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原田芳雄、岸部一徳、石橋蓮司、大楠道代といったベテランの芸達者たちが見事な演技合戦である。まるで掛け合い漫才のような丁々発止の会話がドタバタ調で展開する。「仁義なき戦い」シリーズで言うと「代理戦争」のような感じである。まさに嬉々として演じており、これは果たして演技なのかと思わせるものがある。そんな笑を誘うようなドタバタの会話劇の中で俳優たちが、ふと見せるなんとも言えない表情が非常に気になるのである。その名状しがたい表情にこの映画のテーマがあるのではないかと思う。この映画はセリフや動作の場面で見せるものではなく、俳優たちの表情こそが主役なのかも知れない。
2011年09月30日
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この映画を見ながら頭の中に浮かんだ、というか連想したのは小川紳介の「ニッポン国古屋敷村」であり、「1000年刻みの日時計」である。これらの小川作品と同様に実に豊かな作品である。また、小川作品がフィクションとノンフィクションの間をぬうように展開していったことを、阪本監督もチャレンジしているようだ。この作品は原田芳雄の念願の企画であったというが、おそらく彼の役者としての役者論であり、映画論でもあるのだろう。この映画は、ここに関わった人々の「8 1/2」であり、「映画に愛をこめて アメリカの夜」であるとも言えよう。とにかく素晴らしい!
2011年09月29日
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ジェームス・スチュワートは第二次大戦中は爆撃機のパイロットとして活躍し、大佐まで昇進したという経歴の持ち主。戦後復員したとき、映画会社は彼を主演の戦争映画を企画しようとしたが、「本物の戦争を見てきた人間が、戦争映画に出たいと思いますか?」と言って断ったという。フランク・キャプラもまた戦争によってショックを受けた。そんな二人によって創られた作品が「素晴らしき哉、人生!」であるとは納得である。この映画は時代が生んだ映画といえよう。もしかしたら、ジェームス・スチュワートはオーディー・マーフィーのように扱われるスターになったのかも知れないと思うと非常に複雑な思い。
2011年09月28日
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冒頭から「夜の大捜査線」や「華麗なる賭け」を彷彿とさせるアメリカン・ニューシネマ・テイストの画面。これらの作品に共通しているのは、ドキュメンタリータッチの画面の中でヒーローやヒロインを見事に格好良く描き出していることだ。それに大きく寄与したのが編集者としてのハル・アシュビーであることは言うまでもない。そのハル・アシュビーが、この作品では監督であり、ザ・ローリング・ストーンズのメンバーたちがいかに素敵なスターとして撮られているかは期待以上のものがある。コンサート会場を縦横無尽に動くキャメラが捉えたミック・ジャガーたちの姿、そして、それぞれのキャメラ位置から撮られた場面が切れ目なく繋がっていく様は、名編集者ハル・アシュビーの面目躍如である。これはコンサートのドキュメンタリーというより、ザ・ローリング・ストーンズを主人公にしたアクション映画と言ってもいいのではないか。
2011年09月27日
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24日は、「午前十時の映画祭」で「素晴らしき哉、人生!」を見た後に、ほとんど時間をおくことなく、「ザ・ローリング・ストーンズ レッツ・スペンド・ザ・ナイトトゥゲザー」を見たのである。つまりハシゴ観賞。一方はクラシックなモノクロの劇映画であり、もう一方は音楽ドキュメンタリーである。全く異質のものを続けて見たわけであるが、お互いにマイナスに作用することなく、どちらも印象深く心に刻まれている。優れた映画というものは、そういうものだと言ってしまえば、おしまいであるが、もしかしたら、この2作品の間には共通したものがあるのかも知れない。また、フランク・キャプラとハル・アシュビーとに共通点があるのかも知れない。ハル・アシュビーをフランク・キャプラの世界から探ってみるのも面白いのかもしれない。ハル・アシュビーはアメリカ映画の変革期に登場した作家であるが、「素晴らしき哉、人生!」もまた、終戦直後という時代の変革期に生まれた作品であることを考えれば、この2作品には共通する何かかがるのかも知れない。いろいろと考えさせてくれた映画体験であった。
2011年09月26日
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この映画はアメリカ映画の代名詞的存在であり、同時に黒澤やスピルバーグが敬愛する作品であり、またアメリカの大学の映画学部では教科書的な扱いを受けているという具合に最高の扱われ方をしている作品であるが、公開当時は興行的に惨敗で、フランク・キャプラ引退の遠因にもなった作品である。この作品で最も観客に衝撃を与えるのは、主人公ジョージ・ベイリーが生まれなかった世界を見せる場面である。この地獄巡りのようなシーンの異様な迫力は、おそらくキャプラの戦争体験が生み出したものであろう。人間はひとつ何かが違ってくると、このように変貌するという暗示である。だからこそ、ラストシーンの感動が強くなるのであるが、当時の戦争をくぐりぬけた観客には白けるものであったのかも知れない。
2011年09月25日
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二人の男が何やら準備をしている。そして、その二人が道を歩く若い女性を誘拐し、隠れ家のベッドに縛り付ける。ここまでをスピーディーに一気に見せる。セリフなどない。この無駄のない導入部で私はひきつけられ映画の世界に引き込まれる。この映画の登場人物は誘拐する男二人と誘拐された女性1名の3名のみ。これは主要人物が3名ということではなく、画面に登場するのが3名ということなのである。やがて、誘拐は突発的なものではなく、計画されたものであることが判ってくる。3名のそれぞれの関係もわかってきて、そこから計画の綻びが生じてくる。それがサスペンスを生み出す。登場人物が3名だけであるから、主軸となるストーリーのみに集中して無駄がない。101分という上映時間もちょうどいい。この映画、予想もしない傑作である。成功の要因は、3人の行動のひとつひとつが的確に描かれ、そこから次の展開へつなげていくシャープな編集と省略の見事さである。物語のテーマは「崩壊」である。何が崩壊するのかは実際に映画を見ていただくしかない。タイトルにある「失踪」は、原題も同じであるが、もしかしたら、「失踪」はラストから始まるのではなかろうか?エンドタイトルのデザインも見事であった。
2011年09月24日
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先日、「午前十時の映画祭」で「ザッツ・エンタテインメント」を見て思ったのであるが、数多くのMGMミュージカルの名場面を見ながら、なんと場違いにもスタンリー・キューブリックの作品を連想させた。構図などが、そっくりの場面があるのだ。題名は忘れたが、「シャイニング」を連想させる場面があったし、キャメラワークが、「2001年宇宙の旅」や「現金に体を張れ」にあったぞと思わせるものがあった。「恋愛準決勝戦」で、フレッド・アステアが、部屋の中で床から天井までを自由に歩き回るシーンは、「2001年宇宙の旅」の中で宇宙船でスチュワーデスが歩く場面で再現されていたではないか。この2作品の監督は共に「スタンリー」。キューブリックは、これらの作品群から何らかの影響を受けているのではなかろうか、とそんな想像をめぐらせることが出来たのも、この映画の楽しさであった。
2011年09月23日
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「バンド・ワゴン」という映画を初めて見た。これが、これほどに楽しい映画とは思わなかった。もちろん評価の高い映画であるとは知っていたが。この楽しい映画の一部と、たまたま同時期に見た「赤い靴」と重なる部分があって、それは何かというと芸の追及と個人的な人生における幸福の追求の選択のことである。「赤い靴」は極めてシリアスであり、残酷なお話しなのであるが、この「バンド・ワゴン」では全くそのようなことは感じさせない。選択の結果も、選択するにあたってのパートナーの態度が全く違うのである。もちろん、楽しいミュージカルという装いもある。きびしい状況を描いても、そこを洗練された楽しさで包んで観客をリードする技術が、特にMGMミュージカルでは優れていたのではないか。そうしたことが「思想的には深みはない」が、長年にわたり、多くの観客に映画の楽しさを提供したことには間違いない。
2011年09月22日
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アメリカ映画においてはミュージカルと共に戦争映画と西部劇は娯楽映画の定番であり、これらはアメリカ映画の最も得意とするジャンルとなった。戦争映画と西部劇が何故、活性化したのかというと、それは敵を描いてきたことである。この場合の敵はナチスであり、あるときは日本軍であり、また共産主義であり、インディアンと名付けられた先住民である。ただ、こうした敵の存在が常に有効かというと、そうではなく先住民に対する意識の変化は西部劇というジャンルを衰退させ、ナチスや共産主義が悪役であることも万能ではなくなってきた。現実の国、地域、あるいはイデオロギーを敵とみなすことが、世界を相手にしている映画ビジネスでは不具合となる場合が多く、そうなると取り扱いが安全な敵としてはエイリアンだけであろう。「スカイライン・征服」や「世界侵略・ロサンゼルス決戦」という映画は、そうした新たな取り扱いが安全で安心できる敵を設定した「新時代の戦争映画」というべきであろう。
2011年09月21日
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「赤い靴」はマイケル・パウエルとエメリック・ブレスバーガーの共同監督作品であるが、この作品について最も寄与し、存在感があるのは、撮影監督のジャック・カーディフであろう。ジャック・カーディフといえば、監督としても活躍しており、メジャー作品も手がけている。そのひとつ、1968年の「あの胸にもういちど」は、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの小説「オートバイ」を当時流行のサイケ調の斬新なタッチで描いた作品でキャメラマンとしてのジャック・カーディフのセンスが随所に光っている傑作であった。アラン・ドロン主演で売り込んだはずが、いつの間にか、これはマリアンヌ・フェイスフル主演作として語られるようになった作品である。この映画でヒロイン、レベッカが乗るハーレーとペイジが履く赤い靴とは同じ意味を持つのではなかろうか。彼女らがめざすところへと連れていってくれるもの。それがレベッカにとってはハーレーであり、ペイジにとっては赤い靴であったわけだ。そして、ラストも共通している。「あの胸にもういちど」はジャック・カーディフ監督による「赤い靴」なのではなかろうか。
2011年09月20日
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この映画のジャンルをどのように言うべきであろうか。地球を攻撃する宇宙人との戦闘を描いた内容であるから、SF映画としてもおかしくはないが、実際にこの映画を見ても、SF映画とはとても言い難い。SF映画に必要なセンス・オブ・ワンダーは全くなく、内容としても宇宙人との戦闘である必然性は全くない。これは、凶悪なアパッチ(敢えてこのような表現をとらせていただく)に包囲された開拓民を救出する騎兵隊であっても、ナチスドイツ軍から友軍を援助する為に出向いた小隊であってもいいわけだ。もちろん、最近のアフガニスタンやイラクを舞台にしてもこの映画は成立する。そのように考えると、この映画は例えば、かっての人気テレビシリーズ「コンバット」が、SF映画のスタイルをパッケージにして再登場したということだろう。
2011年09月19日
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ナタリー・ポートマンがアカデミー主演女優賞を獲得した「ブラック・スワン」のDVDが発売され、そのほとんど同時期に長崎では「第8回浜んまち映画祭」の9月上映作品として「赤い靴」が登場。まさに「黒と赤の対決」なのであるが、これは断然、赤、つまり「赤い靴」の勝利であろう。途中の15分にもわたる「赤い靴」のバレエシーンが素晴らしく、この場面だけでも一見の価値である。このシーンが、この物語のすべてを語っており、また、魅力でもある。色彩の鮮烈さは期待通りで、それは色自体の力というより色とそこにある光との調和が画面の中の色彩の魅力である。「スタジオこそ、本当に自分たちが発揮すべき心理的演技を引き出せる場」とは撮影監督のジャック・カーディフの言葉であるが、俳優の演技と作品の外観である色彩効果が見事に発揮された作品といえよう。
2011年09月18日
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「気になる映画」であったが、その予感は的中。冒頭の木洩れ陽に覆われた森の中の情景が例えようもなく美しく、このファーストシーンで映画の世界にひきつけられる。その画面のタッチが、この映画の世界や展開のタッチを示しており、それは寸分の狂いもなく、描かれ、展開していく。映像美とは、この映画の為にあるようなもので、その情景が主人公の少年の孤独感や不安感をそのまま反映している。この作品は主人公の少年ユスフの成長を描く3部作の完結編だという。是非、最初の2作品も見たい。
2011年09月17日
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福島原発事故から6ヶ月を迎えました。鎌田慧さんや大江健三郎さん、落合恵子さん、坂本龍一さんなど9人が呼びかける「さようなら原発1000万人アクション」に呼応して、被爆県・ナガサキでも下記の通りアクションを行います。 すでに県内16万人を目標に「1000万」署名もスタートしています。多くの皆様の参加を呼びかけます。詳細およびチラシ等は下記URLをご覧ください。 【さよなら原発ナガサキアクション】2011年9月19日(月)13:30~16:00長崎市「松ヶ枝埠ふ頭緑地」【プログラム】13:30 開会(司会) 西岡由香13:37 [LIVE] HOROYAKAN 13:49 [TALK] 川野浩一(被爆者の立場から)13:56 [LIVE] インディアンズ(幸崎たいら&小田勝也)14:08 [TALK] 藤田祐幸(専門家の立場から)14:20 [インタビュー&オープンマイク]14:39 [TALK] 牟田純子(行動のよびかけ)14:46 [LIVE] RIKI14:58 パレードの説明15:10 パレード出発(~大波止~県警横~鉄橋~旧大丸前 ~観光通り~賑橋~中央公園)*************************************** さようなら原発1000万人アクション・ナガサキ 〒850-0031 長崎市桜町9-6 URL:http://nonukes-nagasaki.com/****************************************
2011年09月16日
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「ザッツ・エンタテインメント」で判るようにMGMが製作したミュージカルは、まさに夢の世界の物語であり、それは観客にとって現実からの逃避であった。ヒーローとヒロインが活躍する物語はジャンルを問わず、逃避の役割を果たしており、ミュージカルに限ったことではないのであるが、生身の人間のドラマの中に歌や踊りを入れる構成は、まさにありえない夢物語であり、現実逃避ドラマとしては最適の形態であったわけだ。こうしたことを考えると「ウエストサイド物語」がいかに革新的なミュージカルであったかよく判る。日本映画で「仁義なき戦い」が任侠映画とプログラム・ピクチャーを壊滅させたように、この「ウエストサイド物語」は夢のミュージカル映画を壊滅させたのではなかろうか。また、その数年後に登場する「キャメロット」も、理想郷崩壊の物語を重厚な画面が、重苦しい展開となり、夢のようなミュージカルとはならなかった。「キャメロット」は、アメリカン・ニューシネマ誕生の時期であり、ミュージカルというジャンルもまた、その時代の波にもまれたわけである。
2011年09月15日
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MGM創立50周年を記念して製作されたMGMミュージカルの名場面集。ミュージカル映画の楽しさが判る実に楽しい作品であるが、同時にMGMという映画会社の厚み、すごさが伝わってくる。ミュージカル映画というジャンルは日本映画にはない。そしてハリウッドでもこのジャンルは、ほとんど絶滅状態である。しかし、かって、これだけの作品群が存在し、しかも、それらが多くの観客たちをひきつけたという事実そのものに圧倒される。これはもしかしたら映画史の奇跡なのかもしれない。
2011年09月14日
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鉢呂氏は批判されても仕方がないし、あの発言を擁護する気はないが、辞任するほどのことか。政策に失敗したわけではない。失言である。そもそも完全無欠の人などいないし、政治家にそれを求めること自体がおかしい。失言をしたなら、謝って、それをカバーする気持ちで仕事をすればいいのではないか。その仕事で失敗したら、辞任すればいいのである。失言をヒステリックに責め立てる風潮は、この国の政治、この国自体を貶めているのではないか。任命責任と言うが、そんな人物を選んだ選挙民には責任はないのか?
2011年09月13日
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記録として1080000 2011-09-12 21:05:58 ***.yahoo.net
2011年09月12日
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人間とバンパネラとの恋は、例えるならば、モンターギュ家とキャプレット家との恋のようなもの。この映画の中でオーウェンが学校で「ロミオとジュリエット」の映画を見る場面は、この映画「モールス」の象徴的な場面である。しかも、映し出されるのは、夜明けに恋人たちが別れる場面。夜明けに別れざるを得ないのは人間とバンパネラの恋人たちの宿命である。実に象徴的な場面である。連想される映画としては「扉をたたく人」もある。リチャード・ジェンキンスが重要な役で出演しているからではないが、「扉をたたく人」の原題が「The Visitor」であり、この「モールス」の原題が「Let Me In」であることと通じるものがあり、よくよく考えると、内容も禁じられた相手との恋であることを考えると、「モールス」と「扉をたたく人」とは内容としても通じるものがる。バンパネラの物語は、旅の物語であり、また、これは決して恐怖の物語ではなく、癒すことの出来ない孤独感の物語である。
2011年09月12日
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我々は、節目となる「記念日」というものに、よほど関心があるのであろう。関心というより好きなのではなかろうか。戦後50年、被爆50年、太平洋戦争開戦70年など節目の記念年が、このところ毎年のごとく押し寄せている。イベントのごとく、そのような節目をせずとも、その出来事から起きた状況は、常に我々に問われているはずであるが、このような節目をイベントのごとく設定するのは、怠慢な我々への「強制的なふりかえり」なのかもしれない。それにしても、今年の9月11日は、アメリカ同時多発テロから10周年であり、東日本大震災から半年という出来すぎなくらいである。亡くなられた方々へご冥福をお祈りすることと同時にこれらの出来事が社会をどのように変えていくのかが、実は極めて大事であり、そのことに対しては、我々はまだ打ち手があるのである。
2011年09月11日
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捕虜になった女性兵士ミーナを護送するアーロは、裁判所のエーミル判事に希望を持っていた。人文主義者としての彼なら捕虜に対して公正で寛大な判決を下すのではないかという期待である。しかし、そのエーミル判事は、タカ派の、あるいは根っから軍人などとは比較にならないくらいの怪物的な人物であった。戦争という状況の中で知性など、軽く吹っ飛ぶという残酷な事実を描いたということであろう。
2011年09月10日
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「チェルノブイリ・ハート」を見ながら、同じくドキュメンタリー映画「ダーウィンの悪夢」を思い出した。どちらも人間の欲望の為、経済的利益の為に一部の人々にそのしわ寄せが行く、しわ寄せなどという大人しい表現ではだめで、これは命の危機、命を失う事態に追い込まれるというもの。こうした犠牲者のことを全く考えることなく、ものごとが進んでいく、そして、それを止める人がいないという恐ろしさ。「チェルノブイリ・ハート」は非常に悲しく、絶望的になる映画であるが、現代に生きている者としては必見。長崎セントラル劇場では本日(9日)まで。
2011年09月09日
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ロバート・ワイズという監督をどのように評価すれば、いいのだろうか?「ウエストサイド物語」と「サウンド・オブ・ミュージック」によってミュージカル映画の巨匠と呼ぶこともあるが、これは正しいのか?「ウエストサイド物語」の魅力は、ジェローム・ロビンスの力によるものではなかろうか?その彼が不在の「サウンド・オブ・ミュージック」はミュージカル映画としては合格ラインギリギリのレベルである。続いてジュリー・アンドリュースと組んだ「スター!」は、ミュージカルというより映画としての魅力も全くない凡庸以下の作品であった。このように書くとロバート・ワイズを大嫌いなのかと思われそうであるが、そうではない、むしろ好きな作家である。良心的な社会派であり、リアリズム重視の作家でありながら、SF的な作品にも果敢にチャレンジする姿勢が非常に好きな作家であった。「ウエストサイド物語」と「サウンド・オブ・ミュージック」の間に撮って、あまり話題になっていない「たたり」や「スター!」の後の「アンドロメダ・・・」、そして晩年の「オードリー・ローズ」や「スタートレック」に彼の最も得意なジャンルではなかろうかと思うのである。
2011年09月08日
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「サウンド・オブ・ミュージック」を見て、非常に気になることがある。トラップ一家は、無事に脱出できて、その後のことはご存知の通りである。男爵夫人、マックス、そして電報配達のロルフは、ナチスの時代をいかに過ごし、どのように戦後を迎えたのだろうか?
2011年09月07日
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この作品はロバート・ワイズ・プロダクションの作品であるから、彼自身の意思は反映されているはずである。この作品が、どのようにしてロバート・ワイズ監督作品として実現したのか、その経緯を知りたいところである。これは持ち込み企画で、彼が監督をするようになったのか、あるいは彼自身がこの映画化に積極的であったのか。この映画の良さは、展開の滑らかさである。編集は大ベテランのウィリアム・レイノルズであるが、かっては名編集者として「市民ケーン」を手がけたロバート・ワイズの力も寄与しているのであろう。結婚式のシーンから幸福な音色の鐘の音を積み重ねて、それが次第に荘重な重い鐘の音となって、ザルツブルクを行進するナチの軍隊が描かれるまでの流れは見事である。この映画は、ミュージカル作品としては不合格スレスレながらも、ロバート・ワイズらしい演出が冴えるのは、一家が国外脱出を決意してからの終盤の展開である。それまでの明るく軽快な展開から夜間撮影を主体としてサスペンスフルな画面の連続となる。もしかしたら、この映画でロバート・ワイズらしい演出が発揮されるのは、この終盤だけなのかも知れない。それでも全編にわたって楽しめるのはロバート・ワイズをはじめとする職人的映画術によるものであろう。
2011年09月06日
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昨年、秋に「午前十時の映画祭」で「ウエストサイド物語」を見たので、今回は、それを参考にしながら観賞。冒頭のアルプスの山頂からキャメラがずっと降下して緑の草原を歩くジュリー・アンドリュースを捉えるまでは、明らかに「ウエストサイド物語」のファーストシーンの繰り返しである。そこからジュリー・アンドリュースが主題歌を歌い、修道院に慌てて戻るまでは、ワンシーン・ワンカットだと思っていたら、違うのですね。それでも編集があまりに滑らかで、そうだと言われても信じてしまいそうだ。修道女たちがマリアを、どのように扱うべきかを歌う「マリア」は、「ウエストサイド物語」の「アメリカ」のような掛け合いの面白さをねらったのかもしれないが、修道女たちではあのようなダイナミックな動きはできない。この作品をロバート・ワイズが、どのような意図で製作したのかは判らないが、「ウエストサイド物語」からは格段にレベルダウンである。その最大の要因は、ジェローム・ロビンスの不在というより。登場人物たちに対立軸がないことである。強いて言えば、ナチのオーストリア併合前夜ということで親ナチ派と反ナチ派の対立があるが、さほど大きな効果は生んでいない。ミュージカルとして歌はいいのであるが、踊りについては、ほとんど魅力的なものはない。それでも、この映画が観客をひきつける力を持っているとすれば、ジュリー・アンドリュースと七人の子供たち、そして舞台となっているオーストリア、ザルツブルクの美しい風景の力である。様々な欠陥がありながらも、やはりまた見ようと思わせる不思議な、奇跡的な映画である。
2011年09月05日
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この作品の原題は「掟」とか「命令」という意味であるという。このことを知って、この映画を見ると、この物語が持つ複雑さとどのように展開するのか判らないその一種の無軌道さが、実は意図的なものであることが判る。フィンランド内戦という日本人にはなじみのない悲劇的な出来事が背景になっているが、捕虜となった女性兵士、彼女を護送する兵士、そして彼女の裁判を行う判事という3人の物語は、戦火の中の敵兵士との愛というドラマから異様な予想外の展開を示しながら、人間の本質的タイプの物語として描かれる。「掟」とか「命令」というものが人間をどのように変えていくのか、あるいはそれとどのように向き合っていくのかを描いた極めて身近な物語である。
2011年09月04日
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生まれ育った故郷に永久に住めなくなる、それがなくなるということはどのようなことだろうか?何の落ち度もないのに、故郷を追われ、永久に住めなくなるとはどういうことなのか。それだけではない、生まれながらにして、あるいは突然の永久に治ることのない病になる。まさに理不尽である。そのような理不尽が、未だに改善され、そこにいる人々が救われる見込みはない。科学技術への盲信が、いつか人々に災いをもたらすとはよく言われるが、その対象が、どうしてあの子どもたちであり、村人なのだ?これはチェルノブイリだけのことではない。日本でも起きて、あるいはこれから起きることである。
2011年09月03日
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テロを決行しようとするマイケルランダーを演じるブルース・ダーンは好演で、おそらく彼の代表作になるのではないか。マイケル・ダーンは国家に対する恨みを持っており、このテロはアメリカという国家に対する復讐の意味もある。ベトナムで捕虜になり、大変な苦痛を強いられてきたにも関わらず、帰国後の状況について、決して恵まれたものではない、その有様もきちんと細かく描かれる。この映画「ブラック・サンデー」はダイナミックな演出が見所であるが、実はマイケル・ランダーについての繊細な描写が説得力を与えている。テロ決行直前、スーパー・ボウルの競技場に流れるアメリカ国歌を聴き、彼が一瞬ビクリとして、ひるんだような表情を見せる場面があり、そこが印象に残る。これはブルース・ダーンの演技力でもあるのだが、フランケンハイマーの演出力にも注目したい。非アクション映画の「さすらいの大空」が傑作なことでも、それは証明された。
2011年09月02日
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このところブログのアクセス数が低水準で推移している。このことは、楽天ブログからトラックバック機能がなくなり、また、最近、タグもなくなったが、こうした外とのリンク機能がなくなったことと関係ありそうだ。他の方々はどうなのだろうか?
2011年09月01日
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