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今日は朝からラオスの皆さんのパーティーです。毎年思うのですが、ラオスの人たちが近くにこんなにたくさん居る事に普段は気がつきません。 顔は日本人とそんなに変わりませんが、日本人より少々彫が深いでしょうか。とても気持ちの穏やかな人たちです。もう何年か前に、ラオス式の結婚式をバラ園のホールで催したのがきっかけで、年に1回ぐらいは大勢で集まるパーティーを開くようになりました。数年前にはラオス大使館の方にも来園いただきました。 一日バラ園はアジアになります。園内にはラオス音楽が流れ、歌い踊ります。料理は本場ラオス料理の持込、独特の香辛料の香と、民族衣装で完全にラオス化します。 そんな中でもバラを購入して下さるお客様もたくさん来て頂きました。お客様もびっくりしています。昨日から、新苗の販売を始めたのですが、けっこう好調です。
April 30, 2006
東京から帰ってきました。日本ばら切花協会の第1回理事会が太田市場内のホテルでありました。私も初めて参加する会なので、少々緊張ぎみでしたが、懇親会が始まればこっちのもので、全国の皆さんと仲良くなってきました。 バラ生産の業界も価格の低迷や、輸入バラの増加などで苦しい時に、追い討ちをかける様に重油の高騰。なかなか明るい話題が聞けません。 日本の生産者が心配しているのは、品質の悪い輸入バラが使われたとき、バラ全体のイメージが悪くなり、消費者がバラ離れを起こす事です。同じ農産物でも食料品と違い生産者表示がしづらい様です。花屋さんが売りづらくなるそうです。 実は今日、バラ園では和太鼓のコンサートが2時から入っていました。新幹線に飛び乗り急いでかえってみると、玄関口から人が溢れています。駐車場も混雑し少々パニックぎみでしたが、太鼓の演奏が始まると、きれいに収まりがつきました。 演奏もすばらしく、お客様には喜んで頂けたようです。
April 29, 2006
<ミカド> 応援団連盟の役員になった役得もありました。よその大学の先輩に連れられ、やって来ました「赤坂ミカド」。話には聞いた事はありますが、実際に来るのは当然初めてです。 最近テレビで「ナイナイ」」の二人がやっていますが、応援団の場合、「ゴチになります。」は基本です。........広い店内に入ると、そこはもう別世界、薄暗い店内を着物を着た綺麗な女性がウジャウジャ歩いています。 席に着き、水割りが出ると、話が始まります。先輩と一緒ですので気をぬく事は出来ません。とは言うものの、、いつのまにか横には女性が座り、座が和らぎます。......この女性達もたいしたもので、学生服の私達をみると、いきなり歌い始めました。「都の西北早稲田の森に~....」...残念ながら早稲田じゃないよ。と言うと法政、明治、立教・・・続けて歌ってくれるのですが皆ハズレ。なんと6大学の歌は全てマスターしているとの事です。 ちょっと、はずしてしまった彼女が次にしたのは「褒める」ことです。何を褒められたかと言うと、「歯」」です。.........私も色々褒められた事はありましたが、歯を褒められたのは初めてです。考えてみれば、薄暗い所で、真っ黒い学生服を着ていれば、目立つのは歯ぐらいでしょうか?。........それより、彼女のプロ意識に感動しました。 ところで、私の目は、店内ホール中央のミラーボール輝くキラキラしたステージに向いていました。子供の頃見た「クレージーキャッツ」の映画の中で、植木等がこのステージでギラギラのバックダンサーを従えて歌い踊っている姿が目に浮かんでいました。 スーダラ節、ハイ、それまでよ、無責任一代男等々。。今でも私の愛唱歌です。苦しい時、悲しい時などこの歌は抜群の効果があります。青島幸男氏の才能には感服します。 そんなこんなで、「赤坂ミカド」の夜は更けました。
April 28, 2006
きょうも朝から忙しい。月末の用事をやっと済ませて、静岡に向けて出発したのは、12時過ぎでした。昨日頼まれた、バラの大苗の搬入です。 行き先は静岡に出来た新しい結婚式場。東名静岡インターを出て右に進むとすぐの所にあり、ヨーロッパのお城をイメージさせる様な、おしゃれな異空間です。そのメイン広場のエンタシスにツルバラを這わせてきました。もうすぐ蕾も開くでしょう。 さて、私の農園でも、そろそろバラが咲き始めました。モッコウバラはとっくに開いたのですが、それに続き、ナニワイバラも咲き始めました。すでにポンポン・ド・パリは満開です。これから次々に花が咲き出し、バラの庭が、歌い始めます。 明日は東京に泊まりです。第1回目の「日本切りばら協会」の理事会が太田市場に隣接するホテルで開催されます。今年は、役員なので、東京に行く機会も多くなりそうです。
April 27, 2006
<他大学とのお付合い> 応援団連盟の関係もありますが、他大学応援団とのお付合いも4年幹部の大切な仕事です。前にも書いた通り、副団の「もっちゃん」の担当は国士舘大、拓殖大。私の担当は、青山、上智、学習院などなど。.......二人の性格に合わせた絶妙の配置です。 おかげさまで色々な大学にお邪魔する事が出来ました。青山学院では、学生食堂の美味しさを知りました。国学院大では、玄関を入ったとたんに校舎の屋上から写真を撮られました。人気者です。学習院では、玄関で足止め、怪しいと思われたのでしょう。応援団員が迎えに来てくれて、ようやく中に入れてもらいました。...........どこの大学にも綺麗な女子学生がたくさんいてドキドキの連続です。 さて、学習院の団長K君には、色々教わりました。私の知らない世界を覗かせてもらいました。彼の家は高級住宅地の成城学園。近所には横溝正史の家もあるという一等地。お手伝いさんがいて、運転手もいるという、私にとっては非日常の世界に住んでいます。 そんな彼の顔で、新宿の街を飲み歩きます。スナックやらクラブやら、当時普及し始めたカラオケで歌いまくりました。.........K君の得意はシャンソン。特に越路吹雪の「ろくでなし」は18番。私も何時しか、シャンソンのファンになり、今でも飲むとこの歌を歌いたくなります。 ちなみに当時、私が得意とした歌は「いなかっぺ大将」のテーマソング。天童よしみの歌う「数え歌」は、田舎から出てきた私の、自分に送る応援歌でもありました。
April 26, 2006
<大根 VS 牛の乳> アサヒグラフという写真誌があります。これに応援団連盟祭の特集が載りました。夕方から日比谷をパレードする各大学の応援団。大団旗が風になびき、それは勇壮なものでした。 応援団幹部は羽織袴に高下駄を履き、胸を張って歩きます。後輩団員はその姿に憧れます。時々止まってはリーダー公開。日本中の大学の名物応援の披露です。パレードの周囲は見物客でごった返していました。 さて、連盟祭の呼び物はなんと言っても、各大学の応援披露です。それぞれの大学が歴史のある名物応援をもっています。扇子を持っておどるものや旗を振るもの、初めて見るものばかりです。.........実は内心、我「大根おどり」が一番メジャーで、うけるはずだと思っていたのですが、さすが全国の応援団が集まると、すごいものが出てきます。 驚いたのは、北海道、酪農学園大学、通称酪大。........まず団旗の先端が「熊さん」でびっくり。踊りを見てもっとびっくり。腰を低く構え、両手を胸の前に構え指先をピロピロ動かしながら、大きな声で歌い始めます。「そ~りゃ、チチしぼり~、チチしぼり。」.......酪大名物「搾乳音頭」です。.........初めて見た時には感動で、倒れそうになりました。 やはり日本は広い。「農業の好敵手はやはり農業だ」とつくづく思いました。
April 25, 2006
<全日本学生応援団連盟> 応援団員の学ランを良く見ると、ハイカラーと呼ばれる高い詰襟に、自分の大学のバッジともう一つ、楕円形で青紫色の縁に金色の地球をかたどったデザインのバッジを付けています。 これこそ全日本学生応援団連盟のバッジです。連盟に所属していれば、団長になると自動的に役員になります。各大学の団長が集まるのですから、なかなか大変な会です。特にその年は、連盟の記念大会や、応援団ブームの追い風もあり、応援団連盟に対する期待度も一段と強い年でした。 初めての会合。各大学の団長が一同に会します。議題は会長(総団長)ならびに副会長2名の決定。議論の結果、最終的に3人の候補が残りました。この3人が比較的目立つタイプです。専修大学のT君は細面ながら身長は185センチ位はあったでしょうか、学習院大学のK君にいたっては身長180センチ体重120キロの巨漢、そして私、ひげにメガネの178センチ100キロ。3人揃って歩くとかなりの威圧感です。 総団長になると、あちこち出て歩く事が多くなり、忙しくて卒業が危なくなるというジンクスがあり、何とかそれを避けようと考えていました。会長の決定は公平に「じゃんけん」でという事になり、実は前々から親交のあった学習院のK君といっしょに「グー」を出そうと決め、おかげさまで彼と2人で副団長をやることになりました。 空前の応援団ブームの中、学生応援団連盟の行事はスタートしました。日比谷の野外音楽堂で開催された記念祭リーダー公開には全国から様々な大学の応援団が参加しました。
April 24, 2006
あいにくの雨の中、2日目のイベントが始まりました。天気予報では午前中は雨との事ですが、雨の降りは弱く、イベント主催者としては、雨対応か晴れ対応か迷うところです。 万全を期して、出展店舗をホール内に配置しましたが、お客様の誘導を考えなければなりません。 今日は、年に一度の農業用水路の砂上げの日。早朝からスコップを担いで大堀に集合です。各区の農家が分担して、決められた区域の溝をさらいます。今日ではビルや住宅の立ち並ぶ我町ですが、湧き水で稲作をする県内でも有数の美味しい米のとれる町でした。 農家と言っても水田があるだけで、殆どが兼業農家、或いは日曜百姓です。地域柄仕方の無い事とは思いますが、ビルや住宅が増える程、その中に存在する農地の重要性は高まるものと考えています。農耕地は管理された自然ですが、その中には虫や植物、小動物などの生命の営みがあり、それを見たり触れたりする事は、こども達の健全な発育の為にも、重要な教材となるはずです。 しかし、イベントの最中にブログを書く余裕があると言うことは、少々客足が鈍いと言う事でしょうか?.......雨のせい。給料日前のせい。各地のイベントのバッティング。地震のせい。...何かのせいにすれば逃げ道は色々あるのですが、結局はお客様を引き付ける「何か?」が足れなかったのでしょう。反省するところは多々あります。
April 23, 2006
ようやく今日のイベントが終わりました。夕べ遅くまで準備をしたのですが、当日になれば状況に応じた準備も発生します。 昨日から伊豆東を震源とする群発的な地震が始まり、イベント中もその話題で持ちきりです。一日二日で収まってくれればいいのですが、続くようであればゴールデンウイークの稼ぎ時を前に、伊豆全域ではかなりの打撃となるでしょう。 伊豆全域と言いましたが、比較的強く揺れているのは伊豆の東側の1部で、伊豆の西側や伊豆半島の付け根部分の沼津、三島や我清水町ではそれ程の揺れは感じません。首都圏や関東から見れば伊豆は一つの地域と思われがちですが、山や川を隔てることで、その文化も違っています。 それにしても伊豆の人は地震に慣れているようです。揺れを感じる度に、震度を当てる癖がついている様です。東海地震が叫ばれてから久しく、防災訓練を繰り返した賜物かもしれませんが、あらためて「災害は忘れた頃にやってくる」という諺を思い出しました。 二日続きのイベントなので、明日準備を始めます。
April 22, 2006
ナチュラルビレッジがオープンして1年がたちました。「バラ園の中に様々な企業を誘致し、総合力を高めお客様に喜んで頂く」という、長年温めてきた構想を昨年実行しました。「癒し」という言葉をキーワードに「ワンちゃんの為のエコショップ」「ガーデンエクステリアのお店」・「ガラス工房」・「パン屋さん」・「ケーキ屋さん」などに参加して頂いています。 これらの店が共同で、祭りやイベントを企画しています。昨年1年はたくさんのお客様に来て頂きました。ナチュラルビレッジを直訳すると「自然村」です。「村」には文化があり、コミュニティーも存在します。お客様のことを村人と呼びます。各お店の社長は「村役」となります。 年長者の私はとりあえず村長です。村祭りは工夫を凝らしています。昨年の第1回夏祭りは県内で有名なエレキバンドに来て頂、園内をレトロ調に演出して、夜中まで盛り上がりました。 秋祭りは10月の終わりという事で、県東部ではあまりやっていない「ハロウィン祭り」を企画し、子供たちに喜ばれました。このまま、我村の名物祭りに育ってくれればいいなと思っています。それ以外にも、町の商工会の祭りやジャズを聴きながらワインを味わうイベントなど、様々な企画を実行してきました。 先週の日曜に開催した「ワンちゃんのイベント」には700人以上の来園があり、ワンちゃんと人でいっぱいでした。中でもワンちゃんのファッションショーはエントリーが多く、順番を待つ長い列ができました。 明日からの1周年記念祭のメインは「地場産品大市」........野菜やわさび、柑橘にひもの、花鉢など。他に模擬店も多数出て、お客様をお待ちしています。
April 21, 2006
今日は1周年記念祭の会議の後、飲み会がありました。行き付けの店で、1杯やり今帰ってきました。今週末にある、1周年記念イベントの準備で、今日1日は費やしました。出展者の手配や、看板の準備で1日中てんやわんやでした。 バラ園の庭では、黄色もっこうバラが咲き始めました。この分では、園内のバラが咲き揃うのは、5月のゴールデンウイーク過ぎ位からだと思われます。今年も素晴らしいバラの競演が期待できます。
April 20, 2006
<百恵ちゃんに会いました 2> いよいよ撮影現場に着きました。カメラやスタッフがガヤガヤしています。今回の赤いシリーズは、百恵ちゃんがマラソンランナーの設定です。足を痛め車椅子に座っての演技が多い様です。 我々、応援団の役どころは、「多摩川の土手を訓練で走っているところへ、車椅子の百恵ちゃんと出くわし、イジメルが、最後はフレ~フレ~とエールを送り去っていく。」というもので、ちょっとムリのある内容です。さらに残念なのは、私が出られない事です。最初から分かっていた事ですが実は、応援団長の役は、本当の役者さんがやる事になっていました。 団長役の役者さんに挨拶をして、私は、撮影スタッフと共に進行を見ていました。演技も始まり、後輩たちは団長に続いて多摩川の土手を走ります。ところが、いま一つ演技の展開がスムースではありません。・・・・・・・・そこでつい、「こうすればいいのになぁ~」とつぶやいてしまいました。 すると突然、私のすぐ横に座っていた人が、「今のイタダキ」と言いました。後で知ったのですが、その人は監督さんだった様です。その後団員の演技について、色々相談しながら、何とか撮影を終わることができました。・・・・・・・・ちょっと気になったのは、撮影の合間に、車椅子にのった百恵ちゃんを後ろからそっと押す三浦友和氏の姿を見た事です。その頃はまだ二人の結婚など考えられない時期でした。 帰りしな、用意していた色紙に人数分の百恵ちゃんの直筆サインをもらって来ましたが、ふと気づくと「もっちゃん」の分が足れません。仕方ないので後輩に、まねしてサインを書くように言いましたが、なかなかの出来です。・・・・・・・だいじそうに持っている「もっちゃん」の姿を見ると申し訳ないやら、おかしいやらで大変でした。
April 19, 2006
<百恵ちゃんに会いました。1 > 昨日、NHKテレビを見ていたら、久々に後輩の姿を見ました。学生服に緑の腕章、手には大根を持ち元気良く踊っていました。・・・・・・昔よりずいぶんと「いい男」が増えた様です。 さて、当時は、テレビ局に足を運ぶ事がよくありました。色々なタレントやアイドルを見る機会もたくさんありました。・・・・やはり1番印象に残るのは「山口百恵」ちゃんです。今ではいい奥さんになっているのでしょうが、当時はまだ高校生か、卒業したばかりだったと思います。 確か3回位は会っているはずです。テレビの歌番組で1回、バラエティー番組で1回、そしてドラマの撮影で1回会っています。短い時間でしたが、1回位は話をした事もありました。テレビで見る百恵ちゃんは、なんとなくクールで大人びた気配がしていたのですが、普段の姿は明るい女の子。いつも彼女の周りには、他のアイドルやタレントが集まり、ワイワイペチャクチャと話が弾んでいる様でした。 思い出すのは、ドラマの撮影に呼ばれた時の事です。百恵ちゃん主演の「赤いシリーズ」と呼ばれた、連続ドラマのシリーズは当時、大変な人気でした。我応援団に出演以来の電話が入った時には、さすがに興奮しました。調布のスタジオが近かった為か、農大のキャンパスを使っての撮影や、大学の近所で、撮影風景を見かける機会は多かったのですが、自分たちが出演するとは、思ってもいませんでした。 出演ドラマの名は「赤い激流」・・・・・・・・・・撮影現場は多摩川の土手。なぜかその日用事のあった副団長の「もっちゃん」を残して、さあ、出発です。
April 18, 2006
<申し訳ないことをしました> ある時、芸能企画会社から電話があり、今度デビューする新人タレントの応援を頼みたいとの話です。よく聞くと各大学の応援団が、その新人タレントの応援権を獲得する為に競い合うとの事です。.........それなら「いい男」を代表で出さなければと考えました。 「いい男」と言えばスキー部の部長です。スポーツ万能で千葉真一似の「いい男」です。我大学では学生全員が応援団なので誰が出ても問題ありません。早速頼み込みOKを貰うと、応援団を引き連れて会場にのりこみました。 会場には、ところ狭しと各大学の応援団がひしめいています。かわいい新人タレントが紹介され、いよいよ争奪戦のスタートです。残念ながらその子の名前は忘れてしまいましたが、当時は次から次へと新しいアイドルが現れた時期です。 ところが、競技内容を見てびっくりです。「いい男」のコンテストと思いきや、腕立て伏せや腹筋、体力勝負のキツイものばかりです。スキー部の部長も4年の幹部です。幹部にもなって1年坊の様な仕置きに会うとは思ってもいなかったでしょう。 誠に申し訳ない事をしました。それでも、さすが部長。ゼイゼイ言いながらも最後まで頑張ってくれました。結局早稲田かどこかが応援権をとった様です。・・・・・・・・・その後、彼は東京都庁に入り頑張っています。新人タレントの彼女はその後数回テレビで見ましたが、そのあとの事はわかりません。
April 17, 2006
今日は雨の中イベントです。14日から今日まで、玄関のケーキ屋さんの1周年セールで、かなりお客さんが来ています。また今日は、昨年に引き続き、「わんDAYフェスタ}が開催されます。 ワンちゃんの躾教室からファッションショウ、ワンちゃん関係の店舗が8つ模擬店を出し、朝から大騒ぎです。 これ以外にも、町の「緑まつり」があり、役員なので行かなくてはなりません。ところが、区の総会もあり、議長を頼まれているので、てんてこ舞いです。..........そうそう朝市もあります。 今日1日無事で過ごせますよう祈ります。
April 16, 2006
<半分芸能界> 先日、「横浜そごう」で行われる、日本バラ切花協会の品評会に花を出展する為に、仲間の役員と東名を走っていた時のことです。目の前の車がとても安全運転で、よく見ると車の後ろに「畠山みどり」のポスターが貼ってあります。「畠山みどり」といえば「出世街道」「恋は神代の昔から」等々ヒットを飛ばした演歌の大御所(40年以上前のはなし)です。 先を急いでいたので、その車を追い越そうとしてびっくり。なんと本人が運転しているではありませんか。ヒョウ柄の服を着て、歌いながら颯爽と運転していました。まだまだ綺麗で、さすが芸能人です。 さて、4年生になる頃には、世は正に応援団ブーム。あちこちのテレビ局やイベントに引っ張りだこの状態でした。どうしても調整がとれず、お断りしたところもかなりありました。そんな訳で、出演料もそこそこ入り応援団の懐もちょっとは暖かくなりました。........後輩にはコーヒーの一杯も飲ませておいて、後は飲み代に化けてしまうなどという事は絶対にありませんでした。........? 歌番組から討論番組、民放からNHKまで良く出ました。結構大変でしたが、嬉しいのは田舎の親に自分の姿を見てもらえる事です。テレビ出演が決まると、後輩たちもそれぞれの田舎に連絡しテレビをみるように伝えていました。........たしか私が現役の時、全部で26回テレビ出演したように記憶しています。 もう一つ嬉しかったのは、芸能人に会える事です。当時人気だった、山口百恵、桜田淳子、森昌子。片平なぎさちゃんなども生で、それも近くで見ています。........今思えば、夢のような世界に足を踏み入れていた様です。 ちなみに、卒業して田舎に帰り、もうテレビに出る事も無かろうと思っていたのですが、バラ作りを初めて早々、ローカルのNHK番組の「明るい農村」が取材に来ました。ちょっと嬉しいような悲しいような懐かしい気持ちになりました。
April 15, 2006
<命ひろいました 2 > ところが、着いた早々練習場所の下見に出発です。山あり谷あり、身体を鍛えるには絶好の場所です。海岸は石や岩が多く、鎌倉の海岸の様に砂浜が広がる状態ではないのですが、海はきれいで申し分ありません。 台風が去ったばかりで、まだ海は荒れていましたし、台風のシッポの雲からは時折雨が落ちてきました。.......海岸の様子を見に行った時です。先輩にイタズラ心が湧いた様で突然言いました。「あそこの岩に、しがみ付いててごらん」...........耳を疑いました。見ると岩場の先に一抱え程の大きな岩があり、波を受けて白い飛沫を上げています。 「せ、先輩。波にさらわれたら死んじゃうかもしれませんよ。」と言うには言ったのですが、応援団の事です、先輩の言う事はきかなければなりません。仕方なくその大岩にかじり付いていたのですが、予想通り波の威力は物凄く、何回目かの波にさらわれ海の中へ引きずり込まれました。 こういう時は沖に向かって泳ぐのが鉄則なのだそうですが、その時は、ただただ陸に上がる事しか考えられませんでした。何度か足の付く所までは行けたのですが、結局、波に引き戻され海の中です。時々水面に顔が出て息は出来るのですが、その時みえる浜辺の先輩たちは助けに海に入る気配もなく、ワイワイしているだけに見えました。後で聞いたら、危なくて海に近づけなかったとの事です。「わしはどうなるんじゃい!」と思いました。 その頃私は、波の力で海の中をくるくる転がっていました。不思議に冷静で、色々な事を考えていました。「そうだ、波に逆らわない様にしよう」と考え、体を小さく丸める事にしました。すると目の前に大きな岩が見えます。あの岩にぶつかったら一巻の終わりだと思った瞬間、うそのように身体がすり抜けました。正確には波に乗って自然にかわしたというところでしょう。 そのうち、大きな波が来て、上手に波に乗る事ができ陸地にたどり着く事が出来ました。返し波に引き戻されない様に、ここぞとばかり全力で浜に駆け上がりました。あとで気が付くと、全身あちこちが傷だらけでした。............命ひろいました。
April 14, 2006
<命ひろいました 1 > 昨日浜松に用事があり、久々に東名を走り由比の海岸にさしかかると、波は荒く、白い波しぶきが立ち上がっていました。ふと思い出したのは、学生時代のヤバイ体験でした。 3年生の頃だったでしょうか、夏合宿の下見に行くとの事で、先輩のお供で三宅島に行った時のことです。竹芝桟橋を夜に出航する伊豆諸島めぐりの船に乗り、三宅島に向けて出発です。前日に台風が通り過ぎたばかりの海は、まだ「うねり」」が高く、船は大きく揺れました。 船に乗る事などあまり無かったので、ワクワクしていましたが、乗り込んだのは2等船室。船の底の方なのか、エンジンの音と振動がすごくて、とても寝られたのもではありません。仕方が無いので、船の中の散策に出ると船の上の部屋が空いている。それも2等船室と書いてあるではありませんか。すぐに船底部屋から引っ越しました。 なぜこんないい部屋が空いているのだろうと不思議には思いましたが、その答えはすぐに分かりました。湾を出て、外海に出ると船は木の葉の様に揺れます。その度に右の壁にぶつかり、左の壁にぶつかり、それはもうひどいものでした。船は上の方ほど揺れると気づいたのはその時でした。しかし、後の祭り、そのまま三宅に着きました。 へとへとになって着いた三宅島でしたが、自然に恵まれ、風光明媚なすばらしい島でした。残念ながら今日では、火山活動の影響で、島から非難したり、島への交通も制限されたりしていますが、また是非行ってみたい島です。 民宿の方にも優しく出迎えていただき、殺伐とした都会生活を離れ、ちょっとしたリゾート観光気分でいました。......................ところが。
April 13, 2006
<研究室の怪人 2> ようやく始まった研究ですが、途中で二人とも教育実習や学園祭で時間をとられ、思うように実験が進みません。とても手間のかかる実験です。「バラの首の曲がった部位をパラフィンで固定し、ミクロトームで数ミクロンの厚みに切り、連続写真に撮る。」メチャメチャに手間のかかる実験でした。 それでも二人は頑張ります。目標は「学長賞」.......「学科長賞でもいいかな」などと言いながら実験を続けました。軽い気持ちで入った研究ですが、進めば進むほど植物の神秘と農学の奥の深さを痛感させられました。..........原因の解明どころではありません。何十何百というサンプルを顕微鏡に乗せれば乗せるほど、疑問は深まり、迷宮に迷い込みます。 一番悩んだのは、無数に咲く花の中の、たった数十のサンプルから抽出した結果で、すべてがそうだと言えるのだろうか?。と言う疑問でした。.........二人の議論は夜のふけるまで続きました。農学博士が多いのは、農業、特に植物の生態の奥深さによるものでしょう。 研究も終盤を向かえ追い込みです。研究室に泊り込みで実験をします。昼間は実験机の下にもぐり込み、寝袋に包まって寝ます。夕方になると起き出し明け方近くまで実験を繰り返します。頭はくしゃくしゃ、ひげはボウボウ、白衣はヨレヨレ........お化けです。 この頃、「研究室に怪人が居るらしい」という評判が立ちました。 残念ながら大きな賞は逃しましたが、先生から特別賞として、サントリーリザーブ1本頂きました。........人の運命とは不思議なもので、一緒に実験をした横川君は実家のバラ園は継がず、いま高校の先生をしています。そして私はバラの魅力にとり付かれバラ栽培を始めることとなりました。................出会いが人の運命をかえます。
April 12, 2006
<研究室の怪人 1> バラ栽培を始めた理由をよく聞かれますが、きっかけは偶然かもしれません。 4年生になると、気になるのは卒業論文です。花卉研究室にいたのでそれなりの研究をしなければと思ってはいましたが、テーマも決まらず時間だけが過ぎていきました。そんな時声を掛けてくれたのが、同じ研究室の横川君です。 彼は高知県出身で、実家は切りバラ生産農家。歳は私より2つ上、話を聞いてみると、3年前に農大に入ったが、面白くないのでやめて、九州大学に入ったらしい。ところがもっと面白くないので、再度農大に入り直したとの事。学者肌の秀才です。 そんな彼が卒論のテーマにしたのは「バラの首曲がりに関する細胞学的研究」」。聞いただけで大変そうなテーマですが、とうてい一人では出来ないと判断した彼は、パートナーを探していました。ところが他の人たちはすでに自分のテーマを決め、研究を始めていました。ボーッとしていたのは私だけで、それで私のところに白羽の矢が立ったという訳です。 もともと「先生にでもなろうかな....。」などと考えていたのですが、これで一応、、卒論も決まったと安堵しました。その頃の私といえば、バラの花は知っていましたが、赤バラ位しか見たことがなく、、こんなにたくさんの色があるものだとは知りませんでした。 下宿に帰る途中に花屋さんがあります。それまであまり気にしなかったバラの花を意識的に見るようになりました。そしてバラの高値にも驚きました。もちろん蘭の花の方が高いのですが、蘭はホコリがかぶる程咲き続けます。花持ちを考えるとやはりバラが一番の「高嶺の花」「高値の花」です。 学生食堂でカレーライスが一皿80円の頃、バラは1本250円で売っていました。時にはちょっと贅沢をして、赤バラを1本買って、下宿の牛乳ビンにさします。気持ちが優しくなるのを感じました。......ところで、花を買っている自分の姿を想像すると、そのバランスの悪さに驚きます。ひげを出した100キロ近い男が、それも学ランを着て赤いバラを1本嬉しそうに持って歩くのですから。............ちょっと怖いです。
April 11, 2006
<おまわりさんは、苦手です> 今でもそうなんですが、おまわりさんを見ると何故かドキドキします。そういえば昔、色々お世話になりなした。 私のおまわりさんデビューは、1年生の時だったと思います。先輩に用事を頼まれ、経堂まで行くことになり、急ぎなので自転車を借りて乗って行くように言われました。たしか探検部か自動車部で自転車を借りていったと思うのですが、農大通りの途中で自転車に乗ったおまわりさんとすれ違いました。 すれ違いざまにおまわりさんは「おい、止まれ止まれ」と言いました。私も慣れない自転車なのでノタノタ止まると、おまわりさんは自転車を降りて近寄ってきました。小柄なおまわりさんでしたが、私の顔を見ると突然クルリと向きを変え、自転車に戻ると、なんと警棒を引き抜いてやって来ました。......よほど私の顔が怖かったのでしょうか?何も警棒まで持ってこなくても。 ところが運悪く、借れて来た自転車が盗難車で、いくら事情を説明しても分かってもらえず、とうとう北沢署まで行くことになりました。それを知った先輩の口ぞえでなんとか帰ることができました。 帰りしな、おまわりさんから「いい身体してるな、警察官にならないか..?」と言われ「ムッ!」としました。 その後何度かおまわりさんと話す機会はあったのですが、一番記憶に残るのは渋谷の事件です。...........冬のある日の夜。渋谷駅の一角で人だかりが出来ていました。のぞいて見ると喧嘩をしています。誰が通報したかパトカーが数台やってきて、おまわりさんがドヤドヤ降りてきました。その頃には喧嘩をしていた本人達は何処かへ逃げてしまい「後の祭り」です。 ところがどういう訳か、私が捕まりました。「オレは見ていただけだ!」と言ったんですが、聞いてくれません。「顔が怪しい」と言われそのままパトカーへ乗せられました。どうせ無実なんだからおまわりさんの観察でもしようと、おとなしくしていました。パトカーの後ろの席に座らされ、ご丁寧に両脇におまわりさんが座り、いよいよ渋谷警察署に到着です。 初めて入る取調べ室。小さな窓には鉄格子。「太陽にほえろ」の1シーンを思い出します。 木製のテーブルに取調べのおまわりさんが座り、まずは持ち物検査から始まります。もともと見ていただけなので、白状する事もなく、時間だけが過ぎました。.......「カツ丼でるんですか?」.....刑事番組ではこんな時、カツ丼が出るシーンがあるので、つい聞いてしまいました。「出ない!」。即答です。 「終電が行ってしまったのでパトカーで送ってくれませんか?」と聞くと「ダメ!」との答え。やっと開放され帰ろうとすると、後ろから声がかかります「君、いい身体してるな~警察官にならないか?」............「い、い、いいかげんにしろ~!」
April 10, 2006
今日は、久々に天気も良く、人も出ています。冬の間は寒さの為か閑散としていた朝市も、活気を取り戻し混んできました。 朝の6時過ぎから準備をし、ようやく先ほど品物が並びました。イチゴは順調に出てくるのですが、露地野菜は端境期に入ったようで、品揃えがイマイチです。ひもの屋さんはいつもの様に頑張っています。 先日から順番ですが、東部バラ会の会長になりました。4月13日に迫った日バラの品評会の手配が最初の仕事と思っていたのですが、会員のお母様が亡くなり、今夜がお通夜です。家が遠いので、4時前には役員を乗せて出発します。 そんな訳で、今日は応援団の思い出しブログは書けませんが、明日は頑張ります。
April 9, 2006
<ダボシャツ軍団> 4年にもなると、各体育系の部でも目立つ奴が出てきます。それは皆お友達。相撲部のS君、T君、柔道部のN君などなど、「悪い奴」ばっかりです。悪いと言っても性格ではなくて、「見た目」です。当時芸能界では、「ピラニア軍団」という人相の悪い役者だけが集まったグループがありましたが、仲間の中には本当に勧誘された人間もいます。 さて、夏が近づいたある日、相撲部のS君から「ダボシャツ作らないか」との話がきました。ダボシャツというのは、「フーテンの寅さん」が腹巻の下に着ている服のようなもので、丸首、七部袖。これにステテコをはいて出来上がり。(胸には名前の刺しゅう入り).....当時の学生ファッションからは程遠いものでしたが、我々はとても気に入っていました。 夕方になると、夕涼みがてら、皆で経堂の「辰己寿司」までお散歩。平均体重は優に100キロを超し、それも腕に少々自信のある連中がノタノタ歩いているのだから、すれ違う人達はケッコウいやだったでしょう。......でも外見はともかく、皆正義感に溢れた若者(ばか者)でした。 ある時、誰かが言いました。「俺たち、曲がった事は嫌いだよな!」....「そうだそうだ」....「じゃぁ、真っ直ぐ行こう!」と言う事で、まっすぐ経堂にむかいました。......目の前に塀があればよじ登ります。人の家の庭を突っ切り、車があれば当然乗り越え、とにかく真っ直ぐ進みます。 30年も経てばそろそろ時効かなと思い白状しますが、若気の至り。けっこうバカをやりました。 そんな仲間も、今じゃ大会社にいたり、地方公務員で、頑張ったり。......人生を体力で乗り切ろうと、皆、奮闘、活躍しています。
April 8, 2006
<バトンガールができました> 団長になって、最初に手掛けたのは「バトントワラー部」作りでした。箱根駅伝の苦い経験から、「時代はバトンガールに動く!」と予想しての行動でした。 副団長の「もっちゃん」と役割分担をして、行動開始です。私の仕事は「資金集め」。OB先輩を廻ったり、大学と交渉したり、お金の調達に奔走しました。一方、副団長の「もっちゃん」は女性にモテる特技を活かし、女子部員の調達です。 ところが、これがかなり難航します。当時の農大と言えば、やはり「男の大学」のイメージがありました。そんな訳で女子学生の数はそんなに多くありません。ましてや人前で踊るバトンガールともなれば、なおさらの事で勧誘は思うように進みません。........(ちなみに、当時の農大女子学生は、白衣にゴムの白長靴が定番で、バコバコ歩いていました。) 知恵者の「もっちゃん」は考えました。「もしかしたら、短大には当時流行りの堀越学園から来ている子もいるんじゃないか?」......正解です。いました。いました。....後は応援団の得意技「一点突破攻撃」。その子をきっかけに友人達に次々声をかけ、何とか人数が集まりました。 さて、今度は技術指導者を探さなければなりません。実はこれについては「あて」がありました。私の妹が高校時代バトンガールをやっていて、ちょうど日大の文理にいたので、農大まで来てもらい指導に当たる事になりました。.....ようやく「バトントワラー部」の船出です。 先日、久しぶりに農大が箱根駅伝に出る機会があり、見に行くと、男子応援団の間にバトントワラーが入り、力強く踊っています。白仕立てのコスチュームに緑のスカート。大根をイメージしたかと思わせるその姿に感動しました。 時代は「雌の時」。最近の農大は女子大かと思うほどに女子学生が増え、昔の面影は薄れた様です。現役男子応援団の活躍に期待します。
April 7, 2006
<熱が出た幸せ> 元々身体は丈夫な方で、めったに風邪をひく事も無かったのですが、学生生活でたった一度だけ風邪で寝込んだ事があります。たまにひく風邪はものすごく、40度近くの熱が出て、意識もうろうの状態が何日も続きました。 そんな訳ですから、学校も応援団もお休みです。一人暮らしの悲しさで、買い薬を飲んで、水を飲んで布団に包まるしかありませんでした。 ところが寝込んで何日目でしょうか、目が覚めると枕元に人の気配を感じます。熱のせいでしょうか、薄ぼんやりと見えてきたのは、なんと女の子です。びっくりして飛び起きようとしたのですが、身体が動きません。 彼女はタオルを水ですすぎ、私の頭を冷やしてくれていました。とにかく驚きました。私の部屋に女性が入ったのは、母親と下宿のおばさんくらいで、後は男友達ばかり、だいいち、この子は誰ですか?......はずかしながら私はこの子が誰だか分りませんでした。(たしか何処かで会った様な気はしますが) 薄れる意識の中で、頭のなかでは、昔テレビで見た「シャボン玉ホリデー」のハナ肇とザ・ピーナッツのからみの「いつもすまないね~」のシーンがクルクル回るばかりでした。 ようやく落ち着いて、話をしてみると、彼女は同郷静岡県。それも私が憧れていた三島の女子高出身で、私とは県人会で会った事があるとの事です。....誰かに私が臥せっていると聞いたらしく、看病に来てくれたようです。.....(ちょっと幸せを感じました。) そのおかげか、しばらくすると熱も下がり、元通り元気になりました。残念ながらその後、彼女が私の部屋に来る事は無かったのですが、時々学内でバッタリ会ったりすると色々話をする事はありました。 「いつかお礼をしなければ」と思っていたのですが、やっとそれが出来たのは彼女が卒業する時でした。短大だった彼女は私より1年早く卒業です。東京からの引越しを手伝いました。慣れない運転でしたが、引越し荷物を積んで田舎までのドライブです。 殺伐とした男ばかりの学生生活の中で、数少ないロマンチックな体験です。
April 6, 2006
<久しぶりに、バラ園の近況報告をします。> 4月になり、剪定したバラの葉もかなり展開し、早いものは蕾も見えています。温室の中にあるハトヤバラは先日から満開で、一重のピンクの花びらがとても綺麗です。カナリ―バードも黄色の可愛い花をいっぱいつけています。 露地の黄モッコウバラの蕾は小豆ほどの大きさになり、開花1番のりを目指しています。春の訪れを告げる虫たちも、バラの農園内を飛び始めています。 昨年オープンしたナチュラルビレッジの1周年記念のイベントの準備をしています。(「癒し」をキーワードにバラ園の園内に色々な企業を誘致し新しいタイプのモールをつくりました。) 入口にあるケーキ屋さんは大人気です。ログハウスの中にある手作りのパン屋さんは、毎朝4時過ぎからせっせとパンを作っています。 ワンちゃんの健康グッズのお店は、連日ワンちゃん連れのお客さまで賑わっています。4月16日には園内のホールや庭を使って「わんDAYフェスタ」が開催されます。しつけ教室やファッションショーなども計画しています。 4月22,23日にはナチュラルビレッジ1周年祭として、「地場産品大市」を開催します。友人の農業経営士の皆さんの農産物を販売します。模擬店も色々出ますので是非お越し下さい。 他にも、庭造りのお店やサンドブラストのお店などもあり、毎週様々なイベントを開催します。詳しくはバラ園HPをのぞいて見て下さい。 早い時期にナチュラルビレッジのHPも出来上がると思いす。今ビレッジの村長をやっているので、HPが出来上がれば、色々面白い情報を発信出来ると思います。バラは5月上旬から咲き始め、母の日頃には満開になると思います。その後は遅れて咲く花が序じょに開花し6月いっぱいは楽しめます。玄関には「バラを愛する方は自由にお入りください。」と書いた看板が置いてあります。入場料などありませんので、近くにおいでの際は、お気軽にお立ち寄り下さい。
April 5, 2006
<プチ記憶喪失> 応援団も長くやっていると色々な事に慣れてきます。今の世の中では人からぶっ飛ばされる事など殆ど無いのですが、当時の応援団では日常茶飯事でした。 気合が入ってないと言われてぶっ飛ばされ、返事が悪いと言われてはぶっ飛ばされていました。......まあ、ぶっ飛ばす方も、怪我をしない程度に加減はしているのですが、それでも痛いものは痛い。(応援団では何でも身体で覚えさせられます) それは、駅伝の夜に起きました。往路の応援が終わった夜、ヘトヘトになっていたのですが案の定先輩からの呼び出しです。「今日の応援は何だ!気合が全然入ってねえじゃねえか!。」そう言って怒鳴られます。........そろそろ来るな!と思いそ~と薄目を開けると、先輩は回し蹴りの準備をしています。「おまえは殴っても効かないからな~」と言いながら蹴り上げて来る足が見えました。 その瞬間、つい身体が動いてしまいました。本当は先輩の蹴りは、ありがたく頂かなければいけないのですが、そこが慣れと言うものの恐ろしさ、ついつい避けてしまいました。......ところが次の瞬間辺りが真っ白になりました。 避けた瞬間に丁度後ろにあった柱に、おもいっきり頭をぶつけました。その後の事はちょっと思い出せませんが、気が付くと寝る部屋に居ました。横に「もっちゃん」がいたので、「どうしの?」と聞くと色々話してくれました。「ところでここは何処?、何やってんの?」と聞くと、もっちゃんはびっくり。......大丈夫かと心配してくれます。 頭を打った時に、記憶の一部が飛んだ様です。それと脳内麻薬でも出たようで、とにかく楽しい。疲れも感じず、ただニコニコ笑っていたと聞いています。 何とか記憶が戻ったのは、次の日、復路での応援の最中。私は団旗を持っていました。何十台もの白バイ隊が爆音を上げて団旗の前を通り過ぎる音で気が付きました。......「世の中には、本当に記憶喪失というのがあるな」と知った日です。
April 4, 2006
<雪の駅伝> ふと思い出したのは、雪の中行なわれた箱根駅伝。確か昭和50年頃だったか、その年は寒く、箱根も雪景色でした。降り積もる雪の中選手達は真っ白い息を吐きながら、箱根を目指して走ります。 もちろん応援団も同じです。今では応援場所が規定され、出発とゴールの芦ノ湖に限られていますが、当時は応援場所は自由で、選手が走り去るとすぐにバスに飛び乗り、選手を追い越し又次のポイントで応援をするといった具合です。 「選手は区間ごと交代できるが、応援団はず~と替われねえぜ!」.....大変な役目です。毎年恒例なので、辻堂あたりには大学の先輩や応援団のファンが集まっていて、気勢を上げています。そんな一団の前でバスは止まり応援をはじめます。 応援歌、カレッジソング、そして青山ほとり(大根おどり)。特に大根おどりは選手が見えた頃から踊り出し、選手が通り過ぎると即、終わりにしてバスに乗るというのがパターンでした。....踊っていても雪が口に入ります。寒さの中の踊りですので、革靴が悲鳴を上げます。 いよいよ箱根には入り、雪の降りも激しさを増します。積もった雪の上に整列していると自分の体温で雪が融け、体が沈むのが分ります。酷使した革靴の隙間から雪が融けた冷たい水が靴下の中に入りびっくりする程の冷たさです。そこでまたまた大根おどり。カチカチに凍りついた革靴で突然踊り出すのだから、ひとたまりもありません。靴底は見事に裂けます。.......ちょうど映画に出てくるチャップリンが履いていた靴の様で靴底がはがれペラペラの状態です。あきれて笑いさえ出ます。......替えの靴がある訳もないので、皆、最後まで踊り続けました。 ちなみに、農大カラーは深緑色です。芦ノ湖のゴール付近では、それぞれの大学応援団が自分の大学のカラーが見えるのを今か今かと待ちわびています。それが見えると同時に応援開始。我農大でも「大根おどり」を始めます。通常大根おどりは4番までですが、選手が通り過ぎるまで何度も繰り返し踊ります。 「見えたぞ~。」の合図に踊り開始。ところが近づいてくると何となく違う。よく見ると、農大ではなく、大東文化大学の選手。当時大東大はとても強い大学でした。.........そんな訳でヘトヘトになって踊ったのに水の泡。本学選手が来る頃は、息も絶え絶えでしたが、それでも必死に踊りました。....「お願いだから、良く見てくれよ~。」
April 3, 2006
<大根の負けた日> 最近では、なかなか出場の難しくなった箱根駅伝ですが、私が現役の当時は常連でした。正月2日は東京、箱根間はお祭り騒ぎです。 3年生の時の箱根駅伝の事です。読売新聞社前で選手のスタートを送り、一路箱根に向かいました。順調に車は進み、箱根に着くと所定の場所に陣取ります。 ところが、いつもと何となく違います。箱根駅伝と言えば「大根踊り」ということで、毎年農大応援団の場所の正面には道路を挟んで、やぐらが組まれ、テレビ局が陣取ります。それが今年は見当たらない。へんだな、へんだなと思い、ふと見ると離れた所に「人だかり」が見えます。 先輩の許可をもらって、偵察に行きました。するとそこは中央大学応援団の場所です。人ごみを掻き分けて前に出ると、そこにはなんと「バトンガール」がいるではありませんか。それもたった一人の。.....ミニスカートにポンポンを持ったバトンガールが足を上げるたびに、見物人の中から歓声とどよめきが上がります。 今では、駅伝のゴールには当たり前の様に、バトンガールが参加しています。バトンガールの競演と言っても良い程盛んになっていますが、この当時は画期的というよりも「禁じ手」を使ったな!と言う感じでした。(汗臭い、泥臭い男の世界にとうとう女性が進出したという感じです。) テレビカメラも必死にバトンガールの動きを追います。「畑の大根が、都会の大根に負けた日です。」................。 時代の流れは結構早いもので、たった4年間の中でも変わって行く物、無くなって行く物、そして新しく生まれるものをたくさん見てきました。歴史と伝統を尊ぶ組織に属していると、特に感じるのかもしれませんが、組織を維持しながら時代の流れを取り込むのは、なかなか至難の業です。 「これからは、バトンガールの時代だ!」と考え、4年になり団長になった時、一番最初に手を付けた仕事は、「応援団バトンガール部の設立でした。」 ちなみに、バトンガールと言う言い方は古い様です。バトントワラー、チアーリーダーと言わないと怒られます。
April 2, 2006
<応援団で学んだこと-その3> 昔、「大脱走」という映画があり、スティーブ・マックイーンが大活躍しました。ドイツ軍の捕虜となった連合国の兵士が、収容所がら集団脱走する物語でしたが、その中で、とても興味を持ったのは、調達係の存在です。 限られたスペースの収容所の中で、服から靴まで調達してくるのは至難の業です。その為には、様々なテクニックも必要かもしれませんが、ドイツ兵相手の上手な人間関係の構築も必要だったと思います。 さて、応援団でも調達力は非常に要求されます。交渉力も必要です。例えば学園祭の宣伝パレードにしてもバスの調達、トラックの調達、野菜や人間の調達まで、細かい物まで数えれば、数百アイテムを調達しなければなりません。その内のどのアイテムが欠けても、行事は止まってしまいます。 収穫祭の宣伝の1つに「みこしパレード」という行事があります。学内の部活や学科対抗で「創作神輿」を作ります。何十もの「みこし」が農大通りを練り歩きます。中でも圧巻は、林学科の作る恒例の巨大ゴリラ(サル)のみこし。高さ4m巾4m位はあったと思いますが、それをワラと竹で何日もかけて作ります。全身真っ黒に塗った土人に扮した学生が何十人か交代で担ぎます。担ぐと6メートル近くになり、注目を集めます。 応援団はそのパレードの先頭を行きます。応援団のみこしも毎年恒例の俵神輿です。担ぎ棒の上に3つの俵を乗せ、紅白の布を巻き飾ります。ただし予算は殆どありません。夜中になると調達係が一斉に闇に消えます。俵は実家が田舎の後輩に頼んで、むりやり寄付してもらいます。布屋さんの前でニコニコしていると安~く布をわけてくれます。......日頃の付き合いが大事です。そんな訳で毎年、無事神輿も完成します。 おかげさまで、この時鍛えられた能力は、田舎に帰ってからのお祭りやイベントで、大変役に立っています。今は無くなってしまったのですが、昔、地域の消防団に入っていた頃、正月恒例のご祝儀集めがありました。めぼしい家や店を歩き祝儀を頂き、それで1年間の飲み代(親睦費)としました。私が班長の年はずいぶんとご祝儀を頂き、感謝しています。 ところがどこかの偉い人が「消防団には公金から何がしかの給料が出ているのだから、この風習は良くない」との事で、禁止になった様です。................。その後、残念ながら、消防団と地域のつながりが薄れた様な気がします。...世の中正論が正しいとは限らないこともあります。
April 1, 2006
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