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5/31 Thu握りこぶしはない本会にもマスコミ関係の方がしばしば取材にきますが、異口同音に、「佼成会は開放的で、自由に取材をさせてもらえてありがたい」と言ってくださいます。特別な霊能力によらなくては救われないとか、秘密の教えで成り立っている教団であれば、取材されては具合が悪いということもありましょうが、佼成会には、そういうものは一切ありません。たくさんの教団の中には、神秘性で権威づけて「知らしむべからず、よらしむべし」といった一方的な信者への押しつけで、どんな批判も許さず、教団の絶対性を保とうとしているところもあるかもしれません。しかし仏教の教えは、いつでも、どこでも、だれにでも「なるほど」と納得してもらえる教えです。そして、すべての人を等しく真の幸せに導くことができるという意味で、絶対の法なのです。 お釈迦さまは「私には、隠している握りこぶしはない」と語っておられます。自分だけが握っていて人に明かさない秘密の法など私にはなく、すべてを説き明かしたとおっしゃられるのです。その教えをしっかりと持(たも)ってこそ、国民皆信仰を呼びかけられる宗教教団となるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.31
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5/30 Wed先に憂い後に楽しむ後楽園というと、みなさんは野球場を思いだされると思いますが、元は、水戸の殿さまによって造られた庭園の名前で、中国の「先憂後楽(せんゆうこうらく)」という古い言葉から、そう名づけられたと聞いています。「先憂後楽」とは、国を治める者は民に先立って憂い、民に後れて楽しまねばならぬ、という意味です。民に後れて楽しむとは、民が喜ぶのを見て自分の喜びとすることで、為政者にとって大切な心構えです。逆に言うと、民に先んじて自分だけが楽しむような為政者であっては失格ということになります。為政者、政治家にかぎらず、先憂後楽は人を導くリーダーのすべてが心すべきことでありましょう。 あの人、この人のことを、自分のことより先に心配してあげる。なんとしても幸せになってもらわなくてはならないと、その道を教えてあげ、その人が幸せになった姿を見て「本当によかった」と心から喜ぶ。そういう人になりたいものです。それこそ、仏さまのお慈悲の眼を持った人でありましょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.30
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5/29 Tue精神的な偏食『法華経』の「方便品(ほうべんぽん)」には、「真実の教えはただ一つであって、二つも三つもあるわけではない。ただ仏の智慧に到達するまでの手段として、相手に応じていろいろな説き方の違いがあるが、その説き方の違いも究極の真実に導くためなのである」と説かれています。この世にはさまざまな宗教がありますが、それぞれの違いは、その時代、その社会を生きる人たちを究極の真実の道に導くためのものだといえましょう。それぞれの宗教が互いに違いを言い立てて対立し、協力を拒むといったことがいかに無意味であるか、この仏さまのお言葉をかみしめると、よく分かってきます。 信仰とは、帰依する対象を信じきって、それを貫き通すことです。また、その心構えでなくては真の信仰とはいえません。しかし、そこで一歩誤ると、自分の教えの絶対性を主張して他を認めようとしない排他独善の信仰に陥ってしまいます。それは、言ってみれば精神的な偏食のためにやせ細り、視野の狭い人間になってしまうようなものです。くれぐれも注意しなければなりません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.28
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5/28 Mon政治も宗教も、つまるところは明るく住みよい社会の建設、そして人類の平和をめざすためのもので、その点においては変わるところはありません。しかし、政治は、きのう、きょう、あすといった比較的さし迫った日限の中で、どちらかといえば力関係を中心にして動くものであるのに対して、宗教は、過去、現在、未来という長い時間の中で、個人の心の平和とともに理想の社会、平和な世界をめざします。政治は社会の不正を正すことで社会浄化をめざし、宗教は人びとの仏性(ぶっしょう)を磨きだすことで、平和な世界を築くことをめざすものと言ってもいいかもしれません。 お釈迦さまが説かれた慈悲の教えを自分のものとして、それを、さらに多くの人びとに伝えていきたいという願いが菩薩行なのですが、「三千世界を知るも、なお自己を知らず」と言われるように、人は、まわりの欠陥はよく見えても、自分のこととなると何も見えていないものです。政治も宗教も、まず自らを正して、それぞれの道で人間を真に覚醒させていくことを忘れてはなりません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.28
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5/27 Sun奉仕できる喜び人はふつう、自分が人に奉仕するのはあまり好きではなく、人から奉仕してもらうほうがうれしいように思っています。しかし、それは心のほんの表面上のことで、心の深いところでは、人はむしろ人に奉仕することを欲しているものです。どんなことでもいい、実際に人さまのために尽くして、それで相手の人に喜んでもらえると、それがよく分かるのです。「なんで、子どものことでこんな苦労をしなければならないんだろう」と愚痴をこぼしていた親でも、子どもが一人前になって巣立ってしまうと、空虚な思いに陥ってしまいます。世話をしてあげる人がだれもいなくなると、「ああ楽々した」という思いよりも、虚脱感に襲われてしまうのです。 さらに、体が不自由になって、だれにも、なにもしてあげられず、ただ周囲からしてもらうだけの身になってしまったら、どんなに寂しい思いになるかしれません。そう考えてみると、自分が人さまに役立てることが、どんなにうれしいことか分かってきます。それが人間の本当の生き甲斐なのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.26
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5/26 Sat取り越し苦労先を見越して準備を怠らないのは大事なことですが、その度が過ぎると、不安ばかりがつのってしまいます。私は、人から楽天家だとよく言われるのですが、楽天家になる秘訣は、自分にできる精いっぱいの努力をしたら、あとは仏さまにおまかせしてしまう。仏さまは必ず最良の答えをくださる、と信じてしまうことだと思うのです。「自分の努力、人さまの助け、そして神仏の加護がなくては事は成らない」と山田恵諦猊下は、いつも教えてくださっていました。あれこれと心配しすぎるのは、全部自分でやらないと気が済まない、自分の力ですべては成るもの、と思い込んでいるからではないでしょうか。 みなさんも、過ぎてしまったことを振り返ってみると分かると思うのですが、あれこれ心配したことの九割方は、取り越し苦労だったはずです。野球のピッチャーでもそうですが、全部のバッターを三振に打ち取ろうと力まずに、打たせて味方に守ってもらう、という生き方を覚えてしまうと、肩の力が抜けて、自分の持てる力を、ありったけ出しきれるようになってくるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.26
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5/25 Fri自分を磨く荒砥『菜根譚(さいこんたん)』という書があります。中国の古い時代の書で、すぐれた処世哲学が説かれているのですが、その中に、「耳には耳の痛いことばかり。胸には無念なことばかり。それがわが玉を磨く砥石となる」という言葉があります。その言葉を、会社に入社した青年時代から五十年間、つらいことがあるたびにかみしめ直してきた、という経営者の方がおられました。「毎日、もう嫌なことばかりだ」と腹を立てて過ごすか、耳に痛い言葉も自分を励ます言葉としてかみしめていくかで、その人の人生が、まるで違ったものになってしまうのではないでしょうか。 うれしくなるような言葉は、めったに聞けるものではありません。躍り上がるような喜びは、そうあるものではありません。入社したばかりの新人時代は、つらいことやくやしいことばかりのように思えても、それを素直な心で受け止めると、その一つ一つが貴重な教えになっていくのです。自分を磨いてくれるお師匠さんが、まわりにたくさんいるのですが、それを善き師、善き教えにしていけるかどうかの決め手は、やはり素直な心になれるかどうかにあると思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.24
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無我になるほど学べる学ぶということは、私たちが自分の我というか、自我というものを、いかに無にするかということにかかっています。もちろん我を完全に無にすることはでき得ないことですけれど、いかに私たちが無我に近づいていけるか、近づいた分だけ学ぶ量が多くなってくるのだと思います。私のように年配になってまいりますと、なかなかものが覚えられないのですが、若い方々は、脳の働きがフル回転している素晴らしい年代です。無我になって、謙虚になって学んでいく。皆さんは、人生の大きな収穫をしている時期にいるのです。 『佼成新聞』より
2012.05.23
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5/24 Thu一家の心棒子どものころの私にとって、父は最高のお手本でした。いつも体の弱い母親を気遣い、難しい仕事は自分が全部引き受けて、それぞれの子どもの分に応じた仕事を、手をとって教え、覚えさせていくのです。父にそうして厳しく仕込まれたお陰で、私は、のちに上京して奉公するようになっても、奉公先の仕事がまことに楽なものでした。理想の父親像についていろいろに言われていますが、最近、父親の影響力が弱くなっている原因は、父親が自信を失ってしまっていることにあるのではないでしょうか。この社会は、秩序というもの、ルールというものがなくては成り立ちません。そのことを教える父性は、いつの時代にも欠かせない大切なものです。それによって公私の区別、善悪の区別を子どもたちが身につけていくわけです。権威を振り回す父親ではなく、子どもが心から尊敬できる父親であることが、なによりも大切だと思うのです。 一家に心棒があることで、子どもは社会で生きていくルールと責任感を身につけていきます。父親の影が薄れてしまうと、この社会全体が心棒のないものになってしまいます。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.23
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5/23 Wed心が分かる友「いちどツッパリのレッテルを張られてしまうと、学校でも家でも、なにをやっても色眼鏡で見られて、ツッパリやるしかなくなってしまうんです」という高校生の訴えを聞いたことがありました。表からだけ見ていると、「いくら言って聞かせても、性懲りもない子だ。もう、なにを言ってもむだだ」とサジを投げたくなるのですが、その子が、心の奥にそんな切なさを隠しているのです。「善知識」とは、善き友・最高の友のことであるのは、みなさんもよくご存じだと思いますが、この「知識」という言葉は、相手を知り尽くしている、相手の気持ちが手にとるように分かる、という意味なのです。 相手の気持ちを知り尽くしているから、悲しみにうちひしがれている友に寄り添ってあげられるのです。友の喜びを心から喜んであげられるのです。必ず幸せになれる道に導いてあげられるわけです。私たちのサンガを、そういう真の友の集まりにしていこうではありませんか。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.22
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5/22 Tueリーダーの仕事1996年の日本シリーズを制したオリックスの山田久志投手コーチは、打たれてマウンドを降りる投手にも、「よくやった」と声をかけて、ベンチに迎えるそうです。これが、できそうでなかなかできないことなのですね。八割方は成功して一つ二つ失敗しただけでも、その失敗を責めたくなってしまうのです。注意する側の気持ちとしては、「そこさえ直せば……」という親切心で言ってあげているつもりでも、それが、なかなか相手に伝わりません。そればかり言われると、逆に失敗を恐れる消極人間になりかねないのです。失敗の原因は自分がいちばんよく知っているわけです。しかし、その欠点を直すのは、そう簡単にはいきません。 ですから、欠点のほうよりも、いいところを見つけて、そこを伸ばす助言をしてあげる。これだと、自分の得意なところを磨いていくのですから、能率が上がって、のっていけるわけです。長所が伸びると、短所も魅力に変わっていくものなのですね。人育てのうまい人は、そこをよくわきまえています。人は必ず、どこか長所を具えています。それを見つけてあげるのが指導者の仕事です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.22
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5/21 Mon下問を恥じずその人がリーダーとしてふさわしいかどうかを見るのに、私は、「どれだけの人がその人についてきているか」を見ることにしています。いくら仕事ができて、正論を吐く人であっても、自分のやり方だけをぜったいのもののように考えて押し通すリーダーだと、人は「はい、はい」と聞いているようでも、心はそっぽを向いているのです。セールスで成功するのは、売り込もうとする商品について、立て板に水を流すように滔々と説明できる能弁な人よりも、お客さんから話を引きだせる人のほうだといいます。 「下問を恥じず」という言葉があります。分からないことは部下からでも素直に聞けることですが、そういう心の広さが具わると、おのずと人が引きつけられてくるのです。上司に聞かれた部下は、自分が役に立てたうれしさで、やる気を起こすわけです。人の気持ちが分かる温かさを持ったリーダーのもとでこそ、人は育つのですね。その温かさは、いつも「まわりのみんなのお陰さまで自分のつとめを果たさせてもらえるのだ」という感謝を忘れないことから生まれてくるのだと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.21
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5/20 Sun体内ジョギングノーマン・カズンズさんは、米国で発行されている「サタデー・レビュー」誌の編集長をつとめられ、平和運動の先頭に立たれた方です。第七回の庭野平和賞をお受けくださって、法輪閣で対談させていただいたときのことが思いだされます。カズンズさんは、かつて膠原病という難病で苦しまれたことがありました。その病気を、体内ジョギングとビタミンの投与で見事に克服されて仕事に復帰されたのですが、その体内ジョギングというのは、腹の底から笑うことだったと言われるのです。喜劇映画を見て腹を抱えて笑うと、激痛が和らいで、よく眠れるのだそうです。カズンズさんは、「幸運だったのは、私の主治医が生への意欲を励まし続けて、心身両面の抵抗力を総動員させることに徹する人だったことだ」と言われています。 人の生命力は、計り知れない力を秘めています。病気を治すのは、薬の投与などの医療の技術もさることながら、自分の体に具わる治癒力であることが分かります。宗教による奇跡の治癒もその力が引きだされた結果だろう、とカズンズさんはご自分の体験を通して書いておられます。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.19
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5/18 Fri日蓮聖人の涙日蓮聖人が佐渡流罪の地で著わされた『諸法実相鈔』に、「鳥と虫とは鳴けどもなみだおちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし」というお言葉があります。鳥や虫はいつも鳴き続けているけれども、涙は流さない。日蓮は泣くことはないが、涙の絶える間がないとおっしゃられるのです。佐渡の塚原三昧堂の日々は、雪深く、衣うすく食乏しく、飢え死にせずに過ごせるのが不思議というような生活でした。しかしご聖人の涙は、ほかのことではなく、ただただ法華経のゆえであるといわれます。「現在の大難を思ひつづくるにもなみだ、未来の成仏を思ふて喜ぶにもなみだせきあへず」と、いま自分が受けている法難によって法華経を身をもって読むことができて、将来、必ず仏道を成就することができる、という感激の涙なのです。 「南無とは帰命のこと、帰命とは仏に命を奉ること」と、ご聖人は思い定めておられました。仏さまが自分を生かしてくださっているのを信じきって、疑われることがありませんでした。そこから、考えられないような力がわき上がってきて、次々に不思議が起こってくるのです。私たちも、法華経に遇いえた感激を、いつも心に刻みつけておきたいものです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.18
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5/17 Thu認めれば認められるいくら努力しても、人は自分のことを正しく評価してくれないと不満をもらす人がいます。その不満で、やる気をなくしたりヤケを起こしたりしたら、自滅の道をたどることになってしまいます。そこのところで、ちょっと見方を変えて「では私は、人のことをどれだけ認めてあげていただろうか」と考えてみてほしいのです。あらためて自分を振り返ると、自分も人のことをあまり認めてあげていないのですね。人に認めてもらいたかったら、人を認められる自分になるほうが先です。その心のゆとりが持てると、人の目を気にして一喜一憂することがなくなります。人に認められようが認められまいが、気にならない。自分のなすべきことに黙々と励み、喜んで人さまの下積みに徹していられるようになってきます。 いつも申し上げるように、信仰者の安らぎは仏さまがすべてご照覧だという安心感にあります。樹木の根は見えませんが、下に深く根を下ろせば下ろすほど幹や枝葉は上に伸びていきます。無理やり人の目を自分に引きつけようとするよりも、自分が大きく育っていけばいいのです。高くそびえる木は人の目を引かずにいないのですから。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.17
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5/16 Wed嫁姑の問題は、一筋縄ではいきません。その嫁姑のあり方の機微について巧みに話される先生が、「講演が終わったあとで、お姑さんは、この話をぜひ嫁に聞かせたかったと言ってこられ、お嫁さんは、うちの姑さんにぜひ聞いてもらわなくちゃ、と言ってくるんですよ」と話されていました。同じ話を、どちらも耳の痛いところは飛ばして、都合のいいように解釈して聞いているわけです。そして、「なるほど」と自分の心に残ったところだけを覚えているのです。経典に「法を聞くことあらん者」とある、その「聞く」という言葉は、自分の才覚を一切抜きにして仏さまのお言葉どおりお受けすることで、都合のいいところだけつまみ食いするような聞き方では、聞いたことにならないのですね。その言葉の意味を本当に理解し、心に刻みつけ、実行するのが「聞く」ことです。自分がうれしくなるような結果をいただくと大喜びするけれども、意に反する結果だと、「こんなに精進しているのに」と不平が出るようでは、本当に聞いているとはいえません。 どんな結果にも仏さまの説法を聞き取り、素直にそれをお手配と受け取れてこそ、「法を聞く者」となるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.16
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5/15 Tue次郎長親分の心意気ある会社の社長さんが、こんな愚痴をこぼされていました。「朝礼で、遅刻をしない、むだを省く、自分が社長のつもりになってほしい、と口をすっぱくして言っているのですが、まるで反応がなくて、もうお手上げです」と言われるのです。どうして社員の反応がないのか。だいたい社長さんの朝礼の訓示というのを聞いていると、会社の都合だけを押しつける訓辞になっていることが多いのですね。上からの押しつけを感じると、人は内からの意欲がわいてこないのです。清水の次郎長親分のことは、みなさんもよくご存じだと思います。あまたの荒くれ男に慕われて、街道一の親分と名をとどろかせたその大親分に、ある人が、「大勢の子分の中で、親分のために命を投げだしてもいいという子分が何人いると思いますか」と尋ねると、次郎長親分は、「まあ一人もいないでしょうが、私はどんな野郎のためにも命を投げだすつもりです」と答えたという話が残っています。 ちょっと乱暴のような話ですが、そんな上司を持ったら、部下はその意気に感じずにいられないのではないでしょうか。ぜったいの信頼を寄せれば、人は必ず応えてくれるものです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.15
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5/14 Mon妙佼先生の厳愛だれしも、つい怠け心に引きずられる弱さを持っているのですが、それを、ちょうどいいようなことばかり言って甘やかしていたのでは、そこからなかなか抜けだすことができません。妙佼先生の祥月命日がめぐってきて、ありし日のお姿が目に浮かんでくるのですが、妙佼先生は、そこのところを見過ごされない方でした。「この人を本物にしなくちゃならない」と思うと、箸の上げ下ろしにまで注文をつけられるのです。ご法の行じ方はもちろんのこと、毎日の生活での一挙手一投足を見ておられて、こと細かに教えてくださいました。 そのお陰で、幹部さんたちがみんな姿勢をきちんと整えることができたのですが、妙佼先生のすばらしいところは、その厳しいお言葉の一つ一つが大きな慈悲心に発しているのが、ひしひしと伝わってくるところでした。親身になって、一人ひとりに細かな心くばりをされるのです。人は、相手が本当に自分を愛してくれているのを感じるときだけ、その叱責や忠告を前向きに受け取れるのですね。相手の幸せを願う無私の慈悲心が伴わない厳しさは、逆効果になりかねません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.14
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5/13 Sun最後の支え子どもが大きくなって親に逆らったり偉そうな口をきくようになっても、お母さんには、幼いときの母親だけが頼りで親の言うことはなんでも素直に聞いてくれた、けがれのない子どもの記憶が残っています。わが子に対するこの母親のぜったいの信頼が、なによりも大事なのです。かりに、わが子が周囲から非難されるようなことをしても、母親は「この子は本当は優しい心を持った子なのだ。たまたまなにかの拍子で間違いを起こしただけだ」と、わが子を信じています。たった一人だけでも、この世に自分を信じてくれる人がいてくれることが、子どものなによりもの支えになるのですね。いつも自分を見守ってくれている人がいると思うと、踏ん張って、立ち直れるのです。仏さまのお慈悲の見守りも、この母親の愛情と同じです。 「いま、どんなに汚れをまとっていようとも、その汚れをぬぐえば、あなたの仏性が輝き出るのですよ」と、仏さまは私たちを信じきって、呼びかけてくださっています。仏さまは、どんな人であっても、いま、どんなことをしていようと、最後までお見捨てになるようなことはないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.13
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5/12 Sat心と心の共鳴一人の人にご法を分かってもらうくらいのことは、簡単にできるように思うのですが、いざ「この人に本当に分かってもらいたい」と思うと、これが大変なのですね。お導きや手どりで、それを嫌というほど思い知らされている人も多いと思います。しかし、落胆することはありません。経典にも「須弥山(しゅみせん)を手にとってそれを他の世界へ投げ移すことよりも、一人の人に法華経を説くことのほうが難しい」とあります。相手が本気でやる気になってくれてこそ、本当に分かってもらえた証拠なのですが、人が本気になるのは、心から納得したとき、つまり頭の中で理屈として分かっただけでなく、感情が納得したとき、心から共感し共鳴したときなのです。その共鳴の感動は、相手が心から求めているものと、こちらの心がピタリと一致したときに起こります。だからこそ理屈やお説教よりも、相手の思いを聞くほうが大事なわけなのです。 難しいのは、話は聞けても相手の気持ちまで本当に聞き取れるかどうかです。それができたときに「心と心が通い合うというのは、こんなにすばらしいことだったのか」と、言葉に言い表わせないような感動がわき上がってくるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.12
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5/11 Fri理想像を持つアトランタで開催されているオリンピックでの、日本選手の活躍が毎日、テレビで伝えられています。そのアトランタ五輪日本柔道男子監督として山下泰裕さんが活躍されている姿を見て、以前、対談でうかがった話を思いだしました。山下さんが「柔道が強くなりたい」と思うようになったのは中学校に入ってからなのだそうですが、そう思い立つと、親や先生の言うことよりも、柔道の先生の言うことが、いちばんよく聞けるようになった。先生に、「柔道を学ぶ人間は、人を思いやる心を持ち、礼儀を重んじなくちゃならん。強くなるだけでなく、柔道で学んだことを社会で生かさなくちゃならんのだぞ」と教えられると、それまで親に言われてもなかなか素直に聞けなかったことが、「はい」と聞けるようになって、それで自分が変わってしまったというのです。 少年時代や青年時代に、自分のめざす目標をしっかりと定め、理想像を持って努力することがどんなに大切であるか、よく分かるお話でした。大舞台で活躍する選手の姿に、あらためて教えられる思いでした。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.11
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5/10 Thuうしろ姿が語る言葉「うしろ姿で人を導く」というのは、佼成会員の合言葉の一つですが、そのうしろ姿とはどんな姿かというと、教えを実践する姿なのですね。いくら口で立派なことを説いても、やっていることがそれと裏腹では、逆に、そのうしろ姿を見られてしまいます。言葉は人と人をつなぐ大切なものなのですが、うっかりすると、つい、それに頼りすぎてしまうのです。自分がやってもいないこと、やれもしないことを滔々と述べるようなことになりがちです。たとえばお母さんが、自分もやっていないような立派なことを子どもに口うるさく言って聞かせても、逆効果になるだけですね。講演などでも、講師が話している内容そのものよりも、講師の態度などその人の全体の印象のほうが、ずっと影響力が大きいそうです。 教えのとおりに実行している人が、自分の体験でつかんだことを自分の言葉で話してこそ、人の心に強く響きます。そういう人の口から出る言葉は、ひと言でも、ずしりとした重さをもって人を動かすのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.09
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5/9 Wed老化のバロメーター「近ごろの若い者は」と言いだしたら、老人の仲間入りだといいます。それが心の老化のバロメーターだというのです。確かに、なんでもひとからげにして決めつけたがるのは、かなり心が固くなっている証拠です。硬直した価値観ですべてを割り切ろうとして、逆に自分がしばられてしまっているわけです。若い世代は、未知の未来を探りながら生きていく人たちです。変化のはげしい時代に、過去のやり方だけではやっていけないと感じてはいても、ぜったいの自信があるわけではありません。年長者の経験に学ぶ大事さは分かっているけれども、それにしばられては困る、と若い人たちは思っているのです。 「善に伐(ほこ)ること無けん、労を施すこと無けん」という言葉があります。善行をひけらかしたり苦労を押しつけたりするような態度が見えると、人は聞いてくれません。謙虚さと思いやりの心を持たないと、いちいち腹が立って「もう私の時代は終わった」と、ため息ばかりの毎日になってしまいます。若い人たちの考えも聞こう、という気持ちになると、なによりも自分の気持ちが楽になるのです。すると、若い人も先輩の話も聞かせてもらおう、という姿勢になってくれるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.09
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5/8 Tue人生ドラマのヒーローテレビドラマなどを見ていると、次々に事件が起こり、主人公がそれに取り組んで問題を解決していきます。そこがドラマのおもしろさですが、それは人生の縮図ともいえます。私たちの人生は、解決を迫られる問題の連続です。家庭でも、夫婦で意見が衝突したり、家族が病気になったり、子どもが反抗したりと、心配ごとの絶え間がありません。けれども、それがじつは家庭のゆがみに気づかせ、その立て直しを願う家族の訴えの軋みなのですね。そこで、ただ困った困ったと頭を抱えて、その場をとりつくろおうとするよりも、その“症状”の底にあるものに気づくことが大事です。 信仰というと、無病息災、家内安全、商売繁盛を願うことのように思われがちですが、そうではありません。次から次へと問題が起こってくる人生だからこそ、それに立ち向かい、それを乗り越える力をつけてしまう。その力を与えてくれるのが信仰なのです。こっちがその力を具えてしまえば、どんな問題が起ころうと、平然と対処していけます。それが本当の平穏無事です。自分が自分の人生の主人公になるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.08
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5/7 Mon人の心を開かせる笑顔「私なんか、だれからも好かれないんだ」と決め込んでいる人がいますが、この世の中に、そんな人がいるわけがありません。そんなふうに自分で決めつけている人をみると、自意識が過剰すぎるのですね。人のちょっとした言葉で、「私はだめな人間なんだ」とか、一つでも嫌なことがあると、「私には、いいことなんかあるはずがないんだ」というように、悪いほう悪いほうにばかり考えるのです。これは、過剰な自己防衛意識のせいです。自分を守る垣根を高くしすぎて孤立してしまい、自分の素直な心や、優しさを無理やり抑え込んでしまっているのです。その優しい心を、曲折させずに素直にスッと表に出せばいいのです。難しいことはありません。人に会ったら、笑顔でちょっと挨拶するだけでもいい。笑顔は、どんな人の心も和ませる最高のコミュニケーションです。 「親を喜ばそうと思って、なにもしてあげられることがなかったら、日に二、三度、笑顔を見せてあげなさい」という日蓮聖人のお言葉があります。笑顔は人の心を開かせる力を持っています。その開かれた心が、みんなの素直な心を引きだすのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.07
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5/6 Sunこの道一筋に野球放送の解説の方が、こんな話をされていました。「選ばれてプロの世界に入ってきた人が一流選手として残れるかどうかは、最初の五年間が勝負。その間、朝から晩まで、それこそ寝ても覚めても“野球漬け”の生活で練習に打ち込むか、そこで楽することを覚えてしまうか、その違いだ」というのです。これは、すべてのことに通じるのではないでしょうか。われを忘れて何年間か一つのことに没頭すると、あるところから、つらい修行が苦でなくなってくるのです。難問にぶつかるほど、それと取り組んで腕を磨くのが喜びになってきます。そこから、この道一筋に生きぬく自信が生まれてくるのです。 私が十八歳で上京するとき、父が「給料が安くて、暇がなくて、骨が折れるとこへ奉公しろ」と言い聞かせてくれたものでした。暇がなくて給料が安ければ、悪いほうに走る余裕はありません。仕事に打ち込むしかないわけです。それで仕事がしっかり身について、まわりの信用も得られるわけです。あとになって、「なるほど」と、父の言葉にあらためてうなずかされたものでした。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.05
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5/5 Sat両立させる智慧教会によっては、お役をしてくださる人たちの人間関係がぎくしゃくしてしまっているところが、ときどきあります。そういうところに赴任する教会長さんに、私はいつも「仏法の法則によれば争いなど起こることはないのだという信念を、しっかり持ってください」とお願いするのです。こっちの人の言い分、あっちの人の言い分を聞きすぎると、心が揺れ動いてしまいます。ですから、どっちがよくてどっちが悪いといった判断は一切抜きにして、「ご法では、こう教えているのですよ」と説いてあげればいいのです。仏教の教えの基本に戻れば、相手だけが間違っていて、自分はぜったいに正しいというようなことがあるわけがない、と分かってきます。 お釈迦さまの教えは、どちらが正しくてどちらが間違いだなどと裁くものではありません。ご法の基本をしっかりと示してあげると、自分の言い分に固執していた人たちが、どちらも自分の足りなさに気づいてくれるのです。正見を妨げる元凶は、先入観や固定観念です。それを捨てて仏さまの智慧に直入するのが柔軟(にゅうなん)心です。仏さまの教えは、あくまでもすべての人を救うためのものなのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.04
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5/2 Wed仏さまが一緒の大安心大学を卒業したのに、まだ依然として親がかりという青年が増えていると聞きます。親というものは、子どもがいくつになっても危っかしくて、できれば、いつも子どもについていて危ない目に遭わせたくないと願うものです。しかし、それではいつまでたっても子どもの自立心が育ちません。拒食症や過食症、家庭内暴力、不登校などで苦しんでいる若者たちと取り組んでいる精神科医の斎藤学さんは、その症状の奥に対人障害があり、さらに家族の問題があると言います。大切なのは、まず「独りでいる能力」を育てることで、それは母親が赤ん坊をしっかり抱きしめる腕の中で芽生え、成長に応じて、ひざの上、部屋の中、家の中、そして外へと、一人でいられる範囲を広げていくことによって育っていくのだというのです。その段階を踏むことで、子どもは、どこにいても母親と一緒だという安心感を持って、人と協調していけるようになるのだといいます。これを信仰的に言えば、「いつも仏さまが一緒」の大安心と言えるのではないでしょうか。 親子の絆も、成長に応じてだんだんにゆるめていく知恵が伴わないと、愛情が逆に子どもの足かせになりかねません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.05.02
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