇 (やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと) 孝靈天皇 - 大日本根子彦太瓊天皇 (おおやまとねこひこふとにのすめらみこと) 孝元天皇 - 大日本根子彦国牽天皇 (おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと) 開化天皇 - 稚日本根子彦大日日天皇 (わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと) 古代の天皇の実在を疑問視する説を初めて提唱したのは、 歴史学者の津田左右吉(1873年 - 1961年)です。 津田の初期の説では欠史八代に加えて、 それに次ぐ崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇・成務天皇・仲哀天皇 及びその后である神功皇后も存在を疑問視して 「欠史十三代」を主張していました。 津田のこの説は戦前では不敬罪に当たるとして提訴され 1942年に有罪判決を受けたものの、 第二次大戦後には古代史学の主流になりました。 その後の研究で崇神以降の実在性が強まり、 現在の歴史学では2代から9代までの実在を疑う 「欠史八代」説が主流となっていますが、 実在説を唱える学者も少なくありません。
2022年01月24日
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欠史八代(けっしはちだい)とは、 第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇を指し、 『古事記』や『日本書紀』にその系譜が記されている 初期の天皇は、 その多くが後世の創作によるものと見られ、 欠史八代の天皇が実在した可能性は 学術的にはほぼ無いとされていました。 しかし欠史八代をどのように理解するかは 古代日本の王権、氏族、家族といった社会関係を どのように理解するかということと 密接にかかわっています。 欠史八代の系譜が後世に造作されたものであることは 一般的な見解となっていますが、 それが今日見られる形になった理由を単に、 歴史を古く見せるためと理解するのでは不十分です。 古代日本の王統譜は確固としておらず、 天皇家と各氏族の間に擬制的な親族関係を構築する中で、 現実の政治的状況・同盟・敵対の関係を反映しつつ 翻案と接合を繰り返してきたものと考えられます。 ヤマト王権がまず王統譜を構築し、 これと同祖構造を持つ系譜を 氏族に下賜する制度を持ったことで 構築されていったとする考え方や、 氏族ごとに構築された擬制的親族関係がまずあり、 その多元的な権力関係を超越した権力構造が 構築されるに伴って、 それぞれの内部における「語り」を統合する過程で 数次にわたる組み換え、 加上がなされてきたとする考え方があります。 こうした日本の王統譜、氏族系譜の形成と統合は 幾度にもわたる接合、改変を経て 7世紀後半から8世紀にかけての 『日本書紀』や『古事記』の編纂とともに確定し、 これが受け入れられていく中で 共有される過去として 「史実」となって行ったのです。
2022年01月21日
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安寧天皇(あんねいてんのう、 綏靖天皇5年 - 安寧天皇38年12月6日)は 神渟名川耳天皇(綏靖天皇)の皇子で、 日本の第3代天皇 (在位:綏靖天皇33年7月15日 - 安寧天皇38年12月6日)です。 『日本書紀』での名は磯城津彦玉手看天皇といい、 磯城県主クロハヤの館で生まれ、 そのときに朝日が輝いたのでこの名が付いきました。 父帝が崩御した年の7月に即位し、即位2年1月、 片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)に都を移し 政治(まつりごと)をしました。 即位3年2月、鴨王(事代主神の孫)の娘の 渟名底仲媛命を皇后として 息石耳命、大日本彦耜友尊(後の懿徳天皇)、磯城津彦命を得、 即位38年に、崩御しました。 御陵は畝傍山西麓に位置する前方後円墳で 畝傍山西南御陰井上陵 (うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)といいます。 欠史八代の一人で、実在性については諸説あります。
2022年01月20日
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神日本磐余彦天皇(神武天皇)の第三皇子は、 日本の第2代天皇 (在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)で、 『日本書紀』の名は神渟名川耳天皇です。 神武天皇が亡くなると、 神武天皇の妾腹の子であるタギシミミノミコトが 皇后である「イスケヨリヒメ」を娶りました。 そのときタギシミミ命は 異母兄弟である三柱(日子八井命【ヒコヤイノミコト】、 神八井耳命【カムヤイミミノミコト】、 神沼河耳命【カムヌナカハミミノミコト】)を 殺そうと計画しました(タギシミミの反逆)。 己卯年11月、この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、 神武天皇の山陵を築造し終えると、 弓部稚彦に弓を、倭鍛部の天津真浦に鏃を、 矢部に箭を作らせました。 そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近)の 大室に臥せっていた手研耳を襲い、 これを討ちました。 その際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、 代わりに神渟名川耳が射て殺したのです。 神八井耳はこの失態を深く恥じたため、 神渟名川耳が皇位に就き、 神八井耳は天皇を助けて神祇を掌ることとなったのです。
2022年01月19日
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2月11日の建国記念の日は、 『日本書紀』に出てくる神武天皇が即位した日を 太陽暦になおしたものです。 一つの政治的なまとまりが、 大きな力を備えた統一政権になるには 通常,長い時間を必要とします。 大和朝廷(やまとちょうてい)がいつ、 どこで始まったかを記す同時代の記録は、 日本にも支那にもありません。 しかし『日本書紀』(にほんしょき)には、 次のような伝承が残っています。 天照大神(あまてらすおおみかみ)の直系である 神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと) (のちに神武天皇とよばれる)は、 45歳のとき、 日向(ひゅうが)(宮崎県)の 高千穂(たかちほ)から まつりごとの舞台を東方に移す決心をし、 水軍を率いて瀬戸内海を東へ進みました。 大阪湾から上陸を志しますが、 長髄彦(ながすねひこ)の強い抵抗を受け、 一人の兄を流れ矢で失います。 二人の兄は 海上で暴風雨をしずめるための犠牲となりました。 苦難の末、軍勢は熊野(和歌山県)に上陸し、 大和を目指します。けわしい山道を踏み迷うさなか、 天照大神のお告げがあり、 頭の大きいカラスの 八咫烏(やたがらす)が 道案内をしてくれました。 神日本磐余彦尊は、抵抗する各地の豪族をうちほろぼし、 服従させて目的地に迫りますが 再び長髄彦がはげしく進路をはばみます。 冷雨が降り、戦いが困難をきわめたちょうどそのとき、 どこからか金色に輝く一羽のトビが飛んできて、 尊(みこと)の弓にとまりました。 トビは稲光のように光って、 敵軍の目をくらましました。 こうして、尊は大和の国を平定して、 畝傍(うねび)山の東南にある 橿原<かしはら>の地で、 初代天皇の位に 即(つ)いたのです。
2022年01月18日
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堂野前彰子氏によると古代における水銀の用途は、 ①呪的意味②染料③防腐④顔料⑤薬⑥黄金の抽出、 の六つがあげられます。 新羅征伐に向かった神功皇后は、 爾保都比費命の託宣に従がって、 船体を赤く塗り赤い矛を船上に逆さに立て、 軍兵には赤い衣を身に着けさせたので、 新羅を無事に平らげることができたという。 この伝承から丹を用いた戦勝祈願のようすがわかり、 丹が勝利へと導くような呪的意味を持っていたことが 理解できます。 船体に丹を塗ったのは、 着衣を赤く染めたように丹が②染料であったからで、 古代において官船は赤く染められていたのです。 同時に、水銀には船材の腐食を防ぐ③防腐効果があり、 古墳の内部や棺に丹を塗布したのもその効果のためでした。 また『魏志』倭人伝に「朱丹を以てその身体に塗る、 支那の粉を用うるが如きなり」とあるように、 顔や体に④顔料として丹を塗っていました。 赤い色が魔除けとしての呪的な意味を持っていたからで、 水銀には代謝を促し一時的に肌を白くする作用があって、 肌を白くするための化粧品として 用いられることもありました。 そのような効果も含め、 不老不死や病気の治癒のための ⑤薬として服用することもありました。 何よりも水銀の用途として考えなくてはならないのは、 ⑥の水銀を媒介として黄金を抽出することです。 神武天皇の東征の道が丹の道であり、 丹を求めて移動したと思われますが 国内需要が少なかったと思われる丹を、 神武天皇は何のために求めたのか。 丹が王権と不老長寿を象徴するものだったからです。 まさに光輝く太陽の色は丹の「赤」であり、 太陽神の末商を名乗る天皇家にふさわしいものです。 さらに丹が王権を象徴するものとなり得たのは、 丹が支那との間で貨幣的価値を持って 移動していたこととも無縁ではありません。
2022年01月17日
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記・紀を 自然論というか宇宙論という観点で読み直してみると、 なぜ「浮きし脂」や「海月」をもちだすのか。 「游魚(あそぶいお)の水上に浮けるが猶(ごと)し」や、 書紀にも「浮膏(うかべるあぶら)」という形容句が現れるのか。 一書(第五)の 「海上に浮べる雲の根係る所無きが猶し」といった表現を用い、 なぜあえて脂(膏)とか海月とか魚とか雲を もちだす必要があったのか気になるところです。 その不自然さは「海月」と書かれていますが、 原文では「久羅下」です。 クラゲは支那では「海月」とも「水母」とも書かれますが、 「水母」には水銀の意味もあるというのです。 水銀はもちろん錬金術でもっとも大切な金属、 さらにアブラやアシカビも 錬金術に関係していると書いているのです。 五行説で土に対応する色は黄、 また、五行相生説によると土は金を生ずるので、 黄土は金の父。「流珠」とは流れるような珠で水銀のこと。 五行相生説によると金は水を生ずるので、 水銀は「水の母」、水母ということになるわけです。 水銀の原理は、感受的・女性的で液の精であり、 支那人の陰であり、『気象学』における湿った発散物でした。 支那の錬金術師のうちでもっとも有名な 紀元後第四世紀の葛洪(かつこう)は、 つぎのように書いています。 「草木は焼けば灰になるが、 辰砂は火に熱すれは水銀に変えることができ、 その逆もまた同様である。 辰砂は、ふつうの植物性物質と大きな差異をもち、 それによって人を不死にすることができる」。 神武は不死を求めて、東征したのです。
2022年01月14日
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神武(磐余彦尊: いわれびこのみこと)は 倭国と連合して東遷しました。 東征にあたり神武兄弟は、 まず高天原に出向き当時の倭国女王・台与(豊受大神)と 東征・東遷を諮り、 邪馬台を大和に遷すことを決めたのです。 神武は兄たちや子と謀って ヤマト(奈良盆地)を支配しようともくろみ、 東征(神武東征)をおこないます。 日本書紀の神武東征に見られる兵器は 弓矢・盾・大刀(頭槌大刀)・石槌(石斧)や矛などで、. 遠征軍が熊野で高天原より大刀の補給を受け. 戦力を回復したとの記事は 大刀が最も重要な兵器であった事を示しています。 また甲冑使用の記事も見られるので、 おそらくは指揮官や突撃兵が、 植物や革製の短甲様の物を着用したと考えられますが、 防護力も弱く、数も不足し、 突撃兵全員には行き渡らなかったことでしょう。 ヤマトの先住者たちは果敢に抵抗し、 神武も苦戦するが、結局はヤマトの平定に成功し、 橿原宮ではじめて天皇位につきます (神武天皇:カムヤマトイワレヒコ))。 神武天皇の死後、 神武天皇が日向にいたときに生まれた子である 手研耳命が反乱を起こしますが その弟神渟名川耳尊は手研耳命を射殺し、 皇位を継ぎます(綏靖天皇)。 古事記は天照大御神の父母は、 伊邪那岐命・伊邪那美命と記しており、 伊邪那岐・伊邪那美の名が、 魏志倭人伝に登場する5国 (伊都国、邪馬台国、奴(那)国、不弥(宇美)国、壱岐国) の名から1文字ずつ採った名であることを示しています。 奴と弥の文字が名前とクニ名で異なりますが、 それぞれの有力比定地、 那珂川の那と宇美町の美から採られたものでしょう。
2022年01月13日
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日本は支那諸王朝に対しては代々入貢政策をとり、 宋や斉への入貢者として五世紀から六世紀にかけて 讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)の 倭の五王の名が見え(『宋書』倭国伝)、 これは仁徳・反正・允恭・安康・雄略の 各天皇に比定されています (讃と珍については異説もある)。 いずれの天皇も、 安東将軍倭国王というような称号をうけたが、 これは朝鮮南部の諸国に対して 軍事指揮権をもつことを意味する高い称号です。 即ち、宋や斉の皇帝の権威によって 日本の朝鮮半島における政治的立場を 有利にすることがねらいであったのです。 この頃の大和朝廷の大きな勢力は、 巨大な仁徳陵古墳によっても推定されます。 以上のような対外交渉や戦争を通じ、 技術・文化と共に四世紀には文字も輸入しました。 又宋・斉人や朝鮮人の来住により 紡織その他の技術の向上や、 鉄器による農業生産力・軍事力の強化もありました。
2022年01月12日
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朝鮮半島では、鴨緑江の北、 通化付近より興った高句麗が南下して 三一三年に楽浪郡を滅ぼしました。 漢の武帝に占領されてから四二一年を経ています。 従って、漢文化がそこで育まれ、 隣接する小国にも強い影響を与えていた。 小国は楽浪郡を通してシナの高い文化を享受し、 楽浪郡は近隣小国の産物を大陸に売って 商いをしていました。 半島南部は、 馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)の三地方に分れていましたが、 四世紀後半に馬韓の中では多くの小国のうち 十済が力をつけ馬韓の中心的存在となり 三四六年に百済(くだら)となりました。 辰韓では、小国ののうち、 慶州のサロ国が中心となり 三五六年に新羅(しらぎ)となりました。 弁韓は鉄を産出するので、 倭人、濊人(わいじん)及び韓人が争ってこれを求め、 取引をしていました。 倭人は、この鉄資源や先進技術などを確保するため 四世紀後半、 半島南部洛東江下流の加羅(任那:みまな)地方に進出して 行政官としての日本府(統一的政庁を意味しない) をおきました。 日本は百済とは友好関係を結び、 百済を圧迫した新羅や高句麗と戦い、 ある期間北の高句羅と南の任那の日本とが 二大勢力として対峙し、 高句麗の好太王(広開土王)の頃(三九一~四〇四)に 交戦した事が好太王碑文に記されていなす。
2022年01月11日
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大和朝廷の支柱は ①氏姓制度、②対外関係、特に朝鮮進出です。 大和朝廷の 大王(のちの天皇)を中心とする政治体制の下、 大王に従う諸豪族は、 本来先祖を同じくする同族集団ですが、 次第に地縁的集団に発展し、 夫々独自の氏(うじ)の名を称していました。 朝廷では各氏の家柄や職能に応じて 姓(かばね)を与えました。 このように、 豪族を朝廷のもとに組入れた政治的身分秩序を 氏姓制度といいます。 姓は、この氏族組織の大小、 勢力による社会評価が表わされ、 臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)(公)・ 首(おびと)・直(あたえ)・造(みやっこ) その他の多くのものがあり、 国政はこのうち臣・連の中から 選出された者を中心に進められました。 地方豪族で大和朝廷に服属した者に対しては 国造(くにのみやっこ)・縣主(あがたぬし) などの地位が与えられました。 豪族は土地(田荘:たぢころ)・ 人民(部曲:かきべ)を所有し、 部民の獲得、土地の拡張を求めて膨脹していきました。 皇室でも直属民(名代:みなしろ、子代:こしろ)・ 直轄地(屯倉:みやけ)をもち、 直接または間接に管理しました。 一方、支那大陸では後漢が二二〇年に滅び、 三国時代(魏・蜀・呉)に替りましたが、 二八〇年晋が呉を倒して国内を統一し、 次いで北方種族の五胡十六国 (五胡とは、旬奴・羯・鮮卑・氐(てい)・羌(きょう) が勢力を張り、晋は南に移り、 約百年程を経て南北朝時代が始まるのです。
2022年01月07日
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鉄製の農工具が普及し、 それを利用しての開墾とかんがい施設の整備、 さらには水田稲作技術の進歩などによる農業生産力の高まりは、 血族関係を中心とした同族集団「氏」を 地域的な支配を可能にするまでに成長させました。 その中から有力な集団が連合し、 連合の首長が生まれ新しい統一的な国家体制が誕生します。 日本の古代国家は、百余国の「小国」が存在した国家成立の端緒、 「倭王」を代表とする「倭国」が成立・展開した国家成立過程、 こうした古代国家の成立にとって、 重要な役割を果たしたのが海外との交流で、 それが我が国のあり方に多大な影響を与えており、 海外との交流を無視することはできません。 ただし、対外交流は国内交通と無関係ではなく列島内部における 王権と諸在地首長との交通の実態と特質の解明は 欠くことができません。 そしてこの場合の「交流」とは、駅伝馬制度のような制度ではなく、 商品経済や流通経済という経済的領域、 戦争や外交という政治的領域、 文字や法の伝播という精神的領域での広義の交流をいい、 こうした広義の交流の視点より検討すべきと考えます。 国家の役割は、日本の領域に住む、日本国民に、 主権をもって(他の国々の干渉を排除する形で)秩序を与えることです。 この国家の運営をするのが政治家の役割です。 学問や芸術が「永遠の生命」をもつのに対し、 政治の業績は「あの時の首相は良い決断をした」という 記憶で語られるだけで、「永遠の生命」をもつわけではありません。 我が国は縄文期より本州中央部にその政府機関を置く 「倭国」という国家によって統べられており、 神武東征は倭国で何度となく発生した権力争いのひとつで、 神武は倭国内の政権抗争に駆り出された一武将でしたが 日向の国は租税制度が確立していたので 戦うための兵を養うことが可能で他の部族国家を征服し、 統一国家を確立しました。
2022年01月06日
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