中曽根康弘が内閣総理大臣だった1985年8月12日、日本航空123便が群馬県南西部の山岳地帯に墜落して乗員乗客524名のうち520名が死亡した。その10年後、1995年8月27日付けのスターズ・アンド・ストライプ紙は、この墜落に関する詳細な記事を掲載した。
その記事によると、123便の異常に気づいたC130のクルーは横田基地の管制から許可を受けた上で日航機へ接近を図り、墜落した詳しい場所を19時20分に報告している。運輸省に捜索本部が設置されたのはそれから25分後の19時45分であり、アメリカ軍が通報していたなら、日本政府は捜索を始めた時点で日航機の墜落地点を正確に把握していたはずだ。
輸送機からの報告を受け、厚木基地からアメリカ海兵隊の救援チームがヘリコプターで現地へ向かい、20時50分には現地へ到着、隊員を地上に降ろそうとするのだが、このときに基地から全員がすぐに引き上げるように命令されたという。日本の救援機が現地に急行しているので大丈夫だということだった。
遠くに航空機が現れたことを21時20分に確認したC130のクルーは現場を離れたが、日本の捜索隊が実際に墜落現場に到着したとされているのは翌日の8時半になってからだ。
その墜落があった頃、日本航空の株価は大きく値上がりしていた。2000円台で推移していたものが1984年から急に高くなり、事故の直前には8000円を突破していたのである。兜町では「中曽根銘柄」だと言われていた。田中角栄が脳梗塞で倒れたのはその翌年だ。
某大手証券の事情に詳しい人の話によると、株価を10倍にした上で700万株の時価発行増資を行うというシナリオが生きているので、墜落事故で相場が終わることはないということだった。実際、事故で5000円を切るまで急落した株価は10月あたりから再び急騰、1987年には2万円を突破している。
中曽根政権が進めていた私有化の一環として日本航空を1987年に「完全民営化」することになっていた。つまり株式を市場へ放出するのだが、その翌年に700万株の時価発行増資を行うというシナリオになっていたという。そのための株価操作だったとも言えるだろう。
その一方、日本航空は超長期のドル先物予約をしている。ドルを買う契約をしたのだが、円高が確実視されていたことから為替取引のプロたちは「クレージー」と言っていた。損が発生することは間違いないからだ。利益を得るのは金融機関。その代償が株価を引き上げてからの時価発行増資だと考えるのが常識的だろう。