JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.12.30
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カテゴリ: JINさんの農園
「浄真寺」を後にして、次の目的地の「豪徳寺」に向かう。
東急大井町線の「二子玉川」駅まで戻り、東急田園都市線で「三軒茶屋」まで行き
東急世田谷線を利用して「 宮の坂駅 」駅で下車。
「宮の坂駅」 横の踏切を渡って「 豪徳寺 」方向に進む。
東京都世田谷区宮坂1丁目24。



そして徒歩で5分ほどで「 豪徳寺 」の「 山門 」前に到着。



都史跡 井伊直弼墓」碑。
寛永10年(1633年)に、世田谷が彦根藩の所領地となり、文明12年(1480年)に建立されて
いた「弘徳院」を、彦根藩主井伊家は江戸菩提寺と定めました。
その後、万治2年(1659年)2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み、
豪徳寺と改称され、大名家墓所に相応しい伽藍を整え現在に至ります。

井伊直弼を始めとする彦根藩主や井伊家ゆかりの墓地があり、文化財が数多く所蔵。



明治17年(1884年)1月上棟の記録があり、関東大震災後、昭和初期に再建された。



「山門」の扁額には「碧雲關(へきうんかん)」と。
この扁額、室町時代にはこの豪徳寺のあたりに、世田谷城という城郭があり、それが青い雲の
ような建物と呼ばれたそうで、そこからこの名前になったという説があるようだ。



大谿山 豪徳寺(曹洞宗)
寛永10年(1633年)にここ世田谷が彦根藩 の所領地となり、既にそこにあった文明12年
(1480 年)に建立された「弘徳院」を、彦根藩主井伊家 は江戸菩提寺と定めた。その後、万治2年
(1659年)2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み豪徳寺と改称され、
大名家墓所に相応しい伽藍を整え現在に至る。
それは、江戸時代 の大名墓所の形態をよく保存し、江戸周辺では最大規模の国指定史跡と
なっている。そこには仏殿、灯篭、鐘楼は創建当時のもので、広大な敷地内に法堂、開祖堂、
書院、招福殿、三重の塔、地蔵堂、種月園(枯山水)や井伊家歴代の墓があって、世田谷を
代表する古刹でもある。
また、この寺には、2代藩主井伊直孝が鷹狩り の折、住職の愛猫「たま」の招きで、落雷を
逃れたという伝説があって、豪徳寺の「招き猫 」は幸運を招くとされ、家内安全、商売繁盛、
心願成就を願う招福殿への参詣者が多い。
なお、豪徳寺の境内(1万5千坪、約5万m2)には四季折々の草木があり、梅・桜・牡丹・つつじ・
アジサイや晩秋の紅葉などが楽しめる。そして石門から山門に至る参道の松並木、さらに野鳥が
飛び交う奥深い森林もまた見所である。」


かつて東京には滋賀県の飛び地があったのだと。
1633年(寛永10年)に、江戸屋敷賄料として井伊家の「彦根藩世田谷領」となった
現在の東京都世田谷区の一部。
1871年(明治4年)の廃藩置県の時に「彦根県」となり、その後「長浜県」に統合された後、
1872年(明治5年)に、東京府と神奈川県に移管され、その後、神奈川県に移管された土地も
東京になることになり、その飛び地は、完全に消滅しましたのだが、一時的にでも東京に
滋賀の飛び地があったということに驚きなのです。



「山門」を潜って参道を進むと、正面に見えて来たのが「仏殿」。



「仏殿」前にあった「 豪徳寺境内案内図 」。



「境内配置図」をズームして。
豪徳寺の広大な境内(1万5千坪、約5万m2)には多くの建築物や構築物があります。それらを、
ぜひ鑑賞願います。参考までにその配置図と主なものについて概要を記します。



1⃣山門    明治17年( 1884年) 1月上棟の記録があり、関東大震災後、昭和初期に再建
       された。掲げられた額には「碧雲関」(へきうんかん)とある。
2⃣三重塔   平成18年(2006年) 5月落慶、高さ22.5米で仏舎利、釈迦如来像、迦葉尊者像、
       阿難尊者像、招福猫児観音像が安置され、塔に施された十二支の彫り物に
       「招き猫」が飾られている。
3⃣仏殿    仏殿の正面に篆額「弍世佛」があり、それは現在・過去・未来の三世を意味している。
       それを表す釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、弥勒菩薩坐像の外、多くの諸怫が安置
       されている。
4⃣招福殿   井伊家2代藩主直孝が鷹狩の折、住職の愛猫「たま」の招きで落雷の難を逃れた
「招き猫」  という伝説があり、幸運を招く「招き猫」の元祖とされる。家内安全、商売繁盛、
       心願成就を願う参詣者が絶えない。堂内には招福観音菩薩立像が安置されている。
5⃣井伊家墓所 井伊家墓所募所には幕末の大老13代直弼募、豪徳寺中興開基2代直孝の墓をはじめ、
       歴代藩主や正室らの墓が整然と並んでいる。平成20年(2008年)に国史跡に
       指定された。
6⃣ 法堂     昭和42年(1967年)に落慶、法堂には聖観世音菩薩立像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩
                    座像、地蔵菩薩立像が安置され、さらに寺宝の「井伊直弼肖像画」(井伊直安作)が
                    飾られている。
7⃣開祖堂    平成11年(1999年) 11月落慶、門菴宗関椅像(当寺開山)、天極秀道椅像(当寺
                    中興開山四世)、承陽大師(道元)椅像、常済大師(瑩山)椅像、聖徳太子椅像、
                    そして歴代住職、藩主の位牌や檀家の位牌が安置されている。
8⃣赤門    通称「赤門」と呼ばれ、明治18年(1885年)井伊家より江戸屋敷の新中雀門が
       寄進され、現在の東門の場所に建てられた後、現在の場所に移築された。
9⃣梵鐘    鐘は延宝7年(1679年)藤原正次(釜屋六右衛門)により鋳造され、区内最古のもので、
       美術的にも高い評価がある。平成12年(2000年)に世田谷区指定有形文化財となる。
⑩地蔵堂    令和2年( 2020年) 9月落慶、地蔵菩薩半跏像が安置されている。
⑪種月園・   枯れ山水の庭園で、その中に井伊直弼遺愛の茶室「無二庵」がある。(非公開)
 茶室
□境内の石碑  境内や墓所に多くの顕彰碑がある。それは「忠正公神道碑」、「遠城謙道師遺跡碑」、
                   「鶴日下部先生碑銘」、「高橋瑞子彰功之碑」、「首塚碑」、「当山旧開基碑銘」
                    などの外、山門入口の右に「結界石」がある。


大谿山豪徳寺(曹洞宗)
豪徳寺は、世田谷城主吉良政忠が、文明十二年(一四八〇)に亡くなった伯母の菩提のために
建立したと伝える弘徳院を前身とする。天正十二年(一五八四)中興開山門菴宗関(高輪泉岳寺の
開山)の時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。 寛永十年(一六三三)彦根藩世田谷領の成立後、
井伊家の菩提寺に取り立てられ、藩主直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を
井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。仏殿とその三世仏像、達磨・大権修理菩提像、
石灯籠ニ基、梵鐘な井伊家ゆかりの文化財のほか、同寺の草創を物語る同春院(吉良政忠)と高徳院
の宝篋印塔も残されている。
平成ニ十年三月境内西側にある井伊家代々の墓所が国史跡に指定された。ここには二代藩主井
伊直孝を初め、桜田門外の変で落命した直弼など、江戸で亡くなった歴代藩主とその家族の墓が
ある。ほかにも、直弼の死後、墓守として一生を終えた遠城謙道や桜田殉難八士之碑等の石碑もある。

    令和ニ年三月
                             世田谷区教育委員会」
「せたがや百景 ㉑招き猫の豪徳寺」案内板がその下に。



紅葉の参道を歩く。



参道左側の紅葉。



地蔵堂 」。
令和2年(2020年) 9月落慶、地蔵菩薩半跏像が安置されている。



そしてその先に「 鐘楼 」。
鐘は延宝7年(1679年)藤原正次(釜屋六右衛門)により鋳造され、区内最古のもので、美術的にも




「山門」を振り返る。



紅葉のモミジの先にあったのが「 三重塔 」。   
平成18年(2006年) 5月落慶、高さ22.5米で仏舎利、釈迦如来像、迦葉尊者像、阿難尊者像、
招福猫児観音像が安置され、塔に施された十二支の彫り物に「招き猫」が飾られている。



「三重塔」を別角度から。



常香炉 」、「 仏殿 」を正面から。



再び「 三重塔 」。
2006年に落慶した木造の三重塔。高さ22.5mの立派な建築。



正面から。



ズームして。



忠正公神道碑 」。
碑主の忠正公は井伊直弼の次男井伊忠正(直憲)。近江国彦根藩最後(第14代)の藩主で
あるようだ。
碑は、逝去の翌年明治38年(1905)12月に建てられ、井伊直安篆額、谷鐵臣謹撰、
日下部東作書、井亀泉刻字とある。 力強い楷書である。



角度を変えて。



正面に巨大な「 香炉 」。真っ黒で大きな「香炉」。とても存在感のある「香炉」。
足元をよく見ると「香炉」を3体の鬼?が持ち上げて支えていた。
線香の煙をあびることのできる「香閣(こうかく)」とも呼ばれるものであろう。



彦根藩の井伊家の菩提寺でもあるので、寺紋も橘紋の中でも「彦根橘」と呼ばれるもの。



狛犬が黄金の手毬に手をかけていた。
大きな香炉に献香した後、香炉やこの獅子が手を置いている手毬を撫でるとご利益がある
とのことで勿論私も。



角度を変えて。



狛犬を正面から。
球には「星七宝(ほししっぽう)」の模様が。「七宝繋ぎ」の部品のつなぎ目に、小さい円を
重ねた連続模様。「星」の名称は、日本では古来から星を丸で表すことによるとのこと。



「焼香偈
戒香定香解脱香 光明雲臺遍法界 供養十方無量佛 偏満普薫証菩提
豪徳鐵禪袖 維持平成元年十一月三日」
法要などで、焼香を行う場合などに唱える偈文(げもん)であると。
偈文とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。



豪徳寺仏殿
附(つけたり) 棟札一枚 石灯篭ニ基
指定年月日  平成ニ年ニ月十五日
規模     桁行(間ロ)五間(実長十七・七六メートル)
       梁行(奥行)六間(実長十五・八ニメートル)
豪徳寺仏殿は、寛文から延宝年間(一六六一~一六八〇)にかけて行われた伽藍整備事業の中心的
建造物である。棟札によると延宝四年(一六七六)掃雲院(直孝公長女)の弟で藩主直澄が
早世したのち仏殿の建設に着手し、翌五年には完成をみた。造営には豪徳寺第四世・天極秀道、
エ匠星野市左物門尉積則らが当たった。
仏殿には江戸時代期から日本にもたらされた黄檗宗の影響がみられる。禅宗寺院の仏殿は一般的に
正画と側面の柱間数を同じとするが、この仏殿では柱間数が異なっている。
吹き放ちの裳階(もこし、下屋(げや))や柱下の方形礎盤などに黄檗風の意匠がとりいれられ、
特に紙状の絵様肘木(えようひじき)は中国や朝鮮の建築には良く使われるものであり、日本では
あまり一般的でない。区内に現存する最も古い建造物であり、建築史学上、価値の高いものである
ことから、区有形文化財に指定された。」。



豪徳寺仏殿像 五軀
木造大権修利菩薩倚像  総高 百一   センチメートル
木造弥勒菩薩坐像    像高 八十   センチメートル
木造釈迦如来坐像    像高 七十二  センチメートル
木造阿弥陀如来坐像   像高 七十二  センチメートル
木造達磨大師坐像    像高 六十四・八センチメートル
本像五軀は、仏殿に右記の順に安置されている。胎内銘札によると、延宝五年(一六七七)、
井伊直孝の娘掃雲院が、父の菩提を弔うために「洛陽仏工祥雲」に、五軀一具として造らせた
ものであることがわかる。
祥雲は黄檗宗の鉄眼(てつげん)の弟子で、のちに本所五百羅漢寺(現、目黒区)の五百羅漢像を
彫造した松雲元慶(一六四八~一七一〇)のことである。
当寺仏殿建立を初め豪徳寺の復興に努めていた掃雲院は、鉄眼ら黄檗僧に深く帰依し、その影響を
受けていた。このような関係から仏殿像造立に当たって、祥雲は推挙されたものと考えられる。
本像は、江戸時代の代表的な仏師祥雲の早期の作例として、また黄檗風仏像彫刻の数少ない遺例
として貴重である。」



「鐘楼」を見上げる。



正面から。



「梵鐘」。
「制作者の太田近江大掾藤原正次(おおたおうみだいじょうふじわらのまさつぐ)は 江戸時代に
幕府御用を務めた鋳物師の名跡(みょうせき)。出身は近江国(おうみのくに)栗太郡辻村
(現・滋賀県栗東市辻)。代々「太田六右衛門」と称し、江戸深川(ふかがわ:東京都江東区)で
梵鐘や天水桶、鍋、釜などを鋳造(ちゅうぞう)した。江戸町民からは「釜屋六右衛門」や
「釜六」の俗称(ぞくしょう)で知られ、江戸の長者番付にも名を連ねた。
「太田近江大掾」の称号を受領し、享保2(1717)年からは将軍家の「御成(おなり)先御用釜師」を
勤めた。
代表作に、台東区浅草寺の梵鐘や、墨田区回向院(えこういん:浄土宗の寺院)の銅造
「阿弥陀如来坐像」がある。」とネットから。



世田谷区指定有形文化財(工芸品) 豪徳寺の梵鐘
所在地   世田谷区豪徳寺二丁目二十四番七号
所有者   世田谷区豪徳寺二丁目二十四番七号
指定    平成十ニ年十一月二十八日
制作年代  延宝七年(一六七丸)
作者    近江大藤原正次
材質・構造 鋼鋳造
総高    一四七・五センチ
本梵鐘は、延宝七(一六七九)年に完成の後、今日まで移動なく当寺に伝えられてきた。
形姿は、比較的細身で均整のとれた優美な姿を呈し、吊手の竜頭は力強くメリハリの
きいた雄渾(ゆうこん)な造形で、細部の表現も精巧な出来栄えである。撞座(つきざ)の
意匠(いしょう)も独創的であり、工芸的に優れた完成度の高い梵鐘といえる。
制作者の藤原正次(ふじわらのまさつぐ)は、別に釜屋六右衛門とも名乗り、当時江戸で名の
あった鋳物師である。また世田谷代官大場市之丞吉寛が幹事となっている。
本梵鐘は、この時期の梵鐘の一典型として、さらには著名な鋳物師の力量を窺う作品として、
美術工芸的に貴重である。また、区内に伝わる梵鐘としては現存最古であり、世田谷に縁ある
人物がその制作にかかわるなど、近世世田谷の歴史を知るうえでも貴重な遺品である。」



「鐘楼」脇のモミジ葉が真っ赤に輝く。



別の角度から。



地蔵堂 」に近づいて。



さらに。



扁額は青い文字で「地蔵堂」。



地蔵堂には二体の立派な「地蔵菩薩像」が納められており、奥の大きな仏像の上には
きらびやかな天蓋が飾られていた。
「地蔵菩薩像」は左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ。



そして「仏殿」に近づいて。



扁額「弐世佛」。



内陣。


ここにも境内と同様な香炉が置かれていた。



「豪徳寺仏殿像」をネットから。



小さな社。



その中にも石仏・三面六臂像が。



再び「三重塔」を見上げて。



「絵馬掛け」



干支の動物と一緒に必ず招き猫が描かれているようであった。



「招福観世音菩薩絵馬」には観音様と一緒に招き猫が描かれていた。



平成18年竣工の「三重塔」



一層目の四面には、干支(十二支)の彫刻が順番に施されているのだが、
なんとネズミの部分に猫が彫られているのであった。
しかも、子(ねずみ)と一緒。


設定を変えてズームして。
子(ねずみ)は、天敵であるはずの猫に小判を口に咥えて渡そうとしているようにも
見えるのであった。



こちらはイノシシ。



至る所に招猫の姿が。




                              ・・・もどる・・・



                  ・・・つづく・・・





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Last updated  2022.12.30 17:10:23
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