JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.05.22
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
そして「日比谷花壇大船フラワーセンター」を後にし、帰路のトンネルを出た直後の
右側にあった「龍寶寺」に立ち寄った。
前回訪ねたのは、昨年6月9日で約1年ぶり。
鎌倉市植木129。



「龍宝寺
●宗派   曹洞宗
●山号寺号 陽谷山(ようこくざん)龍宝寺
●建立   16世紀中頃
●開山   泰絮宗栄(たいじょそうえい)
●開基   北条綱成(ほうじょうつなしげ)
玉縄三代城主の北条綱成(ほうじょうつなしげ)が建立した瑞光院(ずいこういん)とも
いわれる香華院(こうげいん)がこの寺のはじまりといわれ、玉縄北条氏の菩提寺として
栄えました。
本堂には、釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩がまつられており、玉縄歴代城主である北条綱成、
北条氏繁、北条氏勝の位牌や源実朝の位牌も安置されています。また、境内には「正徳の治」を
行なったことで知られる朱子学者の「新井白石の牌」があります。
山門を入ったすぐ右には、玉縄ふるさと館があり、その先には、もと関谷にあった江戸時代中期の
民家である国指定重要文化財の旧石井家住宅があります。」



「陽谷山 龍宝寺 案内」石碑。
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏
開山 泰絮宗栄大和尚
開基 玉縄城主(北条綱成、氏勝)
本堂 木造銅葺重層入母屋造 (昭和三十五年建立) 設計 大岡 実
山門 江戸時代元禄年間造
鐘楼堂 設計 大岡 実
面山瑞方禅師の銘文記す
一、玉縄北条氏の供養塔
一、新井白石公の碑
一、金比羅宮
一、子育地蔵尊堂
一、弁天堂
一、道祖神
一、玉縄ふるさと館
一、旧石井家住宅(国重要文化財)
  歴史民俗資料館(鎌倉市指定)



「山門」の扁額は「陽谷山」。



寺号標「曹洞宗 陽谷山 龍寶寺」。



「三界萬霊寺」碑。



「禁葷酒(きんくんしゅ)」碑。
「酒の匂いをさせて山門を潜るべからず」という意味。

ニンニク・ネギ・ニラ・ラッキョウ・ノビルなど、においが強くくさい野菜、これらの
五つの野菜を五葷と言うのだそうです。
五葷は、精力がつき過ぎて人間の心を乱すところから、修行の妨げになると
考えられ禁止されたようです。
「禁葷酒入山門」(この場合、普通は、「くん酒 山門に入るべからず」と漢語では読む。



石畳の参道を進む。



右手にあったのが「​ 玉縄歴史館 ​」👈リンク。
ここは、後日ゆっくり訪ねたのであった。



その先、右手にあったのが 「子育地蔵堂」。



「子育地蔵尊」。



團野功雄の歌碑。
「いぞそらは 吾が身散るとも 我が心 堅く護らん 皇孫の國  功雄」。
裏面には「神風院殿至誠明道大居士 神風特別攻撃隊至誠隊隊長 従七位功三級勲五等海軍少佐
團野功雄 支 昭和十九年十月二十九日大東亞戦争比島沖航空戦ニ於テ 第ニ神風特別攻撃隊隊長
トシテ勇戦名譽ノ戦死ス 行年二十四歳」とあるそうだ。辞世の句だと。







左手には石碑群があった。



2基の庚申塔と馬頭観音と銘がある石塔が立っていた。



「道祖神碑」。



「力石」であろうか。



「文字庚申塔碑」(左)




花のピークは終わっていた。















参道の奥の小さな社は「福徳稲荷堂」。



そして正面の石段上に「本堂」。



鹿の姿がある石灯籠。



「回向柱」。



「本堂」



「本堂」の扁額「龍寶寺」。



内部から住職の読経の声が聞こえてきていた。



法要が行われていたが3名のみが着席。これもコロナ対策であろう。
家族でのご先祖への供養もコロナ禍でままならないのである。



「本堂」横にあったのが 「玉縄北条氏供養塔」。



「玉縄北条氏供養塔
永正九年(一五一二)伊勢宗瑞(通称北条早雲)が玉縄城を築城し、小田原城の支城として
関東進出の重要な役目を果たしてきました。
戦乱の渦中に、その名を轟かせた北条綱成、氏繁、氏勝は玉縄城主としてよくこの地を治め、
外に向かっては勇猛果敢に戦いました。
この供養塔は、龍賓寺住職四世良順大和尚が建てたものです。(推定元和年間~寛永五年頃)
元は、現在の栄光学園の敷地内にありましたが、造成工事のため龍賓寺墓地裏の尾根上に
移設しました。
この度、玉縄城築城五〇〇年を記念して参詣し易いこの地に再度移設しました。
なお、この供養塔は旧地に建っていた頃、いっも塔が倒れていて誰かが直しておくとすぐに
また倒れているので土地の人は「ぶっけり仏」と呼んでいたとのことです。」



「本堂」横にも「火灯窓」が。



「本堂」の裏にも渡り廊下で繋がれている建物が。



裏山への石段もあり、山頂には三代・北条綱成、氏繁、氏勝の墓所もあると知ったので
この墓所も訪ねた。



龍宝寺裏山には、龍宝寺四世の良順和尚によって、元和年間から寛永5年頃(1615年から
1628年)に建てられた玉縄城主:北条綱成、氏繁、氏勝の墓といわれる石塔が並んでいた。



中央に北条綱成:瑞光院殿實州宗心大居士
右に北条氏繁:龍寶寺殿応大栄公大居士
左に北条氏勝:上嶽寺殿角翁良牛大居士  



裏山の墓地から戻り、本堂を振り返る。



「寺務所」であろうか?



参道の裏の細道の奥には「日本ミツバチ」の巣箱があったが、蜂の出入りは全く無かった。



芍薬畑の隅には花菖蒲が咲いていた。



純白の花菖蒲。



そして竹林の先にあった「鐘楼」。



欅(けやき) 一本造」と。



鐘をズームで。



反対側から。



竹林の下には「旧石井家住宅」の姿が。



そして参道を戻り「玉縄幼稚園」手前の細道を右に入るとあったのが
「新井白石之碑」。
「新井白石」の知行一千石のうち二百石分が「龍寶寺」の門前にあったことから、
「新井白石」と「龍寶寺」僧との間に親交が生じ、享保11年(1726年)にこの石碑が
建てられたと。



「新井白石之碑」。



碑文は室鳩巣(むろきゅうそう・室直清)の撰文といわれるが、風化によって全く読めない。



「新井白石之碑」の横にあった「金比羅宮」。



正面から。



「内陣」。



「金比羅宮」の脇の細い坂道を上って行く。
右手に石仏、石塔、石碑が並んでいた。



「越元童子」、「元禄十一 戊寅十一月十六日 」の文字が。



様々な石碑が並ぶ。



五輪塔と宝篋印塔。



「大絶餓鬼会為當山門前捕虜収容所病疫者諸精霊菩提供養塔 當山」とある。
戦時中は山門前に捕虜収容所があり、そこで病死した捕虜の菩提をここ
龍宝寺が弔って来ているのだと。



そしてこの後に訪ねた「 旧石井家住宅(重文) 。元禄期に建てられた農家(名主)。



参道から。



「センダン」の木で、別名は”金鈴子(きんれいし)や“千珠(せんだま)"と呼ばれています。



「センダン」と書かれた札。



「栴檀は双葉より芳し」(センダンは苗の段階から良い香りがするように、才覚のある人物は
幼少時からそれを発揮するという意味)で知られるが、本来これは熱帯アジア産のビャクダン
(白檀)を語ったもの。センダンの枝葉や材には香りがないのだと。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 15:26:39
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