《櫻井ジャーナル》

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2017.12.31
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カテゴリ: カテゴリ未分類
2018年は日本人にとって重要な年になりそうだ。政治家、官僚、大企業経営者など日本の管理を任されている人々が従属している相手、つまり日本を動かしている権力はアメリカに存在しているのだが、そのアメリカの支配システムが揺らいでいるからである。

アメリカに存在する権力が日本を動かしているということは、日本の庶民が国のあり方を決める権利を持っていないことを意味する。つまり日本を民主主義国家だということはできない。

安倍晋三政権と対立した前川喜平前文科省次官によると、「権力のために奉仕しなければ、理財局長も地位危ない」という。政治家が権力を握っていないことは、小沢一郎がひねり潰され、鳩山由紀夫が総理大臣の座から引きずり下ろされたことからも明らかだが、このふたりを攻撃した検察やマスコミが権力だということもできない。これらを動かしているものが権力なのだろう。

かつて、日本には田中角栄という絶大な力を持つと思われた政治家がいた。その田中はリチャード・ニクソン米大統領が中国を訪れた7カ月後、1972年9月に中国を訪問した。日中両政府は戦争状態の終結と国交正常化を柱とする共同声明を発表、1978年8月には日中平和友好条約が締結されている。

この時、両国の間には問題が横たわっていた。尖閣列島の領有権問題だ。日本の外交記録によると、当時、田中は周恩来に対し、「尖閣諸島についてどう思うか?私のところに、いろいろ言ってくる人がいる。」と質問、それに対して「今回は話したくない。今、これを話すのはよくない」と周は答えたという。

また、官房長官だった二階堂進は「この問題について、今後ゆっくり解決しましょう、ということで双方が合意した」と明言、「田中首相は会談の最後に『尖閣列島の共同開発をやりましょう』」と提案していたとしている。また外務省条約課長だった栗山尚一は尖閣列島の問題が引きずり出された後、日中「両首脳の間で棚上げの暗黙の了解があった」とした上で、「72年の暗黙の了解が、78年にもう一度確認された」と語っている。

こうした動きの中、田中角栄の周辺が騒がしくなる。その幕開けは「文藝春秋」誌の1974年11月号に掲載された立花隆の「田中角栄研究」と児玉隆也の「淋しき越山会の女王」だ。その2年後、1976年2月にアメリカ上院の多国籍企業小委員会で明るみ出たロッキード社による国際的な買収事件で田中の名前が浮上し、その年の7月には受託収賄などの疑いで逮捕される。事件が発覚する切っ掛けは小委員会へ送られてきた資料だった。

田中が逮捕される前、アメリカで発行されていた高額の購読料をとるニュースレターに田中の逮捕が決まったとする記事が載り、それを某財界人から知らされたジャーナリストが目白の田中邸を訪れて取材したという。その際、田中は検察も警察も押されているから大丈夫だと楽観していたというが、実際は逮捕された。

このロッキードによる賄賂工作の暴露はジョン・マックロイの調査から始まっている。アンゴラで革命が起こった後、アメリカ支配層は「制裁」に出るのだが、それを無視する形でガルフ石油はビジネスを継続しようとし、それに怒った支配層の意向でマックロイは動いたと言われている。その延長線上にロッキード事件もあるというのだ。



例えば、大戦後に収監されていた元ドイツ国立銀行総裁、ヒャルマール・シャハトを助け出したのもマックロイ。シャハトの義理の息子で元ナチス高官のオットー・スコルツェニーも収監されたが、シャハトのアドバイスに従ってアメリカと協力関係に入った。

このスコルツェニーは拘留される前にナチスの高官仲間をアルゼンチンへ逃がすために秘密組織ディ・シュピンネ(蜘蛛)を設立していたが、自由の身になった後の1948年には同じ目的でODESSAを創設している。

ロッキード社は何人ものエージェントを抱えていたが、児玉誉士夫の10倍以上の報酬を得ていた人物がサウジアラビア人のアドナン・カショーギ。ロッキード事件で名前が出てきたほか、1980年代にはBCCI事件でも登場する。この銀行の大株主だったカマル・アダムはサウジアラビアの情報機関、総合情報庁の長官だった人物で、カショーギの友人で仕事上の仲間でもあった。

BCCIはCIAの銀行のひとつで、主にアフガニスタンでの工作で使われていた。その秘密工作の中心にいたのがズビグネフ・ブレジンスキーで、サウジアラビア、イスラエル、パキスタンなども協力していた。この辺の話は本ブログで何度も書いてきたので、今回は割愛する。

ロッキード事件の背後では、少なくともウォール街、CIA、ナチス、サウジアラビアが蠢いている。本ブログでは何度か説明したが、CIAはウォール街が作り上げた機関。ナチスにはウォール街から資金が流れていた。そうした資金パイプのひとつを動かしていたのがジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたるジョージ・ハーバート・ウォーカー。勿論、ブッシュのHはハーバート、Wはウォーカーのイニシャルだ。

田中角栄に対するバッシングが始まった1974年にはアメリカでも大きな出来事があった。この年の8月にニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任、副大統領から大統領に昇格したジェラルド・フォードはニクソンが進めようとしたデタント(緊張緩和)を止め、デタント派の粛清を行っている。

その黒幕とされている人物は金融界出身のポール・ニッツェや元トロツキストでシカゴ大学の教授だったアルバート・ウールステッター。ポール・ウォルフォウィッツはウールステッターの教え子のひとりで、フォード政権で始動したCIAの反ソ連プロパガンダ機関、チームB(Bチームとも呼ばれる)の一員になっている。

チームBはニクソン政権で設置されていたが、動いていなかった。1976年1月にCIA長官がウィリアム・コルビーからジョージ・H・W・ブッシュへ交代したことが大きい。その前年、1975年11月には国防長官がジェームズ・シュレシンジャーからドナルド・ラムズフェルドへ入れ替えられた。ラムズフェルドが務めていた大統領主席補佐官の穴を埋めたのがリチャード・チェイニーである。

こうした人事を含む粛清は「ハロウィーンの虐殺」と呼ばれている。これは事実だが、その事実を屁理屈をこねて否定しようとする人がいるのは滑稽だ。

1970年代の半ばにアメリカと日本では中国との友好関係を築いたふたりの首脳が失脚したことになる。フォードは1976年の大統領選挙でジミー・カーターに敗れるが、このカーターに目をかけてホワイトハウスへ導いたのがデイビッド・ロックフェラーとズビグネフ・ブレジンスキー。

カーター政権で安全保障補佐官を務めたブレジンスキーはソ連をターゲットにした秘密工作をアフガニスタンで始める。1978年にCIAとイランの情報機関SAVAKはエージェントをアフガニスタンへ派遣させ、軍内部の左派将校を排除して左翼政党を弾圧するように工作し(Diego Cordovez and Selig S. Harrison, “Out of Afghanistan”, Oxford University Press, 1995)、翌年の4月にはNSC(国家安全保障会議)でアフガニスタンの「未熟な抵抗グループ」に対する同情を訴え、CIAはゲリラへの支援プログラムを開始した。



カーター大統領はイスラエル一辺倒の人物ではなかったことからネオコン/シオニストに嫌われ、1980年の選挙でロナルド・レーガンに負けてしまう。1982年12月にアメリカは戦術弾道ミサイルのパーシングIIをヨーロッパに配備してソ連を刺激、その直後の1983年1月に中曽根康弘首相はアメリカを訪問した。

その際、ワシントン・ポスト紙のインタビューで中曽根は日本を「巨大空母」と表現した。首相は日本をアメリカの「不沈空母」だと表現したと報道され、これを誤訳だと騒いだ人もいるが、本質的な差はない。

ワシントン・ポスト紙によると、中曽根首相は「日本列島をソ連の爆撃機の侵入を防ぐ巨大な防衛のとりでを備えた不沈空母とすべきだ」と発言、さらに「日本列島にある4つの海峡を全面的かつ完全に支配」し、「ソ連の潜水艦および海軍艦艇に海峡を通過させない」と語る。

この挑発的な発言から3カ月後、つまり1983年の4月から5月にかけて、アメリカ海軍は千島列島エトロフ島の沖で大艦隊演習「フリーテックス83」を実施する。この演習には3空母、つまりエンタープライズ、ミッドウェー、コーラル・シーを中心とする機動部隊群が参加、演習では空母を飛び立った艦載機がエトロフ島に仮想攻撃をしかけ、志発島の上空に侵入して対地攻撃訓練を繰り返し、米ソ両軍は一触即発の状態になったのだが、この演習を日本のマスコミは無視した。(田中賀朗著『大韓航空007便事件の真相』三一書房、1997年)

そして同年8月31日から9月1日にかけて、大韓航空007便がソ連の領空を侵犯、アラスカの「緩衝空域」と「飛行禁止空域」を横切り、ソ連軍の重要基地の上を飛行した末に、サハリン沖で撃墜されたと言われている。



そのソ連は1991年12月に消滅、アメリカが唯一の超大国になったと考えたネオコンが翌年の2月に世界制覇プランを作成したことは本ブログで何度も説明してきた通り。

そのプラン作成を受け、日本では1994年8月に細川護煕政権の「防衛問題懇談会」が「日本の安全保障と防衛力のあり方(樋口レポート)」を作成するが、自分たちの意図するものと違って国連中心主義だったことにネオコンは怒り、95年2月にジョセフ・ナイ国防次官補が「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」を作成した。その後、日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていく。この戦争マシーンは侵略を目的としている。

ウォルフォウィッツ・ドクトリンから20年以上が経過した。アメリカ支配層の内紛も影響して安倍晋三政権は揺らいでるが、それでも総仕上げにかかっていることは確かだろう。その20年間、日本の「左翼」や「リベラル派」はおとなしく、「反戦運動」が盛り上がらなかったことも確かだ。





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最終更新日  2018.01.01 02:00:06


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