2017.09.09
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☆植物図鑑・有川浩
・平成25年1月10日 初版発行
・幻冬舎文庫
( 2009年6月 角川書店より刊行 )

別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。花は毎年必ず咲きます。
文豪・川端康成はそんな言葉を残したそうだ。
さやかは小さく溜息をついた。別れたとも言い切れないんだよなぁ、あの男は。何しろー。いきなり消えたまま行方が分からないんだから。

樹木の樹と書いてイツキと読むんだ。さやかが彼から直接聞いた個人情報はそれだけだった。出会ったのはまだまだ夜が凍りつく、冬終わりかけの休日前夜。終電ギリギリの飲み会帰り、朧月が出ていた。ほろ酔い加減でマンションのポーチに近づいたとき、植え込みに放置してあるそれをみつけた。顔をしかめて大きなゴミ袋に近づいたさやかは大ききな悲鳴を上げた。遠目にゴミ袋と見えたのは、リュックを背中に丸くなって転がっていた人間だった。頬をつつかれうっすら目を開けたのは、同年代の、結構いい男。さやかの問いかけに「行き倒れてます」と応えた。手持ちの所持金を使い果たし無一文。お腹が空いて一歩も動けないという。男が警戒心を感じさせなかったせいだろう、同情したさやかはいつの間にか男の前にしゃがみ込んでいた。と、男がぽんと膝に丸めた手を載せ「お嬢さん、よかったら僕を拾ってくれませんか。咬みません、躾のできたよい子です」と言った。彼の言葉は、まるで「犬」のお手みたい、と考えていたさやかのツボにはまり、笑いが止まらなくなった。今にして思うと、この瞬間をして魔が差したと言うのだろう。さやかに支えられやっと辿り着いたさやかの部屋で、カップラーメンを食べた「大きな犬」は、ごちそうさまでした、と深々と頭をさげた。
翌朝、さやかが目を覚ますと、ささやかな朝食の支度が出来上がっていた。おかずは、盛大に芽が出ていた死亡寸前の玉ねぎを使ったオムレツ、味噌汁もタマネギに卵と、男がかろうじて発掘した食材のみで構成されたメニューである。「おいしい…」一口すすった味噌汁は、体に滲み入るようだった。
彼は身支度を済ませ、寝袋を片付けはじめた。ベットの上で三角座りをしながら眺めていたさやかは、自分でも何故だがわからないまま「ねぇ、行く先ないんなら……ここにいない?」そんなことを口走っていた。「おれは一応男だよ」という彼に、「拾ったら情が移るじゃない、このまま出ていかれたら、それでもう2度と会えない人になったら寂しいって思っちゃったのだから仕方がないじゃない!……」

「…待遇は?」
「住環境と生活費の管理権」
「住環境の中に布団って入る?」
「客用布団があるから専用にしていい」
「分かった」
家計の支出はさやかが持つ代わり、イツキがハウスキーパーを引き受けることになった。2人の風変わりな同居生活が始まった。やがてイツキもバイトを見つけて生活のサイクルがすっかり落ち着いた。同居して一ヶ月。さやかはイツキを異性として意識している。それは認めざるを得ない。だが、イツキの方は相変わらず「躾のいい犬」で、紳士的で、同じ年頃の女と一つ屋根の下で暮らしながらこの一ヶ月間そんな気配一つ感じたことはなく、ごく理性的に「契約通り」のルームシェアをしている同居人だ。大事にされている。同居人として。それで満足するべきだ。日付の変わる頃、イツキはマフラーと手袋をしてコンビニのアルバイトに向かう。イツキは植物のことがやたら詳しい。名前しか知らないこの男は一体ナニモノなんだろう。一体どこから来たのだろう。
週末は「狩」を兼ねた散歩に行くようになった。
イツキは植物の名前だけでなく料理も上手だ。摘んで来た野草を手際よく調理する。茹でこぼして切り揃えたセイヨウカラシナは、ベーコンやノビルと一緒に炒めパスタに。ノビルの根の先の白い玉がアクセントになって、パスタは絶品と言える料理になった。苦労した割にツクシは報われない味だったり、フキトウの味噌漬けは美味しかったけど天ぷらは苦過ぎて素人にはキツかった。たんぽぽの花と葉は天ぷらになって出て来た。さやかはイツキに教えられながら、一つ一つ覚えていった。週末ごとにイツキと一緒に「狩」に行くのが楽しみになった。
さやかが夢中で摘んでいるとき、イツキは高価そうなデジカメで夢中でシャッターを切っている。データは軽量のノートパソコンに取り込んでいるという。行き倒れていたくせに高価そうなデジカメを持っているわ、軽量ノートは持っているわ、その落差も訳が分からない。同じ部屋に住んでいるのに未だに謎がぼろぼろこぼれてくる。厳しい残暑を乗り越えてようやく秋が来た。やがてハナミズキの実が真っ赤に色づく季節になった。
最近、ふと気がつくとイツキに見つめられていることが増えた。「何?私の顔、何かついてる?」というと「ううん、さやかはかわいいなぁと思ってさ」そういうときのイツキはまともに見返せないほど優しい顔をしている。やがて、ハナミズキもすっかり丸裸になった。これからどんどん冬になる。

ある日、いつものリズムでチャイムを鳴らしてもドアが開かなかった。自分で開けて入ると、部屋はしんと静まり返り、明かり一つ点いていない。さやかは悟った。寝室に入ると、イツキが来る前のレイアウトに戻っていた。居間のテーブルの上に封筒とノート、そして部屋の合い鍵が一本載っていた。ノートにはイツキが作ってくれたレシピがびっしり書かれていた。封筒の中には一筆箋が一枚と、さやかの写真が3枚。

本当はもう分かっていた。いつまでもこのままではいられない。…イツキはどこかで何かを決断したのだ。さやかは泣いた。自分の中にこんなに水があるとは知らなかった。全部涸れて死んでしまえいいと思った。さやかは、イツキがもう一本の合い鍵を持っていることに望みを託していた。
春が過ぎ夏がやって来た。

ある日、書留が届いた。中から部屋の合い鍵が一本と一筆箋が一枚…。
「ごめん。待たなくていいです」
イツキは嘘が巧くない。こんなときにもさよならと書けない。こんなに未練を溢れさせておいて、待たなくていいだなんて。分かりやすい嘘つかないでよ。その日は久しぶりにたくさん泣いた。待ちたいだけ待とうと割り切ってから気持ちが楽になった。





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Last updated  2017.09.09 17:02:42
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chobitto0605 @ Re:思いのまま(梅)・岡村天満宮(03/01) New! こんにちは、 岡村天満宮の紅白の梅 青い…
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