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11月1日より兵庫地域にボランティアに行くことにしていたのだが、今回いざいくと決めて動き始めると、これがなかなか勉強になった。僕の場合は、先方の方々と連絡を取りながらの参加であったのでことがスムーズに運んでいるが、大規模災害の場合は、個人でのボランティア参加は非常に難しいのが事実である。支援地域は日々刻々と変化しているし、今日救援が必要であったところが、明日は必要でなくなるし、昨日まではボランティアはまだ不必要としていたところが、今日はお願いしますという具合だ。中にはボランティアに参加していながら、宿の手配を要求したり、自分の食事を求めたりと、何の為にボランティアに参加したのかわからない人たちもいるようである。「何でもします!」というより、「自分にはこれができます!」という人のほうが役に立つというのも納得できる。ボランティアに行ったはいいが、指示を受けなければ何をしていいかわからないという集団ができると、受け入れ側は非常に困るのである。かと言って、好意で自費で参加しようという「善意の人達」をむげに扱うわけにも行かないし。これが非常に難しいところのようだ。それならば、ボランティアにかかる費用を、義援金という形で寄付してもらったほうがよっぽど現地の人にとってはいいということになる。金だけ渡して、何もしないという、日本の政治とは少し意味合いが違うが、ボランティアの現状というのは、実際の支援活動と、善意の行為との差というものもしっかり考えた上で行動しなければかえって迷惑をかける事になりかねない。今回そういった状況も踏まえて、新幹線で行くところを急遽変更して自動車で現地に向かうことにした。何時間かかるかわからないが、車で参加してテントや飯ごうなど、「野宿でも結構、どこにでも移動します」というようにしていれば、先方にも負担がかからないからである。さて、その結果はどうなることだろうか。またご報告いたします。
Oct 29, 2004
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11月1日から5日間ほどではあるが、兵庫県豊中市に台風の被害に遭われた方々の、復旧支援の為のボランティアにいくことに決めた。最初は一人ででも行こうと思っていたのであるが、うちの社長に「有休お願いします。どうしても黙っておれません。兵庫の災害ボランティアに、受け皿ができましたので、自費で行ってきます」とお願いすると、「他にも賛同する人がいるのじゃないか?色々声をかけて一緒に連れて行け」といって頂いたので、声をかけてみたら、10名ほどになりそうである。ボランティアなどというものは、同情心や偽善がちらほら見える団体もいて今まで批判的であったが、同じ国に住む、同じ日本人の方々が、明日の生活にも絶望的になり、家を失い、思い出を失い、家族すらも失っている現状を見て、何か小さなことでもいいから自分にできることがないかと思った。大したことではないのですが、だから、行ってきます。
Oct 28, 2004
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16日から、勤務地が変わり、本部に勤務することとなった。思えば約2年間、宮田店の支援に始まり、経営が変わっての営業、10年ぐらい勤務していたかのような気がする。朝礼で店長交代の報告をした時には、何人もの従業員さんが大泣きしてくれたが、泣いてくれた女性従業員ほど振り返ると思い出深い人が多かった。時には厳しいことも言わなければならないし、叱った事もある。止む無く辞めて行った人達もいた。一人一人の思い出を振り返ると、本当にこの2年間で一番勉強になったのは、自分自身であったろう。スーパーマーケットというのは、女性の80%~90%が「パート」の女性である。しかし、どんなに素晴らしい店、安い商品、面白いイベントをしようとも、一番大切なのは、この女性たちが「やる気を出すこと」である。簡単に言うが、この女性達は「普通の女性」である。家に帰れば子供達の食事の用意をし、ご主人の世話をし、その空いた時間を使ってスーパーに働きに来ているのである。今は女性の時代という。確かにその面はあると思う。スーパーでも男性より女性の方が役に立つ面は大いにある。しかし、経営する側が陥りやすい誤解は、いつの間にか「仕事のできるようになった女性達」をそれが当たり前のように扱ってしまいがちなことである。「やる気」は決して自然発生するものではない。それは「群れのリーダー(店長)」の人格、魅力、情熱、思いやり、それらに触発され、それを支えるチーム(集団)が同じように成長した時、組織(店)全体を明るい、やる気の、温かい雰囲気が包み、いつ知らずとなくお客様が支持してくれる店になって行くような気がする。今度は、鹿児島に行きます。日記もがんばって書きます。皆さんお互いがんばりましょう!色々と書き込んでくださって有難うございます。
Oct 21, 2004
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先日、3歳の娘のために、家内の母が「アルプスの少女ハイジ」のビデオを買ってきてくれた。何気なく見ていたのであるが、これが感動した。(ToT)シリーズものになっていたので、その後が見たいと思い、ビデオ屋さんに借りに行くと、1巻から10巻までずらりと並べてあった。とりあえず、続きの4巻から借りたのだが、これが本当に大人になってから見ると、感動する。嘘だと思ったら見てもらいたい。ハイジのプラス思考、クララに対する思いやり、頑ななおじいさんが天真爛漫なハイジの優しい心で心を開いていく様子、ペーターのおばあちゃんに対してのやさしさ...。最後の10巻、クララがアルムの山小屋でついにたった場面では、母、家内、そして私といつの間にかみんなで涙して見入ってしまっていた。今、子供の道徳教育が声高に叫ばれ「ゆとりの教育」などの問題なども指摘されているが、昔(私が小学生の頃25年ほど前)は、テレビでもこのような自然と道徳が学べる素晴らしいアニメがあった。「プリキュア」や「ピチピチピッチン」(知っていますか?)など、ハイジを見る前は3歳の娘はこのようなテレビ番組ばかりを見ていた。しかし、何気なく思った。「クレヨンしんちゃん」やその他の低俗なアニメを見せるよりは、「アルプスの少女ハイジ」「ペリーヌ物語」などの世界名作物語を何度も見せたほうが、テレビを見ることに関しては、子供にとってよいと思う。驚いたことに、私の3歳になる娘は、この前ふざけていて、私のメガネに手があたった時、瞬間に「ごめんなさい!」と口走った。大人でもこのようなことを言うひとが少なくなった今、娘には「良識ある日本人」「思いやりのある人間」「感謝し、人に謝ることのできる人間」になってほしいと思う次第である。
Oct 13, 2004
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ある団地で、三人の主婦がさかんにうわさ話やゴシップに興じていました。そこへ一人の主婦が通りかかりました。急ぎの用があって話に加わるのにちゅうちょしたのですが、もしや自分のことを言われているのではと気にかかり、結局、仲間に入りました。そのうち最初からいた一人が、用事を思い出したのですが、立ち去った後に、今度は自分のことが話題になるのではという不安にかられ、とうとう大事な用事をすっぽかして、最後まで井戸端会議につきあった、という笑い話を聞いたことがあります。人から非難されたり、悪口を言われて喜ぶ人は一人もいません。逆に人から褒められればうれしくなります。けれども、「褒め手千人、悪口万人」といわれるように、人間は他人を褒めることよりも、批評したり、悪口を言ったりするほうが大好きのようです。悪口とか陰口というのは、言うほうはたいした悪気もなく気楽に話すのですが、まわりまわって、それを耳にした当人にとっては、なんとも不愉快極まりないものです。ですから、自分が悪口を言われたときには、カッカとくる前に、自分もこうして人を不快にしたことがあったに違いないと反省する機会にしたいものです。悪口を言われて嫌な思いをした人は、これを機会に「自分は悪口を言わないようにしよう」と決意することです。ところで、人はなぜ悪口を言うのでしょうか。オーストリアの精神医学者アドラーは、人間を動かす最大の欲求は優越への欲求(権力意志)だと主張しました。競争社会では、つねに他人と自分とを比較して、うぬぼれたり、がっかりしたり、嫉妬心を抱いたり、落ち込んだりといったことになりがちです。もちろん、他人との比較、競争がすべて悪いということではありません。劣等感やくやしさをバネに自己を向上させる場合もあるからです。しかし、こうした努力をして自己を向上させるのは、並大抵のことではありません。もっとも手っ取り早く相手を打ち負かそうとする方法、それが悪口です。「人の悪口を言っているときは幸いです。そのときには自分の欠点が見えないから」ということばがあります。相手に負けたくないという気持ちが、屈折して表われるのが悪口といえます。~今日の一言~人の苦しい話や、悲しい話に「一緒に泣いてあげることのできる人」というのは結構いる。もちろん本当の思いやりの心から来る涙を流してあげることのできる人もいるが、ほとんどは、「同情心」からである。けれども「同情心」や「哀れみ」はというものは、時に「優越感」からくるものが多い。だから僕は思う。「一緒に泣いてあげることのできる人間」よりも「喜びをともに分かち合うことのできる人間」、「一緒になって他人の喜びを喜んでやれる人間」でありたいと。本当にそう常々思うのである。
Oct 9, 2004
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※三日間「日本道経会」のセミナーに行っていました。ネパールの山岳地帯で、長い間医療生活を続けておられた岩村昇さんが、次のような話をしてくれました。ある日、村の回診に出かけた時のこと、結核患者を発見し、その中の一人の重症患者を町の病院に運ぶ事になったそうです。ところが、その患者を運搬するのに何の交通機関もありません。頼れるのは「自分の背中」のみでした。しかもそこは、何も持たずに歩いても、町まで5日間もかかるという山村だったのです。その時、「よし!僕が背負って行きましょう!」と名乗って出た青年がいました。青年は行きずりの旅人でした。青年の好意は、岩村さんにとって涙が出るほどありがたかったのですが、岩村さんは戸惑いました。岩村さんのポケットには、青年の好意に報いるお金が一文も残っていなかったからです。「ありがたいのだけれど、一文の日当も出せないんですよ」すると、青年は憤然とした表情でこう言ったそうです。「僕は日当がほしくて病人を担ぐんじゃないんだ」「それじゃあ何でなの?」「サンガイ・ジュネ・コラギ(みんなで生きるため)」岩村さんは青年の言葉を聞いて、『あぁ、私はこの言葉を生涯忘れないだろう。“サンガイ・ジュネ・コラギ(みんなで生きるため)”なんと誠意のこもった、素晴らしい言葉だろう」と思ったそうです。~今日の一言~青年の言った、「サンガイ・ジュネ・コラギ(みんなで生きるため)」本当に素晴らしい言葉ですね。僕らはみんな、毎日の生活を何がしかの事をして生きている。仕事をしたり、商売をしたり...。しかし、何か人が困ったときには、同じ日本人として、人間として、手を差し伸べてやることのできる、「サンガイ・ジュネ・コラギ」の生き方が自然にできる人間でありたいと思う。
Oct 8, 2004
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短気な性格を直したい。ずぼらな性格を何とかしたい。もっと社交的になりたい。臆病な気質を克服したい。そうは考えても性格や気質は簡単に変わるものではありません。しかし性格はなかなか変えられなくても、行動のパターンは変えることができるのです。 慶応義塾大学の大野裕教授は日経新聞のコラムで次のように書いていました。それは「内気な人でも仲間うちの集まりに出ているうちに人づき合いが苦にならなくなることも多い。すぐかっとなる人でも腹が立ったとき深呼吸などして、意識的に気持ちを落ち着かせるうちに怒りを表に出ないようになることもある。手を上げたいと考えても行動は抑えられる。不安になっても一歩を踏み出せる。そんな自分を育てることがたいせつ」というのです。 ずぼらな人は日記や読書、掃除でも毎日一つこれだけはやると決めて実行する。臆病な人は一目一つ何か勇気を出し行動してみる。無愛想な人は「ありがとう」と言うように努めるなど、自分に課題を与えてみましょう。自分を自分で育てていく、大人になっても人間は育っていくものです。~今日の一言~色々な人間性の本がある。自分を変える為の様々なトレーニングもある。しかし、重要なことは「本当に自分を変えたい」と思うことではないか。というより、自分自身と長く付き合っていると、良いところも悪いところも含めて自分自身であるのだから、その「自分を変える」ということに、本来人は「変えたくない」と無意識の中に思っているということに気がついておかなければ、自分を変えることなど毛頭無理な話である。大切なのは、「自分の心が気づく」こと。本当に何かに触れて、物事に触れ、人に触れ、感動したり、涙してこそ人は本気で変わろうとするのである。つまり、自分の心を常に豊かな感性で満たしておかなければ、そのような気づきの体験はできないのである。
Oct 1, 2004
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