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8/25 Sat仏祖に至る道 祖師仏教という言葉があります。道元(どうげん)禅師、法然(ほうねん)上人、親鸞(しんらん)上人、日蓮(にちれん)聖人などを祖師とする仏教のことで、それぞれの時代の民衆に対して祖師方が、自分の信念と情熱を傾けて仏さまの教えの神髄(しんずい)を説かれたのが礎となって各宗派が生まれ、今日に至っているわけです。ところがつい最近まで、同じお釈迦さまの教えを説きながら互いに反目したり、なかには、お釈迦さまよりお祖師さまのほうが偉いのだと平気で言い、そう信じている人もたくさんいました。しかし日蓮聖人は、お釈迦さまを「教主」とされ、教えの主であるお釈迦さまあっての仏教であり、そのお陰の自分であると明言しておられます。仏祖(ぶっそ)あっての祖師ということになりましょう。私たちは、そのお祖師さまを通してお釈迦さまの教えに直参(じきさん)することこそ大切です。それであって初めて同じ仏教徒として共通の理想をめざすことができます。そして、その教えの神髄を極める努力の中で、世界の他の宗教とも力を合わせていくことこそが宗教のあるべき道であると理解できていくのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.24
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8/24 Fri三振覚悟の空振り 南海ホークスの名監督といわれた鶴岡一人(つるおかかずと)さんが、こんなことを言われていました。「ここ一番というときにピンチヒッターに立てたバッターが、見逃しの三振をくったときほど監督として腹立たしいことはない。せめてバットを思いきり振って三振したのなら納得がいくが、バットを一度も振らないで三振する打者を見ると、『球は振らなきゃ当たらんのだ』と蹴飛(けと)ばしたくなる」というのです。このたびの米国大使館員人質事件の解決のために私が駐日イラン大使館に何度も足を運んで働きかけ、ホメイニ師が招集する「米国のイラン介入を討議する国際会議」出席のためイランを訪れることを決めたのも、それと同じ気持ちからでした。宗教者の私が、そういう国際会議に出席するのは場違いの感もしましたが、このままでは中東の危機がいつ大きな戦争になるかしれません。私たちが世界宗教者平和会議を推進しているのも、こういう危機回避の仲立ちをする使命が宗教者に与えられていると考えるからにほかならないのです。私は思い切って大きな空振りをする決心でイランの会議に参加し、その宗教者の無欲さが一つの成果につながったと信じているのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.24
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8/23 Thuせちがらい世にも このせちがらい世の中で人のことなどかまってはいられない、自分の得になることならするが、ちょっとでも損になることは知らぬ振りをする、というのが大方の人の生き方でしょう。せちがらい世の中とは、世渡りの難しい社会といってもいいでしょう。自分を第一にしなければ負け犬になってしまうと考えるのは当然かもしれません。とりわけ現代の社会はそれが顕著で、その中で「世のため、人のために奉仕する」といった生き方は一見、愚かなことのようにも見えるのですが、しかし、よく考えてみてほしいのです。人間は有史以来、物心両面の幸福をめざし、平和でありたいと願って必死に生きてきたのに、いまもってこの世界から争いはなくならず、不幸はあとからあとからふりかかってきます。いや、幸福を求めれば求めるほど、さまざまな形で新しい不幸が増えていくのです。その原因をよくよく突き詰めていくと、それが自分だけの幸福を求めた結果であることに気づかされるのです。理屈が達者で小賢(こざか)しさばかりが目立つこの世で、他のために尽くす大愚(たいぐ)に徹するのが仏道であり、そこにしか真の幸せに至る道はないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.23
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8/22 Wed深く因果(いんが)を信じ 人間にはだれしも欲があり、自分勝手を通したいエゴイズムがあります。ですから、どうしても目先の利害得失にとらわれ、因果の道理を忘れがちになってしまうわけです。正直なところみなさんも、うまく立ち回って甘い汁を吸っている人を見たりすると、因果の道理など本当に存在するのだろうかと疑問を抱いてしまうこともあると思うのです。仏さまの教えどおりに正直に人さまへの奉仕を先にする生き方をしていたのでは、この社会で自分だけ遅れをとるのではないか、と心がぐらつくこともあるかもしれません。それでつい、自分の欲を満たしたい、楽をしたいといった願いにひきずられ、立派な家に住み、ぜいたくな生活をしている人と自分を比べてうらやみ、ねたむといったことになってしまうわけです。そういう人に対して、経典には、きわめて大切な言葉が説かれています。「仏説(ぶっせつ)観普賢菩薩(かんふげんぼさつ)行法経(ぎょうぼうきょう)」の「深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし」という一節がそれです。仏教徒の私たちにとって、仏を信じ、因果を信じ、ひたすら菩薩道をあゆむ以外に、幸せに至る道はないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.21
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8/21 Tue理屈より実践 浄土真宗の真溪涙骨(またにるいこつ)師は「人生語録」にすばらしい言葉を遺されています。「実践に理屈なし。問うの無用、答うるの無用。ただ『捧(ささ)ぐる』の一事あるのみ」というのもその一つです。なぜ善いことをしなければならないのかと問うのも無用、功徳を積みたいからと答えるのも無用、菩薩行(ぼさつぎょう)には理屈は不要だというのです。シンガポールで第一回アジア宗教者平和会議が開催されたその会議のさなか、私たちはベトナムからボートで逃れ出る難民の救援に取り組みました。雨期が迫っていて、放っておけば海の藻屑(もくず)となるのが目に見えていたからです。その宗教者の救援活動に対して、「ボートピーブルは体制からのはみだし者だから援助すべきではない」とか、「ボートピープルはベトナムの内政問題であって干渉すべきではない」と、国際通を自ら任じて講釈する人たちがいました。しかし、そうした高邁(こうまい)な理論を振り回すよりも、自分の目の前に救いを求め、懐(ふところ)に飛び込んでくる窮鳥(きゅうちょう)がいたら、なんとしてもそれを救おうと力をふりしぼるのが人の道なのではないでしょうか。宗教者の実践は、これあるのみです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.20
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8/20 Mon国際法による秩序 イランの石油はほしいが、さりとて米国の機嫌を損(そこ)ねてもまずいというので、日本は板ばさみになって苦しみました。こちらを立てればあちらが立たずというケースは、狭(せま)くなった地球上では、これからも頻繁(ひんぱん)に起こると思われます。昨年の暮れ、イランの首都テヘランで米国大使館がイランの大学生によって占拠され、大使館員が人質として拘束(こうそく)されるという事件が起こりました。この米国大使館占拠事件に対して日本政府が事態に即応できずに静観したのも、現在の日本が全石油輸入量の一割をイラン石油によっていることが原因の一つだったと思われます。しかし、世界には国際法というルールがあります。みんなが交通ルールを守り、信号どおりに行動すればこそ全体の安全と秩序が確保できるように、国際法も世界の国々がそれを守ってこそ平和が保たれます。米国大使館の占拠は明らかにルール違反であり、国際正義にもとる行為です。このような無法行為が世界中に広まれば、世界の秩序は崩れさってしまいます。それを黙視して自国の小さな損得勘定に走るか、平和を守る国際正義に立つか、道はおのずから明らかです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.19
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8/19 Sun力による恫喝(どうかつ)の愚かさ 先ごろ、私はソ連のブレジネフ書記長に対して、ソ連軍のアフガニスタン侵攻の非なることを訴え、即時撤退を要望する抗議文を送りました。それは螳螂(とうろう)の斧(おの)の譬(たと)えのように微々たる影響力しか持たないかもしれません。しかし私たちは、力による制圧は決して人びとの支持を得られないことを知ってもらうために、くじけることなく訴え続けなければならないと思うのです。これは、一方の側に立って相手を非難するというのではありません。武力によって人びとを抑えつけ、苦しめ、他の幸福を奪ってまで自国の安定をはかろうとしても、それはむなしい努力に終わることを分かってもらうためなのです。この一年間に世界の何人もの権力者が、暴政のためにその地位を追われています。なんとはかない権力の末路ではありませんか。それは、力による恫喝や脅迫によって望みを遂げることが不可能であることを如実に物語るものです。かりに一時的には権力によって人びとを従わせることが可能のように見えても、長期的に見れば、自分を孤立させ破滅に導くものであることを知らなくてはなりません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.19
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8/18 Sat善因(ぜんいん)は必ず善果(ぜんか)に 善因は善果をもたらし、悪因(あくいん)は悪果(あっか)を招くという考え方をすべきです。しかし、現在の世の中を見ていると、必ずしもそのとおりになっていない場合があるように思う人も多いかもしれません。目の前のことだけを見ていると、「善因を積んでも少しも善いことがなく、悪いことをして平気で大手を振って歩いている人がいるじゃないか」と納得できないこともありましょう。たとえば政治の世界でも、何億というお金を受け取っても収賄(しゅうわい)罪に問われることがなかったり、清潔な選挙をした候補が落選して不正行為をした候補が当選するといったことが、あまりにも多いのは事実です。それで、善因善果、悪因悪果といっても、もうひとつ説得力がないようにも思えるのですが、五年、十年という長い年月をとおして見ると、その因果の道理のとおりになっているものです。ですから私たちは、まず道理がきちんと通用する健全な社会をつくる努力と同時に、時の経過によって必ず善因は善果に、悪因は悪果となって現われることをいつも忘れずに毎日を送ることがなによりも大事だと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.17
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8/17 Fri生かされている者同士 すべての宗教は「汝(なんじ)の敵を愛せよ」と教え、「すべてに慈悲を」と説いています。その教えが人間にとってなによりも大切なものであることはだれもが知っているのですが、その教えを、みんながすぐに実践できるのであれば、この世界は、とうの昔に平和境に変わっていたはずです。世界の宗教者が集まる会議では「神はただ一人だが、呼び名は多い」といった言葉をしばしば聞かされます。神といい仏といっても、究極のところは「天地のすべてのものを存在させている大いなる生命」といえると私は考えるのです。そして、真実の信仰とはその大生命に生かされていることを実感して、その大生命の法則に随順(ずいじゅん)して生きようと努力する、その生き方にあるといえると思うのです。ですから、拝めばお金が儲かるなどといったものでは、決して真の信仰とはいえないわけです。この社会、世界のすべての人たちが、大生命にともに生かされている同士なのだと心の底からうなずけるようになって初めて、隣人への愛、生きとし生きるものへの慈悲心がわいてきて、それが実践行へとつながっていくのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.17
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8/16 Thu親のうしろ姿の教化(きょうけ) 私の家には孫が四人、一緒に暮らしております。まだ小学校や幼稚園に通っている子たちですが、私がご宝前(ほうぜん~仏壇のこと)でご供養をするときには、孫たちも一緒にすわって、読経(どきょう)するのです。なにしろ大家族ですから、それは賑(にぎ)やかで、家族全員がそろったかどうか点呼をとる、といった愉快で和(なご)やかな情景が生まれるのです。朝早くからの毎日の読経供養は、まだ小さな子どもたちにはかわいそうかなとも思いましたが、そうして家族がそろって仏事を行じ、読経の席に連なる敬虔(けいけん)な雰囲気(ふんいき)の中に身を置くことが全人(ぜんじん)教育の一つになると私は考えているのです。また、その毎日の行が、子どもたちの忍耐力をつけさせることにも役立つと思うのです。といっても、私の家でそうしているからといって、みなさんのうちでもそうしなくてはならないと、嫌がる子どもを叱りつけて無理やりすわらせるといったやり方では、逆に反発をつのらせるだけで、本当の教化にはなりません。やはり、親が毎日行じるそのうしろ姿を見せて、次第に感化していくことが大切だと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.16
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8/15 Wed民主主義を育てる八月十五日の終戦記念日が今年もめぐってきました。あの日から早三十四年が経ったわけです。当時の日本男性の平均寿命は驚くほど低くなったという記録が残っているそうです。若く、尊い生命がどれだけ戦火に奪われてしまったことか......。現在の私たちの繁栄は、そうした人たちの血と涙の犠牲の上に築かれていることを忘れてはならないのですが、三十四年の時の経過は、そうした記憶を次第に消し去っていくように思えます。いまの私たちは、平和にどっぷりと漬(つ)かりながら、その平和のありがたさを忘れがちなのではないでしょうか。終戦後、日本はなんの犠牲も払わずに民主主義を与えられ、それがいまや、わがまま勝手の代名詞のようになっています。民主主義は決して完全なものではありません。しかし、かつて全体主義が日本をあの悲惨な戦争に導いたことを思うと、私たちの手で、この民主主義をよりよいものに育てていく大切さを痛感せずにはいられません。それには、国民自身の成長がなにより大事です。平和憲法さえあれば何もしなくても平和でいられるのではなく、一人ひとりが平和のために自分にできる献身を惜しんではならないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.15
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8/14 Tue大衆が大衆に説く時代 その昔、日本の僧たちは中国に渡って懸命に修行をし、その熱意に応じて中国のすぐれた僧が、これまた命がけの航海をして日本にやってきて仏教を伝えてくれました。そうして仏教が日本に伝えられた当初は、専門家の僧が同じ専門家の僧に法を説いたわけで、在家で仏法を聞くことができたのは、ごく一部の貴族階級だけでした。当時の仏教は限られた人たちのためのものだったのです。これに対して、「釈尊は一切衆生(しゅじょう)の教化(きょうけ)を願いとされているのに、ひと握りの知識階級だけのための仏教でいいのだろうか」という反省が生まれ、鎌倉時代の祖師方の仏教が説かれるようになりました。法然(ほうねん)上人をはじめ、道元(どうげん)禅師、親鸞(しんらん)上人、日蓮(にちれん)聖人などの祖師方は、一般大衆に仏の救いを伝えるためにそれぞれの方法で法を説かれたのでしたが、それから七百年が経過した現在、その祖師方の教えを伝える各宗派も当時のような活発な教化活動が行なわれていないのが実情ではないでしょうか。現代の社会で、お釈迦さまの教えを広く人びとに伝える新しい仏教が求められるのは当然のことなのです。大衆が大衆に説く時代、まさしく普門示現時代の到来です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.14
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8/13 Mon一病長寿 昔から一病息災といって、何か一つ持病を持っているほうが長生きできるといいます。いつも自分の体調に気をつけて健康第一に、自分のペースを守って暮らし、暴飲暴食などしない。つまり、病気とのバランスを上手にとった生き方でこそ長生きできるわけです。先日、私のところに健康について書いてほしいという原稿の依頼があって、病気との平和共存の暮らし方、とくに心のバランスの大切さについて書かせてもらったのですが、それから数日後の「サンケイ新聞」に、中国にも「無病短命、一病長寿」という言葉があることが紹介されていました。その記事によると、持病があるために保険への加入を断わられた人たち二十万人の追跡調査を生命保険協会が行なった結果、一病息災こそ長生きの秘訣(ひけつ)であることが実際に証明されたというのです。無病で健康であれば、それがいちばんかもしれません。しかし、そのために自分の体を過信し、健康への感謝を忘れた生活になりやすいものです。健康へのおごりが健康の敵になりがちなのです。忘れてはならないことでしょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.12
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8/12 Sun無条件の布施 中国の南北朝時代の梁(りょう)の始祖・武帝(ぶてい)は、仏教を篤(あつ)く信奉(しんぽう)し、多くの寺院を建てるなどの功績を残した皇帝です。その武帝が達磨大師に、「私はずいぶん弘法(ぐほう)興隆に貢献してきたが、功徳はどれほどであろうか」と問うと、達磨大師は言下に「無功徳」と答えています。世間一般では、すべてに対価を求めます。まったく無償の奉仕、布施といったことは考えられないのです。そのため佼成会がさまざまなかたちで社会に奉仕をさせてもらっても、世間の人は、何かもくろみがあるのではないか、宗教界を牛耳(ぎゅうじ)ろうとか政治を自分たちの思うように動かそうといった魂胆(こんたん)があるのではないか、といった警戒心をもって見ることが多いのです。そうであればあるほど、私たちは、あくまでも無私に徹しきり、真心をもって事にあたらなければなりません。相手を利用しようとか、人にほめられたいといった気持ちが少しでもあってはならないのです。そもそも、宗教は自分の足りなさ未熟さを教えてもらうためのものです。「させていただく」ことはあっても、私欲や教団エゴの「ためにする」ことはありえないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.12
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8/11 Sat随処(ずいしょ)に主となる自由 私がいつも「いまの日本ほど自由な国はない」とみなさんに申し上げるのも、実際に私が外国のさまざまな国を訪れて、自分の目で見、そう実感しているからです。社会主義国や軍事政権下の国々に比べれば、日本は自由すぎるほど自由です。むしろ自由と責任のバランスが失われて、自由放題に傾いてしまい、ゴネ得がまかり通って正直にこつこつ働くむなしさを感じている人も少なくないように思うのです。仏教では、自由には必ず自在をつけて自由自在といいます。自由とは自らに由ること、つまり自灯明(じとうみょう)です。そして、その自分は、常に法を灯明としている自分なのです。法とは宇宙を貫く真理のことで、私たちの体も心も、その真理の働きによってつくられ、動いています。また、まわりの社会も、天も、地も、草木も、動物も、この真理の働きによっているのです。つまり、法とはこの世のすべてのものを生かす大生命であり、その中に自分があるときに真の自由、主体性が確立するわけです。これが「随処に主となる」ことです。自らが主体性を持って「主となる」ところに貪欲(とんよく)の奴隷(どれい)から解放された自由の境地が生まれるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.10
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8/10 Fri目に見えない縁 私たちが自分だと思っているこの肉体も、人さまが作ってくださるさまざまなものによって支えられています。それは体だけではなく、心もまた同様です。数えきれない人と出会い、語り合い、学び合ったその知識と体験によって、それを縁として自分の心がつくられているのです。私をつくっているその出会い、縁が、私たちの思議(しぎ)を超えた、まさに甚深微妙(じんじんみみょう)なはからい、結果をもたらします。自分だけではなく、この世に存在する一切のものが、そういう縁によって生じ、変化しているわけで、それをお釈迦さまは「縁起(えんぎ)」として説かれ、これこそが最も大切なものであると教えられたのでした。ただ、その縁は目に見える紐(ひも)で結ばれているといったものではなく、そのために私たちは、すべてが縁によってあらしめられていることに、なかなか気づけません。それで、つい目に見える物やお金のほうを信じて、それをいちばん大事なもののように考えてしがみついているのですが、縁が見えるようになると、出会うさまざまなことを、心からありがたいと拝める感謝の生活が始まります。その感謝こそ幸せのもとなのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.09
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8/9 Thuお釈迦さまへの直参(じきさん) なにごとも伝統を守り、それを踏襲(とうしゅう)するのは大切なことですが、それは宗教の場合も同じです。ただ宗教は芸能などとは違い、生きている人間を実際に救わなくてはなりません。人は、その時代、その環境の中で生活しています。その人たちを実際に救うのには、その時代、その社会環境に応じた手段が必要です。これまで大事に守られてきた教えであっても、そのままでは、時の経過とともに時代の人びとを教化(きょうけ)する力が弱くなっている場合もあります。宗教の宗は、時代を超え、所を超えて不変なよりどころとなる根本の真理のことであり、教は、その真理をその時代、その人に応じて説くことです。この、時代に対応し、人に応じて説く大切さを忘れてしまって、いたずらに人びとが宗教から離れていくのを嘆くようなことがあってはなりません。私が、お釈迦さまのみ心に直参する大切さをいつも強調しているのも、そこなのです。直参するとは直接教えを聞くことです。常に自分のあり方を法に照らしてみて、これでよいのかと問いかけ続けるのが、お釈迦さまのお心に直参することです。それによって教えが常に新しい教化力を保っていくのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.09
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8/8 Wed責任の転嫁(てんか) 教室で子どもが行儀悪くしていたら教師が叱るのは当然です。その子がきちんと行儀を守れるようにしつけるためですが、イギリスでは、同じ叱るのでも(体罰を含めて)、行儀の悪い子ども自身よりも、むしろ静かに授業を受ける権利を持つほかの生徒たちのため、という考え方が強いというのです。先日の「佼成新聞」にも、イギリスの教育事情を視察してきた方の話が紹介されていましたが、ある幼稚園に行ってみると、遊び時間には大騒ぎしていたその子どもたちが、食事の時間になると大きな声をだす子など一人もいない。隣同士で話すのも小さな声で話すのです。見学に行かれた方が、「たいへん立派にしつけられましたね」と感心して幼稚園の先生に言うと、先生がけげんな顔をして、「これは家庭のしつけで、別に幼稚園で教えたことではないのですよ」と答えられたといいます。日本では、子どもが学校で何か問題を起こすと、父母は学校側の責任にし、学校側は家庭の無責任さを非難するといったことが多いのではないでしょうか。考えさせられることです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.08
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8/7 Tue国連への三つの提案 かつてアインシュタイン博士が、国連が正しく機能することを願って三つの提案をしたのを、哲学者の谷川徹三(たにがわてつろう)先生が紹介されています。まず第一に、国連は安保常任理事国の拒否権を抑えるため、総会の決議を最優先させなければならないこと。第二に、国連代表を政府任命ではなく国民の中から選出すること。これによって国家エゴの追求を改めさせることができる。第三に、国連総会を常時開くこと。これによって世界中のどんな事態にもすぐ対応することができる、というものでした。いまから三十年も前の提案ですが、いまもって傾聴(けいちょう)に値する卓見(たっけん)だと思います。私も国連軍縮特別総会で世界宗教者平和会議を代表して、世界の指導者に「危険を冒(おか)してまで武装するよりも、むしろ平和のために危険を冒すべきである」と要望しました。そしてワルトハイム国連事務総長との話し合いを通して、国連が真に世界平和に役立つようになるためには、世界の各国が勇気を持って国家エゴを放擲(ほうてき)し、国連の改革に取り組まなくてはならないと痛感させられたのです。それを私は叫び続ける所存です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.06
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8/6 Mon敵の姿でわが非を知る 自分の顔にゴミがついていても、鏡に映してみないとそれが分かりません。そして、それに気づいたら鏡に映ったゴミではなく、自分の顔のゴミを拭き取らなくてはならないわけです。日蓮(にちれん)聖人は「亀鏡(ききょう)なければ我が面(おもて)を見ず、敵なければ我が非(ひ)を知らず」と教えられました。亀鏡とは自分を照らして見る鏡、手本のことです。そういう鏡を持たないと自分の顔が見られないように、自分の非を見せてくれる敵があって初めて、自分を正すことができるという意味です。みなさんは法座で、「相手は自分を映して見せてくれる鏡」と教えられていると思うのですが、そういう受け取り方ができるようになってこそ、相手の至らないところを見ても、ただそれを責めるのではなく、その姿で自分の姿をあらためて振り返って見、まず自分を改めずにいられなくなってくるのです。一億総評論家時代といわれるほど、さまざまなことに対して批判を言い立てる人が多い昨今ですが、他の欠点を批判する前に、自分の足元を見直し、お互いに「自分の非を教えてくれる善知識(ぜんちしき)」と受け取れるようになってこそ、この社会が平和で住みよい社会に生まれ変わっていくのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.06
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8/5 Sun慈悲を伴う正義 正義という言葉は、だれの耳にも心地よく響きます。それだけに、正面からそれに反対することはできないのですが、過去の歴史を見ると、その正義が悪用されて恐ろしい殺戮(さつりく)が行なわれてきたのを見逃すわけにいきません。正義の戦いだと思っていたものが、じつは侵略にすぎなかったり、一つの正義にとらわれて罪のない人びとの命を平気で奪うといったことが現実にあったのです。正義という言葉ぐらい、あやふやなものはありません。十人の人がいれば十の正義があり、十の国があれば十の正義があると言われます。その正義を信じて、自分のほうこそ正義で、相手は不正義だと争い合い、ついには戦争に至ってしまうのですが、そのはざまで苦しむのは一般市民です。「だから、正義を守ることよりも平和を守ることのほうがより大切なのだという考えを徹底させなければならない」と主張する学者もいます。正義という言葉には、敵対するものを力で押さえつけるといった感じがつきまといます。仏教学の権威の中村元(なかむらはじめ)先生は「正義には慈悲が伴わないと危険だ」と強調されています。慈悲を伴う正義であってこそ世界の平和に有効な働きができるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.05
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東京電力福島第一原発事故を受け、立正佼成会が声明立正佼成会は6月18日、『真に豊かな社会をめざして--原発を超えて』と題する声明を発表しました。この「声明」は東京電力福島第一原子力発電所事故を受け、本部の担当部署での議論、理事会の審議を経て作成されたものです。原発事故による福島の人々への被害をはじめ世界への影響に触れながら、原子力によらない真に豊かな社会の実現を訴えました。同時に、原発への依存度を高めてきた一人ひとりの価値観、生活スタイルを見直し、仏教的観点から簡素な生活の中に幸せを見つけていく生き方の転換を呼びかけています。昨年3月の東日本大震災により福島第一原発は電源を喪失し、1号機から4号機までが爆発しました。放射性物質が飛散し、半径20キロ圏内は警戒区域となり、立ち入りを制限。半径30キロ圏内は計画的避難区域に指定されました。昨年12月に野田佳彦首相は「冷温停止状態」を維持できているとして「事故収束」を宣言。避難区域指定の見直しが行われてきました。今年6月には政府が福井県の関西電力大飯(おおい)原発3、4号機の再稼働を正式に決定しました。一方、福島第一原発の事故は今も予断を許さない状況が続いており、さらなる危機への懸念が世界に広がっています。また、多くの市民が放射線の影響を心配しています。日本の原発を取り巻く環境についてもさまざまな意見があります。本会は被災地への支援に努める一方、福島第一原発の状況を注視しながら、中央学術研究所と外務グループが中心となり、原発に関する議論を開始。その後、理事会での数度の審議を経て、6月18日に今回の「声明」が発表されました。声明では、日本の原子力発電が国策として推進されてきたことに触れるとともに、経済的恩恵を受ける中で、国民も原発の負の部分に目を背け、その依存度を高めてきたと指摘。今回の甚大な事故を受け、原子力によらない、真に豊かな社会の創設を訴えました。さらに、真に豊かな社会を築くには、際限なくエネルギー消費を拡大してきた価値観や生活スタイルを各人が見直していくことが最も重要だとし、「少欲知足」による「簡素な生活の中に幸せの価値を見いだす」ことが強調されました。また、未来世代に対する責任にも言及。よりよい社会を築いていくため、「共生」「自然との調和」「分かち合いの経済」を今後の指針にしていくことを示すとともに、本会がその実現に取り組んでいくことを表明しました。声明 『真に豊かな社会をめざして--原発を超えて』東日本大震災によって多くの方々が最愛の人を奪われ、住み慣れた故郷を離れ、苦難の生活を余儀なくされています。立正佼成会は、犠牲となられた方々の御霊(みたま)の安らかなることを祈るとともに、被災地の方々をはじめ、その家族や親類の方々に寄り添い、精神的・物質的支援に努めてきました。被災地の方々は懸命に復興への道を歩まれていますが、その悲嘆と苦悩は、言葉では言い尽くせないほど大きなものがあると思います。とりわけ、東京電力福島第一原子力発電所事故により、福島では多くの方々が生活や家庭の基盤を失いました。事故発生直後の混乱と不安の中で、それまで地域社会で育まれてきた人と人とのつながりは引き裂かれていきました。胎児や子どもへの放射線の影響を心配しているご家族は数えきれません。多くの母親が今も胸を痛めています。また、今回の事故は近隣諸国をはじめ世界の人々に大きな不安をもたらし、未来世代に計り知れない多大な負担を残しました。原子力は「未来のエネルギー」と言われ、私たち国民もその恩恵を受けてきました。しかし、ひとたび事故が起きれば、甚大な被害をもたらすことを思い知らされました。経済的な豊かさが人間の幸せの源泉であると信じ、原発の負の部分から目を背けて、その依存度を高めてきた責任は私たち一人ひとりにあります。私たちに問われていることは、原子力発電によらない、真に豊かな社会を可能な限り速やかに築きあげていくことです。そのためには、より安全性の高い再生可能エネルギーの開発と活用に叡智を結集しなければなりません。しかし、一番大切なことは、多くの犠牲の上に際限なくエネルギー消費を拡大してきた価値観や生活スタイルを見直すことです。今こそ、過剰な消費を抑えた「少欲知足(足るを知る)」の心を養い、簡素な生活の中に幸せの価値を見いだす最大の機会であると考えます。世界は今、文明の転換を迫られています。これまでの経済的・物質的な豊かさを求める生き方を続けていては、限られた地球環境を守り、未来世代によりよい社会を残していくことはできないでしょう。また、貧富の格差が広がる今日の経済や社会のあり方は、人類全体にとって決して幸せなものではありません。私たちの生き方のものさしを「共生」や「自然との調和」、すべての人が安心して暮らせる公正な「分かち合いの経済」などの実現に変えていかなければなりません。立正佼成会は、すべてのいのちを尊び、慈しみ、自然と人間との共生に基づく心豊かな平和な社会の実現に向け努力してまいります。これこそが今、仏教徒として私たちの果たすべき菩薩行と信じるものであります。(平成24年6月18日 立正佼成会)本会の声明発表の経緯と私たちの願い立正佼成会理事長 渡邊 恭位東日本大震災では、地震と津波により多くの方が犠牲となられ、その後の福島第一原発の事故などもあり、国民生活への影響は広範囲に及んでいます。改めまして、追悼の意を表しますとともに、お見舞いを申し上げます。本会といたしましては、地震発生以来、被災地への支援を第一に考え、会員の皆さまと共に活動を展開させて頂いております。一方で、この未曽有ともいえる原発事故に際しては、宗教教団としての社会的責任から基本的な姿勢を示す必要があると判断し、主管・担当部署を中心に取り組み、理事会での審議を経て、このたび声明を発表させて頂く運びとなりました。今日、日本には54基もの原発が存在しますが、その根幹には、国家、社会の存立を左右するエネルギー問題があります。資源の乏しいこの国で、私たちの生活は、これまで原発に支えられ、その恩恵を受けてきました。原発に依存してきたこと、それは紛れもない事実です。しかし、今回の震災で、ひとたび大事故が起きると、私たちの安全が根本から揺らぐということが分かりました。私自身、本当に無知だったと反省しているのは、使用済み核燃料、放射性廃棄物の問題です。人間を即座に死の危険にさらす高レベル放射性廃棄物の処理に関しては、現在もその手段が確立されておらず、その管理に要する期間は10万年とも100万年とも言われます。先日、日本学術会議が、現行の地下深くに埋める処分方針では安全性は確保できないとの見解を示したとの報道がありました。実際に、福島第一原発の4号機だけでも1500本以上の使用済み核燃料棒がそのまま残されています。現在の私たちの利便や欲求を充足させるために、後世にわたって子孫に禍根を残すやり方は、倫理的に許されるものではなく、不本意というほかありません。そのような観点から、声明では、原発への依存を超えて、安全性の高い再生可能エネルギーを開発し、活用していくことを訴えています。それとともに、エネルギー消費を拡大してきた価値観と生活スタイルを見直し、過剰な消費を抑えた「少欲知足」の簡素な生活に幸せを見いだしていくこと、一部の国や人が貧困にあえぐことのない「分かち合いの経済」の実現を提言する内容となっています。宗教は「真理」「法」「神仏」といった絶対的な価値を大切にし、それにより人の心を豊かにするものです。しかし、現実に私たちは相対的な価値観の渦巻く世界に生きており、そこでは対立や格差が生じます。その現実社会に対して、私たち宗教者には、理想を打ち出し、宗教的な視点から意見を示していく役割があります。専門的な観点からすれば、私たちの見解は理想的に過ぎるとのご指摘もあるかもしれません。しかし、他の宗教者や各界の人々と意見を交わしながら、すべてのいのちが尊重されるよりよい世界、国家、社会を築き上げていくために協力していくという姿勢は、今後も表明し続けていかなくてはならないと考えております。その理想に一歩でも近づけるためにも、私たちは、これまで進めてきた「一食(いちじき)を捧げる運動」、平和・社会活動、本部でのEMS(環境マネジメントシステム)をはじめとした環境保全へのアプローチ、各種の教育など、自己中心の心ではなく利他心を涵養(かんよう)する取り組みを一層推進しながら、簡素な生活の実現を目指してまいりたい、そのように念願いたしております。 (2012.06.29記載)
2012.08.04
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8/4 Satエゴイズムの克服 中世がローマン・カトリックによる絶対支配の時代だとすれば、近代は科学的な合理主義が絶対とされた時代といえましょう。近代の社会は、科学こそ人間に幸福と豊かさをもたらしてくれるものと疑うことのなかった社会ともいえます。ところが最近になって、「果たして科学万能主義で人間が幸福になれるだろうか」という疑問が、顕著に表に現われてくるようになりました。そうした疑問を抱かせる原因はさまざまありますが、地球上の資源が有限なのに人口は増加する一方という難問を抱えて、地球を管理する必要性が痛感され、世界共同体の建設といった意識が芽生えはじめたのも一因でしょう。現実にそうした社会体制が出来上がるのには百年から二百年はかかりましょうが、そこに至るためには、人間のエゴイズム、国家のエゴイズムをどのようにして超克(ちょうこく)するか、その関門を突破しなければなりません。その意味で、まず宗教界が宗派エゴを捨てて互いに協力し合い、その姿をもって、人びとにそれを示さなくてはならないと思うのです。そうした大きな観点に立つことができなくては、人類全体の幸せを考える宗教者とは、とても言えません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.03
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8/3 Friコンセンサスをつくり出す 一枚岩の団結というと聞こえはいいのですが、それが、えてして有無を言わせぬ自由なき団結である場合が多いものです。これに対して、保守党内の派閥抗争はいつも非難されますが、むしろ、さまざまな意見が許されるのは党内民主主義が機能している証拠、といった見方もあります。この世の中は百人百様、それぞれに考え方も好き嫌いも異なって意見が百出し、それを一つにまとめていくのは至難なことです。かつて「一人でも反対者がいるかぎり、それはやらない」と言いきった知事がいましたが、一人も反対者がいないなどというのは、理想ではあっても現実にはありえないことです。全員一致でなければ何もしないというのは、何も決断しないための逃げ口上と言われても仕方がないでしょう。「全員賛成、意義なし」では、全体主義になってしまうわけです。「あなたの見事なリーダーシップの秘訣(ひけつ)はなんですか」と問われて、「コンセンサスにのっとって政治をするのはリーダーシップではない。コンセンサスをつくりだすのが政治的リーダーシップです」と答えた政治家がおられましたが、まさに至言です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.03
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8/2 Thu正定聚(しょうじょうじゅ)の力 仏教では、この社会を構成する人びとを、正定聚(しょうじょうじゅ)・邪定聚(じゃじょうじゅ)・不定聚(ふじょうじゅ)の三つの種類に分類します。正定聚とは、いつも正しい行ないをして仏の境地をめざして努力している人たちです。自他の仏性(ぶっしょう)を開顕すべく精進している人たちの集まりともいえましょう。それとまったく反対に、いつも邪心(じゃしん)を持って悪をなす人びとの集まりが邪定聚です。そして、その二つのグループの中間でどちらにも属さず、正定聚の影響力が強くなるとそちらに従い、邪定聚の勢いが強まるとそれになびくといったように、心や行動が定まらない人たちが不定聚です。数からいうと、正定聚と邪定聚はごくわずかで、大多数の人たちが不定聚に属していると仏教では教えるのです。ですから、この社会をよくするためには正しいことに心を定めた正定聚の力を大きくしていくことが大切なのです。すると大多数の不定聚の人がそれに従い、社会全体が大きくそちらに動きます。間違っても邪定聚を増やしてはならないのです。社会正義に名を借りて不満や嫉妬(しっと)を正当化するような主張に引きずられない、そういう人を増やさなくてはならないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2012.08.02
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