JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.04.08
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カテゴリ: 国内旅行
国道9号線を関門海峡沿いに車を進めていくと、前方に関門橋が見えて来た。
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「関門トンネル人道入口」前の駐車場に車を駐める。
道路の向こう側には大砲が。
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関門トンネル人道入口。
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関門海峡を繋ぐ、全長780メートルの歩行者用海底トンネル。



海底に伸びるトンネルは上下に区切られ、上は車道、下は徒歩で通行できるようになっている。
人道入口にはエレベーターが設けられ、下関市側は地下約55メートル、門司区側は
地下約60メートルまで降りてから通行。
トンネルの中ほどには福岡県と山口県の県境の標識があり、珍しい海底の県境として有名であると。
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ウィキペディアによると
『関門海峡の最狭部である下関市壇之浦と北九州市門司区門司(和布刈地区)を結ぶ海上橋で、
1973 年(昭和 48 年) 11 14 日に開通。
橋長 1068m 、最大支間長 712m は、若戸大橋(橋長 627m 、最大支間長 367m )をしのぎ、

形式は標準的な 3 径間の吊り橋で、補剛桁はトラス。橋梁等の防食法には溶射が採用されている。
関門海峡は大型船舶も航行する重要航路であることから、桁下から海面までは 61m の高さを
確保している。主ケーブルの直径は 67cm 5.04mm 素線、 14014 本)、ハンガーケーブルの
直径は 53cm 。』
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「​ 関門隧道建設の碑 建設大臣 根元龍太郎 ​」
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御裳川公園(みもすそがわこうえん)内の松の木々の下には朱の御裳川橋が。
御裳川は道路下、公園下を流れ関門海峡に流れ込んでいるようで川の姿はなし。
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壇ノ浦古戦場址。
現在は「御裳川公園」として遊歩道が整備されている。
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公園前の海は関門海峡の一番狭まったところで「早鞆の瀬戸」といわれ、潮の流れが速く、
潮流の変化が激しい海の難所です。壇之浦古戦場を一望できるこの場所は、
『今ぞ知る 身もすそ川の 御ながれ 波の下にもみやこありとは』(長門本平家物語)という
二位の尼辞世の歌から地名が生じたと。
公園内には、源義経・平知盛両雄の像とともに、安徳帝御入水之処碑が配置されており、
海峡の激しい潮流を背景に源平最後の合戦に思いをはせることができます。
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源平の合戦場跡は、寿永4年(1185)源氏と平家の最後の戦いとなった壇ノ浦合戦の跡。
源義経像。
平教経(のりつね)の攻撃を、船から船へ飛び移ってかわす源義経の「八艘飛び」の姿。
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平知盛像。
「平家物語」には、もはやこれまでと悟った知盛は、浮かび上がらぬよう碇を担いで
海に飛び込んだと。平知盛の「碇潜(いかりかづき)」。
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安徳帝御入水之処。
「二位尼辞世
今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは 」
壇ノ浦の合戦のクライマックス、二位尼に抱かれた安徳天皇(8歳)は
壇ノ浦の海へ入水し平家は滅亡したのであった。

二位尼とは平清盛の妻。
重盛・宗盛・知盛・重衡・徳子の母。三后( 天皇の配偶者や母・祖母等に与えられた
に准ぜられ、清盛没後、剃髪して二位の尼と称された。

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加藤伴平像 ​。
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この碑は関門トンネルが開通した1ヵ月後に昭和天皇が関門国道建設事務所の
初代所長の加藤伴平氏と歩いたときの記念碑。



美しい曲線美の関門橋。
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御裳川公園は壇ノ浦古戦場跡であり、公園内にはその碑と、幕末に長州藩が外国船を砲撃した
大砲のレプリカが置かれていた。
長州藩の主力となった加農砲(カノン砲)は青銅製の大砲で、球形の弾丸を発射し、
目標を打ち抜いて損害を与えるものであったが、連合艦隊の新しい大砲は距離.威力ともはるかに
優れたものであった。
この大砲は、幕末に数多くの大砲を鋳造(ちゅうぞう)していた長州藩の安尾家に伝わる
20分の1の模型(下関市立長府博物館蔵)を参考に、原寸大に復元したレプリカ(FRP製)。
砲身に刻まれた文字は、パリのアンヴァリド軍事博物館が所蔵している、これとほぼ同型の
長州製青銅砲の砲身を模刻していると。
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文久3年(1863)5月から6月にかけて、長州藩は関門海峡を通る外国船を5回にわたって
砲撃した(攘夷戦)。翌年8月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊17隻が
報復のため下関にやって来た。
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海峡の最もせまい所に築かれたこの壇之浦砲台は、前田砲台と共に
重要な役割を果たしたが、連合艦隊に大敗し、すべての砲台が占領・破壊された。
外国の進んだ軍備にめざめた長州藩は、開国・倒幕(かいこく・とうばく)へと転換し、
明治維新を実現する原動力とななった。
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攘夷戦長州砲レプリカ。
天保15年(1844)、萩城下の郡司喜平治信安が鋳造し下関の台場に配置されていた
長州の大砲。
元治元年(1864)の四国連合艦隊襲来の際、戦利品としてフランスへ持ち去られ、
パリのアンバリッド(軍事博物館)に保管されていた。
日仏親善交流の一環として、昭和59年(1984)6月20日、120年ぶりに下関へ里帰りした
ことを記念して、昭和60年(1985)に下関東ロータリークラブの手により原寸どおりの
レプリカを制作、この地に設置する。
実物は現在長府博物館に展示されているとのこと。
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「馬韓開港百年記念」碑。
下関の古称は馬関(ばかん)であったと。



松本清張の文学碑。
『半生の記』の一節が刻まれていた。
松本清張は幼少時、下関市に住んでいたらしい。
弾痕のような穴からは穴からは関門海峡の対岸にある和布刈神社が望める
仕組みになってるらしい。下関戦争の遺物というわけではないようであった。



関門橋の門司方面。


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関門橋の下関側。
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妻のリクエストに応えて、関門橋を渡る事とする。
妻が我がカメラで助手席から懸命にシャッターを押す。
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橋梁の前後区間を含む下関 IC - 門司 IC 間の高速道路としての法定路線名は、
関門自動車道(かんもんじどうしゃどう)となっており、正式には
下関 IC 以東の中国自動車道でも、門司 IC 以南の九州自動車道でもないのだと。

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関門橋を渡り終えるとトンネルが。


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門司港ICで降り、門司港駅に立ち寄りたかったが、カーナビに門司駅と
入力してしまい、時間がかかると思ってしまい諦めてUターンして再び
関門橋を渡り下関に戻ったのであった。

                 ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2018.04.08 06:52:07
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