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☆いづみさんのイラスト漫画 ☆↑ベリー色々↑ラズベリー↑ブルーベリー上の3点は、「Office Lens」で撮影 →「 LINE Camera」で加工 → 「バッチリサイズ2」で、リサイズ&枠加工をしています。☆ Microsoft Office Lens ☆スマートフォンで撮影した書類や画像を、少々曲がって撮影しても自動的に修正&トリミングして真っ直ぐにしてくれます。「Office Lens 」のことは、パソコンで遊ぶ(skyさん)が教えて下さいました。使い方はとっても簡単。私はメモ代わりに、文書や説明書きの立看板、ポスターなどを撮影、重宝しています。ただし、このアプリ、とっても簡単で便利なのですが、残念ながら微妙な色合いが要求される絵画などの場合は、荷が重すぎるかも・・・( ; ; )説明用に使ったハガキ絵は、ラジオ体操のお友だち、いづみさんの「イラスト漫画」をお借りしました。Office Lens料金は無料。入手先は、アンドロイド系のスマートフォンの場合は、「Microsoft ストア」でしょうか、iPhoneなら「App Store」から入手出来ます。♧ 使い方 ♧1.アプリを開き、ドキュメントを選び→撮影(分かり易い様に、わざと斜めで撮影しました)2.自動修正された画像を確認→完了3.保存先を選択私は、フォトライブラリー(アルバム)に保存4.完了です。
2016.08.30
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ペピママさんから、素敵な壁かけのティッシュボックスを頂きました。端切れの模様を生かして、お得意のハワイアンキルトの要領で花と葉をアップリケしてあります。冷蔵庫の横に下げて台所で使う予定でしたが、予定変更。自分の部屋で使わせていただくことにしました。絵を描く時にティッシュは必需品なのですが、大きいスケッチブックを開くと結構邪魔なんです。机の上のあっちに置いたりこっちに置いたり・・・。机の左手の壁に下げたら、バッチリ❣️これでいつでも、片手でひょいとと取ってすぐ使えます(o^^o)ペピママさん、ありがとうございました。
2016.08.28
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↑沖縄生まれの ちゅらビンカ アスカ↑ニチニチソウ・ミニナツカザグルマ↑寄せ植えの全体ほぼ毎朝通るこちらのお家は、玄関先から道路沿いまでの間に様々な花を植えて、いつも素敵な空間を演出していらっしゃいます。白い方は花の直径が2センチくらいで、ミニのニチニチソウかなと思いつつ、あまり気に留めずに素通りしていました。今朝初めて一緒に植えてある赤い花に気がつき、写真を撮らせて頂きました。調べてみると、両方とも「ニチニチソウ」で、それぞれちゃんとした名前がありました。ちゅらビンカは他にも種類があり、赤い花が「アスカ」、他にもピンクの「美咲」、赤とピンクの「小花」という種類もありました。園芸ネット本店 ↓ちゅらビンカ アスカ ニチニチソウ・ミニナツカザグルマ
2016.08.25
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☆陸王・池井戸 潤 ・集英社・2016年7月10日 第一刷発行・初出 「小説スバル」2013年7月号〜2015年4月号♣︎主な登場人物・宮沢絋一=こはぜ屋社長・宮沢大地=絋一の長男、連戦全敗の就職活動中・富島玄三=経理担当、62才。・坂本太郎=埼玉中央銀行融資担当→東京キャピタル東京本社営業部・飯山晴之=元シルクール社長、シルクレイの特許を持つ・村野尊彦=この道30年のカリスマシューズマイスター ・有村融(とおる)=スポーツショップ経営、ランニングインストラクター・城戸明宏ダイワ食品陸上部監督・茂木裕人=ダイワ食品陸上競技部員、怪我により一線から外れる・毛塚直之=アジア工業陸上競技部員、茂木裕人のライバル・小原賢治=アトランティス日本支社営業部長・佐山=小原の部下・御園丈治=ベンチャー企業・フェ二ックス社長*アトランティス=大手スポーツ用品メーカー *フェリックス=アウトドア関係のアパレルを展開している企業*シルクレイ=クズ繭を原料にした理想の素材。シルク+クレイ(粘土)足袋の町、埼玉県行田市にある老舗足袋業者「こはぜ屋」。社員数はパートも入れて27名、平均年令57才、最高齢は75才、人も古いが機械も古い。足袋の需要は底をつき、売り上げは減少の一途を辿っており、4代目社長の宮沢絋一は日々資金繰りに頭を抱えていた。ある日、娘に頼まれたスニーカーを買うためデパートのスポーツ用品売り場へ行った宮沢は、靴底が平らで5本の指がついた奇妙な形をした靴を見つけた。店員はビブラム社の「ファイブフィンガーズ」という裸足感覚で走れる人気のランニングシューズだという。しげしげと眺めた宮沢は、見ようによっては、こはぜ屋の主要商品である地下足袋に似ていると思った。パンフレットを見せて、会社存続のための新規事業にならないか検討して見たいという宮沢に、先代から経理を担当する富島玄三は良い顔をしなかった。だが埼玉中央銀行の坂本は、ファイブフィンガーズの写真を一目見て「最近流行りの奴ですよ」と言つた。宮沢が考えている新規事業の話を聞くと興奮を帯びた口調で「いいですね。どんなランニング足袋ができるか楽しみにしています」と言い、先ずは走るという事の理解が必要ではないかと、知り合いのランニングインストラクター、有村融に引き合せてくれた。宮沢は、真面目に走りを研究している人からみれば、マラソン足袋を復活させようという考えはふざけた話にしか聞こえないのではないかと不安だった。ところが、有村は熱心に耳を傾けてくれたうえ「上手くいく望みはあるのか」と問う宮沢に「もちろんありますよ」と真顔で答えた。足袋そのものはランニングに向いており、昔は学校の運動会でも履いていたが、グラウンドにはいろんな物が落ちており安全上の理由から今はほとんどなくなっているという。だが、市販のランニングシューズなら安全かというとそうでは無いと言い、売れ筋の踵にクッションが入っているジョギングシューズを見せた。この靴は構造そのものに問題があり、踵から着地してつま先で蹴るという間違った走法に導いてしまう可能性があり、故障を起こしやすいのだと言う。近年、有名選手の走法を解析した結果、オリンピックで活躍するケニアの選手や日本の一流アスリートたちは足の中央付近で着地する「ミッドフッド着地」で、中にはもっと足の先で着地する「フォアフット着地」の選手もいることが判明したこと。また、この走法の方が早く走れ故障も少ないのは、人間本来の走り方だからだという。話はどんどん広がり、人間はなぜ走るのか、どういう走り方がふさわしいのか、本来はどう生きてきたのかと、走りの歴史から人類そのものの歴史につながっていき、有村の話はとどまるところを知らない。そして最後に「インストラクターの私の仕事は、その人間本来の走り方で、故障することなくジョギングやレースを楽しんでいただくことなんですよ」と言った。宮沢は有村の話に感心するというより、むしろ感動すら覚えた。新規事業の準備に追われているうちに月日があっという間に過ぎ、その日、宮沢は息子の大地と共に有村が是非にと誘ってくれた京浜国際マラソン会場にいた。大地は色んな会社の中途採用の試験を受けたが、採用通知を受け取れないまま年を越し、自分には何が足りないのか悩んでいた。品川をスタートした選手たちは凡そ20キロ先の生麦付近で折り返してくる。会場内に映し出された映像でランナーの足の運びを注視していた宮沢は、トップを走る3人のケニア人の走りが他の選手と違うミッドフッド着地だと気付いた。その時、膝を痛め脱落しようとしている一人のランナー、茂木を、ライバルの毛塚があっという間に引き離して行った。見ていた大地が「こんな形で負けて欲しく無いな」とつぶやいた。「マラソン足袋の開発チームを立ち上げたい」という宮沢に、父の代からの大番頭とも言える富沢は、内心を表面には出さず、古ぼけた段ボール箱を出してきた。そこには、昔こはぜ屋で作っていたマラソン足袋が入っていた。そして、その裏底には「陸王」の名があった。これから開発するスポーツシューズの名はこれしかないと、宮沢は決めた。宮沢はじめ社員数名と埼玉中央銀行の坂本も加わって「陸王開発チーム」はいよいよスタートした。地方零細企業に、果たしてランナーの足を守る裸足感覚を追求したランニングシューズが作れるのか・・・。資金難、ソールとアッパーの素材探し、世界的スポーツブランド・アトランティスの妨害と熾烈な競争・・・。彼らの前途にはクリアしなければならない課題が次々と現れた。屑繭が原料の理想のソール素材「シルクレイ」に魅せられた宮沢は、その特許と製造機械を持つ飯山晴之を説得した。宮沢の「陸王」にかける情熱を知った飯山は、自分も開発チームに参加することを条件に承諾した。飯山が開発し、会社を倒産させる原因となった巨大な機械が運び込まれた。シルクレイの実用化に向けた飯山と大地の寝食を忘れた懸命の試行錯誤が始まった。だが、迷走を繰り返し中々満足できる結果が出ない・・・。疲れ果てた飯山の頭に、フト浮かんだ発想をきっかけに方向転換、作業を一から見直したことで一気に進展し、満足できるものが完成した。シルクレイのサンプルを見せられ、その軽さと原材料がくず繭だだと知ったカリスマシューズマイスター 村野尊彦は、宮沢の心中を見抜き協力を申し出でた。満足できるシルクレイが完成した喜びも束の間、恐れていた事態が発生した。無理をして使っていた機械が壊れ修理不能の状態になってしまったのだ。新しく作るには少なくとも1億円は必要だと判明、銀行はどこも相手にしてくれず途方にくれる宮沢に、東京キャピタルに転職した坂本が、フェ二ックス社長、御園丈治を引き合わせた。御園は、融資をお願いしたいという宮沢の希望を一蹴、当初の予定通り買収で譲らず交渉は決裂したかにみえた。だが、改めて御園から新たな提案があり、3年の期限で融資を受け期間内に返済できなければ傘下に入るということで合意が成立した。買収ではなく、宮沢が望む業務提携という事になったのだ。京浜国際マラソン当日、集まった参加者総数は2万人。午前8時現在、気温8.5度、湿度37パーセント。雲一つない青空が広がっていた。宮沢たちは招待選手の控え室があるホテルのロビーに向かった。大混雑のロビーを横切り、勝ち誇った表情を浮かべたアトランティスの佐山が宮沢に向かって近づいて来た。アトランティスを辞めた村野に向かって皮肉を言い、宮沢には小馬鹿にしたような笑いを浮かべただけで人ごみの中に消えた。アトランティスの赤いRIIを履いた毛塚の勝利を確信している小原と佐山は、絶好の宣伝になるとほくそ笑んでいた。ところが日本ランナーのトップでゴールに駆け込んで来たのは毛塚ではなく、濃紺に勝虫(*)をデザインした「陸王」を履いた茂木だった。(*勝虫=トンボのこと、前にしか進まず退かないところから、不転退の精神を表すものとして、特に武士に喜ばれた)アトランティスでは、その月だけでも、芝浦自動車の彦田はじめ7人の主要サポート選手が契約を打ち切る異常事態になっていた。かつてこれほどの離反が起きたことはなく、しかも乗り換えた相手は、あの「こはぜ屋」だった。村野がフィッティングする「陸王」は、いまやトップアスリート注目のシューズであり、今後「陸王」に乗り換えていくアスリートはさらに増えるだろうというのが大方の予想だった。神妙な顔で社長室にやってた大地は「メトロ電業」の話を断ろうと思う」と言った。連敗続きだった就職活動だったが、飯山とのシルクレイ開発で自信をつけ成長した大地は、一流企業の内定をもらっていたのだ。宮沢は嬉しさを抑え「いや。お前はメトロ電業へ行け」と言い、「こはぜ屋に戻ることはいつでもできる。ウチでは得られない経験と知識を蓄積してくれ。世間を見て来い。そしてその大きさをオレたちに教えてくれ。・・・」と言った。うつむいて聞いていた大地は「分かった。だが、一旦出たからには戻るつもりで働かない。メトロ電業に失礼だから」といい、「いままでお世話になりました」と、深々と頭を下げて出て行った。↑挿絵をお借りしました。
2016.08.25
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例年なら実が固くなる前に棘と格闘しながら収穫、佃煮を作って保存しています。秋刀魚と煮たり、キャラブキを作るときにも、少し加えると味が締まります。すり鉢ですり、醤油でのばした「山椒醤油」は、冷やした焼き茄子にかけて食べると最高!一年中重宝しています。今年は収穫しなかった山椒の実が色付き、弾けて艶々の黒い球が顔を出しました。こんな風に拡大して見たのは初めてかも・・・。何とも可愛くて繁々と見てしまいました(o^^o)
2016.08.23
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昨日(8月21日)は「夕焼け」(左下が富士山)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今朝は「嵐」↑weathernews 8月22日 午前時9時30分↑earth.nullschool.net今朝の天気予報では、伊豆半島から関東地方にかけて台風9号が上陸すると伝えています。東側の窓ガラスには横殴りの雨が叩きつける様に降っています。台風が一体どこにいるのか、久し振りに「earth.nullschool.net 」を開きました。earth.nullschool.net を使うと、地球上のどこでも好きな位置の風の流れが見られます。上の画像は、8月22日(月) 午前9時08分の、日本付近の風の流れです。画面をキャプチャーしましたので静止画像ですが、実際はリアルタイムで風の流れが分かる動画が見られます。以前にもご紹介したことがありますが、もしご存知ない方がいらしたらご覧ください。クリック or タップ →スクロール、回転など自由自在。地球の裏側も見られます。好きな地域を拡大することも出来ます。earth.nullschool.net → 画像をクリックすると開きます。
2016.08.22
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☆ 反薄明光線 ☆西の空・2016.8.17 6:25 撮影東の空・2016.8.17 6:20 撮影先日掲載した「光背」のような光線の名前が分かりました。「反薄明光線」というのだそうです。「燕山荘スタッフブログ」に、写真とともに掲載されていたのを、季節の中の花達と(笹ゆりさん)が見つけて、教えて下さいました*\(^o^)/*要約して書こうかと思いましたが、間違えて書くといけないので、夫々の記事に掲載されていた文章の一部をお借りしました。詳しくは、下記のリンク先を開いてご覧下さい。笹ゆりさん、有難うございましたm(__)mおかげでスッキリしました。o(^▽^)o☆反薄明光線・燕山荘スタッフブログ(2016.8.20)日の出頃、日が昇る方向とは反対の空には反薄明光線が現れていました。この現象は、日が昇る頃に積乱雲などがあったときに見られやすい現象で、台風が近づいたときなどは見られることがあります。そう多く見られる現象ではなく、ちょっと得した気分になりました。☆反薄明光線-Wikipedia反薄明光線(はんはくめいこうせん、anticrepuscular rays)は、太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光が漏れ、太陽と正反対の方向に光線の柱(光芒)が放射状に収束して見える現象。太陽の周囲にできる薄明光線とは逆。裏後光(うらごこう)、裏御光(うらごこう)とも呼ぶ。当日、ほぼ同じ時間帯に撮影した東の空の写真を追加しました。まさに説明通り、東の空は太陽が雲に隠れて見えません。もう少し時間が早ければ、もっとクッキリと光が見えたかもしれないと、それだけが残念です( ; ; )・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・余談ですが、、太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光が漏れ、光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見えたり、反対に雲の切れ間から上空に向かって光が出る現象は、薄明光線(はくめいこうせん)というそうです。(Wikipedia調べ)
2016.08.21
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先日の朝 初めて会ったのですが、トコトコとやって来て、円らな瞳で見上げてくれました。仕草が揃って同じなのも何とも可愛くて、お願いして写真を撮らせて頂きました。おとぎの国のガーデナー(ティンカベルさん)のお家の、ハニーちゃんに似ていて親近感を覚えました(o^^o) 確か同じ「ジャックラッセルテリア」だと仰ったように思います。この辺りでは珍しいのでは?とお聞きしたところ、もう一軒飼っていらっしゃる家があると話して下さいました。いつかまた会えると、楽しみが増えました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こちらは、ふわふわのクリーム色の毛がオシャレなポメラニャン。友人の家には純白の毛の子がいますが、カメラを向けるとじっとしていなくてなかなか写真を撮らせてくれません(^^;;
2016.08.19
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☆キャロリング・有川 浩・幻冬舎・2014年10月25日 第1刷発行♧クリスマスにもたらされるささやかな奇跡の連鎖―。有川浩が贈るハートフル・クリスマス。大和俊介の勤める子供服メーカー「エンゼル・メーカー」の社長西山英代は5人の社員に頭を下げて詫びた。主要取引先である大型量販店の閉店で打撃を受け、回復が叶わないまま年越しを待たずに12月25日をもって倒産することになったのだ。子供の頃から、大和俊介は父親の暴力が絶えない家庭で育った。くだらない理由で難癖をつけ、父親は母に暴力を振るった。その間、俊介はなす術もなく息を殺して納戸に隠れていた。小学生になり隠れるには体が大きくなり過ぎた俊介にも、父は暴力を振るうようになった。そんなとき、いつも俊介を案じてくれたのは、母の友人である西山英代夫婦だった。惜しみない愛情を注いでくれる2人の存在はいつしか俊介の心の支えになっていた。やがて中学生になり力がついた俊介が母を庇おうと止めに入ると、父は俊介にも暴力を振るう様になった。俊介が抗うようになり暴力はますますエスカレート、部屋は以前にも増して荒れる様になり、母と2人で深夜までかかって黙々と片付けた。そんなとき、俊介は自分が母を守ろうとしたことを分かってくれているのだと思っていた。だが、母は「お父さんにそっくり。まるでお父さんが2人になったみたい」と俊介を責めたのだ。数日後、父が俊介に暴力を振るい始めたとき、母の言った言葉が脳に突き刺さり、振り上げようとした俊介の拳は力なく緩んだ・・・。無抵抗の俊介に父の激しい暴力が続き、救急車で運ばれた俊介が目醒めたとき、彼はベッドに寝かされ点滴の管が繋がれていた。母の姿は無く枕元には英代がいた。精密検査を受けて家に帰ると状況は一変、俊介の暴力で両親はずっと悩んでいたことになっていた。親戚ぐるみで不祥事を恐れた父方の祖父母が乗り込んできて、表向きは俊介の家庭内暴力を原因とする家庭不和とし、暴力癖のある父親が取り返しのつかないことをする前に嫁と息子を引き剥がしてしまった。俊介に泥を被せる代わりに母は充分な養育費と慰謝料を受け取った。やがて母は、俊介さえ暴力に走らなければ一生我慢する覚悟は出来ていたとのにと離婚したことを嘆き続けるようになり、俊介が高校に進学してしばらくたった頃、別れた父と再婚することになったと告げた。父親の姓を名乗るのを拒否して俊介の一人暮らしが始まった。「困ったことがあったらいつでも言ってきてね」そう言ってくれたのは、母ではなく西山英代だった。思いを裏切られ過ぎると、両親は勿論のこと、英代の顔すらも見たくない日が続いた。誰の顔も見たくない。人と関わることが嫌になる。鏡の中から見返す俊介の目はますます荒んでいった。そんなある日、母から西山のおじさんがなく亡くなったという連絡があった。駆けつけた俊介を喪服を着た英代が出迎えた。事業を拡大したばかりだったエンゼル・メーカーは、規模を縮小して子供服メーカーにシフトして英代が受け継いだ。アルバイトとして手伝っていた俊介は、大学卒業とともに社員となった。俊介が入社3年目の年、2人目のデザイナーとして折原柊子が入社して来た。気持ちがしっかり乗った柊子の真摯な話し方が英代に似ていると気が付いたとき、一気に親近感が増して打ち解けた。付き合って3年ほどで自然と結婚の話が出たが、子供のことで感覚の違いが表面化。「俺、子供苦手だし」と言っても彼女は「えー、何で。子供可愛いじゃない」という。優しい両親に大事に育てられた彼女には自分の感覚は分からないだろう。柊子に説明しなくてはならない自分の境遇が面倒くさくなった。彼女と自分は全く違う場所で生きている生き物なのだと思い知った。きっと自分たちは遠からず終わる、そう感じた。そしてその通りになった。致命傷は結納のことだった。両親には自分の結婚に関わって欲しくない。どうしても柊子が気になるというのなら親と縁を切るしかないという俊介の考えを柊子に理解してほしいというのは無理な話だった。堂々巡りの日々が続き、俊介は「ごめん、別れよう」といい、まるで逃げるように別れた。英代は俊介に「そろそろ2人からいい話が聞けるかと楽しみにしてたんだけど・・・。会社がなくなれば同僚でもいられなくなるのよ」といった。また柊子には、俊介が自分で話せなかった彼の生い立ちを話した。2人のことを見て見ぬ振りをしてくれていた同僚のベンさんは「2人は良い組み合わせだったんじゃないの」という。2人の言葉は俊介の胸に響いた。けれど柊子はもう手の届かない人だった。エンゼル・メーカーが事業の一環として行っている学童保育の子供達も次々と他へ移って行き、最後のクリスマスの日まで残るのは、6年生の田所航平1人だけとなった。航平の両親は別居中で、航平は母の転勤に伴い外国へ行くことになっていた。彼は出発の前に何とか両親を仲直りさせて、また一緒に住みたいと考えていた。一人で横浜にいる父に会いに行こうとする航平の父親探しに柊子が巻き込まれ、捨てておけなくなった俊介も車での送迎をする様になり、俊介と柊子は共に過ごす時間が増えた。地上げ屋絡みの事件に巻き込まれた柊子と航平が誘拐されるという事件が発生した・・・。それは神様が2人にくれた ささやかな奇跡の始まりだった。
2016.08.19
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2016.8.17 6:25台風7号(チャンスー)も無事通過。5時ごろ雨戸を開けると、すでに台風一過の青空が広がっていました。青空に浮かぶ白い雲と富士山・・・。何度見ても飽きない風景です。写真で分かりますでしょうか?富士山の後ろから、まるで阿弥陀仏の光背」の様な放射線状の光が見えました。富士山が見えるのは真西より少し北寄りの方角ですから、太陽は反対側にあります。よく見ると、雲も同じように放射線状になっている様にも見えます。一体どういう現象なのでしょうか・・・?ご存知の方がいらしたら、ぜひ教えて下さいますようお願いします。余談ですが・・・今回の、台風7号の「チャンスー」という名前は、カンボジアが用意した花の名前だそうです。
2016.08.17
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☆ ゴーヤの肉詰めフライ ☆この時期は、ゴーヤの最盛期で、毎日何本も収穫出来ます。最初は、ゴーヤチャンプルーに始まって、玉ねぎや干し桜エビと一緒にかき揚げ、薄く切って塩もみして絞り、鰹節とお醤油をかけたりなど、レパートリーが限られていました。最近は収穫量が増え、それでは追いつかなくて、焼きそば、パスタ、炒め物、佃煮…と、何にでも入れています。その中でも、我が家で一番人気は、私が勝手に名付けた「ゴーヤの肉詰めフライ」で、中にひき肉を詰めて、コロッケやカツの要領で揚げたものです。教えてあげた方の中には、ゴーヤが苦手だったお子さんも食べられる様になったと、嬉しい報告を頂きました。☆ 作り方 ☆1.真ん中の太い部分は厚さ1~2cmの輪切り。両端は縦割りにして5cm位に切る。ひき肉がよくつくように、タップリ小麦粉をまぶす。2.Aをきっちり詰め、全体に小麦粉をまぶし、とき卵、パン粉をつける。A=ゴーヤの中に詰める材料中に詰めるのは、ハンバーグの要領で、合びき肉、玉ねぎのみじん切り、パン粉、牛乳、塩、コショウ、すりおろしたジャガイモ(*)をいれ、粘り気が出るまでよく捏ねます。(*分量は、ひき肉200-250gに対し、ジャガイモ小1ケ。卵よりジャガイモの方がしっとりして、ゴーヤに馴染むように思います)3.弱めの中火で、ゆっくりこんがり揚げる。(目安は7分くらい)ゴーヤに竹串を刺して、スッと通るか確認します。そのままでも良いし、好みで、トンカツソースやケチャップでいただきます。
2016.08.14
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先日来の猛暑はひと段落、今日は日中も薄雲がかかって涼しくて、久し振りに近くの小学校の方まで歩いてみました。近くの方が手入れして下さっているのでしょうか、歩道脇や歩道に植えられた木の根元で高砂百合や黄花コスモス、百日草が綺麗に咲いていました。以前の私なら、黄花コスモスは「秋桜」と認めたくなかったのですが、最近は素直に素敵だなと思える様になりました。
2016.08.12
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☆「暮しの手帖」とわたし・大橋鎭子・発行所=暮らしの手帖社・平成22年5月21日 初版第1刷発行昭和の名編集者、花森安治さんとともに「暮しの手帖」を作り続けた大橋鎭子さんが、90歳にして初めて書かれた自伝。この本は、著者の第6高女時代の後輩である石井好子さんが書かれた、先輩大橋鎭子さんへの想いと、石井好子さんと「暮しの手帖」との関わりが綴られた文章から始まります。そして、大橋鎭子さん自らの子供時代ことやご家族のこと、第6高女時代、戦時中の仕事や暮らし、そして花森安治さんとの出会いから、昭和23年の「暮しの手帖」誕生へと続きます。また、昭和33年に国務省の招待でアメリカへ視察旅行に行かれた時のこと、商品テストの裏話、メーカーとの共同開発で生まれた「布巾」や「ステンレス流し台」のこと等々・・・。この本には、暮しの手帖誕生初期の話から始まって、昭和53年に花森安治さんが亡くなるまでのことを中心に書かれています。(創刊当時は1万部だった部数が、30年後の昭和53年には90万部だったそうです)最終章「すてきなあなたに」には、花森安治さんの突然の死と花森さんが遺言だと言って残された言葉、最後に90才を過ぎても元気にご活躍されている大橋鎭子さんの様子も紹介されています。最後に、本の裏表紙に書かれていた、私にとっては懐かしい、あの有名な言葉をご紹介いたします。そして、本の中に掲載されていた懐かしい写真です。↑写真に添えられていた文章をお借りしました。《 私と「暮しの手帖」の出会い 》私と暮しの手帖との出会いは昭和40年代の初め、主人が買って来てくれた一冊から始まりました。世に言う花嫁修業らしいことはしないまま早くに結婚してしまった私にとって、暮しの手帖の記事は時には先生であり、時にバイブルの様な存在でもありました。特に我が家の定番となっている「料理」には、暮しの手帖のレシピが幾つもあります。お煮しめ、クリームチキン、麻婆豆腐、酢豚 等々・・・。暮しの手帖は私の料理の先生でもありました。
2016.08.12
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8月10日 Am 6:008月10日 Am 8:00ボタニカルアート教室の先輩 Kさんから、小さい小さい苗を頂きました。果たして育つのかしらと心配しましたが、あれよあれよという間にスクスクと育ちました。茶花にも使われるという儚げなイメージとは大違いで、路傍でも育つほど丈夫なのだそうです。和名=矢の根梵天花、別名=タカサゴフヨウ。アオイ科ヤノネボンテンカ属。南米原産の草本状低木で、名前の由来は、葉が「やじり」のような形であることに由来するのだそうです。花の直径は6cm前後、1日花で夕方にはしぼんできます。↑蕾・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↑8月11日 pm 13:00☆ 8月11日 追記1日経った花は、こんな状態です。苗を下さった Kさんのお話では、「可愛い花ですが、とても強くて種がたくさん出来ます。発芽率の高い恐るべき植物です」とのこと・・・。今年は無理ですがいつか描いてみたいと、大事に育てようと思っているのですが、増やさないようにしなくては(^^;;
2016.08.10
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今日の横浜の最高気温は37度。今年一番の暑さです。スケッチブックと睨めっこしていましたが、それにも飽きて一休み・・・。時々きまぐれ(きまぐれさん)の枠をお借りして、LINE Cameraで遊んでみました。LINE Cameraでは、JTrimの様に「暗い画素 or 明るい画素優先」は使えない為、気まぐれさんからお借りした「枠」に、画像を上書きで合成、少し模様を入れました。 きまぐれさんの元の作品と枠↓2016.7.152016.6.2「枠」の下の日付けをクリックして下されば、きまぐれさんの日記に掲載されている作品をご覧いただけます。きまぐれさん ありがとうございました。
2016.08.09
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☆ 横浜三渓園 ☆9:00~9:30頃撮影8月6日(土)、7日(日)は今年最後の、早朝観蓮会でした。去年はほとんど咲いていなかった蓮池の花が今年はたくさん咲いていました。蓮池全体を写したいのですが、ここの蓮は背丈が高くて蓮池全体を写すのは至難の技・・・。背伸びして手を一杯に伸ばしてやっとこんな状態です(^^;;蓮池の脇に立てられていた説明書きを読んで、ここの蓮が背高ノッポだった訳が分かりました。以下はその要約です。☆三渓園の蓮「原始蓮(げんしれん)」という品種。これまで様々な品種が植えられて来たけれど、背丈が高く繁殖力が強いこの品種が残った。原始蓮(げんしれん)は、古くから大阪府に自生していた品種で、大阪府の天然記念物に指定されている。この名は、蓮研究で名高い大賀一郎博士が原始的な蓮として命名された。☆蓮の花の見ごろ「蓮の花は、開け方から咲きはじめ、7~9時に見頃を迎え、その後次第につぼみ始めて昼頃には閉じるか散ってしまう。昼間でも咲いている様に見える花は3日目の花で、9時頃から閉じ始めた花が半開きで留まっている。一番美しいのは2日目の花で、3日目の花は下の方が白くなっている」詳しく知りたい方は、下図↓をクリック or タップで、説明書きの拡大画像が別ウィンドウで開きます。横浜三渓園公式サイト・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・☆8月8日追記千葉県行田市にある「古代蓮の里」には、大賀ハス、原始蓮、行田蓮はじめ、42種類の蓮の花が見られるそうです。公益財団法人 行田市産業・文化・スポーツいきいき財団 ↓42種類の花ハス
2016.08.07
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☆ 三渓園朝顔展・横浜朝顔会 ☆会期:2016年8月5日(金) ~ 9日(火) 時間:午前9時~正午まで会場:三渓園外苑< 大輪朝顔 >今年も三渓園で「朝顔展「が開催されています。9時の開始時間に間に合う様に行ってきました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・< 変化咲き朝顔 >今年は変化朝顔の数が少なくて、ちょっと残念でした。今朝は9時の開園時間に合わせて行ったつもりでしたが、既に大勢の人が・・・。今週末が今年最後の早朝観蓮会だった様で、既に見終えて帰って行く方もいらっしゃいました。今年は蓮の開花が遅かった様で、蓮の花がたくさん咲いていました。朝顔だけのつもりが、蓮の花と両方見られて、得をした気分で帰ってきました。横浜三渓園公式サイト♣︎横浜朝顔会のご紹介ただいま会員を募集中だそうです。興味のある方は下記までお問い合わせ下さい。横浜朝顔会会長・山尾修平様tel・fax: 045-841-4871
2016.08.06
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☆ コミニティーセンターの向日葵 ☆いつも本を借りに行くコミニティーセンターの玄関脇に植えられた向日葵です。まるで小学生の絵のお手本みたいな姿の向日葵でした。☆ Fさんの‘エンゼルトランペット ☆知人の家のエンゼルトランペットが咲き始めました。咲き始めたばかりの瑞々しいオレンジの色がとても綺麗でした。☆ Nさんのアメリカデイゴ ☆この木の親は、元は我が家の庭に有りました。あまりの逞しさに恐れをなして、我が家の親木は根こそぎ抜いてしまいました。その木の根が一旦 地中に一旦潜り、少し離れた別の場所で芽を出し育ったものです。欲しいと仰ったので、ちゃんと説明して差し上げましたが、これ以上育ったらその内恨まれるかも・・・(^^;;
2016.08.05
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アベリア(別名:ハナツクバネウツギ)スイカズラ科↑‘エドワード・ゴーチャー’ラジオ体操に行く途中、近所のSさんの門の脇で咲いているのに気がつきました。何の花だろうと、よくよく見ると似た花を見たことがある様な・・・。下は岡村公園で咲いていた花で、調べて見ると、やはり同じ仲間の花でした。この白花タイプは公園や道路脇で良く見かけます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・詳しくは → ヤサシイエンゲイ ↓ アベリア(別名:ハナツクバネウツギ)
2016.08.02
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新装改訂版・文庫本(手前が肥後橋、背景が大同生命ビル)☆小説 土佐堀川・古川知映子(女性実業家・広岡浅子の生涯)・1988年10月5日 初版発行・2015年10月11日 15刷新装改定版・NHK 平成27年度後期朝の連続テレビ小説「あさが来た」の原作、フィクション★あらすじ嘉永2年(1849)、浅子は三井11家の一つ京都の豪商油小路三井家に、6代目三井高益の娘として生まれた。幼い頃から、商いに長けた三井越後守高俊の奥方、殊法大姉の血が流れていると言われて育つ。「殊法大姉は一切の無駄を省いて節約をした」と、父 高益から聞いた浅子は「うちはそんなけちなことはせえしまへん。ぎょうさん儲けてぎょうさん使うてやるのだす」と言った。商売上手は、1に才覚、2に算用、そして3には始末である。高益が教えたいのは吝嗇ではなく、一つのことに徹する大切さであった。浅子は、2歳にして既に大阪の豪福両替商加島屋広岡信吾郎へ嫁ぐことが決まっていた。高益が59才で没し、浅子は高益の養嫡子、高喜の保護下におかれることになった。(高喜は先を見る目に優れ、三井11家の統括機関、三井大元方も務める。三井銀行を設立する。浅子の商売の師でもあった)その時代、幕府の財政は逼迫し、幕府からの御用金の割り当てが立て続けになり、天下の豪商といわれている三井の内情も想像以上に苦しかった。「世の中の変わり目には必ず新しい商いが出てくる。先への判断をするためには情報集めが先決だ」と、父高益に代わり義兄の高喜も浅子に話して聞かせた。名門両替商天王寺屋五兵衛へ嫁ぐ姉の春と共に、17才の浅子も婚儀のため伏見から30石船に乗り淀川を下った。浅子は嫁いですぐに、このままでは早晩、立ち行かなくなるであろう加島屋の内情を見てとった。じっとしていられない浅子は、姑にことわり、小藤を供に堂島の米市場見学に出かけた。その夜、三井から持ってきた本を一冊取り出し、信吾郎が呼びかけても返事もせずに夢中で読んだ。そして「本気になって商い覚えたい思うのどす。教えておくれやす」と、信吾郎の前に両手をついた。商いの状態が知りたい浅子は信吾郎に頼み込み、加島屋の古い大福帳を手に入れた。簡単には収拾がつきそうもないが整理してみようと、浅子は算盤を入れ始めた。最初は協力してくれていた信吾郎だったが、途中で音をあげてしまい、先に奥の座敷に引きとった。浅子はとても眠る気にならず、夜が白むまで算盤を入れ続けた。堂島へ行ったその日から加賀屋の若御寮はんの噂が広がり、中には狂人扱いしかねないような噂をする同業者もいた。加島屋は既に大阪一の豪商だが、自分の代に日本一の商人になれないものか。浅子の心の中にむらむらと敵愾心が燃えさかっていた。浅子の商いへの思い込みは並大抵のものではなく、いつの間にか汚名も消え、流石に豪商三井から嫁入っただけのことはある、という賛辞が聞かれるようになった。慶應3年の暮れ、商用で大阪へやってきた高喜が、加島屋へ立ち寄り「浅子、京都から討幕の兵が出陣することになるようや。三井では『賭け』をしたいと思うとる」と言い、詳細を述べずに帰って行った。義兄の話が頭から離れず、「戦があるてほんまやろか?」と問うても、夫の信吾郎だけでなく天王寺屋へ嫁いだ姉を訪ねてみても、危機感がまるで感じられない。やがて浅子の悪い予感が的中し、鳥羽伏見の戦いが勃発、幕府は敗北、将軍慶喜は大阪城から海路江戸へ逃れて行った。二条城へ呼び出された大阪京都合わせて130人の商人に、官軍から討幕の為の軍資金として300万両用立てせよとの要求があった。商人たちは出せないものは出せないと出し渋り、軍資金が集まらないまま、間も無く徳川討伐の軍が京都を出発したという報せが入った。道中の御用金掛かりとして三井、小野、島田の3豪商が従った。浅子の実家の三井は、まさに官軍につくというはっきりとした態度をとったのであった。三井の大元方(三井11家の統括機関)が、まさか時の趨勢を読み違えるはずはなかろう。そうなると加島屋の先行きの不安がいっそう募ってきた。浅子は京阪の商人と歩調を合わせている加島屋の先が心配だった。結婚からわずか3年後、浅子が嫁いだ加島屋は、明治維新とそれに続く廃藩置県によって存続の危機に直面したのである。・・・・・・・大同生命公式サイト、「広岡浅子の生涯」によりますと、加島屋の最初の危機は、傑物といわれた当主・広岡久右衛門の死(明治2年・1869年)、それに続く廃藩置県(明治4年・1871年)だった。加島屋の経営を担うことになったのは、浅子と、夫・信五郎、そして加島屋の九代目当主となった広岡久右衛門正秋。全員がまだ二十代の「若き経営者たち」による新たな船出であった。とありました。・・・・・・その後の浅子の獅子奮迅ぶりはすさまじく、周囲の反対にも拘らず決死の覚悟で始めた炭鉱事業は鉱山火災の危機も乗り越え、経営を軌道に乗せた。大阪梅花女学校の校長・成瀬仁蔵の「日本女子大学校を設立したい」いう目標に賛同し、女子大学校設立に協力することを決意。自ら先頭に立って資金づくりに駆け回り、やがて「日本女子大学」は開校した。浅子に理不尽な恨みをもつ没落した万屋の主人に刺されるという事件が起きた。やっとのことで命を取り留めた浅子は、生命保険の大切さに気づき、加島屋本家が運営し経営が思わしくない朝日生命を他社と合併させさ、経営不振を脱するしかないと考えた。だが、加島炭鉱、加島銀行、広岡商店、朝日生命保険、尼崎紡績等の社長及び重役たちの出席で開催された加島屋事業全体会議で、2/3以上が反対、否決された。その後、一対一で時間をかけた粘り強い浅子の説得が功を奏し、僅差ではあるが議決に持っていくことができた。浅子が合併を打診して回り、脈がありそうな各社と話し合いが進められた。二社に動きそうな気配が見えたとき、締めくくりの交渉役には保険事業に経験の深いしっかりした男性を立てるべきと考えた浅子は、朝日生命重役の中川小十郎を立てた。問題を一つずつ解決し、ついに実現可能なところに漕ぎつけた。新社名は、小異をを捨てて大同につく、という故事にのっとり「大同生命」という名が選ばれ、初代社長は加島屋本家の広岡久右衛門正秋が選ばれ、これまでの加島屋関連事業の中で最大のものとなった。大同生命が発足したその年、浅子の長女亀子に、子爵一柳家の次男恵三が婿養子として迎えられた。東京帝国大学法科出身の逸材で、加島銀行と大同生命に関与し勤務することになった。加島屋の事業は頂点にあった。大同生命設立の成功、鹿島銀行も広岡商店も全国に支店が増えている。九州の炭鉱も買収時に比べ出炭量が格段に伸びていた。かつて経営の危機にあったことなど、もう記憶している人も少なかった。けれど、このとき既に足元には予測しない不幸が忍び寄っていた。日に日に具合が悪くなってゆく信吾郎を励まそうと、浅子は彼が以前から話していた御殿場に別荘を建てようと考えた。別荘の土地は3000坪、どの部屋からも富士が見えるように設計された。広い芝生の中心には、信吾郎の提案で、一本の黄楊(つげ)の木が植えられ、傘の形に作られていった。明治37年6月、浅子が56才の初夏、広岡信吾郎は加島屋の最盛期を見た上で没した。亀子と恵三夫妻に加島屋ののれんを渡すと決めた浅子は、亀子に「御殿場の別荘を生かして、若い人と一緒に勉強したいわ。日本の女性のこれからの生き方を考えて討論したい思うてるんや」と言った。その後、乳癌を発病し手術を受け療養中の浅子の元に、本家の正秋が急逝したとの報せがはいった。信吾郎のたった一人の弟の死に、浅子は肉親以上の悲しみを覚えた。大同生命の重役会議で社屋移転についての決議が満場一致で議決され、土佐堀川肥後橋前、加島屋の敷地に近代的なビルが建設されることになった。設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ。近世ゴシック風の重厚なビルであった。設計まで1年、約3年間の歳月をかけて建築がなされることになった。華々しく大同生命ビルの竣工式が行われることになった。落成式当日、浅子は金ラメ入りの黒レースの豪華なロングドレスを身にまとい、胸高くに造花をつけていた。銀髪の髪が黒の洋装によく似合い、来賓と一緒にテープカットに加わった。浅子は表彰を受けたあと演壇に上がり無事挨拶の言葉を言い終え、控室に戻りソファーに深く身を沈めた。そしてそのまま意識を失い、大正8年1月14日、眠るように息を引き取った。数えで71才の生涯であった。大正14年 6月、大同生命はかつて加島屋の屋敷があった大阪市西区土佐堀通1丁目1番地(現大阪本社所在地)に移転した。♣︎主な登場人物広岡浅子、嘉永2年(1849)京都の豪商油小路三井家(三井11家の一つ)に、6代目三井高益の娘として生まれる。幼い頃から商いに長けた祖先の血が流れていると言われて育つ。大阪の両替商、加賀屋広岡家に嫁ぎ、自ら先頭に立って商いの道に邁進。筑豊の炭鉱事業、銀行設立、大同生命設立と大仕事を成し遂げた後には女性への高等教育の普及、廃娼運動などにも尽くす。広岡信五郎両替商加賀屋の後継者で、浅子の夫。人柄は穏やかで若い頃は趣味三昧の生活を送る。猛進する浅子を温かく見守っていたが、やがて浅子に劣らず商売の道に邁進するようになる。小藤浅子の実家、油小路三井家の腰元。浅子が嫁ぐ際、世話役として一緒に店を移る。春浅子の異母姉。浅子が加賀屋に嫁いだ時、ともに大阪の今橋天王寺屋に嫁ぐ。天王寺屋は大阪で最も伝統のある両替商であったが、維新の後、落魄する。広岡亀子浅子の長女。娘婿を迎えて夫婦で加賀屋の屋台骨を支える。広岡正秋信五郎の弟。加賀屋が銀行業に乗り出した際、初代の頭取になる。三井高喜三井高益の養嗣子で浅子とは26才離れた義兄。高益亡き後は浅子の父親がわりを務め、浅子の商売の師でもあった。先を見る目に優れ、三井11家の統括機関、三井大元方も務める。三井銀行を設立する。22三井高景高喜の長男。浅子とは1才違いで、幼い頃からきょうだいのようにして暮らす。後に三井家の当主となり三井鉱山社長などを務める。成瀬仁蔵大阪梅花女学校の校長。若い頃にアメリカ留学の経験を持ち、女子の高等教育発展に力を注ぐ。貧しいながらも高潔な人柄。日本女子大学校設立という目標を得て、浅子にも協力を仰ぐ。ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)米国カンザス州生れ。1905(明治38)年、英語教師として来日。1908(明治41)年、「ヴォーリズ建築事務所」を設立し、建築設計の事業を開始する。学校・教会・病院・商業建築など、第二次世界大戦までに全国で千を超える建築に関与したとされている。代表的な建築物には、大丸心斎橋店(大阪市中央区)、山の上ホテル(東京都千代田区)、明治学院礼拝堂(東京都港区)などがあ。ヴォーリズは旧肥後橋大同生命本社ビル(大阪市西区)をはじめ、大同生命の本・支社11棟の建築を手掛けた。妻・満喜子は、一柳子爵家の三女、大同生命第二代社長・広岡恵三の妹。♧作者:古川知映子東京女子大短期大学英文科、同大学文学部日本文学科卒。国立国語研究所で『国語年鑑』の編集に従事、その後東京都内の私立高校教諭を経て、執筆活動に入る。著書に『赤き心を』「風花の城』『一輪咲いても花は花』『氷雪の碑』『飛IIより愛を込めて』『性転換』『炎の河』など。日本文学科協会会員。ヴィクトル・ユゴー文化賞受賞受賞。潮出版文化賞受賞。大同生命公式サイト → 広岡浅子の生涯
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