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国内の自然環境では絶滅していたコウノトリが、人工繁殖によって復活して放鳥されたそうだ。こういうニュースが新聞の一面を飾るのは嬉しい。自然界で生息できるような環境作りとかまだまだ課題は多いだろうが、ガンバレとエールを送りたい。 さて、今日は能で「鷺」を鑑賞する。醍醐天皇の勅諚で逃げ去るのを止めた一羽のサギは五位の位階を授けられる。元々『平家物語』に採られている説話だが、この話自体が『平家物語』の本流ではなく、短い挿話なので、典拠は他にもあるのかもしれない。 今日の宝生会別会は「鷺」「姨捨」「小鍛治」で、「小鍛治」は<白頭>の小書が付いたので、3番揃って白を基調とした清浄・崇高な世界になった。もっとも、現在ゴイサギと呼ぶ鳥は青灰色の強い鳥なので、イメージとしてはシラサギのほうがふさわしいように思われるが。 ところで長門本の『平家物語四』は、今回の中世文学会の大会に勉誠社が行かないこともあって、刊行がもう少し後になりそうだ。三まで揃えている御奇特な方々は今しばらくお待ちくだされぃ。
2005.09.25
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↓で話題に挙げたのはフェリス女学院の国際会議だ。詳細プログラムというが、各研究者が何をするかについて書かれていないのが残念。26日昼過ぎにある、クリスチャン・ラットクリフ氏が飛鳥井雅有について発表なさるらしい。全体のテーマは「和歌の文化学」とあるので、日記ではなく和歌について話すということだろう。う~楽しみだ。
2005.09.25
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出歩く時も常に持ち歩いている原稿&資料。だが、内的欲求が高まらないというか、なんというか。たんにサボりか? 気が付けば、今年は文芸の論文ができていない。『平家』の仕事も、国語関係のものもあるが、なんか不完全燃焼。やはり、自分のベースは雅有の日記と関東の和歌文芸なのだと感じる。リンク先のいしざーさんのページでクリスが雅有様の研究発表をすることを知る。う~負けちゃおれない。
2005.09.24
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現行の能の中で、後シテが面を重ねてかける演目が2つある。「大会(ダイエ)」と「現在七面」がそれだ。後場に早変わりが仕掛けられているので、二役分の装束を着込んでいたりする。 昨日は「大会」。上演頻度の高い曲ではないが、結構観ている。後場は<ベシミ>の面だけで釈迦の真似をする形もあるが、今回は<釈迦>の面の下に<釈迦下>を合わせた方の形。 ふと思ったのだが、「大会」の天狗は天狗自身が助けられたので、その礼をしたわけだが、浦島太郎に助けられた亀は、なぜお礼として龍宮城に連れて行ったのだろう。亀ごときの救出で、どうして乙姫様は太郎を受け入れたのだろう?とか。龍宮城に連れて行くのは、亀そのものの礼ではない。もしかしたら、その亀が乙姫様だったとか!?助けられたら、まず自分でできるお礼をすると思うのだ。鶴の恩返しのように。 で、今日は国立能楽堂の企画公演で、「現在七面」。今日で2回目の鑑賞だが、1回目と同じく浅井文義さんがシテ。日蓮上人がワキで登場し、身延山七面池の大蛇が法華経の功徳で天女に変じて虚空に上がるという話。これだけ書くとわかりやすそうな曲だが、法華経の文句・仏教語のアメアラレで、一つ一つ気にしていくと、わけがわからなくなってしまう。今回は石井倫子氏の手が入って、何箇所か言葉が切り取られた。結果的に、抹香臭さが減り、その分ショーのような見せる舞台の印象が強くなった。もちろん、ショー的な要素を強調しているわけではないのだが、本来の作品よりも見せ場がきゅっと縮まった形になっている。 手が入っていないところで地謡が1句大きく乱れた時には冷や冷やしたが、荘厳華麗にふさわしい銕仙会系の謡や、抑え目ながら地味にならない囃子方もあって、成功したのではなかろうか。最後は、霧が晴れるかのようなさーっと虚空に上っていく天女が浮かび上がった。気持ちいい。こういう舞台を楽しめると幸せだ。
2005.09.22
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と叫んだのは加山雄三……そんな話はホットケ。それにしても、仮面ライダーは表情がない。一方、ウルトラマンはなんとなく表情があるような? 今日は(相変わらず工事でうるさい)大学で仕事をし、その後はちょっと寄り道(それも仕事)、6時30分ぎりぎりで国立劇場に到着した。文化庁舞台芸術フェスティバルのオープニングを飾る「アジアの仮面劇」だ。 まず日本から青森県東通村の能舞。獅子を扱う「権現舞」とあの「鐘巻」、次が韓国から別神クッのダイジェスト版、休憩をはさんでブータンからニマルン寺院のツェチュ祭。 こういう芸能を観ると、面の表情の豊かさを実感する。「能面のような」というと無表情を指すことばだが、能を観ればわかるように、面の表情は豊かだ。通常の顔とは違う次元で面が生々しい表情を見せる。 仮面劇で大切な音楽も興味深い。やはり今回も韓国の打楽器系の旋律が魂を揺さぶる。どうも自分はお隣の半島のものが好きらしい(北部のマスゲームは違った意味で魂を揺さぶられるけれども)。 ツェチュ祭の、メタ芸能とでもいうのか、不思議な構成が面白かった。仮面劇として宗教的な徳を説くのだが、そうした宗教劇を(現実のものとして)見ている2人の人物(もちろん面をかける)がいて、我々はその2人も含めて宗教劇を観ることになる。映画で、登場人物が「ほらね」と観客に向けて話しかけるような二重構造になっているのだ。 最後は面をはずして全員揃っての舞台挨拶。「アリガトウ」と、声は聞こえないけれども口がそう動いている韓国の方も居らした。日ごろは仏道修行に励む、くっきりして、しかもエイジアンなブータンの青年たちの穏やかな表情が見える。こうやって互いの文化を尊重して世界が一つになったらどんなに良いだろうと思う最後であった。
2005.09.15
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の電車に乗ろうと大学を出たら、総武線人身事故。昼間からお気の毒である。少し早めに行って、あちらで軽く何かを食べるつもりだったが、約束の時間ぎりぎりの到着になってしまった。 年1恒例の仕事は教員としてというより、事務方としての仕事。毎年思うが、どう見ても周りの人は教務事務に違いない、という種類のもの。 それはさておき、国語教育の論文が進んでいるようで進んでいない。もう1つ目の前にぶら下がっている仕事(自分の専門領域とは異なる)があって、これはもう少しで手を離れる。だが、間もなく『長門本平家』の見直しがやってくるのも確実で、いつになったら、日記文芸や和歌について考えられることやら……である。いかんいかん、勉強しよう。今日のハモリ渡辺党じゃないんだからっ!なんだろう、この会話。こんな発話を2人同時にするって、やっぱりおかしい。
2005.09.12
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昨日は国文研に行って、目当てのものを見たのだが、予想に反してほしかった資料が収められていなかった。残念。 帰宅して、データをエクセルで整理してみたりする。この夏の間に探していたものが徐々に形になっていく。ただ、「アナログ人間だな」と自覚するのは、エクセルで綺麗に並べていくと、自分の中でかえって整理がつかなくなるということだ。やはり裏紙とかカードを使って、手書きのものを眺めているほうが、あれこれとイメージが湧いてくる。もう少し、原稿用紙に書く段階に近付けると良いのだが。
2005.09.10
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神さびた土地、野々宮。斎宮に決まった娘(後の秋好中宮)とともに伊勢下向の前に、六条御息所(ロクジョウノミヤスンドコロ)が滞在した地として知られる。 能「野宮」はそうした物語を背景に、六条御息所の霊が現れる。 正直言ってこの曲は好きではない。この曲だけの公演ならば観ない。能の愛好家から見たら怒られるかもしれないが、『源氏物語』を扱う曲では「須磨源氏」以外これという曲がない。ちょっと極端な物言いだが、これが1番というほど好きな曲がないだから本当の能好きではないのだ←威張ることではない)。 「野宮」はそれまでの光源氏への妄執を断ち切って旅立とうとした地を場面とし、御息所が霊としてそこに登場する。ということは、この霊が現れるのは、断ち切ってなお執心があってのことだろうと解釈できる。しかし、そういう詞章に現れない『源氏物語』の積み重ねがちっとも伝わってこないのである。おそらく役者さんたちは『源氏物語』を読み込んでいるだろうけれど、およそそういう背景を背負って出てくる六条御息所に出会ったためしがない。 今回のシテは関根祥人さん。御息所らしい品格とか、線のぶれない美しさは先日拝見した同曲とは違って目を引く。上手いなぁ、と思う。秋の野々宮を描く囃子に乗って闇の社を浮かび上がらせるあたりがゾクゾクさせられる。ただ、そういう妄執の果てに、というイメージは今回も感じられなかった。 まぁ、そんなことはさておき『源氏物語』の舞台となる五条・六条辺りがちょっと気になっている自分としては(勿論本曲の場面に六条は出ない)、いつも以上に興味深く観られる。今年はあと1回観る予定だが、さてどうなるだろうか。
2005.09.10
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観世会定期能、今回のメインは久しぶりの「蟻通」。というか観世では初めての鑑賞なので。おやおや手に持っているのは灯籠?と慌てて番組表を見るが、当然小書が付いているわけではない。普通は傘に松明のはずだが、シテ梅若六郎さんのところはこれが普通なのか、あるいは今回ちょっと趣向を変えてみたのか、そのあたりは不明(ご存知の方はご教示ください)。 さて、今回の中心人物は蟻通明神と言って、現在の大阪府に位置する明神様。ワキが紀貫之で明神の神域と気付かずに馬で乗り入れたことから物語が始まる。明神の咎めを解くために、貫之は和歌を詠む。こんな歌だ。雨雲の立ち重なれる夜半なればありとほしとも思ふべきかは……でどうよ、この歌? 地名「蟻通」と「星」「在り」とをかけているのは明らかであるが、ちょっと(いやかなり)下手である。なんか、紀貫之に祟られるんじゃないか?とまで思ってしまう。 この歌は『貫之集』の確認できる本文では、かき曇りあやめも知らぬ大空にありとほしをば思ふべしやはとなっていて、こちらならば第四句のつながりがすっきりしている。ではなぜ変な本文のほうが謡曲に採り入れられたのか、という疑問がわくわけで、『貫之集』『蟻通』の本文批判作業が必要になってくる。多分調べている人がいるだろうけれど。 ところで、能関係の解説などで和歌の上の句と下の句の間に読点(とうてん)を打っているものを時折見かけて、とても気持ち悪い。三句切れの歌でもないし、そもそも和歌に読点てどうなの?という気もするが、まぁあちらの世界ではこれが普通なのかもしれない。
2005.09.04
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浅見真州さんシテの「烏帽子折」を横浜で観る。横浜能楽堂本年の企画「子方が描く能・狂言」の第4回で、今回の企画で一番観たかった回であった。 源義経の東下りを題材に劇化したもので、前場が烏帽子を戴くに至る話、後場が熊坂長範との対決と、まったく関連のない話を子方がつないでいく。『義経記』との関わりがまず考えられるが、そればかりではなく、義経を扱う文芸という捉え方で考えても面白そうだ。 とりあえずいろいろな人に光を当てていくという構成で、ワキ・アイも活躍するほか後場の斬組ではシテ方の若い衆が子方義経と斬り合う派手でショー的な作品。 さて“烏帽子親”とは子どもの元服の際に、実父とは別の人物が烏帽子を戴かせ名付けをする人。今回は烏帽子屋の主人であるけれども、実はその妻(ツレ)が義経実父の義朝に仕えた鎌田正清の妹だたということで、浅からぬ縁を見せる。浅見真州さんは凛として孤高を貫く感じの時もあるが、その視線はやはり優しい。なんか涙ぐんでしまいそうな前場だった。 今日の狂言は「井杭」。野村萬さんのところが三代で演じる。こちらも萬さんの視線が優しげであった。 席の列が必ずしも希望通りではなかったけれども、浅見さんの烏帽子に関する語りが正面に来る位置は確保できたのが嬉しかった。
2005.09.03
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