JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.12.01
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カテゴリ: JINさんの農園
普門寺を後にして、東海道線とは反対方向に歩くと直ぐ左側にあったのが 現在の
「藤森稲荷」。
藤沢市鵠沼の住宅地の中に静かに佇む小さな稲荷社で、地元の「屋敷稲荷」
「邸内社(ていないしゃ)」として祀られてきたものと考えられます。
住宅地の開発以前から祀られていた古いお社が、現在も地域の人々に守られている形。



[藤森稲荷
この神社は鵠沼最古と云われる稲荷社です。由来は、「元弘参年(1333)新田義貞が鎌倉の
北条高時を討つ途中、この森に馬を止め近くの湧水を飲んだことからその武名を慕って本社を
建立した」と云われています。
かつては東海道線路の南側にこんもりとした木々に抱まれて鎖座していました。平成23年頃に、
現在の地に移転しています。明治12年に書かれた皇国地誌には
「東西十ニ間壱分(22m)南北五間(9m)面積六十壱坪 本村ノ農 関根伝左衛門所有ノ地ナリ」と
記されています。関根伝左衛門は、名主を務めた鵠沼村の旧家です。また「今モ小渠社地ラ
囲繞シテ湧泉僅ニ流ル 其旧泉ナルヤ否確ナラス」とあり、旧社地には社殿の周りにわずかだ
が湧水があったことを示しています。


かつての藤森稲荷の様子を​ 転載


■石造りの鳥居(明神鳥居)。
正面には、風化の進んだ石の鳥居が見えた。2本の柱の上に乗った横柱の両端が上に向かって
反っているのが特徴の「 明神鳥居 」形式。
→ このタイプは江戸後期〜明治期の屋敷稲荷に多い形式。



正面から。



移動して。
現在は旧家の広い敷地内にあり、フェンスに鍵がかかり中には入れなかった。



その先、道路の右側にあったのが 藤沢市立鵠沼小学校



その先を左折すると、左にあったのが、普門寺もちの墓地。



相模国準四国八十八箇所を創設した 浅場太郎右衛門墓



浅場太郎右衛門墓
普門寺の北側、少し離れたところに普門寺持ちの墓地があります。堀川大師堂の旧浅場家墓所
にあった墓碑は、平成29年にこの地に改葬され、現在は新し墓石が建てられ浅場太郎右衛門と
その父の功績を称えています。



堀川の浅場太郎右衛門
相模国準四国八十八箇所を創設した浅場太郎右衛門は、鵠沼村堀川の豪農てす。太郎右衛門の
名は代々の当主が継承し、下総国相馬郡て四国八十八箇所を見て、この地にも創設を願った人物
(父)と、相模国準四国八十八箇所を創設した人物(息子)ともに、太郎右衛門を名乗っていました。
高野山慈眼院登山帳には、寛政十一年(1799)、十ニ年(1800)、享和三年(1803 )と浅場太郎
右衛門が頻繁に参詣していた記録が残されています。いずれも、鵠沼村の人々と連れ立っての
参詣と見られ、信仰の熱心さが伺えます。
なお、鵠沼村には堀川の浅場太郎右衛門家の他に、堀川の浅場太郎左衛門(引地川の堤防建
設・復旧で知られる)、原の浅場太郎右衛門(浅場家の総本家と云われる)など、複数の浅場家が
存在しました。
           参考:鵠沼を巡る千一話「第0089話 旧家4淺場家」



浅場太郎右衛門墓 に近づいて。



浅場太郎右衛門之記
鵠沼堀川の浅場一(浅場家十一代)の本家にあたる浅場太郎右衛門は、文化二年(一八〇五)、
相模にも準四国八十八ヶ所霊場を創設したいと発願しました。父の死後文化三年(一八〇六)、
息子の太郎右衛門がその思いをつぎ、普門寺の住職善応密師に相談しました。真言宗の宗派を
越えて、現在の藤沢市・鎌倉市・横浜市泉区、茅ヶ崎市、寒川町の寺社や村々に働きかけました。
文化十四年(一八一七)、善応の弟子である鵠沼大東の観音堂の庵主浄心に、四国八十八ヶ所霊場の
砂と宝印を集めさせ、寺院と村々に大師像と御堂を建てました。その後、百七十年にわたり、
相模準四国八十八ヶ所霊場は多くの弘法大師篤信者により、巡礼され、親しまれてきました。
ここに浅場一家十二台当主、浅場崇子、浅場太郎右衛門父子の、この霊場造立の篤信に敬意を表し
浅場太郎右衛門家の墓標をここに普請す仏霊の霊地申す浅場家墓標をここ普門寺仏堂墓地に遷座す。
こい願わくは、この篤信の浄行により、
国土安穏、現世安穏、無病無難、諸災消除、子孫永久、富貴繁昌、諸願成就、浅場家、弘法大師の
擁護にあづからんことを。
密巖山遍照院院普門寺 第五十六世 川島弘之
           師弟    川島弘耀
           浅場家十二代 浅場崇子
平成二十九年秋彼岸」



そしてこの地域の、同じく旧家の宮崎家の墓もあった。
その奥には、歴代住職の墓碑も確認できた。



浅場太郎右衛門墓 を後にして、再び普門寺横の道を引き返す。



先程訪ねた、普門寺の横を北に進む。



東海道線の線路踏切を渡る。
藤沢駅方面を。



辻堂駅方面を。



「鵠沼道踏切
52K412M
藤沢市鵠沼3212」と。



そして線路を渡り、次に訪ねたのが 法照寺
住所 藤沢市鵠沼神明2丁目2-24


[法照寺  準四48番震場
善光山天龍院法照寺 ぜんこうざんてんりゅういんほうしょうじ
浄土宗
本尊 阿弥陀如来
浄土宗総本山知恩院の直末として直為上人を開山に享保年間(1716 ~1736 )頃に
創建されました。
一説には寬文元年(1661)龍保上人の創建ともいわれています。
法照寺の辺りの地名"宿庭"は宿場て働く人々ド住まいにしていた地域という説があります。
法照寺の由緒には、「ある日、この宿庭に宿を求めた旅の僧に地域の人たちはぜひこの地に
寺院を建立して欲しいとの請願をしました。旅をする人々の安全と、自らが住むこの地を
明るく安らかなところにしたいと。この請願を受け知恩院から本尊阿弥陀如来をお迎えして
法照寺が創建された」と伝えられています。
本尊とは別に、秘仏十一面観音は安産にご利益があると云われており、毎年8月9日には
四万六千日にて十一面観音の御開帳があります。
                      (参考:浄土家寺院紹介Navi 法照寺)

境内には、 堂宇が2棟ありいずれも弘法大師像が納められています。本堂に近いお堂が
準四国八十八箇所の弘法大師像で、文政三年(1820)辰年六月吉日の日付 と、講中と見られる
名前が彫られています。鵠沼村以外の人と見られる名が複数あることも、藤沢宿と縁の濃い
宿庭ならではでしよう。お堂の前の標柱は天保五年(1834)の銘があり、弘法大師像に
世話人として名のある関根重三郎の寄進物と見られます。
御詠歌:錦して みのりの庭を 照らすらん にしのはやしの 月のかつらは
もう一つのお堂(本堂から遠い方)の弘法大師像の詳細は不明てす。傍らには置かれた杉板には、
ご詠歌とともに、昭和51年の日付と宿庭町内の方々の名前書かれています.建築総費用とある
ことから、ニつの堂宇建築時のものとみられます。

御詠歌の意味
【錦のように色あざやかに彩られて、仏の教えの実りに満ちた庭を照らしているのだろう。
西方浄土の林にかかる月と、その月にそびえる桂の木は――。】
つまり
【信仰と修行(おつとめ)によって得られる仏の国は、錦のように華やかで、月の光が仏の実りの
庭を穏やかに照らすような、豊かで澄んだ世界である】と。



境内の参道の左に緑と赤の屋根を持つ堂宇が2棟。

法照寺 クチコミ・アクセス・周辺情報|藤沢・江ノ島 - フォートラベル

本堂に近い青い屋根の堂宇前から振り返って。



準四国八十八箇所霊場 48番。



弘法大師像
文政三年(1820)辰年六月吉日の日付の銘 があると。



もう一つの赤い屋根の堂宇。



こちらにも弘法大師像が詳細は不明と。



歴代住職の墓石?が並ぶ。



近づいて。



移動して。



多くの石仏が並ぶ。



入口の神社。



朱の社。



江の島弁財天道標。
ニ切衆生 」の文字が。 



<< 江の島弁財天道標 >>
境内人り口には、江の島弁財天道標があります。この道標は、元禄ニ年(1689 )に杉山検校が、
江島神社に詣する人々が道に迷うことのないように、江の島道に48基建てたもののひとつです。
正面に弁才天の種子と「ゑ乃し満道」、右面に「一切衆生」左面に「ニ世安楽」と彫られている。
誰かのいたずらか、 現在はニ切衆生となっています。 この道標は中学通り(現湘南高校通リ)
の工事中に掘り出されたものが運ばれたそうてす。江戸時代どこにあったかは、現在も不明てす。



市指定文化財(建造物) 昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定
江の島弁財天道標
総高一〇三センチメートル 各面幅二十三センチメートル 花崗岩製
鳥居の脇にある石柱は、江の島への道筋に建てられた道標の一つです。
この道標は、近所の方のお話によると、昭和ニ十二~二十三年(一九四七~四八)頃、現在地に
移設されたもので、少なくとも昭和初期にはここから北東約六十メートル付近(今の鵠沼神明一ー五、
鳥居に向かって右方向に見えるT字路の日本精工内)にあったとのことです。江の島への参道は、
市内西富の遊行寺前から片瀬・江の島に通じる江の島道が本道てすが、他にもルートの違う脇道が
あったと考えられています。建立当初の位置は明確ではありませんが、この道標もその脇道筋に
あったようです。
江の島道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術を、江の島で考案したという杉山検校(一六一〇 ?ー
九四)が寄進したと伝えられています。元は四十八基あったといわれていますが、現在市内を
中心に残欠を含め同型同類の道標十四基の存在が知られています。いすれも頂部のとがった
角柱型で、地上の高さ一〇〇ー一三〇センチメートル程度、幅ニ十ニーニ十五センチメートル
程度、正面に弁財天を表す梵字「ソ」の下に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に
「ニ世安楽」と彫られています。江の島井財天への道をたどるすべての人が現世・来世での
安穏・極楽を得られるように、との願いが込められています。
ところで、この道標の右側面には、「二切衆生」とあります。「二切」という言葉はなく文意も
通じません。書出の高さや書体の相違から当初の「一」を「二」としたものと思われますが、
彫痕は深く古いものです。いつ誰が何のためにしたのかは不明とせざるを得ません。

平成ニ十一年(二〇〇九)三月

                             藤沢市教育委員会」  




本堂の前には小僧の像があった。



そして境内にあった「宿庭町内会館」をお借りして、個人で準備した昼食をとる。
会館内にあった 木製の作り物。
宿庭町の人形山車・ 源義経 」の内部であろうか。



「烏森神社」の愛称で親しまれる鵠沼地区の氏神様、皇大神宮(鵠沼神明2の11の5)で
毎年8月17日に例大祭が催行されるのだ。
この日に、藤沢市重要無形民俗文化財指定の 人形山車の参進 と湯華神楽(湯立神楽)が
奉納されるのである。
宿庭町の人形山車は 源義経
2023年に訪ねた時の祭りの写真。





「鵠沼皇大神宮
人形山車連合保存会

宿庭町人形山車
台車部軸受け修理

東京浅草
宮本卯之助商店
平成三十年六月吉日」と。



平成23年 皇大神宮 例大祭 👈️リンク  の写真。





                                 ・・・もどる・・・



                ・・・つづく・・・





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Last updated  2025.12.01 06:55:37
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