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隠居人はせじぃさん
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午後の打ち合わせ、現場調査を終了し帰路に。
天草から福岡への最終便の18:00には余裕があるので
南国ムードの街路樹・フェニックス。


昭和50年に開通したという通詞大橋を渡り通詞島へ入る。
昔は瀬戸の狭い所を手漕ぎの渡し舟が行き来していたと。
橋は幅が狭く、車同士がすれ違う時はちょっと気を使いうほど。


通詞というのは今で言う通訳のことで、通詞島という名が付いたのは、
「中世の頃この島に南蛮貿易の通詞(通訳)が住んでいた」という話や「遠く外国
まで漁に出かけたことで、外国語をマスターした漁師が住んでいた」等の話があり、
この名前だけで歴史のロマンが感じることができたのであった。


東端の風力発電設備。


タワーの高さ45m、翼の直径30m。発電能力 300KWH。


風車の下では魚釣りのおじさんの姿も。


小鯵が釣れると。撒き餌で入れ食い状態。これなら釣りも面白そう。
あくまでも透明な青い海。


西端の風力発電、こちらは落雷等数々のトラブルを経験し本格駆動したようだ。


続いて、 富岡半島に向かう。


眼前の山の上に富岡城址が見えてきた。


天草城址から海を眺めると 砂州で繋がった陸繋島であることが理解
できたのであった。
遠く天草苓北発電所の白き姿が確認できた。

二の丸広場には頼山陽と勝海舟の像が建てられていた。
勝海舟が1856年長崎海軍伝習所の訓練中「観光丸」でここ富岡に寄っているのだ
。
頼山陽は1818年長崎の茂木を経てここ富岡の城下に開塾していた儒者のもとを
訪ねて来ていると。


石高半減を訴えた初代天草代官の鈴木重成とその兄正三の像も。


富岡城は慶長7年(1602年)、肥前唐津藩の寺沢志摩守広隆公によって築城されたと。
寛永14年(1637年)「天草島原の乱」では、幕府側の拠点として一揆軍から 攻 撃を
受けたが、必死の守りで落城を免れたと。
その後、寛文10年(1670年) 富岡城は破城されたとのこと。


現在富岡城の本丸跡に『熊本県富岡ビジターセンター』が整備されている。
天草地域の魅力ある自然景観、歴史、文化環境等の情報を発信。また雲仙国立公園の
内容も紹介しているのだ。


過去の何回かの石垣の改築の跡が、積み上げた石垣の色で理解できるのであった、


富岡城の図と歴史が説明されていた。
富岡城は約70年間存続したが、破城後も三の丸に代官所が置かれ、明治初期にいたる
まで富岡は、天草行政の中心としての役割を果たして来たのだ。


帰路は、時間短縮のため山道をドライブし、レンタカー返却後天草空港へ。
18時発にて福岡空港へ 。


帰路も往路と同じボンバルディア。


眼下に海の中道と能古島が見えた。


博多湾の倉庫街。


そして車輪が出て着陸態勢に。


19:45発のANA便で羽田空港へ、そして帰宅したのは0:15。
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