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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
藤沢本町駅を8:30にスタートし馬入橋にようやく到着。時間は12:15過ぎ。
相模川の手前に『馬入橋』『相模川』の標識が。
相模川は東海道の難所として知られ、平安時代は浮橋で渡っていたと。
鎌倉時代、源頼朝が橋の落成式の出席後に落馬し、翌月に亡くなったと。
一つの説では橋供養の帰途、稲村ケ崎に近づくに連れ、義経や義仲、平家一門、
安徳天皇などの怨霊(おんりょう)が海中から浮かんで出ては頼朝を悩ます。
そのために落馬したとも。
旧相模川橋脚の位置は現在の馬入橋の位置より東に2kmほどずれているが、
本橋の名称や地名としての馬入の由来はこの逸話にちなんでいるのだと。
江戸時代の相模川は現在の馬入橋付近に橋はなく、渡船による往来が行われていたと。
馬入橋からの大山の姿そして手前に多目的に利用できる屋内競技場
『ひらつかサン・ライフアリーナ』の屋根が見えた。
海側には東海道本線が。
橋の真中に、日本橋から62Kmのキロポストが。
相模川河口と奥には国道134号線に架かる『トラスコ湘南大橋』が、更にその先に相模湾が広がる。
相模川は上流の山梨県では、桂川(かつらがわ)、河口近くの下流では、
馬入川(ばにゅうがわ)と呼ばれている。古くは、鮎川(あゆかわ)と呼ばれたと。
馬入川の名は、鎌倉時代に相模川を渡る東海道に初めて相模川橋と呼ばれる橋が
架けられたときに、落成供養に臨んだ源頼朝が乗った馬が暴れて落ちたという
伝説にちなむと再び。
上流には『湘南銀河大橋』。
本橋開通前は、国道 1
号の馬入橋とその上流の神川橋の間は約 2.8km
開いており、
どちらも片側 1
車線であるため慢性的な渋滞が生じていた。
両橋のほぼ中間の位置に 3
径間連続鋼斜張橋構造で建設され、 1998
年に片側 1
車線で暫定開通。
橋の名称は公募され、 2371
通の応募の中から「天にそびえる 2
本の塔に支えられ相模川をまたぐ
壮大さと 360
度の広がりで見渡せる湘南の雄大な展望に、無限に広がる宇宙の夢、希望」
(選考理由より)をイメージした「湘南銀河大橋」に決定したと。
2007
年 7
月までに片側 2
車線で本供用し、国道 129
号とも接続したと。
茅ケ崎市と平塚市の市境は、現在では馬入川のずっと手前の新田入口の交差点付近。
昔は、馬入川の流れがもっと茅ケ崎寄りにあった事は、 『史跡 旧相模川(馬入川)橋脚』の
位置からも想像できるのであった。
馬入川の河口付近で、平塚市、茅ケ崎市、寒川町の境界が複雑に出入りしていることを
知ったのであった。
そして相模川の馬入橋の平塚側たもと南側にひっそりと建っていた
『陸軍架橋記念碑』を訪ねた。
右側に『陸軍架橋記念碑』と刻まれた石碑。
江戸時代は主要河川に橋を架けることが禁止され、東海道の馬入川も船渡しであった。
明治になって、木桁橋が架設されたのが馬入橋のはじまり。
関東大震災の前年から架け替え工事が行われており、橋台や橋脚などの基礎工事中に
関東地震に遭遇した。
『陸軍架橋記念碑』は相模川右岸、馬入橋の下り車線側道(歩道)にあり、由来や碑文は
併設されている説明板に記されていた。


























































藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.14
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