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「頂戴!」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今日は風が強かったが、私にとっては過ごし易い気温だった。朝食の準備の為、ステンレス製の包丁を手に取り、まずバケットを1.5センチ幅に7切れを切り、オーブンで焼くためトレイに並べて行った。包丁の切れ味が悪い為、ステンレス包丁研ぎ器で研ごうと思った。しかし、それには構わず大根を5ミリ幅に切り、丸い大根を半月に切り鍋に放り込んだ。次に人参を切ろうとしてまな板の上に置いてから、先に長いまま半月に切った方が効率的かもと包丁を人参の腹に立てた。丸い人参と切れ難い包丁のため、思いっきり力を入れ切ろうとしたまではよかった。しかし、丸い人参がくるっと回転をして、包丁の腹は容赦なく、私の左手薬指の第一関節と爪の間に落ちた。「痛い!」と思い、この何とも言えない痛い感触は、何十年も忘れていた痛みであった。右手で左手薬指の止血をするように、しっかりと摘まんだ。力を入れ過ぎ薬指の先は白っぽくなり、皮膚が切れているのが見て取れた。「な~んだ、血が出ないじゃないか」と思い右手に力を抜いた。その瞬間、一気に血が出て来た。あふれ出ると言う感じではなかった。だが、慌ててティッシュで指を覆い、止血をした。体の何処を切っても痛いが、力を入れて人参を縦に切ろうとしたので、途中で寸止め出来るタイミングではなく、包丁の腹が容赦なく指を叩く形になった。もし包丁を研いでいれば、人参は縦方向に切れたと思う。包丁の切れ味が悪かったため、人参に刺さらず滑ってしまったと、痛みが治まるまでの暫くの間考えていた。塗り薬が見つからないので口内炎の薬を塗った。薬は傷口に沁みるようだが、バンドエイドで薬指を巻き付けた。まだ血が滲んでいたが、思い直して人参を5ミリ間隔で切り、半月に切った。セロリも切り、ホウレンソウも切って鍋に放り込み、焼き豆腐や2センチ角のあげ豆腐も放り込み、またごった煮を作った。圧力鍋なので、鍋の底が分厚く、沸騰し出すと一気に出来上がった。妻の田舎の麹味噌を、「あみじゃくし」で解いた。沸騰すると味が落ちると妻から教わっていたので火力を弱くし解いて行った。ホープには、別にフライパンを使い、豚ばら肉を炒めて、少し冷ましてから、噛み砕いてホープの器に入れた。更に調理バサミでその肉を切って行った。もうその頃には、ホープは尻尾を振り、顔を上げて私を見ている。ビオフェルミンを一錠噛み砕いて、その豚バラ肉の中に入れ掻き混ぜる。更に13歳以上が食べるドライドッグフードを器に入れ、満遍なく掻き混ぜたのちホープの食べる所へ置く。昔なら、「お座り、待て、頂戴頂戴、よし!」と食べるのだが、事故以来、お座りも中々上手く出来ない。頂戴頂戴!の動作も出来るのだが、左右後足の開き具合が違う為、直ぐにバランスを崩して倒れてしまう。余りにも可哀そうなので、事故後、歩けるようになってからも、お座りや頂戴もさせてはおらず、私がホープの食事を掻き混ぜ、箸を器の縁へ叩くように音を鳴らすと、ゆっくりとやって来るのが習慣になってしまった。しかし、肉などの特別メニューになると、ホープはその匂いがしただけで、急ぎやって来て、早くと言わんばかりに尻尾を振っている。そして、器を置くと、喉を鳴らすかのような音を立てて食べている。実に可愛い私の娘的存在になってしまっている。
2015.04.30
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「値千金」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今日はIHクッキングヒーターの掃除から始まり、電子レンジや流し台シンクや排水溝の掃除をして新しいメッシュ袋も取り変えた。1ヶ月前私の手術入院でホープの面倒を見てもらうため長女が孫3人連れて来てくれた。その時に流し台も掃除をして行ってくれた。私が掃除する時は、休み休み行うので中々はかどらない。長女は主婦なので掃除も手早い。 冬場のキッチン流し台の掃除は、寒がりの私には辛い。まな板の上で包丁を使って細かく切ったりするにも、手袋をしたまま包丁を使っていた。それは、グレープフルーツなどの果物を切る時も同じように手袋をして切っていた。その日も寒く、手袋をしたまま、包丁を使っていたが、左手手袋人差し指先を少し切ってしまった。手袋は2重になっており、外側の毛糸部分の糸を切ってしまったようだった。 その手袋が気にいっていたので、余計に残念と思ったが、糸が切れたまま手袋を使っていた。使って行くうちに、外側の毛糸で編んだ部分が、段々と解け、内側のソフトな手袋が顔を覗かせ、日を追う毎に覗く部分が多くなって行った。他にも手袋が有るのだが、その人差し指部分が1センチほど覗いていたが他の手袋とは違い、手袋の感触が良く、指先が覗いて来ても使い続けていた。その手袋は100円ショップで、昨年手袋の出始めに購入していた。 100円ショップへ行き、二重になった手袋を買って使用してもシックリ指に馴染まず、同じ手袋が手に入らないか3軒ほどの100円ショップを探して回った。何処を探しても同じ手袋は無く、仕方なく家に帰り、妻の裁縫箱から針と糸を取り出し、人差し指が1センチほど飛び出した周りの毛糸を少しずつ引っ張り紡いでいった。一針紡いでは、糸を締め、また一針紡いでは糸を締めて、全体を指で摘まんでは上に持ち上げ、糸で紡いでいった。 50針ほど紡いで、糸が無くなり、次の一本の糸を取り出すが、上手く取り出せず、団子状態になり、その糸を老眼鏡を掛け、糸をたぐり解いて、やっと長い一本の糸が取れ、針に通した。そして、手袋を同じように、毛糸を手繰り寄せて縫い繋ぎ合わせて行き、やっとどうにか外側の毛糸の穴が塞がった。左手に手袋をしてみると、人差し指が緊く感じたが、何度もしているうちに、指に馴染んで来た。私は、寝る時も手袋をして布団を被らないと体の調子を崩してしまうので手袋をして寝ていた。手袋を洗う時は、台所洗剤を濡らした手袋につけ、手を洗うように手袋を洗って、温水で濯いで一晩干していた。 手術入院の時も手袋の準備だけは忘れる事は無かった。手術中も医師に訳を話して手袋をしたまま腹を切った。病室に運ばれてからも、手袋を外す事は無かった。その気に入っていた手袋を、家の中で、それも左手のみ、何処かへ置き忘れ失くしてしまった。まだ長女が家に居る時だったが、あちらこちらを探して見ても見つからない。他の部屋や押し入れの中まで探したが見つからない。ホープとの散歩から帰宅しても、必ず探し、妻の病院から帰宅した時も、既に探した同じ所を探しても当然のように見つからなかった。 その1ヶ月ほど見つからなかった手袋が、今日の掃除のおかげで、寝室部屋の片隅のハンガー掛けの上に乗っているのを見つけた。既に気温も25度以上で、一重の手袋をしていたが、ソフトにフィットする手袋が見つかった事に嬉しさが込み上げるほどだった。人から見れば、100円ショップで買った手袋である。たかが100円と思うかもしれないが、私にはその100円の手袋が、値千金に感じた。たかが100円、されど100円。100円の物でも思い入れで幸福感が得られた。
2015.04.29
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「変化」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。「中国写真ライフ」から「ワンダーフォトライフ」へタイトル変更する。2013年5月5日妻の介護にも慣れ、心に幾ばくかの余裕が出て来た。「ヘッドタイトルを変更」この頃の風景画像は、まだまだ固い表情をしている。2013年5月13日気持ちを取り直してブログページ更新。「また一から頑張ろう」心に余裕がないのか、まだ固い写真の色だ。2014年5月12日妻は車で1時間離れた療養病棟へ。「あれから1年」この頃の写真も、色が暗く固い。2015年1月5日妻の回復の見込みがないと医師から告げられる。「李香蘭が歌う」この頃の写真から徐々に私の写真に変化が見れ出す。2015年2月10日心が落ち着いてきた頃。「犬の本能に感心」この頃の写真もまだ今の形は出来上がっていない。 2015年2月23日心が落ち着いてきた頃。「忠犬」この頃の写真から今の写真の原型が出来上がって来た。写真は心を映し出すとプロカメラマンが言っていた。中国にいた頃も、品質納期に追われ心に余裕がなかった。しかし、将来への不安が払拭出来たと言えば嘘になる。誰でもが、不安を抱えて必死に生きているのだろう。
2015.04.28
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「遺伝」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。私は3歳半まで、体が弱く季節の変わり目になると直ぐに熱を出し、産みの母を困らせていたようである。何故そんな小さい頃の事を覚えているのかと言っても覚えている筈もなく、産みの母の33回忌に、私を呼ぶかどうかを母の実家が親戚一同の同意を得て、私に連絡が来たという訳である。私は産みの母の顔を知らない。なぜならば、母の写真は全てが燃やされてしまっていたからである。私が3歳半の時に弟と無理心中した為、縁を断つためなのか、ゆくゆく私が亡き母を捜すと思ったかどうかは推測の域でしかない。私が6歳半の時、父が900キロ離れた単身赴任先で再婚した。父親は言い出せなかったのか私の存在を黙って再婚していた。だが、罪悪感を覚えたようで育ての母に、私の存在を打ち明けたようだった。私を捨ててしまう事も出来ずに、九州まで900キロの道のりを引き取りに来た。私が6歳8カ月の頃だと聞いている。引き取りに来るそれまでは、3軒の親戚を、半年毎に回っていたようである。当然私一人では、次の親戚の家に自分で行ける筈もなく、迎えに来てもらい、半年が来る毎に、次に行く親戚が迎えに来ていた。食糧事情も良いとは言えない時代である。どの親戚にも同じ年頃の子供がいたので、覚えている事柄は、食事時になると辛い事ばかりだった。大きな皿におかずを盛ってくれるのだが、私が取ろうとすると「これは僕たちの!」と皿を引っ張り、親戚のおばさんがその光景を見て、子供を叱っていた。少しずつ器に入れた漬物だけで済ませ、お腹が空いていた事が記憶の片隅に残っている。そんな緊張の中なのか、私は季節の変わり目になると、扁桃腺を腫らして熱を出していた。当然食べ物も喉を通らなかった。のちに大人になってから、聞いた話では、親戚の皆が口を揃えて、「病院代が大変だった」と言う。その請求がまとめて父の所へ行くのだから、実に迷惑を掛けたことだと思う。私の扁桃腺が弱いのは、生みの母譲りである。33回忌に行った折、私が3歳半まで生まれ育った、今にも倒れそうな家が壊されず残されていた。その変わり果てた和室で、あなたのお母さんは、ここで扁桃腺を腫らしてよく寝込んでいたんだよと説明を聞き、私は変わり果てた畳を掌で触れてみた。生みの母親は7ヶ月になる私の弟を背負って、家から40分離れた磯から入水心中をしていた。私は、その時遊びに出ていて助かったようだ。しかし、よく話を聞いて行くと、私は連れて行けないと、遺書にも私を心配し、この世に、残して行ったようである。その時の様子も、33回忌の折りに、身内のみ残り、入水自殺をした時の事を辛そうに説明を受けた。心中をした磯へも行き、80歳になる渡し船の船頭さんにも、詳細を聞いて来た。こんな夕方に子供を抱いて、渡し船で何の用事だろうと不思議がっていたようだ。そして、母の最期を見たという人にも会って来た。「岩ばかりの磯で、子供を抱いて乳を飲ませていた」と言い、「あの時、機転を利かせて止めていればな~」とも33年前の事を思い出していた。祖父は既に他界しており、私が3歳半で親戚に引き取られて行く時、田植えが忙しく見送りを我慢しながら田植え作業をしていた。だが、どうしても最後に一目だけでもと苗を捨て去り、駅までの道を思いっきり駆けて行ったと話していた。そして、汽車がまだホームに停まっていたので、私に何か飴玉でも買ってと思い、売店で買って、私に手渡そうと、列車の中に座る私を見掛けた時、列車がホームから出て行き、立ち止まって泣いたと言う。その話も、あなたにしたくて今回呼んだと話した。亡き母の妹達は、そんな話初めて聞いたと泣いている。私が手を引かれ、今住んでいる実家近くへ連れて来られた時は、何とも夢を見ているような、長い時間汽車に乗り、今度は何処の親戚の家に行くのだろうと思ったほどだった。父が私に花瓶を投げ、スローモーションのように花瓶が頭の上を飛び越え、大きな音を立て、粉々に散った断片映像が記憶に残っている。育ての母の事を、おばさんと呼び、それが父の機嫌を損ねたようだった。私は、母が亡くなってから、いつの間にか、違うおばさんが目の前にいて、母さんと呼ぶ人が、居なかったので、おばさんと呼んでも、私の中では何の不思議もなかった。育ての母を、お母さんと呼ぶようになったのは、私が扁桃腺を腫らし、高熱で苦しみ、大根の水飴を作ってくれ、高い氷を買って来て、私の頭を冷やしてくれてからだと思う。母とはどんなものなのかさえ分らなかった。自分の腹を痛めて産んだ子供ではないのと私の小さい頃の病気を知らない母にとって、私が体の調子を崩すことの原因が分からなかったようである。小学時代、中学時代、高校時代も、今やっと分かる寒暖差アレルギーに苦しんでいた。子供は薄着でいなさいと言う母の言う事は自然だった。私の病を分らない母にとっては、ただの体の弱い子に映っていたようだった。現に、母が生んだ弟は元気そのものだったので、私へ接するのが腫れ物にでも触れるように感じた。産みの母の体質を遺伝して生まれ育ったと確信したのも33回忌の時だった。母の50回忌にも参列したが、生まれ育った家は、すでに取り壊されていた。そして、母の小さい頃の事を聞いたところ、私の症状そのままだった。今は出来るだけ冷える所は避け、暖かくしている。レッグウォーマーを7月初旬まで穿いており、着る物も人より多めである。夏場のエアコンは殆ど点けず、車のエアコンもホープが居るので点けるが、窓を少し開け暖気を取り込んで走る。花粉症でなく、寒暖差によるアレルギー症状であり、薬は中国の友人経由で中国から仕入れている。
2015.04.27
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「プレゼント」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今朝ラジオから「もうすぐ八十八夜ですね」と流れていた。「夏も近づく八十八夜」と歌がよみがえる。そのあとの歌詞はと考え「野にも山にも若葉が茂る」と思い出した。ホープが私の横で嬉しそうにしている。私が中学1年の今頃の季節に、父の友人で歌人だった人から、「八十八夜って歌は知っているか?」と聞かれ、「おじさん!八十八夜はわらべ歌で、女の子たちが手を打ちあっていましたよ」と言うと、ニコッと笑い、「君は良い子だね」と言い、短冊に和歌を書いて手渡してくれた事を覚えている。 その和歌を書いた短冊が何処へ行ってしまったのか、また和歌の内容も覚えていない。今、仏間の横の壁に掛けられた額の中の短冊には、祖父の書いた和歌が2首と父の残した和歌が1首の計3首が額に入れられている。その和歌の文字は変体かなで書かれており、所々しか分からない。その変体かなを見ていると、何となく平安時代の文字を連想させる。中学1年の時、父から「ペン習字書道教範」東京書院の本をプレゼントして頂いた。その本の裏表紙に1年F組と書いてあり、名前も書いてあるが私の幼い字である。 本の中を開けると、いきなり草書で書いた和歌が目に映る。350ページに書かれた内容のうち、最後の40ページほどに当用漢字表でアイウエオ順に漢字が書かれている。上から楷書、行書、草書と書かれて、その40ページは他のページより大分汚れていた。よくこんな難しい本をプレゼントしてくれたものだと、今更ながら思っている。だが、4年前200冊以上の本を処分したのに、このような思い出に残る本は処分できずに手元にある。私の国語の成績だけが皆よりも軍を抜けていたゆえんはこれが原点なのかとも思った。 今日は統一地方選挙の後半戦決着の投票日である。ホープを連れて、地元自治会館の投票所へピンクの封筒ごと封を切らずに行って来た。ホープは投票所の中へは入れないので、投票所になっているコミュニティセンター外の人の通りを避け、リードを柱に繋いだ。私が中へ入ると同時に、ホープの吠える声が聞こえた。中に入り、封筒を切って頂き、市長の投票用紙を手渡された。私的な事だが、妻がお世話になっている現市長に1票を投じた。次に市議会議員の投票の番になった。今回の市議会議員では、6名が落選するということだが、誰に投票するのかは、家を出る時から決まっていた。何も迷う必要もなかった。私の投票基準は、選挙公約など守られないもので評価はせず、何回我が家を訪ねて来てくれたかで判断している。国政や県知事、県議会、市長などは、家庭訪問は不可能に近い。だが、市議会議員ともなれば後援会より、その候補者の器量でもなく、何回来たかで決めている。実に安易な決め方であるが、中国へ行く前も帰国してからも判断基準は簡単で変わらない。一番大切なことは、投票に行くことである。投票に行かずして、政治を批判している人も見かけるが、批判する資格さえないと思っている。20歳になり投票権を頂き、大人の仲間入りが出来たと嬉しかった事は、もう遥か昔の事である。だが、緊張して投票所に立った事は、鮮明に覚えている。来年夏の参院選からは選挙権を18歳に引き下げるようであるが、それはそれで若い人が選挙に参加すれば、大きく政治が変わらないとしても、投票所の雰囲気が活気づくのではと期待している。
2015.04.26
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「渋滞」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今朝方、左足ふくらはぎのこむら返りに痛みに、飛び起きる事も出来ず左足の親指を、痛みに耐えながら反らせた。「もう許して下さい!」と心の中で叫んでも痛みは続いていた。私が手術入院する前までは、アキレス腱やふくらはぎの筋肉を伸ばすストレッチングボードに乗り、前の壁に手を置き、50回ゆっくりとふくらはぎを鍛えていた。こむら返りは何の前触れもなく、急に襲ってくる。それも、久しぶりに起こったので、痛みが治まるまでただ黙っているしかなかった。朝方4時ごろなので、ホープも自分の寝床に丸くなって眠っており、私が痛みに耐えている事など全く知らずに寝ている。痛みが治まったが、急激な痙攣による痛みなので、ベッドから足を下ろそうとするのも、左足をかばうように下ろした。そして、廊下の手すりの所まで歩き、そっとストレッチングボードの上に乗り、ゆっくりとふくらはぎを伸ばすストレッチをした。ゆっくり数を数えながら、50回のみ行ったあと、再度ベッドの布団に潜り込んだ。3時間ほど眠ったのだろうか、時計を見ると8時ごろになっていた。いつものようにベッドから飛び起きると、ふくらはぎの痛みで、まだ勢いよく起きる事が出来なかった。今日の重要な予定は、3時頃に妻の入院する病院へ行く事であった。昨日、私の次男が病院まで見舞いに来るという連絡が、長女から家族のlineに入っていた。私は、lineで父さんも行くけど、次男には黙っていてほしい旨の事を送った。事前に私と落ち合うようであっては面白くないし、ドラマチックな再会をしたかったので、長女には次男には何も連絡しないように伝えていた。そんな日の朝、急な、ふくらはぎのこむら返りにマッサージもするほどだった。ホープと散歩に出たが、術後の散歩では右足付け根の傷口の痛みで、右足を引きずるような感じで歩いた。今度は左足である。少し先へ行っては、ふくらはぎを伸ばすストレッチをしては歩いた。散歩で一回りして帰る頃には、痛みもほぼ感じなかった。帰宅して、ホープに鶏肉を焼き、噛み砕いては器に入れ、さらにハサミで小さく切り、ドッグフードを入れたのち、掻き混ぜてホープの食べる場所に置いた。散歩から帰って来たホープは、足をきれいに拭いた後は、必ず私のベッドの布団の上に乗って休憩をしている。私が床にセットしたパイルのバンダナの上に器を置くと、その置いた音を聞いたのち、ベッドから飛び降り、器が置かれた所へ来る。自分の好物ならば、喜んで食べるが、二日続けると、またこれかと言う感じで、仕方なく食べている。私もホープの為に焼いた鶏肉の半分を、他のおかずと一緒に食べる。結構美味しいと思ったが、ホープには2日間が限度である。午後1時半過ぎには、スーパー銭湯の着替えなどを入れたバッグを車に乗せた。病院からの帰りにスーパー銭湯へ寄る予定で出発した。時刻は午後2時の時報がラジオから聞こえた。ゆっくり走行しても間に合う時間だ。しかし、途中車3台の交通事故により渋滞が発生しており、病院へ着かなければならない3時には間に合いそうになかった。やっとの事で、渋滞を抜け先を急いだが、急いでも、どうなるものでもなく、こちらが事故を起こせば、他人まで巻き込む事になり、落ち着いて走行した。車を運転しながら、長女にメール文を打ち込んでいったが、運転しながら打つのは難しいと思い、途中で打つのを止めた。予定より15分ほど遅れたが、次男の家族はまだ着いていないので、車まで行き、吠えているホープを散歩に連れ出した。病院の第2駐車場の方へ歩いて行くと、次男が車から降りて、こちらの方へ歩いて来た。暫くして、歩道の上で出会った。「あれっ!父さん!」とホープを見て分かったようである。ホープが居なかったら分からなかったとも話す。保育園年長の次男の娘が、大分大きなっていて驚く。来年は新1年生である。恥ずかしそうにしていたが、次男の娘だと思った。
2015.04.25
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「乳がん」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。ホープが誕生したのは、平成11年10月19日のこと。コーギーと柴犬のミックス犬で女の子である。ホープが誕生して1ヶ月ほどで、長女が行きつけの美容院のお客さんからもらって来た。ホープの兄弟は既に亡くなっており、ホープだけが生き残っている。ホープの前に飼っていた犬はスピッツの血が混じった真っ白なミックス犬で、名前をラッキーと私が名前を付けた。ラッキーは私が中国駐在に行き出してから5年後に亡くなったと私の元に知らせが入った。長女は、「あんな悲しい思いをするなら2度と犬は飼わない」と言っていたが、わずか1ヶ月後にホープをもらって来たと妻から連絡が入った。ラッキーは16歳くらいで亡くなった。フィラリアで5年以上苦しみ、私も動物病院へ連れて行った事がある。犬は番犬と言うほどに、人が来たり異変を感じれば、吠えるものであるが、ラッキーは吠えて間もなくフィラリアによる咳き込みで辛い思いをしていたのが分かる。咳き込んで吠える事が出来なくなり、申し訳ない表情で私を見ていた目が今でも脳裏に焼き付いている。ホープは、女の子であるが、妊娠はした事がない。かといって避妊手術も受けてはいなかった。その事も原因の一つなのか乳癌になってしまった。左側の前から2番目と3番目に1センチ程の腫瘍を獣医が確認した。乳癌のステージ1と話していた。腫瘍の大きさが3センチに達しステージ2から3になる速さは、人の3倍のスピードとも聞いた。腫瘍が良性か悪性かなどは、切除して研究センターで検査しないと分からなく、その間にも乳癌になる確率は高くなる。その時では左側だけで、右には腫瘍は無かったので、良性かも知れないと言っていたが、良性か悪性かの検査結果を待つ事もなく手術する方向で話を進めた。そのときホープは11歳5ヶ月になっており、大型犬ならば手術しても1年寿命が有るかどうかである。ホープは小型犬と中型犬の間なので摘出手術すれば、16歳までは生きる可能性があると妻から聞かされ、直ぐに手術しなさいと妻に告げた。左乳腺だけの摘出手術だけで、右側に転移しない事もあるが、もし内臓に転移すれば最悪の事態を考えなければならず、両方の10個の乳腺全ての摘出手術を行った。妻が獣医師から聞いていた手術費用は、高い病院では乳腺摘出1つで3万5千円掛かるとの事で、10個で35万円する病院もあるようである。ホープの乳腺腫瘍摘出手術は、妻が脳出血で倒れる3ヶ月ほど前の事である。摘出手術する動物病院は転居先の病院で田舎にあるため、摘出手術費用は18万円と高額な都会の病院の半額で行えた。手術は当然のことではあるが全身麻痺である。私はその手術の時のホープの姿は分からないが、交通事故に遭い全身麻痺の姿は目に焼き付いている。両手両足を大の字に広げている姿だ。ホープがもし避妊手術をしていたならば、乳癌になる可能性は、かなり低くなる。だが一度腫瘍が出来、それが悪性で癌になれば転移するのは確実である。ホープの病理検査結果を見ると、10個のうち3個が悪性腫瘍で、7個が良性腫瘍である。こちらで散歩していても、手術予算の関係で、乳腺摘出手術を片方5つしか摘出しなかったので、反対側に転移して苦しみながら亡くなったと言う話を聞く。ホープは10個の乳腺摘出し、既に4年の歳月が流れ、医師もあと1年、ガンの転移が無ければ大丈夫という。しかし、ホープは既に15歳半になっている。以前の体重は9.3キロで中型犬だったが、現在は8.6キロまで痩せてしまったため小型犬の中に入る。小型犬で人の歳に換算すると78歳ほどである。最近、家の中でも一点を見つめて考え込んでいる姿を見掛けるようになった。散歩も途中で帰りたいと訴える回数も増えた。だが、私を引っ張る力はまだまだ強く感じる。またホープの毛のつやも良いので、行き交う人は「ホープちゃんは若々しいわね~」とホープの体に触れて通り過ぎる。人の命も動物の命も寿命は分からない。最期のその時は必ずやって来るだろう。しかし、私を支える意味でも、ホープには出来るだけ長生きしてほしいと思う。何しろホープの名前は、希望なのだから、、。
2015.04.24
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「何度も挑戦」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。午前中のホープと散歩をしていると後右足が変な動きをしている。元々ホープは交通事故に遭い、ランクルの右前輪に巻かれている。左右の後足がランクルのタイヤの下になってしまい運転していた女性に「ジャッキを貸して下さい」とお願いしても、両手を小刻みに振るだけである。早く助け出さないと両足が押しつぶされてしまうと思った。そこへ11トントラックの運転手が大型ジャッキを手に「これを使え!」と差し出してくれた。急ぎジャッキを掛ける場所にジャッキ頭を掛け回した。ランクルには運転手の女性と助手席には彼氏かなと思われる若い男性が乗ったままで上にあげた。ホープの後足は血で真っ赤に染まっていた。私が先にホープを抱き上げてしまったのでジャッキを下げトラックの運転手に返す事を忘れてしまっていた。運転手がジャッキを下げながら「ワンちゃんの後足が折れているかもしれないな~?」と言い残し、「急いでいるから」と言いトラックに乗り、「早く動物病院へ連れて行きなさい」と去って行った。私は礼をする事さえ忘れてしまっていた。ランクルの運転手は、何も言わず急ぎエンジンをふかし去った。取り残された私はホープを抱いたまま家まで歩いて帰った。妻はまだ元気だった頃で、「どうしたの?」と私の胸がホープの血で染まっているのを見て言う。段ボール箱の中にホープを入れて車を走らせ、動物病院へ行ったが、診察時間は大分前に過ぎており、そのまま薬局へ走った。薬局の店員に「包帯と消毒液を下さい」と言うが、時間が経って真っ赤な血が、どす黒くなった異様なシャツを見ながら「何かあったのですか?」と腰が引けている。訳を言っていると時間が掛かるので、黄色い伸縮性の包帯と消毒液を購入して帰った。大きな容器の消毒液でホープの足を洗うように消毒した。だが、ホープの悲鳴にも似た泣き声を聞くと、余程痛いのだろうと思った。「直ぐに済むからな」とホープに言った後、「父さんがリードを放したから、ごめんな」と言いながら、更に消毒液をかけた。片足ずつ包帯で巻いて行った。消毒液の痛みに慣れたのか、私の手を何度も舐めていた。ホープの足はレントゲンを撮ったが骨には異常はなかった。ただ左右の足の開きが少し違った。その左右の足の開きが違う事により、ホープはまともに座れなくなってしまった。その後右足の歩き方に異変を感じたのは、2週間ほど前からである。歩く時に右後ろ脚を時折、すこし上げて3本足だけで歩くので異様に感じた。私は止まってホープの後右足の太もも付近をマッサージした。2分ほどの時間だがマッサージをした後は普通に歩けた。車に飛び乗る時も失敗する事が多くなり、何度も挑戦をしてようやく後部座席に乗ると、右後足を上げているのでマッサージをすると治る。最近では、私が抱き上げ、後部座席に乗せ、下ろす時も同じく抱いて下ろしている。
2015.04.23
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「呆気ない幕切れ 」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今日の資源ゴミAの当番を思い出したのは昨夜だったので、新聞や雑誌、段ボールなどの置き場所を示す立て札を置くにはおそ過ぎ、今朝から用意をしようと思った。起床の時間を6時にタイマーをセットした。だが、一人で起きれるのかと考えていると昨深夜床に着いても、中々寝付かれなかった。早く寝なければと思えば思うほど寝付かれなかった。昨夜は10時ごろから安定剤と睡眠誘導剤を服用した。しかし、寝付けれなく、深夜0時を過ぎてから、再度睡眠誘導剤を服用した。 何もない時ならば、キーボードを叩いていても、知らず知らずのうちに眠りに落ちた。小さい頃から、学芸会の前日や遠足の前日などの時も寝付けなかったが、性格なのかもしれない。しかし、仕事で中国に居た頃は、どんなに大きなイベントを控えていても直ぐに眠る事が出来た。また移動中の飛行機の中でも移動中の車の中でも何処でも直ぐに眠る事が出来た。仕事の責任と地域自治会などの責任や小さい頃の修学旅行などとはスイッチの入り方が違うのかとも思った。 そんな事を考えていると余計に寝付けなくなり、布団を跳ね除け、再度PCの電源を点け、twitterやfacebookなどを確認していた。眠気が襲って来るどころか、目がさえて来ていた。結局眠りに着いたのは朝方4時ごろである。外からは新聞配達のオートバイの音が聞こえていた。6時起床までに、あと2時間しかないと思いながら眠った。携帯の目覚ましタイマーが直ぐに鳴ったような気がして、携帯を手に取り、直ぐに消してしまった。まだ時間があるから、もう少し寝ておこうなどと思い眠りに落ちた。 ホープの調子が悪く、もどしそうな咳に目が覚めた。携帯は胸から床に落ちていた。時計を見ると6時45分になっていた。慌ててホープの目を拭き、リードを付けて、資源ゴミ集積場がある公園までの100メートルを走った。私は走っているつもりでも、人が私を見れば下腹をかばい、変な格好に見えたのかも知れない。公園の資源ゴミ集積場には、すでに新聞や段ボールが積んであった。私は急ぎ自治会館へ行き新聞紙や雑誌などの立て札を取りに行き、決められた順番通り立てた。間もなく、奥さんたちが、段ボールや新聞紙を台車に載せて運んできた。そして「今日の当番は貴方なの?」と聞くので、私は「はい」と答えながら下ろすのを手伝った。後ろから別の奥さんが、同じような台車で運んで来て、「奥さんは良くなりましたか?」って聞くので、「まぁ」と答えたりしていると、今度は車で運んで来る人もいた。車を降りるなり「手術をしたんだって?全然知らなかったよ」と声を掛けて来るので、ここはコミュニケーションの場でもあると思いながら、積んでいった。午前8時半ごろ業者が新聞紙を取りに来た。その後、雑誌や牛乳パックなどを回収に来たが、段ボールだけは中々来なかった。9時半になっても取りに来ないので、私はホープと取りに来る業者を只待っていた。するとご婦人が通りかかり、「8時になったら帰ってもいいんですよ」と言うので、「ダンボールだけまだ回収されていませんから」と言うと、「昼からでも夕方からでも回収されたか確認して、ノートに記せば良い」と教えてくれた。取りあえずホープを連れて散歩に行く事にして、ホープに「散歩に行こうか?」と言うと、下げていた尻尾をくるっと丸めて振った。朝からの3時間ホープは黙って待っていてくれた。散歩に行こうとした時、2トントラックが入って来た。運転手は車を降りて、段ボールを荷台へ放り込み手を挙げて走り去った。呆気ない幕切れとも思いながら、家の玄関に置いてある資源ゴミ回収確認ノートに、「全て回収されました」と書き入れ、次の当番のお宅の郵便受けに入れた。
2015.04.22
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「八方美人」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。統一地方選挙後半戦の戦いが始まり、今度は市議選と言う事もあり私の地域や友人からも応援を頼まれた。私は旗振りは出来ないが、応援はしますよと軽く応えていた。昨日午前9時ごろと今日午前8時半頃、演説会に出席してほしいと入場チケットを手に持ち頼みに来た。後援会は必至なのだろうとも思いチケットを見ると、寄りによって2人の演説会は同じ日の同じ時間であった。妻が元気で家に居るならば、2人で手分けして参加も可能だが1人ではどうするかと憂鬱である。 八方美人であってもゆくゆく困るのは自分自身である。正直に友人や地域の人に言えば、角が立つと言うより、人間関係がギクシャクするのではと思う。そんな事を考えながら、妻の乾いた寝間着を畳んで袋に入れた。そして、病院へ行った帰りにスーパー銭湯へ寄ってから帰宅しようと思い、銭湯の用意もした。銭湯に入るための着替え類や洗うタオルなどを7つ数えながらビニール袋へ入れて行った。7つと言うのは、パンツ、ズボン下、靴下、Tシャツ、チェック柄シャツ、バスタオルとナイロンタオルの7つである。 7つを1から数えないと何かを入れ忘れて、スーパー銭湯で困ってしまう。一番忘れて困るのは、洗うナイロンタオルである。これを忘れると体を洗う事が出来ない為困ってしまう。実際、忘れた事があり、ナイロンタオルを市価の倍の価格で購入し、スーパー銭湯の湯船に入っても、爽快な気分とはいかない。忘れると言えば、銭湯のロッカー口に入れる100円玉である。風呂から幸せな気分で出て、ドライヤーやクリームを塗り爽やかになった気分で、最後に100円玉を抜き忘れてしまう。 この抜き忘れた100円玉は、あとから思い出すと、500円ほど忘れたような気分にさせるので、価値観はその時に応じて変化するから人の気持ちは面白いものだ。折角なのでカメラをバッグに入れ、銭湯の道具や着替えの入ったビニール袋を車に乗せ、妻の入院する病院まで走った。1時間ほどで着き、1つだけ空いている駐車スペースに車を停め、トランクを開けて妻の寝間着を探すが、車の何処を探しても寝間着は無かった。あまり色々な事を考えているから肝心な物を忘れてしまうと思いながら階段を上り、看護師に謝罪し、汚れた寝間着を持ち帰って来た。 寝間着は全部で7枚あるので、直ぐに洗濯して持ち込めば間に合うと思った。このような時に限って汚れ物の枚数が多く、妻のベッド横の棚には後一枚しか残っていない。今晩から外に干せば、明日の昼ごろまでには乾くのではと考えていた。そして、まだ何かを忘れていると考えながらホープの散歩をしていた。今日は銭湯へ寄ったので、いつもより遅い時間の散歩である。散歩を終え、玄関に入り、ホープの足を濡れタオルで拭き、ふと玄関の靴箱の上を見ると、22日資源ゴミAと書かれており、明日午前7時から当番と言う事を思い出した。
2015.04.21
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「ダイエットは進んでいますか?」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。ダイエットをしているわけではないが、体重計に乗ったのは手術前の3月25日の事。その時には59キロだった。私が中国で仕事をしていた時には、中国内3ヶ所の都市約2000キロを行き来していた。私の住んでいた環境はアパートを少し豪華にした所だった。一般のアパートでは中国地方公安の許可が下りなかったからである。中国の法律では、私でなくとも駐在をしている人は、中国国内での2週間以上グリーンカード記載の住所を離れる時には、公安へ連絡しなければならなかった。ホテルに泊まり歩いていると私の動きが手に取るように公安に把握されてしまうので、各地でのアパートを借りて行き来していた。今よく考えれば、アパート住まいは、金銭的に抑えられるだけで、ホテルを行き来した方が私の動きが分かり良かったのかも知れない。もしもグリーンカードに記載されている住所に長期間不在であることが公安に発覚してしまえば、罰金を取られる事になると考えアパート住まいを決め込んでいた。私は中国滞在中に1度罰金を取られている。それは中国から香港へ入り、香港の銀行口座から現金を引き出した。その直後にパスポートや現金150万円や身の回りの物全て盗難に遭い、当時パスポートのない私は中国へ入れなくなってしまった。香港の商社から日本へ連絡してもらったが、日本は4月末からのゴールデンウィークに入ってしまっており、外務省では非常勤だけが出勤で、ゴールデンウィークが明けて、暫くしないと手元には届かないと香港日本領事館で言われた。バッグにまとめて入れてしまった私は、お金は一銭もなかった。香港人の友人に連絡して、とりあえず日本円で10万円を借りた。毎日ホテル住まいと着替えやバッグなど購入して段々とお金も底を付いて来て、友人の友人を紹介してもらい、昼の食事や夜の食事を御馳走になっていた。そして、少しばかりの小遣いを寄付してもらう乞食生活だった。プライドもかなぐり捨てた。ごろつきのような生活だった。私の仕事関係の人達だけではなく、コンテナの運送会社までお世話になり、その中には香港人も沢山いた。香港尖沙咀チムサーチョイにある香港警察横のホテルに長い間宿泊したが、そのホテルの支店長は、中国語で「あなたは幸せな人だ」と言うので意味が分からなかった。その事は後で分かったが、この当たりでは頻繁に強盗があり、昨夜は盗難だけではなく殺人事件まで起こり、それで命まで取られなかった私に「貴方は幸せな人」と言ったようであった。香港島にある日本領事館でも、日本へならすぐに帰れますと言われたが、中国へ入るためのパスポートと中国ビザを取るためには、1か月以上の時間がかかてしまい、香港に留まるのが得策と考えた。日本からパスポートの再発行を待つ事を決めたら腹が据わった。だが盗難にあった事を日本の故郷に帰省中の妻に連絡すると、「残念だったね。怪我はないのでしょう。命があっただけでも良かったと思わなきゃね」と電話の向こうで言われホッとして、それからは気持ちも落ち着いた。妻の一言はその時の不安な私の心を払拭した。香港内を地下鉄で行ったり来たり、見学したりしていた。友人の友人の接待で豪華な車で送り迎えもしてもらった。人生何が起こるか分らないが、結構楽しい思い出だけが今でも残っている。日本からパスポートが送られて来たと香港領事館から連絡を受け、受け取った後、すぐにビザの発行手続きをし、2日後1か月ビザが下り、中国入りが出来た。中国国内での移動ではパスポートは必要なかったが、常に持ち歩いた。どんな事件に巻き込まれるか分らないからである。今日は広東省広州に居ても、2日後には天津や北京にいる事もあった。アパートを借りていない所へ行く時は、ホテルを利用する為、1週間後には私のグリーンカード登録地の公安へ連絡が入った。大きな問題が発生しない限りは、公安からの出頭命令は来なかった。各地に出張すると、共産党地方役員から食事やお酒の接待を受ける。一番急激に太ったのは、やはり香港での盗難に遭い、2週間以上食べ歩きをした事も手伝い太ってしまった。中国へ無事帰れた時にも、痩せてると思ったら太っていると、あまり同情もされなかった印象がある。私の当時の身長が170センチで、最高の体重が80キロもあった。ウェストは99センチにまで達しており、血圧も上が160ほどで、下も122ほどまで達し、時には手足が痺れたりしていた。上海の病院で診察してもらったが、このまま進むと血管の病気を起こしてしまうので、煙草をやめる事とダイエットも提案された。3か月掛かり10キロの減量は出来たが、やはり納期や品質の会議が終了すると、美味しいものやお酒を飲まされるので、中々減量は出来なかった。しかし、妻が倒れてからは、介護の勉強や料理、洗濯、掃除と大変な日々が待ち受けており、実際介護をするようになってからは、精神的に変になってしまうような睡眠障害に陥ってしまった。とうとう心身クリニックを紹介され、安定剤と睡眠誘導剤を処方してもらった。パニック状態では安定剤も効き目がなかった。気がつくと、体重が58キロまで落ちていた。無理にダイエットをしなくとも、介護をすれば体重が落ちると思った。その後も軽いうつ状態になり、体重は思ったより増えなかった。そして今回の手術である。内臓が悪い訳ではなく、網ネットと筋肉を縫い合わせるだけの手術だった。手術も終わり、病院食が出た時は、どんな店で食べた味より美味しく感じた。毎回の食事を完食した。私は看護師から食事係へ伝言を頼んだ。「とても美味しかったと伝えて下さい」と言うほどで、同室の患者からは、「今までどんなものを食べていたのか?」と問われるほどであった。退院の時、体重計に乗ったが、64キロまでに太っていた。足首は腫れ、体全体もむくんでいるようであった。手術前に計った体重からは、5キロ太ってしまった事になる。年末年始でも3キロ太り、落とすのに苦労した。そして、ホープとの散歩をするようになり、日増しに体が軽くなったように感じて来た。食事も以前の美味しいとは言えない食生活に戻った。そして、昨日スーパー銭湯で計った時は、61.6キロまで落ちていた。やはり、ホープとの散歩が減量に繋がっているのではと感じている。食べる時は良く噛み流し込む事は避け、8時以降は何も食べない。調理は調味料特に塩分を控える。これだけ守っていれば無理せず自然に痩せられると思った。「ちなみに、あなたのダイエットは進んでいますか?」
2015.04.20
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「拾う神あり」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今日天然温泉スーパー銭湯へホープと行って来た。ホープを連れて行っても車の中でお留守番である。車の4ヶ所のウィンドウを10センチほど開け、私が着替えやバスタオル類の入ったバッグを手に取ると、既にホープは鼻声になっている。車から降りロックを掛けると、私も連れて行ってと言うかのように吠える。その声は駐車場から30メートルほど離れても聞こえており、私が出て来る約2時間の間、ずっと私を呼び続けている。そのお陰で、温泉に入り少しのぼせ気味の私が、何処へ車を停めたのかが容易に分かり、その点車を探し回る必要はないのである。フロントに立ち入浴客を出迎えるフロント嬢は、日曜日も手伝い5人立っていた。フロント嬢はこちらから選ぶ事が出来ず、手の空いたお嬢さんが手を挙げ、そこへ行き下駄箱の鍵を渡しロッカーキーを頂き階段を上って行くのである。150個ほどあるロッカーは満杯状態で、ロッカー待ちの列が出来ていた。中からは威勢の良い声で、「お次のお客様こちらへどうぞ」と手招きしている。5人ほど私の前に列を成していたが、ものの3分ほどでロッカーが使えるようになった。ロッカーの中には2本のハンガーが用意されており、そこに脱いだ上着類を掛けて行き、次々と脱いで行った。最後の下半身の一枚になった時、脱ぐのをためらい、まずはトイレに入った。用を足すためではなく、毛を剃った後の毛の伸び具合を確認したかったからである。手術の前に「毛剃りします」と医師が言い剃っていた。だが左側の毛は剃らずにそのまま残してあるから雑である。医師も少しは美学を会得して手術をしてほしいものである。そんなには伸びていないな~と思いながら触ってみると、触った感覚は6ミリほど長くなった毛が生えていた。このまま入るしかない。考え込んでいても、いきなり毛が伸びて来る訳でもなく、早く入って心を癒す方が得策であるとロッカーへ戻り、パンツを脱ぎ棄て、素早く洗うナイロンタオルを4つ折りにして当てがった。他人から見れば何でもない入浴前の光景ではあるが、私にとっては恥ずかしい思いだった。大きな浴槽に入る前に、ざらっと体を洗い、天然温泉の湧き出る大きな浴槽に浸かった。当然ナイロンタオルとはいえ、浴槽内につける事は出来ないので、浴槽の縁に置いていた。私が何故、わざわざ人の混み合う日曜日を選んだかと言うと、月曜日など人の少ない時には、私の毛剃りしてある下半身をジロジロ見てほしくないからであった。しかし、日曜日のイモを洗うような中では人の事をジロジロ見る人は少なく、何処に空間があるのかと見る人がほとんどである。それで日曜日を選んだが、事は思うようにはいかない。顔見知りの人から「最近見掛けなかったね~?」と言う。左横を見ると、手術前にも互いに雑談をしている人だった。更に入って来た人から「久しぶりですね。もう風呂に入っても良いのかね」と声を掛けるから挨拶する。よりによって何故こんな時にバッタリ会うのかと思った。左横の人から「手術って、何処を切ったの?」と聞くが、見せるわけにもいかず、苦笑いをするのが精いっぱいだった。そして、前に居た声を掛けて来た人が、左側の知人に「ヘルニアで手術したらしいよ。それも腹腔鏡を止めて、メスを入れたらしい」と話し込んでいる。何となく怪しげな雰囲気に、癒されるどころか、ストレスさえ感じるような時間が流れた。私は浴槽に浸かったまま、出るに出られず、20分ほど浸かっていただろうか、その人たちが「頑張って入っているね」と言いながら出て行ったのでホッとする思いだった。私は、後側浴槽の縁に置いた洗うタオルを取ろうとして、手を伸ばすが何処にもない。盗られたのかな~?と思って振り向くと、かけ流し天然温泉の為、お湯があふれて、軽いナイロンタオルが外に落ちたようだった。私は湯船から出る時には、サッとタオルを前に当てがう予定が、タオルを拾う為に、とんでもない醜態をさらす事になってしまったと思った。そんな所へ、後から声がした。「これお客様のタオルですか?」と温泉の従業員が拾ってくれた。「はい!私のタオルです」と言いながら受け取った。こんな場面で使うべき諺ではないが、捨てる神あれば拾う神ありである。
2015.04.19
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「看護師のプライド」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今日は昨日にも勝るよい天気で、午前中は散歩がてらホープとコンビニまで歩いて行った。セブンイレブンのセブン銀行にはいつもホープと入る。ホープは私とリードで繋がれているので、カウンターの中に居る従業員にホープの姿は見えない。セブンイレブンへは、妻の療養する病院が業者と提携を組み、毎月患者の家族全員に身の回りの物を調達して頂く替わりに、お金だけ支払えば病院には来なくても良いと言うふれ込みだった。今療養する人達は毎月19,800円ほど入院治療費とは別に支払うようになった。この事で生活に影響する人は他の病院へ転院して行った。私は、妻のタオルやバスタオルは業者にお願いして、寝間着だけは私が洗濯して届けるAとBのコースのBコースを選んだ。そのBコースの支払い請求がポストに入っており、10,044円をコンビニに歩いて支払いに行った。銀行自動引き落としを利用すれば、簡単に済む事ではあったが、妻のこの費用だけは自分の手を煩わせても支払いたかった。なので一度は、銀行引き落とし書類を頂いたが、妻の為に何かをしているという自覚がほしいために、その書類は未だに提出していなかった。病院側は業者を中に入れたため大分楽になったと言う事を時折耳にする。また患者の家族も同じで楽になった分、病院へ足を運ぶ回数が減ったと言う。この半年ほど妻の寝間着の着替え回数をメモしているが、消費税込み1ヶ月9,756円分は着替えさせていない。月に10枚程度である。つまりは3日1度の着替えをさせている事になる。1回の病院寝間着代は975円ほどとなり割高になる。この事は病院に預けっ放しの家族には分からない事であると思った。それも着替えは風呂に入れて頂く月2回に集中し、月2回で8枚の寝間着が濡れたままにしてある。あとの2枚は2週間に一度となる。不審に思い看護師に尋ねた所、「病院の寝間着を使っていたのでは?」との回答だった。何度その言葉を整理しても理解出来なかった。なぜならば、例えば病院の寝間着を使った事にした場合、それまで妻が着ていた寝間着が汚れ物入れの中に入っていなければならない。しかし、汚れた寝間着は入っていないのである。それであるのに、病院の寝間着を使ったという咄嗟の言い訳には納得がいかなかった。だが、そのミステリーを看護師に告げた所で、建設的な方向には進まないと考えた。私の気持ちが晴れたとしても、看護師のプライドを傷つけることになり、妻への態度が変化するのは逆効果と未だに話してはいないし、今後も話す事は無いだろう。私は病院へ行き、ナースセンターに顔を出し、笑顔をふりまき妻への印象を良くすること以外にないと思った。午後からは早目の散歩にカメラを持って出た。ハナミズキがきれいに色づいていた。花は咲き乱れ、行き交う人たちは、私に「今日は暑いですね~」と言うが、「そうですね~」と声を掛けたものの、寒がりの私には丁度良いと思った。2キロほど歩いたのち、一旦家に帰り、カメラを防湿庫に入れ、ホープと河川敷へ向かった。河川敷の堤防の上を走行する後部座席のホープは嬉しそうに尻尾を振っているのが、バックミラーで見て取れた。今日は土曜日と久しぶりの晴れ間も手伝いバーベキューをしたり、バトミントンやテニスをしたりする人たちで賑やかだった。ホープはリードをつけ私の歩くスピードに合わせ、嬉しそうに歩いていた。
2015.04.18
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「危ない危ない」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今日は一日快い快晴の日であった。ホープとの散歩には、手術後カメラを提げて出なかった。だが今日の快晴で歩きながら撮影したい気持ちに、防湿庫に保管してあったカメラを取り出し、レンズを選び装着して外に出た。久方ぶりにカメラを提げた。1.6キロほどあるカメラとレンズだったが、それほどの重さは感じられなかった。この3週間ほどの中で、この2週間ほどは車にカメラを積み、撮影ポイントでカメラを提げ撮影していた。術後の痛みは、ネットなどでは2ヶ月間ほど痛みを感じたとあったが、私の場合、2週間ほどで痛みは取れ、手術で引っ張った筋肉が元の位置に戻る痛みを感じていた。今日の散歩は6キロほどの距離を歩き、撮影しながらなので時間が掛かってしまった。 今ホープとの夕飯も済ませ、キーボードに向かいタイプする手に、だるさを覚えるが、今日から3日目にはこれが鈍痛なのか何らかの痛みが起こるだろうと思う。昨日も3時頃まで快晴だったが、その後は雲に覆われる天候だった。夜も晩くなる頃には、アレルギーのある私は、最低温度に設定しファンヒーターを点けてしまう。よくある事だが、ファンヒーターを点けて落ち着いた頃に灯油が無くなり私を呼ぶかのように、サインが鳴りだす。空になったファンヒーターの灯油缶を提げて、玄関に置いてある18リットルポリタンクまで行き、オートポンプの注ぎ口を灯油缶口へ差し込みんだ。スイッチを入れてもモーターのみ回っており、灯油タンクを持ち上げ灯油が無くなっている事に気づく。前回入れ替えておけば残念な気持ちが払拭でしたと思いながら、小さいコンテナから満タンの灯油と入れ替えた。 満タンの灯油タンクから灯油を入れている時、フロートが上がり切らずに途中のままポンプが止まったので、スイッチを入れ直した。だがうんともすんとも言わない。この前電池を入れ替えたばかりなのに、もう電池切れたのかと思いながら単3の乾電池を2本入れ替えて再度スイッチを入れた。しかし、相変わらず動かない。これは電動ポンプ自体、壊れてしまったのかと思いながらも、灯油口からホースの注ぎ口を少し上げ、スイッチを入れたらモーターが動きだした。「なんだ壊れていなかったのか」と思いながらも、灯油タンクの横のゲージを見ても黒くならない。おかしいなと思っていると、口から灯油があふれ出して玄関のタイルの上に流れ出した。 慌ててスイッチを止めてから、ホープの体を拭くタオルを広げて、こぼれた灯油の上を覆うように被せた。灯油タンクの口は表面張力で盛り上がっており、まずは蓋を閉めた。蓋を閉めてから、反対にひっくり返しタンクの持ち手を持ったが、灯油が滴り落ちタイルの上は濡れていた。灯油の匂いが充満して、タオルを2枚追加して拭いとった。灯油缶のゲージフロートが途中で引っ掛かり、灯油量が確認できずに起こった不可抗力とも思った。その時、30年ほど前に灯油を入れていて、同じように入れ過ぎ玄関にあふれ出した事を思い出した。元気はつらつの妻からは、「家事の事を何もしないのですから、灯油くらい満足に入れてよ!」と叱られた事を思い出していた。あの頃の妻は元気だったが、今は誰も叱ってくれる人はいなく、ただホープが不安そうに見ているだけであった。 玄関のPタイルの上にあふれ出た灯油18リットルは長女が子供達の新学期の用意のために帰るその日の夕方買って来てくれていたものである。朝晩は私には空気が冷たく家の中は、5月初めくらいまではファンヒーターがいるのかな~?これだけで足りるのだろうかなどと思いながら、キッチンのファンヒーターのタンク入れに差し込んだ。玄関内の電気が点いているので、消しに行ったが、灯油の匂いが充満しており、電気を消して暫くの間、玄関の扉を開けておいた。時間は間もなく日付が替わる時刻だった。twitterやfacebookなど確認していたが、精神安定剤デパスと睡眠誘導剤ロヒポノールを30分前に服用していた為、玄関の扉を開けている事など忘れて眠ってしまった。丑三つ時にトイレに起きたが、玄関の事など忘れてしまいそのまま直ぐに眠りに落ちてしまった。玄関の扉が開けっ放しには、朝気付いた。危ない危ない。
2015.04.17
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「レシートは要りますか」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今朝はいつもよりゆっくり起床した。午後3時ごろまで快晴の天候でホープを車に乗せ、家から7キロ先にある市ゴミ処理センターまで走行した。ゴミ処理センターの職員は後部座席に乗るホープを見て、「大人しいワンちゃんだね」と頭を撫ぜていた。大きなゴミ袋と小さなゴミ袋の二袋をゴミ処理炉へ投げ込んだ。「変なものは入っていなかっただろうね?」と聞かれた。「ホープに気を取られてるから、勝手に放り込んだよ」と言うと、「まぁイイや」と言いながら、出口の方へ行って下さいと言わんばかりに手で送り出す仕草をした。今日は車のウィンドウを全開にして走行しても寒さを感じなかった。帰る途中でスーパーに寄り「ハッサク」を買いに寄った。ハッサク6個で消費税込み270円と1個45円相当。その6個入り袋を2袋手に取りレジへ手渡すと、「いつも月曜日に来られるのに、珍しいですね」と一言話し「540円です」と財布から小銭を出しお金受けに置いた。「レシートは要りますか」と聞くので「家計簿をつけていますから」と受け取った。外に出る前からホープの私を呼ぶ声が聞こえていた。私が車に乗ると、安心するのか後部座席下に置いてある水入れの中の水を音を立てて飲むのが習慣である。帰路に就いたが、家の前の道路をそのまま河川敷方向へ向かって車を走らせた。途中、我が家のテラスに干した布団を左手に見ながら走り抜け5分ほど先の河川敷駐車場に停めた。ホープへはゲージはせずにバンダナだけして放した。ホープも勝手知ったる河川敷に自分のペースで動いていた。途中保育園ほどの女の子5人ほどと出会い、その引率にバーバと呼ばれている年頃のご婦人が2人で話し込んでいた。ホープが保育園児に近寄り、女の子がホープの頭を撫ぜている事に気づき、慌てて「ダメよ!」と女の子の手を引いていた。ホープの目を見て、「やさしい目をしていますね」と言うものだから「この子は、人恋しくて仕方がないから可愛がって下さい」とだけ言うと、もう一人のご婦人も「私犬は嫌いなのだけど、この子は問題ないみたい」と言うので「ワンちゃんの悪い印象があるのですか?」と聞いてみると「お尻を噛まれた事があるので、それから怖いんですよ」と言う。「余程、貴女のお尻が可愛かったのかな?」と言うと「あらっ、そうかしらね~」と返すので、このご婦人には冗談が通じないとそのまま散歩を続けた。河川敷にはタンポポの黄色い花が咲き乱れ、そのほか紫色や濃いピンクの小さい花が絨毯のように咲き乱れ、今日のそよ風に嬉しさを表現するように揺らいでいた。その吹くそよ風に対しては私も同じ感情を抱いた。寒暖差アレルギーの持病を持つ私も爽やかなそよ風に癒されていた。時折、堤防の上を走り抜けて行く車の走行音と河川敷に作られたグランドゴルフ場でプレイする団塊世代の人々のはしゃぐ声。耳を澄ませば、鳥のさえずりさえ聞こえ、癒される瞬間を過ごしていた。時刻が3時過ぎともなると雲行きが怪しくなって来た。私はテラスに干して来た羽毛布団の事が気になり、「ホープ!帰るよ!」と呼び寄せ、後部座席のドアーを開けると勢いよく飛び乗る。まだまだ3年半は生きてほしいと思いながらエンジンを掛け我が家への帰路に就いた。
2015.04.16
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「また来たの」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今日は快晴と言ってそれほど間違いではない天候だった。午前中の散歩も気持ちが軽くなる思いだった。途中、中学生時代同期生だった友がクラウンを洗車していた。私は手を挙げて、「もう退職されましたか?」と尋ねると、「やぁ~、どうも」と言いながら、洗車していた手を止め、私の方へ歩み寄って来た。一昨日、1か月ほど前に他界した叔母の所へ寄る時、その近くの理容店へ寄った。駐車場に車を停めて、半自動のドアーを入ると、「久しぶり~!」とソファーに座っていた中学時代の友が声を掛けた。その理容店の店主は中学時代からの友だった。 久しぶりに行ってみると、いろいろと昔懐かしい話が飛び出す。職業柄なんか、中学時代の友の名前や近況をよく把握していた。私は殆ど記憶がないと言うよりも、忘れてしまっている人の名前を次から次へと挙げていくから、驚きをもって聞いていた。もう病気で他界した人もいたので再度驚いたりもした。その名前を挙げて行った中の一人が、午前中にクラウンの洗車をしている友だった。その彼は、中学時代壁に貼り出される学年390名ほどの中で、いつも3番に入っていたと理容店の友が言うので驚いた。復習と予習をしっかりしていたのだろうと思った。 私は中間テストや期末テストは、あまり成績の良いとは言えなかった。いつも決まって60番前後をふらふらしていた。だが、実力テストになると成績は30番ほど上がるから面白いものである。特に国語となるとトップクラスを保っているから、教師よりは、「遊んでばかりいずに、もっと勉強しろっ!」と軽く拳骨をもらっていた事を思い出す。洗車をしていた友は、地元のトップ企業へ就職し、昨年11月で退職しており、今は地域の自治体役員をしているようである。そこで妻の事を聞いたのか、「奥さんは、大変だったね~。こちらへ帰って来てすぐに倒れたようだね」と話す。 友の話す妻の事柄は、多少の尾ひれが付いていたもののほぼ合っていた。そして、私が一時帰国していた時に倒れたので、白骨化は避けられたと話すので、そんなリアルな情報まで察知しているのかと思うと、流石は成績トップスリーに入るはずと思った。友に手を挙げ別れてからは、うつむき加減に散歩を続けた。下を向いて歩いている事に、前を向かなくてはと手を後ろ手に組み、強制的に体を前に向かせて散歩した。昨夜のラジオ深夜便では、辻井いく子さんの我が子をを育てた26年の第2回目を放送していた。家族で旅行したサイパンで信行が5歳の時、初めて大勢の前で、ピアノを演奏して驚いた事など話していた。 その中で、どのようなハンディキャップがあっても、下を向いて生きてほしくない。上を向いて生きてほしいと、小学校に上がる1年前に、川上 昌裕ピアノ教師に託し、次々と各部門で優勝を果たして行ったと話した。つづきはまた明日と語った後、宮川アナウンサーから、辻井信行さん演奏のドビュッシー作曲、月の光とアナウンスが流れた後、演奏が始まった。柔らかな指のタッチに感動を受けた。そして、今日午後2時から妻の療養する病院へ向け車を走らせた。病院に着きナースセンターの前の部屋に入ろうとすると、「昨日来たのに、また来たの」と笑い「奥さん、喜ぶわよ」と言いながらナースセンターの中へ入って行った。
2015.04.15
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「横の糸は私」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。昨夜のラジオ深夜便でショパンのピアノ曲華麗なるポロネーズが流れていた。しばらくしてアナウンスが流れ、辻井伸行さん演奏だと言う事が分かった。辻井伸行さんは、生まれながらにしての全盲で、母親の辻井いつ子さんは、全盲と告げられてもその事実を受け止められなかった。どうやって育てあげれば良いのだろうと悲嘆の苦しみにさいなまれた。物心がつくようになる頃には、色をどうやって表現すれば良いか悩み、外に出てタンポポの花を触らせ、これは黄色だよと教えても、黄色がどんな色なのかを教えるのが大変だった。 全盲だからと特別な事はしなくてよい。自然体で自然のままに育てれば良いと全盲の人から指導された。目の見える母親にとっては実に辛いものだった。ある日、スタニスラフ・ブーニンが弾いたショパンの英雄のポロネーズのCDを買って来て聞かせていた。来る日も来る日も英雄のポロネーズを聞かせていて、ある日CDが古くなり、音が飛ぶようになった。そこで、スタニスラフ・ブーニン演奏のポロネーズを買いに行ったが、同じCDがなく、ポロネーズなら何でもいいと思い違うピアノ演奏家のポロネーズを買って来て聞かせた。 ところが、あれ程喜んでいたポロネーズなのに、喜ぶどころか良い顔をしない。スタニスラフ・ブーニンしか駄目なのかと思い、レコード店を探しまわり、やっとスタニスラフ・ブーニンが演奏するショパンの英雄のポロネーズを手に入れた。早速息子にそのCDを聞かせた所、リズムを取りながら満面の笑みを浮かべた。この子は演奏家を聞き分けられる才能があると、その時知ったという。ショパンの英雄のポロネーズは、ポーランドの貴族の間に伝わる民族舞曲・格調高い3拍子の音楽で、ショパンの定番中の定番である。 そして、わずか7歳で全日本盲学生音楽コンクール器楽部門ピアノの部第1位受賞する。記憶に新しいのは、2009年にアメリカで開催されたヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した。日本人として初の優勝である。更には2009年7月13日、台東区民栄誉章を受章した。アメリカでの優勝のニュースは、中国でも流れた。中国人ピアニストと同時優勝したので鮮明に記憶している。健康で生まれるに越した事は無い。しかし、全盲と言う障害をもって生まれるが、悲嘆に苦しみこの世を呪って生きる生き方もあれば、その子の才能を引き出すために翻弄しながら生きる事もできる。 とは言え簡単には片付けられない事ではあるが、私はこの辛い苦しい思いを跳ね除けて、何かを模索しながら掴み取った母親の強い力を感じ、涙が止めどなく流れた。私はその時、息をしているだけで幸せと感じた程だった。妻は全身麻痺で病院のベッドに横たわっているだけである。私が入院した時、病院のベッドの硬さに驚き、腰や背中が痛くなり、不満な思いさえ抱いた。妻は間もなく4年の歳月の中の殆どをベッドで過ごしている。何かしてあげれる事は無いものかと考えても考え付かない。ラジオ深夜便を聞いていて、あふれる感動と襲ってくるこの虚無感とに、生きている意味とは、何となく朝が来ればそれで良いのかと自分に問うてみた。今日妻の療養する病院へ向かう車の中でも、その事ばかりを考えていた。病院へ着いてから看護師に「私に何か出来る事は?」と、聞いても「ご主人はここへ通ってくる事だけですよ」と言うだけ。私が「健康に留意し長生きする事しかないかな」と話すと、「そうですよ、奥さんを残して先に逝かないでね」と露骨な話。私に出来る事は、妻より後に逝く事かと思いながら車に乗った。ラジオからは、縦の糸はあなた 横の糸は私織りなす布はの糸が流れていたが妻の横の糸は止まったまま、間もなく4年を迎える。
2015.04.14
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「雨の車道」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。夜中トイレに起き廊下を歩いていると雨の音が聞こえていた。毎年この時期は雨が多かったかと考えても、昨年の事など忘れ去っている。明日の朝の散歩は、またホープに雨合羽を着せて散歩かと思いながら、ベッドの上から落ちそうになっている毛布や布団を直して、その中に潜り込み寝直した。朝7時半に目が覚めたが、思ったより肌寒く感じた。着ているジャージーの上に薄い羽毛ジャンパーを着て、玄関脇の小さなハンガーに掛けてあるホープの雨合羽を見てみた。 ホープの雨合羽はナイロンに防水加工がしてあり、胴体にはストロベリーと大きなアルファベット文字で書かれ、その下にベリースイーツと書いてある。そして更に大きなイチゴと小さなイチゴの絵が描かれている。フードにはイチゴのグリーン色のヘタが縫い付けてある。この雨合羽はもうかれこれ3年半ほどになる。それまでは雨の日はホープが濡れないよう大きな傘を傾け雨が掛からないようにしていた。それも手伝い、私の左側は雨でびしょ濡れになっていた。 だが、降って来る雨を傘で濡れないようにする事は出来ても、ホープ自身が歩いて胸や腹に跳ね返る泥水は避ける事が出来ずに、雨合羽を買う事にした。ホープとイオンモールのペットショップへ行き、雨合羽を選んでいて、女の子だからピンクが良いと思い、現在の雨合羽を購入した。でもサイズが合わずに、小さすぎるか大き過ぎるかで、ほど良いサイズがなく、大き目の雨合羽を買って来た。そしてホープの体に合わせて、手縫いで裏側のメッシュを縫い小さくした。 表側はナイロンなので針を使うと、雨水が伝ってホープの体を濡らすと思い、メッシュだけを何箇所もダーツを取るような感じで塗って丸さを保った。その雨合羽もメッシュを縫った事により、ナイロン部分にたるみが出て、3年半の歳月でひび割れて、所々3センチほど大きく破れていた。散歩を終えて、ホープの背中から腰辺りを手で触ってみると、雨水で濡れていた。タオルで拭けば済む事ではあるが、自分が着る服ならば、破けた服は着る事は出来ない。午後からネットで中型犬の雨合羽を探したが、価格は1,900円から4,800円ほどしている。 雨は止む気配がなく、午後5時過ぎから買い出しの日でもあるので、ホープを連れて買い出しの後、イオンモールのペットショップへ行った。ここはペットを同伴で入れるので、私も嬉しかったが、ホープが一番嬉しかったのではないかと思った。子犬が売られているゲージの前に来ると、目を凝らして尻尾を振りながら見ているから何かを感じているのだろう。そして雨合羽を4・5点手に取ってみたが、ネット販売と変わらない値段だった。以前ホームセンターの中で雨合羽を見た事を思い出し車を走らせた。同じようなデザインが2,150円で売られており、ホープに着せサイズを確認した所、5号と6号で大きさが極端に違った。6号の大きなその合羽を着せたまま買って外へ出た。夕方6時半頃には真っ暗になっており、車のライトを点け、ライトに照らされる雨の車道を帰って来た。
2015.04.13
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「ピンクの封筒」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。昨夜グレープフルーツ4個を大きな鍋に入れ、3分以上沸騰させたのち、朝までそのまま置いておいた。グレープフルーツを沸騰させると、皮が剥き易く甘みが増すからである。今朝は第二日曜日なので、側溝掃除の日である。昨深夜タイマーを7時に合わせて寝た。朝1分間タイマーが鳴る音が聞こえたが、そのまま寝てしまった。ハッと気づいて時計を見ると7時20分になっていて飛び起きた。トイレに行きトイレの窓から外を覗くと側溝を掃除する音が聞こえていた。 ティッシュに目薬をたっぷり浸し目を拭いてから、ベッドで寝ているホープに「ほらっ、目を拭いて行くよ」と言うと、素早く立ち上がった。私が拭いたそのままでは、汚れているので中側を表にひっくり返し、ホープの目を拭いたのち、直ぐに外へ出た。柄の長いデッキブラシを持って、「おはようございます」と大分前から起きていたかのように振る舞った。一昨年は私が組長だったが、輪番制で隣の人が組長になり、今回の4月から新組長になっていた。 家の車庫から出る所に、鉄状の格子のグレーチングが4個あり、玄関入口のグレーチングも指さし「上げるのを手助けして下さい」と頼むと、「まだ無理をせずに休んでいればいいのに」と言いながらも2人でグレーチングを上げてくれた。私は庭の水道蛇口から側溝とグレーチングの隙間に溜まった土をホースノズルから噴き出す水で側溝内に落とし入れ、デッキブラシで押し出して行った。側溝掃除は20分ほどで済み、雑談をしてから散会した。 ホープと一緒に家に入ろうとした所で、グレーチングがそのままになっている事に気付き、持ってみたが1個で18キロほどあった。手術後の痛みで持ち上げるには自信がなく考えていると、点検をし終わった新組長が「どうされましたか?」と聞くので、思わずグレーチングを指さし、「これを側溝の上に乗せて下さい」とお願いすると、「手術されたようですね。家内から聞いています」と言いながら「この位置で良いですか」と持ち上げて蓋をするように被せて下さった。 一礼をして、ホープを連れて散歩に出た。知事と県会議員の立候補掲示板を見て、誰に投票するのが良いのだろうと見ていても、分からない。この4年間の殆どを妻と二人三脚で生きてきており、地方政治に関しては無頓着であった。通り過ぎ行く人たちに「誰が良いのですかね?」と聞くが「現職に入れたよ」と話す。護国神社の遺族会の会費を徴収している人も選挙掲示板の前にたたずむ私に「自民しかないかな」と言う。携帯ラジオから選挙投票ニュースが流れ、前回より出足が鈍っているとの事。やはり自民かと思い、ホープを車に乗せ投票に向かった。 封を開けていないピンクの封筒を持って投票所へ入って行き、そのまま渡すと、「奥さんの分は持っていて下さい」と返された。知事名を書き二つ折りにし投票箱へ入れ、次に県会議員名を書く段階になり、自民公認が2人なので困った。目を閉じて鉛筆を立ててから倒れた方向の人の名前を書いて投票箱に入れた。その後、河川敷まで車を走らせ、ホープを放した。暫し私を見ていたホープは、拘束されていないと思ったのか、尻尾を振りながら全力疾走で走っていた。私は川の流れを見ながら、ラジオから流れるショパンのバラード第1番ト短調を聞きながらのんびり歩いた。
2015.04.12
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「お薬手帳はお持ちですか」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今夜は買って来たスナップエンドウを茹でてから、器に盛りつけ、マヨネーズを掛けて頂きました。その他、剥きアサリと赤魚と煮物とピザでした。私が中国駐在20年の間、帰国する度に街の風景が変わって行くのが分かった。その中で病院の近くに処方箋薬局が出来たのも、わずらわしい事だった。10年ほど前に変わったのだろうか?病院での会計が思っていたより安いので、快くしてそのまま帰宅し、妻から「薬はもらって来なかったの?」と聞かれ、「薬は無かったよ」と答え、領収書などを妻に見せた。その中に薬の処方箋が入っている事など、病院で何も説明がなく、そんなシステムになっている事など知らずに帰宅していた。 妻から「この処方箋をもって、家の近くの処方箋薬局でもらって来て」と言われるまま、徒歩で300mほど離れた薬局まで出向いた。そこは一般の町総合医院の向かい側にあった。中に入り、「この処方箋で薬を出して頂けますか?」と聞き、「アレルギーの薬ですね」と言いながら「すみませんが、一つの薬が私どもにはありません」と言われた。また徒歩で家まで引き返し、車で薬局までまた車を走らせた。薬局の人に「以前は病院内で薬も頂け便利でした」と言うと、浦島太郎でも見るように私を見つめていた。 妻が倒れた時にも、全て病院から薬を出して頂いており、私が交通事故で3週間入院した病院でも薬は出た。今回のそけいヘルニアの手術でも病院から出ており、外の薬局でもらう事は思ってもみなかった。元々交通事故で7か所骨折して、便秘症だったのが、痛みにより頑固な便秘となり、右下腹の切開手術をしてから、更に便秘に拍車を掛けた。病院へ寄り便秘薬を出して頂いた。センノシド錠剤とラキソベロン内溶液を処方して頂いた。薬局へ行くと13人ほどの人が背もたれのないソファーに腰掛けていた。皆70歳以上で中には見るからに80歳以上の人もいた。 受付で「お薬手帳はお持ちですか」と聞かれたが「持って来ていないのですが」と言い、持ち歩くのかと思った。薬が出るのに30分以上掛かるので、車に一人残したホープと散歩した。30分のつもりが1時間ほどになり薬局の自動扉を入った。「出来上がっていますよ」と言う言葉に、会計の方へ行った。薬局内での患者は先ほどの人たちとは違う人たちだったが、やはり同じ高齢者の方々たちだった。薬剤師が薬の説明を始めたので、私は手を少し上げて「この薬の飲み方は分かっております」と話し、「ビニール袋へ薬を入れて下さい」と言うと「薬局の袋は?」と聞くので、「薬だけで結構ですよ」そして、お薬手帳に貼るシールだけ頂き帰って来た。 病院の駐車場のおじさんと話をしていると、おじさん曰く「私も便秘で毎日飲んでいます」と話してくれる。そこへ交代する為に別のおじさんが来て「何を話しているの?」と交代する人に聞いており、便秘の話と分かると、そのおじさんも便秘薬を飲んでいると言うから驚いた。そして「手術した所を押さえて力を入れると出易い」と教えて頂いた。便秘薬も初めはよく効いて8時間くらいで便通があるが、その薬に慣れて来ると、12時間ほどのちしか便通がない。うっかり忘れて外出をすると、コンビニのトイレに駆け込んだ事もあるほどだ。便秘症の人は意外と多いと感じた。
2015.04.11
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「事実を知れば」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。寒の戻りから雨の日が続いており、ホープとの散歩にも気が滅入る。雨の日は街並みの人出も少なく感じる。ホープに雨合羽を着せて散歩していると、よく話をする歳の頃33歳ほどの若者と出会った。彼は昨年一部の若者に人気があるスポーツカーを13年落ちで240万で買った。こだわりがあるのだろうと思いながら受け答えをしていた。彼は独身であり、一時同棲をしていた事があり、その彼女とも挨拶くらいは交わすようにはなっていた。夕方の散歩の帰りの6時頃には、彼女の軽自動車が彼の駐車場の後ろに停まっている。その蜜の味のする同棲生活も半年続いただろうか。久しく彼女の軽自動車が停まらなくなってより彼に聞いてみた。「最近彼女の姿を見なくなったね?」と聞くと、「別れたよ」と簡単に話すから、一瞬言葉が出なかった。それを察してか「別に喧嘩別れしたのではないよ」と彼なりに気を使っているように感じた。私を呼ぶ時は「おじさん」と声を掛けて来る。おじさんと呼ばれても何の違和感もなかった。なぜならば私の一番下の息子が35歳過ぎているので、彼にとっては私は、親父的存在でもあり、そのように接して話している。そして彼は「僕たちは話し合って別れる事が最良だと何のわだかまりもなく別れたんだ」と言うので、私から「それは良かったね」などと馬鹿げた事を言えるはずもなく、「折角の縁だったのに残念だったな」と言い、「じゃー、また話をしよう」と散歩を続けた。散歩していても、先ほどの彼と別れた彼女の事が気になった。彼女に縁談話があって別れたのだろうかとか、簡単に別れるんだな~とか、彼女の親がこの事実を知れば悲しむだろうななどと思いながら散歩をしていると、思いがけず早くに寺の曲がり角へ差しかかっていた。ホープが真っすぐな道を選ぶのか、左へ曲がって行くのか、このT字路に差し掛かると私が決めず、ホープが決める事になっていた。ホープは私の顔を見上げて尻尾を振り、そのまま真っすぐな道を選び進んだ。雨の日の散歩で犬を連れた人の往来は少ない。出会っても殆どの犬に合羽は着せてはいない。ある人が話してくれたが、「ホープちゃんには感心しますよ。私の娘のワンちゃんは、どんなに着せようとも思っても嫌がって着ようとしない」という。散歩はしたいが、ホープに雨合羽を見せると後ずさりする時もある。しかし、私が「散歩に行かないの?」と雨合羽を置いて、行かない振りをすると、私の足に体をすり寄せて来る。そして、もう一度玄関口に行き、雨合羽を持つと、観念したように首を差し出すから可愛いものである。雨の日でも散歩から帰宅すると、ホープは車の後部ドアーの横へ行き動こうとはしない。帰宅後、一度は乗ってみなければ納得しない。私はタオルでホープの足から太腿、頭から顔と拭いてからドアーを開けると、シートへ飛び乗って満足そうにしている。今日は近くをドライブした後でガソリンスタンドへ行った。セルフ式なので車を降りて、ガソリンを入れるため財布の中のカードを探していると、「いらっしゃい」と呼ぶ方を見ると、夜間高校へ通う19歳の店員が挨拶しに来た。前回オイル交換してから車の走行距離が、3600キロを超えていたので「オイル交換って直ぐ出来る?」って聞くと、「では今空いているので先にオイル交換しましょう」とエンジンを掛けピットへ車を移動させた。私が「前回オイルエレメントの交換をしなかったから交換しておいてね」と言うと、「まいどあり~!」と板について来た。母が無くなった時に、葬儀屋さんとの打ち合わせで、動揺していたのか、キーを付けっ放しで、ホープがワイパーを下げ、バッテリーが上がってしまった事があり、バッテリーも交換してもらう事にした。エンジンを掛ける時、直ぐに掛かるので快い感じがした。
2015.04.10
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「痛み止め要りますか」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今日は手術後初めての診察日で、9時半の予約時間に間に合うように7時半にタイマーを合わせた。昨夜は2時前に床に就いたので、携帯の目覚ましが私を呼んだ時は、もんどり打って起きた為、スリッパの先がラジオに繋げた延長コードに引っ掛かり、大きな音を立ててベッドからラジオが落ちた。歩く時は右太腿付け根が痛かったが、驚いて起き上った時は痛みは感じなかった。それよりもラジオが壊れていないかスイッチを入れ壊れていない事を確認して、ベッドに座り直した。私がベッドの布団を跳ね除けて起き上ったので、ホープが布団の下になってしまっていた。それでも何もなかったかのように体を丸めて寝ているから実に幸せ者だ。気を取り直して、ベッドの上の毛布と羽毛布団をベッドの縁に来るように、反対側のスペースに行き、毛布から一気に引っ張り整えた。ベッドの縁に布団を揃えないと、ホープが上がれないからである。昨夜は風呂に入る時間が無くなってしまい、今朝起きてからタオルを濡らしてレンジで温めてから「キレイキレイ」のハンドソープをタオルに塗って体を拭いた。手術で切った所の縫い目が盛り上がっており、その上に2センチ幅のテープで保護してあった。腫れは引いているように見えた。タオルを今度は温水で洗い、軽く絞った後でハンドソープを拭い取るように拭いて行った。今朝も少し寒かったが、時間が刻々と迫って来るので、そんな事は言っておれなかった。下着類を替えてアンダーウェアーパンツも着替え、レッグウォーマーをルーズソックスのように膝から下を整えた。私の寒暖差アレルギーは向う脛がぞくぞくするとクシャミに繋がるので、考えた末の防衛スタイルである。朝の時間が過ぎ去るのは、早く感じた。長女が作って行ってくれた冷蔵庫の煮物を温め、その中の鶏肉だけを選んでホープの食器に入れて行った。ホープと一緒の朝食である。「ホープ!早くしないと遅れるよ」と私の気持ちだけ焦っていた。出発時刻になり再度、診察券や保険証など確認して、ホープを抱いて車に乗せ出発した。病院までの道路は混んではいなかったが、病院の600台収容の駐車場は満車状態だった。一番奥に停め、ホープに手を振り歩いて行った。診察券を予約機に入れるとA4紙にプリントアウトして予約表が出て来た。それを持って外科受付に行った。時計の針は9時20分を指しており何とか間に合った。だが、受付からは「今日は混んでおりまして1時間ほど待って頂けますか」と言うので、「では、犬と散歩に出ますが宜しいでしょうか」と了解を得てから外に出た。外科に限らず何処の待合室も患者で一杯であり、殆どが高齢者だった。ホープと45分間散歩し再び受付へ行った。私の番号283を告げると、もうすぐですと言うのとほぼ同時にアナウンスで中へ入った。それと同時に、診察室から担当医の聞き覚えのある声がした。「はーい」とノブを回し中へ入った。私は「久しぶりです」と挨拶すると「元気そうですね。痛みは?」との質問に、「痛いですよ」と言うと、カルテを見ていた。カルテを見ながら「退院後一度も病院へ来ていないようですね」と言い更に「痛み止めは退院後直ぐに無くなったのでは?」と、、。私は、退院する時に沢山出してくれたら良かったのにと思ったが、それは言わずにまだ黙っていると、「殆どの人は痛み止めをもらいに来るのですがね」と言うので、私は「先生、ず~っと我慢して来ました」と言うと、「痛み止めは肝臓に影響を及ぼすから我慢できるなら飲まない方が良いですね」と言ったが、「痛み止め要りますか」と聞くので「今更要らないです」と言うと「じゃ、傷口だけ確認します」とベッドに横になり診てもらった。医師は、傷口に貼ってあるテープを剥がすので痛みが走った。「きれいになっていますよ」と言い椅子に座ると、「思い出しました。銭湯が好きだと言っていましたね~。あと2日もすれば行っても良いです」と言うが、こんな姿では少しの間は、銭湯へは入れないと思いながら、結局薬は何ももらわず病院を後にした。そして、そのまま妻が療養する病院へと走った。ゆっくり走行したので1時間掛かった。階段の手すりを持ちながら上がっていると、看護師が私の姿を見つけ、「そんな体で無理してこなくても良いのに」と言い「この前、お孫さん来ていましたよ」と、、。しかし、朝急いでいた為、妻の寝間着は玄関脇に置いたままで、結局手ぶらで来てしまっていた。
2015.04.09
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「育った環境」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。ラジオの放送では、寒の戻りと何度も報じていた。人は暑さ寒さの自然環境へ徐々に体が順応することが出来るが、急な気候の変化には順応出来ずに調子を崩してしまうものである。私もその中の一人で、どちらかと言えば、他の人よりアレルギー的な症状が直ぐに表れるのではと思う。このDNAは長女と長男にも受け継がれ、孫の中にもアレルギーで辛い思いをしているものもいる。その点、妻はアレルギーの症状は無かった。私が寒暖差アレルギーの為に鼻をかむティッシュで小さなゴミ箱が直ぐに山になるのを見て、「そこまでして鼻をかんだら鼻が痛いんじゃないの?」とよく心配された。そして、「ティッシュがもう無くなったの?ティッシュを買っても買っても直ぐに無くなるから信じられない」とよく言われた事が今では懐かしい。妻のDNAは次男に受け継がれ、次男は何ともないようである。私の血液型はAB型で、妻はB型である。そして誕生した長女はA型で長男はB型で、次男は私と同じAB型である。妻の性格は、どちらかと言えば温厚でマイペースである。その性格は長男に受け継がれている。長女は温厚な面と慌てん坊な面などがあるが、どちらかと言えば私の中のもう一人の私の性格に似ていると良く思う。次男の性格は、表現するのは、ちょっと難しい。変わった性格であり、その点は私のAB型の血が流れているのかも知れない。だが血液型占いとかあるが、私は信じようとは思わないし聞き流す方である。なぜならば、人の性格は血液型では決まらないと思うからである。私は中学時代や高校時代、「君の性格は読めない多重人格だ」とよく言われた。だが、いじめではなく冗談でもないから始末が悪い。私の性格は幼少の頃の育ちが人格を作っているように思える。母が突然死した為、3歳半から小学校に入るまでの期間、3軒の親戚を半年毎に回り育てられた。人の顔色ばかりうかがっていたような記憶がある。ゆえ、人の性格は血液型で決まるものではなく、育った環境と、どんな人に接して来たか、究極、「縁」で形成されるのではと思っている。写真は、ホープであるが、ホープの兄弟はこの世にはいない。両親も他界してしまっている。現在この世に残っているのはホープだけである。ホープは長女が行きつけの美容院のお客さんから譲り受けたものである。その便りは中国に居た私の元へ知らせが来た。ホープの前の犬の名はラッキーで16歳で他界した。他界して、泣き明かした長女は、僅か1ヶ月でホープを譲り受けて来たと妻からのFAXで知った。ホープの性格も育った環境に起因しているのではないだろうか。
2015.04.08
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「ゴミの仕分け」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。昨夜は思ったほど寒くはなかったが、今朝プラスティックゴミを捨てに行く時には、花冷え模様で寒くも感じた。ホープを連れて行こうと思ったが、眠っていたので置いて来た。往復でも4分ほどの場所にあるので、問題ないと思ってピンク色のプラスティック指定ゴミ袋を持って出た。ゴミ置き場には既に沢山のピンク色ゴミ袋が積まれており、その近くで自治会の奥様方が井戸端会議をしていた。私は、「おはようございます」と挨拶すると応えてくれた。「奥さんは如何ですか」と聞くので「変わりはないですね」と答えて、ゴミ袋の山の低い所に持って来たゴミ袋を置いた。ゴミ当番は輪番制になっており、燃えるゴミ当番、燃えないゴミ当番、プラスティックゴミ当番。そして、資源ゴミAと資源ゴミBの当番とに分かれ、私は本来なら今月は、燃えるゴミと資源ゴミの当番だったが、手術前に次の人に事情を話し、5月度と交代して下さいとお願いしていた。その他に、自治会にて側溝掃除が第2日曜日一斉に行われる。こちらへ転居した時に、側溝掃除の事を知らずにいて、妻がご近所に気を使ったようだ。妻が脳出血で倒れてからは、ゴミの仕分けや側溝掃除など見えない所で沢山やる事があると思った。自分の知らない事があると、わずらわしいと思うのは誰でも感じる事ではあるが、世の主婦は皆その事をこなしているのだから器用なものだとも思った。そして、ゴミ集荷場から家に帰ろうとすると「そう言えば、手術入院されてたんですってね」と一人のご婦人が聞いて来た。私は、「手術は簡単だったと言ってましたが、術後の痛みが大変でした」と話すと、別のご婦人が「手術されたの?私全然知らなかったわ」と言うものだから、「貴女は一々知らなくていいの」と何となく雰囲気がおかしい。「ホープちゃんはどうされてたの?」と聞くので「娘が孫3人を連れて10日間面倒をみてくれました」と話すと、また別のご婦人が「だからだわ、子供さんがホープちゃんを散歩させていたから」と話した。「今は痛くないんですか?」と聞かれたので、「少し痛みが残っています」と話したが、実際は少しどころか、小股で歩くほど痛かった。「ホープを家に残して来たので帰ります」と一礼をすると、「あまり気を落とさずにね」「奥さんも入院して大変だわね」と、私は話が思わぬ方向へ行きそうな予感を感じ、また一礼をして帰って来た。少し歩き出すと奥様方の話す声が聞こえて来る。「奥さんが倒れるとご主人は大変よね」その後も話していたかどうかは、段々離れて行くので分からなかった。家の近くまで行くと、縁側からホープの私を呼ぶ声が聞こえた。相当必死に吠えている。中に入ると、尻尾を振りながら私を見上げていた。
2015.04.07
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「銀行印を押す段階」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。午前中のホープとの散歩は、ゆっくりと言う表現より大股では歩けないので、小股でそれも歩く度に右足靴底が擦れる音を発しながら歩いた。一番痛い頃は、初めの一歩に腰をかがめ気合いを入れて、どうにか踏み出せたが、その時から比べれば、大きく前進したと思う。ホープも私の体の異変を知ってか知らずか、少し行っては振り向き、私が暫し止まれば、一緒に止まり待っていてくれるから、長女曰く、まさに忠犬である。 傘を持って出掛け、途中でぱらぱらと雨が降ったが、傘は差さずに歩いてきた。今日は月曜日で買い出しの日である。長女が帰る前に食材を買って冷蔵庫に入れてあり、3日分程のおかずもタッパに入れ、冷蔵庫に入れてあるので、買い出しに行く必要もなかった。だが、スーパーではフランスパンのバケットを、月曜日に取り置きしてくれているので、やはり行かない訳にはいかなかった。 買い出しに行く前、ふと玄関脇に置いてある薄いA4バッグが目にとまり、買い出しの前に銀行へ行かなければならなかった。バッグの中には、2週間ほど前に市役所から送られて来た自動送金の書類である。母が他界したのは昨年6月6日で、それまで母が市役所資産税課へ送金していたものを、私が引き継ぎ送金していたが、面倒なので銀行自動送金をしたいから銀行の書類を送ってほしいと頼み、手術入院の4日前に来ていたが、そのままにしてあった。 退院して来てより、その書類の事はすっかり忘れてしまっていた。昨夜、封を切ってある役所から届いている封筒の中身を見て、急ぎ銀行へ提出する書類の必要個所に書き込んでいった。だが、銀行印を押す段階になって、印鑑を押すのが強過ぎて、書類が通らなかったことがあり、それ以来銀行の書類への押印だけは行員に頼んで押してもらっていた。銀行窓口へ行くにもホープを連れて行った。本当は他の客の手前、盲導犬以外は駄目であるが、ホープは大人しくしている事も手伝い何度訪れても問題なかった。 窓口の行員から奥の先輩行員へ聞いてもらった事は、「今日は4月6日ですが、この送金が間違いなく4月30日に間に合うかどうか?」である。行員は「この書類が一度本店で掌握されてから役所へ郵送されるので問題はないとは、、」と答えていると、先輩行員が私に、「お客様が直接役所へ持ち込まれるのが確実だと思います」との事で、その足で役所まで車で走った。役所の中は、さすがにホープは連れて入れないので、車に残したまま銀行が捺印した書類を持って窓口へ手渡し、期日に間に合うかどうか聞いたところ、「問題ありません」の一言に安堵して、買い出しに向かった。
2015.04.06
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「至福の一時を味わう」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今日は久方ぶりに風呂へ入った。街のスーパー銭湯ではなく家庭の浴槽にお湯を張った中へ入った。3月26日夕方に病院のシャワー室にて、シャワーを浴びた夜から熱が出だし喉も腫れて来て、手術日当日に執刀医も上司に相談するほど執行するかどうか迷っていた。退院してよりネットで調べてみると、発熱時の手術は最悪生命に危険を及ぼすとある。発熱時はマッサージ療法でさえしてくれないので、麻酔を打ち体にメスを当て切るという行為は危険が伴うのだろうと容易に察知できた。手術後は病室に熱いタオルが2枚配られ体を拭くように指示された。初めはどれ程の熱さか知りもしない私は、絞ったタオルを持った直ぐに床へ落としてしまった。とても素手で持てれる熱さではなかったからだ。それを拾おうと術後の不自由な体で、床のタオルに体を近づけたが、看護助士がそんな私を見つけ、床に落ちたタオルは使わないようにと別のタオルを手渡された。だが、また熱いのではと思い手を引くと、「もう冷めていますよ」と笑いながら言い手渡してくれた。そして、適当に顔から拭き出し、手首や上腕などを拭いて行くと、別の看護助士が、熱いタオルの時の体の拭き方をジェスチャーで教えてくれた。手や足なども心臓に向かって拭いて来ると体が楽になるとの事だった。しかし、私の場合、右太腿の付け根が酷く痛み、かがめなかった。2年7か月前の交通事故で、シートベルト着用で命が助かったのだが、シートベルトの締まる衝撃により、2本の胸骨骨折と右太腿付け根にジーンズポケットに入れてあった玄関の鍵類が刺さり出血し、抜き取るのに麻酔を打ったほどだった。丁度、その部分が酷く痛んで、医師に問い合わせても、「そんな所の痛みを訴える患者さんも居ますね」と言われるだけだった。痛み止めと胃薬は処方されていたが、痛みは増すばかりで、痛み止めの薬が直ぐに無くなり、看護師を呼び薬が無くなった事を訴えるが、「医師の処方がなければ薬は出ません」と言われ、医師が病院へ出て来るまでの丸一日の間、痛みを我慢していて、体を拭くどころではなかった。退院してからは、タオルを濡らして、レンジで30秒ほど温めると、持てないほど熱くなる。それで顔や手を拭いて、拭いているうち冷めて来ると、またレンジで熱くして拭いていた。しかし、退院してから10日間は風呂へは入った事がなかった。長女と3人の孫たちは、近くにある2軒の天然温泉のスーパー銭湯のはしごをしていた。私は患部が腫れあがった体で銭湯へ行くわけにもいかず、ただ体を拭くだけであった。昨夜長女が長い日日を私の為に犠牲にし手助けをしてくれ2時間の道のりを帰宅し、静かな夜をホープと過ごした。今日は、脱衣場にファンヒーターを点け、湯船にお湯をはり、脱衣場が暖まったのを見計らい、浴室に向けファンヒーターを向けて着ている服を脱ぎ出した。ホープは横で尻尾を振りながら、私が裸になるのを見ていた。湯船に入る前に、傷の具合を確認すると、7センチほどの切り傷から太腿に掛けて、横方向に何段もエンジ色に変色していた。手術の折、メッシュを中に入れ、筋肉と縫い合わせる時に、引っ張り過ぎたのだろうかなどと思いながら、湯船に浸かった。首まで浸かると暫くして、今までの痛みが徐々に和らぐのが分かった。足の腫れも酷く、ふくらはぎ部分は靴下の境目に段がついていた。浴室に向けファンヒーターで温めたのは、初めてのことだったが、目を閉じると温泉に浸かっているようで、至福の一時を味わった。
2015.04.05
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「皆既月食写真」 「ワンダーフォトライフ」では、皆既月食を撮影した写真をコピーペースト公開します。2015年4月4日は皆既月食にあたる日だった。だが、あいにくの雨模様で空には星ひとつ見えなかった。北海道札幌では、見えたようである。皆既月食とは、地球と月は太陽の光を反射して輝く天体で、地球や月にも太陽の光による影があり、太陽とは反対の方向に伸びていいる。この地球の影の中を月が通過することによって、月が暗くなったり、欠けたように見えたりする現象が「月食」と呼び、その天体ショーが4月4日だった。月食は、太陽-地球-月が一直線に並ぶときに起こるが、満月のときだけに起こり、星空の中での太陽の通り道に対して月の通り道が傾いているため、ふだんの満月は、地球の影の北側や南側にそれた所を通る。そのため、満月のたびに月食は起こらない。次の皆既月食は3年後の1月だそうだ。今外は土砂降りの雨。桜の花が散ってしまうかも。
2015.04.04
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「あなただから出来る事」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。今日は朝からラジオでは、皆既月食のニュースを報じていた。7時半頃、玄関から外に出て月が出ていないか確認した。だが確認するまでもなく、玄関の屋根下の玉砂利は濡れてなく、屋根がない玉砂利は春雨に濡れていた。月は見えないと分かっていても、空を見上げているから未練である。今日の日本列島は北海道と沖縄で月が見られ、九州から本州に掛けては雨か曇りである。 今日の夜か明日には北海道や沖縄の天体観測マニアから皆既月食の写真が投稿されるから、それで我慢するかと玄関の鍵を掛けた。玄関から今ノートパソコンをタイプしているキッチンまでの廊下が広く感じた。長女が一生懸命に片づけてくれたお陰だ。そして、以前はノートパソコンの置いてあるキッチンテーブルの周りには物が隙間なく置いてあった。それはそれで使い勝手が良かった。しかし、何か大きな物を置こうとするとテーブルの端から、薬などが床に落ちた。パソコンの手前が唯一、私の手の置き場で、食事からタイピングまで狭いスペースでこなしていた。 今、キッチンテーブルの上にはノートパソコンしかなく、かなり広いスペースがきれいになっている。だが、今朝から何か物を取ろうと思っても、何処にあるのかと色んな場所を探しては座りなおしている。以前なら、手の届く範囲に日常の物が置いてあり、座りっぱなしであったが、今では何度も立っては座り、軽い運動にはなっている。医師からも退院してから急激な運動はいけないが、少しずつ散歩ぐらいして体を元に戻して下さいと言われていたので、その点、丁度良いのかも知れない。 ラジオのニュースから、元「シャ乱qのつんく」の現状を報じていた。2014年3月に喉頭がんを公表し活動を休止。平成26年度4月の同校入学式のプロデュースを初めて担当した。しかし、式当日は治療のため出席を断念し、映像で祝辞を寄せた。今回も近畿大学側から平成27年度入学式のプロデュースを喉頭がんのため声帯を摘出した以後も頼まれ、つんく自身も引き受けた。 黒のスーツに身を包み、ただ黙って立ちつくす彼の後の大スクリーンに映し出された祝辞を司会が代読した。「入学おめでとうございます」と読まれたあとに、「去年から喉の治療をしてきましたが、結果的に癌が治りきらず、一番大事にしてきた声を捨て、生きる道を選びました」と伝えた。 「また振り出しです」と続くスクリーンのテロップには、「今年も近畿大学の入学式のプロデュースをお願いしたいと依頼があり、こんな私がお役に立てるならと今回の仕事を引き受けたことを明かした。そして「私も声を失って歩き始めたばかりの1回生。皆さんと一緒です。こんな私だから出来る事。こんな私にしか出来ない事。そんな事を考えながら生きていこうと思います」と決意。「皆さんもあなただから出来る事。あなたにしか出来ない事。それを追究すれば、学歴でもない、成績でもない、あなたの代わりは無理なんだという人生が待っていると思います」とエールを送った。私の叔母は胆のう癌で、余命2ヶ月と宣告され、本当に2ヶ月で逝った。この世に生を受けた使命を終えたので逝ったとは思わないが、「シャ乱qのつんく」の本名は、寺田光男さんだが、作詞作曲する際の名前は「つんく」のままで活動していた。 今後どうなるのかは誰にも分からないが、今後訓練を積み、声帯で出される音に代わって食道発声を獲得すれば、話せるようになる筈である。頑張れ「つんく」、、。
2015.04.04
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「花曇りの桜並木」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。午前中は春雨が降ったり止んだりだったが、午後3時を過ぎる頃から雨脚が強くなって来ていた。長女は子供3人を連れて私の車に乗り買い物に出掛けた。私はホープを連れて150mほど離れた両親の眠る墓地まで歩いて行った。春雨の止んだ合間に傘を持たずに墓まで行き、買ったばかりの造花が残っているかどうか確認に行った。私が手術入院する前に車で30分ほどのフラワーショップへ買い物に行った。心無い人に持って行かれたが、親切に1対の片方が残されており、それを持って行ったので、容易にサイズが確認出来た。 事前に電話で確認を取って行ったが、ショップのご主人ではなく奥さんが応対して下さり、価格も片方で4,500円の大きさを尋ねたところ、ありますから来て下さいとの事でショップまでホープを乗せて向かった。奥さんは、実家に急用が出来たとかで留守だったので、ご主人が応対してくれた。造花を見るなり「この大きさは取り寄せないと店にはありませんね」と話され、私より「何日位で入荷しますか?」と問うと、「5日もあればお届けできます」との事。私は「家まで届けて下さるのですか?」と聞き直すと、「妻が聞き間違いしてしまっているので、お届けします」と半額の2,500円を手渡して来た。 私が、もしかして手術入院すると言う事は、ショップのご主人には告げずに来たので心残りだった。だが、その頃には長女が来ている頃と思い、長女が家に来てより、残額の2,000円を手渡して、手術を行う病院へと向かった。造花は予定より3日早く手に入ったと携帯に電話が入った。私はその日に入院しなければならないので、長女に電話を替わり入院した翌日届けてくれたようだった。私が入院した事を告げたようで、あれ程元気だったのに病気ですかと心配されていたと事。長女からは「お父さん、造花だけの為に車を走らせて来てくれるショップは余りないよ」と言っていたが、ショップの奥さんの勘違いで、人の優しさを感じた報告だった。 写真は、昨日午後から、花曇りの中、近くの会社の桜並木道が解放されているので、長女たちと行って来た。私が入院前に来て、桜の花が咲いていないか確認には来ていたが、入院している間に、桜は季節を感じ、一瞬のうちに開花していた。車を桜並木道近くの駐車場に停めて、徒歩で向かった。ホープは長女の子供の6歳になる末娘がリードを持って横断歩道を少し遅れ気味に渡った。ジブリのかぐや姫の主題歌を歌いながら歩いているので、私は、何となく癒される気持ちで、ゆっくりと歩いた。4月4日と5日で花祭りが行われる為、桜の木にはボンボリが下げられていた。この桜道は200mほどの両脇に300本ほどの桜の木が植えられていた。父が再婚し、私が預けられていた九州の本家から来た時には、桜の花の記憶があるから相当長い年月風雪に耐えて来た桜の木だと思う。 子供たちは、両手を大きく広げながら、「きれいな桜がいっぱい咲いていて幸せ~!」と言っては、左右の木を行ったり来たりしていた。桜まつりにはまだ日日があるので、人々の出足は少なかった。行き交う人たちがホープを見つけては歩み寄り、「おとなしいワンちゃんね」とか「きれいにしてもらって幸せなワンちゃん」などとホープの頭を撫ぜたりしては去って行った。ある年配のご婦人は「ワンちゃんは何歳ですか?」と末娘に聞いているので「15歳半位で76歳くらいだって」などと6歳の末娘が、「76歳くらい」と、ご婦人に話すのが何とも可笑しくもあった。 その後、車に乗り、長女の運転で妻の療養する病院まで向かった。私が後部座席に乗り長女の運転を気にしながら見ていると、結構なスピードを出して走るので、交差点の信号が黄色に変わった時に、「停まれるか?」って後ろから、つい声を掛けてしまうので、長女も煩かったのではと思う。ホープは助手席に乗っているが、何度かブレーキを踏むときに、ダッシュボードの上に前のめりになるので、ホープの爪で、あちこち引っかきキズが着いていた。私は今でこそ安全運転を心掛けるようになったが、若い頃はスピードを出す方で、その性格が娘に出ているのだと思いながら病院の扉を入って行った。看護師たちから手術大変だったわねと声を掛けられた。そして、あまり無理をすると駄目ですよと看護師の言葉だった。
2015.04.03
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「下半身麻痺」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。私が喉を痛め熱を出す原因は病院のシャワーではなかった。入院する4日前の日は71歳の叔母の通夜葬儀の日だった。寒い中、薄い羽毛ジャンパーから礼服姿に着替えで行動していた。葬儀場の中は暖房が効いていて軽く汗ばむほどだった。しかし、外は寒く、その寒暖差に体がついて行けなく風邪の潜伏期間を経て、手術入院をしシャワーが引き金で熱が出たものと後から思えば分析できた。1時間ほどして執刀医が、病室を出て行く時の硬い表情とは打って変って微かに笑みを浮かべ入って来た。「全身麻酔での手術ではないから行いますので安心して下さい」と言われるが「私の心配しているのは先生、腰椎麻酔注射の痛みなんですが」と言うと、「若い方の方が痛みが少ないようです。歳を重ねる毎に痛みが増すようですね」と言う。困惑している私に「出来るだけ痛くないようにしますから、もし上手く入らなければ2・3度刺せば出来ます」と余計に患者の不安をあおる発言に「先生!頼みますよ」と言うと「私も打たれた事がないので、とにかく痛くないようにしますから」と部屋を出て行った。 同じ病室で話のやり取りを聞いていた隣の患者が、カーテン越しに「腰椎麻酔ですか~、あれは痛いですよ」と言うので、余計に熱が上がりそうな気持にさえなった。看護師主任が入って来て「前の手術が早く終わったので30分ほど早く出発します」と言いに来たが、ほぼ同時に執刀医も病室を訪ねて来た。「聞いてもらったと思いますが、手術の時間が早まったので、今から手術室へ」と迎えに来た。手術室までは、看護師と医師にガードされ連れて行かれた。私は点滴ハンドルを持ち押して手術室まで看護師たちと向かった。手術室に入ると暖かくしてあった。看護師から「これ以上気温を上げると医師が汗をかきますから」と言い「はい!こちらを頭にして寝そべって下さい」と言われ寝そべると、ドラマで見る照明器具が目に飛び込み、その後執刀医と主治医と他に2名の男性と看護師3名がいた。 主治医から「心配ないですからね。今日は別の後輩医師が執刀しますから」と言い、「私が詳しく指導していきますから」と主治医の言葉の後に、執刀医は「もしも、左右を間違うと大変なので、右手の甲に右と書かせて下さい」と、一瞬「私は練習台?モルモット?」などと思っていると、看護師が患部に消毒を3度した。こんなに消毒するならシャワーなど入らなくともよかったのではと思ったが、女子プロを思わせる体格の看護師が「はい!私の方へ向いて下さい」と体を横向きにするが「貴女の出たお腹でつかえて動かない」と言うと皆さん大笑い。そして腹を引くように私を横向きにすると、膝の裏側と首を持って私の体を丸めた。主治医から「もっと丸まりませんか」と言うが精一杯である。医師は両腰を指で押さえたあと、斜めになぞって腰椎の目標個所を定めると、「この辺ですかね」と声が聞いている。「その辺だな」と言う後に、「では今から針を刺しますからね~、痛くても声は出してもいいが、体を動かさないようにね」と言われ緊張する。「はい!力を抜いて」と針が入って来るのが分かった。 執刀医より「上手く針が入りましたからね」と言ったあと「今から麻酔液を注入しますから動かないで」と、皆から聞いていた痛みほどではない、脳からドーパミンが出て痛みを和らげてくれたのかなど考えていると、右太腿辺りが熱くなるのが分かるほどで、その後、麻痺し全く動かせなくなった。医師より左足を突かれ「感覚ありますか」と問われうなずくと、今度は右足をつねって「感覚は?」と問われたが、全く感じなくなっていた。「メスを入れて」と、私が「切り込みを入れたのですか」と聞くと「もう切りましたから安心して下さい」と主治医の声。主治医は執刀医に「先にこちらを開き、そのあとメッシュを入れて」と小まめに指示を出していた。手術は1時間少々で終了した。私は下半身麻痺で全く動かなく、いつの間に持ち込んだのか手術台から病室のベッドへ上手く移動させてくれた。麻酔が効かなくなる2時間後から痛みが増して来た。今、タイプしていても右下腹から太股付け根が痛む。咳をすると痛むので、咳をする前に一々構えて咳をしている。腹腔鏡で手術した方が、後からの痛みは少なかったのかもと思ったりしたが、腹腔鏡手術しても痛みは残るとの事だった。あとはゆっくり日にち薬なのかなどと思っている。長女は子供の学校の準備があるので明日夕方には帰るので、それまでに少しは痛みが和らげばと思いながらタイプしている。
2015.04.02
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「手術前に熱が出る」 「ワンダーフォトライフ」では、愛犬との散歩の途中で撮影した写真を公開しています。退院して来たけど、思ったより術後の傷が痛む。長女が子供3人連れて私や妻、ホープの面倒、家の掃除等々、退院してからも、長女が居てくれ助かっている。そけいヘルニアの手術の前日に入院し、翌日午後2時からの手術に備え準備をした。入院した午後1時から就寝前まで8時間の間に3回の検温をした。1回目より2回目の体温が少し高かった。しかし、看護師が来て「手術前にシャワーを浴びて下さい」と言われたが、「何となく風邪をひいたようでシャワーを浴びると熱が出そうな気がするので、手術前の患部消毒でお願いします」と言っても、看護師は「手術前の決まりですから、その決まりに従って下さい」と押し問答。看護師主任が来て、執刀医師が来て、主治医も来て「シャワーを浴びて下さい」と言われ、「熱が出て手術が出来なくなっても知りませんよ」と言うと「その時は、その時になって考えましょう。今患者さんのする事はシャワーを浴びる事です」と出て行き、担当看護師が入れ替わりに入って来て「主治医まで手こずらせるとは、、」と言ったかと思うと「本当は夕方5時でシャワー室は鍵が掛かりますが、6時までには入って下さい」と出て行った。 私の体質は寒暖差アレルギーで、寒さを感じると直ぐに鼻水、くしゃみや微熱が出る厄介な体質である。手術前に熱が出ると熱が下がるまで手術は出来ないと手術承諾書にも小さく書かれていた。だが、自分の体質なので他人に分る筈もなく、仕方なしにシャワー室へ向かいシャワーを浴びた。そして、就寝前に違う看護師が検温に来た。夕方の看護師の事を聞くと3交代制で交代したという。2回目より3回目の方が体温が上がっていたが、「平熱は高い方ですか?」と聞くが、今までの説明をする気にもならず、明朝様子を見る事で帰った。私の部屋は4人部屋で、初めは私と同じヘルニア患者と思っていたが、夜に何度も「痛い痛い」とナースコールをするので、その度に目が覚めた。後で分かった事は、お二人共にガン患者だった。 朝7時に看護師が検温に来た。看護師は「あらっ、大分熱が高いわね」とメモすると、「主治医が来てより報告しますね」と言うので「何度です?」と聞くと「7度8分」と言うので、「それ位なら手術できますね」と聞くと、「それは主治医が決めます」と帰ってしまった。少ししてから「朝食の準備が出来ましたので歩ける方は取りに来て下さい」とアナウンスが流れ、ベットを立ってから「食事は出来ないのだ」と思い直してベッドに横たわり、カメラマン雑誌を見ていると、午前8時半に執刀医が私の病室を訪ねて来て、「熱が出ているようですね?」って聞くので、私は「ええ、喉も痛いんですよ」と答えると、「喉を見せて下さい」と、私は「あーん」と口を開けると、「確かに喉が赤く腫れていますね~」と言ってから、「私では手術が可能かどうか決定できないので上と相談して決めます」と病室を出て行った。
2015.04.01
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