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「E7-2 海外との文化交流」。「海外との文化交流〈鎖国〉といわれた時代、海外との通商は長崎の1港に限定されていた。貿易による金銀の流失を防ぐため、貿易量は制限されていたが、オランダ船や中国船がもたらす舶来の品々は、やがて庶民生活のなかにも浸透していった。江戸や大阪などの大都市では、舶来品を集めた物産会や、象やラクダなどの見世物が行われた。また、8代将軍徳川吉宗によって洋書の輸入禁止が緩和され、蘭学に代表される西洋の合理的・実用的な科学も日本に伝えられた。江戸時代の日本は国際的に孤立していたというイメージが先行しがちである。しかし、実際にはオランダ、中国、朝鮮との交流は続けられ、オランダから毎年幕府に提出されるオランダの…」 「『解体新書』(複製)」。 「『解体新書』(複製)Kaitai Shinsho, Translation of “Ontleedkundige Tafelen”杉田玄白 他/訳 小田野直武/画1771年(明和8)3月4日、江戸の小塚原で解剖が行われた。これを見学していた前野良沢、杉田玄白は持参していたターヘル・アナトミア(オランダ語の解剖書『Ontleedkundige Tafelen』)と見比べ、あまりに精確な記述に驚愕し、翻訳を決意、さっそく翌日から開始した。当時はオランダ語の辞書すらなく、3年間におよぶ大変な苦労の末、序・図1巻、本文4巻の全5巻からなる翻訳本が完成した。」。近づいて。これは 解体新書 の扉絵(表紙に続く冒頭の図版)で、西洋解剖学書の雰囲気をそのまま日本に伝えようとした象徴的な図像。左ページの絵は、原典であるオランダ語の解剖書『Ontleedkundige Tafelen(ターヘル・アナトミア)』に由来する装飾的なタイトルページを模したものである。絵の内容1. 左右の裸像両側に立つ男女の裸体像は、西洋古典美術(ギリシャ・ローマ彫刻)風の表現。上部:「和東翻訳」・オランダ語翻訳のこと。 左:アダムの姿図右:イブの姿図中央:「解體図」 下部:「天真桜」・杉田玄白の私塾の名称・人体そのものを「学問の対象」として観察する・人体の構造美を理性的に捉える・宗教的禁忌よりも「科学的観察」を重視するという、西洋医学・解剖学の精神を象徴している。江戸時代の日本人にとって、こうした裸体表現は非常に異国的で衝撃的であった と。2. 中央の額中央には大きな額が置かれ、その中に題字が書かれています。ここは本来、原書ではラテン語やオランダ語の書名が入る場所ですが、日本版では漢字風の題字「解體図」に置き換えられています。「西洋の知識を日本語へ翻訳した」という象徴的な部分。3. 建築装飾背景の柱やアーチは、西洋の神殿建築風。これは、・学問の権威・理性・古典学問・科学体系 を示している。当時の日本にはほとんど存在しない建築意匠であり、「異国の学問」であることを強く印象づけた。4. 下部の装飾下部には顔や曲線的装飾、器具風の模様がある。これはヨーロッパのバロック・ロココ風装飾の影響で、18世紀西洋書物に典型的なデザイン。■『解体新書』の刊行 ―「蘭学」の広まりPublication of Kaitai shinsho - Spread of “Rangaku” Dutch Learning1774年(安永3)、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』の刊行は、日本医学の近代化を促し、人々の蘭学への関心を一層高めた。In 1774, the publication of Kaitai Shinsho (New Book of Anatomy), a translation of the Dutch medical text Tafelen Anatomie, promoted the modernization ofJapanese medicine and further increased people’s interest in Dutch studies.図版キャプション・「ターヘル・アナトミア」図 Ontleedkundige Tafelen(東京大学総合研究博物館 所蔵)・「解体新書」の扉絵・「解体新書」各図『解体新書』に関わった人々 親交 親交 小浜藩医 杉田玄白 ⇔ 平賀源内 ⇔ 版元 須原屋市兵衛中津藩医 前野良沢 ⇕洋画風の指導幕府奥医師 桂川甫周 秋田藩 小田野直武小浜藩医 中川淳庵秋田藩士 小田野直武版元 須原屋市兵衛蘭学書などを多く手がける・『物類品隲』 平賀源内 1763年(宝暦13)・『火浣布略説』平賀源内 1765年(明和2)・『解体約図』 杉田玄白 1773年(安永2)・『解体新書』 杉田玄白 1774年(安永3)・『三国通覧図説』林子平 1785年(天明5)・『紅毛雑話』 森島中良 1787年(天明7)・『機巧図彙』 細川頼直 1796年(寬政8)・『魚介譜』 鍬形蕙斎 1802年(享和2)「杉田玄白」。ネットから。 「ターヘル・アナトミア」 ネットから。 「解体新書」各図 ネットから。 「『蘭学階梯』(らんがくかいてい)Rangaku Kaitei ; Dutch studies primer1788年(天明8)大槻玄沢/著大槻玄沢による蘭学入門書。本の名称は、「蘭学へ登るための階段・梯子(はしご)」という意味。上巻は日本とオランダの交渉や、蘭学が盛んとなった歴史を述べ、下巻ではオランダ語学習の基本や舶来の書籍を紹介している。ネットから。「海外文化の受容西洋の文物は、日蘭貿易によって日本にもたらされていた。当初は生糸が輸入の中心であったが、幕府の貿易制限により、18世紀中ごろを境として、織物類が主要な輸入品となった。日中貿易による輸入品も、織物類が中心で、中継貿易による更紗(さらさ)や縮緬(ちりめん)・ビロードなどは〈渡り物〉と称して、都市の人々に珍重された。絹や木綿などは、やがて国内産業として発展していく。金唐革(きんからかわ)やガラス・鼈甲(べっこう)などの輸入品もまた、都市生活のなかで広く利用され、一部は精巧な模造品もつくられた。蘭学に代表される西洋の学問は、医学や天文学の分野で発展を遂げていった。また、西洋画の遠近法や陰影法などの技法も伝わり、日本の絵画に大きな影響を与えている。そして、朝鮮の医学や漢詩、書画などの文化も、計12回の朝鮮通信使の到来などを通して、江戸へ伝えられた。」 「金唐革(葡萄花模様)Goudleer江戸後期(1760〜1841)輸入金唐革は、西欧の家の内装装飾材として14世紀より生産されていた。江戸時代、オランダとの交易で、金唐革が小物細工用の素材として輸入されるようになった。これは、壁内装に使用された金唐革をはがし、日本に輸入された状態のもの。」 「オランダを通した海外との文化交流Cultural Exchange with Foreign Countries through the Netherlands長崎出島のオランダ商館(1641年〈寛永18〉〜幕末)は、西洋との唯一の窓口として、交易と共に学問・技術・情報の交流に大きな役割を果たした。The Dutch trading post on Dejima in Nagasaki (1641 - the end of the Edo period) served as the sole window to the West and played a major role in the exchange oflearning, technology, and information as well as trade.」 オランダ国営東インド会社(VOC)の貿易品と航路図輸出(日本→海外)・銅(棹銅) 輸出用棹銅の製作図・陶磁器 染付芙蓉手VOC文皿・漆器 花鳥螺鈿キャビネット輸入(海外→日本)・更紗(さらさ) 朱一番船紅仕掛襖紙札切更紗切木綿・金唐革(きんからかわ) 葡萄手金唐革煙草盆たばこ入れ・洋書 『ヨンストン動物図譜』地図中の表記オランダ商館が設置された場所・アムステルダム・バタビア(現在のジャカルタ)・長崎VOC航路・アムステルダム―バタビア航路・バタビア発各地の商船へ海外で伝えられた日本・日本図(中国図部分) Martino Martini, “ATLAS CHINAE”, published in 1655・徳川将軍謁見図 (モンタヌス『東インド会社遣日使節紀行』)・江戸図 (ケンペル『日本誌』)海外文化との出会い・オランダ使節の定宿に訪れた江戸の人々 (『東遊』日本橋本石町長崎屋)・異国の鳥が見られた茶屋(芝神明宮付近) (「孔雀茶屋」歌川豊国/画)・エレキテル実演中の唐物屋(大阪伏見町)(『摂津名所図会』)「棹銅図録」、ネットから。 輸出用棹銅の制作図。染付芙蓉手V0C文皿、ネットから。 花鳥螺鈿キャビネット(類似品)、ネットから。長崎港「肥前長崎図」、ネットから 「更紗 未一番船工社惣銀札代り端物切本帳」(類似品)をネットから。 「金唐革 葡萄手金唐革腰差したばこ入れ」。 「ヨンストン動物図説」。 「日本図(中国図部分) Martino Martini, ATLAS CHINAE , published in 1655」 「徳川将軍謁見図(モンタヌス『東インド会社遣日使節紀行』)」。 「江戸図(ケンペル『日本誌』)」。 海外文化との出会いオランダ使節の定宿に訪れた江戸の人々(『東遊』日本橋本石町長崎屋)。異国の鳥が見られた茶屋(芝神明宮付近)(「孔雀茶屋」歌川豊国/画)エレキテル実演中の唐物屋(大阪伏見町)(『摂津名所図会』)海外で伝えられた日本・日本図(中国図部分) Martino Martini, “ATLAS CHINAE”, published in 1655「オランダ製伸縮式望遠鏡Dutch-made telescopic telescope1853年(嘉永6)頃製J.M. Kleman & Zoon/製オランダ・アムステルダムの会社が製造した望遠鏡で、コンパクトに持ち歩ける伸縮式となっている。収められていた箱には「松王堂眼鏡」や嘉永6年に買い求めた旨の記録があり、オランダからの輸入品であることが分かる。」 『日本風俗図帳』ネットから。「『日本風俗図帳』Bijzonderheden over Japan (Illustrations of Japan) with the essay “Uitsignt, the trade Seasons of the Dutch trading colony in Nagasaki”1824年(文政7)イサーク・ティチィング/著オランダ商館長イサーク・ティチングがした日本見聞記。本書はそのオランダ語訳である。在任中に収集した資料をもとに、日本の政治や風俗などについて記している。ティチィングは1780年(安永9 )と82年(天明2 )に江戸参府し、福知山藩主朽木昌綱ら諸侯、桂川甫周、中川淳菴ら蘭学者と広く交流し、難日後も文通を続けた。」 「『日本植物誌』Flora Japonica, by Carl Peter Thunberg1784年(天明4)カール・ペーテル・ツュンベリー/著ツュンベリーは、オランダ商館付医官として1775年(安永4)に来日、商館長の江戸参府にも随行し、桂川甫周、中川淳庵ら蘭学者と交流した。帰国後、日本の植物をリンネの植物体系で分類し、その学名を定め、本書をまとめた。812種の植物について記し、形質・日本名・異名・生育場所・花期などを記している。」 再現されている、江戸時代の 天ぷら屋台の展示。1. 「天婦羅」の大看板屋根正面に大きく「天婦羅」と書かれています。現代では「天ぷら」と平仮名で書くことが多いですが、江戸では「天婦羅」「天麩羅」などの当て字がよく使われた。2.揚げ台と食材中央には鉄鍋、その前には魚介や野菜の天ぷら見本が並んでいた。江戸前の天ぷらは現在よりも・ごま油を強く使う・衣が厚め・串に刺して食べるという特徴が。特に人気だったのは、・穴子・小魚・海老・貝類など、江戸湾(東京湾)の魚介であった と。3. 背景の浮世絵背後には、江戸の盛り場を描いた浮世絵風景が広がっていた。これは、・屋台・行商・見世物・人々の往来 など、江戸の賑わいを再現する演出。江戸の屋台文化は、単なる食事ではなく「街の活気」そのものでもあった。江戸の天ぷらは「立ち食い」現代の高級天ぷら店とは違い、江戸の天ぷらは庶民向けあった。・忙しい職人・独身の町人・芝居帰りの客が、屋台で手軽に食べる「早い・安い・うまい」料理だった と。まさに現代のファストフードの原型ともいえる存在。江戸の寿司屋台(復元展示)。「体験展示 / Hands-on Exhibit寿司屋の屋台(複製)江戸時代後期現在の寿司とくらべると、1貫が大きく、赤酢を使用しているのでお米が赤っぽくなっています。ネタは白魚やマグロ、コハダ、アナゴなど江戸の近海でとれた魚が多く、酢に浸したものを主に使用しました。」 屋台上部には大きく「すし」と書かれており、江戸後期に大流行した「握り寿司」の屋台文化を再現。1. 江戸前寿司の誕生江戸で生まれた「握り寿司」は、現在の高級寿司とは違い、・立ったまま食べる・屋台で買う・すぐ食べるという、庶民向けの“早飯”でした。まさに江戸のファストフード。2. 当時の寿司は大きい展示の握りを見ると、かなり大ぶり。江戸時代の寿司は現在の約2倍ほどの大きさがあり、・一口では食べにくい・二つに分けて食べることもあった と。3. 赤い鮪・玉子・海苔巻展示には、・赤身の鮪・海苔巻・アナゴ・コハダなどが並んでいた。特に江戸前では、・穴子・コハダ・海老・玉子焼きなども人気であった。当時は冷蔵技術がないため、・醤油漬け・酢締め・煮るなどの工夫で保存性を高めていた。4. 右側の重箱状の器右側に積まれている木桶・重箱風の容器は、寿司飯や材料を入れるためのもの と。江戸の屋台は限られた空間の中で効率的に営業できるよう工夫されていた。これはアナゴ? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.04
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「E6ー3 庶民の旅と祈り」。 「庶民の旅と祈り江戸時代には、街道や宿場の整備もあって、参勤交代で往復する武士の旅はもとより、生産や江戸を往来する商人の旅や、信仰・物見遊山に出かける庶民の旅が発達した。江戸市中や近郊には、浅草寺や七福神など、さまざまな神仏への参詣地が数多く設けられた。これらはしだいに江戸名所として多くの出版物によって全国に紹介され、江戸の人ばかりでなく地方から来た人々の江戸めぐりをさかんにさせた。さらに人々は、講をつくり、伊勢・大山や富士山、江ノ島、成田、善光寺などへの参詣や物見遊山の旅をおおいに楽しんだ。参拝を兼ねて観光・名所めぐり、各地の情報を見聞して帰ってくる当時の旅は、日常生活を活性化する役割も果たしていた。」「関東主要参拝旅行地Major Worship Destinations in Kanto関東地方での参拝は、坂東や秩父の観音巡礼、利根川の舟運を利用した鹿島・香取詣でや成田詣でがさかんであった。東海道を利用した大山や富士山への登拝も行われた。In the Kanto region, pilgrimages to the sites of Kannon worship in Bandō and Chichibu, pilgrimages to Kashima and Katori Shrines using Tonegawa River’s boat transport, and pilgrimages to Narita were popular. Pilgrimages to Mount Ōyama and Mount Fuji were also made along the Tōkaidō Highway.秩父34カ所観音巡礼地1 四萬部寺 2 真福寺 3 常泉寺 4 金昌寺5 語歌堂 6 卜雲寺 7 法長寺 8 西善寺9 明智寺 10 大慈寺 11 常楽寺 12 野坂寺13 慈眼寺 14 今宮坊 15 少林寺 16 西光寺17 定林寺 18 神門寺 19 龍石寺 20 岩之上堂21 観音寺 22 童子堂 23 音楽寺 24 法泉寺25 久昌寺 26 円融寺 27 大淵寺 28 橋立堂29 長泉院 30 法雲寺 31 観音寺 32 法性寺33 菊水寺 34 水潜寺坂東33カ所観音巡礼地1 杉本寺 2 岩殿寺 3 安養院 4 長谷寺5 勝福寺 6 長谷寺 7 光明寺 8 星谷寺9 慈光寺 10 正法寺 11 安楽寺 12 慈恩寺13 浅草寺 14 弘明寺 15 長谷寺 16 水澤寺17 満願寺 18 中禅寺 19 大谷寺 20 西明寺21 日輪寺 22 佐竹寺 23 正福寺 24 楽法寺25 大御堂 26 清瀧寺 27 円福寺 28 龍正院29 千葉寺 30 高蔵寺 31 笠森寺 32 清水寺33 那古寺地図中の主な参拝地・山岳・日光東照宮・中禅寺・榛名山・赤城山・妙義山・筑波山・大山・富士山・七面山・箱根権現・江の島・鹿島神宮・香取神宮・息栖神社・成田山新勝寺・平間寺川崎大師・大國魂神社(六所宮)・中山法華経寺・鹿野山神野寺・鋸山日本寺・千光山清澄寺・信州善光寺・甲斐善光寺・身延山久遠寺右側の浮世絵タイトル・富士詣で・大山詣で・江ノ島詣で・成田詣でこの展示は、江戸時代の庶民にとって「旅」が、単なる信仰だけでなく、・仲間との娯楽名所巡り・情報収集・土産文化を含む大きな楽しみであったことを 示しています。特に江の島・大山・成田などは、現在の観光旅行に近い賑わいを 持っていました。」富士詣で。「富嶽三十六景 詣人登山」葛飾北斎/画」。 大山詣で。「諸国滝廻り 相州大山ろうべんの瀧 葛飾北斎/画」 江の島詣で。「相州江之嶋弁財天開張参拝群集之図」歌川広重/画」。 成田詣で。「御礼参り贔屓船之図」歌川国資(初代) /画。「旅中必携 五海道中独案内記」。「旅中必携 五海道中独案内記(りょちゅうひっけい ごかいどうちゅうひとりあんないき)The five main highways Guide Map1851年(嘉永4)秋養山堂甲良/撰・誌須原屋茂兵衛/他17名板五街道(当時は「五海道」とも記された)の経路を表した地図。五街道とは、江戸時代の代表的な5つの街道のこと。持ち運びに便利で、広げて見やすいよう、折り本の形に製本されている。」 「七ざい所巡 道しるべ旅行便覧」。 「七ざい所巡 道しるべ旅行便覧(しょめぐり りょこうびんらん)Guide book to famous spots, temples, and shrines between Edo to Kyoto1804年(文化1)※初版は1761年(宝暦11)行田養翁/著前川六左衛門、奥村喜兵衛/発行江戸から京都へ上る道中にある名所を案内したガイドブック。寺社の紹介が主であるが、“あまざけ有”などの周辺情報も載せている。七ざい(在)所巡りとは、畿内方面の巡拝を指している。」 「参拝と霊場の旅江戸中期以降には、人々は積極的に信仰や行楽の旅にも出かけた。「一生に一度はお伊勢詣り」の言葉にはこうした当時の人々の信仰と旅への思いが示されている。関東一円では、坂東、秩父の観音巡礼、利根川の舟運を利用した鹿島・香取詣でや成田詣でが流行し、遠く善光寺や西国巡礼も京や大坂の名所めぐりとセットで行われた。関東には信仰の山が多い。とりわけ大山や富士山、高尾山、武州御嶽山への登拝は、講を形成し、代表を山へ送る代参の形で行われた。」 「大山講納太刀(複製)」 廻り込んで。太刀の銘文(判読可能部分)「奉納 大山大聖不動明王石尊大權現」。「旅行用心集」。 様々な旅の携帯品。「早道(銭入れ)」。 ネットから。「江戸の富士塚Fuji Mound in Edo旧暦6月1日の富士山山開きの日、富士山へ登拝する代わりに、多くの人々が江戸市中に築かれた富士塚に詣でた。On Mt. Fuji’s “opening of the mountain” day on the first day of the sixth month of the lunar calendar, many people went to the Fuji mounds (fujizuka) built in the city of Edo instead of climbing Mt. Fuji to worship.図版キャプション・「名所江戸百景 目黒新富士」 歌川広重/画・「駒込富士塚」『江戸名所図会』」 「名所江戸百景 目黒新富士」 歌川広重/画 をネットから。「駒込富士塚で」『江戸名所図会』をネットから。「E7 文化都市江戸」。「E7-1 江戸の文化交流」「E7-1 江戸の文化交流」。「大山街道の道標(複製)」「大山街道の道標(複製)練馬区・内田之氏原蔵Signpost to Oyama1753年(宝暦3)内田久右衛門・並木庄左衛門/願主大山を信仰する下練馬村の名主が願主となり、天下泰平・交通安全を祈願して建立したもの。」「江戸の文化交流全国から人々が集まり、各地の情報が集結する江戸には、人々が身分を越えて交友を結ぶことを容易にする、都市独特の自由な雰囲気があった。そこでは大名、諸藩の武士、さまざまな職種の町人、地方の文人たちが、自らの興味と関心のおもむくままに同好同学の士として集い、互いに文学・芸術・学問の成果を競い高め合っていた。18世紀後半の宝暦、明和、安永ころから幕末にいたるまで、江戸にはこのような文化サロンが次々と生まれ、文化の創造に大きな役割を果たした。こうした人々の自由な交流によって、多様な文化が生み出されたことは、江戸文化の特質の一つといってよい。」「『吉原細見(よしわらさいけん)』Guide to Shin-Yoshiwara(Yoshiwara Saiken)1797年(寛政9)蔦屋重三郎/版吉原細見は吉原の案内ガイドブックであり、単に“細見”とも呼ぶ。最初は一枚刷りであったが、のちに横本形式の小冊子となる。1773年(安永2)に新吉原大門前に書肆(=本屋)を開業した蔦屋重三郎が、1775年(安永4)に竪本にして以来この形式が定番となる。」 「『吉原楊枝(よしわらようじ)』Yoshiwarayouji1788年(天明8)山東京伝/著 北尾政演/画遊郭などでの遊び方を描いた洒落本のひとつ。吉原楊枝の精が吉原の遊びを論じている。精神論や客と遊女の細かい観察など、幅広い内容となっている。」 「『手藝の清水(てわざのしみず)』Tewaza no Shimizu : the book of flower arrangementwritten issue by Tsutaya Jūzaburō1777年(安永6)清水燕斎/著 北尾重政/画蔦屋重三郎/版本書刊行の3年前の1775年(安永4)、蔦屋重三郎は、遊女を挿花に見立てた遊女名や髪句評判記『一目千本』を出版し、販売元としての活動を開始した。本書は、同評判記の図を転用したもので、遊女名や発句などを削り、華道書に仕立て直したものである。」 「江戸の文化サロンともに趣味・学芸を楽しむ文化グループは、18世紀後半から多く登場した。平賀源内の物産会は本草学を発展させ、大久保巨川と旗本大久保甚四郎の絵暦の交換会から錦絵が生まれ、大田南畝や山東京伝とその仲間が江戸文芸に革新をもたらし、大槻玄沢の学塾に集う人々が蘭学興隆の担い手となった。文化サロンの中心にいた文化人の身分や職業もさまざまで、柄井川柳は浅草の町名主、狂歌スキヤ連の鹿津部真顔は汁粉屋の主人、同じく伯楽連の石川雅望は馬喰町の宿屋の主人であった。好学の大名池田定常(鳥取新田藩)、姫路藩主の弟で画家の酒井抱一なども、多くの同好同学の士を集めた。こうした文化グループの機能は18世紀フランスの《サロン》にも比べられ、いわば「江戸の文化サロン」といってよい。江戸サロンは文化の源泉で、そこで生まれた作品を本屋が出版し、なかでも自らサロンを持ち作者らと交流を深め、江戸出版に革新をもたらしたのが蔦屋重三郎である。」「『絵本吾妻遊(えほんあずまあそび)』Picture Book Amusements of Edo.1790年(寛政2)初春序寄々羅金鶏/著 喜多川歌麿/画蔦屋重三郎/版狂歌師の寄々羅金鶏(ききら きんけい)の24首の狂歌に、浮世絵師 喜多川歌麿が、吉原・山谷堀・目暮里などの江戸名所を描いている。美人画で一世を風靡した喜多川歌麿は、寛政初期までは、版元の蔦屋重三郎のもと、当時流行していた狂歌に絵を添える絵入狂歌本を多数描いた。」 ネットから。「『和歌夷(わかえびす)』Picture and Japanese Poetry Book of New Year’sAmusements1788年(天明8)喜多川歌麿/画蔦屋重三郎/版72人の狂歌師が寄せた各1首の狂歌と、浮世絵師 喜多川歌麿の挿絵5図を収めた狂歌絵本。元旦雑煮・武蔵の年頭風景(三河万歳)など新年の風俗をきめ細かに描いている。」 ネットから。「「蔦屋重三郎の活躍とネットワーク」Tsutaya Jūzaburō’s Activities and Networks版元の蔦屋重三郎(1750〜1797)は、朋誠堂喜三二、山東京伝、喜多川歌麿など、かねてから付き合いのあった狂歌師、戯作者や絵師らを集め、洒落本や狂歌本、浮世絵などの企画を打ち立て、次々に話題作を刊行した。The publisher Tsutaya Jūzaburō (1750-1797) gathered together kyōka poets, caricaturists,and ukiyo-e artists with whom he had long been associated, such as Hōseidō Kisanji,Santō Kyōden, and Kitagawa Utamaro, and launched new projects,one after another, publishing sharebon (novellette about pleasurequarters), kyōkabon (books of comic poems), ukiyo-e woodblock prints, and other works.」 年表・ネットワーク図・25歳(安永4)より 吉原細見の出版・31〜39歳(天明期) 狂歌師・戯作者との交流、狂歌絵本の出版・31〜41歳 黄表紙出版の全盛・39歳(寛政元)より 『狂歌百鬼夜狂』刊行・44歳(寛政6) 浮世絵の刊行・45歳(寛政7-8) 次世代の登用 曲亭馬琴・十返舎一九 主な交流人物(図中)・朋誠堂喜三二(1744〜1813)・恋川春町(1744〜89)・喜多川歌麿(1753〜1806)・山東京伝(1761〜1816)・北尾重政(1739〜1820)・十返舎一九(1765〜1831)・曲亭馬琴(1767〜1848)・東洲斎写楽(生没年不詳)蔦屋の店先(耕書堂) 【画本東都遊】葛飾北斎/画。ネットから。『吉原大通会』1784年(天明4) ネットから。狂歌の会を描いたもので、❶大田南畝(おおたなんぼ) ❷朱楽菅江(あけらかんこう)❸朋誠堂喜三二 ❹は蔦屋重三郎だ。蔦重の狂名(狂歌を詠むときの名前)は蔦唐丸(つたのからまる)である。大田南畝は四方赤良(よものあから)、喜三二は手柄岡持(てがらおかもち)など、かなりユニークである。狂歌と狂名はかなり個性的というか、ふざけた感じだが、当時の狂歌の会の自由な雰囲気が伝わってくる。「「江戸の遊芸」江戸は将軍家・大名など多くの武家人口を抱えていたが、茶の湯・生け花・香道などの遊芸は、まず武家社会のなかで社交の場に欠かせないものとして成熟した。やがて経済的に豊かとなった町人たちもすすんで遊芸に親しむようになり、遊芸人口は飛躍的に増大した。元禄時代の『女重宝記』には琴・三味線・筝などが、女子の諸芸として記されている。また、武家奉公にあがるには、そのほかに箏・薙刀・茶の湯・料理などの諸芸が必要で、子供のころからその稽古を行っていた。なお、町人の娘たちにとって武家奉公で身につけた教養が、良縁の条件ともなっていた。やがて18世紀後半には家元制度が成立して、江戸の町人層にまで多彩な遊芸文化が栄えた。」 『女今川教文(おんないまがわおしえぶみ)』。ズームして。「『女今川教文(おんないまがわおしえぶみ)』A textbook to learn writing for girls1778年(安永7)長友松軒/著 北尾辰宣/画蔦屋治兵衛/版『女今川』は、女子用の教科書として江戸時代最も普及した。扉絵上部には、女子が読むべき教養書の書名が書き連ねられる。本書も5番目に挙げられ、『女大学』などと共に女子の必読書であることがうたわれている。」。「『女今川雲井鶴(おんないまがわ くもいのつる)』A textbook to learn writing for girls(Onnaimagawa kumoinotsuru)1867年(慶応3)国貞/画『女今川』は、江戸時代に最も普及した女子用の教科書である。女性としての心構えが書かれており、してはいけない事として、他人を悪く言う事、人の憂いを楽しむ事などがあげられている。」 「「女子の諸芸」Various Arts for Women江戸時代、町人の娘にとって、武家奉公にあがり、そこで教養を身に付けることが、良縁の条件となっていた。In the Edo period, a condition for a good marriage for daughters of townspeople was to go into serviceat a samurai family and acquire culture and etiquette there.」 [江戸名所百人美女]より 左より「いひ田まち」「するがだい」「小石川牛天神」「赤さか水川」「妻恋稲荷」(部分)奉公に出るためには…『浮世風呂』に登場する庶民の娘の1日・寺子屋で机を準備する・三味線の朝稽古に出かける・家で朝ごはん・踊りの稽古に出かける・寺子屋で手習い・家でおやつ・風呂屋に出かける・琴の稽古に出かける・三味線や踊りのおさらい・ちょっとだけ遊ぶ・琴のおさらい時間帯:朝・午前・午後・夕方・夜吹き出し部分おッかさんせっかく稽古しているのだから、身に染みるほど覚えなきゃ役に立ちませんよ。女の子は私の担当だから、あなたは構わないで下さいな。今のままだとあの子が大きくなって、きっと後悔をしてしまいます。おとッさんそんなにやかましく言うことはない。あの子が気ままに過ごしても、そのうち何とかして覚えるだろうから、放っておけばよい。ご奉公に出るための稽古なのだから、ちょっと覚えさえすればよいんだ。(絵はすべて『教訓親の目鑑』〈部分〉)」 「「在来技術の発展」江戸時代を通して、全国的に産業や商業がいちじるしく発展したが、江戸においても、職人らの高度で緻密な技術がつちかわれ、精緻な手業や優れた意匠が、人々の日常の衣食住や娯楽の世界で発揮された。根付などにみられる細やかな技法や、からくり仕掛けの精密な技巧など、諸職諸芸の職人たちが互いの能力と技術を磨き発展をみせた。加えて、諸藩の情報が行き交い、身分越えた文化交流が実現していた点も、ものづくりの力を押し上げていたといえよう。この在来技術の発展は、やがて、明治時代から本格化する欧米技術の移植を速やかに受け入れ、次の日本の産業発展の道への土壌となっていった。」 「「枕時計(まくらどけい)」。「「枕時計(まくらどけい)」Clock江戸時代末期(1842〜67年)江戸時代は「不定時法」(1日を昼と夜に分け、それぞれを6等分=1刻)を採用していたため、季節によって1刻の長さが異なっていた。そのため西洋から伝来した現在使用しているような機械時計では役に立たず、速度や文字盤を変えることで生活に応じた「和時計」が作られるようになった。枕時計は和時計の中でも最も豪華な置き時計で、本資料はトケイソウの模様が施されている。」 「無尽灯(むじんとう)(田中久重系統)」「「無尽灯(むじんとう)(田中久重系統)」Automatic-refueling lamp1863年(文久3)頃無尽灯は、江戸時代後期に開発された自動給油式の灯火具で、田中のものは空気圧で油を灯芯まで押し上げる仕組みになっている。空気ポンプによってできる圧搾空気で発砲する「気砲」の原理を応用したとされる。」 「「田中久重(からくり儀右衛門)の系譜Genealogy of Tanaka Hisashige (Karakuri Giemon)田中久重は、当時の先端の科学技術を意欲的に学び、機械の発明に取り組んだ。江戸の在来技術を生かし、近代技術へと発展させた。Tanaka Hisashige was eager to learn about the cutting-edge science and technology of the time and worked on the invention ofmachines. He made use of the Edo technology rooted in traditional common practice and developed it into modern technology.」 在来技術の展開(久留米→京都)1799年(寛政11)・祖右衛門誕生。べっこう細工の長男として九州の久留米に生まれる1804年(文化1)・2代目久重を襲名。幼い頃から「からくり儀右衛門」の異名をとる1812年(文化9)・久留米藩の機械細工師となる1819年(文政2)・からくりの興行を開始1820年(文政3)・気砲(空気鉄砲)を発明1824年(文政7)・江戸の両国でからくり興行を行う1825年(文政8)・大坂に移り、欄間細工などを製作1834年(天保5)・大津へ移り、竹田で日を友と改め、京都に移る(※「友」は判読困難)1837年(天保8)・「弓曳き童子」を製作・円盤を送ると弓を射た・門田製作の発砲式気砲などを参考欧米近代技術への接近(佐賀→長崎→久留米)1848年(嘉永元)・3月、借家を借りてからくりの興行・京都御所の御用時計の修理を行う1849年(嘉永2)・避雷針を製作1850年(嘉永3)・万年時計を製作・佐賀藩主鍋島斉正に近江大掾を得る1851年(嘉永4)・西洋近代技術への接近(佐賀→長崎→久留米)・佐賀藩精煉方に招かれる1853年(嘉永6)・佐賀藩校精煉方・石黒寅次(1861年の鍋島藩西征図にも参加)・中村奇輔(佐賀藩の砲術・佐賀藩反射炉・蒸気船などの製造を訪ねる)1855年(安政2)・蒸気工事・蒸気船の製造を製作、長崎海軍伝習所に参加・長崎製作 石丸安世(藩学者・工部省初代長官) 秀島藤蔵之助(長崎・アームストロング砲の鋳造などに学ぶ)1862年(文久2)・佐賀藩蒸気船の気缶(ボイラー)を製作1864年(元治元)・久留米藩に招かれ、火薬製造を兼務1865年(慶応元)・佐賀藩にて蒸気船凌風丸を製造1866年(慶応2)・蒸気船購入に従い、久留米藩より上海へと渡航1867年(慶応3)・長崎でイギリス外交官アーネスト・サトウと会見近代技術への発展(東京)1873年(明治6)・上京1874年(明治7)・モールス電信機を製造1875年(明治8)・銀座煉瓦街に田中製造所を構え、電話機・時計器を製作1881年(明治14)・久重、83歳で死去・田中製造所は1893年に芝浦製作所と改め、1939年東京電気と合併、現在の東芝へ「花鳥螺鈿箪笥(かちょうらでんたんす)(台付)」「「花鳥螺鈿箪笥(かちょうらでんたんす)(台付)」Chest with Bird and Flower Design in Inlaid Motherof Pearl (with Stand)江戸後期(1746〜1841年)様々な色が透けて見えるように加工した螺貝によって、華やかな模様を表現する技法で装飾された輸出用の漆器。描かれる孔雀(マクジャク)はもともと日本にはいない種で、こちらも南蛮船によって日本へもたらされ、知られることになった鳥である。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.03
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両国橋の展示模型。ズームして。■ 橋の上の賑わい橋上には、・武士・町人・行商人・旅人など多くの人々が行き交っています。江戸の橋・両国橋は単なる通路ではなく、・出会いの場・商業の場・情報交換の場 でもあった。■ 水の都・江戸橋の周囲には多数の舟が浮かび、・屋形船・荷船・渡し舟・小舟 などが行き交っていた。江戸では陸路以上に水運が重要で、隅田川や運河網が都市物流を支えていた。■ 橋の構造この橋は、・木造高欄・太い橋脚・長大な橋面を備えた大規模木橋として再現されています。下部の巨大な橋脚構造から、当時の土木技術の高さが感じられるのであった。その先に見えたのが、須田町(すだちょう) の山車を再現した展示。須田町とは現在の東京都千代田区神田須田町周辺で、・神田・日本橋・秋葉原に近い、江戸以来の商業地。江戸時代には、神田祭に参加する町として栄えた。山車の特徴■ 高層構造非常に背が高く、江戸の町並みの中でも遠くから目立つように造られています。■ 上部の人形頂上に立つ人物像は、・神・武将・能楽題材・中国故事人物などを表すことが多く、町ごとに異なった。■ 華麗な装飾・金具・漆・房飾り・染織が用いられ、江戸町人文化の美意識が凝縮されていた。■ 舟着場の作業風景手前左では、舟の上で人々が働いています。・荷揚げ・舟の整備・船頭の作業など、水辺労働の日常が細かく再現されていた。「両国橋西詰」。江戸が「水の都」であったことを強く感じさせる光景。両国橋のたもとでは納涼船が行き交い、広小路には見世物小屋や茶店が並び、今にも人々の声が聞こえてきそう。■ 竿で舟を押している長い棒を水底につき、・舟を前進・方向転換・接岸調整しているのであろう。「両国橋西詰両国橋の西詰の広小路には、軽業や歌舞伎芝居を見せる見世物小屋、髪結床、水茶屋などがいくつも立ち並び、寿司、てんぷら、うなぎなどの屋台、西瓜売り、朝顔売りなどの物売りや大道芸人も多く集まった。夏の間は花火見物に興じる屋形船、屋根船、猪牙船(ちょきぶね)が浮かび、その間を物売りのウロ船や花火船が行き交った。この模型は、天保の改革の取り締まりの記録をもとにして、改革前の盛り場の姿を1500体の人形を配置して再現したものである。」 両国橋 西詰の「川と盛り場」が一体となった江戸の賑わいを再現。■ 舟着場(船着き場)中央の石段と桟橋は、人々が舟へ乗り降りするための舟着場。ここでは、・屋形船への乗船・渡し舟の利用・荷物の積み下ろしなどが行われていたのであろう。川岸の賑わい左側には、・茶店・屋台・見世物・納涼客らしい人々が密集している。赤提灯が並ぶ様子から、夕刻から夜にかけての賑わいを表現しているようにも見えた。石垣と階段川岸は石垣で整備され、・階段状の護岸・舟着場・水辺空間が非常に美しく再現されています。江戸では、こうした川岸整備が都市景観の重要な一部であったのだ。廻り込むと、この模型が単なる「橋の模型」ではなく、“川そのものが江戸の大通りだった”ことが、さらによく分かるのであった。長大な両国橋両国橋 が横一直線に伸び、その上を夥しい数の人々が往来していた。橋の長さと橋脚の多さから、・隅田川の広さ・江戸の交通量・木橋建築技術が実感できるのであった。地図も廻り込んで。両国橋西詰 の盛り場を再現。橋を渡った先に、・見世物小屋・茶屋・屋台・人混み・川岸の船着場が密集し、「江戸最大級の娯楽空間」が広がっていた様子がよく分かるのであった。人混みをズームして。背後の大画面に掲げられているのは、神田祭礼図。画面には、・山車・練り歩く町人・囃子・見物人・傘・提灯などがぎっしり描かれ、江戸の祭礼の熱狂が伝わって来るのであった。「神田御祭礼飯田町中坂上ル図」歌川芳藤/画をネットから。江戸時代末期に活躍した浮世絵師・歌川芳藤(うたがわ よしふじ)によって描かれた大判三枚続の錦絵(木版画)です。江戸三大祭りの一つであり、山王祭とともに「天下祭」と称された神田祭(神田明神の祭礼)の華やかな練り行列の様子が克明に描かれています と。神田祭(かんだまつり)の行列を再現した模型。奥には「猿籠町(さるかごちょう)」の山車の姿が。江戸時代の猿籠町と神田祭江戸時代、将軍上覧の「天下祭」であった神田祭において、猿籠町は非常に重要な役割を果たしていました。行列の先頭グループ:山王祭と神田祭では、行列の先頭に「鶏」、続いてお使いである「猿」の山車が巡行する習わしがありました。巡行順:文久元年(1861年)の神幸祭の記録では、「三番 翁の能人形の山車」を神田旅籠町(現在の神田旅籠町二丁目など)が出していたことが分かっています とネットから。「神田明神行列復元年代:江戸後期 縮尺:1/10神田祭りの華やかで壮大な行列のありさまを当時の絵画資料をもとに、代表的な山車や神輿などを抜き出して復元した。山車は、大伝馬町の鶏、旅籠町一丁目の翁、佐久間町一丁目の素戔嗚尊の3台、神輿は、二之宮1基とし、人形は、旦那衆、山車曳き手、神輿担ぎ手、囃子方など、およそ300体を配置した。」 「佐久間町一丁目の素戔嗚尊(すさのおのみこと)」であっただろうか。「「神田大明神御祭礼図」絵図歌川国郷/画 1857年(安政4 )」。 全体図をネットから。一番山車、大伝馬町の諌鼓(かんこ)山車。神田祭7番 須田町 関羽の江戸型山車。「神田明神山車復元年代:江戸末期 縮尺:1/1「神田祭り」の山車(祭礼のとき、さまざまな飾り物などをして曳き出す車)のひとつを、関東に現存する山車や絵画資料をもとに原寸大で復元した。江戸時代、9月15日の神田明神の祭礼の日には、神輿の前後に30数台の山車とさまざまな練物が従い、江戸町人の盛んな意気を示し、隔年に江戸城に繰り込んで、将軍の上覧に供した。この山車は、江戸末期に人形師の古川長延によって改修された8番目須田町のものの再現で、人形は関羽(中国の蜀漢の武将)である。なお、中国における関羽像は顔を赤く彩色されるが、山車人形の関羽ではそのような色彩は施されない。」 「江戸の祭礼Festivals of Edo江戸の祭礼は、「天下祭」と呼ばれた山王祭礼、神田祭礼のほかも、神輿渡御の前後に山車が巡行する「山車祭り」が中心であった。山車巡行があった江戸の祭礼と開催日(天下祭を除く)1 日比谷稲荷初午祭 ・・・ 2月 初午2 烏森稲荷初午祭 ・・・ 2月 初午3 下谷寿司稲荷祭礼 ・・・ 2月一の午の日4 下谷稲荷社祭礼 ・・・ 3月11日5 浅草三社権現祭礼 ・・・ 3月18日6 築地波除神社祭礼 ・・・ 4月 初午7 杉の森稲荷祭礼 ・・・ 4月16日8 第六天神祭礼 ・・・ 6月5日9 鳥越明神祭礼 ・・・ 6月9日10 赤坂氷川明神祭礼 ・・・ 6月15日11 山谷金毘羅明神祭礼・・・ 6月15日12 四谷天王稲荷祭礼 ・・・ 6月18日13 富岡八幡宮祭礼 ・・・ 8月15日14 高田八幡宮祭礼 ・・・ 8月15日15 市ヶ谷八幡宮祭礼 ・・・ 8月15日16 三囲八幡宮祭礼 ・・・ 8月15日17 麻布一本松氷川明神祭礼 ・・・ 8月17日18 下谷坂本身禄尊神祭礼 ・・・ 8月19日19 増上寺黒宮祭礼 ・・・ 8月24日20 小石川水川明神祭礼・・・ 9月10日21 牛御前王子権現祭礼・・・ 9月15日22 駒込神明宮祭礼 ・・・ 9月16日23 牛込赤城明神祭礼 ・・・ 9月19日24 待乳山聖天宮祭礼 ・・・ 9月20日25 小石川白山権現祭礼・・・ 9月21日26 青山熊野野祭礼 ・・・ 9月21日天下祭巡行図(凡例)橙色:神田祭礼巡行路(9月15日)緑色:山王祭礼巡行路(6月15日)「神田明神祭礼絵巻」。鳳輦(ほうれん)神輿と違い、台の上に柱四本で屋根を支える箱型の神輿。一番の特徴は頂上に鳳凰が飾られていること。 ズームして。「神田明神祭礼絵巻(神田神社原蔵)Kanda Myōjin Shrine Festival Scroll(replica; original belongs to the Kanda Shrine)1863年(文久3)住吉内記広定/画神田明神の祭礼は、隔年で9月14〜15日に開催され(現在は5月15日前後)、江戸城内での徳川将軍上覧の祭りであったことから、「天下祭」とも言われた。ここでは鳳輦(ほうれん)が描かれている。」 「都市の祭り江戸の代表的な祭りには、隔年で行われる6月15日の山王祭と、9月15日の神田祭があった。神輿をはじめ三十数台の山車やさまざまな練物が行列をつくって江戸城内に繰り込み、将軍が上覧する大行事であった。このことから両社の祭礼は「天下祭」とも呼ばれた。日本橋辺りを境として西南を山王権現、北東を神田明神の氏子として江戸市中をほぼ二分した両祭礼は、しだいに町々で山車や練物に趣向を競うしていくようになった。天下祭のほか、江戸の寺社の祭りは季節的には夏から秋に集中していた。一方、2月初午の稲荷祭や11月の酉の市など、正月を中心として冬から春への行事も各地で展開していった。」 「山王御祭礼附祭番附(さんのうごさいれいつけまつりばんづけ)」 「山王御祭礼附祭番附(さんのうごさいれいつけまつりばんづけ)Order Table of Floats and Portable Shrinein the Sannō Shrine Festival1850年(嘉永3)森屋治兵衛/版祭礼時には、各氏子町による山車や練り物などの行列の順序を示した、祭番付と呼ばれる刷り物が発行された。中でも本資料は、付祭(つけまつり)を大きく取り上げたもの。踊り屋台や曳き物を、担当となった町が趣向をこらし構成されている。」 「E6-2 江戸の盛り場」。 「江戸の盛り場盛り場は、江戸時代の厳しい社会秩序に対して、一時的に日常生活から解放されることのできる自由な空間であった。そこでは飲食・娯楽・興行などの施設が備えられ、人々の喜び・楽しみ・笑いを満たしてくれる遊びの場として、都市のなかに発達した。盛り場は、火除地や広小路といった空き地、水辺や川辺に立地する寺社境内や門前に集中していたが、とりわけ、上野の山下、浅草寺の奥山、両国橋や江戸橋の広小路などが有名であった。そこには神仏を中心とした聖域が存在し、それを取り囲むようにさまざまな見世物小屋や芝居小屋、それに水茶屋などが立ち並び、路上には大道芸や小商いが集い、毎日縁日のようににぎわった。」 「盛り場の成立盛り場が成立するには、その立地条件が大きく影響した。火事の延焼を防ぐために設けられた火除地は、人々が集まる広場を提供した。さらに、江戸の広がりとともに周辺部には寺社門前町が発達、縁日・開帳を中心に盛り場のにぎわいをみせるようになった。江戸の大動脈でもある隅田川に架けられた両国橋は、開帳や花火興業のメッカである回向院が近く、川開きで人々が集まる水辺の盛り場として発展していった。浅草寺の奥山には、見世物や芝居小屋が立ち並び、聖と俗が隣り合わせ爆発の場として発展していった。」 「江戸の盛り場Entertainment Districts of Edo両国や浅草寺の奥山、上野広小路などの有数の盛り場のほか、各寺社の縁日や開帳には人々が多く訪れ、大きなにぎわいを見せた。In addition to Ryōgoku, Okuyama at the Sensōji temple, Ueno Hirokōji, and other prominent places of entertainment, people visited various temples and shrines on their festivals and exhibits of buddha images (kaichō),creating a great bustle.」 凡例●江戸の三富 18世紀中ごろ公認 富突興行地●江戸の主要芝居興行場所(江戸) 江戸時代後期のべ10回以上の寺社●居開帳5回以上開催の寺社●勧進相撲主要興行地■盛り場となった火除地右側図版キャプション・谷中天王寺の富くじ・両国回向院の開帳・両国回向院の勧進相撲・出開帳見物の役者たち「谷中天王寺の富くじ「東都歳時記」」👈️リンク 「両国回向院の開帳」。 「出開帳見物の役者たち」・「開帳参詣群集図」歌川国貞(初代)・歌川国久/画(部分) 「天竺舶来大象之図(てんじくはくらいだいぞうのず)Printing of an Elephant Imported from India1863年(文久3)了古/画 伊勢屋庄兵衛/版インドより横浜へとやってきた3歳の象を両国広小路にて見世物とすることを知らせる刷り物。異国風の衣装をまとった女性と、驚いた顔で見上げる人々が描かれている。」 「中天竺バルカ国出生大象之図(なかてんじく ばるかこく しゅっしょう だいぞうのず)Printing of a Large Elephant Born in Barka, Central India1863年(文久3)歌川芳艶/画 仮名垣魯文/賛森屋治兵衛/版インドよりやってきた3歳の象が、重さ約10.5トン、高さ約3.6m、体の長さ約6.3m、鼻の長さ2.4mであったことを伝える刷り物。」「盛り場の諸相盛り場では、飲食屋台や物産物売りなどの小商いのほかに、見世物や大道芸が行われた。見世物興行は、奇術・軽業・細工・動物などを仮設の小屋のなかで見せ、手軽な庶民の娯楽場として人気を集めた。また路上では漫才・覗きからくり・ものまね・講釈など大道芸のパフォーマンスも行われた。さらに薬売りや歯磨き売りなどもアトラクションを演じながら商品の販売を行い、香具師(やし)は独演や居合抜きなどをして路上に立った。彼らは、盛り場をにぎわした重要な人たちであった。」 「両国の見世物Shows and Exhibitions at Ryōgoku盛り場両国では、バラエティ豊かな見世物が次々に企画され、大評判となったものもあった。江戸庶民の最大の娯楽とはどのようなものであっただろうか。In Ryōgoku, a lively entertainment district, a wide variety of shows and exhibitions were organized one after another, some of which became extremely popular. What was the greatest entertainment for the common people of Edo?」 話題となったおもな見世物(年表)・1774年(安永3)4月 霧降花咲男の曲屁(きりふりはなさきおとこのきょくべ) 放屁の見世物。平賀源内がこれをもとに戯作「放屁論」を著す。・1777年(安永6)3月 とんだ霊宝 「とんでもない霊宝」の見世物。魚の干物による三尊仏など。・1818年(文政元)秋 菊細工 7代目市川團十郎ら『暫』の菊細工。巣鴨の菊細工職人による。・1819年(文政2)7月 籠細工 巨大な酒呑童子の籠細工。 同じ年、浅草奥山でも「三国志」などの籠細工が評判となっていた。・1824年(文政7)閏8月 ラクダ オランダ船によって長崎にもたらされたアラビア産のラクダ。 一目見るだけで疱瘡麻疹除けになると言われた。・1844年(天保15)2月 竹沢藤次の曲独楽 からくりの大掛けを組み合わせた独楽回しが話題となった。・1857年(安政4)11月 早竹虎吉の軽業 この年、江戸で風邪が大流行し、虎吉一座が風邪と共に大阪より下ってきたと 話題になった。・1860年(万延元)7月 ヒョウ 開口した横浜に船来。トラとして見世物に出された。・1863年(文久3)3月 ゾウ 前年にアメリカ船によって、マラッカより横浜に舶来したインドゾウ。 1874年(明治7 )まで、日本各地を巡業した。 江戸時代には、1728年(享保13 )、1813年(文化10 )、 1862年(文久2 )の3度、ゾウが渡来した。「天竺渡り生大象 辻ビラ(てんじく わたり いきだいぞう つじびら)」 ネットから。「天竺渡り生大象 辻ビラ(てんじく わたり いきだいぞう つじびら)1863年(文久3)歌川国明/画 (太夫元)杉山寒/発行」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.02
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江戸から東京への暮らしや物流、食文化を立体的に紹介する体験型展示の一部で、写真には大根や魚、船などが配置されていた。東京湾や流通のつながりを表現しているようであった。「江戸の食と物流」をテーマにしたインタラクティブ展示。テーブル全体が地図になっていて、・江戸(現在の東京)へ集まる食材・海路・街道による物流・リサイクル文化(紙・糞尿など)・江戸前の魚や近郊野菜などを、実物模型と映像投影で表現していた。特に、・大根や青菜などの近郊野菜・マグロなど江戸前の魚・「紙・漉き返し紙(リサイクル)」の表示・江戸湾へ入る船の航路・各地から江戸へ集まる物資 が。「E5-2 村と島の生活」前の展示状況。「玉川上水流域図」前の展示状況。 江戸の町屋模型も見えていて、展示空間全体で「巨大都市・江戸を支えた流通システム」を体感できる構成。「E5-3 玉川上水とその流域。」👈️リンク 手前に見えた巨大な木造構造物は、「玉川上水」の木樋(もくひ)や上水施設の実物・復元展示。「玉川上水」とは江戸時代、江戸の人口急増に対応するために造られた大規模な上水道。・1653年(承応2年)完成・多摩川の水を江戸市中へ導水・全長約43km・玉川兄弟(玉川庄右衛門・清右衛門)が工事を担当当時の江戸は世界有数の大都市でしたが、清潔な飲料水を大量供給できたことが、都市発展を支えた。中央奥の豪華な山車(だし)は江戸祭礼で使われた山車・屋台の再現。「上水井戸」と「木樋」。 「上水井戸」「上水井戸(じょうすいいど)木樋を通って供給された上水を汲み上げるための井戸。桶を2段か3段積み重ねたものが多く、上部数十センチメートルが地上に出ていた。つるべや井戸滑車も出土している。文献では木樋から井戸までを竹製の樋でつなぐ方式が知られているが、汐留遺跡から出土した本資料の場合は直接木樋が井戸に連結されていた。」 「木樋(もくひ)」 樋管(ひかん) の一種、上水施設で用いられた 木製の水道管・分水設備。「木樋(もくひ)上水を通すための木製の排水管。道路等の地下に傾斜をつけながら埋設された。木材は多くの場合、水に強い松か杉が使用された。本資料は木材をくり抜いてつくられている。蓋は釘で打ちつけられ、水漏れを防ぐために木の皮を繊維状にした槇肌(まいはだ)と呼ばれるものが隙間に詰め込まれている。木樋は屋敷の建て替えや補修のためか、しばしば付け替えられている。」 「槇肌(まきはだ / まいはだ)」は、主にコウヤマキ(高野槙)などの樹皮を剥いで繊維状にしたものです。古くから、その高い繊維質と弾力性を活かし、桶や和船、井戸などの板の隙間に詰め込む「防水パッキング(水漏れ防止の止水材)」として重宝されてきた と。「上水枡(じょうすいます)」「上水枡(じょうすいます)上水を一旦溜めて汚れを沈殿させ、きれいな上澄み水のみを流すため、あるいは木樋と木樋を接合し、その方向を変えるためなどに設けられた。また、水質検査のための施設ともいわれている。これはとくに大型の枡で、非常に厚い木材を使用している。隙間には水漏れ防止のための槇肌が詰め込まれている。」 廻り込んで。「継手(つぎて)」 「継手(つぎて)両側から木樋の端と端を差し込んで二本の木樋をつなぐもの。木の接続には他にもいくつかの方法があるが、継手を使うと太さの異なる木樋をつないだり、方向を変えたりすることができた。」「水が家庭に届くまで上水水門から引いた水は、地下に埋め込んだ石樋(せきひ)や木樋(もくひ)の水道を使って江戸の町に分配された。中央線の駅名である「水道橋」は、神田上水の水門から、神田川対岸に水を渡すための懸樋(かけひ)の名残である。大名(※)や商人など、大口の消費者には専用の呼び井戸へ水が送られたが、長屋へは、木樋からさらに細い竹樋(たけひ)を通して、共同の上水井戸に貯水された。」 「E6 江戸の四季と盛り場」。「E6-1 江戸の四季」。 「江戸の四季さまざまな人が集まり、さまざまな営みをみせた江戸の町では、各地に伝えられた行事をもとに独特の年中行事が行われた。江戸の人々の祭り好きは格別で、縁日や開帳、花見や月見などあらゆる機会をとらえ、趣向をこらした。人々が生き生きと行事や祭りに興じる様子は、文芸や絵画の作品で数多く描き出されている。江戸の地形は、山の手側に台地が広がり、台地と台地の間には川が流れ、湧池があった。一方、下町側には隅田川の流れがあり、海にも面していた。町のいたるところに坂と谷、窪地に池があった。このような起伏に富んだ地形が、四季の移ろいをより一層豊かなものとし、大都市でありながらも少し歩けば見事な自然風景を望むことができた。春は上野の花や根岸の鶯、夏はお茶の水の蛍、秋は武蔵野の月、品川の紅葉、冬は日暮里の雪など、人々は四季折々の名所にさかんに出向いた。また、身近な河川や海辺での舟遊び、神仏との出会い、市での人々の交流などが、一年を通じて江戸のいたるところで展開していた。」 「見立十二ヶ月ノ内 三月 雛祭 四月 鰹売」。 「見立十二ヶ月ノ内三月 雛祭 四月 鰹売A Parody of Twelve Months: March, the Doll Festival, and April, a Bonito seller1859(安政6)歌川国貞(3代豊国)・国久/画伊勢屋兼吉/版4月が初鰹(はつがつお)となる鰹売りは、三代豊国により歌舞伎役者中村福助の似顔で描かれている。背景の雛人形を弟子の国久が描く共作。」 「江戸の年中行事Annual Events of Edo季節や暦に合わせて繰り返されるさまざまな行事は、江戸の人々にとって日常を活性化させる大きな楽しみであった。Various annual events observed in accordance with the seasons and the calendar were a great pleasure for the people of Edo to revitalize their daily lives.」中央円形図「東都歳事記」でみる四季の行事春・夏・秋・冬に分けて、江戸の代表的年中行事を配置。円周部で読める主な行事春①初卯詣で②汐干狩り③御開帳夏④川開き⑤山王権現社祭礼(山王祭)秋⑥神田明神祭礼(神田祭)冬⑦酉の市⑧年の市「上野寛永寺花見図(うえの かんえいじ はなみず)」。 「上野寛永寺花見図(うえの かんえいじ はなみず)Cherry Blossom Viewing around Ueno Kan’eiji Temple天明後期〜寛政初期(1785〜90)勝川春山/画 西村屋与八/版満開の桜を楽しむ人々が行き交う寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の風景。ここが花見の名所となったのは、3代将軍家光が桜の名所・吉野(奈良)を模して桜を植樹させたことに始まる。」 「江戸の花暦Flower Calendar of Edo人々は四季折々に変化する景色を楽しむために、江戸市中や近郊の名所へおもむいた。People traveled to famous places in Edo and its suburbs to enjoy the changing scenery of the four seasons.」 掲載されている主な名所・上野・浅草・隅田川・飛鳥山・品川・深川・王子・亀戸・芝・向島・吉原・高輪 など。右側の浮世絵図版上「上野寛永寺花見図」中「東都名所 亀戸藤花」下「江都名所 隅田川雪見之図」「上野寛永寺花見図」勝川春山/画「東都名所 亀戸藤花」 歌川広重/画亀戸天神の藤は、江戸の藤として知られ「名所江戸百景」など多くの浮世絵、錦絵に描かれている。江戸時代、亀戸は湿地で初代宮司が水を好む藤を社前に植え、江戸の名所として五代将軍綱吉公や八代将軍吉宗公が訪れた記録もある。亀戸天神は、菅原家の子孫である菅原大鳥居信祐が、1661年(寛文元年)江戸本所亀戸にあった天神の小さな祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりといわれている。現在の社地は天神信仰に篤かった4代将軍・家綱によって寄進されたもので、1662年(寛文2年)地形をはじめ、社殿、楼門、回廊、心字池、太鼓橋など境内のすべてを九州の大宰府天満宮にならって造営され、東国天満宮の宗社として崇敬されている。「江都名所 隅田川雪見之図」歌川広重/画。「向ふ島乃夜桜(むこうじま の よざくら)」歌川国貞(3代豊国)/画。 「向ふ島乃夜桜(むこうじま の よざくら)Cherry Blossom in the Evening at Mukōjima1859(安政6)1860年(万延1)2月歌川国貞(3代豊国)/画向島で夜桜見物をする3人の女性を描いた美人画。向島には料亭などが立ち並び、日が暮れた後の散策も楽しみのひとつだった。背景には隅田川を舟で行きかう様子が描かれる。」 「江戸めぐり江戸の神社や寺院は、江戸の町の発展拡大にともない、移転を繰り返しながら江戸周縁部に数多く建てられた。祭礼や縁日・開帳ごとに人々は寺社に詣で、厄除や病気の治癒・商売繁盛を祈願して、神仏の御利益にあずかろうとした。とりわけ各地の霊場・神仏を勧請して六地蔵・六阿弥陀・七福神・三十三カ所・八十八カ所巡りなどの巡拝コースが江戸の各地に設けられ、人々は参拝しながら順に江戸市中をめぐった。これらの寺社は、人々の行楽や物見遊山の場所とも重なることも多く、江戸名所として名所案内記に紹介されるところとなった。」 「二十六夜待(にじゅうろくやまち)七月二十六日夜半高きに登り、又は海川の辺、酒楼等に於て月の出を待つ。分て群集する事夥しく宵より賑えり。月光の中に阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が姿をあらわし、拝むと幸運を得られるとされた。高輪・品川・洲崎・湯島天神など。 「『東都歳事記』湯島二十六夜待の図」をネットから。 「上野花見図屏風」をネットから。 左隻。「上野花見図屏風Folding Screen Depicting Cherry Blossom Viewing at Ueno元禄頃上野花見・両国川遊図屏風(六曲一双)のうち左隻。上野の寛永寺境内は、江戸時代初期から桜の名所として知られてきた。三味線、笛、太鼓に合わせて陽気に円舞している様子を見物人たちが取り囲んでいる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2026.06.01
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