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ダスティン・ホフマンという俳優は、アメリカン・ニューシネマといううねりがなければ、ここまでの大スターとして活躍できたであろうか。あれだけの演技派であるから、当然、どこかの時点で注目されるであろうが、これほど有名な主演スターとなったろうか?映画「卒業」では大学卒業したばかりの青年を演じたのであるが、そのとき彼は30歳であったのだ。当時のポスターを見ると、共演のキャサリン・ロスは正面を見ているが、ダスティン・ホフマンの顔は、横向きでほとんど見えない。決してハンサムスターでも若さあふれるスターでもないということから、映画会社としては、この男優では売れないと思ったのであろう。「午前十時の映画祭」では長崎では「青春のダスティン・ホフマン」というテーマで4月2日から「卒業」、9日からは「真夜中のカーボーイ」である。ダスティン・ホフマンという俳優が「青春」をイメージする存在となっていることは、初公開当時は誰も思わなかったのではないか?そういえば、大塚博堂の「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」は、ほろ苦い青春回顧であり、ここでも彼の名前が青春のシンボルとして扱われている。大塚博堂のデビューは32歳であり、ダスティン・ホフマンとほぼ同年齢であった。
2011年03月31日
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今週の「午前十時の映画祭」は「山猫」である。この映画、何度見ても常に新しく様々な表情を見せてくれ、常に発見がある。特に、舞踏会のシーンは、何度見ても素晴らしい。この中で、様々に視点が変わるのである。全体を眺める神の視点サリーナ公爵の視点タンクレディの視点が交互に変化しつつも流れはスムーズである。編集の見事さなのか、それとも撮影監督の演出技術なのか、監督と撮影監督のコラボレーションの見事さなのか。こういう発見にいちいち感動することで、名作を見た快感を味わっている。
2011年03月30日
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日本映画がつまらないのは政治的テーマに斬り込まないからだと常々思っている私にとって、議員人質と議事堂占拠やが描かれる「SP・革命編」という映画は、ある種、非常にそそられ、期待してしまう作品なのである。私にとって革命とは「連合赤軍」であり、姿勢としては反権力である。しかし、この映画におけるものは「革命」とはほど遠く、それは。どちらかというと「私怨」であった。議事堂を占拠して、現在の体制に刃向かうのであれば、それは革命と言うのかも知れないが、そこには「反権力」の姿勢は感じられなかった。その意味では、この作品が娯楽映画としてある程度の出来は認めつつも、それは薄味革命でしかなかったのである。しかし、尾形と井上の因縁の対立は非常に興味をそそられる。この二人の関係もこの作品では決着はついていない。「SP・革命編」の続編はあるべきだと思うし、いずれ、そこから真の「革命編」が出来ることも期待したいと思いたい。そのときに尾形や井上が革命軍の側に立つのか、どうかは予測が出来ない。だからこそ次を期待したいし、「SP」という微妙な立場が、この作品を興味深いものにしていることの意味を心に刻んでおきたいのである。国会議事堂をバックにした尾形と井上の対決は、非常に意味深いものであると思う。
2011年03月29日
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このブログでもたびたび書いている長崎県が計画している新しい県庁舎であるが、財源は長崎県が積み立てた県庁舎建設整備基金375億円と国庫補助金10~20億円である。合計で385億円~395億円。現在の長崎県で、これだけのお金があるとして、それが県庁舎建設に使用することがベストなのか?国庫補助金から10億円から20億円を使うことを国民は納得できるのか?ちなみに新県庁舎は沿岸部の埋立地に建設され、1階のエントランスホールは避難場所と医療活動の拠点となるそうだ。
2011年03月28日
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育ててくれた母親が誘拐犯であったという設定は、まるで「八日目の蝉」ではないか、というよりは「ラプンチェル」の方が先なので、「八日目の蝉」が影響を受けて作られたというべきであろう。誘拐されて閉じ込められた姫その彼女を外は危険だからといって外に出さない母親ここで注目すべきは、ここ誘拐犯は彼女を虐待しているわけではない。彼女の髪は魔力を持つ彼女が幽閉される塔に入り込むことになる無法者の男その彼によって彼女は外界に出ることが出来る。そして彼の命を救うために彼女の髪が必要になったそのとき・・・というエピソードは現実社会の何かを表現しているようで、あることの寓話にもなっているようなのだが、残念ながらそこまでは読み取ることは出来なかった。私が見たのは通常版の日本語吹き替え。もし、オリジナルで見たら、歌の部分など圧倒的なエネルギーであったはずで、残念であった。ストーリー展開も面白く、ラストはなかなかいいのであるが、3次元グラフィックのような人物の造型や肌触りなど人工的な感じが私はあまり好きにはなれない。やはり以前のセル画の手作り感が好きである。
2011年03月27日
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エリザベス・テイラーといえば、数々の出演作と共に8回の結婚と7回の離婚が連想され、もしかしたら、これが彼女の代名詞なのかもしれない。彼女にまつわるエピソードは数多く、世間から見れば非常識なことも彼女が持つエネルギーやオーラのようなもの、あるいはスターの中でも破格の地位によって吹き飛ばしてしまっているわけであるが、そんな彼女が「結婚」という形式に拘ったことが非常に微笑ましいというか、親近感のようなものを感じる。カトリーヌ・ドヌーヴが結婚という形態に全く拘らなかったのと好対照である。時代の差というべきか、それともアメリカとヨーロッパの差というべきか?もっともテイラーももとはと言えば、イギリス出身なのであるが・・・。テイラーがドヌーヴのことをどのように思っていたのか知らないが、もしかしたら、理解不能な存在であったのかも知れない。テイラーにとって、もしかしたら、映画俳優としての活動や話題をふりまく数々の行状は彼女なりの幸福追求の「婚活」であったのだろうか?
2011年03月26日
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エリザベス・テイラーが亡くなった。最高の美女と称される大スターであるが、その絶頂期をリアルタイムで知らない私には、実はあまりピンと来ない。イングリット・バーグマンやグレース・ケリーは美女として共感するのは、おそらく好みの問題ということであろう。しかし、「クレオパトラ」の主役にキャスティングされても全く違和感を感じさせない点はすごい存在であったということだ。私には「雨の朝巴里に死す」、「愛情の花咲く樹」、「ジャイアンツ」といった作品より、決して成功作とは言えない「禁じられた情事の森」やジョセフ・ロージーと組んだ2作品の試行錯誤の時代が非常に好ましい。テイラーには「この愛にすべてを」と「ある愛のすべて」という紛らわしい邦題の作品があるが、後者はマイケル・ケインとスザンナ・ヨークという、まさに3大スター共演であったが、そのスザンナ・ヨークも先ごろ、亡くなられた。ちなみに監督のブライアン・G・ハットンはリチャード・バートン主演作も演出している。
2011年03月25日
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「直ちに健康に影響はない」「数回摂取しても健康に影響はない」「大量に飲まなければ、心配する値ではない」「暫定基準値」なんというおかしな言い方か。そもそも乳児が飲むのがまずいなら、授乳中の母親や妊娠中の女性もダメと考えるのが普通ではないか。いや、いずれ母親になる女性は飲んではダメであろう。原発を建てるときはこんな地震は起きることはないとかどんな事故にも耐えられるとかどんなトラブルにも対応できるバックアップシステムが働くとか、異様なまでの安全宣伝をしておいて、事故が起きたら、次は必死の安全宣伝。それも万全とは言えないので、微妙な言葉使いで言い逃れを行っている敗北を「転進」と言いくるめた大日本帝国の体質はそのまま温存されて現在も見事に発揮中である。
2011年03月24日
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いま日本を襲っている未曾有の原発震災。福島第一原発で何が起きているのか―――東京での調査から帰ったばかりの藤田先生にお話を伺います。講師は放射能が人体と環境に与える影響を訴え、原発問題に警鐘を鳴らしてきた藤田先生です。テレビの解説とは違う視点でこの問題を見る機会になると思います。日 時 3月26日(土)13:30~15:30場 所 長崎県教育文化会館2F大会議室講 師 藤田祐幸さん(元慶応大助教授)主 催 原発なしで暮らしたい長崎の会/原水爆禁止長崎県民会議※入場無料。どなたでも参加できます。※ネット中継も検討中問合せ先:E-mail:ngs-heiwa@vesta.ocn.ne.jp
2011年03月23日
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本多猪四郎監督と言えば、怪獣映画とかSF映画の職人監督という固定されたイメージで語られるが、本多監督の人となりや他にどんな作品を撮ったのかなどはあまり語られることはない。そもそもどのような考え方で映画製作に向かい合っていたのかということはあまり知られていない。「『ゴジラ』とわが映画人生」は、彼の人生や社会観、映画観を語ったインタビュー集である。これを読むことで、本多作品に新しい側面が浮かび上がってくる。チャップリンの「ライムライト」のあるシーンに高齢になって改めて感動したこと、「2001年宇宙の旅」での「光の洪水」のシーンへの違和感など非常に興味深い。好きなジャンルがドキュメンタリーであり、中でも最も敬愛する作品がロバート・フラハティの「アラン」であること、そして海が好きであることなど、「ゴジラ」に通じるものがありそうだ。何よりもその真摯な生き方に深い感銘を受けた。
2011年03月22日
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前作がウォルター・ヒルの「ウォリアーズ」を隠し味にしていたが、今回は何だろうかとそれを楽しみに見る。見ながら、議事堂内の占拠とその攻防となり、これはロバート・アルドリッチなのかと思い、最後にはおそらく首相人質で「合衆国最後の日」を隠し味にするのかと思わせたが、今回は隠し味なしと判明。議事堂占拠の手順やアクション・シーンはそれなりに見せてくれるが、間延び引き伸ばし編集のせいか、いまひとつ緊迫感に欠ける。これなら90分程度にしてもいいのではないか。映画を見ていて、実は詳細が判らない部分がいくつか。シナリオの欠陥ではなく、どうもテレビの「革命前日」を見ていないと判らないようだ。さすがはフジテレビ。それでも、この物語は、まだ奥がありそうで、その部分から更に続編かスピンオフ編を作るのだろうか。さて、物語は「革命編」というタイトルに相応しく、国会占拠という大胆な行動が描かれるが、その後は、実はかなり退屈で緊迫感がない。閣僚に対してありきたりの質問では、全くつまらない。これで「革命」なのか?それとも「みんなが言っている革命ってこんなもんでしょう」という批判なのか?結末を言ってしまえば、首相以下全員が生き残り、悪はそのまま生き延びる。だからといって、そこにある種の無常観や権力の強さが描かれるわけではない。せっかくの題材が無駄になってしまった。
2011年03月21日
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「SPACE BATTLESHIP ヤマト」よりマシであるが、共通して言えることは主役がダメで、足を引っ張ったということである。どこがダメかというと、この山下智久という俳優(というべきか)には表情が全くないのである。ないというより「ひとつ」しかないのである。監督は一体何をやっていたのか?矢吹丈にはボクシングに熱中しているとき、丹下段平に接するとき、力石と対峙するとき、ドヤ街の子どもたちと一緒いるとき、それぞれに表情が違うのであり、そのいずれもが彼が生きていること、個性を表現しているのであり、その総体が矢吹丈の魅力なのである。その丈の魅力を表情の変化の出来ないこの山下智久がダメにしてしまった。表情がひとつしかない俳優としては広末涼子がいるが、彼女が白木葉子にキャスティングされなくて本当に良かった。この作品、セット美術もよく、香川照之、伊勢谷友介、香里奈は良かった。カメオ出演のような倍賞美津子が印象に残る。この作品、続編を創るつもりなら、主役を変えてやるべきであろう。
2011年03月20日
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沿岸部の埋立地に県庁舎と県警庁舎を新築・移転して防災拠点にしようという長崎県の計画はどうなるのか?県議会の県庁舎整備特別委が16日に開催され、県側に説明を求めた。その結果は次の通り。・本県付近の海域に明確なプレート境界がなく、大津波が発生する 可能性はない。・液状化についても阪神淡路大震災に耐えられる設計であり、 問題はない。よって計画はこのままというもの。目の前で空前の事態が更に進行していながらも、この結論。これはもはや想像力の欠如というだけの問題か?それにしてもこのタイミングでよくぞ、この断定的発言!話の発端は、そもそも現在の県庁舎の耐震性が問題で震度6の地震でも倒壊するということからのもの。しかし、本県に地震が起きる可能性がないなら、そもそも県庁舎を移転・新築する必要などないはずではないか?県側は「地震津波による大きな被害が本県で起きることはなく、現在の計画で対応できる」と強調しているわけで、これを信じるなら安全第一ということで住む場所をなくされた方々、地震が不安で少しでも安全な場所に住みたい方々の定住促進を行ってはどうか。人口減少に悩む、県の問題も併せて解決できるではないか。すごいぞ、長崎県!
2011年03月19日
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昨日の「『ヒアアフター』の上映中止に思う」について3名の方からご意見をいただいた。ありがとうございます。それぞれに納得である。これについての「正解」はないのだと思っているが、もし、私が映画館の支配人であったり、配給会社の経営者であれば、どのような判断をするのだろうか?その場合は、営業面など様々な要因や思惑が絡んで、私個人の考えとは違った結果になりそうである。この問題の根本には個々人の感情の問題があるが、「人は悲しみや喜びを他の人々といかに共有できるか」という問題として考えることが出来ると思う。また、「悲しみや喜びを、どこまで、どのように人に強制できるか」ということでもあろう。大変にやっかいな難問である。私としては、出来るだけ多方面からの考え方を学びたいと思っている。その意味で3名の方のご意見、大変に有意義であり、感謝です。この問題、改めて書いてみるつもりである。
2011年03月18日
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震災は映画興行にも影響を与えつつある。まず、現在公開中であった「ヒアアフター」は15日から上映中止となった。この映画の冒頭でスマトラ沖津波を思わせる大津波のシーンがあることからという理由である。映画の津波のシーンは、圧倒的な迫力で非常によく出来ており、私も今回の現実の津波のニュース映像に接したとき、思わずこの映画のことを思い出した。今回の興行側の対処に対しては「仕方がない」と思うものの、「納得できない」という気持ちもある。「ヒアアフター」の津波のシーンはスペクタクルではあるが、この映画の見せ場ではなく、このシーンが売り物ではない。また、パニック映画のように、この津波のシーンを利用してヒロイズムを描くものでもない。この映画、いろいろと批評はあろうが、「人が生きるとは、どういうことか」とか「人は何によって、何を支えに生きていくのか」ということを描いたものであり、むしろ、このような時にこそ見るべき作品という意見が出てもおかしくないと考えることも出来る。このような場合、例えば、プロ野球の開幕についても同様であるが、どのようにするべきか「正解」はないのかも知れない。もし、批判を受けることを避けたいだけで、津波のシーンがあるというだけで上映を中止したとすれば、それは非常に残念なことだと思う。
2011年03月17日
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このような事態は100年に一度、あるいは1000年に一度起きるかどうかとか説明されたり、このシステムは、ここまでバックアップの仕組みがあり、これらが一斉にトラブルを起こしてダメになることは、まず考えられません、などと説明されて、100年に一度や1000年に一度などは「絶対に起きないこと」と信じこまされているのではないか。100年の一度の不況も1000年に一度の災害も全システムが連鎖的にトラブルを起こすこともいとも簡単に起きているではないか。
2011年03月16日
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「直ちに健康に影響するものではない」「可能性は相当に低い」「爆発的事象」など本質にふれないような、しかし、そこには本質に関わる重大な問題が隠されていることが推定されるような言い回しが続くのが福島原発事故についての政府や東電の説明であり、本来ならば、そこの部分をつくべきマスコミまでがそれに同調している。一方で「原発関連のチェーンメールにご注意下さい」と言われるが、政府、東電、マスコミのこれまでをみると、チェーンメールの方が真実かもと思ってしまうことは当然であろう。点検記録の改竄を行った企業体質がそう簡単に改まるとは思えない。きっと重大なことを隠しているのではないかとニュースを注視している。それにしてもマスコミやそこに出ている解説者たちは「他の原発ではこのような事態は生じないのか?」とか「このような危険なものに電力が依存していることがいいのか?」といった意見が出ないのは何故?
2011年03月15日
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この作品、アンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップの共演という点も注目であるが、監督が「善き人のためのソナタ」のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクであるという点にも注目したい。わけが判らないままに逃げ回る主人公と結局、謎のままに終わるアレキサンダー・ピアースという人物という設定に現代社会への裏目読みが出来るのかも知れないが、ヴェネチアの風景を背景にした物語を楽しめれば、それでいいという感じ。敏腕監督が2大スターを迎えて、余裕で撮ってドナースマルク監督がハリウッドデビューするにあたり、「ご安心下さい」と名刺代わりに仕上げた作品とでも言っておこう。次は「アンダルシア」らしいが、「アマルフィ」も青山真治か橋口亮輔あたりでこんな感じで撮ってもらえば、良かったんだけどね。
2011年03月14日
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地震や津波はおさまっても、次に襲ってくるのはもっと怖いものである。福島原発の状況を見て、これでもまだ原発を造り続けるのだろうか?それにしても、政府、関係者たちの言葉を選びに選んで、微妙な言い回しで表現していることに、もしかしたら、重要なことを隠しているのではないかと感じたのは私だけであろうか?万が一の場合、これほど取り扱いがやっかいな原発をまだ造り続けるのだろうか?そのような電力会社や政府を指示するのか?ここで「原発はまずいのではないか」という輿論が起きることが大事なのではないか。
2011年03月13日
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被災された方々へ心よりお見舞い申し上げます。長崎港でも80センチの津波が観測された。これは長崎港の入り口に近い松が枝での観測結果であるが、では長崎駅近くの魚市跡地近辺ではどの程度だったのだろうか?長崎県はこの魚市跡地を中心とした長崎港に面した埋立地を防災拠点として県庁と県警を新築移転させようとしている。海に面した埋立地に「防災拠点」など考えこと自体が非常識であろうが、それが非常識で危ないことなど長崎では通用しない。日本全土を覆う、この災害にあっても、長崎県は、まだこのような計画を進めるつもりだろうか?
2011年03月12日
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東部からやってきたマッケイを牧童頭のリーチが迎える。グレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストンが顔を合わせ、並んで馬車に乗っているシーンは、まさにこれからのアメリカ映画を背負って立つ二人を見せるという意味で、意気軒昂なキャスティングである。この二人にバール・アイヴスとチャールズ・ビックフォードが共演しているところがキャスティングの妙であろう。グレゴリー・ペックとチャールトン・ヘストン。二人とも大スターでありながら、片方では大根役者と揶揄されることも多いのであるが、彼らの作品を見る限り、それは「偉大なる大根役者」というべきで、出演しているだけで作品のスケールアップを感じさせるそんな役者である。現在のアメリカ映画に、この二人に相当するようなスターはいるのだろうか?ところで、この作品のタイトルで荒野を走る馬車の車輪が見事なグラフィックとして使われているが、これは、もしかして宮川一夫のキャメラによる「無法松の一生」を連想させるが、その影響を受けたということは考えられるだろうか?
2011年03月11日
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テリル家とヘネシー家の激しい対立の中にテリル家の娘の婚約者として東部からやってきたジムが到着早々に手ひどい嫌がらせを受けたことの報復として、テリル家の牧童たちがヘネシー家とその集落を襲うシーンは、正義の名の下に他国への軍事行動を起こす現代のアメリカの姿がかぶさってくる。映画は1958年に作られたものであるが、現代にも通用する批評性を持った作品と言えるであろう。テリル家のヘネシー家への行動がテリル少佐の個人的な戦争であると断じている点など、まさに現在の戦争ビジネスそのものを言い当てている。「大いなる西部」は映画が持つ時代の先取りと予言性を見事に発揮している。
2011年03月10日
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「禁じられた遊び」(52年)と「大いなる西部」(58年)では、それぞれ主人公が身を寄せる一家は対立する一族とそのグループがあった。「禁じられた遊び」では隣家とは反目しあっている。「大いなる西部」では水源をめぐって、その隣接する家族と対立していた。「禁じられた遊び」での隣家との対立は、「大いなる西部」の対立に比べるとさほどシリアスではないと思えるが、戦時中であることを考えると、思わず考えさせられる。第二次大戦が終了したが、世界は米ソという2大国の対立の時代となってきた。おそらくそうした時代背景が、これらの作品には反映されているのであろう。
2011年03月09日
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「第2回午前十時の映画祭」では予定されていた作品が変更となった。「ひまわり」から「昼顔」へ「ミツバチのささやき」から「山猫」へこのうち「ミツバチのささやき」公開がなくなったのは実に残念である。「シベールの日曜日」と共に2大美少女映画が、そろったと期待したのであるが・・・。名作「山猫」だからいいではないかという意見もあるが、そんな問題ではない。ところで、今回の作品の変更については特徴がある。「花の名前」のタイトルの作品の代替は、やはり「花の名前」「動物の名前」のタイトルの作品は、やはり「動物の名前」である。もしや「ブラック・サンデー」が、またもや上映中止にでもなったら、次は「日曜日はダメよ」なのか?もう、これ以上の交代はやめてくれ!
2011年03月08日
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少女と少年との二人だけの十字架集めという遊び。二人だけの秘密の場所での秘密の遊びという。「シベールの日曜日」は、この「禁じられた遊び」からインスパイアされたものかも知れない。ラストは少年の名前と「ママ!」と叫びながら雑踏の中に消えていくが、あれから彼女はどうなったのだろうか?アントワーヌ・ドワネル少年も鑑別所を脱走して海辺へとやってきてそこに佇むのであるが、あれから少年はどうなったのだろうか?「大人は判ってくれない」のラストは、もしかしたら「禁じられた遊び」のラストから影響を受けたのかも知れない。ルネ・クレマンとトリュフォーは新旧の相容れないライバルであったのだが・・・。「禁じられた遊び」は、観客は少女を中心に見るのであるが、少年の立場からもまた、言いようのない悲劇なのである。ある日突然に彼の前に現れて、心が通い合った少女の存在は非常に大きかったのではないか。パリから来た少女は、少年にとっては新しい世界へと導く存在ではなかったのか。その彼女が理不尽にも奪われていく。十字架を川に捨てるシーンにはその悲しみが強く描かれている。この別れは死別ではないが、あまりにも残酷だ。
2011年03月07日
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「バトル・ロワイアル」と「デスノート」を合わせたような内容であり、生と死を実感させようという意図のなかなかのシリアスな内容である。その中で就活中のやや無気力青年が次第にサバイバルに生き甲斐を見出す、あるいはダークサイドに堕ちたというべきか、その変化が面白い。作品は2部構成になっており、その変化が第2部で、どのようになって全体が完結するのかが興味がある。先に述べたように極めてシリアスな内容であるが、戦う相手は「ネギ星人」や「田中星人」や「おこりんぼう星人」などふざけたネーミングのキャラクターたちである。そんなふざけた相手との戦いで死ぬこともあるわけで、果たしてこんなことで死んでもいいのかと考えさせられるが、現実には、ある人物のお笑いのような思考妄想結果で戦争が起きることを考えれば、ネギ星人に殺されることも決してあり得ない話ではない。この映画、冒頭からテーマが語られる。「人にはそれぞれ与えられた役割がある」と言葉である。人気アイドルと注目の演技派スターの共演による人気劇画というパッケージであるが、その内容は意外と体制側にも有効な道徳的なもののようだ。
2011年03月06日
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ジェーン・ラッセルとアニー・ジラルドの訃報が同じ日の新聞に掲載されていた。この二人、対照的な感じである。ジェーン・ラッセルといえば、ハワード・ヒューズがただちに連想されるが、映画「アビエイター」には登場しましたっけ?誰か演じていたっけと記憶をたどっているところ。ジーン・ハーローはケイト・ベッキンセイルであったけど。アニー・ジラルドは、どんな役柄を演じても、知的で静謐な雰囲気を漂わせていた。「パリのめぐり逢い」にしてもラストシーンは彼女でなければ、とてもじゃないが、いやなシーンになっていたのではないか。「若者のすべて」の印象が強く残っている。お二人のご冥福をお祈り致します。
2011年03月05日
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この作品は一種の「バディ・ムービー」と考えていいのではないか。変形版とみてもいいと思う。ニック・ノルティとディ・マーフィーの「48時間」やロバート・デ・ニーロとチャールス・グローディンの「ミッドナイト・ラン」のようなものだ。映画を見ている間、以前にも、このような作品を見たことがあるなと気になっていたが、映画を見終わって、先日、亡くなったピーター・イェーツの「ドレッサー」がよく似ていることを思い出した。こちらは我侭な舞台俳優と付き人の物語。この種のドラマには二人の人間関係に大きな特徴があって、いってみれば呉越同舟。それだけではなく、一方が優位にありながら、そうでない人物に生殺与奪の権を握られているという関係がある。社会的な上下関係がオールマイティではなくなることが示される。黒澤明の「七人の侍」では、侍たちと農民たちのそれぞれの集団間においてそのような関係性が見られる。この種のドラマにおいて、そのような不安定な関係にありながら、目的を成し遂げることが出来るのは相互の信頼感によるものである。但し、「七人の侍」には、その「信頼関係」は全く見られない。「ドレッサー」ではどうであったろうか。「良い舞台を」という目的意識だけが共有化していたのであり、そこには人間と人間の信頼関係があったとは思えない。では、この「英国王のスピーチ」においてジョージ6世とライオネル・ローグの間に信頼感はあったのだろうか?映画の中の後日談では終生、信頼し合っていたと語られるいるが、映画の中では、私は、そのような感じは受けなかった。本当はどうだったのであろうか?
2011年03月04日
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ついに、やっと、あるいはそれがどうしたというかアクセス数100万を突破。ブログ開始2575日目。1000001 2011-03-03 20:07:54 *.so-net.ne.jp 1000000 2011-03-03 20:07:22 ***.yahoo.net 999999 2011-03-03 20:04:27 *.home.ne.jp 途中で約5ヶ月のブランクがあったが、とにかく書き続けよう。
2011年03月04日
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ここに収められている作品には童話と共にカラーイラストがある。童話も素晴らしいのであるが、カラーイラストもずっと見つめていたいほどに素晴らしい。その中から二つ。「水色のエプロンの女の子」「眠りの精」前者の無邪気なまでの、これは世間のしきたりなどを無視したプロポーズには「感動的な」という言葉も陳腐になるほどのものみ満ちている。それは後者のあの静謐なひとときにもこめられている。この二つのイラストには共通したものが流れている。ラブレターを書く前に、愛する人と話す前に見るべき絵であると思う。
2011年03月03日
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100万アクセス到達へいよいよカウントダウン!999000 2011-03-02 02:31:59 ***.uqwimax.jp
2011年03月02日
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私は、この映画を好きになれない。よく出来ているだけに好きになれない。今日はそのことを書いてみる。この映画のクライマックスをどこに置くかであるが、王位継承時の宣誓が散々なものであった後の戴冠式での宣誓がスムーズであったことで終了でも良かったのではないか。そこがクライマックスで終幕でも十分に物語としての構成は良かったはずである。しかし、この映画は、その後の「戦争スピーチ」をクライマックスに持ってきた。相手がヒトラーであるということで見る者の批判ができにくい設定であるが、戦争を始める、多くの国民の生命を奪うかもしれない宣言が感動のクライマックスであるというこの無神経な演出に私は違和感を覚える。イギリスにとって戦争は勝利であったが、そこに悲劇はなかったのか?歴史的事実として映画に描くならば、そこには歴史に対する作家としての批評性があってもいいはず。そのようなものは全く感じられない。そもそもこの「戦争スピーチ」には全く感動できるものがない。この映画の製作者たちには全くその意図はないのであろうが、こうした作品が国威発揚や戦意高揚に利用される可能性は大きい。よく出来ているだけに、また善意の物語だけにこの作品が人々に容易に受け入れられると思う。だからこそあからさまなプロパガンダ映画より危険である。以上が私がこの映画を好きになれない理由である。
2011年03月02日
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最近はすっかり怪容貌コスプレ女優となってしまったヘレナ・ボナム=カーターが、今回はごく普通のメイクと衣装で登場しているではないか。彼女をはじめとしてこの作品の出演者たちはなかなかすごい。単に演技力があるというだけではなく、そこに怪演という個性が備わった俳優たちである。名優という以上に怪優というべき人々である。主役のコリン・ファース、ジェフリー・ラッシュ、デレク・ジャコビ、マイケル・ガンボンという面々は、まさに怪優である。そうした俳優たちの中に映画史を体現する女優クレア・ブルームが顔を見せる。こうした俳優たちによって生まれた作品「英国王のスピーチ」は決して変格とか一風変わった作風というものではなく、ある種の格調を感じさせる作品となっている。これがこの作品のすごい点であり、これらの俳優を見事にコントロールしたトム・フーパーの手腕の成果であろう。
2011年03月01日
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