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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
橋上駅の『JR国道(こくどう)駅』。
魚河岸通りに入ると、JR鶴見線の国道駅の前に出る。
鶴見線は、全長わずか9.7kmの都会の中のローカル線と言った感じである。
第一京浜国道と旧東海道の間に、そのものずばりの駅名である国道(こくどう)駅が出来ている。
鶴見線は鶴見駅と埋立地の臨海工業地帯を結ぶ線で、大正13年貨物専用として開業(1924年)。
その後、昭和5年(1930年)に旅客輸送も開始し現在に到っている線である。
JR国道(こくどう)駅舎の下には多くの自転車が。
浄土宗 慶岸寺(けいがんじ)。
入倉山 究竟院 慶岸寺と号す。
本堂。
開山「慶岸上人」は天正9年(本能寺の変の前年)示寂。
示寂とは菩薩(ぼさつ)や有徳(うとく)の僧の死。
堂内には阿弥陀三尊、善導・法然両大師、開山像等が祀られている。
昭和20年4月空襲で堂宇悉く灰燼に帰し、昭和35~40年本堂庫裏を再建した。
山門脇の「子育地蔵尊」(宝永6年安置)は往時より安産と赤子・幼児の
息災を念じ香煙が絶えないと。
六地蔵と鐘。
永代供養墓「蓮の臺(うてな)」。
臺とは土を高く積んで人が来るのを見張るための物見台のこと。
『子育地蔵尊』。
「子育地蔵尊」と書かれた扁額。
『冬木森稲荷神社(ふゆきもりいなりじんじゃ)』。
引き潮になると船が出せなくなるため漁師たちがこの神社の境内で潮を待ったことから、
塩待稲荷の別名があると。
総本社は、京都の「伏見稲荷大社」で御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。
鳥居に掲げられた扁額。
正泉寺の短い参道に鶴見区で一番古いと言われる「地蔵尊」があった。
南西向きに安置されている地蔵は、慶安5年(1652)に供養造立したとある。
この地蔵は違うお寺に祀られるため運ばれている途中、こちらの参道で休息のため
一時置かれたが、再び動かそうとしたところ、持ち上げることが出来なかったと言う
伝承が残されているという。
『正泉寺(しょうせんじ)』の山門。
南海山 瑠璃光院 正泉寺と号す。
神奈川金蔵院の末寺で、玉川八十八ヶ所霊場の第八番札所。
明治五年に学制が布かれると、翌六年には正泉寺に生麦学舎が始まったと。
参道右手に祠があった。
一番左手に「亀の供養塔」。
この亀の由来は、明治四十五年(1912)の夏のある日、いつものように生麦では
地曳網を引き上げていると、網の中は魚が一杯入っていて大漁だった。
そして、魚の中に一匹の大海亀が入っていたと。
漁師たちは、亀は龍宮のお使いだといって、亀に酒を飲ませ、甲羅には親方の名前と
富士山(富士講)を書いて、海に放そうとしたら、その時が亀の寿命の万年目に当ったのか、
あっけなく死んでしまった。漁師たちは、ねんごろに正泉寺の墓地に葬り、亀の墓を建て
手厚く供養した。その後、江ヶ崎屋の人は漁が少なくなると、亀の墓にお参りして
漁を授けてくれるようにお願いをすると、その願いがかなえられるのか大漁が続いたと。
その隣右側に「お心中様」。
明治十五年六月、南浜の舟着場に心中死体が流れ着いた。浜の人達はこれをあわれみ、
正泉寺に埋葬しねんごろに供養した。寺の過去帳には、天明四年(1784)三月八日に
男女の漂着死体を葬ったとあり、長い間には、何度かこの様なことがあったと思われる。
心中供養碑はその後、火災や震災などにより、寺の片隅にかたづけられていたと。
右手には「真韻(まいん)」と刻まれた石碑が。
真韻とは”真の追求、韻を踏むように真実を伝え仲間を増やす”ことであると。
桜さくら はかなく散り 姿にも おもひかはせし 色はみえけり 鶴 園
こころだに こふる涙の 海よりや おもいしつめる 身とはなりけむ 直幸


































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