JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.06.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次





街道が緩やかに右にカーブするところ浜松橋羽郵便局手前の左筋に『南無妙法蓮華経題目碑』
が建っていた。



天竜川駅入口交差点が見えて来た。



『東海道案内板 ようこそ浜松「東区」へ』
『金原明善生家』、『金原明供養塔』、『法橋の松』、『蒲新明宮』が紹介されていた。



現在地は『天竜川駅入口交差点』。



まずは、天竜川入口交差点の北西角にある『六所神社』に向かう。
この周辺一帯は橋羽(はしわ)と呼ばれていたと。



『六所神社』。
浜松市内にはこの『六所神社』が20箇所以上あるのだと。



境内左手にあった『秋葉山常夜燈の建屋』が。
中には何もなかったが火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が祀られているとのこと。
「伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)は多くの神をお生みに
なられました。しかし、伊耶那美神(いざなみのかみ)は火の神である火之迦具土神
(ひのかぐつちのかみ)をお生みになった際、御陰(みほと:女性陰部)に大火傷を
負ってしまい病床に就かれてしまいました。病気でお苦しみになりながら病床で嘔吐し、
糞尿を垂れ流してしまいます。ところが嘔吐物から鉱山の神二柱、大便からは土の神二柱、
尿からは水の神と生成の神が成りました。」と。



由緒書きと手水舎。
由緒書きは文字がかすれて解読不能。



正面に『社殿』。



六所神社の創建年代は、永禄年間(1558-69)であるが、その後、慶安元年(1648)に
再建された。



境内には、「お宮の松」 と呼ばれる直径3m、樹高17m、推定樹齢260年前後の黒松があったが、
昭和54年(1979)10月19日の台風20号による被害のため伐採されたと。
静岡県内には「お宮の松」 が熱海そしてここ天竜川町にあったが、他にもあるのだろうか?



そして天竜川駅に向かって歩き、『妙恩寺』を訪ねた。
左手に『黨山草創六百年紀念』と刻まれた石碑と『山門』。



山門右側には案内板が。



『妙音寺由来』
日蓮宗長光山妙恩寺.
妙恩寺は、鎌倉時代の応長元年( 1311 )日蓮大聖人の孫弟子日像菩薩を開山とし、
金原法橋左近将藍を開祖として出来た、遠州最初の法ヶ道場である。
妙恩寺には、三方原の戦いに負けた家康が逃げ込んできたという伝説がある。
境内には、清正堂・開山堂のほか金原善明の供養塔がある。



こちらにも『妙恩寺』。
「日蓮宗の古刹。応長元年(1311年)開創。東海道沿いの寺道に妙号石碑がある。
かっては周辺まで塔頭(たっちゅう)寺院が並んでいた。今川家・武田信玄・徳川家康に
かかわる寺宝がある。境内には、金原明前の供養塔などがある。」



山門の扁額には『長光山』と。



『鐘楼』。



『手水舎』



『本堂』。



本堂内部。
内陣と外陣の狭間、浄土を透かし見る本堂の格子戸が見えた。



『清正堂(せいしょうどう)』。
家康公お手植えの柘植の木が右手に。



扁額には『清正公(せいしょうこう)』と。



『清正堂(清正公堂)1/2』
妙恩寺の12代目の住職が加藤清正の子であった縁で、清正公が祀られていると。



『清正堂(清正公堂)2/2』



『金原善明の供養塔』
金原明善は江戸時代の名主の家の出身であるが、金原氏は江戸時代以前はこの地の豪族であった。
ここ妙恩寺は明善の先祖である金原左近将監、法号法橋が開基である。



『開山堂』
開山は日蓮上人の法孫・日像上人。
日像といえば、京都で最初の日蓮宗道場である、妙顕寺をはじめ、妙蓮寺、宝塔寺を開山した
上人であると。



扁額には『御開山』と。



『開山堂』



永代供養墓の『常経殿(じょうきょうでん)』



扁額には『常経殿』と。



『常経殿』。



六角形の『宝蔵』。
宝蔵には日蓮上人直筆の本尊や御書の断片、日像上人の画像や戦国武将たちの判物なども
納められていると。寺紋は『丸に出二つ引き』。
寺で家康を匿った時、飯茶碗に二本の箸をのせて差し出したことから、賜ったとされる紋。



『寺務所』。
堂宇の配置、手入れの行き届いた境内に古刹の風格を感じたのであった。



そして次に『法橋のマツ』を訪ねた。



『法橋のマツ』
「この松は、天竜川町日蓮宗妙恩寺の開基 金原法橋(左近将監)遺愛の松で、
広大なその前庭にあったものであると伝えられている。
地上2mの幹廻りは約5m。
往時の枝張は東南より西北まで約18m、東西約12mである。
樹高はおよそ14mである。樹齢は700年以上といわれている。」



『法橋のマツ』を見上げる。



『金原法橋庭前之松』と刻まれた石碑。



少し離れて全体を。



石碑『天然記念物金原法橋庭前之松』。



支えられながらも、必死に生きていました。



現在の姿は樹皮が失われた部分もかなりある。
残念ながら、樹勢はあまり芳しくないようであったが、頑張ってほしいのであった。



道端にはタチアオイ(葵)の花が。



濃いピンクのタチアオイ。



『東海道』と刻まれた石碑。



旧東海道・県道312号線を更に西に進む。



旧東海道に戻って、一本の名残松のある比較的広い十字路を越えると、
右手に『浜松アリーナ』が。
浜松アリーナは、各種スポーツ大会の会場、国際的な競技大会や各種文化イベントにも
利用可能な多目的ホールである。



更に旧東海道を進むと交差点右手にあったのが『六軒京本舗』。
店のHPには
「東海道は天竜川の渡しを西に越え、浜松宿に入る手前に、蒲畷(かんまなわて)
十六丁の松並木があり、この地を六軒といいました。幕末の頃この地に元祖京次郎の
妻まつが茶店を出し、夏の副食品として紫蘇巻を作り売り出したところ、
東海道を往来する旅人に大変喜ばれ、以来六軒京の紫蘇巻として当地の名物となるに
至りました。現在は、紫蘇巻の他に小菊巻・銘茶・椎茸等の副食品を中心として、
幅広く皆様から喜ばれますよう努力しております。」と。
道路沿いの赤紫蘇色(あかじそいろ)の塀が和を感じる美しさであった。



更に進み旧東海道を左手に折れ、『子安神社』を訪ねる。



『村社 子安神社』。



『子安神社』
子安神社は、この地の庄屋伊藤家の祖先が、寛永 12 年( 1635 )浅間神社の分霊を祭り、
家の守護神としたことに始まるが、伝説には源範頼が娘の無事出産を願って創建した
話が残されている。



『社殿』。



扁額?には『祭神 木之花咲耶姫命』と書かれていた。



社殿内部。



『子安町 屋台置場』。



旧東海道が国道152号線に合流する子安交差点の左側に『東海道夢舞台「植松原」』が。
植松から永田(現浜松市東区和田町)にかけての旧東海道は蒲畷(かばなわて、かんまなわて)
と呼ばれる松並木の畷道であったとのこと。



更に進み子安交差点から100m程先の、芳川に架かる『琵琶橋』を渡る。



芳川の上流側。



上流側の『琵琶橋』の欄干には鳥の姿が。



下流側の欄干には菖蒲(あやめ)?の姿が。



『びわばし』の文字が。




                              ​ その8 ​  に戻る。
                  ・・・ つづく ・・・






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Last updated  2020.05.01 12:19:34
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