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8/1 Wed自分を知れ 私たちはいま、地球上の出来事はもちろんのこと、他の天体のことまで分かる時代に生きています。ところが、それほど物知りになった現代人が、自分自身のことについては何も分かっていない、というのが正直なところではないでしょうか。仏教には「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」--自分の足元を見つめよ、という教えがありますし、西洋の哲人もまた、「汝(なんじ)自身を知れ」と説いています。「現代人とは、自分のこと以外はなんでも知っている人間だ」と、皮肉たっぷりに言う人もいます。つまり、ほかのことはなんでも知りたがるのに、自分自身のことは少しも知ろうとしないのが現代人だ、ということになりましょう。人の欠点や失敗、スキャンダルは見逃さないのに、自分の欠点には気づこうともしないわけです。子どもたちにしても、最近の子どもは昔の五十代、六十代の人よりも物知りではないかと思える半面、人間の心得とか、他人への思いやりといったことについては、まったく何も知らない。いや、教えられていないのです。それで友だちとどう接したらいいのか分からずに苦しんでいる子どもも多いといいます。こんな不幸なことはありません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.31
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7/31 Tue心を和(なご)ます機知 日本を離れて外国で仕事をしている人が、「最初は一生懸命に現地の人たちに溶け込もうと努力してもできなかったのが、言葉に慣れて冗談を言えるようになると、まわりの態度が変わってきました」と話してくれたことがありました。それで思いだしたのですが、かつてイギリスのロンドンを訪れたとき、日本から同行した人と一緒に公園に行くと、その人の肩にハトが止まって糞をしてしまったのです。すると近くにいたご婦人がそばにきて、「わが英国のハトが遠来のあなたに失礼をして申し訳ありません」と丁重(ていちょう)にわびられ、肩の汚れを拭き取ってくれたのです。その見事な話術、応対ぶりに、いたく感心させられたものでした。また、二年ほど前にニューヨークに行ったときのこと、折悪(あ)しく大停電に遭(あ)って、エレベーターも水も止まり、大弱りしたことがありました。そのとき世界宗教者平和会議の同志であるホーマー・ジャック事務総長が、「この発展途上国によくぞおいでくださり、ありがとうございます」と、ユーモアたっぷりに部屋に挨拶にこられて、大笑いしたことがありました。話の潤滑油としての機知の大切さを教えられたものです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.31
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7/30 Monアジアの中の日本 先ごろ、日本は国連の安全保障理事会の非常任理事国に立候補したものの、バングラデシュと争って敗れてしまいました。日本のマスコミは、その敗因をいろいろと解説しています。確かに日本側の根回しが不十分だったこともありましょうが、私は、経済的に貧しいバングラデシュに比べて、日本は国連加盟国中三番目の額の国連分担金を拠出していながら敗れたことに、留意したいのです。私は外国を訪れると、その国に赴任している日本の大使をお訪ねするのですが、その国の宗教について、なんの知識(宗教人口や活動状況ではなく)も持っていない外交官の方に出会って、驚くことがあります。東南アジアや中東では宗教がその国の人たちの生活に深く根を下ろし、それが、その国の人たちの考え方、さらには、その国の政治までも動かしております。その宗教についての理解もなしに、ただお金をバラまくだけの援助で友好と信頼を得ようとしてもできるものではありません。日本が国連安保理の非常任理事国への支持を得られなかったのも、そうしたことが影響してはいないでしょうか。その反省なしに「アジアの中の日本」などと言えないと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.30
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7/29 Sun人生にむだはない 私たちが人生で体験することには一つのむだもありません。お釈迦さまが「人生は苦である」と教えられているように、私たちの人生には苦がつきものです。けれども私たちは不幸や苦しみに見舞われると、「なぜ自分だけがこんなに苦しい目に遭わなくてはならないのか」と恨(うら)みごとを言い、嘆くのが常です。しかし、その苦しみを通らないと人生の本当の喜びは得られないのです。いや、苦しみを乗り越える、そのことの中に真の楽があるといってもいいのです。人は自分が実際に経営に失敗して苦しみ、病気で苦しんでみてこそ、同じ苦しみを持つ人に、それを乗り越える道、そして乗り越えたときの喜びを、自信をもって説くことができます。苦しみにぶつかったときに、「仏さまが、この苦しみを通して同じ苦しみにある人たちを救う力を与えてくださるのだ」と受け止められるようになると、力が内からわき上がってきます。その力が道を開いていくのです。「無用の用こそ大切」といいます。人生でぶつかるさまざまな苦しみ、むだな回り道と思えることも、すべて将来に生きていくのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.28
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7/28 Sat自己中心の克服 自分では正義だと思ってやっていても、全体から見ると、みんなに迷惑をかけてしまうといったことが、しばしばあるものです。原因は視野の狭(せま)い、ものの見方になってしまっていることにあります。また、なにごとをするにも得か損かで判断するといった傾向が最近はとくに顕著で、「ここで恩を売っておけば将来こちらの得になる」といった手練手管(てれんてくだ)を弄(ろう)する人もいます。それを、政治的で読みが深いといった見方をする人もいるのですが、一時的には利口(りこう)者に見えても、やがては底が割れ、周囲から見放され、愛想をつかされるのがおちです。そうした視野の狭い見方に陥るそもそものもとは、自己中心で、客観的に自分を見ることができないところにあります。だから他人の欠点は厳しく指摘するのですが、自分のことにはまるで気づいていない、という生き方になってしまうのです。法の鏡に照らして常に自分を振り返り、サンガの仲間に教えてもらう謙虚さを持たないと、そこから抜けだすことができません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.27
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7/27 Fri善(よ)き縁という命綱 昔の農家では養蚕(ようさん)がさかんに行なわれました。私も若いころ、蚕(かいこ)の繭(まゆ)から取った糸を二十本ぐらいひとまとめにして丈夫な絹糸に撚(よ)り上げる作業をしたものです。その後、上京して植木屋さんに奉公したのですが、植木屋では垣根や植木に紐(ひも)をしっかり結ぶのが大事な仕事の一つでした。また、海軍時代には結索(けっさく)といってロープをしっかり結わえることが水兵の大事な仕事で、私は掃海時(そうかいじ)にからまった綱をほどく名人と言われたものでした。そんなふうに糸や紐とかかわりが深かった私が、いま因縁の複雑な糸にしばられて苦しむ人びとの悩みを解きほぐし、解決の結びをつけるお役をするようになったのも因縁のように思えるのです。この因縁の糸は目には見えませんが、その結び方、解き方ひとつで、その人の人生がまるで違ってしまうのです。人は、その時、その場で、いろいろ違ったことをしているように見えても、深いところでそれがつながっているのです。どんな仕事であっても、誠意をもって自分の全力を注いでいれば、それがやがて善き縁を生み、自分の命綱になることも多々あるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.27
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7/26 Thu いただき方を知らぬ人 最近はグルメブームというのでしょうか、おいしい店の紹介や、料理に関する本がたくさん出版されているようです。また外国に出かける人も増えて、各国の料理の作り方や、外国の有名なレストランまで、いろいろ紹介されています。それで、最近は食事についてうんちくを傾ける人は多いのですが、逆に、心から感謝して食事をいただく人は少なくなっているのではないでしょうか。世界でいちばんおいしい料理の名前は「空腹」という料理だと言われます。本当にお腹がすいているときには、何を食べてもおいしいものです。捕虜生活を送った人が、「パンの耳がこれほどうまいものだったのかと初めて知った」と書いている文章を読んだことがありました。いまの日本は、世界中からおびただしい食材を輸入しているのですが、その多くが食べ残され、捨てられているのだそうです。臨済宗の松原泰道(まつばらたいどう)師は、「『食べ方』を知っている人はいくらもいるが、『いただき方』を知らぬ人が増えている」と言われています。まさにそのとおりで、まことに残念なことです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.26
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7/25 Wed真の智者 ある教団では「利口(りこう)になれ」と教えるそうですが、私は、いつもみなさんに「ばかになれ」と申し上げています。どちらも行きつくところは同じなのです。世間一般でいう利口、いわゆる物知りとか、うまく立ち回るといったことをもって利口というのでは問題ですが......。いわゆる、たくさん本を読んだり、いろいろな情報を仕入れた物知りならば、世間にはいくらでもいます。しかし、そういう人が増えると、どうしても理屈ばかりが多くなって、なにごとに対しても自分の主張ばかりして譲らず、かえって問題の解決が困難になってしまうのです。私は、菩薩行(ぼさつぎょう)とは自分を捨てないとできないものだと思っています。どっちが得か損かと計算する心や、小才があっては菩薩行はできません。このせちがらい世に自分のことは忘れて他を思うといった行為は、利口な人にはできないのです。ですから、利口になろうとする人よりも、黙々と人さまのために働く人のほうが、はるかに尊い存在だと思うのです。自分の愚かさを知り、大愚(たいぐ)に徹することのできる人、それが真の智者です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.25
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7/24 Tue精神の飢餓 路傍で生まれ落ち、そして道端で死んでいく気の毒な人たちが、アジアやアフリカにはまだたくさんいます。三度の食事にも事欠く人たちがいっぱいいるのです。それを遠くの世界のこととして傍観していることは許されません。そして、なによりも大切なのは、それをただ声高に人びとに訴えるのではなく、まず自分の足元から見つめ直してみることです。満足な食事もとれない飢餓状態にある人たちが、こんなにも多くいるその同じ地球に住み、毎日十分すぎるほどの食事に恵まれながら、私たちは欲望をさらに際限もなくエスカレートさせて、これで十分だという満足感、充足感を得ておりません。物質で栄えても精神的に退廃し、滅亡していった国の例はたくさんあります。いまの日本は、まさに精神の飢餓状態にあるといえましょう。「無量義経十功徳品」には「愛著ある者には能捨の心を起さしめ、諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ」と説かれています。人は、あればあるほど欲する心が強くなるものですが、逆に自分の持てる物を人さまに施す心に切り換えると、少ない物にも心から感謝できるようになるのです。際限のない欲望を断ち切るのには、この心の転換しかありません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.24
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7/23 Mon小利口(こりこう)人間のはかなさ 本を読んだりテレビの教養番組を見ているだけでも、たくさんの知識が得られます。最近は昔のようにのんびりした時代と違って、社会がめまぐるしく変化し続けていますから、それに対応できる程度の知識は備えておかなくてはなりません。しかし、氾濫(はんらん)する情報や知識の中には、自分の人生にとって欠かすことのできない知識よりも、そのときかぎりで消えてしまうといったたぐいのものが多すぎるように思うのです。流行の言葉を使って伝統的な考え方を否定したり、言葉巧みに自己正当化の論理を展開したりすることが、かっこいい、新しい生き方であり、そうでないものは時代遅れの愚直な生き方と片づけてしまうような風潮は、いかがなものでしょう。そんな一見かっこいい生き方は、いわば社会の表面に浮いた水泡のようなもので、そうした小利口人間でこの社会は支えられるものではないのです。利口になるよりも、本物のばかになることのほうが、はるかに難しいのです。社会は、じつはそういう人によって支えられているのです。 庭野日敬著『開祖随感』よりcopyright (c) 2008 Rissho Kosie-kai
2012.07.23
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7/22 Sun利己心の拡大 人間は欲のかたまりですから、どうしても自分中心にものごとを考えてしまいます。そのような人間に、頭から「欲を捨てなさい」と言っても、できるものではありません。教化(きょうけ)どころか、「だから宗教は嫌いだ」といった拒否反応にあう結果になってしまいます。ですから私は、欲を頭から否定するのでなく、それを善(よ)い方向に転じていくように話してあげるのです。つまり欲望のコントロールです。また自己中心についても同じように、「それではいけない」と頭ごなしに否定するのでなく、自分を大事にするその心の枠(わく)を少しずつ広げていく大切さを、みなさんに考えてもらうのです。つまり利己心の拡大です。最近の調査結果によると、人びとのいちばんの関心事は、やはり健康にあることが分かります。また、子どもを持つ夫婦の生き甲斐'(がい)は、なんといっても子どもに集中しています。そうした人びとの最大の関心事をもう一つ拡大して、隣人の安否(あんぴ)を気づかい、人さまの幸せも考えられる人間になれるようにうまくリードしてあげるのが、現代の宗教者のつとめではないでしょうか。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.22
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7/21 Satおじやの信仰 戦後、佼成会の教勢がどんどん伸びていた二十年代から三十年代にかけて、「庭野の信仰は、おじやのような信仰だ」と悪口を言われることがありました。私は、佼成会の教義は日蓮(にちれん)聖人、信仰のあり方は親鸞(しんらん)上人、修行の態度は道元(どうげん)禅師をお手本にすべきだと、しばしば申してきました。道元禅師には道元禅師の、親鸞上人には親鸞上人のすばらしさがあります。お題目を唱える私たちであっても学ぶべきところは大いに学んでいきたい、それは少しも恥ずかしいことではない、というのが私の考えでした。ところが、それが不純な信仰と見られる時代があったのです。それがいまや「キリスト教をはじめとして宗教が分裂しているときではなく、互いに手をたずさえて一つの平和に向かって進むときです」とローマ教皇パウロ六世がおっしゃられる時代になったのです。時代の流れもありましょうが、一仏乗(いちぶつじょう)の精神に貫かれる法華経を所依(しょえ)の経典とする私たちには、宇宙の真理はただ一つであり、それぞれの宗教はその真理の多様な表現にほかならないというのが一貫して変わらぬ信念です。だからこそ万教は同根であり、宗教協力はむしろ必然であると信じているのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.20
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7/20 Fri人類への忠誠心 前の国連事務総長ウ・タント氏は熱心な仏教徒で、「人びとが自国に対する忠誠心とともに、それにさらに国際共同社会に対する忠誠心を持たなくては、人類は滅亡してしまうであろう」と言っておられました。また、ローマ教皇パウロ六世も、「いまや隣人という言葉は人類という言葉に置き換えられなければならない」とおっしゃっています。昔は、それぞれの個人の問題、その国だけの問題と思われていたことが、いまや人類全体にかかわる問題として対処しなければ解決できなくなってきているのです。そうした問題が多々あることは、みなさんもよくご存じのとおりです。たとえば、現在、世界各国の軍事費を合計すると二千五百億ドルから三千億ドルにも達するといわれますが、そのわずか二パーセントを発展途上国への援助に回すだけで、何億という人びとが餓死から救われるのです。いまや他国の民族紛争や経済的破綻がたちまち自分の国に波及する時代です。対岸の火事として手をこまぬいていることは許されないのです。一切衆生(しゅじょう)を隣人とする心、人類への忠誠心、いずれも仏教でいう大慈悲心にほかなりません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.20
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7/19 Thu日本の温かい心を太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)宮司の西高辻信貞(にしたかつじのぶさだ)先生のお話によると、昔、先生が中国におられたときに知り合った国民政府軍の将校たちの中に日本に留学した経験のある人がいて、その人たちに、日本の何がいちばん印象に残っていますかと尋ねてみたら、「下宿のおばさん」という返事が多かったというのです。留学して勉強した学校のことより、親身になって世話をしてくれた下宿のおばさんのほうが強く印象に残っていると聞いて、留学生問題について、あらためて考えさせられたものでした。心のこもらない形だけの留学生受け入れでは、やがて彼らを失望させてしまいます。偏見を持った接し方に嫌な思いをさせられ、せっかく日本に留学したのに、帰国後は反日運動のリーダーになってしまうといったケースもあるそうです。 温かい心の触れ合いによって本当の日本を理解してもらうのが、なによりも大切であることが分かります。佼成会に入会してくださった新入会員の方にその動機を聞いてみても、親身になって話を聞いてもらったとか、雨の日も風の日も、嫌な顔ひとつ見せず手どりにきてくれたことに心を動かされた、という人が多いものです。忘れてはならないことです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.19
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7/18 Wed若さと負けん気私が立正佼成会の会長の役に就いたのは、まだ三十歳そこそこのときでした。私は軍隊生活も体験しており、海軍時代には勉強の面でも体力の面でも、分隊のだれにもひけを取らない自信がありました。その後、なんとかして人の苦しみを救う道はないものかと、さまざまな道を求める求道(ぐどう)生活に入りましたが、そこでも、いろいろ厳しい修行をして、毎日朝夕の二回水行(すいぎょう)をとるといった修行を二年間も続けたことがありました。自分で言うと自慢めいて聞こえるかもしれませんが、死にものぐるいで勉強をし、修行をしたものです。 若いころの私は負けず嫌いで、宗教論もずいぶん闘わせました。当時は、佼成会の教義について質問をしてきたり、論争をしかけてくる人がよくいて、会長の私に会いたいというのです。それで私が顔を出すと、意外に私が若いので、「あんたが会長か?」と拍子抜けした顔をされるのです。そのたびに私は、見くびられてなるものか、とさらに勉強をし、「早く年をとって貫禄(かんろく)をつけたいものだ」と思ったものでした。いま思うと懐かしい思い出です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.17
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7/17 Tue万人の苦しみを背負う人「クリスマスという行事は、まさに驚くべき現象である」と、ケネス・ウッドローフという人が言っています。なぜかといえば、「ローマ帝国の片隅に住み、罪人(つみびと)、煽動者(せんどうしゃ)として死刑に処せられた一人の若い大工の子(イエス・キリストのこと)の誕生を、世界中の人びとが祝っているからだ」と言うのです。言われてみると、確かにそのとおりです。一人の人間が世界中の人びとに影響を及ぼし、世界の歴史を変えてきたのです。一人の人間をそうした驚嘆すべき存在たらしめたものは、なんだったのでしょうか。 それはやはり、人びとがイエス・キリストの姿に人間としての理想を見たからでありましょう。万人の苦しみをわが身に背負って十字架にかかり、その罪、苦しみをあがなってくれたその姿に、「自分もそうありたい」と願い、その生き方こそ真実の道だと考え、自分もまたその道をあゆみたいと願えばこそではないでしょうか。つまり、イエス・キリストに人間の生き方の理想が具現化されているわけです。身をもって愛を説いたそのすばらしさが、永遠のものとして人びとに慕い続けられているのだと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.17
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7/16 Mon個人主義と利己主義現代は個人主義の時代といわれます。個人主義というと、独善的で自分のことしか考えない主義のように考えられがちですが、本当の個人主義は、一人ひとりの人間の主体性を尊重し、互いに他人に迷惑をかけないという考え方、生き方です。ところが現在の日本の個人主義は、他人に迷惑をかけてはならないといった配慮はまったくなく、ただ自分さえよければいいという生き方を個人主義と勘違いしている人が多いように思うのです。他人や全体のことを考えない自分本位は、個人主義ではなく、利己主義です。利己主義というと、自分の利益のためには人を蹴落(けお)としてもかまわないといった、あこぎな生き方を考えますが、それだけでなく、自分の幸せ、一家の幸せだけを考えて人のことまで心配している暇(ひま)はない、と考えるのもまた利己主義です。 うっかりすると私たちはすぐその利己主義に陥ってしまうのですが、お釈迦さまは逆に、自分の幸せを守りたかったら人さまの幸せを考えなさい、と教えるのです。不思議なことに、それによって知らぬまに自分が幸せになってしまうのです。教えどおり実践してみると必ずそれが分かります。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.16
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7/15 Sun三つの言葉大学の卒業式で、これから社会人として第一歩を踏みだす若者へのはなむけに、こんな言葉を贈る先生がおられました。「諸君が会社に入って道を切り開いていくうえで、いちばん大事なことを教えよう。それは『おはようございます』『ありがとう』『すみません』が素直に言える人間になることだ」と。これは毎日の生活でふつうに交わされる言葉で、人間関係を保つ基本的な言葉です。その言葉すら、いまの若者たちの多くが素直に口にできなくなっているわけです。その先生は、大学の卒業式でそうしたアドバイスをしなければならない現状を、まことに情けない、と嘆いておられるのです。 ただ知識を詰め込んで卒業証書をもらっただけでは、大学を出ても、社会で本当に役立つ仕事はできません。この社会を構成する人間としての心得こそが社会の潤滑油であり、それがそなわって初めて知識が役立つのです。そうした大切な言葉が、いつもスッと口にできるようになるのには、小さいうちから家庭でも学校でもしっかり教え込まなくてはならないのです。そのしつけの欠如は、本人にとっても、日本の社会にとっても、まことに不幸なことです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.15
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7/14 Sat学ぶ姿勢の中にある学校人生は死ぬまで修行です。一生を通して学び、向上し、社会のために貢献するのが人間の生き方であり、それが生涯(しょうがい)学習です。私はいま佼成会の会長をつとめさせてもらっていますが、この役は、ただ会員を指導さえしていればよいというものではなくて、私自身もその役を通して自分の信仰を深め、人間としての完成をめざしていくのです。その絶えざる向上を忘れると、私自身の進歩が止まってしまうわけです。私の場合は小学校を出ただけですから、常に人の二倍も三倍も勉強しようという気持ちが強く、どんな人の言葉にも、真剣に耳を傾ける習慣が身についてしまいました。そうして学ぶ姿勢を失わずにいると、どんなことからも「なるほど」と学ばせてもらえるのです。 学校の教室で先生から学ぶだけが勉強ではありません。この社会には、よいお手本も悪いお手本もあります。また、あるときは自分が人さまの教師になり、あるときは生徒になって学んでいく。それが生涯学習です。人さまに法を説くことも大切な自分の勉強なのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.13
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7/13 Fri宇宙意思による調和人間は、その根本においてすべて平等であるのは言うまでもありません。しかし、男女の性別とか体力や性格、そして才能などの面で、人それぞれに違いがあるのも事実です。本来平等であるのに、なぜこのような相違が出てくるのでしょうか。それは「あるべくしてある違い」、あるいは「宇宙がそうした姿を必要としているからだ」ともいえましょう。目には目の、心臓には心臓の、腸には腸の、それぞれの働きと役目があります。それを交代するわけにはいきません。それぞれが、それでなくては果たせない役目を持っているわけです。その働きによって、私たちの体が成り立ち、機能しているわけで、おのおのが千差万別であればこそ調和が保たれているのです。 それと同じように、人の性格も、体力も、才能も、それぞれ千差万別で、そういう人びとが集まっているからこそ社会が成り立ち、味わいが生まれ、互いに刺激し合うことで進歩があるわけです。そして、その大もとに宇宙意思、宗教的にいえば絶対なる神の意思、久遠の本仏の願いが存在しているのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.13
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7/12 Thu不幸な人「人間なんて、当てになるもんじゃない」とか、「いくら教育したって、しょせん人間なんて変わるものじゃない」と、なにごとにつけても、ひねくれた見方をする人がいるものです。そういう人は、「人間というものは、どうにも救いようのないものだ」と決め込んでしまい、そういう一面しか見ようとしません。そんな人を見ると、私は気の毒で仕方がないのです。仏教では、人はみな仏になれる性質を持っていると教えます。貪欲(とんよく)によって表面が垢(あか)で覆われているだけで、煩悩(ぼんのう)の垢の奥に、磨けば光るすばらしい素質がそなわっているのだと見るのです。だからこそ、その素質を磨き出す修行に意味があり、そこに宗教の存在価値があるわけです。 人間が生まれつき救いようのないもので、決して変わることのないものであるのならば、教育とか教化(きょうけ)活動はなんのために行なわれるのでしょうか。人間は教育により、磨き方によってよりよくなるものだと信じているからこそ、教育に情熱を注げるわけです。信頼は相手が善なるものと思えばこそ成り立ちます。私たちは、すべての人の仏性(ぶっしょう)を信じて、それを育て上げる努力を惜しまずに続けてまいりましょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.11
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7/11 Wed即席に人間教育はならず自分の講義を聞く学生があまりにも礼儀を知らないと言って、大学の教授は高校教育の欠陥を指摘します。高校の教師は、中学の先生の教え方が悪いと非難し、中学の先生は「いや、小学校の教育が悪いからだ」と責任を転嫁します。そうなると、小学校の先生も「自分たちが預かったときではもう遅すぎる。幼稚園の段階でしつけてもらわなくては困る」と言い、幼稚園の先生は「家庭のしつけが、あまりにもだらしなさすぎます」と親を責めるわけです。それで親が反省するかというと、親はまた「学校が悪い」と嘆く。まさに堂々めぐりです。みんなで責任を他に転嫁してなすりつけ合い、とどのつまりは政府の教育施策の無策ぶりを攻撃して、「このままでは日本はどうなるのか」と行く末を案じ、困り果てているのが現状ではないでしょうか。 教育の成果、人づくりの成果が現われるのには五十年、百年の年月が必要です。他に責任を求めるかぎり一つも進展はありません。それぞれの段階で、それぞれが自分の責任を果たさなくてはならないのです。社会全体が忍耐強く、みんなで力を合わせて地道に努力を続けるしか教育は変えようがないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.11
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7/10 Tue感謝と謙虚さの文明物は、ただ豊富であればよいというものではありません。どんなに山海の珍味が並んでいても、それをただガツガツと食べるだけでは、貧しい食事になってしまいます。たとえ一汁一菜(いちじゅういっさい)の料理でも、作った人の苦労を思い、自然の恵みに感謝して食べることができれば、それはこの上ない豊かな食事になります。 飛行機が大空を飛んでいるのを見て、私たちはジェットエンジンの推進力とパイロットの操縦で飛んでいるぐらいにしか考えませんが、よく見ると、それはたくさんの働きによって支えられていることが分かります。地上からの無線誘導をはじめ、さかのぼれば、飛行機を造った人、燃料を掘り出した人、それを精製した人、エンジンの素材に欠かせないチタン鉱を掘り出した人、そして、それらの原料を人間に提供してくれる大地の恵み……。そのどれを欠いても飛行機一機、飛ぶことができないのです。世界中の、いや地球上のあらゆる働きを集めて飛行機は大空を飛んでいるわけです。目に見えないたくさんの恩恵への感謝を忘れることのない生き方であってこそ、文明の名に値する真に豊かな生活といえましょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.09
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7/9 Mon「人間の道」の教育現代に宗教は必要ないと極論する人がいます。そういう人は、宗教をごく狭く解釈しているのだと思うのです。自分の人生が順調にいっているとき、人は「すべてのことは自分の力で解決できる。信仰など必要ない」と考えます。ところが深刻な問題にぶつかると、こんどは藁(わら)をもつかむ思いで呪術(じゅじゅつ)的な迷信にすがり、それで自分が願うような結果が得られないと、「宗教などまやかしだ」と否定してしまうのです。どちらも宗教に対する誤解です。人はだれしも心の深いところで、いかに生きるべきか、何を目的として生きるのが正しいかと、人間の真実の道を求めています。その希求(ききゅう)が、すでに宗教なのです。何か特別の儀式とか、祈祷(きとう)だけが宗教信仰ではありません。その人間の道が、最高の人格である仏と、この世界の万物をあらしめている真理の法と、互いに磨き合う人びとのつどいである僧の三宝(さんぽう)に帰依(きえ)することによって、すべての人のものになると仏教は教えるのです。 国をつくるのは人間であり、人間をつくるのは教育です。その教育で「真の宗教とは何か」を教えることが、なによりも大切だと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.09
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7/8 Sun出会いが善縁にも悪縁にも仏教の教えのかなめは縁起(えんぎ)です。縁起とは他との関係が縁になって、すべてのものごとが生起することです。一切のものは縁によってたもたれ、縁によって変化し、そして縁が切れると消滅していくのです。善因善果(ぜんいんぜんか)、悪因悪果(あくいんあっか)というように、人の行為には必ずその報いがあるのですが、いまの若い人たちに因縁というと、いかにも古めかしいものに感じるかもしれません。それで私は、因縁を「出会い」と言い換えて説明させてもらうのです。仏教は出会いを大切にする教えといってもいいと思うのです。 私たちは毎日、じつにさまざまな出会いをしています。いろいろな人と出会い、いろいろな出来事と出会い、いろいろなニュースや情報と出会う。それにどう対処するかで、自分の人生が変わっていくのです。出会いを、憎しみ、争いの出会いにしていく人もいます。逆に、どんな嫌なことも善(よ)い縁に変えてしまう人もいます。すべての出会いが、こちらの対し方で善縁にも悪縁にも変わるのです。どうすれば出会いを善い縁に変えていけるか。それを教えるのが仏教だといってもいいのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.08
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7/7 Sat一票の行使宗教は、私たちが毎日生活しているこの社会をよくするためにあるものです。つまり世直しが目的です。それは、ただ祈るだけでは実現しません。祈りはもちろん大切ですが、「よい社会になりますように」と、ただ祈るだけで、現実の社会がすばらしい社会に変わるものではありません。社会を大きく動かすいちばんの力は政治です。ですから、なによりもまずよい政治が必要なのです。その政治は、どのような政治家を選んでまかせるかにかかっています。そう考えてくると、選挙の大切さがよく分かってきます。 私たち一人ひとりが責任を持って選挙権を行使することによって、国のために本当に役立つ人を国会に送り出すことができます。一票の行使によって国民の意思を国政に反映できる貴重な権利をむだにしてはならないのです。選挙のたびに、おもしろ半分で立候補する人がおり、また、おもしろ半分で投票する人がいますが、政治を甘く見すぎると、そのつけは自分に回ってきてしまいます。政治がだらしないと非難するよりも、そうした人物を選んだ自分たち自身を反省すべきなのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.06
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「母」は第3位ふるさとを漢字一文字で表すとどうなるかというアンケートがございます(*注)。第1位が「山」、第2位が「海」、そして第3位が「母」であったそうです。「父」は、残念なことに50位にも入っていない。父親の存在は薄いということでしょうか。私たちが、人間として生まれさせて頂いて、一番最初にめぐり合うのは、母親です。子供を直接育てるその母親が、仏さまの教えの縁に触れているか、いないかということは、一人の人間の一生において非常に大きな影響を及ぼすのではないかと思います。ふるさとを一文字で表す第3位が「母」。そのことからも、母親が子供さんを、ご法によってしっかり育てていく大切さを強く感ずるのであります。 *注...「ふるさとを漢字一文字で表すと」という住友生命のアンケート 『佼成新聞』より
2012.07.06
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7/6 Fri牛乳店のおやじでも会の歴史を語るとき、私が「牛乳店のおやじと焼きいも店のばあさんが始めた立正佼成会」と言うものですから、「あまり、ざっくばらんすぎるのでは」と注意されることがあります。しかし、これは事実ですから、しようがありません。少しも恥ずかしいことだと思わないのです。私がみなさんに知っていただきたいのは、そうした私のような者でも、ご法をしっかりと実行しさえすれば、必ず教えを身に体することができ、ご守護がいただけるのだということです。私は宗教学を専門に勉強したわけでも、山にこもって修行したわけでもありません。ただ教えを信じきって、悩み苦しむ人たちの力になってあげたいと、真剣に行じてきました。私だけではなく、会員のみなさんが、ご法を受持(じゅじ)してくださったことによって今日の佼成会があるのです。そのことを、みなさんに知っていただきたいのです。 いまの会員のみなさんは、私よりもずっと学問もあり、賢い方がたくさんおられます。私を超えて、どんどん前進していってほしいのです。そういう人が増えていけば世界の平和は必ず実現します。私は、そう確信しているのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.06
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7/5 Thu「大欲は無欲に似たり」という言葉があります。お金がほしい、車がほしい、マイホームがほしいといった欲は、じつは小さな欲で、それに対して、人びとのために役立ちたい、人さまをお救いしたいという欲が大欲です。それは自分のための欲とは違って、言ってみれば無欲と同じことになります。仏教では「欲を捨てる」大切さを説きますが、その教えのありがたさが分かってくると、社会のため、世界のため、人類のためというように、だんだん大きな欲が出てくるのです。お釈迦さまのお弟子の阿那律尊者は、お釈迦さまの説法のさなかに眠ってしまったのを恥じて、自ら眠ることを禁じ、そのために視力を失ってしまいました。その阿那律が精舎で自分の衣のつくろいをするのに針に糸を通すことができず、「だれか、私のために糸を通して功徳を積む人はいないだろうか」と呼びかけると、「私に功徳を積ませてほしい」と申し出た人がありました。それがお釈迦さまだったのです。 そして、そのときお釈迦さまは「私ほど福を求める者は、ほかにいないだろう」とおっしゃられているのです。お釈迦さまは終生、より大きな幸福を求める修行に徹しられたのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.04
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7/4 Wed自分はだまされても自分がなにごとに対してもあくまでも正直であれば、必ず人を信じられるようになります。逆に、「智慧出(い)でて大偽(たいぎ)あり」という言葉があるように、あまり利口すぎて才覚が過ぎると、その反面に偽(いつわ)りが生じて、ついうそを言うようになりがちです。そして、自分がうそをついていると他人の言うことも素直に聞けなくなって、人の言葉の裏を勘ぐり、だれも信じられなくなってしまうのです。結局、うそをついている人は自分さえも信じられなくなるわけで、それが怖いのです。かりに人にだまされても、自分を信じていられる人は、怖いものはありません。 そう言うと、「こんな生き馬の目を抜くような世の中で、そんなことを言っていたら、みんなにだまされてしまう」と言う人がいるかもしれませんが、私の祖父は、「人をだましたら人さまに迷惑をかけるが、自分がだまされる分には、自分だけのことだからよいではないか。だから、決して人をだましてはならんぞ」と、いつも言って聞かせてくれたものです。こちらがそういう心になってしまうと、人をだまそうというような人は、そう近づいてくるものではないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.03
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7/3 Tue蟻の目と鳥の目「開発」という言葉で樹木が伐(き)り倒され、自然がどんどん破壊されています。工場廃液は海に流されて海を汚(よご)し、海水中のプランクトンの量が激減しているそうです。人間が生きていくのには酸素が必要ですが、その酸素をつくり出すには樹木と植物プランクトンの働きが必要です。およそ全地球の酸素の三〇パーセントを樹木がつくり出し、七〇パーセントを海中の植物プランクトンがつくり出しているといいます。環境問題の専門家は、このまま自然破壊が進むと、近い将来、人類は戦争による危機よりもさらに重大な危機にさらされると警告しています。 外国では樹木を伐った場合、その数だけ樹木を植えることを法律で定めているところもあるそうです。評論家の竹村健一さんは、事の実体を見極めるのには、地を這うように現実に即した視点で見る「蟻の目」と同時に、空を飛ぶ鳥のように大所高所から状況を見定める「鳥の目」の二つの見方を持つことが必要で、それでこそ道を誤らずに進むことができる、と言われています。そうした観点に立って自然との調和をはからなければ、人類は自らの首を絞める結果になってしまいましょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.03
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7/2 Mon無言の手本私の祖父は畑仕事で忙しいときも、村で病気などで苦しんでいる人がいると、その助けに飛び回ったものです。もちろん無料奉仕です。その祖父の姿を見て、私は子どもなりに疑問を持ったことがありました。私の家はとりわけ裕福だったわけではありませんから、家のことをほったらかして人のことにかまけていていいものか、と思ったのです。ところが病気やけがを治してもらった人たちが、田畑の仕事が一段落すると畑で穫れた作物を持ってお礼にくるのです。そのうれしそうな姿を見て、私もだんだんに人さまのためになるということはなんと気持ちがよいものか、と心に植えつけられていったように思うのです。 世の中にはいろいろな喜びがありますが、とりわけ人さまに尽くす喜びが最高であることを実際に学ぶ機会は、少ないのではないでしょうか。とりわけ、いまの子どもたちは、そうした機会に恵まれていないと思うのです。そういう意味で私はあらためて祖父に感謝せずにいられないのですが、どんな時代であっても、親は口先だけでなく身をもって子どもにお手本を示すことが大事だと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.07.02
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