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TAO 老子の道 にこのような文章がある。「つねに、<独りであること aloneness>と<孤独であること loneliness>の違いを心にとめておきなさい、と述べている。孤独であること、というのは傷に似ている。孤独であるということは、あなたは他人を欠いているという意味だ。孤独であるということは、あなたが絶えず他人のことを考えている。絶えず他人に憧れているという意味なのだ。他人があなたの幻想の中の、あなたのマインドの中に、あなたの夢の中につきまとう。その他人は本物じゃあない。それは架空のものだ。しかし、とにかくそれはそこにあり、それが本物でないために、あなたは孤独を感じる。あなたが自分の<独りであること>を感じはじめるとき、他人というのはあなたのマインドから完全に落ちている。それはもうあなたの夢に影を落とさない。それはもうあなたの純粋性に触れて来ない。そうしたら、あなたは自分自身にハッピーだ。あなたは自分自身に恍惚としている。あなたは自分自身を楽しんでいる。あなたは<全体>だ。いまならあなたは愛することができる。いまなら愛は流れる事ができる。しかし、いまや愛はひとつの分かち合いであって、逃避ではないだろう。もうあなたは行って、あなたの実存を、そしてあなたの非実存も、分かち合うことができる。・・・・・・・・あなたはいつでも独りになる用意があるからだ。実際のところ、あなたは独りで幸福なのだ。一緒にいても」幸福なのだ。あなたは選ばない。両方ともいい。何がどうあれ、あなたは幸福を感じる。あなたの幸福はもうぶち壊され得ない。他人はそれを楽しみ、それを分かちあることができる。だが、それを破壊することはできないのだ。」OSHOは以上のように述べている。結婚も、独りでも幸せなのだ。一緒にいても幸せなのだ。この境地でお互いに結婚をすれば、それは、幸せな結婚生活ができるだろう。相手に自分の幻想を求めない。しっかりと、自分を確立している。相手にそれを求めようとしない。この事を理解している人たちは未だ一部だ。結婚は決して、半人前と半人前が一緒になって、一人前になるのではない。0.5×0.5=0.25になってしまう。一人前と一人前が一緒になるから、1×1=1でいられる。だから、独りでも楽しい、二人でも楽しい、となる。
2008.02.29
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丁度、3年前、定年を迎えようとしていた。時間的な定年は一年後であったが、厳密には定年扱いにしてもらい、一年早く退職した。30年以上も勤めた職場だったので、何回かの送別会があった。その頃には、直感を信じていたので、送別会のスピーチも特に用意しなかった。何回かの送別会の挨拶で必ず最後に「自分を愛すること」という言葉が自然と出てきた。送別会で何でこのような言葉を言わなくてはならないのだろうか? と思った。「自分を愛すること」 これは当たり前の事だ。しかし、なんで、何度もこの時期に、このフレーズが出てきたのか、何となく釈然としなかった。昨年、田中麻里さんが主催している、ワークをいうワークに参加した。「ワーク」と呼ばれるワークは、バイロン・ケイティさんが創り出した方法であり、シンプルだがとても強力なこころのワークだ。4つの質問が基本になっている。1)それは本当ですか?2)あなたはそれが本当だと確信していますか?3)そう考えるとき、あなたはどう反応しますか?4)その考えがなければ、あなたはどんな人になりますか?以上の4つの質問が根幹をなし、文章の入れ換えをその後に行う。そのセミナーは全部で2時間くらいと短いものであった。でも、そこで、「自分を愛すること」の意味が自分なりに腑に落ちた時、「ああ、そういうことだったのだ」と2年半の塊が溶けていくようであった。この、ケイティさんの「ワーク」を日本で実践し、指導できる人は未だ少ないらしい(どうも、ほんの数人らしい)。催眠療法に端を発して、いろいろな方々を知り合える機会を得た。そこでの人脈や紹介された本など、必要な知恵を与えてもらっている。田中麻里さんも、精神世界、カウンセリングなどを積極的になされている。まさに、麻里さんにより、「自分を愛すること」→「自分は他人から愛される必要もないし、評価される必要もない」へと結びつけてもらった。
2008.02.28
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昨日、「高濃度ビタミンCの新しい効果」と題する講演会を聴いた。ビタミンCを人間は体内で合成する事はできない。オレンジジュースを代表として、外部から摂りいれる必要がある。その量は一日60mgといわれている。ところが、この高濃度ビタミンC療法は、一日に15gから開始して、75gまで週に2~3回の静注を行う。この方法の歴史は古い。アメリカでのがん治療の権威あるメイヨークリニックで以前、がん患者に投与して、その効果は否定されている。しかし、この時の方法は静注ではなく、経口投与にて行われている。静注により、血液内のビタミンCの量を高濃度に上げなければ効果がないとしている。ところが、これの治療法が注目され始めたのは、2005年にアメリカ合衆国の国際健康機関により、ビタミンCが抗がん剤としての作用を持ちながら、正常細胞は全く傷つけないことが証明されてから、代替医療専門医を中心にこの治療を取り入れている医療機関が増えつつあります。この抗ガン作用の原理は、がんはぶどう糖が大好きでそれを取り込むことはよく知られている。PET検査もぶどう糖をラジオアイソトープで標識することにより、がんの細胞内にこのぶどう糖が多く取り込まれるのを、スキャンして診断している。このぶどう糖とビタミンCの分子式がとても似ている。だから、がん細胞はビタミンCをぶどう糖と間違えて、がん細胞内に取り込む。ところが、ビタミンCはがん細胞内でフリーラジカルである過酸化水素になり、がん細胞を攻撃するのがある。一方、正常細胞には、ガラクターゼという酵素があり、過酸化水素の発生を抑えるが、がん細胞のガラクターゼの量が少ないので、その発生を抑えにくい。そのためか、この治療法には副作用が殆どない。今後、日本でも追試され、臨床でも用いられるだろう。現在の所、副作用が殆どないのが、とてもいい。また、抗がん剤との併用も推奨されている。”Medical Progress Comes Only from Unreasonable Doctors"(by Fredenicks)"医療の進歩は科学的ビジョンを拡大しようとするクレージーな医者によってのみもたらされる”という文章を掲げていた。
2008.02.27
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がん患者さんの会はグループでの討論も多い。その場合に、自分の考えか、行っている方法を他人に押し付けてしまう。積極的に生きている人にとって、迷いながら、ノロノロ生きているように見える人は、歯がゆくてしょうがなく感じる。どうしても、何とかしたくなる。そこで、いろいろなアドバイスをする。その本人が求めている状態ならいいが、必ずしもそうではない。結果的に、他人の領域に入ってしまう。言われた本人はだんだん辛くなる。その人のスペースが狭くなる。わたしは、なんとかしたい。相手は、別に何ともして欲しくない。ここで、すれ違いが起こる。自分の意見を話すのはいいだろう。「わたしは・・・・・・のように思う」これだけなら、なんら問題がなりが、「・・・・・・すべきだ」となってくると、状況は異なる。往々にして、後者の入って行きがちだ。グループでの話し合いでは、この事に気づくのが、とても大切だと感じた。
2008.02.26
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「性格」について、広辞苑を引くと「各個人に特有の、ある程度持続的な感情・意志の面での傾向や性質。品性。ひとがら。広く事物に特有な性質・傾向。」とある。よく「こんな性格だから!」という言葉を聞く。なんだか、性格は変えられないと思っている人が多いように思う。広辞苑の意味は「各個人の、思考・感情・行動での傾向や性質」とも言い換える事ができるのではないか。私たちは一定のパターンで生きている。一定のパターンとは、思考が生まれて時から養われた、両親の考え・社会常識・倫理などにより刻みこまれたパターンだ。そう、私たちは、ともすれば思考によりコントロールされてる。それを、エゴで生きていると言い換える事ができる。この仕組みが理解できると、私たちは、思考は自分が作り出し、それを変えることができることに気づける。それは、いつもの思考パターンから自由になれる。だが、それには痛みが伴う事が多い。慣れたパターンが身についているから、新たなパターンに移ろうとすると、エゴが「そんな事をして、大丈夫かい!!」と囁きかける。「あなたが無くなってしまうよ!!」と甘い誘惑をする。「元に戻りなさいよ! それがあなたの生き方なんだから」と。それを振り切って、一歩、いっぽ、自分の思考パターンに気をつける、自分の感情に気をつける。すると、自分はこんな考え方を持っている。何かいや~な感情が湧いてきた時、この感情を味わい、その思考パターンに戻り、自分が手放す思考が分かってくる。これを少しずつ繰り返していると、結果的に「性格」は変わってくる。性格は変えられるのだ。
2008.02.25
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「今、ここに在る」という言葉が、私の周りに溢れている。溢れていると言っても情報源は限られてはいます。ガンガジ、エックハルト・トール、クライオン、OSHO、これらの人の本は「今、ここに在る」をテーマにしている。私は、「今、ここに在る」という言葉を意識した事はなかった。今、生きているのだから、ここに意識があるのは当たり前だと感じていた。ところが、意識を現在に置いているのは、瞬間に過ぎず、過去、未来に思考は飛んで、そこでの自分の物語を偽体験して、心配したり、がっかりしたり、嬉しがったり、様々な思いに浸っている。「今、ここに在る」とは、意識を自分でコントロールして、思考にかってに支配されない状態であり、過去、現在、未来の時間の流れを切ってしまう。意識を今に置く事により、時間の流れをこの過去、現在、未来のいう横線でとらえるのではなく、現在の一点に置く。すると、意識は縦軸への方向に動き始める。そこでは、自分の本当の生き方が可能となる「おおいなる存在」とつながる世界が開ける。意識を今に置く、そこから、肉体を通して「おおいなる存在」への扉が開かれる。意識レベルが高い所に行く、そして、そここそが、「宇宙の流れ」に乗る場所となる。この縦軸への拡がりは、横軸の見える世界ではなく、見えない世界となる。だから、感覚で感じられる。それを人に見える形で伝えるのは困難だ。その体験をしなければ分からない。ただ、どのような現象かは分かる。「火事場のバカ力」、「子供に轢かれて車の下にいた時にお母さんが、車を持ち上げる」、「会社が倒産して、にっちも、さっちも行かなくなる」、これらの緊急事態では、思考が働かなくなる。そこで、現象から一気に「おおいなる存在」につながってしまう。そこには判断が無くなり、自分の生命を維持しようとするエゴの介在ができなくなってしまう。危険なスポーツで、我を忘れる状態もこの状態だ。何故、この「今、ここに在る」ことが大切かは、ここにいるとエゴが働かなくなり、所謂、物質的な生き方から、宇宙的な生き方へ変わる。悩みがなくなる、欲望がなくなるという事であり、執着しなくなることでもある。この「今、ここに在る」事に長時間いられる人を「悟りを開いた」人と呼ぶ。それだけ、「今、ここに在る」状態を維持するには、意識をする必要があるという事だ。具体的には、1)インナーボディーのエネルギーを感じる、2)強烈に「いまに在る」こと、3)思考を止めること、4)すべてをあるがままに受け入れること、などをエックハルト・トールはあげている。そして、山の中に篭って、苦行をしなくても、「さとり」は得られますよ、とやさしく呼びかけている。
2008.02.24
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一昨日の夕方から夜にかけて、知人の家に夫婦で遊びに行った。夜、10時過ぎに帰宅すると、近所の「●●●寿司屋」さんが火事で交通交通渋滞で大変だったんだって、と妻が言う。それでは、われわれが居かったけれど、大騒ぎだったんだ、と話した。昨日、私は用事があって出かけてた。そして、そのお寿司屋さんの前を通ると、青いシートが被せてあり、建築関係の人が慌しく動いていて、駐車場には「火事のため休業」と書いてあった。夜、帰宅をして夕食を食べながら、妻と話した。「お寿司屋さんは一部が燃えただけで、修理をしていた」と話すと、妻は「何にもなっていなかったよ!!」と返答した。よくよく話すと、このお寿司屋さんはチェーン店で、我が家から北に1キロと東南に500メートルくらい離れた所と二軒ある。妻は北1キロ、私は東南500メートルとお互いに最初から思いこんでいた。お互いに最初から全く疑わずにそう思っていた。思い込みとはそういう事なんだ、と感じさせる出来事だった。
2008.02.23
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「A Course in Miracles」(奇跡の学習コース)のコンセプトは癒しは、神と一体化する思いによって起こる。なぜなら病(苦しみ)は、神と分離した思いから生じるから。 とある。カウンセリングには、自分のマイナス面を消していく方法が普通だ。悩みの原因を探り、それを解決していく。年齢退行や前世療法もしかり。多くの悩みの原因は小児期まで遡るといわれている。6歳くらいまでの、人の人生感は出来上がってしまう。それまでの、出来事や考え方がその人の一生を決めてしまう。だから、悩みの源を探っていくと、小さい頃に戻ることが殆どだ。確かに、この方法もいいが、これをやっていると、マイナスが消えてしまう事はない。段々、生きる上で楽にはなってくるが、次から次へと新しい悩みが起こって、一生なくなるとは思えない。これとは、別に悩みはさて置き、「さとり」への道を行くのが、本道のように思える。そう、神と一体化するように生活する。それに近づけば、近づくほど、「苦しみ」は消えていくのではないか!!それには、エックハルト・トールが言っているように「ありのままを受け入れて、抵抗しない。そして、今に在る」生き方を選択するのが、「さとり」への道を歩むことになる。マイナスを消しつつ、プラスへの道を選択したい。
2008.02.22
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三浦半島を走っている時に、まさに、陽が沈まんとしていた。富士山がピンク色に染まり、浮かんでいた。思わず、車を止めて写真を撮った。患者さんと話をしていて、よく「全然、体に触れてくれない」という話を聞く。ただ、診察の時に話を聞いて、パソコンに向いていて、検査結果を話し、画像を説明する。これで、終わりだ。チャント診察台に上がってもらい、腹部などを触診しない医師がどうも増えている。そういえば、私が紹介した肝臓の悪い患者さんも、肝臓の専門医がお腹を全然触診してくれないと話していた。お腹の調子が悪く、クリニックを受診しても、薬を出しても、症状が軽快しないので、内視鏡をした。でも、大した所見がなかった。他の病院を受診しても、同様の結果だったそうだ。ところが、腹部には妊娠9ヶ月くらいの大きなシコリがあった。一度でも、お腹を診察すれば、誰にでも分かることだ。このような基本的な診察が出来なくては、益々、医者・患者間の信頼関係を築く事は難しいだろう。お腹が痛い、と言っている患者さんを診察する時には、お腹を触診する事は基本の基本だ。
2008.02.21
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小さなクリニックを開いた大きな理由は、約3年前、がん患者さんをサポートするボランティアの会を始めてから、暫くして来られた患者さんに出会ったからだ。肺がんが骨に転移をしていて、とても、痛いを言われていた。ガン専門病院に罹っていたが、担当医師はこれ以上抗がん剤は使用できない。西洋医学では、何も出来ない。確かに、がんに対する治療は、手術、抗がん剤、放射線治療、ホルモン治療などの適応がなくなるとそれ以上の手段は症状コントロールだけになる。身体的な痛みと同時にいままで信頼してきた医師から、「何も手段がない」と突然言われて、その先が全く見えなくなっていた。希望がなくなってしまった。昨日、NHKのプロフェッショナルという番組でも、出演していた片山氏は「希望がなくては・・・」と語っていた。この希望がない、絶望感の患者さんに対して、只、その話を聴いている以外にその当時は方法がなかった。そして、この状態から抜け出るためには、自分で開業する以外にはない。そして、その想いが小さな開業となった。多くの先人の進行がん患者さんが、道を切り開いて行った。誰にでも、道は一人ひとり異なっているが、開けると確信している。
2008.02.20
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「TAO 老子への道」 OSHO には含蓄のある事が書かれている。OSHOは、あなたが99持っていたら、そこにはひとつの悪循環が現れる。あなたはそれを100にしたい。これが水平線だ。そして、それが100になったら事がすむなどと思わないこと。ものごとは絶対に止まらない。マインドというのは、どこで止めるかなど知りやしない。それは止めるという事を知らないのだ。だからこそ、それはしくじる。それはどこにも止まらず突き進む。AからBへ、BからCへ、そしてどこまでもどこまでも、Zで地獄に落ちるまで止まらない。マインド = エゴ だ。こんなに欲望のままに動いていては、そこには何も楽しむ瞬間がない。何も祝う瞬間がない。在る(being)というのは、ある時点で充分、今度はそれを楽しむ意味だ。99は収まりが悪い、何とか100にしよう。100にすると今度は200に向かう。この完璧さを追い求めると、楽しむときはなくなるよ!!こうTAOの世界は教えてくれる。
2008.02.19
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健康相談を側で聞く機会があった。殆どの方々は自分の飲んでいる薬やサプリメントについての質問だ。病気に対する、自分の考え方、生活習慣などを質問する人は少ない。がん、成人病などを代表とする生活習慣病は、字の如く、生活習慣をしっかり見直す必要があるだろう。毎日、心地よい生活をしているか。こころにどんな感情が溜まっているのか?何か不満な事があるのだろうか。ここを見つめる人は少ない。日頃の生き方、価値感が本来の自分の生き方と食い違い、それがストレスとなり、体にストレスが現れている。そう気づくと、アレルギー性疾患などは薬に頼り切るのではない、解決方法が見出せそうだ。代替医療も体にばかり目がいくと、副作用の少ない薬と同じになってしまう。何時も、病気の時には、こころの歪みがないだろうか。体の声を聴いているのだろうか。心地よい生き方できているのだろうか?などを振り返る必要がある。
2008.02.17
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昨晩は毎年新宿の高層ビルでの30年来の職場関係の人たちとの食事会だった。全部で10名、男女様々、職業もいろいろ、元々は同じ職場だったのだが、全ての人がそこに勤めていたのではない。医者、看護師、事務系、製薬会社の人たち、それぞれの一年の気楽な報告会だ。でも、主要メンバーの先生は一昨年、亡くなられた。そういえば、高校の同窓会の案内が来ていた。50名のクラスだが、7,8名は物故者になっていた。10名集まっても、段々と数が減って、最後の一人はどうするのか?という話になった。一人で食事をするの!!なんの利害関係もなく。ただ、ず~と昔、一緒の時を過ごし、気心しれている。話題も現在の医療制度からカラス、ネコの被害まで、話題も気まま。心休まる食事会だった。空気が澄んでいて、夜景がとても綺麗だった。デジカメの写真はちょっと本物とは違ったかな。
2008.02.17
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40代の卵巣がんが再発している患者さんの話です。診察を受けた時に担当医から、いきなり「あなたのがんは、末期です」と言われたそうです。大体、「末期」の定義もはっきりしていない。一応の目安は6か月以内に亡くなる可能性がある場合を、末期と定義しているが、これも大雑把な話だ。事実を伝える事と、確定していない事を伝える事は別だと思う。再発しているのを、どのように話すのか? それはいろいろな方法があるだろう。単刀直入に「がんが再発している」と話す場合、「シコリが出来ている」など間接的に話す場合、その状況により判断すべきだろう。まして、予後告知となると、これは正直、分からない。外来通院をしているのだから、治療上の必要があって話す場合にも、いきなり末期です、と話すのは如何なものかと思う。そこには、機械的な会話があっても、「愛」ある会話があるとは思えないからだ。「末期」といきなり言われた時の患者さんの心理状態、どんな気持ちがするのかを、受け止めて話しているとは思わない。事実を事実として話す。これからも、機械的な会話は益々多くなるだろう。まして、不確かな場合には、細心の注意と思いやりが必要だろう。この患者さんの場合には、前の主治医に会い、「楽観的な事は言えないけれど、希望を持って一緒に頑張りましょう」と言われて、随分、落ち込んだ気持ちが楽になったと話していた。がんから逃げずに、真っこうから向かい合う、そこから、突破口が開けると思う。
2008.02.16
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思考を停止する。或いは、思考をコントロールする。この意味が理解できなかった。思考を停止するとは、考える事を止めてしまうこと?それにどんな意味があるの?疑問だらけ!!朝起きたときから、私の頭の中で思考が開始する。目が覚めたと同時だ。今日は何をしよう。ああ~、もう少し寝ていたいよ。気分よく起きられるぞ、いろいろな思考が巡る。これを停止をコントロールするとは?この事をやさしく、分かるように説明してくれているのが、「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」(エックハルト・トール著 徳間書店)です。原題は「The Power of NOW]ですから、邦題は随分と変わったタイトルになってしまっています。この本がとても気に入っています。そして、友達にも勧めています(もちろん、誰からも頼まれた訳ではありませんが)。思考は過去という物差しを使って、物事を判断しているからです。そのうえ、思考は、自分が属する文化特有の考え方からも、制約を受けています。このような事情から、思考は、過去の視点から現在をながめ、判断を下し、現実をすっかりゆがめてしまうのです。 思考が、状況に適したことを言っているかというと、必ずしもそうとは限らない。つい最近の出来事や、はるか昔に起こった出来事を再現したり、これから起こりそうな状況をリハーサルしていたりもする。しかも、たいていは「なにか良からぬことが起こるのではないだろうか?」という悲観的な見方をしている。これは、簡単に言うと不安です。目的はある時だけ、思考力を使います。しかも、自分でコントロールできない「頭の中の声=思考」はなくなり、心には静けさがあります。創造的なアイデアを必要とするときには、思考が活動した状態と、ピッタリと止まった状態を、何分おきに交互に経験する、と書かれている。思考はエゴの領域から出てくる、そしてそれを「無意識状態」と呼んでいる。エゴは恐れと、欲望の世界に生きている。ここにいることを「にせの自分」でいるとしています。そうなると、殆どの人は「にせの自分」でいることになります。では、「ほんとうの自分」とは?それは、「おおいなる存在」とつながった状態です。おおいなる存在とは魂のレベルでの存在です。それに、到達するには、そんなに難しい事ではないのです。それは、「いま」にいる事です。そう、今現在に意識を置いているという事です。過去や未来に行き勝ちな自分の思考を「いま」に置き続けるのです。そのためにはどうするか? 幾つかの方法が書かれています。「思考を客観的にながめる方法」「体に意識することに意識の一部を残しておく事」などが書かれています。この思考を停止することが、エゴを黙らせ、その下に埋もれている「自分の宝物」に気づく鍵である事が理解できると、精神世界の情報が理解し易くなります。
2008.02.15
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この日記のテーマは、朝、パソコンの前に座った時に浮かんだ内容を書いている。時には、思いついて、明日の日記にはこんな事を書いてみたいと思う事もある。基本的に病気のことを書きたいと思っている。でも、内容は精神的なものがとても多い。自分の意識がそちらに向いているのだろう。体を診るより、その方の気持ち、精神状態がより病気に反映していると思っているためだろうか。私のブログのお気に入りに登録している「あゆか」さんの東京でもセミナーが終わった。いつもは、英国に在住している日本人の女性だ。実践的なセミナーだ。理論は最小限に抑えて、参加者の中からボランティアを募って、その方の悩みや問題点をカウンセリングをする。それを見ることにより実際に勉強していく。だから、その場で聞かないと分かり難い。カウンセリングで感じたのは、セラピストが苦しんで得た体験に基づいていないと、空論になってしまいがちだ。悟りへ、少しでも向かおうとする人は、きっと苦しんでそこから抜け出そうとしているのだ。だから、苦しみが深いほど、気づきが大きい。セラピストの腑に落ちていないと、上辺だけの内容になってしまう。苦しんでいる人は大勢いる。その中の少しの人たちがそこから脱け出る道を探し出す。現在はそれに気づいている人たちが増えてきているのだろう。最近での、雷に打たれるように感じた言葉は「人は誰からも愛される必要もないし、認められる必要もない」だ。この言葉は前にも見たことがある。でも、その時には通り過ぎてしまった。生徒が準備が出来た時に、教師が現れる、という言葉がある。まさに、その時に現れた言葉なのだ。
2008.02.14
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自分の考えている事に関して、同じ話題の本、文章に出合う。単に引き付けの法則と言ってしまえばそれまでだが、自分の視点がそこを捉えるのだろう。読んでも関心がなければ、見逃してしまう事をキャッチしているのだろう。そのような事はしばしば起こる。事実に抵抗しない事とは?私たちはどうにもならない事、既に決まっている事に抵抗する。今日は何故晴れないのか!! いくらそれに抵抗して怒っても、天気は晴れてくれない。車の渋滞にいくら文句を言っても、渋滞は解消されない。病気をいくら悔やんでも、病気があるという事実は変わらない。抵抗しないとは、受け入れることだ。受け入れることで、そこからまた新たな展開が開ける。そのためには、先ず、その事実を受け入れよう。受け入れるためには、自分の位置が現在にいる必要がある。今、現在、起っている事に抵抗しない事だ。未来の事は事実ではないし、そこには不安がある。現在、ココに意識があれば、不安はない。わたしたちは、思考により、事実をきちっと確認していない。思い込みで、それを事実と勘違いしてしまう事も多い。事実を怖いからと避けていると、物事の本質にはなかなか迫れない。そこを認めて、抵抗するのを止めて、受け入れる事により、もっと、もっと、深い心の世界に入っていける。
2008.02.13
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「いまに在る」生き方、とは意識を現在に置いて、過去や未来に思考を移さない生き方だ。過去・未来に意識を移すとそこには自分の物語が生まれる。それは、エゴの世界であり、「偽りの自分」となってしまう。そこには、欲望と不安が渦巻く。欲望とは未来への欲求であり、不安とは現在自分が持っているものを失う不安である。所が、現在に意識を置いている限り、そのような欲望や不安には襲われない。この事は本などには書かれている。所が実際にこの様な生き方を意識して過ごしている人は稀である。昨日の講演会に講師であるO氏はまさにそのような生き方が感じられる講演内容であった。本人は、いまに在る生き方とは言葉では話さなかった。しかし、話ている内容はまさにそうであった。ご自分の位置が何時もしっかりとしていた。とても感銘を受ける講演会であった。
2008.02.12
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昨日の朝、尋ね先の玄関にチョコント座っていた。可愛い犬。帰る時にはどこかに遊びに行ってしまった。自分の精神状態・感情をチェックするにはいろいろな方法があるが、私には自動車を運転している時にチェックする方法がある。それは、交差点で信号待ちをしている時、信号が変わっても平気で交差点に進入する車はよくある。それを見て、何とも思わない時は、精神状態が安定している。「マア、マア、でも、いいよ」と。所が、イラダッテいる時には「なんて奴なんだ!! このルール知らず」という事になる。同じ出来事でも、自分の状態で湧いてくる感情は異なる。これも、自分の感情をチェックしているから出来ることだ。自分を見ている自分がいると冷静になれる。これも習慣だ。
2008.02.11
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友人の先生が結婚をして、レストランでのパーティが昨晩あった。お相手の女性が宝塚出身なので、同期の方とか、先輩とか大勢来ていた。そもそも、このレストランのオーナーも宝塚出身の方だそうだ。立食パーティだったが、隣に座っていた女性も宝塚出身で、何でも最初にお相手の女性を紹介した人だそうだ。宝塚と聞くと二つの思い出がある。一つは友人の友人なのだが、宝塚出身の人と結婚したくて、宝塚の近くに引っ越した人がいた。近くに引っ越せば、知り合える程、単純なのかと思ったが、チャントその後宝塚の人と結婚したそうだ。引き寄せの法則が働いたのかなあ~もう一つは、宝塚を一度だけ見たことがある。それも、最後の5分間だけ。最初の仕事場の女性が宝塚のファンで切符が余っているので、誘われた。楽しみにしていたら、仕事が終わらない。駆けつけたときには終了間際。いい席だったらしいが、一番後ろで立って見た。それは「ノバボサノバ」というタイトルだった。隣の宝塚の人に話したら、随分昔の話ですね。そう、昭和46,47年頃の話なのです。でも、あればとても評判がよかった、と話していました。そうか、じっくり待てばこの世界の人たちと知り合える可能性があったのだ。結構、芋ずる式に知り合って結婚している。スチュワーデスの世界もそうだ。それにしてもチョット、いや大部、遅すぎた。
2008.02.10
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催眠療法は、全てクライアントさんの潜在意識が何処にいくかを決定する。それを、その人のハイアーセルフ、大いなる自己は知っている。催眠療法を初めて受けられる人は、催眠中にどうなってしまうのだろうか、と不安で来られる方が多い。催眠療法に関する本を読んでも、いま一つ実感できなからだ。ミカンについての本や味についての解説を幾ら読んでも、ミカンを食べない事にはその味覚は分からない。また、催眠療法では、自分がチャント催眠状態に入るのかを心配する。前世療法のつもりが、始めてみると年齢退行になっている事はしばしば見られる。セラピストはただクライアントさんの行くところに付いていくだけだ。クライアントさんの行く所を邪魔しないようにしなければならない。こちらの価値感を押し付けたり、無理にセラピストの勝手な思いで誘導してはいけない。クライアントさんは、高いお金を払ってこられる。そして、悩みを持ち、それを催眠療法で解決したいと思っている。これだけの条件が揃っていれば、クライアントさんの「おおいなる存在」の導きに従っていれば、必ず、本人の満足する結果が得られる。もし、終了時にその満足感、癒された感じがなかったら、それは、大いなる存在が導く方向とは異なる方向へ行ってしまった場合だ。セラピストの大事な役目はそこにある。クライアントさんの邪魔をしないことだ。
2008.02.09
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このメロディーがここ数日頭から離れない。それは、ロバータ・フラッグの「愛は面影の中に」である。月曜日の夜、偶然にNHKスペシャル「ウエイクアップタイム」というナサから宇宙飛行士への目覚めの音楽をテーマにした番組をやっていた。最後の5分くらいを見た。その時の映像は、漆黒の闇に浮かぶ、輝く地球。この写真はアポロ17号の乗組員が撮った人間として初めての完全に隅々まで輝く地球の写真だ。元々、「愛は面影の中に」はゆっくりとしたメロディで好きな曲だった。久しぶりにこの素敵なメロディと共に映像の美しさに息を呑む思いだった。私の心は完全に開いてしまいました。恐らく実際のこの地球の光景は、われわれの想像を絶する美しさがあるのだと思う。だから、宇宙飛行士はスピリチュアルな世界に目覚める人が多いのだろう。この放送は水曜日の深夜に再放送された。今度は録画したが、見たのはやはり最後の5分間の、あまりに美しい音楽と映像であった。こんなに美しい地球では、信じられないような事が起こっている。それが、信じられない。この美しい地球を何とか守りたいと思った。
2008.02.08
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家で人生の最期を迎える在宅医療が国も勧めているし、実際、増えている。在宅ホスピスという呼び名もある。常々、何もしない在宅医療が出来ないかと思っている。その考え方は、人間の本来の生き方をサポートします。それ以上の医療はしません。ただ、痛みなどの症状は出来るだけ緩和します。具体的には、自分の事を自分で出来るまで生きる、という事だ。自分で食事をする。排泄する。などの基本的な事が出来なくなったら、そのまま旅立つ。点滴や酸素や胃瘻や尿道バルーンなどは行わない。わたし達は何かを人にする事がその人の役に立つと考えている。往々にして、それがありがた迷惑であることが多い。じっとして何もしないで寄り添っている事が、これが意外を難しい。何か、出来る事がないかと探す。この、人の尊厳を尊重した在宅医療の話をすると、共感して下さる方は多い。今は自分のクリニックのスタートだし、間口を広げたくない。でも、何時かこの何もしない在宅医療をやってみたい。
2008.02.07
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src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/90/0000666290/36/imgd391d585zikfzj.jpeg" width="320" height="240" alt="日常 038.jpg" border="0">昨日は昼休み、30分くらいゆったりと散歩した。まだ、雪が少し残っている。とてもいい天気。静かに、鳥の声、頬にあたる風、竹の葉のこすれる音などを感じる。そう、こころを今に置いて、一歩、一歩、歩く時の足の裏の感触を確かめる。タンポポの花が咲いていた。梅も一本の木だけが、少し咲いていた。とっても、暖かい。コートを脱いで歩く。空には雲が浮かぶ。こんなひと時でも、とても満ち足りた時間だった。
2008.02.06
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「瞑想」についてガンガジが次のように「ポケットの中のダイヤモンド」書いている。「瞑想という言葉は人にとって様々な意味を持っています。呼吸に意識を集中することを意味する場合もあれば、あるイメージ、またはほかのいろいろなものに意識を集中される人もいます。けれども、世界中のほとんどの人が、常に、「私とはこの肉体であり、これらの思考であり、感情である」という瞑想に耽っているのです。合間合間に正式な瞑想を行うこともありますが、それが終わるとまた、「これが私、私とはこの肉体、私はこれが欲しい、私はこれを手に入れなくてはいけない、私はこれを持っていない」-延々と続く、何よりも強固な習慣に戻っていくのです。これはいわば瞑想です! そしてそれは苦しみの瞑想です。それはあまりにも広く行き渡っているがために、見過ごされており、人はそれを一つの習慣ではなく、現実だと思っているのです。」瞑想について書かれたこの文章は瞑想をする人が陥り易い点を分かり易く述べている。精神世界を垣間見ている人で、瞑想をしていない人は先ずいないだろう。勿論、瞑想をしなくても、瞑想状態になることは可能と思えるが、瞑想を行う事は一番目指す状態になりやすいのだ。その目的は「自分」を演じるのを止め、ただ存在だけがある瞬間です。そのシンプルな存在の中に、平安、気づき、明瞭さ、自然さがあり、ただ在ること、これは容易で、何の努力もいらない。わたしたちは、そろそろ「私とはこの肉体であり、これらの思考であり、感情である」の世界から、私たちを「いま、この瞬間」に意識を置き、過去・未来の幻想から離れ、「おおいなる存在」とつながる生き方をする時代に入りつつあるのだろう。
2008.02.05
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ここでのテーマは精神的な世界のテーマを書く事が多い。大抵、朝、パソコンに向かった時に何を書こうかと、頭に思い浮かんでくることを待って、その内容を書く。本来、がんのことを書く材料は多い。しかし、何故か実際に各段階になると、こころの事が多い。病気は心がとても影響をしているからだ。幾ら、体だけを診ていても、そこには限界がある。その限界を超えた所に医療の本質があるように思える。体だけを診る医療は、人間を半分、いやそれ以下しか診ていないのだろう。何故そうなるのだろう。きっと、私たちが生きている社会は外部に重点を置いている。物質的にどれだけ満たされているか。周りの人たちにどの様に対応して、どの様に思われているかなど、常に外を向いた生活が基本となっている。心は内側へ向く事だ。だれにも評価されたり、生活が外面的には豊かになるわけでない。でも、それで満たされた生活なら、それでいい。しかし、進行したがんや再発したがんの患者さんたちは、そのような外を向いた生き方では、不安が増強する。社会に取り残されたような感じを抱く。死を普通の人たちよりも、身近に感じる。それを乗り越えるには、外部から内部へと方向転換する必要がある。自分の存在自体、存在意義など、根本的なことを突き詰める。そこから、新たな世界が開ける。新しい抗がん剤などを追いかけてばかりいたら、得られない。そこが、私の目指す医療だ。
2008.02.04
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悩みがなかったら、どんなに毎日が楽しく生きられるだろうか?恐れ、不安、嫉妬、憎しみ、等などあげていけば、きりがない。これを解決する方法として、カウンセリングを始めとしていくつもの方法がある。これを解決する方法として、二つの方向性がみえる。一つは、その悩みの源を丹念にチェックして、その時の出来事、そしてその時に湧いてきた感情などを見ていく。われわれの人生における価値感や考え方は6歳までに、両親、友達、周りの人々、文化的背景からの影響を受けて、潜在意識に入るといわれている。そして、それらの価値感が、大人になってからの考え方やそれに伴う感情や行動に影響を及ぼすといわれている。そして、われわれの思考は殆ど事実に基づいてなく、思い込みによって成り立っている。そこで、現在の悩みの源となっている考え方を探り、その時の感情も感じる。そして、その思考は小さい時のどのような出来事とそれに伴った感情から来ているかを探し出す。その原因が分かったら、それは真実なの?殆どは真実でなく、社会のルールであったり、物質的に繁栄するための価値感だったりする。その事が分かっただけでも、クライアントさんは癒されるし、また、別の考え方をアファメーションなどにより植え込んでいく方法がある。二つ目は一つ目の考え方は最もだ。でも、悩みを一つずつ消していく方法だと、次から次へと悩みが出てきて、切がない。それよりは、それらの思考を全てストップするような生き方の選択である。要は、悩みのない生き方を選択する方法だ。具体的には悩みは、過去と未来へと意識を働かせる事により生じる。現在、「今この瞬間」にしっかりと意識をおいている場合には、悩みはないとする考え方だ。だから、そのためには如何に現在に意識を置いて、過去や未来の空想をしないで生きるかだ。これは、エゴを取り除いた生き方であり、エゴは自分の社会的な価値感を与えており、自分の生存権を握っているかの思考をわれわれに与えてくる。エゴは欲望の源ともいえよう。ブッタは「苦しみの根底には、たゆまない欲望がある」と説いている。如何に、今、「この瞬間」に自分の心を置けるかが、とても大切になってくる。
2008.02.03
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久しぶりに元大学病院の同僚だった外科部長と食事をした。外科医は減っているという。勤務がハードであり、責任が重い。それに、看護師さんの不足だ。そのために、病棟を減らさなければならないと言っていた。それに、組織の問題もある。現在の医師の給料は、大学病院でも経験年数で成り立っている。忙しい科にいるから収入が多いわけではない。殆ど死に関係ない科の先生も、夜遅くまで働いていて死亡が多い科の先生も給与体系は同じである。だから、産婦人科の医師だけ幾ら収入が上がるようにしても、直接に産婦人科の医師に反映される制度ではない。全体の底上げが必要だ。外科医を支えているのは、最終的には仕事に対する面白さにあると思う。大変な毎日でも、楽しくやっています、と言っていた。やはり、生きがいが大切なんだ。
2008.02.02
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昨日は3時から8時30分までの5時間半にわたり、一人の患者さんと向き合った。良性疾患の内視鏡的治療後の腹痛が主訴だ。術後3年間、この痛みに悩まされ、いろいろな西洋医学的治療と代替医療を行ってきた女性です。代替医療をすると逆に症状がひどくなるという、こじれた疼痛を持っています。今回は二回目の来院です。先ず、1時間半くらい、じっくりと話を伺いました。西洋医学的な血液や画像検査では、特に異常を認めません。このような痛みを訴える患者さんに対しては、主治医は検査をしても異常所見がない場合には、とても苦労します。精神的要素が強いと思われるですが、簡単にはそうとも決められない。精神的要素と思っても、通常の外科医ではその精神的要素をじっくり聞くための時間も技術も持っていません。次第に、主治医はそのような患者さんを遠ざけて、他の科の先生を依頼するようになります。そして、患者さんはありとあらゆると言っていいほどの代替医療を行っています。「それぞれの治療医たちは一生懸命にやってくれるが、症状を一向によくならない」と言っていました。イメージ力はとてもある女性です。いざ、催眠療法に入ると、なかなか思ったような世界に入れません。このようにイメージが豊かでも、その状況が催眠に向いていないときには、思ったような方向へとは行きません。そこで、イメージ力が豊かなんだから、段階的なリラクゼーションを試みました。十分にリラックスした状態で、病気のイメージ、それが身体の中のどの部位で、どんな風に感じられるかを確かめました。それから、体中を癒しの光で満たしました。その病気は黒い塊として、存在していました。しかし、その塊を完全な白い光に置き換えてしまうのには、時間をかけても難しく、一時的に満たしても、また、一部が黒く戻る事を繰り返しました。そこで、黒い塊を白い光で完全に包んでしまい。木枠の鍵のしっかりした箱をイメージして、そのなかに、黒い塊を白い光で包んだまま入れて、厳重に鍵をかけて、海の底に沈めてしまいました。それから、再度、身体をチェックしてもらった所、包んであった殻が残っていると言いました。患者さんにどうするかと聞くと、燃やしたいとの事でした。本人にイメージで燃やして頂きました。これにもかなり時間がかかりました。後でお聞きすると、湿っていてなかなか燃えなかったので、焼却炉をイメージしてその中で燃やしたとの事でした。ご自分で体のチェックのし方、消し方を練習して、セッションを終了しました。催眠療法の正味の時間は3時間半でした。終わった後には、先ず、声が大きくなり、顔も表情豊かになりました。この痛みに対する効果は、暫く様子をみないと、分かりません。普通の医療で西洋医学を行っている医師が一人の患者さんに5時間半も向かい合うことは先ず出来ません。そんな事をする時間も余裕もありません。しかし、そのような医療をやってみたいと思っている私には5時間半は決して長い時間ではありません。催眠腫瘍学を目指す私にとって、まさにうってつけの患者さんがいらして下さった事になります。潜在意識下でも、どの様なアプローチが適しているか、患者さん一人ひとり異なっています。それを、一緒に見つけながら旅をしていきたい。「生徒が準備ができた時に教師が現れる」という言葉があります。まさに、生徒である自分に教師が現れたと感じました。
2008.02.01
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