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プロ選手、日本ではまだまだプロ野球とJリーガーが主流ですね。ドラフトで上位指名されて、数千万、1億近くの契約金。成績が良ければ、年俸も数千、数億と上がり、先はメジャーや海外移籍で数十億…と、私たちには想像も出来ないお金を稼ぐことが出来るかも知れません。そんな選手たちがよくインタビューやTV番組やSNSなどで言っている「子供たちに夢を与えられるような選手になりたい」とはどういう意味なのでしょうか。よくTV番組の中で、皆さんが気になる年俸の話題になり、今乗っている車や腕時計の値段などを公言し、普通の人が買えない金額に「まさに夢です」「子供たちに夢を」となりますが、高級外車に乘ったり高級腕時計をする事が子供たちの夢なのでしょうか?ミニカーやプラモデルを集めたりするほどのよほどの車好きな子供以外、免許もなく自分で車を運転したことが無い子供が、ベンツの安全性やフェラーリの速さなど、数千万円の高級外車の価値やスペックを理解し、それを買いたいと思っているのでしょうか?高級腕時計も同じで、プロ野球選手に人気のウブロが欲しいなど、小学生の子供が夢見ていると思うのでしょうか?私は、プロ選手やマスコミのはき違えた夢の表現だと思います。反論覚悟でもっと悪く言えば、普通なら一般庶民から羨ましがられ、時には妬まれる高額な物を所持するという事を正当化し、それを逆に「夢を与える」という真逆の形に持っていき偽善的な表現をしているように思います。そんな「子供に夢を与える」など偽善的な発言をするのなら、どうせならハッキリと「体一つでお金を稼いでこんなもの買えました!」と、開き直って自慢した方がいいのではと思います。ここからはあくまで個人的な思想ですが、本当に高額な年俸を稼いで「子供に夢を与える」のなら、京アニの事件があったから言うのではありませんが…放送局やアニメ製作スタッフに声優さんのギャラを全て出資して、TV枠や劇場版アニメやゲームなど製作したり、自分の記念館など建てるのでなく、誰でも楽しめるテーマパークなどを作り、「興行収入は全額寄付」とかにすれば、素晴らしい事だと思います。その方が子供たちにとってより現実的な『夢』なのではないでしょうか。
2019/08/14
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※このブログの文章は、決して事件や自殺を予告するものではありません。サイバー犯罪防犯センターで監視されている方々よろしくお願いします。祖母の口癖の一つにこんな事がありました。「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの面倒は、お母さんと伯母ちゃんでみるから」「あんたは、お母さんと伯母ちゃんの面倒を見るんやで!」生まれて物心つくことから聞かされていました。現実に母親と伯母は、祖父と祖母の看病をし、最期まで看取りました。祖母に至っては、80歳から認知症になり、亡くなるまでの12年間を母親と伯母で看病していました。祖母の思想にはこんなものもありました。「女の子は絶対2人はほしかったんや」「2人おったらどっちかは私らの世話をしてくれるやろ」N島家では、子供は親の世話や看病をする為の存在なのです。祖母の「あんたは、お母さんと伯母ちゃんの面倒を見るんやで!」子供の頃はあまりにも未来の事で考えも出来ませんでしたが、今年で母親は73歳になり伯母は75歳、私は46歳になります。生き地獄のような現実が目の前に迫って来ました。そして…「私の面倒は誰が看てくれるんだ?」とも思うようになりました。ただでさえ心身ともに弱く、おまけに黄斑変性症で失明するかもしれません。母親が言うには「私ら死んで生活出来んようになったら、役所に行ってなんとかしてくれて言うたらええんや!」自分が悪いとはいえ、お先真っ暗ですね(苦笑ただ、今思う事は、現在の生活状態のまま、60歳前後で失明までして一人で生きていく事はないでしょう。
2019/08/05
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いつの頃からか世間では『勝ち組』『負け組』という言葉が定着してしまいました。最近では、その言葉がイジメや差別につながるなどから、使わないような風潮になって来ているようです。理想論からすれば、人生に勝った負けたは無いと思いたいのですが、不登校や引きこもり生活から脱したとして周りを見渡せば、否が応でも自分の立ち位置が歴然と表れてしまいます。容姿の差、学歴の差、経験の差、収集の差、家族の思想の差、家や車など所有物の差、社会的地位の差、恋人や妻帯者が居る差…。この勝ち負けの格差の差が、大半のうつ病の原因なのかも知れません。容姿の差、なにぶんこの極東アジアでは美意識が高く、マスコミから発信された流行に過敏で、美人や美男子という定義がある程度決まってしまっているのも、容姿のコンプレックスの原因を作っているのかも知れません。肥満は一念発起してダイエットをしてスリムになれても、特に男性が気にする身長はどうにもなりません。私の場合は頭頂部の薄毛(ハゲ)があるのでかなりつらいです(笑)そこでド負け組の私が提案します!容姿以外の勝ち負けは、勝負も何も同じ土俵にすら立った事が無く、戦う前に逃げ出しているので、『逃げ組』というものを作らせていただきます。細かく言えば、学校生活で既に負けているのですが、一応不登校という形で逃げてしまっているので(笑)世間で不登校や引きこもりが問題になっておりますが、勝ち組負け組で区別して、人生に負けた負け組と決めつけるのではなく、『逃げた』と表現する方が、当事者の私からしてみれば、まだ救いがあるように思えます。あくまで負け組擁護の個人的な言い方をすると…勝負を嫌いその場から逃亡している状態で、ある者は逃亡に至った自分の弱さを受け入れるのに苦しみ、ある者はしかるべき時にむけて鋭気を蓄え、またある者は勝負できなかった原因を考えて勝機の作戦を練っている、まだ完全に負けてはいないのです。マスコミの皆さん、これから人生の勝ち負けではなく、逃げたという選択肢を考慮していただき、『逃げ組』という言葉をお使いいただける事を願います。
2019/07/30
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昨日の6月16日の日曜日は世間でも『父の日』だったようですが、私には全く関係のない日でした。こんな記事を何年か前の父の日でも書いたことがあるように思えますが、今年で46歳になった現在でも、私には父の日というものは悲しくも虚しい日です。生まれた時から父親不在で育つことが決定し、母親と祖母たちに過保護に過干渉で育てられた心身ともに貧弱な男子は、肉体だけ大人になっても一生父親になることもなく、公園で父親とキャッチボールなどをしている親子を見て「父親がいてくれれば…」と、取り戻せない子供時代の思い出を生涯羨んでいくのでしょう。30代になってからずっと『人生を失敗した原因』を考えてきましたが、簡単に言うと父親がいてくれればこんな酷い失敗はなかったと思います。父親がいるということは、当たり前ですが両親がいる。ほとんどの場合は父親の実家、もしくは夫婦で暮らす。私の人生失敗ケースですが、世間一般とかけ離れた思想をもったN島家で生まれ育つことがなければ、こんな酷い人生にはなっていなかったと思います。そんな会ったこともない父親の事がN島家で話題になる時は、母親がいつも言う「はよ死んでくれたらええのになぁ」です。父親が亡くなれば、離婚していてもDNA的にも実の息子である私に遺産を受け取る権利があるのです。ですが、遺言状で遺産を息子には渡さないと書かれていたり、相続税を支払ってでも既に再婚相手との間に産まれた娘たちに生前贈与をしていた場合には、私は貰うことが出来ないみたいです。実際、自分が父親の立場になって考えてみましたが、会った事もない息子でも、離婚時に慰謝料も払っていないし、子供の間だけでも側に居てやれなかった後ろめたさの意味でも、せめてもの償いにと少しでも遺産を残してやろうと思うのではないかと思いましたが…。現実問題、そんな甘い考えをしているのは私だけなのでしょうね。伯母と母親の年金暮らしの現在の生活では、私に100万円でも入ってくれれば大助かりです。ですが仮に、100万円、数百万円貰えたとしても私の人生はやり直すことが出来ません。子供の頃の思い出を取り戻すことは出来ません。この大半の人が心の支えや人生の糧となっている、子供の頃の思い出、学生生活、友達や異性との付き合い、酸いも甘いも苦くもあったであろう記憶と言う思い出が私にはありませんので、その脳内や心の中にポッカリ空いた空洞を何で埋めたらいいのかが、人生を酷く失敗した私の永遠の課題なのでしょう。
2019/06/17
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今年で46歳になってしまいました。現在ニュースなどで話題になっている『高齢引きこもり』です。未だ社会復帰は出来ていませんが、強迫観念からというのもありますが、体力をつけようと夜中にジョギングをしています。一度も社会に出たことが無いのに社会復帰とか言うのもおかしいですね…。20年ほど前にデジタル歩数計を持ってのウォーキングからはじめて、数年後に1周400mほどの公園を1周、2周、3周…と軽く走れるようになって行きました。ですが、心の波が激しく、続けて2年ほど外に出て活発にウォーキングや軽いジョギングをして、急激に体重を減らして50kgほどになったかと思えば、次は数年は部屋に引きこもり、全く運動も外出もせずに15kg~20kg増量の繰り返しが私の人生です。登校拒否から引きこもりになり、15歳で小児糖尿病を患ってからこの繰り返しです。数年周期で活動期と停滞期を繰り返している人生ですが、やはり定期的にウォーキングやジョギングなどの有酸素運動をして健康な体であった方が絶対に良いのです。そんな健康維持にも大切な『運動』というものが、N島家の辞書にはありません。「運動は勉強ができんアホがするもんや!」これがN島家の考え方です。運動が出来たらアホと思われるので、出来ない方が理想の子供だったようです。「走ったらあかん!」「危ない!」「バタバタしぃな!」「静かにし!」家の外でも中でも静かに大人しく聞き分けの良い子供を求められました。そんな私がはじめて走ったのが幼稚園に入園した5歳の時でした。それまで走ったこともないので、幼稚園の校庭で転倒して膝を擦りむき出血していました。自分の身体をどう使っていいのかも分からない感覚でした。もちろん、他の園児の中でもダントツに運動能力が劣っていました。運動会は当たり前の最下位。園児たちで鬼ごっこや縄跳びで遊んでも転倒していつも出血。小学校に行くまでは膝に絆創膏を貼っていない日の記憶が無いくらいでした。いくら先生から勉強で花まるをもらっても、身体的能力がこんな状態では、学校や子供の中の社会ではどうしようもありません。ましてやそれが男子であると尚更です。幼稚園~小学校の子供社会ではすぐに優劣が決まります。それは両親の地位や所得の差ではありません。在日外国人や国籍ではありません。通知表やテストの点ではありません。運動能力、体力です。勉強での学力の力が生かされてくるのは、一般的な普通の家庭だと高校受験からだと思います。逆に言えば、この国の義務教育という学校生活を乗り切るには、体力や運動能力が必要なのです。
2019/06/01
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先ほどネットニュースに『教師が黒板にイジメを呼びかける』という記事がありました。実際に私も小学校の教師によるイジメの助長で、学校での居場所が無くなり不登校の原因の一つにもなりました。このようにイジメの原因を教師たちが作っているケースも少なくありますせん!今日は、私が受けた教師からのイジメの助長を書いてみたいと思います。あれは私が12歳の小学校6年生の事でした。当時の担任は5年生から持ち上がりの、W稲田大学卒業で暴言暴力が当たり前の最低最悪の男でした。当時のTV番組とかで、クラス全員で縄跳びをして記録を競うような企画が流行っていました。その担任の教師も時々、普通科目の授業時間にもかかわらず、「今日は運動場で縄跳びしようか!」と、急に授業予定変更で縄跳びになったりしていました。縄跳びと言ってもTV番組の企画のような全員で一緒に跳ぶものではなく、一人一人が順番に回っている縄に入って跳んでは出ていくというものでした。「20回跳べたらアイスクリーム奢ってやるぞ!」などと言い、生徒と賭けをはじめました。もちろん体育が苦手だった私は大の不得意でしたので、たいがいは私かもう一人の運動が苦手な男子生徒が縄に引っかかって記録がストップしていました。「またN島か…」「ちゃんと跳べや!」「どんくさいわ!」「勉強ばっかりしとるからや!」私のせいで記録がストップするたびに同級生から責められます…。私はそんな予定授業が変更されての縄跳びの大嫌いでした。そんなある日、また「今日は勉強するのシンドイから縄跳びしよか?」と言い出しました。「縄跳びしたい人手をあげろ~」ほとんどの生徒は「やったー!」と喜んで縄跳びに賛同して手をあげていましたが、責められるのが嫌な私は手を挙げませんでした。クラスで1人だけ手を挙げていませんでした。すると担任の教師は「はい!N島が縄跳び嫌やって言ってるから縄跳び無し!」「N島がしたい勉強や!」そう言って教師は怒気を含みながら私を睨みました。同じくクラス全員の生徒が私を冷たい眼で睨みつけていました。その瞬間から小学校での私の立場が無くなりました。あの時の同級生に、比較的仲の良かった友達までも振り向いて私を睨んでいた眼や顔の表情が今でも忘れられません…。私のせいで縄跳びが無くなり、始まった授業中でも担任教師のイジメを助長する発言は止まりませんでした。授業中何回か「これで満足ですか?N島君」「こんな授業で満足いただけましたか?」と嫌味の発言を繰り返しました。まさしく最低のクズ教師でした。こんなクズ教師に私の人生を壊されたのかもしれないと思うと、本当に悔しくて無念です。生徒たちから『しばき』と恐れられたキレる言動。授業中の私語などで、埃をはたいて掃除する『ハタキ』の竹製の柄の部分で、生徒の顔面を何度も叩き、顔に血がにじむまでのミミズ腫れを何本を刻んだり、体育の時間に同じ運動場を使っていた1年生が邪魔だと背中から靴の跡がつくほど蹴り飛ばし、2mほど蹴り飛ばされた小さな1年生は両膝と両肘を擦りむき泣き叫んでいました。1年生の女性の教師も想像も出来ない行動に、蹴り飛ばした教師にただあやまるしか出来ませんでした。その現状を見て私は「殺される…」と最大の恐怖を感じました。インターネットが発達した今の時代は、その教師の氏名を検索すると出てきます。信じられない事に、未だに現役の教師でいるのです。何年か前には可愛い奥さんと結婚をし、バンドのような活動をしたり、地元の歌などを作って広報誌に載ったりして、まるで過去の暴言暴力が帳消しにし、教師をはじめた頃から優しい良い教師のような人格を演じているようでした。この教師の両親も教師だったようです。今の時代は、SNSなどで教師の体罰や事件がすぐに明るみに出るようになりましたが、ほんの氷山の一角だと思います。
2019/05/17
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最近のニュースで何かと『家庭内の体罰(暴力)』というものが話題になっておりますが、もちろん私も辛いほど経験しました。私たち団塊ジュニアの世代では当たり前だったように思います。私の場合は、生まれた時から父親は居りませんから、幸いにも父親による暴力というものはありませんでしたが、母親と祖父と叔父からビンタ(平手打ち)を何度も経験させられました。特にあまりにも理不尽で、今でも記憶に残っているビンタは、テストで80点以下の点数を取ると母親から「歯くいしばり!」パンッ!「反対もや!」パンッ!機嫌が悪いと往復ビンタでした。平手打ちが耳の上当たると数時間キーンとした耳鳴りが続いていました。80点以下だとビンタ…。TVアニメやドラマだと、80点を取ったと家族が「よく頑張った」と褒めているシーンがあるのですが、私の場合は絶えずテストで100点満点を求められ、超高水準の成績を要求されておりました。17時に夕食を食べ、学校の宿題を済ませ、毎日18時~21時くらいまで勉強。テスト前になると深夜の2時や3時までテスト勉強をさせられていました。10才前後でこんな状態ですと、次の日はフラフラでした。国語・算数・理科・社会、3教科100点満点で1つのミスで1教科98点。通知表は体育・音楽・家庭科以外オール5。そんな漫画の出木杉君のような成績が、小学1年生から不登校になる中学1年生の夏まで続いていました。勉強をするのがイヤとでも言うと「おじいちゃんに怒ってもらい!」と、母親が実の父親である私の祖父に頼むと祖父が「ホヤッ!」と、文字にするのが難しい掛け声とともに私を叩きに来ました。60代でも男性の手は母親よりは痛かったです。何の感情もないのに、いきなり私を叩けるのも不思議でした。何で勉強しなければいけないのだろう…?何で叩かれるのだろう…?正直、小学校へ入学してから6年間の猛勉強で人生に疲れました。現在も当時の病的なまでの猛勉強をさせられた事が、今年で絵46歳になる私の精神的なダメージとなっているように思います。
2019/02/22
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N島家は心の余裕、心のキャパシティがありません。特に母親の心のキャパシティの無さは病的にも思えます。昨日も1か月半に1回、電車に乗って市外の病院への通院日でしたが、通院日の1週間前からソワソワ…。「あんたも体育館やし、来週は忙しいで~」私は毎週、心療内科で知り合った患者さんたちと、金曜日か土曜日に体育館で軽いスポーツをする事が習慣になっているのですが、私の週1回の予定と母親の通院日が入ると、その週は『いそがしい』になってしまいます。前日から母親の心はイラ立ち、血圧も上がり、夜は眠れずに出ていきます。帰宅した時には心身ともに消耗し切っています。別に電車に乗っての遠方の病院だけらではなく、区内の病院に通っていた時もそうでした。通院日でなくても、1年に2回ほど回ってくる町内会の荒ゴミ当番の日やガスや水道の点検に来る日など、予定が決められてしまうと母親の心の余裕が無くなり、家事をしていてもイライラしてお皿を落して割ったり、伯母に何かあれば腹を立てて一方的に文句を言っています。それが70歳という年齢になったからではなく、母親が30代だった私の子供の頃からこんな状態でした。「歯医者は通わなあかんから嫌いや!」と、特に1日だけ我慢しても終わらず、何日も予定日と時間を決められる歯医者は大嫌いでした。そんな事もあって、母親の前歯も無くなり奥歯が数本しか残っていない状態でも、入れ歯など作りにも行けず、ほとんど歯が無い状態で人生を送っています。「何かに縛られるの嫌いや!」この母親の性格というか考え方は、私の不登校に大きく影響したと思います。私が人生を失敗したのは、自分が弱過ぎたのが一番の原因でしょうが、父親が不在で育った私にとってこの母親の思想は、かなり悪影響を与えたと思います。映画やドラマで見る普通の家庭ですと、父親は毎日会社勤め、サラリーマンでなくても家業など毎日仕事をし、母親も持病があれば通院したり、余裕がある方は何か習い事などにも行っているようです。そのうえに主人の両親と同居されたりしている主婦の方も現実に居るわけです。もちろん共働きの方もいます。お子様が何人もいる家庭もあるでしょう?1週間に何回予定が入るでしょう?もしかしたら1日に何回も予定が入っている日もあるかもしれません。そう考えれば、実家で実の両親が子供である私の面倒を見てくれ、実の姉である私の伯母が医療事務で働き、何にも縛られずに暮らしてきた母親の環境はどうでしょうか…。今さら、母親も私も他の家庭のような生活環境に慣れる事も出来ません…。
2019/01/31
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私の生まれ育ったN島家の『大人は全員喫煙者』でした。母親、伯母、祖父、祖母。そして2年ほど一緒に暮らしていた叔父、叔母。私1人だけ子供で、あとの大人6人全員がタバコを吸っていました。上記のN島家の人間は、私が一緒に暮らしていた家族だけですが、その他にも祖母の妹たちや、曾祖父にその母親とN島家でタバコを吸わない人はいませんでした。タバコ屋をしていたこともあり、配達される商品であるタバコが容易に手に入る環境だったというのもあるのでしょが、いくらなんでも酷すぎたと思います。今でこそ喫煙者は隅に追いやられ、自宅でもベランダなどに出て吸うようになっていますが、私の育って来た生活環境では、喫煙する事がお茶を飲むように自然に行われていました。朝起きてスパッー、食後にスパッー、TVを見ながらスパッー、寝る前にスパッー家族全員が何代にも渡り喫煙してきたN島家の部屋の壁や天井は、本来木の色や白い化粧板の壁が、タバコのヤニで焦げ茶色になり、触れるとベタベタしていました。誰もそんな部屋の掃除もすることなく、私は阪神大震災で家が倒壊するまでの22年間暮らしていました。心身ともに最悪の家庭環境ですね。事実、祖父は満78歳で『肺腺癌』で亡くなりました。伯母は若い頃から呼吸器が弱く、50歳頃に医師から『慢性気管支炎』と診断され、毎日咳き込みながら喫煙していました。祖母も母親も咳き込みながらタバコを吸っていました。何の為にタバコを吸うのだろう…。私は子供の頃ずっと思っていました。N島家の価値観では、お酒を飲む人、アルコールを飲酒する事は人間として最低と言い「酒飲みなんかロクな人おらん!」と、飲酒する人を軽蔑しているのに、周りに副流煙で迷惑を与えるタバコがどうして良いのでしょうか…。祖母の価値観だと『タバコは大人の証明』『上品』『上流階級』良い家系で、特に女性が喫煙していると頭が良くインテリっぽく、いつも沈着冷静なイメージだったようです。勝手な思い込みです。そんなN島家で大人だと認めてもらいたくて、私も17歳から引きこもっていた家の中で頑張ってタバコを吸うように練習しました。祖母や母親からは「この間赤ん坊やったのに、あんたも大人になったんやなぁ」と言われ、N島家の大人の仲間入り出来ましたが、病気恐怖症だったのでタバコを吸った後の唾液を飲み込んで胃腸が悪くなるのを恐れて、タバコを吸った後はうがいをしていました。カッコをつけて2年ほどタバコを吸っていましたが、タバコを吸いこむと心臓がパクッというようになりました。どうも煙を吸い込んだ瞬間に心拍が一拍分止まり、次に動き出す時に2回分の血流が一気に流れる時にパクッ、酷い時にバクッとなるようになってしまいました。大きな病院で精密検査をして心臓の病気が発見されるのが恐ろしくて、恐る恐る掛かりつけの病院に行くと医師からは「タバコは止めなさい!」と注意されました。病気恐怖症の私はその瞬間タバコを止めました。ですが、N島家の人間はタバコを吸い続けていました。ここから私とN島家の思想・価値観との戦いがはじまりました。
2018/12/19
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今日は『いい夫婦』の日というものですが、N島家の事情について告白してみます。まず、N島家には『夫婦』というものが存在しません。私の祖父母は亡くなるまで夫婦というものでしたが、船乗りだった祖父が、祖母の家である私の生まれ育った家に婿養子に入り、実権は祖母にあり、若い頃から夫婦関係は冷めていたようです。私の母親 数ヶ月で離婚伯母 数ヶ月で離婚叔父 ×2で20年前から行方不明祖母の妹 離婚祖母の妹 離婚祖母の両親(曾祖父母) 離婚祖母の祖父母(高祖父母) 離婚このようにN島家では結婚をして子供はできるものの『離婚するのが当たり前』なのです。離婚するのが珍しい明治時代から離婚が繰り返されて来ました。母親は、私の心療内科で知り合った既婚者の友達や、8年ほど付き合い結婚しようかという友達たちのことをいつもこう言います。「恋愛とかドラマなんか見て頭がイッテもとんや」「すぐに別れるのにアホや」と。N島家では『恋や愛は病気』『恋や愛は悪い事』という教えがあります。もちろん私もそういう価値観の家庭教育で育って来たのですが、映画やドラマにアニメや音楽、そして世間一般論と様々なものを見聞きし、長年自問自答をして暮らして来ましたが、N島家の価値観は少しおかしいように思えます。それを気付いたころにはもう40歳を超えていました…。今さら母親たちN島家の価値観を変える事も出来ません。考えてみれば、この世間との価値観の差が、離婚や家族の不仲、そして不登校や引きこもりの原因に少なからずあると思います。
2018/11/22
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昨日の夜から今朝にかけて、『オリオン座流星群』というものが見えるそうです。高気圧の覆われていて日本の広い範囲で見えているみたいです。昼夜逆転生活の私なら、夜中でも起きているので見てみたいと思うのですが、母親に対して夜中に家の外に出る明確な理由がみつかりません。普段から天体観測や星座に興味がある子供なら問題ないのでしょうが、今まで全く星座などには興味が無い生活をしていたので、急に「流星を見に」と言って夜中に家の外に出ると、かなり怪しまれます。急に毎月のオンラインゲームの課金が切れた時は、何度か夜中にコンビニにウェブマネーを買いに行った事がありますが、それは普段から行っている明確な理由があったので母親も納得してくれました。他の家庭はあまり知りませんが、普通の45歳の大人にもなれば、夜中でも自由にコンビニなどに行けるのでしょうか。夜中以外の日中でも、一人で外出する時に母親から「どこに?」「誰と?」「何時から何時まで?」と報告してから出て行かなくてもいいのでしょうか。ドアを開け閉めする音で、寝ている母親が心配して起きて来て、どこに何をしに行ったのか質問されないのでしょうか。昔は些細な音や気配でも、明け方までベッドの中で読書をしている母親が、起きて来ていましたが、高血圧で倒れてから最近は4時ごろには深い眠りになったみたいで、明け方には監視されているような重い気分が軽くなり、このようなブログなど書くようになりました。このように私は、極度の『過保護』『過干渉』の教育の元で育てられ、45歳になった現在でも、そんな教育方針というか母親の感情に縛られて、うつ病の原因の一つにもなっております。
2018/10/22
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N島家はドアや扉を閉めません。部屋やリビング、家の中のドアはいつも開けっ放しです。もちろんクーラーや暖房の効きもよくないです。さすがに玄関のドアは不用心なので開けっ放しではないのですが、母と伯母が外へ出て家の前を掃除したり、郵便物や植木鉢など何かを見ている時は、5~10分ほど玄関のドアが全開になっています。私が2階から降りてくると家の前のスーパーに出入りする人に丸見えです。夏などは蚊や虫が家の中に入って来るので母に言うと、決まって同じ返事が返って来ます。母親「すぐ入ってくるつもりやったんや!」トイレのドアも閉めません。母と伯母がトイレに入ってもドアは最後まで閉めません。他のドアや扉のように全開に開けてはいませんが、キチンと閉めず1/4ほど開いています。昨晩も私がリビングで夕食を食べている時も、リビングの2つの開き戸は全開、洗面所のドアも前回、そしてバスルームの扉も開いていました。バスルームの窓が開いていれば、隣の家から食事をしている私が見えるでしょう(苦笑)冬になると寒いですし、食事をしている間もリビングに洗濯機の音が聞こえて落ち着けません…。母と伯母の寝室も、部屋に入って寝る時もドアをキチンと最後まで閉めずにフワリと開いています。ですので、母親が起きていると、夜中でも私が1階へ降りたりすると音や気配で分かります。母親「あんた昨日ようオシッコ行ってたな」監視されているようで息苦しいです。子供の頃、家のドアを開けっ放しの思い出があります。小学校を終えて家へ帰ってドアを開けるといつも、客間の扉、お茶の間の扉、台所の窓が全部開いていて、裏の家の換気扇が見えていました。なにも時代劇や昔のドラマのように、ふすまを丁寧に開け閉めしなくてもいいと思いますが、開閉が簡単な西洋式のドアくらいは、日常生活で普通に開け閉めしてもいいと思います。
2018/10/16
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先ほど、深夜の1時過ぎ、1階のリビングに降りて行くと母親が小豆のアイスキャンディーを食べていました。甘い物が大好きなので、1年中冷蔵庫の中に買い置きしています。そしてその後、賞味期限が迫っていたので、冷蔵庫の中にあった焼き肉に焼肉のタレをかけた物とクラッカーを食べました。いつもは夜中に『お茶漬け』と『お漬物』に『トンカツ』や『唐揚げ』などおかずがあれば食べます。満腹になるか、食べる物がなくなるまで食べます。祖母が健在の頃は、祖母と母親と一緒に深夜過ぎに食事をしていました。私が生まれてからずっと見てきた習慣です。N島家では普通の事で、ごく自然な光景なのですが、心療内科に通い『普通の一般社会』というものを知ると、かなり珍しい事のようです。健康にも良くなく、ダイエットをしている人にはあり得ない事ですね。もちろん、そんな深夜の寝る前に食事する祖母と母親は肥満体型です。私も不登校になり、昼夜逆転生活になり、このN島家の悪習慣に仲間入りをしました。家族でいがみ合っていない時は、微笑ましい夜食でしたが、やっぱりこんな習慣は良くないですね。祖母も母親も仕事をしていないので、明け方の4,5時からお昼前まで寝ていられるのですが、一般社会の仕事をしておられる方々には絶対無理でしょう。こんな生活をしている祖母と母親は、毎日のように「はぁシンド…」「はぁえらい…」「浮腫んで顔パンパンや」と言っていました。肥満に高血圧…。N島家の女は、一生生活を改善する事はありません。私は、15歳で小児糖尿病を患い、こんなN島家に反発して生きてきましたが、いったい何が幸せなのか分かりません。体型や健康、美意識など考えずに、食欲と睡眠欲を解放した生活のまま人生を生きる事が、人間の幸せなのか…。少なくとも彼女たちはこの幸せを選んだのですから…。
2018/10/14
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今日は日曜日ですね。いきなりですが、今日のブログは私の子供時代の『お風呂』『入浴』についてです。私の育ってきたN島家の生活習慣では、お風呂は日曜日だけ、1週間に1回でした。小学校の頃は、まだシャワーという物も無かったので、体を洗うという事自体が週に1回でした。別に戦争中でもない、昭和48年生まれの私ですから、育ってきた時代は昭和の終わり頃ですね。子供の頃は、他の家族の事も知りませんし、何よりTVで日本のホームドラマというものを一切見るのを禁止されていましたので、世間一般の事というものが分かりませんでした。1週間に1回のお風呂が普通と思っていました。それが不登校や反抗期になり、禁じられていた日本のホームドラマなどを見ると、仕事から帰ってきたお父さんが、毎日のようにお風呂に入り、さっぱりとしてビールを飲みながら夕食を食べているシーンが数多く描写されていました。当時、母親と祖母に聞いた記憶があります私「なんでうちは毎日お風呂入らんの?」と聞くと母親「そんなもん、毎日風呂落して(水を抜く意味)掃除しとれるかいな!」祖母「女は汗かかんしな」祖母「風呂入らんでもキレイや」N島家の入浴が1週間に1回なのは、お風呂掃除がシンドイからでした。今になって思うと、他の家庭では普通の事、当たり前の生活習慣でしょうが、N島家ではお風呂に入るという事は大変な事でした。いくらシンドくても、体を清潔にしたり、温めたり、汗をかく事は、何気ない生活習慣ですが、重要な事だったと思います。
2018/10/07
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非常に強いレベルで日本へ上陸した台風21号が、私の住む神戸にも爪痕を残していきました。幸い私の家は、目で確認できるところは被害はありませんでした。自分で確認できない、屋根の瓦はどうなっているのか分かりませんが…。台風が接近している時に、我が家ではこんないつもの会話がありました。私「台風で屋根とか飛んだらどうするん?」私「雨戸もないし何か飛んできて窓ガラス割れたらどうするん?」普通の強さの台風ではなく、被害が出そうなので聞いてみました。母親「そんなん先々考えてもしゃーない!」母親「うっさいなほんま!」予想していた、いつもの返事が怒気をはらみながら言葉でした…。我がN島家は、先の事を考える事が出来ません。私は自然災害の事、自分や家族の健康の事、そして自分と家族の人生の事など、家族(母親)と子供の頃から話したいのですが、いつも母親は機嫌が悪くなり、前記のような返答をします。先日も母親の血圧が230になり、母親自ら「救急車呼んで!」と2回ほど救急病院に搬送してもらいましたが、もともと近所の内科医で150~170くらいの血圧で、高血圧と診断され、降圧剤を処方されておりましたが、薬も一切飲まず「あんなんヤブや!」と医師の診断を受け入れていませんでした。私「高血圧のままやったら、心臓とか脳とか血管が危ないやん…」私「急に血管が切れたらどうするん?」高血圧を放置していれば危険なので、母親に通院して治療をしてほしかったので、ずっと言っていましたた。母親「うっさいな!じっとしとったら血圧上がらんのや!」母親の日常生活といえば、6mほどの一方通行の家の前にあるスーパーへ、1日2回ほどあるくだけで、クーラーの前のソファーに座るか横になるかして、時にはウトウトしている、安静状態の生活です。母親「医者なんか行ったらよけい血圧が上がるわ!」そんな事を言っていると、高血圧で2度倒れました…。このように我がN島家は、先の事を考えられません。祖母がよく言っておりました。「その場その場の絵を描いていけばいいんや」考えたくない、面倒くさい、嫌な事は考えたくもないという思想です。この思想は絶対にいけないと思います。健康の事や災害の事もそうですが、自分の人生の事、子供の将来の事など、人間は先の事を考えながら生きて行かなければいけないと思います。
2018/09/05
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先日までサッカーのワールドカップの日本代表の試合で盛り上がっていましたね。こんな私ですが、小学校5年生(11才)の時に小学校で冬季だけ行われるサッカークラブに入ったことがあります。運動神経が悪い私がなぜ自らサッカーグラブに入ったかと言うと、小学校4年生から入ることができる、土日に行われる少年野球というものに入らずに、同級生から孤立してしまい、この1年でドンドンと友達付き合いというものが無くなって来たからでした。それに、5、6年生時の担任だった恐怖の男性教諭が東京の有名なW大学のサッカー部の出身であったので、サッカークラブに入らないと、学年でもクラスでもますます孤立してしまうと思ったからでした。ですが、今まで全力疾走もしたことが無い、運動音痴の私にはサッカーなど到底無理な事でした。何より、手を使ったらいけない事と、相手のゴールにボールを蹴り入れるくらいしかルールを知らなかったので、どうにもならない状態でした…。そして、そんな私を見て、体育会系の担任であり、いつもW大学のジャンパーを着ていた暴力教師が苛立ち、練習試合中に私の両頬を叩きました。どんなに転んでも、捻挫をしても学校では涙を見せたことがなかった私でしたが、涙が出てしまいました。泣きながらでも練習試合のボールを追いかけていました。なぜなら、そこで動かなくなったりすると、暴力男性教師からの叩かれる以上の恐怖があったからです。その男性教師は、叩く、蹴る、ほうきの棒でお尻や太ももに痣が出来るケツバット、掃除の時に使うホコリはたきの某で顔面を血がにじむまで叩き続けるという、キレて常軌を逸した行動をする事で子供たちは恐怖に震え上がっていました。当時の私たちはその行動を『シバキ』と言っていました。途中から体罰の話題に逸れてしまいましたが…そんな経験をしてしまったので、6年生の冬のサッカークラブにはもちろん参加しませんでした。そして同級生からは益々孤立する事になりました。
2018/07/05
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先日、父の日というものがありましたが、何度も言うように私には父親がおりません。私が人生を失敗した原因について、自分なりに何十年も考えてきましたが一番の要因は『父親が居なかったこと』だと思います。私が生まれる前に両親は離婚し、母元の実家のタバコ屋で母の両親である祖父母と、母の姉である伯母との5人で生まれた時から暮らしていました。母親は時々私に言いました。「お父さんがいなかって良かったやろ?」「〇〇君みたいにお父さんに怒られんから良いやろ?」確かに男親から怒られずに育ちましたが、それ以上に、他の子供たちより経験することが無くなっていました。「お父さんが居なくて良かったやろ?」と、そんな事を子供である私に聞く母親も少し間違っているように思いますが何より、母親から父親が居なくていいと言ってくれというオーラを小さい頃から感じていましたので、決して「父親がほしい」などと言えませんでした。
2018/06/28
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この春に私は45歳になりました。昨年1年で、50kgほどだった体重も一気に20kgほど急激に肥え、現在ではウエストも90cmのメタボ体型になりました…。頭頂部の薄毛もドンドン薄くなり、髭に白髪が混じるようになってきました…。身体は完全に中年になっているのに、45歳…と聞いても自分では全く自覚がありません。不登校になった13歳…多くても16,7歳の感覚なのです。ですので、20代の人にでも接すると、自分より大人だと思い、怒られるのではないかと緊張してしまいます。街で女子高生を見ても、自分よりお姉さんだと思ってしまいます…。何かで話す場合も、もちろん敬語で話してしまいます。特に女子の場合は、緊張して何を言っているのか分からなくなります…。年齢的に自分の子供の歳でもおかしくない女子中生にドキドキして緊張してしまいます。自分もあの頃と同じ中学生のままの精神なのでしょう。寝ていて夢を見る時も、通っていた小学校や人生を終えてしまった中学校の夢をよく見ます。私の記憶も精神も10代のまま止まっているようです。かと言って、通院している心療内科からは、発達障害など何も言われていません。あなたの病状は軽い方だと言われております。みんな気持ちは若いという事なのでしょう。
2018/04/08
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我が家にはプライバシーというものがありません。母親は私宛の手紙や封筒はもちろん、気分次第では、この楽天市場やAmazonのネット通販で購入して、送られてきた箱まで開封してしまいます。家電量販店などから送られてきた、二つ折りの剥がすタイプのハガキはシッカリ剥がされて内容も読まれ、区役所などから送られきた書類が入った封筒も開封されて書類も読んでいます。2階の自室を出て、1階のリビングに降りて行くと、通販で買ったダンボール箱が開封され、テーブルの上に乘っています。心療内科で知り合った、私より5歳年下で妻子持ちの既婚者の男友達が、我が家に来て母親と幾度となく接し、男の子というものなど、いろんな会話をしたことで、以前より母親の眼の息苦しさが薄れましたが、まだまだ自由に欲しい物は買えません。母親に言えない私の欲しい物…。私も今年45歳のいい大人ですので、アダルトな物が欲しいのです(笑)子供の頃から、ナイフやエアガンなどの武器などは何も言わない家庭でしたが、こと女性アイドルや異性に関することには敏感に反応されました。「家族に見せられない、なんかやましい物なんか?」こう言われると返す言葉がありません。
2018/02/21
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今年も母親と伯母の3人家族でクリスマスを過ごしております。生まれてから44年間、家族以外とクリスマスを過ごしたことはありません。これが家族がいつまでも一緒で良いことなのか分かりませんが、少なくとも他の家とは違うようです。44歳ともなれば同年代人たちは、恋人と過ごしたり、自分で家族を持ち、子供と過ごしたりしている人もいるようです。生まれたときは、祖父母と母親と伯母と私の5人家族でしたが、祖父母が亡くなり、現在は3人家族です。家族が増えるという事は、もうあり得ないので、いつまでもこんな家族で過ごすクリスマスが続いて行くことを願うばかりです。
2017/12/25
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今年もあっと言う間にあと3ヶ月になりました…。10月ということもあり、最近は幾分か涼しくなってきましたが、今年の夏は暑かったです。そんな暑い夏も、今年で71歳になった母と73歳になる伯母は、クーラーの無い部屋で乗り切りました。昨年の春にエアコンが壊れてから、真夏も真冬もエアコン無しで暮らしています。普通の家庭では、エアコンや冷蔵庫が故障して直らないのなら買い替えられるのでしょうが、我が家は伯母の退職金も底を尽き、毎月食べて行くだけで精一杯ですので、いきなり高価な家電製品を買うことが出来ません。せめて私が精神障害者年金を受給していれば…。7年前に初めて心療内科を受診した時に今まで苦しんできた症状から『統合失調症』と診断されたのですが、服用する薬の副作用が怖くて、自分の症状を先生に隠してしまい、結局『心気症』『パニック障害』『全般性不安障害』『うつ病』と診断されました。3級の障害者手帳をもらったのも初診から5年経った2年前の事です。同じ心療内科で知り合った友達たちも、ほとんどが2級の精神障害者年金を受給し、その上で作業所などで働き、私より裕福な暮らしをしています。全員、実家で親と暮らしておりますので、生活費も困らず、障害者年金と給料が自分のお小遣いになっているみたいです。本当に要領が悪く、生きるのが下手な私は、一生こんな風に生きていくのでしょう…。
2017/10/01
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私は眼が酷く悪いのです。 近視で視力が悪いのもありますが、眼の病気というのもあります。まず、強い近視(近眼)なんですが、そのレベルもとてつもなく強く、『最強度近視』という強そうな名前もいただきました。 裸眼で『0.03』…。 現在日本で市販されている、使い捨てソフトコンタクトレンズでは、『-12.0』という、製造されている最強度のレンズを装着しても、視力は片目で『0.3』、両目で『0.5』しかでません…。もちろん、この視力では車の運転も出来ませんので、この-12.0度数というコンタクトレンズを装着した上にメガネをかけて運転をしております。まぁ…このように近視が強いだけなら、まだいいのですが、私の場合まだ近視が進行しているみたいです…。 『病的近視』 普通の近視はある程度の年齢になれば進行が止まるのですが、病的近視は進行が止まらず、眼球(眼軸)が伸びていきます。 眼軸が延長される『軸性近視』とも言うようです。この進行が止まらない、『病的近視』によって様々な眼病が引き起こされました…。 『飛蚊症』この病気はよく耳にする事が多いと思いますが、病的近視でなくても加齢と共に起こる人もいるそうですが、私の場合は病的近視から大きな飛蚊症が出ているそうです。両目とも大小無数の糸くずやカエルの卵のような物体が蠢いております。 時々、目の前に本当に虫が飛んでいるのか間違って、かなり鬱陶しいです。 『霧視』 飛蚊症と同じく、病的近視から引き起こされました。 中段画像の左上にあるように、眼の前に白いモヤがかかっております。 目ヤニのように鬱陶しいです。 『緑内障』この病気も一度は耳にした事があると思いますが、何の治療もせずに放置していると、視神経を傷めてしまい、失明してしまうかもしれない恐ろしい眼病です。 私の場合、病的近視から視神経に負担がかかってしまい、緑内障と診断されました。ですので毎朝、視神経にかかる負担を軽減させる為に、眼圧を下げる『ミロル』という目薬をさしております。 『黄斑変性症』 最近、眼科やテレビ番組などで話題にされる事が多くなり、しだいに認知され始めた眼病です。 特徴としては、網膜にある黄斑部が何らかの原因で異常をきたし、物が歪んで見えたり、欠けて見えたりします。 加齢から発病される方が多いようですが、私の場合は、やはり病的近視で眼軸の延長から、黄斑部が変形してしまい発病してしまいました。 欧米では、成人の失明原因の第1位なのですが、現在の医療では治療法が無く、症状に合わせた対処と、進行を防ぐことくらいしか出来ません。 もう私の視界の中に真っ直ぐな線は見られません。特に右目の変視が酷く、丸いボールはもちろん人の顔も縦に圧縮されたように見え、左側が欠けて見えます。 逆に左の目は横に伸びた楕円に見えるので、両目とも普通の球体に見えません。このように私の眼には、複数の眼病があるのですが、中でも診断された当日にパニックになり、心療内科へ通院する直接的なキッカケとなった『黄斑変性症』が一番厄介な病気なのです。 現在は眼科医の勧めで、進行を遅らせる事が出来るかもしれないという、『ルテイン』が主成分の『ルタックス』というサプリメントを服用しているのですが、お金に余裕が無いので毎月続けて購入することが出来ません。 掛かりつけの眼科医も「なんとか寿命までもたせよう!」と言ってくれておりますが、何年後かにも失明の可能性がありますので、将来の事を考えると息苦しくなってしまいます。ですので、出来るだけ未来や将来の事は考えないようにしております。
2017/07/24
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「なんでこんな人生になってもたんや…」これが私の口癖です。20代後半から、人生を…中学校で不登校になったことを悔やまない日はありません。今年で44歳になりましたが、歳をとるごとに悔いはどんどん大きくなっていきます…。
2017/07/02
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今日はバレンタインデーということですが、現在私が心療内科から処方されている薬を紹介します。フルボキサミンマレイン酸塩錠75mg(就寝前)(デプロメール)エチゾラム錠1mg(就寝前)(デパス)スルピリド錠50mg(2錠を就寝前)(ドグマチール)イトプリド塩酸塩錠50mg(就寝前)(ガナトン)デパケンR錠200mg(3錠を夕食後)クロチアゼパム錠5mg(不安な時)(リーゼ)コロネル錠500mg(毎食後)タフマックE配合カプセル(毎食後)ビオフェルミン配合散(毎食後)ガスオール40mg(毎食後)(ガスコン)トリメブチンマレイン酸塩錠100mg(毎食後)(セレキノン)ラベプラゾールNa錠10mg(朝食後)(パリエット)エパデールS900mg(朝・夕食後)以上13種類です。
2017/02/14
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どうも、お久しぶりです。前回このブログに記事を投稿してから早6年。いろんな事がありました。本当に、人生の中でもこれだけの経験をした6年は初めてでした。まず第一に、私は6年前から『心療内科・精神科』というものにかかっています。現在は、2週間に一度通院し、毎日処方された薬を飲んで、週に一度『ショートケア』というものに通っております。6年間、心療内科から処方された薬を飲み続けています。薬を飲まないと日常生活に影響するくらい薬に依存してしまいました。ですが、こんな厳しい現実を敏感に感じて生きていくくらいなら、毎日精神薬を飲んで、現実逃避をしていたいです。私は6年間、向精神薬や安定剤を飲み続けた事に後悔はありません。
2016/11/09
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ご無沙汰してしまいました。久しぶりの更新です。2年も更新が途絶えてしまい、ご心配をお掛けしました。休止している間にも良い事はほとんどありませんでしたが、2008年の秋に、このブログでも度々お腹の不調を書き込み、不安で堪らなかった大腸の内視鏡検査もしてきました。長年気にしていた大腸の「器質的な異常なし」の結果に一安心しました。ブログを休止している間の血液検査の結果も大した異常もなく私なりに平穏な日々を過ごしていたのですが、2010年のこの春、人生最大のショックを与えられました・・・。眼科で現在の医療では治療法が無い眼の病気だと診断されてしまいました・・・。この出来事がきっかけで、ついに精神科へも受診する事にもなりました。眼の病気の事については、まだ詳しく書く勇気がありません・・・。まだ現実を受け入れたくない自分がいるようです。現在は、少しでも眼に負担を掛けない為にもパソコンの画面を見る時間も出来るだけ短くするようにしています。以前のような長文を書き込む事も出来ないと思いますが気分が落ち着いている日に、少しずつ思いを綴ってみようと思います。下書きもあまり出来ず、支離滅裂な乱文や誤字脱字でお見苦しい文章になると思いますが、ご了承願います。
2010/06/08
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13日は体育の日でした。先週末から各地で運動会・体育祭が行われています。言うまでもなく、私は運動が苦手でしたので運動会は好きではありませんでした(笑)運動会という行事そのものは、大勢の父兄の前で最後方を追走し最下位である4着の旗の前に座り、一時の恥ずかしさに耐えていれば5、6時間で済むのですが、運動会を開催するまでの練習が嫌でした。夏休みが終わり9月に入ると、運動会のプログラムも決まり体育の時間や放課後に運動会の練習が始まります。『運動会をする為の練習』です。各クラスでの体育の時間から始まり、各学年で合同練習になり最後には全校生徒で予行演習まで行います。入場行進に始まり、観覧する席順に応援の仕方も練習します。「右!左!右!」「もっと足上げろ!」「揃ってない!」手足が揃っていないと、容赦ない体罰が下されます・・・。「全体~止まれ!」「1、2、3、ヤー!」「もっと大きな声で!」「よそ見するな!」「やり直し!!」「そんな事してたら、いつまでも帰れんぞ!!」学校は軍隊ではありません。放課後にも延々と運動会の練習が続きます。日も沈みだし気温も下がる中、何度も何度も繰り返されます。いったい誰の為の、何の為の運動会をするのでしょうか・・・?教師たちが「これだけ生徒を思うがままに動かせるんだ」という権力を誇示し、ストレスを晴らしているようにしか見えませんでした(笑)健康な体で元気に子供らしくをモットーにしているようですが、そもそも『子供らしく』というものは、どのようなものでしょう?この国の義務教育で行っている子供らしさというものは、偏った思想を持つ教育者が勝手に作った理想の子供像だと思います。同じ体操着に紅白の帽子、全員で一糸乱れない行進を強いられ楽しくもないのに、笑顔を作らされています。怒られるので、元気で溌剌とした子供を演じなければなりません。競技するのも応援するのにも、生徒個々の気持ちも無視されます。競いたくも無いのに順位を決められ、決められた席順で決められた声援をさせられます。これが本当に溌剌とした子供でしょうか・・・?私には思えません。ニュースでよく目にする危ない隣国の子供たちが将軍様に歌や踊りを披露している状況と重なってしまいます。あの作られた笑みや歌声は、いつ見ても違和感を感じます。日本の義務教育も少なからず似ているところがあると思います。私が子供の時代には、丸坊主・制服・制帽・名札、爪は切っているか、ハンカチとティシュは持っているか、廊下の歩き方に礼をする時の頭の下げ方に持ち物検査・・・。何もかも校則で決められていました。体罰も当たり前の事でした。生徒を暴力による恐怖で抑圧して従わせ、教育するというのは我が国の悪しき軍国主義の名残りでしょうか・・・。学校は軍隊でも刑務所でもありません。現在は少し緩和されてきているみたいですが、この『軍国主義の名残り』は、まだまだ根付いています。先日も近所の中学校で体育祭の練習をさせられていました。スピーカーで生徒たちを怒鳴り、威圧する言葉で命令していました。まるで夜の街でケンカをしている暴力系の人みたいでした(笑)いくら子供や未成年であろうと、常識を超えた行いや人を傷つけてしまう言動など許されませんが「子供はこうあるべきだ!」と理想像を押し付けひとつの型に嵌めてしまう教育は、間違っていると思います。子供の夢や個性に答えなど無いのではないでしょうか・・・?
2008/10/14
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過去に何度も書いておりますが、私はお腹が弱い大人です。弱いところはお腹だけではないですが・・・(笑)現在のところ、肉体的な問題では腸が弱いというのが一番の課題です。ここ数年は、腹部膨満感・下痢・軟便・鼓腸・左下腹部痛・・・。内科医からは神経からの『過敏性腸症候群』だろうと言われています。確かに子供の頃から体が弱い方でした。ですが、幼少期からの親の思想や家庭教育である程度、改善出来ていたのではないかと思います。神経性なら、なおさら違った体質に育っていたでしょう・・・。私は祖母から偏った思想の教育を受けました。母親からは平手打ちをされ、毎晩泣きながら勉強をさせられましたが世間の常識・考え方・価値観などは祖母に教育されました。べつに母親が居なかったわけでも働きに行っていた訳でもありません。生まれてからずっと一緒に暮らしています(笑)実の母親が側に居ながら、祖母が孫の教育に係わってくるのは普通の家庭と少し違っているかもしれません。これは100年にも及ぶ、我が家の複雑に捩れきった歴史がありました。祖母の行き過ぎた言動や、親から子へと四世代にも影響を及ぼした誰にも話せない『我が家の闇』の部分です。私自身も少なからず影響を受けた、この我が家の闇を「誰かに知ってもらいたい」と思ったのも、このブログを書き始めた理由の一つでもあります。後々、心の整理とゆとりができてから書いていこうと思います。話題が逸れてしまいましたがそんな祖母にコンコンと言い聞かされて育ちました。「お腹を冷やしたらあかん」どんなに暑い日でも寝るときにはお腹に布団を掛けていました。「だらしない!」「品がない!」「○×▲みたいや!」上着のスソをズボンの中に入れることが絶対でした。小学校でも「体操着は中に入れろ!」と注意されましたが学校から帰れば、みんな自由な服装で遊んでいました。現在のように上着を出したスタイルの同級生もいました。男子なら真夏になれば上半身裸で水遊びをしている子供もいました。他の家庭では普通の光景でも、我が家では考えられない事でした。プールにさえ家族で行ったことはありません(笑)幼稚園でのプールの時間が、冷たい水に浸かる初めての体験でした。毎日お腹の不調を気にしている私を見て、母が言うには「オバンが口出しするからや…」「年寄りに育てられたらこうなるねん!」まるで他人事のように言い捨てます(笑)あなたは母親なのに、なぜ何も言ってくれなかったのか・・・。今更どうする事もできませんが、虚しい気持ちになります。最近は少し涼しくなりましたが、日中になればまだまだ暑さが残り太陽が顔を出すと30℃前後まで気温が上がります。散歩に出かけると、ほぼ全員シャツ出しスタイルです。歩き始めた子供も両親も、退職した団塊の世代も方も老人の方までポロシャツをズボンの外に出して歩いていました(笑)そんな中、私だけ昭和のスタイルだとあまりにも目立つので、みんなの真似をしてTシャツのスソを出して散歩に行くのですが帰ってくると必ずお腹が冷たくなっています。汗をかいても、お腹と背中の下部は冷たいままです。毎年この季節になると「今年こそ大丈夫やろ…」と何度もシャツ出しスタイルにチャレンジするのですがなかなか馴染めません・・・。今も下痢気味と左下腹部痛が1ヵ月ほど続いています。酷い時には下痢と腹痛と発熱に見舞われます。去年も7月の初旬にお腹をこわしてしまい夏中、家の中でお腹にバスタオルを巻いて過ごしました。食べるものも制限され、体にも汗疹ができまたひとつ嫌な夏の思い出を増やしてしまいました。我が家の偏った思想と『過保護』と『過干渉』な教育で体が弱いまま大人になってしまったかもしれません。あれやこれやと家庭教育のせいにしてしまいましたが、やはり自分で体を強くしようと行動しなかった私が愚かなのでしょう。頭頂部が薄くなった35歳の今年の夏も、お腹を冷やさないように注意して暮らしています。
2008/08/28
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北京オリンピックも開幕し、野球の日本代表の予選も始まりました。連日のライバル国との手に汗握る激闘にプロ野球ファンとしては居ても立ってもいられません。普段はライバルとして戦っている、年俸も数億円の一流選手たちが高校球児のように一丸となり、必死でプレーする姿は心打たれます。ですが、手放しに応援できない現実があります。応援している阪神タイガースが絶不調というのもありますが(笑)それ以上に、開始時間が日本の公式戦の試合時間と重なっているからです。どうしても気になって、どちらの試合にも集中できません。18日のカナダ戦はデーゲームでしたが、また明日からナイターと重なります。「なぜ公式戦を休止にしなかったのか…」野球ファンの少年なら余計にそう思うでしょう。「なんでプロ野球は休まないの?」子供に尋ねられたら、どう答えるのでしょうか・・・?「五輪より球団の興行収入の方が大事だから休止できなかった」とクールに大人の回答をするのでしょうか・・・?私は開幕前から、この日程を疑問に思っていました。会議では五輪期間中の公式戦は中断すべきとの意見もあったのですが期間は夏休みの真っ只中、おまけに期間中は、お盆と土日の連休中。どの球団も書き入れ時なので、各球団の営業サイドから猛反対にあい結局、準決勝と決勝戦が行われる日以外は公式戦を行う事になったそうです。以前、日本代表の星野監督はこんなことを言っておられました。「視聴率を全部取ったる」と。公式戦も休止せず、裏でプロ野球中継までしている利益優先の企業と連盟に対する、言える範囲での反骨心だと思いました。 各球団から選ばれた選手たちが、日の丸を背負い日本の為に戦っているのになぜ球団と連盟は素直に応援してあげられないのか・・・。公式戦を戦っている選手たちも五輪の試合を見たいでしょう(笑)ライバル国の韓国は、もちろん国内リーグは休止しています。あの国の感情を包み隠さない熱狂的な国民性には戸惑いますが愛国心を養う教育や国家の姿勢としては賛同します。どこかの偉い方が「君が代を唄え」「愛国心がない」など何かと過激な発言をされているみたいですが、学校で国歌を唄ったり国旗を揚げるという形式的な行事よりもまずは国政や社会全体から、愛国心を抱かせるような姿勢を見せ示して行かなければいけないのではないでしょうか。欧米諸国からは、日本人はお金がすべてで 何事もお金で解決するような国民だと思われているみたいです。今回の五輪期間中の公式戦の日程にも我が国の企業の利益優先という現実が表れているように思えます。私のような人間が言える立場ではないですが(笑)子供たちの学校教育で、方程式や歴史の年号を暗記するのも大事でしょうが歴史の事変を知り、どう感じ、何を改め、そして現代社会において我が国は、どのように進んでいくべきなのか・・・。個人の未来や人生と照らし合わせて、考えていく事の方が大事だと思います。
2008/08/18
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世間では父の日だったようです。以前にも書かせてもらいましたが、私には父の日はありません。私は17歳まで父親は亡くなったものだと信じていました。家族からは「お父さんは肺炎で死んだ」と聞かされていました。それが、反抗期に母と激しい言い争いになった時「もう知らん!」「○○にしてもらい!」(○○とは父親の名前です)母の口から死んだはずの父親の名前が飛び出しました。その時、初めて父が生きていることを知りました。そして離婚した経緯と、私が望まれて生まれて来たのではないことを知りました。結婚式の写真も見せてもらいました。普通、父と母から両者の遺伝子を受け継がれるので少しは父の面影というものがあると思うのですが、離れて育ったせいなのか全く似ていませんでした(笑)母は1年も経たずに離婚しました。離婚の原因は、よくある姑さんとの嫁姑問題だったそうです。離婚調停になったみたいですが、姑との不仲だけでは不利だったようです。父側も慰謝料を払いたくないようで、離婚はしないと言い張ったそうです。結局、母が「もう父の家には帰りたくない」と、一方的に別れたいという事になり最後は慰謝料も養育費も放棄しての離婚になったそうです。ですので母も私も、父親からは何の援助も一切受けていません。私は父親に会ったことがありません。詳しく言えば、記憶がないと言うのでしょうか。私が生まれた時には、まだ離婚調停中で父とはまだ他人になっていなかったので母が入院していた伯母の病院に私を見に来たそうですが、もちろん私は覚えていません(笑)それが最初で最後の父親との対面でした。それから35年間、会ったことも話したこともありません。いまさら会ってみたいとも思いません。むこうもそう思っているでしょう。噂では、再婚して子供が2人いるそうです。姑さんの居る実家から離れ、家族4人で幸せに暮らしているそうです。再婚して子供がいるというのは、異母兄弟というのでしょうか(笑)一人で育った私には、父親や兄弟がいるなんて全く想像もつきません。多分、父とは一生会う事は無いでしょう。母が言うには「むこうの奥さんとは会う事になるかもしれない」みたいです。父が亡くなれば、むこうの弁護士から遺産相続に関する連絡があるようです。おそらく、父が亡くなったという報せを聞いても悲しいという感情も湧いてこないでしょう。DNAでは親子でも、全くの他人のようなものですから・・・。生まれた時から、私には父親というものは存在しません。世間では父の日でも、我が家には関係のない、ごく普通の日曜日なのです。
2008/06/15
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この春で私も35歳になってしまいました。子供の頃、母達が言っていた「誕生日が嬉しくない」「来ないで欲しい」という心境が30歳を過ぎてから、実感するようになりました。今では「早く大人になりたい」「自由になりたい」と望み、無駄に時間を過ごしてしまった10代の頃が悔やまれます。無駄に過ごした最悪の生活の結果、私は心も体も壊してしまいました。15歳の時に、引きこもり生活と食生活の悪化から子供でありながら、2型小児糖尿病と診断され20年が経ちました。幸いにも、これまで退院してから一度も糖尿病で治療を受けた事はありません。ですが、内科医から言わせると「歳をとってから、また発病するかもしれない」「他の病気から、またインスリンが出にくくなってしまうかもしれない」「○○さんは、普通の人より糖尿病になる確率が高いです」と当時の主治医や現在受診している内科医からも何度も言われ続けています。胃腸の調子や精神状態からも、もう二度と暴飲暴食はしないと思いますのでカロリー摂取過多からの血糖が上昇する事もないでしょう。ですが、風邪をこじらせたり他の病気が引き金となり再発するかもしれません。医師の言うとおり、この病気とは一生付き合っていかないといけないようです。馬鹿な生活を送ってしまった、自分自身の責任ですので仕方ないでしょう。糖尿病になって得た事もあります。簡単にダイエット出来るようになった事です。20年も食事制限をして、摂取カロリーの計算をしていますとどんな料理がどれくらいのカロリーか大体分かるようになりました。ここ数年は胃腸の調子からも、食べれる食品が限定され食べるという行為に魅力を感じなくなりましたので完全に食欲をコントロール出来るようになりました。何の取り柄も無い私ですが、ダイエットや減量だけは自信があります(笑)私のように2型糖尿病と診断されても、インスリン投与と食事制限や運動療法によって、自分で血糖をコントロール出来るのです。病状によっては私のようにインスリンからの離脱も可能なのです。最近、私にささやかな野望ができました。「完治はしない」という医師たちの言葉に逆らい「糖尿病は治る病気なんだ」という事をこのまま再発せずに生き抜いて証明したいと思うようになりました。精神的にも肉体的にも弱い私ですが、徹底した食事管理と運動でこれからも糖尿病を完全に抑え込んでいきたいと思います。「一生付き合っていかないといけない」と言われている難敵に立ち向かう事が私に出来る、せめてもの抵抗だと考えています。
2008/04/26
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やはり前回の血液検査が気になり、書籍やネットなどで調べてみるとどうやらコレステロールは低ければ良いというものでもないようです。特にHDLコレステロールは、善玉コレステロールとも呼ばれ動脈硬化の予防になり、逆に低値は動脈硬化の危険因子にもなるそうです。何かと「コレステロールが高い方に…」と健康食品の広告を目にしていましたのでコレステロールは低くてもいいものだと思っていました。先生は私の心配性な性格を知っていますので、気を使って「大丈夫」だと言ってくれたのでしょう。なぜ私のコレステロール値が低くなってしまったのか・・・?やっぱり、お腹の調子を優先した『偏った食事』だと思います。よくある一日の食事を少し紹介してみます。朝食 コーンフロスト・いちご・LG21・お餅昼食 コンビニの日替り弁当&野菜生活夕食 お餅orコンビニのおにぎり1個&魚肉ソーセージなどの食肉加工品夜食 ウイダーゼリーor果汁100%ジュース食欲が無く、弁当を食べれない時には食事代わりに、コーンクランチ・満月ポン・などを食べていました。ここ3ヶ月は毎日こんな食事です。変わっているのは、お餅とコンビニ食品でしょうか・・・。お餅は近所の和菓子屋で売っている、のし餅を切ったもので1食に100gトースターで焼いて、澄し汁でお雑煮にして食べています。お餅は消化が良く、お腹にもやさしいので正月から毎日食べています。お腹の調子を第一に考えて食べてしまうとどうしても糖質が多くなってしまうので、その日のお腹と相談しながら刺身・唐揚げ・ハムなど蛋白質や脂質を食べるようにしています以前にも紹介させてもらいましたが、3年ほど前から胃腸の調子がおかしくなり、下痢やガスに悩まされています。主治医からは過敏性腸症と診断され、食後にはコロネルを服用しています。それでも乳製品・肉類・卵類・脂物・食物繊維の多いものを食べ過ぎるとその夜からゴロゴロ、ギュルギュル・・・。あまりキレイな話ではないので止めておきます(笑)先日もコンビニの親子丼を食べた日に、ガスを出し切れずに寝てしまい次の日は苦しくて動けなくなってしまいました・・・。世間的にはコンビニのお弁当や加工食品を食べるよりも食材から作る家庭料理の方が健康に良いと言われているみたいです。私も退院する時に、栄養士の先生から栄養指導を受けました。ですが、実際に何年も続けるのは難しいと思います。コンビニ弁当や加工食品などは、高カロリーで脂っぽくすぐにメタボリックシンドロームや成人病などと結び付けられてしまいますが食べ方しだいで、私のようにコレステロールも下がるのです。何だかコンビニエンスストアや食品メーカーの擁護になりましたが・・・(笑)コンビニ食品や加工食品も良いところばかりではありません。問題は食品添加物と塩分を取り過ぎてしまう事です。特に塩分(ナトリウム)には気を付けておかないといけません。高いもので2000mg、1食に1000mg以上は確実に摂取してしまいます。おにぎり一つでも800mg~500mgあります。ですので、他の食事は比較的ナトリウム量の少ないものを食べています。幸い私は血圧の方は、まだ上が130ほどで落ち着いていますが血圧を注意されている方には、あまりお奨め出来ませんね。ウォーキングや体質、食べ物の好き嫌いなど他の影響もあるでしょうが私のように20年以上も加工食品を食べ続けていても 血圧を正常値で保ちコレステロール値を下げる事も出来るのです。もっとも、私の場合下げようと思って下げた訳ではありませんが・・・(笑)普段から食事に注意して規則正しい生活をされている方ならすぐに健康的な正常値になると思います。
2008/03/28
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前回でも少し書かせてもらいましたが、先月に血液検査をしてきました。気になる検査項目のアミラーゼ値は『血清アミラーゼ値 135』(基準地は38~136)『P型アミラーゼ 56』(基準地は50以下)血清アミラーゼ値は上限ギリギリですが基準値の範囲なので安心しました。P型アミラーゼ値も去年の2月の『96』に比べると安心できる数値です。「変わりないですね。様子を見ていきましょう」少々高めでも変わりがないのが一番です。検査報告書の下の方に目を移すと、低値の項目がいくつかありました。総コレステロール・HDLコレステロール・白血球・血小板が低値でした。『総コレステロール 114』(基準値は130~219)『HDLコレステロール 39』(男性の基準値は40~77)『白血球 29』(男性の基準値は39~98)『血小板12.3』(男性の基準値は13.1~36.2)白血球と血小板は毎回低いので、あまり気になりませんでしたが今回の検査ではコレステロール値が低値になっていました。「コレステロールが低いになってますね…?」少し気になったので聞いてみました。「年齢とともに上がってくるものですから、若い人は低くても大丈夫ですよ」「逆に若いのに高い人の方が注意してもらわないとね」「年配の人で普段から高い人が急に低くなった時には…」「何か病気かと心配しなければいけませんが」「○○さんの場合は問題ないですよ」分かりやすく説明してくれました。続いて先生のほうから質問されました。「どんなものを食べていますか?」「は…はい、毎日コンビニの弁当を…」去年の暮れから母がセブン●レブンで日替り弁当というものを注文してくれていますので、毎日その弁当を食べています。「毎日どれぐらい食べてられています?」「1600カロリー?ぐらいです…」ウォーキングに行った日には、もう少し食べるようにしていますがだいたい平均して1600カロリー前後を摂取しています。「もう少し食べられてもいいんじゃないですか…?」「少し栄養が足りないみたいなんで、もう少し食べてくださいね」糖尿病で食事療法を強いられていた20年前とは全く逆の言葉でした。白血球数も、また低くなっているので聞いてみました。「白血球が低いから…抵抗力が弱いんですか?」今までの血液検査で3100という数字が最も低い値でしたが今回の検査で2900と最低記録更新していました。「そんなことはないですよ。1000以下にならなければ大丈夫ですよ」「体重とかも関係してきますからね」「男性よりも女性の基準値が低く書いてあるでしょう?」「体重とか体格で差がありますからね。体重が増えれば数値も増えるでしょう」明瞭で説得力のある説明に心配性な私も納得しました。数値に多少の高低がありましたが、嫌な2月に行った血液検査で何もなくて安心しました。
2008/03/23
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3月も中旬ですが、現在のところ2月が無事に終わりホッとしています。『嫌な2月』の視野検査と血液検査も大した問題も無く終えました。3ヶ月間隔で定期検査を行っていますが、2月の検査は特に気を使います。それというのも我が家には『悪い月』というものがありました。「2月はアカン…」「やっぱり2月や…」『2月は悪い月』というのは祖母が作ったものでした。祖母の母親が2月に亡くなったのが嫌な2月の始まりらしいのです。2月に入ると祖母は「アカンアカン、2月や…」とまるで自己暗示に掛かったように、毎年一週間ほど寝込んでいました。以前にも紹介しましたが、ただでさえ毎日自分の体調を家族に聞かせ「しんどい…」「今日はアカン…」と口にしている祖母が2月というだけで自ら最悪の状態になってしまうのです。母は困惑し、祖父も不機嫌になり苦い顔をしていました。このように祖母が寝込んでしまうと、家庭の雰囲気どころではありません。物心ついた時から、そんな事を聞かされて育ったせいか私も毎年1月末から「来月は不吉な2月や…」「今年は何が起きるんや…?」とネガティブな思考が嫌でも芽生えてしまいます。気持ちの問題だと分かっていますが、実際に嫌な事も起きているのです。去年は2月の血液検査で、アミラーゼ値が異常に上昇し大病院にMRCP検査と精密検査に行って来ました。8年前には肺炎になり1月末~2月にかけて2週間ほど入院しました。思えば21年前、私が完全に不登校になってしまったのも2月だった気がします。そして最も悪い2月の記憶は、祖父が亡くなった2月でした。偶然だと思いますが、我が家には2月の好い想い出がありません。確かに気温が冷え込み、風邪をひいたり体調を崩しやすい季節でもありますが、最初から『嫌な月・悪い月』と決めつめるのは良くない事だと思います。親や大人が、まだ何も悪い経験もしていないまっさらな心の子供や孫にまで影響を与えるような家庭環境は絶対に良くない事だと思います。不幸にも我が家はそんな祖母の悲観的な思考が子供へ…そしてその子供の私へと、代々受け継がれてしまいました。こんな間違った負の流れは、私の代で終わらせたいと思います。偉そうな事を言って、次の世代に影響するのを心配しなくても一人っ子の私がこんな状態ですので、自然に消滅するでしょう(笑)
2008/03/17
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現在ロフトベッドの上に敷いて寝ているマットレスがヘタってきました。10年ほど使用しているスチール製のロフトベッドに付属されていた物です。数年前から変形してきましたが、最近傷みが激しくなってきました。お尻の部分が凹んで薄くなり、ほとんどベニヤ板の底板の上に寝ている感覚です。目覚めると腰や臀部が痺れていることもあります。裏側は体の形に茶色く変色し、衛生面でも限界のようでした。「そろそろかな…」買い換えようとネット通販店や楽天市場でも探してみましたが、10年前のワイドシングルというロフトベッド用のマットレスは特殊サイズらしく適当なサイズがなかなか見付かりません。現在のマットレスの大きさは、付属品ながらブリヂストン社製で、長さ1960×幅1025×厚さ70の一枚物です。そして硬さが全部分180ニュートンと特殊な規格みたいです。シングルサイズの殆どが幅90cm~95cmで、最大でも97cmでした。その上のセミダブルサイズになると一気に120cm前後になってしまいます。そして硬さも「負担のかかる腰部分を硬めに」という製品でも160ニュートン、他の部分はそれよりも軟らかく作られていました。そんな時、近所のSATYの連休売り出し広告にブリヂストン製4つ折りマットレス200cm×100cm×4cm/ブルー・ピンク各2980円という超タイムリーな商品が目に入りました。現在のマットレスより厚みも幅も少し小さめですが、ブリヂストン社製とメーカー製で2980円という魅力的な価格でした。何かと品質が問題視されているこのご時世、有名メーカーというものに惹かれてしまいます。広告を見てすぐに買いに行けばいいのですが、人が込み合う休日のデパートは大の苦手なので、火曜日まで待つことにしました。そして連休が明けた12日の火曜日。「まだあるかな…」「あの値段で売ってるかな…」広告の売り出し期限が過ぎ、商品が有るのか価格もそのままなのか不明でしたが、ウォーキングがてら、どんな物なのか見に行く事にしました。家からSATYまでは片道2.5km、往復5kmほどの距離です。小さな丘を上ったり下ったりの坂道コースです。行く道でホームセンターにも立ち寄ってみました。やはりシングルサイズの幅は91cm、中国製で3980円でした。掴んでみると座布団のようにフニャフニャしていました・・・。「やっぱりこの値段だとこんなものか…」半ば諦め気分でホームセンターを後にしました。SATYに着くと寝具売り場へ向かいました。一人でデパートに来る事など殆どないので少し戸惑いましたが目的がシッカリしていたので、人目もあまり気にせずに歩けました。寝具売り場へ着き、目的のマットレスを探しましたが見つかりません。「やっぱりもう無いか…」寝具売り場を一周しての帰り際、隣の家電売り場との境目に不自然にガラッ~と空いた棚が目に入りました。 そしてその棚の一番下には、薄いピンクのストライプのマットレスが1個・・・。上には黄色い紙に赤と黒の文字で、奉仕価格¥2980の立て札が!この棚のスペースからすると、おそらく当日は数十個は置いてあったのでしょう。それが連休中に売れてしまい、最後に残った一つがここに・・・。まるで連休を耐え、価格も売り出しのまま私が買いに来るのを待ってくれていたかのように・・・(笑)試しに押してみるとホームセンターで見たマットレスより断然に硬い!ブルーが欲しかったのですが、ピンク色の最後の一つを迷わず買いました。レジを済ませ「あとは帰るだけ」と思っていました。4つ折りなので100cm×50cmなら持って帰れる範囲と思っていましたが、スポンジですので重さは感じないものの、持ってみるとやっぱり大きい・・・。エスカレーターを乗り換えるのにも人に当たらないか気を使いました。そして店外へ出ると自分の計画性の無さに気付きました。一番の問題は大きさではなく『風』でした・・・。その日は低気圧の影響で一日中風が吹いていました。ただでさえ冬になると風の吹く地域に、寒波と低気圧で更に強まっていました。そんな中、風が当たる面積の多いマットレスを抱え、凧状態で歩くとは・・・。突風が吹くと体が1歩2歩と後退し、持って行かれそうになりました。「風の日にこんなもの持って歩いて、転んだら恥ずかしいだろうな…」「怪我でもしたらこのマットレスに寝かされて救急車が来るのを待たされるのか…」お馬鹿なニュースに出る事だけは避けようと必死にマットレスを左脇に抱え、右手で押さえ込んで慎重に歩きました。途中で何度も吹き飛ばされそうになりましたが、マットレスを落とす事も自分が転ぶ事もなく、なんとか家まで辿り着く事ができました。風の中を大きな荷物を持ち帰り、自信にもなりましたがその日の夜から胸と首の奥に変な痛みが出てきました。やっぱりこの季節に2.5kmも歩いて持ち帰る物ではないようです・・・。
2008/02/17
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お正月が終わったと思えば、あっと言う間に一月が終わろうとしています。私は未だ部屋の大掃除をしています(笑)去年の秋から部屋の整理と掃除を始めたのですが精神的な問題に優柔不断な性格も災いし、家具を移動したり戻したり年が明けた現在まで持ち越しているという状況です。掃除といっても大それた事はしていません。しようとしても、その日の気分や体調に左右され明日また明日と引き延ばされてしまいます。掃除の最中に何度も強迫観念に縛られ、繰り返し行動をしてしまいます。机の位置一つ変えるのにも数日掛かってしまいます。ですので、気分が軽い日に自分の出来る範囲で少しずつ行っています。今まで年に1回か2回しか掃除をしていなかったのですがこの度の『掃除習慣』のおかげでエアコンの2週間稼動後に表示される、お掃除サインが出るとついでに床も掃除機を掛けるようになりました。掃除嫌いの私には大きな進歩なのかもしれません。以前にも紹介したように、小児糖尿病で入院するまでの生活は酷いものでした。入浴は月1回、部屋は何年も掃除も片付けもせず散らかったまま。ゴミも捨てず、敷きっ放しの布団に雑誌やゴミで畳も見えない、文字どうり足の踏み場もないゴミの中で暮らしていました。もう二度とあの頃の生活には戻りたくはありません。私事ですが、部屋の乱れと心の乱れは関係しているように思います。この掃除習慣がいつまで続くか分かりませんが、出来るだけ掃除をするという気持ちを維持していきたいと思います。今年の年末・・・。いや、春が来る頃には・・・。現在の家に暮らし始めて今年で13年、未だ一度も手を付けていない窓周りの掃除をしてみたいと思います。エアコンの取り付け工事以外に開けた事のないカーテンを開けて土埃にまみれた網戸や窓枠の掃除を徹底的にしてみたいと思います。
2008/01/30
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今年もあと一日。毎年、自分なりに『今年の目標』というものと書き出してみるのですが今年もまた、何も達成されずに終わってしまいました・・・。ちなみに2007年の目標は・・・。●歯の治療をする。●ウォーキング・トレーニングの再開。●強迫観念・繰り返し行動からの脱出。●毎日服用している腸の薬と精神安定剤の離脱。●普通の大人になれる糸口を見つける。改めて見ると、自分の精神と肉体的なことばかりです。数年前に自宅で少しだけ行っていた、ウエイトトレーニングもここ半年は、腹筋運動さえもしていない始末・・・。かろうじて続けていたウォーキングと評す散歩も、この寒さから1週間に1回か2回・・・。将来へ向けての糸口、普通の大人になれるキッカケになればとこのブログを書き始めて一年が経とうとしています。自分自身の育ってきた環境や現在の状態を改めて文字にしブログに公開する事で、気持ちが軽くなれるような気がしました。二十年以上、一人で過去の過ちとその原因を考える自問自答の日々に心身ともに辛くなってきた近年、何かを発信したかったのでしょう。私事ではありますが、少なくともブログを書くという事は生活改善に向かって行くように思います。来年こそは・・・。私とは全く逆のポジティブな考え方で見るなら現在の状態が私の人生で最悪の状態であり10歳から始まった、この右肩下がりの人生がここ数年で底をつき来年からは、右肩上がりの上昇カーブを描けるかもしれません。私の、皆さんの2008年が良い年であるように願います。今年一年、ご拝読ありがとうございました。
2007/12/31
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12月に入ったと思えば、もうクリスマスが来ようとしています。前回、耳の中のおできと夢の無い話題でしたが、今回もこのクリスマスの季節にロマンティックの欠けらもない『デキモノ』の話題です(笑)先日、右目に『麦粒腫』というものができました。恐ろしいような病名ですが、俗に言う『ものもらい』『めばちこ』です。地方の方言もあるのでしょうが、いろんな呼び方がある病気です。 症状は痒みから始まりました。次の日、起きてみると右目のまぶたが重く感じ鏡を見ると少し腫れていました。ここまでは、何度も経験した事がありました。「めばちこか、数日で治るだろう」と軽く思っていましたが、次の日、まぶたの腫れが大きくなり痛みまで追加されました。母親が薬局で、ものもらいに効く目薬を買って来てくれて2日ほど点していましたが、一向に治まる気配がありません・・・。どうやら上まぶたの裏側にデキモノができているみたいでコンタクトレンズも入れることが出来なくなり定期的に視野検査を行っている、掛かり付けの眼科に行く事にしました。診断は予想どおり、めばちこでした。「はは。腫れてるな(笑)」まともに目が開けないほど周辺が赤く腫れまるでお化け屋敷のメーキャップのような顔になっていました。「麦粒腫、めばちこですね」「ものもらいとも言いますが、うつりません」「他人には感染しません」「菌が入って炎症を起こしてますので、治療は菌を殺して炎症を鎮めます」一通り麦粒腫の説明を受け、2種類の目薬と2種類の塗り薬が処方されました。『ガチフロ』『フルメトロン』の点眼薬に患部である、まぶたの上に塗る『タリビット』『プレドニン』の眼軟膏でした。点眼薬・軟膏とも、細菌を抑えるものと、炎症を鎮めるものです。フルメトロンは前にもアレルギー性の炎症時に使用した事がありましたが、2本の点眼薬の間隔を5分空けなければならないというのは結構手間が掛かります。その上、今回は2種類の軟膏も塗らなければならないので、食後はキレイに手を洗ったまま鏡を前にし、目の治療で動けませんでした(笑)まる1日、数回使用しただけで鎮静化に向いました。治り始める時期と重なったのか、眼科で処方された薬剤は物凄く効きました。毎食後、目薬と塗り薬を医師の指示どおり使用した甲斐あってか現在は完治し、コンタクトレンズも普通に装着しています。デキモノの話題が続いてしまいましたが、酷い症状にならない程度のめばちこやおできは、日常生活において頻繁に起こります。このブログを書いている現在も、額と頬にニキビができています。もともと皮膚も弱い体質ですが、どうやら私はデキモノができやすい体質のようです。実は今年の夏、口腔内にできたデキモノの手術をして来ました。口の中にできたデキモノの原因があまりにも恥ずかしく、また、馬鹿らしいので書く事をためらっていました(笑)すべて落ち着いた来年にでも書いてみたいと思います。連日雨模様のようですが、皆様よい週末、そしてクリスマスをお過ごしください。
2007/12/22
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秋口から出来物に悩まされました。耳の中に『おでき』が出来てしまいました。おでこや頬など顔にできる、ニキビの大きなものです。年に数回、耳たぶや耳の裏など耳の周辺にも現れるのですがそれが耳の中に出来てしまいました。耳の中のおできは、今回が初めてではありません。3年前にも経験しました。 その時は痛みが酷く微熱も出ていたので、耳鼻科に行きました。「あ~耳の中に出来た、おできが潰れたんですね」過剰な耳掃除で耳の中のオデキが潰れ、そこに菌が入ってしまったようでした。その時は点耳薬と抗生物質を処方してもらい一週間ほどで治まりました。生まれて初めて『点耳薬』という物も経験しました。入れた時の「ズボボボボッ!」という耳の中に液体が入ってくる非日常的な感覚は最後まで慣れる事ができませんでした。毎回、患部まで行き届いたところで耳を下向けて薬を出していました。今回は前の教訓から、おできを潰さないように入浴後の綿棒での耳掃除も出来るだけ控え、消毒液を軽く付けていました。痛みは我慢できましたが、場所が場所だけに感染症の不安がありました。そこで去年の冬、風邪を引いた時に内科医から処方された抗生物質を飲む事にしました。『フロモックス』という抗生物質です。 調べてみると、グラム染色での陽性・陰性と両方の細菌に効くようですので大概の菌の殺菌作用があるのではないかと、素人考えで判断しました。それに、私の胃腸の弱さを知っている主治医からの処方ですので副作用も少ないのではと考えました。4日ほど飲んでいくうちに、腫れが小さくなり痛みもなくなっていきました。抗生物質といっしょに処方されていた、胃腸を保護する薬も飲んでいましたがやはり腸の調子がおかしくなっていました。 背に腹は変えられないといったところでしょうか・・・。耳鼻科へ診療に行けばいいのですが、家の近くに耳鼻科がなくJRの主要駅前まで通わなければなりません。そこで前回の受診時に『アレルギー症状』と『副鼻腔炎』と診断され耳の治療が終わっても、鼻の治療に通っていました。毎回3分ほど鼻から薬入りの蒸気を吸入して口から出し、最後に喉と鼻の奥に長い綿棒で薬を塗られ「オエッ!」と涙目・・・。それに患者のほとんどがお年寄りと幼児でした。午後の診療時間の待合室は、私と同い年ぐらいの母親と幼児でした。待合室の一角には、絵本に積み木と子供が遊ぶスペースが設けられていました。大人の男が一人で耳鼻科の待合室に座っていると浮いてしまうのです。 何か場違いな雰囲気で、治療より気を使い落ち着く事ができませんでした(笑)大人が通える耳鼻科がほしいものです。今回は耳鼻科のお世話にならずに治まってくれました。皆様も耳の中におできが出来ても、潰さないように注意してください。
2007/12/10
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先日、内科の定期健診に行って来ました。今回の血液検査の結果は『血清アミラーゼ 117』(基準値は38~136と検査書に表記されています)『P型アミラーゼ 47』(基準値は50以下と検査書に表記されています)血清アミラーゼ値もP型アミラーゼ値も、ここ数年では最も良い数値でした。気にしていたアミラーゼ値は基準値の範囲内に治まっていましたが、夏バテからか、食欲が無くなり体重が2kgほど減ってきていました。腸の調子も、いつもの下痢気味と腹部膨満感に痛みと酷い鼓腸と不快感が加わりました。夜中にガスや便が出そうで出ない鈍痛に、寝ている間も鳴り止まない鼓腸と緊張した時のような、下腹がキュンと攣るような感覚がありました。自分でガスや便の排出をコントロール出来ず、腸がパニックになっているような感じでした。気分も滅入り、強迫観念が酷く思うように動く事が出来ない日が続いていました。「調子はどうですか?」診察室へ入り、先生のいつもの挨拶に「お腹の調子が悪くて…」「下痢気味になったり、夜中に出そうで出ない痛さになったり…」「気分が悪くて食べれないんです…」「お腹が張ったり下痢するんで、食べる物も限られてきて…」前もって先生に言う症状を、家を出る前から整理していましたが実際に先生の前に座ると、小さな声で断片的に症状を言うだけになってしまいます・・・。「どういう風に気分が悪いんですか?」「吐き気がするんですか?」あまりにも漠然とした私の訴えに、先生の方から聞いてくれました。「は…はい」「気分が悪くて、あまり食べていません…」「最近は、うどん・おにぎり・飲むゼリーぐらいしか食べてません…」聞かれもしていないのに、具体的な食べ物を言ってしまいました。「食べれない?」「もっと他の物、普通の食事をなさったら?」首をかしげながら尋ねられました。「お腹が張って寝れなくなったり、下痢するんで…」肉類や食物繊維の多い物を食べると、腹部膨満感と下痢で苦しくなってしまうのです。「下痢するのか…それじゃあ消化を助ける消化酵素を飲んでみますか?」薬の本を開いて、薬の効果と成分を説明してくれました。「は…はい、お願いします」精神的な問題から、消化器に影響を及ぼしているのではないかと思っていましたが今回も何も言えないまま、内服薬を処方してもらいました。自分でも「医師に気を使い過ぎてどうするんだ…」と思うのですが子供の頃から『良い子』である事を嘱望され育ってきたせいか人の言う事に反論する事が出来ません・・・。医師の前では自分の痛みや苦しさを我慢してでも、優良患者になってしまいます・・・。よく「あそこの医者とは意見が合わなかった」「喧嘩してきた」などと見聞きしますが私には絶対にあり得ない事です。歯医者へ治療に行き「痛かったら手を上げてくださいね」と言われてもどんなに激痛を感じても、今まで一度も痛いと言わずに生きてきました。それどころか治療してくれている歯科医に気を使い見え易いように首の角度や口の開け方を考え、愛想笑いをしているのです・・・。散歩をしていても、レジでの支払いの時も、医院での治療の時も良い子・良いお客さん・良い患者を精一杯演じてしまうのです・・・。いわゆる関西弁で言うところの『ヘタレ』ですね。自分でも、誰にも何も言えないヘタレの自分が嫌になります。結局、内科からは、いつもの薬に『吐き気止め』と『消化酵素』を追加してもらいました。今回も精神的な悩みの事を主治医に言えませんでした・・・。強迫観念や自迫感の事を打ち明けてしまうと今までの診断と治療に納得できず、内科医である主治医を見限るような失礼な行為になってしまうのではないかと、毎回尻込みしてしまうのです・・・。ですが、いつまでもこんな状態を続けていては何の解決にもなりません。これからも先生のプライドを傷つけないように、徐々に打ち明けていこうと思います。
2007/10/20
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ここ2回ほど、私の精神的な苦悩を書かせてもらいました。今回は現在の我が家の状況を書いてみたいと思います。去年の夏、初めてパニック症状に陥った時、私は改めて精神科へ受診に行く事を考えるようになりました。母と伯母に「やっぱり精神科に行ったほうがいいんじゃないか?」と相談してみましたが、受診に行く事を認めてくれませんでした。特に母は絶対に認めようとしてくれません・・・。前にも書かせてもらいましたが、母は現実を受け入れようとしてくれません。私の子供時代の性格や行動が、すべて母の理想に書き換えられているのです。自分の子供が心の病で精神科に掛かるなど、そんな母の理想では絶対にあってはならないのでしょう。「治療を受ければ楽になれるんかな…?」「やっぱり一度診てもらいに行きたいんやけど…」今までに何度も精神的に苦しいと母に相談しました。すると母からは決まって、怒りと励ましが混じりあった感情的な返事が返ってきます。「そんなん気分の問題や!」「あんたが異常やったら、みんな異常や!」「自分でおかしいと自覚できるのなら、おかしくない!」「ほんまにおかしかったら、自分がおかしいと思うはずないやろ!」これ以上私が話すと・・・。「勝手に何処でも行ったらええねん!!」「もう勝手にしぃ!!」(そのままの関西弁で会話を書かせてもらいました)こうなってしまえば、もう会話にもなりません・・・。母の機嫌が落ち着くまで家族の会話は無くなります。私自身も家族の反対を押し切ってまで、受診に行こうと思えません・・・。私の家族は私以外に、母と伯母に痴呆症の祖母の3人なのです。実際に私が会話したり接する事が出来る人間は、母と伯母だけですのでその母と伯母の意志に背いてまで独断で受診に行き、家の中で険悪な状態が続いてしまうと今よりストレスを抱え込んでしまいそうで踏み出せないのです・・・。私の苦しみがパニック症状と病気の不安だけではない事を母も知っているはずです。私が部屋に入る時などに、何度もドアの開け閉めを繰り返し強迫観念で縛られた行動を母も伯母も見ています。「何しとん?!」「そんな事して楽しいか?!」呆れ顔から最後は怒気に変わります。 確かに精神科へ行き、私が精神的な病だと診断されてしまうと現実を認めざるおえない状況になってしまうでしょう。結果的に今以上、母親を苦しめる事になってしまうのかもしれません・・・。ですが、当人の私が言うのもおかしな話ではありますがもう世間体や理想など気にしている状況ではないと思うのです・・・。実際、不登校から引きこもり生活になり、不摂生と過食で小児糖尿病まで引き起こしその後は強迫観念と繰り返し行動の自迫感に苦しみ、20年が過ぎてしまいました。母の言うような普通の34歳ではないと思います。将来の夢も希望も無く、その日の腸の調子と息苦しさを回避する事を考え悪の心と強迫観念に縛られて、何度も繰り返し行動とお祈り・・・。私の精神も肉体は、もう限界に近いのかもしれません。最近、ストレスからか腸の調子が悪化してきました・・・。現在、主治医である掛かり付けの内科医で診療を受けていますが悪の心の事や強迫観念の事は主治医には言っていません。私が不登校になり、引きこもり生活をしている事も知りません。「○○さんは神経質な人だ」と感じているかもしれませんが私が精神的に苦しんでいるとは思ってもいないでしょう。心の病気や家庭の問題など、内科医の診察範囲ではないのです。2年ほど前から、ガスの大量発生での腹部膨満感と下痢に便秘に細い便が続きました。主治医からは『過敏性腸症候群』ではないかと診断されています。便通調整の為に『コロネル』と、去年パニック症状に陥った時から冷や汗と息苦しさを感じるパニック発作の不安対策の為に軽い精神安定剤の『リーゼ』を処方してもらっています。腸の薬は2年半、安定剤は1年以上ほぼ毎日服用しています。ネット検索での自己診断ですが恐らく私はストレスからの『自律神経失調症』になっているのではないかと思います。腸の不調・不整脈・息苦しさ・冷や汗・不眠症・冷え性・首と肩の強張り・パニック症状。既に過敏性腸症候群と診断されているみたいですから自律神経の調整機能が乱れているのではないかと思います。腸や内臓など自分の意思とは無関係に活動する組織は、自律神経が働いているそうです。そして最大のストレスの原因となっている、精神的な病の強迫観念。これは『強迫性障害』ではないのでしょうか・・・。自律神経が乱される最大のストレスの原因となっている悪の心と強迫観念に極度の病気への不安を解消しなければ肉体的な症状も治らないのではないかと思うのです。やはり母の言うように、自分が「おかしいんじゃないか」と疑い自分の症状を分析できるのなら、全く正常なのでしょうか・・・。ですが、自分で自分の症状を自覚できないまでになってしまったらこんな文章も書いていられないでしょう・・・。ここ数年「精神的にツライ」と母の感情が乱れない程度に訴え続けています。聞き慣れたのか、最近になって母の態度も変化してきたように感じます。私も苦しんで来ましたが、母も自分の理想からあまりにも懸け離れた息子をもち現実を認められなくなるほど苦しんで来たのだと思います。人生のやり直しは出来ませんが、母の理想に少しでも近づく為にも専門医で適切な治療をして、世間一般で言う普通の大人の暮らしをしたいと思います。その為にも、母に私の心の中の闇と病を理解してもらいたいと願います。
2007/09/14
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1~8までの闘病記で糖尿病からの肉体的衰えと精神的不安を書いてきましたが今回は私の精神的な苦悩ですので、このテーマで書かせてもらいます。誰にでも少しは日常生活の中で、げんを担ぐという行為はあると思います。「次の信号が変わるまでに行ければいい事があるかも…」「右足から靴を履けば良い日だったのに、今日は左足から履いてしまった…」「昨日勝った時と同じ物を夕食に食べたから、今夜のプロ野球は勝てるかも…」この程度のジンクスや、げんを担ぐという行為は時々耳にします。ゲームの勝敗・その日の運勢など、この程度の軽いものなら問題ないのですが私の場合その何十倍もキツイのです・・・。前回にも書かせてもらったように祖父への償いのお祈りから、亡くなった人を極度に恐れるようになりました。故人が生きている私達を病気にしたり事故に遭わせたりという未知の力があるという事を信じ、恐れるようになっていました。事故や事件で亡くなった人や病気で亡くなった人・・・。毎日のようにTVや新聞などから、不幸なニュースが入ってくるのが私には恐怖でした。 亡くなった人を恐れる日々、私の心の中に存在していた『悪の心』が暴挙を起こしました。事もあろうに悪の心が亡くなった人を愚弄するのです・・・。そして、挑発するかのような酷い事を思ってしまうのです・・・。どんな事を思って愚弄してしまうのかは、まだこの場では書くことができません。今はまだ誰にも打ち明ける勇気がありません・・・。もちろん家族にも母親にも言えません。とにかく亡くなられた人が、現世の人間の生命を絶つ事ができるパワーを持ち酷い事を思っている人間がいると知ったなら、即使われるような酷い事です・・・。その上、悪の心は『最悪の事態』を引き合いに出してしまうのです。私の体の病気や生死まで賭けてしまうのです・・・。「何時までに今している作業を終えなければ癌になる」「この床のタイルの切れ目を踏み越える時に思った病気になる」「ネットゲームや応援しているチームが負けたら心臓が悪くなる」その時の体の不調で、考えられる最悪の病気や癌を引き合いに賭けてしまうのです・・・。愚弄して、病気を引き合いに挑発・・・。現世の私は、どうすれば未知のパワーを防ぐ事が出来るのでしょうか・・・。私は毎回、亡くなった人に悪の心が思ってしまった酷い事の許しを請うていました。許しのお祈りは、すぐに神様へのお祈りに変わりました。神様だけが私の悪の心の存在を知り、そして私の罪を許してくれる方だと思ったからです。毎日何回も酷い事を思ってしまうと、神様への許しを請うお祈りをします。「お許しください…」「病気にしないでください…」「お守りください…」心の中や時には外出時にも口に出して言っています。悪の心はお祈りの中にも侵入してきました・・・。お祈りの最中にも病気や癌の名前を思い浮かべてしまうとまた最初からお祈りのやり直しをするようになりました。縛られる行動も、偶にしかしない作業・新しい物を手にする時・物を買う時、お墓や事故現場の前を通った時だけでは留まらなくなっていきました。何気ない日常生活にまで影響してきました・・・。家や部屋のドアを出入りする時・靴を履く時・着替えをしようと最初に衣類に触れた時。食事前後の「いただきます」「ごちそうさまでした」と言う時。目覚まし時計を止める時・パソコンの電源ONやOFF・ソフトを起動する時。TVやエアコンのリモコンを取る時・CHや温度設定のボタンを押す時。気が弱っている日は、すべての行動・すべての物に触れる瞬間です・・・。もちろんこの楽天のブログをクリックする時にも何回もやり直しています。自分の中では17年も苦しみ続けている、この強迫観念のようなやり直し行動を『自迫感』と呼んでいます。(現実にはそんな言葉は存在していません)何をするのにも、悪の心が怖いもの見たさのように暴挙を起こします。私の心は自迫感で支配され、やり直し行動とお祈りの繰り返しの日々なのです。正直、毎日苦しいのです・・・。今回、初めて私の心の中の苦しみをこの場を借りて書かせてもらいました。苦悩の日々を文章にしてブログに残し、何方かに読んで貰う事で閉ざされた鉛のような重い心が、少しでも軽減されるのではないかと思ったからでした。読まれた方には、重苦しい気分にさせてしまい申し訳ありませんでした。~続~
2007/08/31
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糖尿病の合併症で『糖尿病性神経障害』というものがあるそうです。末梢神経のうちの、知覚神経・自律神経に障害が起こるそうです。今回から私が精神的に苦しむようになった過程を書いていこうと思います。私の場合、既に不登校になり引きこもり生活で糖尿病を引き起こしてしまった訳ですから糖尿病が原因かは解りませんが、少なからず何らかの影響があったと思います。生活習慣病も恐れない暴飲暴食に、月1回入浴の不潔な生活から日々不安で堪らない、不潔恐怖症のような生活に激変しました。「自分は何か重い病気ではないのか…?」 毎日『病気の不安と死の恐怖』が襲ってきました。先日も書かせてもらいましたが、この病気の不安と死へ恐怖は現在も続いています。特に癌にたいする不安は強く、この17年間怯えながら暮らしてきました。退院後の肉体的な症状では、2年ほど37℃前後の微熱が続いていました。体温は高くても37.4℃でしたが、頭と目や鼻の首から上の熱っぽさはまるで39℃以上発熱しているような感覚でした。当時の主治医にも症状を相談しましたが「40℃ぐらいの熱っぽさ…?」「気分だけでしょう?」あまりにも過剰な訴えに、主治医は笑っていました。「う~ん、脂肪が燃えているからかな…」「動かないから食べたカロリーが消費されないからでしょう…」「血液検査をしても、どこにも炎症はないみたいですよ」「気分的な問題じゃないですか?」現実に発熱も炎症もない、ただ熱っぽいと言うだけの自己申告では医師は何の対応も出来ないようでした。 結局、何の熱っぽさだったのか解決できませんでした。微熱が続く中、毎年春と秋には現実に高熱が出るインフルエンザや風邪にも感染しました。入浴後に頭髪の乾きが不十分だと風邪。掛け布団が下がったまま気付かず寝て肩を冷せば風邪。お腹に布団が掛かっていないと下痢や腹痛。もともと子供の頃から弱い体質でしたが、大人になっても強くなれませんでした。不潔恐怖症のような状態にもなっていました。手の皮が剥けるまで、濃い手洗い用の消毒液で何度も手を洗っていました。1日何回もイソジンでウガイもしていました。抵抗力も無くなり自分の健康へ対する自信が無くなっていました。「自分は不運なので、何万人に一人の難病になるんじゃないか…」事実、生まれてからそういう事ばかりでしたので余計に不安が募りました。現在は、手の皮が剥けるほどではなくなりましたが頻繁に手を洗っています。帰宅後はもちろん、食事前や入浴後と寝る前にもウガイをしています。部屋の中では除菌のウェットティシュで身の回りの物を拭きトイレの前後には除菌の便座クリーナーで必ず拭いて座っています。そしてこの時期、私の精神状態に追い討ちを掛けるような出来事が起こりました。生まれてからずっと一緒に暮らしてきた祖父が亡くなりました。私が17歳の時でした。不登校になり家族に暴言を吐き、祖父を悲しませる事ばかりしてきました。祖父は朦朧とした意識の中、家族の不仲と将来を心配しながら亡くなっていきました・・・。その頃の私は、まだ反抗期でした。糖尿病になる前の14、5歳の酷い荒れ方は治まっていましたが 自分の体の不調と精神的な不安からか、家族に対し冷たく接していました。 祖父が入院してからも数ヶ月は会いに行きませんでした。はじめて祖父のお見舞いに行ったのは「お爺ちゃんは、もう助からない」と母から知らされた後でした。私は取り返しのつかない日々を過ごしてしまいました・・・。祖父の死期を知らされた日を境に反抗期は治まっていきました。祖父は入院してから半年後に亡くなりました。そしてその日から、私の祖父への償いの日々が始まりました。毎晩寝る前に、亡くなった祖父に今日一日の失敗や家族に対する自分勝手な発言の許しを請うようになりました。始めは5分ほどだった祖父へのお祈りの時間はしだいに10分、15分、30分と長くなっていきました。そのうちに自分の拳で自分の頬を殴るようになりました。頬骨の上に紫色のアザが出来るぐらい毎日何度も殴っていました。母や祖母と言い争った日の夜には、何発も自分の頬を強く殴っていました。この亡くなった祖父を恐れ、償いのお祈りをするという行為が私の人生において最大の障害に発展していきました・・・。~続~
2007/08/24
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前回までは糖尿病というテーマで書いてきましたが今回はダイエットというテーマで、私のダイエットの失敗例を書かせてもらいます。私は間違った愚かなダイエットによって、人には見せられない肉体になり生涯に渡って精神的・肉体的に苦痛を味わう結果になってしまいました。半年間で体重は25kgほど落ちましたが、体脂肪は殆ど落ちていませんでした。BMI指数から診ると身長170cmで体重50kgといえば痩せている方です。ですが、前回でも書かせてもらいましたが体重が減った大半は、脂肪ではなく体中の筋肉が落ちたものでした。骨格の上に脂肪と皮膚が付いただけで、腕もお腹もポチャポチャと垂れ下がっていました。胸部の脂肪は落ちずに垂れ下がり、まるで女性の乳房のようでした。まだ十代にもかかわらず、まるで老人のような肉体になっていました。現在でもそうですが、私の体は体重の割りに体脂肪が多いのです。あの頃に体脂肪計があれば、どんな数値が出ていたのか・・・。おそらく男性の肥満基準である20%以上は確実にあったと思います。そして厄介な事に、急激なダイエットをして痩せると肥満時に伸びきっていた皮膚は元に戻りにくいそうです。事実、ダイエットをしてから18年経った現在でも伸びた皮膚は戻っていません。それどころか、歳をとるにつれ体中の余った皮が垂れてきたように感じます。座っていても、お腹は余った皮と落ちない皮下脂肪で三段にも四段腹にもなっています。今の季節は、その三段腹の間に汗疹が出来て痒くなります。もともと皮膚の弱い私は、わき腹から腰の辺りまで一年中湿疹と汗疹だらけです。とても人前で見せられる肉体ではありません・・・。顔の皮も弛んでいます。子供の頃は二重だったまぶたは、完全に腫れぼったい一重まぶたになっています。眉毛を上げて頭の皮から引っ張り上げていないと、眼がパッチリ開きません。弛んだまぶたの皮が、まつ毛に乗りかかり眼の周辺にコリやダルさを感じます。トドメは伸び弛んだ皮膚の表面の肉割れ『キャピトン』です。急激に太った場合や妊娠時に現れる、いわゆる妊娠線です。太もも・ふくらはぎ・下腹・足の付け根・腋の下の周辺にビッシリと現れました。自分で見ても「はぁ…」と、後悔と失望のため息が出るような体になってしまいました。暑くなれば、皆さんのように半ズボンを穿いて散歩に行きたいのですが両足には掻き毟り後のカサブタに汗疹、そして無数のキャピトン・・・。 ですので、夏場でも長いジャージのパンツを穿いてウォーキングをしています。現在では様々なダイエット教本やサプリメントが存在していますが当時の私は脂肪燃焼の知識も体脂肪という言葉も知りませんでした。体重を減らす事ばかりに必死なり、知ろうとしなかったのでしょう・・・。糖尿病と診断され、医師から食事療法で血糖コントロールと減量を指示されたとしても医師の診る、血液検査・血糖値・体重ばかり気にしていてはいけないと思います。血液も内臓も、そして見た目も美しく健康にダイエットをしないと例え医師の言うとおりに、体重が減り血液成分が改善されても 私のように醜い体になってしまえば、心身ともに後遺症が襲ってきます。ストレスにならないカロリー制限と負担にならない程度の運動を取り入れたダイエットで筋肉を落とさず内臓脂肪と皮下脂肪を落とし、精神的にも肉体的にも美しくなってください。~続~
2007/07/30
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本来のテーマである糖尿病から少し離れてしまうかもしれませんが今回から糖尿病からの躓きで、様々な病気や障害を引き起こし現在も苦しみから抜け出せなくなった、私の経験を書いてみたいと思います。退院してから自ら食事療法と称し、食べずに寝転んでいるだけの生活が2年ほど続きました。私は17歳になっていました。不登校のまま中学校を卒業できましたが、高校にも専門学校にも行かず毎日、退院祝いに買ってもらったベットの上で寝転がっているだけでした。体重は50kgを切る時もありましたが、だいたい50kg前後で落ち着いていました。体重は減りましたが、身長は伸びてくれていました。寝る子は育つとでも言いましょうか、2年間で10cm以上伸びていました。167cmぐらいになっていたと思います。現在の身長とほぼ変わりません。現在はギリギリ170cmですが、平均身長からすると高いとは言えません。外出もしない太陽にも当たらない引きこもり生活をしていました。食べなくなっただけで、入院前の生活と殆ど変わらない生活に戻っていましたが入浴だけは入院時のまま、2日に1回は必ず入るようになっていました。病院へは半年に1回、血液検査と尿検査に通っていました。病院の検査以外では、自宅で市販されている『テステープ』で尿検査をしていました。食べた物や体調によって、『薄緑色~濃い緑色』に変色していましたが「食べた物や時間帯での変化で、常時糖が下りているわけではないので心配ない」当時の主治医が言ってくれました。糖尿病は落ち着いてきましたが、体重が落ちたことで思わぬ苦痛を経験しました。ある晩、寝る前に何気なくクシャミをして寝ました。次の日、目が覚めて起き上がろうとすると腰に経験したことが無い激痛が走りました。一人では動く事も歩く事も出来ませんでした。母に肩をかしてもらい、近くの整形外科に行きレントゲン検査を行いました。検査の結果、痛みが出るきっかけは寝る前のクシャミでの『ぎっくり腰』とのことですが根本的な原因は『椎間板ヘルニア』だと診断されました。その日は痛み止めの座薬と湿布薬をもらい、次の日から数週間牽引治療に通いました。考えてみれば、退院してからベットの上で毎日うつ伏せに寝転がりながらTVゲームをしたり雑誌を読んだりイラストを描いたりしていました。エビ反りの状態で毎日何時間も寝転んでいたのです。椅子に座って机に向かう事など、ほとんどありませんでした。そのうえ無理なダイエットで周辺の筋肉が落ちてしまい、背骨に負担が掛かったのです。背中の筋肉だけではありません。全身の筋肉が落ちてしまっていました・・・。「ダイエットなんか簡単だ」「食べずに寝てるだけでいい」この『食べないだけ』という愚かなダイエットで厄介な持病がまた一つ増えたのでした。椎間板ヘルニアは16年経った現在でも完治していません。無理な姿勢で数分座っていただけでも痛み出します。買い物に行っても病院の待合時間でも立っていられません。歩いたり・背中を丸めたり・屈伸運動などをして動かしていないと同じ姿勢では10分と立っていられません。仰向けで数時間寝た後も腰が痛みます。そんな時は直ぐに横向きに寝て腰を丸めます。ヘルニアから『坐骨神経』にも影響しているらしく膝の外側のやや下の部分に、気が抜けるような痛烈な痛みがする時もあります。糖尿病を克服してやろうと、意気込んだまではよかったのですが食べずに寝ているだけの、楽をして痩せようという愚かなダイエットの結果また一つ人生の坂道を転げ落ちたのでした。皆さんは私のような『愚かなダイエット』などしないと思いますがくれぐれも無理な減量やダイエットにはご注意ください。~続~
2007/07/16
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前回は、祖母に会話を掻き消されて育った事を書かせてもらいました。今回は、そんな家庭環境で育った私の幼少期の行動と感情を書いてみたいと思います。子供の頃には話を聞いてくれなかったばかりか、機嫌の悪い時などには「黙っていなさい」「一人で遊んでいなさい」「大人の大事な話があるんや」大人の会話を邪魔するのは悪い事だと叱られたりもしていました。大事な話といっても、祖母の体の調子や名誉職の会合での事を話すぐらいでした。「昨日の夜に足が攣った」「お茶よく飲んだから今日はオシッコが良く出る」 「○○さんがこんな服着てネックレスをして来ていた」 今思い出しても実にくだらない事です(笑) こんなくだらない話に、私の存在は負けたのかと思うと虚しい気持ちになります。会話不足で母親と心が通じて無かったせいか私は子供頃、人の物を盗ったり嘘ばかりついていました。友達の家へ遊びに行っては、友達の玩具をコッソリとポケットに入れてそのまま家に持ち帰り、家族には「○○くんに貰った」と言って自分の物にしていました。また同級生との会話では、些細な事でも嘘ばかりついていた事を覚えています。『私は悪い子供でした』ガキ大将的な悪さではなく、ずる賢く悪い子供でした。8歳までは家族や先生の前では猫をかぶり、嘘をついては同級生を陥れる自分でも嫌になるぐらい卑怯でイヤラシイ子供でした。ですが、家族は私が物を盗んだり嘘つきな子供だったとは今でも知りません。家族の前では聞き分けの良い子を完璧に演じていたからです。今でも母は「手が掛からないし聞き分けの良い子供やった」と言っています。私が本当の事を話しても、家族は認めないでしょう。特に母は絶対に認めません。祖母と母は、時に自分が信じている事や自分の理想としている事が自身の記憶の中で現実となってしまいます。何度も「自分は悪い子供だったんだ」と話ましたがその都度「悪い友達やった」「あんな子といっしょにいるから濡れ衣を着せられた」少し取り乱し気味になり、最後には感情的になって会話にならなくなってしまいます。私も最近では、それぞれ好きなように過去の記憶があってもいいものかと諦めています。今になって、母に自分のしてきた事を認めさせても意味が無いように思えてきました。たとえ現実でなかろうと、母の数少ない好い思い出なら、それでもいいのかと思います。母の記憶の中では、私は永遠に良い子のようですが現実は懸け離れていました。どうして人の物を盗んだり嘘をついてばかりいたのでしょう・・・?生まれ付きの悪い子供だったからでしょうか・・・?私は、生まれ付きの悪い子供や悪人なんていないと思います。人の心は育ってきた環境によって、善にも悪にも変化してしまうものだと考えています。私の場合、祖母の自分が話題の中心で居なければ我慢できないという性格のせいで母親との心の会話が足りなかったからではないかと思います。結局、私も祖母のように家族や母親の気を引きたかったのでしょう・・・。『仮病』という術を使う祖母に対し、どうする事も出来ない私は『盗み・虚言』という形になって表れたのだと自分で分析しています。もちろん自分の弱さと問題を解決させる知識の無さもありました。大人は日常のストレスを趣味やスポーツなどで発散させる術を知っていますが子供は自分の気持ちを上手くコントロール出来ません。あの頃の私も『やるせなさ・苛立ち』を他の事に変えることが出来ませんでした。当時の同級生や友達の家族には本当に迷惑を掛けてしまいました。人生をもう一度やり直せるのなら、母の記憶の中の良い子を現実にしたいと思います。
2007/07/02
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先日、祖母が88回目の誕生日を迎えました。痴呆症になり、誕生日も歳も自分が誰なのかも分かりません。一日中リクライニングチェアーに座り、言葉にならない叫び声を上げています。祖母はプライドが高く、自分の失敗を絶対に認めない人でした。名誉職を生き甲斐とし『PTA・民生委員・保護司』と携わってきました。わが家に代々受け継がれて来た、家と土地と権力を譲り受け婿養子の祖父に町会長と民生委員を継がせ、影から主人をも操っていると町内では知らない人はいない程の存在でした。もちろん家の中でも最高権力者でした。そんな祖母が生まれた時からライバルでした。食事中、私が母や伯母と話をしていると決まって「あ痛!」「ああぁ!」頬や頭に手を当てて、うめき声を上げます。こうなると家族は、祖母の体の状態が最優先になってしまいます。「おばあちゃんどうしたん?!」「大丈夫か?!」これでさっきまで話していた事や話題など、一瞬で掻き消されてしまいます。これが本当に重篤な症状なら、会話など言っていられませんが毎回、入れ歯の間に物が入っての痛みや頭痛や目まいでした。その都度、家族が祖母の話を聞き入りしばらくするとまるで何も無かったかのように体調も機嫌も良くなるのでした。『ほとんどが自分に気を向けさす為の仮病だったのです』もちろん何回も病院で検査をしても大した異常はありません。その証拠に現在でも、体には大きな病気も無く元気に叫んでいます(笑)大声で強引に自分の話題に変えたり、家族の前で仮病を使ってでも自分が話題の中心になっていなければ我慢できない性格の人でした。TVやネットなど見ていると、こういう性格の人も稀に居るようです。ですが家庭内で・・・ましてや子供や幼い孫相手にするとは虚しいかぎりです・・・。私が生まれるまで祖母の回りには、自分の話を聞く人ばかりでした。祖父も伯母も母も話を聞く人で、自分から話をする性格ではなかったのです。そんな中、私が生まれ家族の目が祖母から離れてしまうと、祖母には堪りません。食事中だけでなく、どんな時でも私と家族との会話を掻き消していました。私が帰宅して玄関で話し声が聞こえると、2階から慌てて降りて来ては「足が痛い」「めまいがした」などと自分の体の事を言っていました。ここまでくると度が過ぎていたと思います。私は子供の頃「聞いて~なぁ~」と家の中で毎日のように言っていました。父親も兄弟も居ない私には、母親はただ一人の一親等でした。その母親を祖母に奪われたのです。 我が家は『極度の過保護・過干渉』な教育でしたので、親の方から私が望んでいない事まで、あれこれ手を掛けられて育てられましたが子供の方からの話は、ほとんど聞いてくれなかったように思えます。親と子の口での会話も心の会話も、全く通じ合っていなかったのです。ですので、一番に子供の話を聞いてほしいのです。『子供の話を聞いてあげてください』最近、家族や親子で傷付け合うという悲しい事件を目にします。家族間や親子の会話が少なくなったのも原因の一つだと思います。会話が無いばかりに『子供の心が分からない』『親の気持ちが伝わらない』のです。また偉そうな事を書いてしまいましたが、当たり前の事だと思います。私のように人生を踏み外さず、普通に成長したならば親に「話を聞いて」と言ってくるのも、物心がついてから数年ぐらいではないでしょうか。すぐに反抗期になり、親と距離をおくようになってしまうでしょう。せめて10歳・・・できれば中学生になるまでは・・・。子供の話を聞いて、心の会話をしてあげてください。
2007/06/22
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6月の第3日曜日、17日は『父の日』だそうです。こどもの日も好きではありませんでしたが父の日や父親参観などという行事はもっと嫌いでした。私の場合、嫌いと言うより戸惑いや恥ずかしさと表現した方が的確でしょうか。父の日にどうすればいいのか分からなかったからです。毎年、幼稚園や小学校では父の日が近づくと決まって「毎日頑張って働いてくれている、お父さんへお手紙を書きましょう」先生は個人の家族状態など考えもせずに軽々しく言います。クラスみんなの父親が健在で働いている家庭ばかりではありません。私の家のように、離婚していたり亡くなっている家庭もあるでしょう。働いているのも母親や家族が働いている家庭もあるはずです。父親が居なければ、どうしたらいいのでしょう・・・?その都度担任の先生に「お父さんが居なかったらどうすればいいんですか…?」クラス全員の前で手を上げ起立して質問しなければいけません。「○○くんはお父さんがいないのかぁ~」「お祖父さんがいたかな…?それじゃお祖父さんに手紙を書きましょう」全く『ナンセンスな教育』だと思います。私が言いたいのは、なにも父親が居ないということを同級生の前で発表しなくてもいいのではないでしょうか。家族の事情を発表させておいて、拙い雰囲気になると「○○君にお父さんが居ないとか言ったりしてはいけませんよ」お決まりのトドメの一言。暗黙の教えと同情の眼差しで、何とも言えない空気が流れるのが嫌でした。そもそも父親が居ない事をクラスで発表させたのは、先生あなたなんですよ(笑)大きくなってしまえば何でもない事かもしれませんが小学校低学年、ましてや幼稚園に通う5,6歳の子供には酷な事だと思います。私の子供時代には、こんなナンセンスな行事がいくつも存在していました。児童の気持ちを考えて教育をする、美しい国になってほしいものです。
2007/06/14
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前回も書かせてもらいましたが、今回も眼の事を書いてみたいと思います。私の眼には強度近視の症状でもある『飛蚊症』という持病があります。誰にでも少しは見えると思いますが、私は物心付いた時から目の前に『糸くずや蛙の卵のような異物』が見えていました。子供の頃は飛蚊症という病名を知らず、誰にでも見えている物だと思っていました。その異物は成長するにつれ『濃く・長く・多く・大きく』なっていきました。明るい部屋の中で白っぽい壁を見たり、TVやパソコンの画面見たりした時。特に晴れの日に青空を見上げると、様々な形の異物がウジャウジャと目の前に現れます。『灰色のイクラ・灰色の点・ちぢれ毛・おたまじゃくし・蛙の卵』気にしだすと気分が悪くなってしまうので、外出時には意識的に遠くの物を見て気を逸らすようにしています。 この飛蚊症というのは増えても減らないそうです。治らない病気とされているみたいです。「何か眼に良い物は無いものか」と思っていた昨年の夏当時、京セラドームのバックネット広告にも掲載されていたわかさ生活のブルーベリーアイが目に入りました。ブルーベーリーが眼に良い事は世間一般で知られています。「何もしないより飲んでいた方がいいかも」と試してみる事にしました。母も近視が強い方で、飲んでみたいという事で毎月2袋継続注文しました。10ヶ月飲んでみて、効果はどうかというと飛蚊症の増えるのが止まったのか分かりませんが『確実に眼の奥の重いようなダルさが軽減されてきました』去年までは肩がこるより先に眼の方が疲れ、重ダルさが続いていました。 そんな状態になると、激しく眼球をグルグル回したり、押したりしていました。これ以上眼球が動かないほど極端に左上を見ると眼の裏の右下部分が、右上を見ると眼の裏の左下部分がと、肩こりの患部を指で押した時のようにコリが解れる痛い気持ちよさを得て紛わしていました。そんなヤッカイな眼の重ダルさが、今年になって軽くなってきました。これから症状が改善されていくのか分かりませんが少しでも飛蚊症が減って、近視の進行が止まってほしいものです。
2007/06/07
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月が替わってしまいましたが、先日5月の眼科健診に行って来ました。眼科では『視力検査・眼圧検査・視野検査』をします。ついでに現在使用している、使い捨てソフトコンタクトレンズも購入します。コンタクトレンズは2ウィークACUVUEを使用しています。度数は『-11.0』と、かなり強いものです。使い捨てソフトコンタクトレンズで、私のような強度近視に対応できる度数は、Johnson&Johnsonのレンズしかないみたいです。ですが、このレンズでも製造されている度数は-12.0までしかありません。私の眼は乱視もあるので、出来れば乱視用のソフトレンズがほしいのですが、乱視用のソフトレンズなど私の度数では製造されていません。現在の-11.0度数レンズでも、両眼で0.8も見る事ができません。これ以上近視が進行しないためにも、多少見難くても-11.0で生活しています。大人になれば近視の進行が止まると聞きますが、私の場合当てはまらないようです。眼鏡ではもう視力を補正できなくなり、コンタクトレンズに頼るしかありません。眼科医の勧めで、出来るだけ眼球に負担を掛けない為にハードより軽い使い捨てソフトコンタクトレンズを使っています。私の眼球は強度近視によって、ラグビーボールのような形になっているそうです。その為、網膜や視神経に負担が掛かり『緑内障・網膜はく離』など恐ろしい眼の病気になる確率が普通の人より高いのです。子供の頃からの蚊飛症もだんだん多く大きくなってきています。将来ずっと失明の恐怖が付きまといます・・・。癌になっていたらどうしよう・・・。心臓が止まってしまえばどうしよう・・・。失明したらどうしよう・・・。私は超悲観的人間ですので、どれも最悪の結末を想像してしまします・・・。普段は出来るだけ考えないように過ごしていますが検査に行く月になると、やはり気になります。検査時間は10時と、普段は寝ている時間です。おまけに行く前の夜は眠れません。当日は2,3時間ウトウトしただけで眼科へ行きます。眼科へ行く日に限らず、何か予定がある前の夜は殆んど眠れません。視野検査は注意力も必要になるので、寝ている頭を叩き起こし集中します。視野検査の結果は大きな変化はありませんでした。「視野も変わりないですね。引き続き様子を診ていきましょう」糖尿病後の眼底異常もなく、眼圧検査の結果も『右11 左10』でした。いつもは14~19ぐらいでしたので、私には低い数値でした。最後に次回8月の検査予約をして、内科医への報告書を受け取りました。これで5月の内科と眼科の定期検査が済みました。大した変化も無く安心しました。
2007/06/02
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