JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.07.16
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』 👈リンク

「薬王寺」を後にし、再びJR横須賀線の「扇ヶ谷架道橋」を潜る。



一株で様々な色合いのアジサイが道の先に。



「海蔵寺」方面に歩を進める。



「海蔵寺」は9:30からの開門の為、予定通り左に折れ源氏山に向かう。



「化粧坂切通」まで300m、「源氏山公園」まで400mの案内。




鎌倉扇ガ谷に景清窟を見る: 風に吹かれて鎌倉見聞_2021

上には、「水鑑景清大居士」と刻まれた碑。
源頼朝の暗殺を企てた平氏の侍大将平景清(本当の姓は藤原)が幽閉されていた牢の跡である
景清窟があった所だと。
勇猛な武将だったという景清には、屋島の戦いで三保谷十郎の兜の錣(しころ)を引きちぎった
という逸話が残されている。
錣(しころ)と呼ばれるものは、兜の下部に布や威(おどし)などを垂らし後頭部から首を
保護する覆いのことであると。
壇ノ浦での敗戦後には、自分を匿ってくれた叔父の大日房能忍を殺害したことから「悪七兵衛」
と呼ばれるようになった。
1195年(建久6年)、源頼朝が東大寺の大仏殿の落慶供養に参列するため上洛すると、
景清は頼朝を暗殺しようとして、東大寺の転害門に隠れていたという伝説が残されている。
石清水八幡宮に参拝した頼朝を狙ったとも伝えられていると。



下の碑は、「向陽庵大悲堂碑記」。




平安末期における治承・寿永の乱(源平合戦)において活躍した藤原景清の娘である人丸姫は、
捕えられた父に会うため京都より鎌倉に下って来たが会うことはできず、景清の死後に尼となり、
景清が幽閉されていた石牢の上に、景清の守本尊(十一面観音像、現在は海藏寺にあると)を
祀った。
それが向陽庵だそうで、その数年後に亡くなった人丸姫は、扇ヶ谷近辺に葬られ、そこは
人丸塚と呼ばれていたのだと。現在は安養院に預けられているのだと。



「銭洗弁財天」方面に進むも案内板が石碑の近くに。



アジサイを楽しみながら坂道を上って行った。









舗装された坂道はこの先で終わっていた。




そしてここから先が鎌倉と外界との主要な出入り口として、鎌倉七切通しの一つ
「化粧坂(けわいざか)切通し」。仮粧坂(けはいざか)とも表記すると。



鎌倉と外界との主要な出入り口として、鎌倉七切通しの一つとして知られている。
名の由来は、平家の武将の首を化粧して首実検したからであるとか、この辺に遊女が
住んでいたからと諸説ある。想像力を掻き立てられる名付けの坂なのである。



歴史を感じさせる足跡の凹みに足を入れながら進む。



「化粧坂切通し の見どころといえば、なんといってもこの急勾配。
切通しの中でも屈指の迫力ある勾配と足もとの凹凸があるのだった。



苔生した岩道を滑らないように一歩一歩進んで行ったのであった。
この日も「 化粧坂切通し 」を独り占め、すれ違う人も往復時いずれにもなく。



そして 「化粧坂切通し 」を5分ほどで上り切ると前方に平らな場所が見えて来た。



ここが「源氏山公園」。

緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある
化粧坂が、園内には頼朝像・広場などがあるのだった。
春には桜、秋には紅葉が楽しめる人気のスポット。
北鎌倉、大仏へぬけるハイキングコースがあり、近くには葛原岡神社、銭洗弁天、佐助稲荷が
あるのだ。







源氏山公園の樟(くすのき)。

源氏山公園のくすのき

そして「源頼朝像」。
源氏山は、英勝寺と寿福寺の裏にまたがる山で、後三年の役(1083~1087年)で八幡太郎
義家が奥羽(東北地方)に向かう際、この山上に白旗を立て戦勝祈願をしたという伝説から、
源氏山や白旗山と呼ばれるようになったといわれているが、寿福寺のあたりに源氏の邸が
あったからともいわれている。
現在は、サクラや紅葉が美しい自然公園として多くの人々に親しまれており、中央広場には
高さ2mほどある、1180(治承4)年ころの若い「源頼朝像」が立っていたのであった。



「源頼朝公銅像
この銅像は治承四年(一一八〇年)十月 源頼朝公が鎌倉入り
して以来八百年目に当たる年を記念し、よりよい鎌倉づくりに
市民が心を通い合わせることを誓い合った証しとして有志の方々
から寄せられた尊い浄財によって建立されたものです。
この像が中世日本の政治経済文化の中心地として栄えた鎌倉
の歴史と郷土鎌倉の象徴として永遠に守り継がれることを願う
ものです。
    昭和五十五年十月
                  源頼朝公銅像建立実行委員会」



「源頼朝公銅像」をズームで。



「源頼朝公銅像」の前の遊歩道の脇にはアジサイが咲き誇っていた。



「源頼朝公銅像」の横のベンチで暫しの休憩。
ここも独り占めの空間であった。



そして再び「化粧坂切通し」を下った。



下りの方が急坂を実感したのであった。
一歩一歩、足元を確かめながら。



「仮粧坂碑
氣生坂又ハ形勢坂ニ作ル 此名稱ハ 往時平家ノ大将ヲ討取リ 其首ヲ仮粧シテ實檢ニ
備ヘシニ縁リ起ルト言ヒ 又一説ニハ 古此坂ノ麓ニ遊里アリシニ縁リ此名ヲ負フト
相傳フルモ 東(吾妻)鑑ニハ其名見エズ 此坂ハ所謂(いわ ゆる)鎌倉七口ノ一ニシテ
鎌倉攻防ノ要路ニ當リ 元弘三年(皇紀一九九三)五月 新田義貞軍ノ鎌倉討入リ以来屡々
戦場トナレル所ナリ」

【「けわいざか」の漢字は、「氣生坂」又は「形勢坂」と 当てています。
この名前は、昔平家の大将を討取り、誰の首か確認しやすくするため、その首に化粧をした
ことによるとの説があります。また昔この 坂の麓(ふもと)に遊女のいる所があったので
その名があるとの伝えがありますが、吾妻鑑(あずまかがみ:鎌倉時代の歴史書)には
その名前は出てきません。この坂はいわゆる鎌倉七口(ななくち)のひとつ であり、
鎌倉を攻めるにも守るにも重要な地点でありました。皇紀1993年5月に新田義貞の軍が
鎌倉に攻め入って以来しばしば戦場 となった所です。】



「化粧坂切通し」入口そして「化粧坂」碑を振り返る。



そして「海蔵寺」への参道まで戻り、左折して「海蔵寺」への坂道を上って行った。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 15:59:55
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