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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
その6で訪ねた場所。
太龍寺を後にし、碑文谷道の煉瓦塀を楽しみながら進み、しばらくして右折し更に進むと
右手にあったのが『清光院』。
臨済宗大徳寺派の『清光院』は、慶安3年(1650)に肥後国字土藩(熊本藩支藩)の藩主、
細川行孝が母を開基として建立したと。
もとは東海寺の塔頭のひとつでしたが、明治維新後に独立したと。
正面の山門は大きな木材を使った冠木門。
入口には『しながわ百景 清光院と奥平家墓地』の案内板が。
品川区指定史跡「奥平家墓地」は、瓦積の土塀に囲まれた598㎡のという大名墓地としては
都内有数の広さで、89基の墓碑があると。奥平家は徳川家譜代大名で、4代昌能の時代に
清光院に墓所を定め、以後代々の藩主らが葬られていると。
参道を入っていくと正面に比較的新しそうな『唐門』が。
『本堂』。
第二次大戦で焼失したが、戦後再建されたものであると。
『枯木倚寒巖 沢庵叟』と「沢庵禅師」が書かれた扁額。
『枯木倚寒巖(こぼくかんがんにより)とは
「私は冬の巌の枯れ木のように、私の心は少しも動ずるとことはない」と言う意味であると。

本堂前の枯山水の庭。
東屋。
境内庭園から唐門、本堂を見る。
本堂の後ろには高層マンションが。
庭園のお地蔵様。
ここにも。
石碑の文字は?
お稲荷さん風の社も。
『奥平家墓域』は、裏のしおり戸を入り左手に向かって進むとあった。
『奥平家墓域』は品川区指定史跡第5号
奥平家は徳川家譜代の大名で、初代定昌(のち信昌と改名)は徳川家康の長女亀姫を妻とし、
美濃国(現岐阜県)に10万石を領した。
その後、何度かの転封ののち、豊前国(現大分県)中津藩主となっている。
清光院に墓所を定めたのは4代昌能のときで、以後代々の藩主らが葬られている。
瓦積の土塀に囲まれた598㎡の墓域は都内の大名墓域としては有数の広さで、
慶長19年(1614)に没した二代からの墓石88基がある。
奥平家は譜代大名で、中津(大分県)藩主であった。中には3メートルを超える巨大墓も。
墓地の入口門。
大きな墓石が数えきれないほどに。
別の角度から。
歴代住職の墓であろうか?
目黒川を越える要津橋(ようじんばし)を進むと右手にあったのが『東海寺』。
臨済宗大徳寺派の東海寺は、萬松山と号す。
東海寺は、寛永15年(1638)徳川家光が沢庵宗彭を招聘して開山した。
寺領5,000石、境内地4万7000坪を賜った別格本山格の寺院で、臨済宗大徳寺派の江戸触頭。
明治維新で廃寺となったものを、かつての塔頭玄性院が旧跡を引き継いで現在に至っている。
『東海寺』の脇門から入ると正面には『鐘楼』が。
『鐘楼』。
鐘楼にある東海寺梵鐘は元禄5(1692)の鋳造で総高198㎝、口径106㎝。
五代将軍綱吉の母、桂昌院が将軍家光の冥福を祈るために寄進したもの。
本鐘は元禄5年(1629)住持天倫宗忽(じゅうじてんりんそうこつ)が撰文し、
名工といわれた幕府の御用鋳物師である椎名伊予守良寛によって造られたもの。
撞座は竜頭の側面方向に2ケ所、乳は乳の間ごとに縦横5箇ずつ配列されている。
仏殿は昭和5年(1930) の建築、小規模ではあるが本格的な禅宗建築である。
正面入口の上に『世尊殿』と記した木額をかけている。
本尊は木造の釈迦三尊である。中尊の釈迦如来坐像は等身大の立派な像で、
東海寺の開創にあたり、根来寺(和歌山県、新義真言宗)から移されたものと伝えられている。
『青山家墓』
丹波篠山藩主青山家の墓。
現在の東海寺は、もとの塔頭玄性院が引き継いだもの。
玄性院は、寛永16年に老中堀田正盛が建立したもの。
そのため、ここには堀田家、堀田正盛の墓が。
堀田 正盛は、江戸時代初期の大名、老中格、老中、大政参与。武蔵川越藩主、信濃松本藩主、
下総佐倉藩初代藩主。堀田家宗家初代。 堀田正吉の長男。母は稲葉正成の娘。
母は正成が最初の妻との間に儲けた女子であり、正成の2度目の妻が春日局であるため、
正盛は春日局の義理の孫にあたる。


















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