《櫻井ジャーナル》

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

サイド自由欄

寄付/カンパのお願い

巣鴨信用金庫
店番号:002(大塚支店)
預金種目:普通
口座番号:0002105
口座名:櫻井春彦

2022.10.16
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類

 言うまでもないことだが、アメリカ/NATOとロシアは戦争状態にある。そうした中、10月17日から30日にかけて​ NATOはロシアとの核戦争を想定した軍事演習「ステッドファスト・ヌーン」をロシアから1000キロメートルの地点で実施

 ジョー・バイデンはアメリカ大統領に就任して以来、ロシアに対して経済戦争や軍事的な挑発を続け、イェンス・ストルテンベルグNATO事務総長もバイデンと同じようにロシアのウラジミル・プーチン政権を恫喝してきた。

 9月5日にイギリスの総理大臣となったリズ・トラスはボリス・ジョンソン政権で外務大臣を務めたが、その際、思慮深いとは到底思えない発言をしていた。たとえば今年2月2日にバルト諸国の地理的な位置を勘違い、モスクワでロシアのセルゲイ・ラブロフ外相と会談した2月10日にはロシア側に対し、ロシア領のボロネジやロストフからロシア軍は撤退しろと脅している。8月23日にバーミンガムで開かれた選挙イベントで地球が破滅させる核戦争について問われ、彼女はボタンを押す準備はできていると答えている。

 元SACEUR(NATO欧州連合軍最高司令官)のフィリップ・ブリードラブ米空軍大将は今年4月、核戦争への恐怖がプーチンに対する適切な対応を西側はとれないのだと主張している。この段階でウクライナの軍や内務省に親衛隊は壊滅が不可避の状態だった。その後、ウクライナの戦闘はNATOが前面に出てくる。

 10月17日に始まる核戦争演習にはNATO加盟国のうち14カ国が参加、そこにはドイツも含まれている。同じ暗号名の演習は2020年にドイツのネルフェニッヒ基地で行われている。その際、核兵器を地下の保管施設から移動させる訓練も行った。アメリカ軍はこの基地をB61(水素爆弾)を保管する施設として使っているとも言われている。

 第2次世界大戦中、各国で核兵器の研究開発が進められたが、連合国側ではイギリスが最も積極的だったと言われている。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてプロジェクトが始まり、MAUD委員会なるものが設立されている。

 この委員会のマーク・オリファントがアメリカへ派遣されてアーネスト・ローレンスと会ったのは1941年8月。そしてアメリカの学者も原子爆弾の可能性に興味を持つようになったと言われている。この年の10月にルーズベルト大統領は原子爆弾の開発を許可、イギリスとの共同開発が始まった。日本軍が真珠湾を奇襲攻撃する2カ月前のことだ。

 1943年には核兵器用のウランとプルトニウムを製造するため、テネシー州オーク・リッジに4施設が建設され、そのひとつはオーク・リッジ国立研究所へと発展した。ワシントン州に建設されたハンフォード・サイトではプルトニウムを製造するため、1944年9月にB原子炉が作られている。

 こうして「マンハッタン計画」が始まったが、その計画を統括していた陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)

 マンハッタン計画が本格化した頃、すでにドイツ軍の主力がスターリングラードでソ連軍に降伏、独ソ戦の勝敗は決していた。この段階で日本の命運は決していたとも言える。つまり核兵器の開発がドイツや日本を想定したものでなかったことは間違いないだろう。

 大戦中、イギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連を敵視していた。ドイツ軍がソ連へ攻め込んだときに傍観したのはそのためだ。ドイツが降伏した直後、チャーチルがソ連に対する奇襲攻撃「アンシンカブル」を作成したことは本ブログで繰り返し書いてきた。こうした作戦に反対したであろうアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はドイツが降伏する前の月に急死している。ルーズベルトの死後、ワシントンでは親ファシストのウォール街が権力を奪還していた。

 1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告ではソ連の70都市へ133発の原爆を落とす(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)という内容が盛り込まれ、この戦争を戦うために特殊部隊のグリーン・ベレーが創設されている。(クリストファー・シンプソン著、松尾弌訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信社、1994年)核攻撃後に特殊部隊がCIAや現地で地下に潜っていた味方のグループとともに政府を樹立、新しい政治経済システムを作り上げることになったのだ。(L. Fletcher Prouty, “JFK”, Carol Publishing, 1992)

 1952年11月にアメリカは水爆実験に成功、核分裂反応を利用した原子爆弾から核融合反応を利用した水素爆弾に核兵器の主役は移っていくが、核兵器を使うには運搬手段が必要。この当時、原爆の輸送手段は爆撃機で、その任務を負っていたのがSAC(戦略空軍総司令部)である。

 1948年から57年まで司令官を務めたのがカーティス・ルメイ中将。このルメイが指揮するSACは1954年、600から750発の核爆弾を投下してソ連を破壊し、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成した。この年の終わりにはヨーロッパへ核兵器を配備している。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 ターゲットはソ連の都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、そして中国の北京が含まれている。

 中国を核攻撃するための出撃拠点は日本や沖縄になる可能性が高い。その沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収され、軍事基地化が推し進められていた。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵が動員された暴力的な土地接収で、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっている。

 1957年の初頭、アメリカ軍はソ連への核攻撃を想定したドロップショット作戦を作成。300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていたという。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

 この当時、アメリカの好戦派は核戦争になってもワンサイド・ゲームで勝てると考えていたが、それでもアメリカ政府は避難のためにトンネル網を張り巡らせている。なかでも有名なものは、アメリカ東海岸にあるアレゲーニー山脈(アパラチア山系の一部)につくられたグリーンブライア・バンカーだ。

 高級ホテルとして有名なグリーンブライアの下につくられた「地下司令部」で、大統領や有力議員が生活できるようになっている。1959年に国防総省が中心になって着工、62年に完成。この工事をカモフラージュする意味もあり、同じ時期にホテルは「ウエスト・バージニア・ウィング」を建設している。この施設の存在は1992年、ワシントンポスト紙のテッド・ガップ記者が明るみに出している。

 つまり、アメリカやイギリスを支配する私的権力は核兵器を手にした直後からソ連(ロシア)や中国を核攻撃する計画を立てていた。その延長線上に「ステッドファスト・ヌーン」もある。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022.10.16 00:00:11


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: