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<応援団で学んだこと-その2> 礼節、規律、....数年前に臨時で高校の先生を引き受けた事があります。びっくりしたのは、生徒と先生が友達の様です。話を聞くと中学校も同じ様だとの事です。.......私が子供の頃は、先生は結構恐い存在でした。その先生から授業で何を教わったかは覚えていませんが、先生の生き方、考え方、態度は、結構記憶に残っています。 本来ならば礼節、規律は家庭で教え込むものですが、実際は甘やかし放題で幼稚園や学校に送り出してしまいます。恐ろしい事に、小学校ではクラスに一人位は授業に集中できなかったり、騒いだりする子供が居るようです。「学級崩壊」などと言う言葉は、先生の技量による物だと思っていたのですが、どうやらそればかりでは無いようです。 とにかく、早いステージで、こども達に礼節や規律を教え込む(体得させる)必要があるのではと思います。少年団活動や体育系のクラブ活動などは、上手に活用すれば礼節、規律の精神を育む良い教育材料だと思います。 ちょっと余計な事を書いてしまいましたが、応援団では、この礼節と規律が最も重視されて教え込まれました。社会に出て、いろいろな方とお付き合いする中で、この2つの事柄さえきちんと守っていれば、長くお付き合いができることを確信しています。 闘志、団結ですが、最近では学校の運動会でも1等2等を決めなかったり、競争をさせなかったりする所もあると聞きます。順位をつけるのが不平等だという考え方から来ているのかもしれませんが、それでは「戦う心、向上心」が育ちません。人間としての進歩が止まってしまいます。決められた学校の教科だけ出来れば世の中を渡って行けるはずもありません。 「世の中」は「人の中」だと思います。人の中を生きる術を会得するのも、勉強ができるのと同じくらい重要だと思います。 昨夜、仲間と飲みながら、いろんな話をする中で、「勝ち組み、負け組みと言うけれども、それを見る視点により評価はずいぶん変わるだろう。」と言う話がでました。その通りだと思います。人生山あり谷あり、人間として、目標や夢を持って生きている以上、とにかく「諦めない事」が最大のポイントだと思っています。
March 31, 2006
<応援団で学んだこと> 先日、「先輩」という方からお便りを頂き「毎日楽しく読ませてもらっているよ。でも内容がちょっとヤバいんじゃないか?」との内容。......ドキ!とうとう先輩に見つかってしまったか、しかし、どの先輩だろう?一口に先輩と言っても何百人もいます。 そう言えば知人からも「バラ園の品位が落ちるのが心配」とか「もっと書け書け」とか様々な意見をもらいます。先日ちょっと嬉しかったのは、バラ園の中で「アロマテラピー教室」を開いてくれている先生(元青学ガール)が「ブログ楽しく拝見してます。」言ってくれた事です。ちなみに、歳の離れたマイワイフは「何を書いてあるかゼンゼンわかんな~い。」と言います。 さて、ハチャメチャな事ばかりしている様な応援団ですが、学んだ事はたくさんあります。応援団室の正面に額に入った「宣言」が掲げられています。 「敬愛、勇気、忍耐、礼節、規律、闘志、団結」の七つの宣言です。応援団に入ると一番先に暗記させられ、叩き込まれるのがこの宣言です。 今、書いていて思ったのですが、今の世の中この七つの「事柄」がずいぶん不足している様です。先日WBCの祝勝会でビールを掛けられたイチローが「もっと先輩を敬え!」と叫ぶシーンを見ましたが、本気で言った様に思えます。応援団ではとにかく年長者を敬います。敬語も叩き込まれます。真剣に覚えたものは決して消えません。 「勇気」です。自分なりに約すと、新しいものへの挑戦、そして行動力。失敗を恐れない心です。その為には「忍耐」が必要です。 応援団の「オッス」は漢字で書くと「押忍」。文字通り「おししのぶ」事です。最近キレル青年や子供が多くいます。幼少期に我慢する事を教え損ねた為でしょう。血統書付きの犬でも小さい内に仕込まなければ、ただのバカ犬です。 仕事が始まるので続きは明日にしますが、冒頭に意見を頂いた「先輩」はどうやら私を応援団に入れて下さった先輩の様です。今日の自分があるのは先輩のおかげだと思い感謝しています。................押忍
March 30, 2006
<夜のヒットスタジオ> 森昌子ちゃんが歌の世界に復帰するというニュースをテレビで盛んにやっています。彼女が47歳になるとは知りませんでした。昌子ちゃんなのか昌子さんなのか、とにかく3歳しか違わないとは思ってもいませんでした。 初めて森昌子ちゃんを近くで見たのは、むか~し昔、夜10:00からやっていたテレビ番組の「夜のヒットスタジオ」の収録の時です。当時の司会は井上順さんとゆきさおりさん。軽妙なトークとテンポで人気のあった番組です。 ゆきさおりさんは「夜明けのスキャット」以来のファンです。LPレコードも持っていたので、近くに居るというだけでドキドキです。森昌子ちゃんは「花の中三トリオ」のイメージのままだったので、一緒に年を取っているのを忘れていました。 「花の中三トリオ」と言えば、山口百恵、桜田淳子、森昌子ですが、百恵ちゃんと淳子ちゃんは明確にアイドルでしたが、森昌子ちゃんはアイドルではなく演歌歌手だった様な気がします。後に百恵ちゃんも「いい日旅立ち」辺りから正統派歌手の道に入っていったのではないでしょうか。 ところで、何で応援団が「夜のヒットスタジオ」に行ったかというと、......。そこの所を良く覚えていないのですが、きっと誰か(出演の歌手)の応援出演の為だったと思います。歌手が唄いだす前に「大根おどり」で景気をつけます。 出演の時間を待つ間、スタジオの外の控え室にいると、ギター抱えた青年がいます。普段着姿だったので「見学ですか?」と聞くと「はぁ~」とそっけない返事。考えて見れば、控え室に一般人が居る訳もなく、しばらくして、呼ばれていった彼が歌ったのは私の大好きな「春うらら」.......たしか「たやままさみつ」さん。デビューしたばかり彼の顔を知るはずもなく、失礼な事をしてしまったと反省しています。分っていれば絶対サインをもらっていたのに.....残念です。
March 29, 2006
<やっと口をきいてもらいました> なんとか研究室に入れてもらい、学生っぽい生活が始まりました。一応理科系の学校ですので、実験用の白衣を着ます。真っ黒いガクランに真っ白い白衣を着た姿は自分でも結構気に入っていました。 研究室の仲間とは、飲みに行ったり、フォークソングを歌ったり楽しく付き合っていたのですが、どうも教授があまり口をきいてくれません。....「まあ仕方ないかな~」と思いながら、時が経ちました。.........。 4年生の秋、学園祭が近づいたある日、久々に研究室に寄りました。それまで応援団として、学園祭の宣伝パレードや数々の行事をこなしてきたので、研究室へはなかなか行く事が出来なかったのです。 研究室のドアを開けると、ただならぬ気配です。「どうしたの?」と聞くと「学園祭用の研究発表の模造紙書きが間に合わない」との事。見ると女子が一人で模造紙と格闘しています。当時はコンピュータもワープロもまだ普及していない時代だったので、展示用の紙は全て手書きです。たくさんの人間は居たのですが、どうやら読める字を書けるのは、彼女だけだった様です。(確かどこかの新聞社に就職したちょっと美人です) 彼女はすでに腱鞘炎ぎみで、痛さをこらえながら1字1字丁寧に下書きをして書いています。.....「俺で良ければ、手伝おうか?」私はマジックを持ちました。 模造紙書きは得意です。実は得意と言っても応援団でしこまれたものです。応援団では、体力的なものや、精神的なものも仕込まれるのですが、事務的な能力も求められます。OB役員や先生方には手書きの書類をたくさん出します。 そんな訳で、下書き無しで、読み上げる文章を模造紙に書き取りました。なんとか予定の枚数を書き終わる頃、声を掛けられました「君はなかなかやるなぁ~」 顔をあげると、そこにはあの教授が立っていました。.....(やっと口をきいてもらう事ができました。).......とても嬉しかったです。 それから後、先生との距離は急速にちじまり、なんにつけても声を掛けられる様になりました。先生とのお付き合いは卒業した後の方が遥かに長いものとなりました。研究室の合宿研修が伊豆である時は、大型バスで何度も農場に寄っていただきました。.......(花づくりのきっかけとなった研究室での出来事です。)
March 28, 2006
<入室試験> 3年生になると研究室に入ります。もちろん入らなくても良いのですが、ただ漠然と4年間過ごすのももったいない話なので、私も研究室を探す事となりました。 別の言い方をすると、「せっかく大学に入ったんだから応援団生活だけでなく、一般学生の気分も味わってみたい。」と言う事。.......本音です。(人間バランスのとれた生活が大切です。) 人気のある研究室をさがしました。米や野菜の研究室も良かったのですがやはり「花」の研究室です。のぞいて見ると当時の農大には珍しく女子がいっぱいいます。 ワクワクしながら入室の申込みに行きました。 ところが.....。普通、研究室は申し込めばすんなり入れてもらえるはずなのに、なぜかOKが出ません。いろいろ聞いてみると、どうやら研究室の一番偉い教授が難色を示しているらしい。この教授は、花卉園芸界では名の通った先生で私も尊敬している先生です。........性格上反対されると、よけいに闘志が湧くタイプですのでしつこく粘ります。 おかげさまで、入室試験に合格すれば良し。という事になり試験に臨みました。試験と言っても教授との面接試験です。いろいろ質問されて最後に聞かれたのは「君は将来何になるんだ?」という質問です。....間髪入れずに「はい、花作りの農家になります。」と答えました。.....はっきり言って「出任せ」でした。 実はその頃、正直言って将来の方向はまだ決めていませんでした。父は7人兄弟でしたが、半分以上は学校の先生でした。そんな訳で親には「先生にでもなれば」などと言われ、実際に教職課程もとっていました。........今考えると、その時の出任せがきっかけでバラ作りに入ったのかもしれません。 後で知ったのですが、その時先生が反対した理由は、「応援団が大嫌い」という事だった様です。「野蛮で無知、時代錯誤」当時の教授陣の中ではおしゃれでスマートな紳士というイメージの先生でしたので、基本的に応援団の存在は許せなかったのでしょうか?。それと我々学生の知るところではありませんが、大学の中の派閥関係で、どうやら反対派閥に突っ込んでしまったようです。......「それもまた良し」 ちょっと自慢なのは、その時の研究室の同期生は15人程いたのですが、実際今日も花を作っているのは、私一人です。
March 27, 2006
<ハムの思い出> また春がきて、新しい後輩ができて、また合宿です。恒例の鎌倉の学生会館。合宿ともなれば、日本中から先輩が励ましに駆けつけます。ご祝儀を持ったり、酒を持ったり。先輩も大変です。 食べ盛りの学生が集まっているのですが、合宿予算が少ない為か、食事はそんなに豪華ではありません。それを知ってか、ハム会社の社長がハムをたくさん差し入れてくれます。有り難い事です。 食事のたびにハムが出ます。朝、昼、晩、先輩から頂いた有り難いハムですので残す訳にはいきません。......ハム攻め、ハム攻撃です。(ちなみに、私はハムは大好きで、いくら食べてもへっちゃらです。) ところで、その年の先輩の中に、ものすごいスポーツマンがいて、とにかく走る事が好き。ガンガンしごかれていました。驚いたのは、合宿の中盤、その日は運良く雨で、この分なら今日の練習は休みかなと思っていると、先輩が言いました「今日は雨だから練習はやめて、リクレーションとする。せっかくの鎌倉だから名所めぐりをしよう。」と。........後輩一同大喜び。しかし、次の言葉で呆然。「ジャージにカッパをきて玄関集合」.......いや~な予感がします。 案の定、走っての名所めぐりです。弓ヶ浜、鎌倉の大仏、銭洗い弁天などなど。様々な寺院めぐりをして、鶴が丘八幡宮につきます。太鼓橋を渡り、着いたのは見上げる様な大きな石の階段。.....そう言えば数日前、この石段を「うさぎとび」で登ったな~。.......「巨人の星」でもこんな無茶はしないよな~....などと感傷にふけります。...........(どこがリクレーションじゃい!) さて、ハムの話に戻ります。そんな合宿のある日の昼ごはん。何の都合か忘れましたが、予定した数より3人前多く食事が出ました。「残すのはもったいないから誰か食べろ」という事ですが、皆、午前の練習がきつくて食欲がわきません。すると先輩はニヤッと笑って「全部食べたら午後の練習出なくていいかも?」といいます。 そうなれば私の出番です。山の様なハムとごはんをむしゃむしゃ。昼休みは1時間あったので、時間はかかったのですが何とか3人前を食べ切りました。もうお腹パンパン。その場に大の字になって寝転びました。すると先輩が言います。「さあ練習開始、午後はマラソンだ!」........問答無用で走らされました。 「先輩の甘い言葉には気を付けよう。」その日の教訓です。.....しばらくの間、ハムを見たくはありませんでしたが、のどもと過ぎれば・・・で、またガンガン食べていました。
March 26, 2006
<シャルウィーダンス> 夕べテレビで「シャルウィーダンス」をやっているのを見て思い出しました。 応援団の本部のとなりの隣の隣が社交ダンス部でした。時々のぞくと、信じられない様な別世界が広がっています。もちろん好きでのぞいていたのではなく、ダンス部の隣がトイレと流し場で、茶碗を洗ったりする事が多く、よく行ったり来たりしていました。 応援団には団室当番という仕事があり、交代制ですが1日中詰めて、電話対応と先輩の世話をします。先輩が来ると大きな声でオッスと挨拶し、続けてお茶を出します。他の部の先輩やマージャンをやる為に来る先輩も多く、いつもたくさんの茶飲み茶碗を用意してありました。 中でも情けないのは、先輩がトイレに行く時、トイレットペーパーを持って付いていき、用を足すまでトイレの前に立ち続けます。これも人生修行と思えば良かったのでしょういが、当時はむなしい限りでした。 そんな時聞こえて来るのは、優雅なワルツの曲です。きっと「魅惑のワルツ」だったのでしょう、流れる様な旋律に合わせ、男女がこれ以上くっ付けない程くっ付いて華麗に踊っています。......(同じ学生生活で何でここまで違うのだろう?)などと考えていました。 確かに我々も踊っています。ただしパーカッション一つ。太鼓一つで踊りまくります。太鼓はリズム感のいい「もっちゃん」の担当でしたが、彼の手はいつもマメだらけ、手に巻いた包帯はいつも血がにじんでいました。......そして何より女っ気は全くありません。(男の世界・マンダムです。) 応援団の踊りは直線的です。社交ダンスの様な「まろやかさ」や流れる様な動きはありません。「空手のすん止め式」です。「ムード」などと言う言葉は応援団では死語です。 ちなみに、卒業後、田舎に帰ってバラを作り始めるに当たり、「これからの百姓はダンスが出来なければならない。」などと訳の分らない理屈を付けて地域の公民館の青年講座に参加しダンスを始めました。残念ながら、体型やテンポに乗り切れないなどの理由で3年でリタイヤしてしまいました。.......でも今でもジルバは少しは踊れます。......(かくし芸の様です)
March 25, 2006
<アフターヌーンショウが来ました> 古い話なので、知っている人しか知りませんが、昔、午後3時からテレビでアフターヌーンショウという番組がありました。かなりの人気番組で、川崎敬三さんが司会をしていました。 その中の人気コーナーに、村上さんという突撃レポーターが、話題のスポットに出かけ、体当たりでレポートをするというものがあり、我応援団に白羽の矢が立ちました。生放送では無かったと思いますが、朝から物々しい撮影隊が体育館前の応援団の練習場所で撮影準備をしています。 練習開始直前に村上さんを紹介されました。どうやら私がレポーターを「しごく」係りの様です。(顔が恐そうなので採用されました)レポーターは慣れないガクラン(学生服)を着て、撮影開始です。........と言っても、いつもの様に手を振ったり、声を出したりですが、レポーターにはキツイ様です。気合が入っていないと腕立て伏せ100回、声が出ていないと「ケツに蹴り」。.....かわいそうなので、優しく蹴っていたら、テレビ的には、厳しい方が良いとの事で、それではと普通に蹴ったら吹っ飛んでしまいました。 農大と言えば「大根おどり」という事で、普通、練習では使わない大根が用意されていていました。持たずに踊ってもキツイのですが、持って踊ればキツさは倍増です。ちなみに大根にも暗黙の掟があります。できるだけ小さくて軽そうな物は先輩が持ちます。太くて大きい大根は1年坊です。......当然村上レポーターは一番大きな大根です。 何とか無事撮影が終わり、オンエアーも見る事がでいましたが、「恐い応援団」のイメージが強調されている様でした。「ほんとは、男気はあるけれども、すご~く優しくて、ロマンのある男たちの集まりなのになぁ~。」と思いました。
March 24, 2006
<風が吹いてきたぜ> 日の目を見る事の少なかった応援団活動にも、わずかながら光が差し込む気配がして来ました。それは意外なところから始まりました。週間雑誌に連載が始まった「嗚呼花の応援団」という関西系の漫画が、応援団という特殊な組織の暴露的な表現描写と、ハチャメチャな展開で、序々に人気が出てきました。 主人公の「青田赤道」は南河内大学の旗手隊長。めっぽう喧嘩が強くて、しかも女性にもてる。.....名前からして怪しい主人公ですが、彼を取り巻く応援団員が引き起こす、様々なトラブルを「青田赤道」流で痛快に解決していきます。 実際に応援団の経験がなければ、絶対書けない内容で、当然現役の応援団員には身にしみて分る事が多く、一回読んだら病みつきになりました。ストーリーの中では、喧嘩や乱闘シーンがたくさん書かれていましたが、実際は応援団員が喧嘩をする事など殆どありませんでした。関西の大学はどうだったか分りませんが、関東では、学生応援団連盟や各大学の横のつながりはしっかりしていて、どちらかと言うと、トラブルの仲裁に入る事の方が多かった様な気がします。 応援団人気は序々に高まりをみせ、マスコミからの取材依頼もポチポチ来る様になりました。確かその頃でしょうか、コマーシャルの依頼もありました。「ノドップ」という「のど飴」のテレビコマーシャルを製作する事となり、農大「団結節」の「オース、オース、団結だ」の歌詞をもじって、「オース、オース、ノドップだ」と唄うのです。画面では、四角張った漫画の応援団員が踊ります。 大学の歌がコマーシャルに使われるのには賛否両論あった様ですが、応援団の存在がより社会に浸透したという点では、良かったと思っています。ちなみに、このコマーシャルの効果で、「ノドップ」がどれ位売り上げたかは、わかりません。
March 23, 2006
今日は朝から、県庁で県知事との懇談会でした。 午後は三島の商工会で、経営の講演会に出席。いい勉強になりました。 そして今から、仲間と宴会です。ワクワク。 以上
March 22, 2006
<野球の応援> ワールド・ベースボール・クラッシックで王ジャパンが優勝し、日本中が沸いています。私も今日は、ラジオを聞いたりテレビを見たりの1日でした。ラジオではしきりに「9000キロ離れたアメリカの地に日本の皆さんのエールを送ってください。」と連呼しています。観客のこころが一つになった時、なんらかのエネルギィーが出るのかも知れません。 さて、応援団と言えば野球の応援です。神宮球場に団旗をたなびかせ、声を限りに選手にエールを送る。これぞ応援団の本懐です。.......が、これは6大学、東都1部リーグの話で、我々は神宮の第2球場での応援です。農大は当時、東都2部リーグでしたが一回だけ1部との入れ替え戦に臨んだ事があります。中央大学相手だったと思いますが、残念ながら破れてしまいました。ちなみに、その時投げた中央のピッチャーはプロ野球選手になり、農大のピッチャー(先輩なんですが)は静岡でバラ栽培をされています。 2部リーグの、それも消化試合ともなれば、観客はまばらです。広い球場には応援団と選手だけ。そう言えば野球の応援は何度も行ったのですが、試合を見た覚えがありません。と言うより見ている暇がありませんでした。我々は常に前に立って指揮をとる先輩の手の動きを見ていました。そんな訳で、選手の名前は知っているのですが、顔がわかりません。 ところで、野球部には移動用のバスがあった様ですが、応援団は電車や路線バスを利用して移動していたと思います。負けた時など、野球部はピューと帰れるのですが、応援団はそうはいきません。「お前たちの応援の気合が足れないから野球部が負けたんだ。」との事で、神宮第2球場の周りを何周も走らされ、大学に帰ってからも先輩の雷が落ちます。........(意味が良くわかりません。) とにかく、応援すると言う事は大変なことです。実際に競技する訳でもなく、競技の進行を手伝う訳でもなく、ただひたすら声を出し、汗をかきヘトヘトになってエールを送り続けるのですが、勝利と栄光は選手のものです。我々は選手の喜びを自分の喜びとし、ひた向きに精進ていくのです。
March 21, 2006
<鳥鍋の秘密> 「こんな寒い日は鶏鍋でも食べたいなあ~」......先輩のさりげない一言で事件が始まります。 世田谷通りの肉屋まで、鶏肉を買いに走れば済むのですが、そう考えないのが応援団。皆でこそこそ相談した結果は、学内での鶏肉の調達。幸いここは農大です。畜産学科の研究室に行けば研究用にニワトリがいるはずです。 すばしっこい後輩を2人選び、ほっかぶりをしてニワトリの調達です。金網の中でニワトリを追いかけている間、役割分担と段取りです。鍋の手配、火の準備、野菜の調達、味噌、ニンニク集め等々色々あります。 ちなみに応援団では、調達能力のあるなしが重要なポイントとなります。応援団用語で言えば「おまえは、つかえね~な~」と言われたらおしまいです。 さて、「つかえる」後輩達が2羽のニワトリを「ガメ」てきました。(頂いてきました。)そこで活躍したのは実家が養鶏業の先輩です。鶏に熱湯をかけるとキレイに羽が取れるのを知りました。この先輩は後に団長になり現在は大きな養鶏業を営んでいます。先日テレビで細木かずこの番組を見ていたら、ちゃっかり出演していました。 料理は私の係りです。きれいに洗った鶏肉を一口大に切り、水の入った鍋に入れます。煮えてくるとアクや油が出てきます。それをお玉で丁寧に取り、スープが透明になるまで続けます。その中に味噌とおろしニンニクをたっぷり入れ、ちょっと濃いめに味を調えます。(鶏肉が足れない時は、だしの元を少々入れます) その中に白菜、もやし、油揚げとニンジンの短冊切り、豆腐、しいたけ、いとこんにゃく、春菊などを入れて一煮立ち。.........すると味噌ラーメンの様な味の鳥鍋の完成です。.......これが酒に合うんです。 ところで心配なのは、研究用の鳥がいなくなった研究員です。卒論が無事通ればと祈りながら、美味しく頂きました。「ゴッッアンです!」
March 20, 2006
<環八のラーメン> 今、ラーメン激戦区と言われる世田谷通りですが、当時はつけそば屋があるくらいで、ラーメン屋はあまり無かったような気がします。 環八(環状八号線)沿いに夜になると「屋台ラーメン」が立ちます。けっして美味い訳ではありません。マズイと言った方が分り易いかもしれません。このラーメンにニンニクをごってり入れ、コショウをたっぷり入れると、よく味が分らなくなり食べられます。 下宿から環八の屋台まで歩いて20分はかかります。同じ下宿の同級生に声をかけ出発します。下駄履きが基本です。カランコロン、カランコロン下駄の行進が始まります。世田谷の上用賀付近は、碁盤の目の様に道路が整備されています。下宿を出て一つ角を曲がると、後は一直線。まっすぐな道の先に見えるのは、世田谷の清掃工場。白い煙が上がっています。 直線コースに入ってから、道の両脇には場所柄、学生用のアパートや下宿が立ち並びます。カランコロンの音が聞こえて来ると、あちこちのアパートのまどから「お~い、待っててくれ~」の声がかかります。そんな事があるので屋台ラーメンまでは余計に時間がかかりますし、到着の頃には結構な人数になります。 美味くないくせに、混んでいるのが納得できません。続いて始まるのは、この店で一番うまい「ゆでたまご」の争奪戦です。先輩がいると優先的にとられます。 注文が終わって、出来上がりを待つ時間、環八を通る車を見たりします。静岡ナンバーや沼津ナンバーを見つけるとちょっと嬉しくなります。財布に余裕」のある時は、お酒をたのみます。小皿にコップを乗せたものへ、1升びんでなみなみと注ぎます。その時小皿も一杯になるくらい酒を注ぎこみます。初めて見たときには、こんな作法もあるのかなと、感動しました。 ニンニクの入れすぎのせいか、このラーメンを食べた次の日は、人と話をすると「なにか悪い物でも食べたんですか?」と聞かれます。
March 19, 2006
<学内指名手配 その3> さあ大変、どうしましょう。しかし「立て看板」まで作られたのでは、もはやこれまで。観念して自首しようと決めました。 ところで何処へ自首しようかという相談になり、やはり「学生部長」だろうという事になりました。仮名キョータ君と2人揃って学生部長室に向かいました。ドアをノックして部屋に入ると学生部長は腕を組んで待っていました。 「この度は、大変ご迷惑をお掛けしました。申し訳ありません。」深々と頭を下げました。すると一括「だめじゃないか、見つかっちゃ!」.................。あれ、ちょっと予想に反したお叱りの言葉です。......もしかして、見つからなければOKなのかな?......。良く考えてみれば、我々の壊した立て看板は「学費値上げ断固反対」と書いた公開質問状だっのです。大学側からみれば厄介物です。それを大学直属の応援団員が壊したのだから、学生会としても絶好の突っ込みどころだったのでしょう。 学生部長の次の言葉にまた驚きました「ところで君はまだ2年生だったのか?顔がふけていたので、てっきり4年生だと思っていたよ」と。嬉しいような悲しいような複雑な気分でした。........この時お世話になった学生部長は、後に学長、そして理事長となり今日の大学の発展の中枢となっておられます。 学生部長のとりなしで、学生会にもお詫びの挨拶に行く事が出来、とりあえずこの件は一件落着となりました。怪我の功名と言えるかどうか、この事件をきっかけに、学生部長とお話が出来る様になり、また、本当は立場上、反目し合う学生会へも個人的には自由に出入りできるところまでいきました。
March 18, 2006
<学内指名手配 その2> ドアを開けると、広い空間がひんやりとした空気で埋まっています。確かドアの付近に明かりのスイッチがあったはずだと、懐中電灯で探します。ようやく明かりがともり、教室全体を見渡す事ができました。................。 当然の事ですが、怪しい物など居るはずもなく、教室内をぐるぐる廻って帰る事となりました。「考えてみれば、こんな寒い時期に出てくるオバケもいないよな」などと言いながら、教室をでます。しかし、意気込んで行った割には拍子抜けで、一杯飲んでいた為か、気持ちの高ぶりをどう抑えようかと思っていたところ、何かにドカンとぶつかりました。 見ると、学生会が置いた「立て看板」です。大きな赤文字で、「学費値上げ断固反対」と書いてあります。当時はすでに学生運動も収まり、世間を騒がせた全学連などという名前も、さほど聞かなくなった時代ですが、それでも学生自治会としての活動は活発でした。 若気の至り、もののはずみだったのでしょうが、ぶつかった立て看板をボコボコに壊してしまいました。........ちょっとしたストレスの発散です。しかしその時後ろから怒鳴り声がします。「だれだ、お前たち!」 「やばい、逃げろ!」......「まて~!」。。。。。私達は転がる様ににげました。学内をぬけ、北門から通りに出て、細い路地を抜け、とにかく走り続けました。気が付くと、どうやら千歳船橋近くまで逃げてきたようです。途中から「追っ手」の声は聞こえなくなっていたのですが、勢いでこんな遠くまで逃げてきてしまいました。 その夜は近くの友人の下宿に転がり込み、一夜を明かしました。しかし興奮して寝られたものではありません。明け方近くにようやく眠りにつきました。 周りのざわめきで目をあけたのは、日もかなり高くなった頃でした。友人が大学の様子を見てきてくれたのです。......それを聞いてびっくり。目が覚めました。 大学キャンパス広場の真中、大学本部のまん前に巨大な立て看板が立てられ、それには「学内指名手配、応援団杉山、農友会仮名キョータ。この者.....。」と書かれていて大騒ぎになっているとの事。.........さあ大変です。
March 17, 2006
<学内指名手配 その1> 学生生活で色々な思い出を作ってきましたが、中でも鮮明に記憶に残るのは、「学内指名手配」になったことです。 あれは私がまだ2年生の頃の秋の事です。その年の学園祭は大荒れとなりました。急性アルコール中毒で研究室の学生が亡くなってしまったのです。体育系の学生は、ある程度酒の飲み方を心得ているのですが、一般学生は酒を飲まされる機会が少ないので、この様な事故が起ってしまいました。 学園祭の夜、応援団員は学内の警備の手伝いに駆出されていました。ベンチで寝込んでいる学生や、酔いつぶれている学生を助けて、収容場所になっていた「104階段教室」に連れていきました。学園祭本部の学生も全力で事の対処にあたりましたが、とうとうこの様な悲しい事態が起ってしまいました。 (その後何年か、飲酒禁止の学園祭が続く事となりました。)............。 それから暫くして、学内にちょっとした「うわさ話」が広まりました。それは、「例の104階段教室に夜な夜な何かが出るらしい。」という噂。 そんな話を聞いて、放っておける訳も無く、「よし、そんなものは俺達が退治してやる。」とばかり、当時学園祭本部にいた同級生の仮名「キョータ」君と一杯ひっかけ、景気を付けて104教室に向いました。 左手に懐中電灯、右手には、護身用の竹刀を持ち真っ暗な廊下をぬけ、いよいよ104教室に到着です。ちなみに104教室は200人位は収容できる階段式の大型教室です。真夜中の誰もいない教室。ましてや何か出ると言われる教室です、気持ちいいはずはありません。硬いドアをギィ~と開けるとドキドキも頂点です。
March 16, 2006
<大学から見える富士> 知っている人はあまりいませんが、大学本部の屋上には小さな「社」があります。大学の関係者以外は、めったに屋上には上がれませんが、収穫祭(学園祭)が無事に開催できるようにと行なう神事の時には、数人の学生代表も玉ぐしを供える為に屋上に登る事を許されます。 私も一度、この屋上に登った事があります。すがすがしい晴天の秋の日でした。社があったのもびっくりしたのですが、それより360度の展望は、それは素晴らしいものでした。 ふと気付くと、なんと富士山が見えるではありませんか。東京でこんなに綺麗な富士を見ようとは夢にも思いませんでした。なにせ生まれた時から毎日富士を見て育ったわたしです。富士山は当たり前のようにそこにあり、生活の一部でした。多少のストレスは富士を見上げるだけで吹っ飛びました。 もうひとつ大事だったのは、こどもの頃、東西南北の方角を覚えるのに、北は富士山の方、東は箱根山、南は大平山、西はとなりの屋根と教わったことです。 考えて見れば、静岡から富士山を越えて東京に出て来たのだから、当然富士山は南にあるはずです。しかし頭の中では分っていても、体や感覚で覚えた事はそう簡単に変える事はできません。 そんな訳で、4年間、北と南が逆に感じられて、とうとう直らないまま終わってしまいました。応援団の団室は当時北門のすぐ脇にありました。経堂駅から農大通りを通ってくる学生がたくさんいたので、出入りの学生の警備も兼ねていたようですが、人通りが多かったせいか、私にとっては、どうしても北門という感覚がなく不思議な感じでした。 今は田舎に帰り、毎日富士山を見ながら、雲の様子であしたの天気を予想したり、雪の具合で寒さを予想したり。........考えて見れば贅沢な事です。
March 15, 2006
<レコードができました> 私が2年の時、応援団のレコードを作る事となりました。今までにも、大学の歌を収録したレコードはありましたが、楽団付きの男性合唱団が歌ったもので、軽い感じのものでした。 記憶違いかもしれませんが、35~40年前、静岡のどこかのテレビ局で夕方4時頃から、「カレッジソング」という短い番組があり、青山学院大学と東京農業大学の「学歌」が毎日流れていたように思います。 さて、収録は青山のレコーディングスタジオを借りて行なわれました。そんなに広くないスタジオの中に20名近くの応援団員が入り、声を張り上げます。 一口に大学の歌と言ってもたくさんあります。学歌をはじめとし、応援歌、カレッジソング、団結節、相撲エール、農大五万節、蒙古放浪の歌等々。いつもなら唄いながら手を振ったり、拍手をしたり踊ったりの歌を、マイクに向って上手に歌うのは、かえって難しいものです。 極端に声が通ったり、かん高かったり、音をはずしたりすると後ろに回されます。大太鼓一つの音を頼りに唄い進みます。その当時の大太鼓は鉄製の胴に牛の皮を張ったもので、ばかに重かったのを覚えています。 当時の副団長は、青山ほとり「大根踊り」の歌い出しにこだわりました。大根踊りには、踊り始める前に、「能書き」と呼ばれる「かけ言葉」があります。「苦しき時の父となり~オース。悲しき時の母となり~オース。楽しき時の友となる~オース。いざ唄わんかな、踊らんかな、農大名物青山ほとり~」と能書きをうたいあげます。副団長がこだわったのは、「唄わんかな踊らんかな」の後に「狂わんかな」を付け足すことでした。 出来上がったLPレコードには、見事に副団長のこだわりの能書きが収録されています。 ちなみに、この能書きをいう時には、決まったポーズをとります。左手を腰に置き、左足を軸に右足を前に伸ばし、右手を高く上に伸ばし体をそらします。イメージとしては、左手を腰につけた「イナバウワー」です。
March 14, 2006
<秘密のお酒パーティー> 農大には醸造学科があります。珍しい学科なので日本中の大学の中でもそんなにたくさんは無いと思います。最近では小泉武夫先生が勢力的にテレビなどに出演し頑張っています。 そんな訳で日本中の造り酒屋の後継ぎが集まっています。応援団にも沖縄の実家で泡盛を造っている先輩おられて、子供の頃、酒樽の中で泳いだという話をうかがいました。最近その先輩の泡盛を、すぐ近くのコンビニでも見る様になり、先輩頑張っているなと心強く思っています。.....ちなみに「時雨」という銘柄の泡盛でとても美味しいです。 実はこの先輩に連れられて、秘密の会に参加する事になりました。何も聞かされなかったので、期待と不安でドキドキ。狭い部屋に男ばかり何人か集まり、車座になっていました。 すると出てきたのは1本の酒瓶。........さては密造酒か?と思いましたがそうではないようです。話を聞いてみると、どうやら日本酒を蒸留したものらしい。しかも度数は95度以上ある様です。各々のコップにつがれ飲みはじめます。 以前にアブサンを飲んだ事がありましたが、匂いの無い分こちらの方がましかなと思いました。しかし呑み込むとノドが焼けるようです。 何か「つまみ」でもあればと思ったのですが、そんなに甘くありません。この会に出る「つまみ」はただひとつ。........先輩は突然、車座の真中にあった皿にその酒をつぎました。そして部屋の電気を消します。「シュッ」とマッチを擦る音がして、小さな火が皿に向かいます。.......次の瞬間、ポッと小さな音がして皿に火が移ります。 それは綺麗な青白い炎です。......これがこの「秘密のお酒パーティー」の唯一の「つまみ」だそうです。.......でもやっぱり「つまみ」が欲しかったのを覚えています。
March 13, 2006
<体育が優> 教授の中にはなかなか単位をくれない先生もいます。その代表が体育の授業でした。きちっと出席していれば、何とか単位はもらえるのですが、私の様にほとんど授業に出られない学生にとっては鬼の様な存在でした。 出席日数が足れないと、良くて特講(特別講義)下手をするとサマーコース(夏休みに来て授業を受ける)です。顔一面にひげを蓄えた先生は、大きな声で「出席日数の足れない奴は死んでも単位はやらねーぞ。」と怒鳴っています。 応援団の練習は昼休みに行ないます。ところがこの練習が昼休み中に終わったためしがありません。体育の授業は午後1番です。それも応援団の練習場の目の前が体育館なので、皆が授業を受けているのを横目で見ながら、しごかれていました。 年の暮れのある日、いつもの様に体育部の納会に呼ばれ、エールをきる事となり行ってみると、なんとひげの先生が顧問の部の納会です。ちなみにこの先生は少々「酒乱ぎみ」。酒を飲むと暴れるタイプ。ドキドキしながら飲んでいると、どうやら先生酒がまわってきた様子。 突然、目の前の刺身皿の肴を手で弾き飛ばし、「誰かこの皿で酒を飲める奴はいないか!」。。。。見ると直径50センチ、深みは無いもののかなりの大皿です。 「飲んだらいい事あるんですか?」すると先生は言います「よし、体育「優」やるぞ。」........その言葉を聞き逃す私ではありません。 自分がやります。そう言うと先生の前まで進み出ます。「よし、やってみろ」後輩が1升びんの酒をつぎます。するとどうでしょう、浅いと思った皿に、なみなみ1升入ってしまいました。.......しかし飲むと言った以上飲まなければなりません。両手の手の平を皿の下にまわし、一機に持ち上げると口から向えにいきます。 深く息を吐き、一機に飲みはじめます。正直半分ぐらいは口の脇からこぼれますが、少なくとも5合ぐらいは確実に飲みました。顔が隠れるほど皿をあおり、飲み干すとニコッと笑って、「失礼します」と言うが早いか部屋を出て外に直行。もったいないと思いつつも酒を吐き出し、なにくわぬ顔で宴席にもどります。 戻ってみると、すでに先生は高いびき。.....「ああ、これじゃ約束なんか覚えてる訳無いな。」と思いながら下宿に戻りました。 ところが、通知表を見てビックリ。体育が「優」です。後日先生の所へ1本さげてお礼の挨拶に行きました。すると先生は笑いながら言いました。「お前の様に毎日飛び回っている奴は最初から「優」だ!」と。.......素晴らしい先生です。
March 12, 2006
<相撲部の飯> 相撲部には大変お世話になりました。いよいよ財政ピンチになると相撲部の合宿所にいきます。仲間はたくさんいますが、何よりタダで飯を食べさせてくれます。 ただし、一つ条件があります。飯はおかわり自由ですが、必ず1升の水を飲まなければなりません。相撲部の合宿所には大きな冷蔵庫があり、常に数十本の水を満たした1升びんが冷やしてあります。1.8リットルのビールを飲むのは、さほど苦ではありませんが、1升の水を飲むのは結構辛いものがあります。 最初は苦労しましたが、慣れると病みつきになり、水が無いと飯が進まなくなります。実は今でもその癖が直らず、少々困っています。 ところで、「どうして1升も水を飲むんだい?」と聞くと友人はニヤリと笑って言いました。「ここは相撲部だろ、相撲をとるには体重が重くないと不利なんだ。よその大学は肉を喰って太るんだ、ところがうちの大学は予算が無いから、水を飲んで太るんだ。」..............簡単に言えば「水太り」ということ。 合宿所に泊まる事もありましたが、これもなかなか大変。簡単に言えばデブが集団でゴロゴロ寝ているので、その「いびき」の物凄さときたら表現出来ないほどです。ただし風呂に入ると後輩が、頭のてっぺんから足の指の先まできれいに洗ってくれます。 そんな相撲部も大会になると強い。応援団も応援のしがいがあるというもの。学生横綱も輩出しています。「豊山」という名は農大出身力士が受け継ぎます。相撲協会理事長の時津風親方も農大の大先輩です。
March 11, 2006
<学内無差別相撲大会> 学内には不思議な行事がたくさんありました。中でも記憶に残るのは、「学内無差別相撲大会」です。相撲部以外の体育系の部なら何部でも参加できるというものです。会場は相撲部合宿場。四本柱の本物の土俵の上の勝負です。 優勝候補は柔道部。ボディービル部や剣道部、野球部も強い。もちろん応援団も出場です。各部は瓶ビールを1ケースづつ持ち寄り、優勝チームが総取りという決まりになっています。 当然私も出場です。相撲に関しては少々自信がありました。実は高校時代、人数の足れない相撲部の代打で県大会に出たことがあります。そんなわけで「まわし」を着けるのは慣れていました。素人では一人でまわしを着ける事はできません。そこで相撲部員がまわしをつけてくれます。 初めて「まわし」を付けるのは、かなり抵抗があります。「まわし」はとても硬く、ちょうど消防のホースを直接体に巻く様なものなので、慣れないと大変です。ましてや、他人のフンドシを借れるのはあまり気持ちのいいものではありません。 さて、いよいよ大会が始まり、団体戦ブロック別総当り。相手は優勝候補の柔道部。たいてい選手で出るのは、1年2年が中心です。私の対戦相手は同級生で群馬出身の当時柔道2段。私も同じ2段だったので、応援団の代表としても、個人的にも負けたくありません。ガッチリ四つに組み白熱した取り組みになりました。どっちが勝ったかよく覚えていませんが、その後彼とは飲んだり遊んだり、良き友となりました。 びっくりしたのはボディービル部との対戦でした。私の相手はなんと秋田出身のボディービル部主将。先輩は確か全国大会で2位か3位の体の持ち主。見るからに筋肉の塊、胸の厚みは半端ではなく、四つに組んで、胸が合っているのに、まわしに手が届きません。胸が厚過ぎて手がブラブラ状態です。わけなく引き付けられ投げ飛ばされてしまいました。 さすがに農大。全国から猛者が集まっています。
March 10, 2006
<花見の宴> 先日、河津ざくらを見る機会がありました。満開を過ぎ、中にはチラホラ花びらが散り始めている物もありました。 そこで思い出すのは、応援団の「桜の花見」です。......応援団とはいっても、いつもしごかれている訳ではなく、たまには楽しい事もあります。学内には数多くの桜の樹があり、中でも立派なのは北門付近の桜の古木です。 場所とりと準備は、後輩の仕事です。桜の樹の下にブルーシートを引きつめ、紙皿に紙コップを並べ、乾き物を盛り付けます。時間になると整列し先輩の到着を待ちます。 「先輩に挨拶、オッス」そして宴会が始まります。一通り酒が廻り気持ちよくなつてくると、先輩が言います。「歌が聞きたいなあ」.......この時代、カラオケはまだ世に出たばかりで、「8トラ」とよばれる太いカセットが出始めた時期です。従って歌といえば、俗に言う「アカペラ」です。 先輩に唄えと言われれば唄い続けなければなりません。交代で歌を切らさないように唄い続けます。交代でとは言いながら1時間以上唄っていれば、知っている歌も無くなってきます。最終的には「はとポッポ」とか「でんでんむし」とか「小学校の校歌」まで唄う事になります。 そんなころ、先輩がポツンと言います。「やっぱり桜は散り始めがいいな。花びらが、ヒラヒラ酒のコップに落ちるのがいいんだよな~」.......さりげなく聞こえる様に言います。 さあ大変です。確かに桜の花は咲いていますが、まだまだ満開とはいえません。従って、花びらが、散るはずもなくしっかりと樹についています。そこで、身の軽そうな後輩に桜の樹に登るように命じ、木の枝を揺らします。 後輩達の努力のおかげで、ちらほら花びらが落ちてきます。その様子を見て、幹部先輩もご満悦。「よしよし、これこそ花見の宴じゃ、よしよし」......。 おもわず「殿様かよ!」と突っ込みたくなる光景です。
March 8, 2006
<可愛い後輩> あっという間に一年が過ぎ、また春が来ました。無事入学式と入団式も終わり、さあいよいよ、新入生の勧誘です。過去の苦い経験から、あまり突っ張った奴はやめ、体育系の人間を捕まえる事となりました。 応援団は頭数が揃わなければ、格好が取れません。我々も先輩も一丸となって勧誘に走ります。毎日たくさんの新入生に声をかけ、めぼしい人材を説得します。 勧誘のポイントは色々ありますが、やはり最後は目の力でしょうか。4年間、応援団の厳しい環境の中で生き抜く為には、体力だけではなく、負けん気や根性が絶対に必要です。 おかげさまで、まとまった数の後輩ができました。......はたしてこの中で何人残るか。などと考えながらも、やはり後輩が出来たのは嬉しいことで、あちこち連れまわします。 そこで気が付いたのは、自分が1年坊の時は、「ゴチになります。」が多かったのですが、後輩ができると今度は、「ゴチ」しなければならない立場です。ましてや人数が多いときているので、けっこうキツイことになりました。 それでも、可愛い可愛い後輩達です。
March 7, 2006
<桃源郷> ももの花を見ると、いつも思い出すことがあります。 福島県のある高校から応援指導の依頼がありました。当時定時制から全日制に移行するなかで、4年生がいて、校内が少々荒れているとの事でした。 毒は毒をもって征すではないでしょうが、校内の秩序を作る為に応援団活動を取り入れたいとの依頼です。 ちょうど、農友会に福島出身の後輩がいて、彼の好意で、実家に泊めてもらう事となりました。いざ福島に向けて出発です。磐梯吾妻スカイライン、風光明媚な山間をぬけて、彼の実家に着いた時には、すでに辺りは暗くなっていました。 木が立ち並ぶ間のまっすぐな道を進むと、ヘッドライトの向こうに、大きな屋根の農家が現れました。 我々が着くと、一家をあげて大歓迎をしてくれました。中でも、彼のお姉さんは福島弁全開で、色々な話をしてくれます。その優しさと温かさは充分に感ずることが出来ました。 さて、翌朝早く目が覚めた私は、何となく散歩がしたくなり外に出ました。 するとどうでしょう。目の前に広がるのは、山すそまで広がる桃の花の海。濃いピンク色の花のじゅうたんです。夕べは気が付かなかったのですが、ぐるっと山に囲まれた中に、どっしりとした茅葺屋根の農家。その農家を中心に四方にももの畑が広がっています。 「桃源郷とはこんな所のことを言うのか」と思いながら、ただただ感動するばかりでした。桃は好物で、時季になればよく食べますが、その花がこんなにまで素晴らしいものだとは、夢にもおまいませんでした。 バラを作りはじめてから、何度か福島に足を運ぶ事がありましたが、残念ながら花の時季ではありませんでした。桃の実を出荷するだけではなく、花を見せるのも農家の収入になるのではないかと思っています。 ちなみに応援指導は大変喜ばれました。
March 6, 2006
<桜田淳子と歌っちゃいました> 応援団の行事ではありませんが、「音楽の夕べ」という毎年恒例の行事があります。農大だけでなく、青山学院や他の大学も協力して開催されます。 私の記憶に間違いなければ、「学生街の喫茶店のガロ」や「ケンとメリーのバズ」などが出演していた様に思います。応援団はご招待と言うより会場警備のような役目で行っていたようなきがします。 開演場所は「渋谷公会堂」。先輩のお供で早めに着いた私は、初めての渋谷公会堂とあって興味津々。まだお客の入っていない公会堂の舞台に上がり、その広さを体感していました。........ふと気が付くと舞台の袖の何枚もカーテンの重なった片隅に、パイプ椅子にちょこんと座った、目ばかりがやけに大きくキラキラした女の子を見つけました。 「こんにちわ」と声をかけるとニコッとして「こんにちわ」と帰ってきました。その時点では、まさかこの子が「桜田淳子」だとは気が付きませんでした。デビューしたばかりだったのか、まだ、ただの目の大きい子供にしか見えませんでした。 「花の中三トリオ」と呼ばれた、山口百恵ちゃんや森昌子ちゃんとも、後日会うことになるとは、その時は想像もしませんでした。 さて、無事に開演し、いよいよ淳子ちゃんの出番です。先輩に「さっき淳子ちゃんと挨拶しました。」と話をすると「そうかそうか、それじゃーあそこに行って、淳子ちゃんと一緒に歌ってこいや。」.......「はあー」......「はあじゃねえだろ、オッスだろ」 そんな訳で、先輩の命令は絶対なので、腹を決めて一気に舞台へ走り上がりました。びっくりしたのは淳子ちゃんですが、司会の人のとりなしで、なんとか一緒に歌うことが出来ました。 「ようこそここえ、クックックックッ私の青い鳥~恋をした心にとまります~」 応援団では先輩は後輩に対し、無理難題を山ほど言いつけます。良く言えば度胸付け、悪く言えば、いじめ、サディスト。しかし慣れてくると結構楽しくなります。「先輩の命令だからしかたないな~」と言いながら普通では経験できないことも、たくさん、たくさん体験させて頂きました。........今思えば、感謝です。
March 5, 2006
<幹部交代式> 当時、農大は箱根駅伝の常連で、宿は箱根小涌園。2日目に宿を出るとき、すでに来年の予約は済んでいます。駅伝初日、往路の応援が終わった夜、幹部の交代式が行なわれます。 この日を境に3年生は4年生扱い、つまり幹部となります。団長も副団長もすべて交代です。大広間には諸先輩や、顧問先生にお越し頂き厳かに行なわれます。 めったに口も利いてもらえなかった先輩から酒をつがれ、「がんばれよ」と声をかけられると、自然に涙が出てきます。 応援団には色々な歌があります。その大学独自の歌もありますが、流行歌でも歌い継がれるものもあり、そんな歌に「惜別の歌」があります。しかしこの歌は、1年に一回、幹部交代式にしか唄いません。 「遠き別れに耐えかねて~........。」唄えば唄うほど涙が止まらなくなります。辛い思い出しかなかったのかもしれませんが、別れとなれば悲しいものです。 そして「蒙古放浪の歌」....心たけくも、鬼神ならぬ。人と生まれて情けはあれど、母をみすてて波超えてゆく、友よけいらよいつ又合わん......」 「人を恋うる歌」.......妻をめとらば才たけて、みめ麗しく情けあり。友を選ばば書を読みて、六分の侠気、四分の熱。 今どき、こんな歌を歌っていると、時代錯誤と言われてしまいそうですが、この時代には、夢やロマン、そしてちょっとしたペーソスもあったのです。
March 4, 2006
<バイトと牛丼> 突然先輩から、バイトに行くように命じられ、簡単な地図を渡され電車に飛び乗りました。新宿で乗り換え山手線へ。新橋で降ります。駅前に立ち見回すと目印のSL機関車があります。SLなど見た事がなかったので、暫く眺めていました。 するとどこからか、ぷ~んと甘辛いような懐かしいにおいが漂ってきます。18・19の学生はいつでも腹が減っています。しかしバイト先の集合の時間がせまっていたので、後ろ髪を引かれる思いでその場を去りました。 バイト先は警備会社。あてがいの制服を支給され、長靴をはきビルの屋上に集合です。元自衛隊にいたという指導担当の警備員から、警棒の使い方の簡単なレクチャーを受け「よし、今からお前達は3等警視補だ」といわれ、そのまま現場に配属されました。 ようやく1日が終わりバイトから開放され、朝のSLの前に立ちます。するとやはり朝かいたあの懐かしい匂いがします。その匂いに引き寄せられるように歩いて行くと、そこには「牛丼吉野家」の文字。帰宅途中のサラリーマンや学生で賑わっています。 注文の仕方も食べ方も知りませんでしたが、横にいたサラリーマンのまねをして「並」と言います。するとあっと言う間に目の前に牛丼が。........どんぶりと言うには少し小ぶりかもしれませんが、真っ白なご飯の上に、うすく波打つ牛肉が光っています。そこから溢れる甘くしょっぱい香りを胸いっぱい吸い込んで、一気に食べはじめます。.......至福の時です。 最初の一杯を食べるには1分もかからなかったかもしれません。腹も減っていたので味わうのも忘れていました。ふと見ると横のサラリーマンは、真っ赤な紅しょうがをいっぱい乗せて食べているではありませんか。.......「しまった、これが牛丼の作法か!。」とすかさず「並おかわり」..........大盛りや味噌汁があることを知ったのはずっと後の事です。 大学を出てから田舎に帰りましたが、牛丼の味が忘れられず、当時270円の牛丼を食べる為に、片道2700円の新幹線に乗って、東京に何度も通ったのを覚えています。
March 3, 2006
<まぼろしのかつ丼> 五十を過ぎたというのに、いまだに肉食です。先日の誕生日もワイフに「何か食べたい物は?」と聞かれ「ステーキ」と答え結局600グラムのレアのステーキを食べてしまいました。.......学生時代の大食いの癖がまだ直っていません。 大学の近くに「山之内」というとんかつ屋さんがありました。ここのとんかつは肉厚で、衣は薄く、噛むと柔らかい肉の間から、口いっぱいに肉汁があふれだし、「幸せって、こんなもんかな」と思うような味がします。そのとんかつをどんぶりからあふれんばかりに乗せたのが、「かつ丼大盛り」です。 もちろん貧乏学生には食べられる様な代物ではありません。先輩のお供をして運が良ければ「ゴッツアン」してもらえるかどうか?(確率は宝くじくらい)......初めて一切れ食べさせてもらった時には、「世の中にこんなに美味い物があるのか。」と真剣に思い、いつかは思いっきり食べてやると心に誓いました。 さて、「まぼろしのかつ丼」ですが、これは山之内のかつ丼ではありません。 実は味も姿、形も見たことがないのです。.......情報は突然入ってきました。「千歳船橋の駅の近くに、当り屋と言う名の食堂があって、そこのカツ丼は全部食べるとタダになるらしい。ただしそのカツ丼は超大盛りのご飯にかつが貼り付けてあるようだ」とのはなし。 これを黙って聞き逃すはずもなく、「よしさっそく今晩行こう!」と心に決めワクワクしていました。すると相撲部の友人が来て言うには、「ああ、それは駄目だ。おととい相撲部がみんなで行って食べたら、商売にならないとの事で店じまいしちゃった。残念でした。」...............。 いまだに、この時の無念さは忘れません。当り屋のカツ丼は果たしてどの様な姿だったのか、はたまた味は?..............まぼろしのかつ丼です。
March 2, 2006
<団旗の思い出> 団旗にまつわる思い出はたくさんあります。収穫祭の宣伝パレードでは、経堂の農大通りを大団旗を掲げて歩きます。 大団旗の作法に道路は直角に曲がるというのがあります。交差点の真中で団旗を下げ、旗手長は自分の体を軸に進行方向に向け直角に旗を移動し、再び持ち上げます。......一つの見せ場です。道路の両脇はその姿を見るお客様でいっぱいになります。団旗が立ち上がる度に、大きな歓声とため息がおこります。 お客様は大歓声でしょうが、持っている当人は必死です。通常15分位で着く道のりを1時間以上かけて歩くのですから大変です。おまけに途中は低い電線でいっぱい。そういう場所はすべて団旗を斜めにしてくぐるので倍以上疲れます。 忘れられないのは、「嵐の目黒駅」です。これも収穫祭の宣伝パレードで都内のあちこちを廻っていた時の事です。あいにくの雨の中、田園調布、数寄屋橋などを廻り目黒駅に着きました。その頃には、雨も強くなり風も出て嵐の様相です。 せっかく来たのだからとリーダー公開開始。学歌斉唱が終わりいつもの通り団旗を下げます。........するとどうでしょう。溜まっていた雨水がみるみる団旗に吸い寄せられて行きます。深緑色の団旗が水を吸って黒緑色に変身。 さあ、はたして揚げる事が出来るだろうか。その時私は思いました。その様子に4年生(幹部)も気付き、じっと団旗の動きを見ています。私は全身の力を槍先につたえます。急に持ち上げれば間違いなく団旗の棒は折れるでしょう。出来るだけゆっくりと、吸い込んだ水を落とすように。その時手元でいやな音がしました。「ピシッ!」.........旗の重みに棒が悲鳴をあげています。 ゆっくりゆっくり、腫れ物に触るように団旗をあげます。そして無事揚げ終わると一同ほっとして拍手が湧きました。嵐の中、早々にリーダー公開を終了しバスに飛び乗りました。
March 1, 2006
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