【西洋陶器を求めて】 0
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ぬえの鳴く夜は恐ろしい。猿の頭、狸の胴、虎の手足に、蛇の尾を持つぬえ(鵺)。人の慟哭にも似たその鳴き声は、凶事を招く不気味な声。怪物として知られる鵺ですが、その正体はトラツグミ。トラツグミは、夏の早朝、夜、曇りの日に、臆病に鳴く鳥。その鳴き声は、「ヒー、ヒー」と、一本調子の金属音。姿を見せぬ不気味な鳴き声。ひとはそれを、怪鳥「鵺」と考えました。古事記や、万葉集にも歌われた鵺。しかし、いつしか、その名は怪物に奪われてしまいます。今では、鵺といえば、猿,狸,虎,蛇の化物。鵺の鳴く夜は、恐ろしい。そして、それ以上に恐ろしいこと。それは、疎まれ、名さえ忘れられてしまうこと。怪鳥と呼ばれ、名前さえ奪われた、哀れなトラツグミ。不気味な鳴き声は、トラツグミの慟哭。鵺の泣く夜は、やるせない。【ウィキペディア】 トラツグミ【SUZUKA HAIKING CLUB】 トラツグミの鳴き声
2009.01.17
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なぜカッパは、キュウリが好きなのでしょう。川や湖に住むカッパ(河童)。河童は、水と不快関わりがある水神。水神は夏の野菜が好きですが、特に好きなのはキュウリ。キュウリは、瓜の一種です。瓜の中にある空洞。この空洞には、神が宿るという。さらには、悪霊を封じ込める力もあるという。そして瓜は、川に流されることもありました。神が宿る瓜、そしてキュウリを河童は好みます。神秘の力を補うため。瓜に悪霊を封じ込める力があるならば、今すぐにでも、その力を使いたい。瓜が全ての悪を消してくれるなら、いくつでも、手に入れたいと思うのに。今は、冬。悪を封じる瓜もなく、ただなす術もなく、逃げ去ることすらできなくて。わたしたちは、ただ自らの力を信じ、ひたすらに向かうしかありません。闇の広がる明日へ。
2009.01.06
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赤ら顔に、大きな鼻が特徴の天狗。天狗といえば鼻が特徴ですが、かつてはからす天狗のみでした。つまり高い鼻のない、くちばしのある天狗。もとをたどれば、天狗の正体は流星や彗星。流星,彗星を、中国では「天の犬(狗),ティエンゴウ」と呼びました。そして、流星の落ちる場所は、不吉な場所とされました。しかし日本に伝わったティエンゴウは、山の神,火の神として祭られます。さらには、山に住む鳶や鷹と、山伏のイメージが合わさって、天狗に変わります。次々と、その姿を変えた天狗。流星となり、天を駆ける天狗。流星に託す願いは、天狗への願掛け。神秘の力を信じる、私たちの願い。
2008.12.30
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「荼吉尼天」の日記へのコメント、ありがとうございました。荼吉尼天の話はとても複雑ですが、お稲荷様の裏話として頭の片隅にでも。豊川稲荷に限らず、仏教系のお稲荷様には祭られています。岡山県の最上稲荷もそのひとつ。皆さんも初詣の機会に、荼吉尼天を探されてはいかがでしょうか。日本で見られる神様の変化。やさしくなってゆく神様に、何か安堵致します。ご参考までに、今日は昔の七福神の日記もリンクします。どの神も変化していますので、興味がありましたらご覧ください。年末、お掃除など、皆さんお忙しそうですね。風邪やインフルエンザにもお気をつけて、明るい新年を迎えることができますように。「七福神」【関連日記1】 人とは違う生き方を ―布袋-【関連日記2】 悲しみを内に秘めて ―恵比寿― 【関連日記3】 もう血に飢えることはない ―大黒天―【関連日記4】 時とともに変わる ―毘沙門天―【関連日記5】 星のように消えてゆく ―福禄寿と寿老人―【関連日記6】 寒さに震える ―弁才天―***【日記】 夜叉から 姿と心を変え -荼吉尼天-
2008.12.14
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愛知県 豊川稲荷などに祭られる荼吉尼天(だきにてん)。荼吉尼天は、人の心臓や肝を喰らう夜叉。なぜ、この恐ろしい神が、お稲荷様に祭られるのでしょうか。人の死を6ヶ月前に予知できる荼吉尼天は、死人の心臓を貪り食う。荼吉尼天は、インドではダキーニと呼ばれていました。集団で死肉に群がるダキーニ。性や愛欲の神でもあるダキーニは、もちろん女神の姿をしていました。しかしインドから中国に伝わり、そこで大きな変化が起きます。中国には「野干(やかん)」という、空想上の獣がいました。野干は集団で死肉をむさぼる獣。そのそっくりな性格から、ダキーニは獣の野干に姿を変えます。中国で獣の野干になったダキーニは、日本に渡ります。もちろん、日本には野干はいません。そこで、野干に似た姿をした、狐に姿を変えました。そして、日本の稲荷信仰と結びつき、ダキーニは荼吉尼天となったのです。夜叉から幻獣に、そして狐に姿を変えた荼吉尼天。その予知能力は、農作物の吉凶を占う力に変わっています。本人さえも、予想外の変身を遂げた荼吉尼天。慈悲深い豊穣の神は、もう死肉を喰らうことはないでしょう。何も、変われないものはありません。【過去の日記】 まだ ゆるされるなら ―秋祭り―【参考図書】 正木 晃:「魔法の猫と魔女の秘密」,春秋社,2003年,252P
2008.12.13
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もう案山子も、役目を終えた地域が多いことでしょう。様々な姿の案山子がありますが、長い歴史があるのは人の姿の案山子。破れた蓑笠をまとい、弓矢を手にして、一本足で田に立ちます。案山子は、田を守る神様の姿。破れた蓑笠は、長旅後の来訪神の姿。弓矢は魔除けの呪具。一本足は田の神、山の神が人の前に現れる時の姿。収穫まで田を守った案山子は、稲刈りとともに役目を終えます。収穫祝いに案山子を家に迎え、お供えをして祝う地域もあります。例えば、長野県の10月10日の「カカシアゲ」等。役目を終えた案山子。その田の神も、今は山に帰っている頃でしょう。案山子も本来は、山の神なのですから。何も語らず、風雨に耐え、人のために田を守り続ける。これほど静かな神は、多くはありません。今年も、案山子は役目を終えました。神よりも、親離れする稲の母として。
2008.10.19
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秋祭りの季節です。稲作を中心とした日本。そこには、古くから田の神の信仰があります。田植えの始まる春、山の神が下ってきます。田に下りた山の神は、その後に田の神に変わります。稲の成長を、田の神は見守ります。そして秋。田の神は、ふたたび山に戻り、山の神に変わります。秋祭りは、この田の神を送り出す祭りです。きつねはよく、山から下り、田の周りに姿を見せます。その姿は、きつねが神のお供をしているかのようでした。いつしか人は、きつねを神の使いとして信仰し始めました。それがお稲荷様、稲荷信仰です。秋、田の神とお稲荷様を送ります。山を守る神となるために。秋のまつりを祝いましょう。まだおくるべきものが、そこにあるなら。まだわたしたちが、ゆるされるなら。
2008.10.09
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ローマ人の空想の怪物バジリスク。蛇の王バジリスクは、なぜかトサカを持った鶏に近い姿をしている。申し訳程度の蛇のしっぽが、蛇の王の証。バジリスクを見ただけでも命を落とし、その通った跡にも猛毒が残る。その息も猛毒で、武器で刺してもその武器から人に毒が回る。最強不滅にも思える怪物。しかしその弱点は、意外にもイタチ。猛毒を持つバジリスクが、あの小さなイタチに負けてしまう。まるでコブラとマングース。そして、バジリスクの名を授かった生物がいます。それは意外にも蛇ではなく、イグアナ。トサカがあるだけで、バジリスクと呼ばれました。弱点がイタチかは不明です。怪物と生物のバジリスク。見比べて、お好きなほうを選んでください。【参考1】 怪物のバジリスク 【参考2】 イグアナのバジリスク
2008.09.14
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妖怪では、罪のない存在の小豆とぎ。しかし、その生い立ちは物悲しい。越後の伝説。高田(上越市)の法華寺に日顕和尚がいました。和尚は体の不自由な子を預かりましたが、大変に和算が得意な子でした。和尚は、この子を小坊主にしました。ゆくゆくは、住職の跡継ぎにするために。しかし、それが先輩の妬みをかいました。小坊主は、和尚の留守に、先輩達に井戸に投げ込まれました。かわいそうに、体の不自由な小坊主は、そのまま亡くなってしまいました。その後、小坊主は小豆とぎとなり、現れるようになりました。小豆とぎは、雨戸に小豆を投げつけ、川原では小豆を数え続けました。やがて、先輩悪僧の罪は露見し、死罪となりました。寺も火事で焼け、今はもうありません。人より優れた能力は、時には人の妬みをかうものです。小豆とぎに足らなかったのは、人への配慮。小豆とぎは、今日も小豆を数えます。ひぃ、ふぅ、みぃ、・・・。その数え歌は、深く哀しい、後悔のつぶやき。
2008.08.18
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牛の体と、人の頭。必ず当たる予言をし、牛から生まれて数日で死ぬ。その予言は、天災、流行病、戦争と、あらゆる凶事。この妖怪、くだんが生まれるのは、未曾有の大凶事の前触れ。疫病の流行、飢饉の時、人々が不安におののく時、くだんは生まれる。太平洋戦争中も、くだんは生まれ、空襲を予言した。避けようがない凶事。その予言をするために、なぜくだんは生まれるのか。人はなぜ、その予言を聴くのか。誰にも、それはわからない。温暖化、乾燥化、異常気象。テロ、戦争、世界経済の崩壊。公害、大地震、新型インフルエンザ。2008年は、波乱に満ちた年。わたしには、今年は、くだんが生まれる気がしてならない。
2008.02.02
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今日は七福神最後の神、弁才天。ビンズー教での本名は、サラスヴァ-ティー。サラス(水)、ヴァーティー(富む者)から、インダス川を神格化した水の神です。水の流れは、音楽に通じ、芸能の神ともなります。日本での弁才天は、しばしば裸です。ヒンズー教で裸体が描かれるためと思われがちですが、そうではありません。弁才天は、インドから中国を経て、日本に来ました。中国では裸体は禁じられ、当然、服を着ていたのです。ただし弁才天の像を裸体で作り、その後に綺麗な衣装を着せる方式でした。そして衣装が痛むと、随時、着せ替えていたのです。しかし日本では、裸体への関心が高く、裸のままで像が置かれることになったのです。少し気の毒な弁才天。この寒空の中、彼女は意に沿わず、裸のまま好奇の目に晒されるのでした。*今日で、七福神は終わりです。連作となり、すみませんでした。明日からは、いつもどおりの気ままな日記に戻ります。【関連日記】 人とは違う生き方を ― 布袋 -【関連日記】 悲しみを内に秘めて ― 恵比寿 ― 【関連日記】 もう血に飢えることはない ― 大黒天 ―【関連日記】 時とともに変わる ― 毘沙門天 ―【関連日記】 星のように消えてゆく ― 福禄寿と寿老人 ―
2008.01.03
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軍神、毘沙門天。別名を多聞天。勝運の善神として名高い毘沙門天も、大黒天同様に闇の過去を持ちます。インドで毘沙門天は、宮毘羅(くびら)と呼ばれていました。宮毘羅は悪鬼の隊長で、凶悪な悪神。財宝を盗み出し、蓄えていたともいわれます。しかし宮毘羅は、金比羅と同一神。つまり水の神としての善良な面も秘めていました。やがて日本に渡り、毘沙門天となった彼は、吉祥天を妻とします。そして家庭を持つ、子育ての善神として変わってゆくのです。家庭が毘沙門天を変えました。仏法を守護し、勝運をもたらす毘沙門天。全てを聞き逃さない知恵の神、多聞天。その2面を持つ今の彼は、七福神と四天王を掛け持ちする重要な善神です。時の流れが、毘沙門天を善神に変えました。良い人生経験は、人を善に導く。暗い過去を持つ毘沙門天は、わたしたちにそう語りかけます。【関連日記】 もう血に飢えることはない ― 大黒天 ―
2008.01.02
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布袋様は変わり者です。布袋は実在の人物。本名は契此(かいし)、10世紀の中国後梁の禅僧です。半裸で大きなお腹、狭い額。杖を持ち、担いだ袋には日用品の全てを入れて、町を歩きます。そして物乞いをするのですが、布製の袋を担いだので「布袋」と呼ばれました。布袋には予知能力があると言われ、人々の吉凶や天気を占います。本人は弥勒菩薩の生まれ変わりと自称していました。そのため、布袋は弥勒菩薩の生まれ変わりと呼ばれる様になりました。しかし布袋は人間。916年に他界します。しかしその後も布袋の目撃談は後を絶ちませんでした。よく考えれば、布袋様は変わり者。しかし変わり者も極めれば神になる。わたしたちが憧れるのは、布袋の自由奔放さなのでしょうか。自分らしさを貫くこと、それを来年の目標としましょうか。もちろん、神になる気はありません。来年もよろしくお願いします。
2007.12.31
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エビスは、「恵比寿」、「夷」、「戎」、「蛭子」と様々な表記があります。それは恵比寿の悲しい過去に由来します。恵比寿の過去を、最もよく表しているのは「蛭子」です。「蛭子」は文字通り「ひるこ」と読みます。それは、あの古事記に由来します。高天原でイザナミ、イザナギが交わり、子供が生まれます。しかしその子は足の骨がない、蛭の様な子でした。困った二人は、冷酷にも蛭子を海に流します。この蛭子こそが、恵比寿なのです。恵比寿は、体に障害を持ち、海に捨てられました。しかし幸運にも、西宮に流れ着きます。そして海の向こうから来た恵比寿は、「夷」とも書かれます。「夷」には、海の向こうの人、つまり異人の意味があるのです。海に深い関わりのある恵比寿は、釣竿と鯛を手にします。恵比寿は豊漁の神。しかし漁師は、水死体を恵比寿と呼びます。水死体に魚が群がり、豊漁となるからです。悲しい過去を抱えた恵比寿は、いつも満面の笑みを湛えます。弱者の悲しみを知るから、恵比寿は人にやさしくなれるのです。弱き者こそ、強くあれ。不幸を内に秘め、幸福を招き入れよ。自らの不運の源である海に向って、恵比寿は今日も微笑み続けるのです。【関連日記】もう血に飢えることはない ― 大黒天 ―
2007.12.28
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人は長寿に大きな願いをかけます。福禄寿と寿老人。このふたりは同じ神。わずか7人の七福神に、同じ神がいるのは不思議です。福禄寿と寿老人は、南極星の化身です。南極星、つまり竜骨座のカノープスは、めったに見れない星なのです。それは、南極星が地平線間際に上がるため。そのため南極星を見ると、長寿になるといわれます。子孫繁栄の福、財産の禄、長寿の寿。この三つを持った頭の長い福禄寿は、道教の神。そして長寿の巻物を持つ寿老人は、道教の老子の化身でもあります。見る機会の少ない南極星の代わりに、人は福禄寿と寿老人を呼びました。そしてふたりに長寿の願いを託します。人の命は限りあるもの。果てしない長寿を願い、そしていつかは消えてゆくもの。南極星が地平線に、消えてゆくように。
2007.12.21
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古来から、人が神様として祭られることは多い。菅原道真、平将門は、神様としても有名。学問の神様に人がなることは多い。滋賀の藤樹神社には、陽明学者の中江藤樹が祭られる。また幕末の志士の多くも神になった。長野県高田では、助弥という義民が祭られる。重税を幕府に直訴して、斬首の刑に処せられた。享年わずかに18歳。佐倉宗吾郎も、同様に直訴ではりつけに。千葉県佐倉の口之宮神社に祭られる。私が気になるのは、浦島太郎。京都の丹後半島付近には、浦島太郎を神として祭る神社がある。特に有名なのは、伊根町にある宇良神社。なぜ浦島太郎は神様なのか。中世の本地物の流行によるらしい。それは現地で苦労した人が、神として祭られるというもの。竜宮城を経て数百年生きた浦島太郎は、十分に苦労し神になる資格を得たらしい。そういえば、神になった人は、紛争に巻き込まれたり、処刑された苦労人が多い。どうも神になるのも大変らしい。それならば、生きている今を楽しむことにしましょうか。
2007.11.28
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昨日は、奈良で地震がありました。ゆらゆら揺れるのは、体調が悪いためではなかったようで、一安心。しかし、私の宿敵、カミナリ様より恐い地震。お助けください。神様、仏様、お釈迦様・・・。ですので、今日はお釈迦様のお話。お釈迦様の体は不思議です。すぐ目立つ頭のこぶ、パーマ状の髪型は受け入れましょう。偏平足もご愛嬌。歯が40本もあるのも超人的な証拠。金色に輝く体も悟りを開いた証でしょう。それに指の間にミズカキのついた手足は、多くの人を救うためと聞きます。しかしおでこの真ん中にあるものは、白い毛が丸まったものとは納得しがたい。なぜこの様な毛玉があるのでしょう。そして一番気になるのは、舌が顔より大きいこと。舌で顔を覆うことができるのです。これを気持ち悪いと思うのは、罰当たり。一生、悟りが開けそうにない私でした。
2007.11.07
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1ドル紙幣の裏。そこには不思議なピラミッドの上に浮かぶ、目が描かれています。この目は何でしょう。なぜピラミッドなのでしょう。アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンは、測量士でした。そして男性秘密結社フリー・メイソンの会員だったのです。フリーメイソンでは、ピラミッドは知識と知恵を表します。そして空に浮かぶ目。これはプロビデンスの眼と呼ばれる、全知の眼です。フリーメイソンの会員と公言しつつ当選したジョージ・ワシントン。彼はフリーメイソンが大国を支配したことに、意気揚々としていました。さらにドル紙幣の作成には、同じく会員のベンジャミン・フランクリンが加わります。こうしてまさに、フリーメイソンのための紙幣が作成されたのです。監視する様な、不気味な秘密結社の目が描かれた紙幣。自由の国のはずなのに。男性秘密結社の紙幣。アメリカは、男女同権のはずなのに。ピラミッドが描かれた紙幣。アメリカは、エジプトの植民地ではないはずなのに。自由の国アメリカ。そこは闇にうごめく秘密結社、フリーメイソンの大国なのです。【1ドル紙幣】プロビデンスの目
2007.11.04
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むかし、むかし、ヒンズー教の国に、シヴァ神がおられました。シヴァ神は宇宙の破壊神。恐ろしい神様。そしてシヴァ神は、夜に化身し、マハーカーラに変わったものです。マハーカーラは、血に飢えた怒りの神。インドの奢摩奢那(シャマシャナ)という屍の林に住んでおられます。人に珍宝を与えますが、かわりに血肉を奪います。そして鬼神とともに、その血肉を食らうのでした。あるとき、マハーカーラはインドから日本という国に行きました。そこではサンスクリット語の名前が翻訳されます。そして、マハーカーラは、大黒天となったのです。すると、どうしたことでしょう。初めこそ怒りの神の大黒天は、みるみる温和な神に変わってゆくのです。さらに、平安時代の半ばには、大国主命と融合されました。それまで蓮の葉に乗っていた大黒天は、米俵の上に乗られるのです。台座の飾りの小槌は、手にもたれます。兜は大黒頭巾に変わります。表情も笑顔に変わり、人々に愛される福の神となられました。温和になった大黒天。彼らは私の小引出しの中にも、穏やかに鎮座しておられます。穏やかな彼らの表情に、癒されるわたしです。もう彼ら大黒天が、ふたたび血肉に飢えることはないと信じて。
2007.10.13
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五芒星などの魔よけは、洋の東西を問わず広く用いられてきました。特に星型の五芒星は、代表的な魔よけの記号。その理由は、一筆書きできるため封鎖性があるため。そして悪霊が恐れる「目」がたくさんできる結びの形であるため。また九字もよく見られます。縦4本、横5本の直線を直角に交差させた図形で、「井」はその省略形。更に古くからは「×」も魔よけに用いられ、古墳などにも描かれます。他には、▽と△を上下に接合した図形。分銅に似た形の魔よけもあります。日本の古窯の窯印には、魔よけの意味があります。六古窯に共通した窯印は「大、井、+、×、○、上」など。特に備前焼には、九字、▽△(上下組み合わせ)、卍、吉(ただし口の上は“土”)の代表的な呪符があります。常滑焼も鳥羽市の正福寺と関わりがあり、その正福寺は海女が五芒星を用いて安全を祈願する寺。したがって常滑焼にも、呪符に似た窯印は多く見られます。蔵骨器の窯印は、悪霊の侵入を防ぐ目的。しかし、なぜ他の陶器にまで、窯印に魔よけが用いられたのでしょう。陶器の焼成は完成まで、成功か否かが分かりません。しかし数回失敗すると、その窯元は潰れると言われます。それだけに焼き上がりの成功を祈り、窯印に魔よけが用いられたのでしょう。陶磁器に限らず、これからは観光、お祭りなどで、寺院などに行かれることも多いでしょう。寺院では、瓦、石柱、階段などに、しばしば魔よけの記号が見られます。一度、身の回りの魔よけの印を、探してみてはいかがでしょうか。
2007.08.26
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東京帝国大学助教授 福来 友吉が引き起こした、超能力騒動。明治時代の御船千鶴子は、映画「リング」のモデルとなった女性。福来の主催する透視の公開実験で、次々と透視を成功させます。しかし鉛管中の紙の文字を透視する別の試験では、別の鉛管内の文字を誤って透視。その結果、その透視能力が疑問視され、新聞にも批判的に報道されます。翌年、25歳の若さで自殺しました。次に福来が招いた長尾郁子も念写で、奇術と評されます。その結果、福来は大学を追われます。その後の三田光一は、月の裏を透視。しかし月の裏など見た人は当然おらず、真偽は確認できません。またこの被験者の中に、高橋貞子という透視をした女性がいるのは興味深い。学者というのは、思い込みでしばしば過ちを犯すもの。しかし人生を狂わす思い込みには、注意したい。今日は、長尾郁子も念写と、三田光一の月の裏の念写を眺めてすごしましょう。ねこさんたちは、お休みで。この念写を信じるか否かは、皆さん次第です。
2007.08.07
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東京タワーの傍の増上寺の前に立ち、違和感を覚えていました。建築様式ももちろんですが、何よりも違うもの。それは増上寺の色でした。見慣れてきた奈良の神社仏閣は、その歴史から黒ずんでいます。それに対して増上寺は、あくまで赤いのです。赤は人々の信仰に用いられた神聖な色でした。古来から人々は疱瘡(天然痘)を恐れました。赤は天然痘の象徴。人々は赤い布や紙で天然痘を払います。赤は厄除け、そして異形の色。赤鬼、赤天狗、猿田彦、それらは赤い顔をしています。傷口に塗る赤チン。解熱剤もかつては赤色が流行りました。これらも「赤の呪力」に頼るからこそ。しかし今日、赤チンも赤色である理由を失いました。なぜなら呪力に代わり、医学が信仰されるようになったから。血の色でもある赤が失われるとき、人の心もすさむ気がします。 赤はまだ、私たちにとって、大切な色なのでしょうか。
2007.07.20
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陶磁器関係のブログにも関わらず、最近は陶磁器の話題が少なくなっています。昨日はついに原爆の話まで書く始末。これはいけません。何がいけないかを考えて、ふと思いつきました。陶磁器の神様への感謝を忘れているのです。そこで今日は陶磁器の神様の話題。波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ)と波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ)。二神とも土の神、そして粘土の神でもあります。火の神とも関連が深いので、粘土を焼成して作る陶磁器の祖神とされます。群馬県榛名郡の榛名(はるな)神社が、二神を祭る代表です。また神聖な土には呪力が備わるとされます。奈良県橿原市の畝尾坐建土安(うねおにますたけはにやす)神社は、香具山の土の説話と関連があります。今日は陶磁器の神様の話題を取り上げ、陶磁器の神様に感謝します。これでこのブログも安泰でしょう。そうです。ここは西洋の陶磁器のブログです。そう、西洋の・・・? !! 西洋!!
2007.07.10
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雨が少なく、今年は出番が少ない傘。かさには2種類あります。日本に古くからあった頭に被る「笠」と、今日私たちが使う柄のついた「傘」。「傘」は海外からの舶来品。唐国からの傘なので、「からかさ」と呼ばれました。そのためか、近世までは「庶民は笠、貴族は傘」とされてきました。歌舞伎には、「清水の舞台から飛び降りる」という演出があります。いくら芝居でも、そのまま飛び降りるのでは助かりそうに思えません。そこで役者は傘をさします。傘を手に、舞台に降りてきます。ふわりふわりと。傘をさせば空をも飛べる。その様なロマンを庶民は抱きました。芝居では、時には亡霊も傘を差して空を飛ぶ。さらにはからかさの一本足の亡霊まで。時には空を舞い、時には妖怪に変化する傘。その不思議な力も、今年の雨を引き寄せるには、力が足らないようです。蕪村の俳句。化けさうな 傘かす寺や 夕時雨
2007.07.05
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薬効があり、人に似た二股の形の植物マンドラゴラ。マンドラゴラは、神霊的、悪魔的、魔術的。掘り出す時に、マンドラゴラは悲鳴を上げる。その声は人の心を恐怖で引き裂き、人の命を奪い去る。そのため、犬の尻尾に茎を縛り、三度跨いで、犬にマンドラゴラを引き抜かせる。犬の命は奪われるが、マンドラゴラは手に入る。後世は、顔を西に向けていれば、安全に掘り出せるようになりますが。薬用として大切にされた、朝鮮人参とは一線を画すマンドラゴラの歴史。その名はメデューサの首が埋められたアテナの広場(アゴラ)に由来する。メデューサの呪いはマンドラゴラに姿を変え、西洋の人々を苦しめる。それほどにマンドラゴラの存在は大きい。もし私が、マンドラゴラの茎を握っているとしたら。もし私が、軽く力を加えるだけで、その叫びを聞けるとしたら。もし私が、それほどまでに追いつめられるとすれば。マンドラゴラの叫びが聞きたい。絶望と希望。恐怖心と好奇心。死に向かうことと行き続けること。人は誰しもマンドラゴラの茎を握り締め、苦難の日々を生き抜きます。環境破壊にも、マンドラゴラの姿が見えます。私たちは、強い自制心を持つべきです。私は、マンドラゴラの叫びは聞かない。
2007.06.17
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遺跡同士を結ぶ直線が、地上には多数あるという。人はそれをレイラインと呼ぶ。ピラミッドやストーン・ヘンジ。これらを貫く地上の直線。さらに日本にも、多くの神社をつなぐ直線があります。これらのレイラインには、神秘の力があるという。しかしそれは、科学的には裏づけのないこと。ただいくつかのレイラインは、日の出、日没の方向と関連あります。人が太陽を崇拝した証。ただ私は、太陽より月の光にこそ、神秘の力を感じます。月の女神ルナがかける神秘の魔法。それは、ルナティック。月光が、夜空に青く輝き、そしてわたしたちの影を、地面に揺らめくように落とすとき、そのときこそは、ルナからのワインを飲み干しましょう。手のひらをコップにして、月の光に両手をかざすのです。トク、トク、トク。手のひらに注がれた月の光は、ルナの魔術でワインとなって、両手をあふれ、そしてわたしたちの胸に満ちてゆきます。ルナが操る神秘の魔法・それは、ルナティック。そしてそれは、月の光が人と人との心をつなぐ、とても長く美しい、神秘に満ちたレイライン。
2007.05.23
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今日の本、「暁斎妖怪百景」は妖怪図を主とした浮世絵集。異界の妖怪たちが、紙面狭しと踊ります。幽霊と異なり、妖怪はあくまで明るくひょうきんです。この世ならぬものといえば、先日、魔鏡の話をしました。実は★野いちご★さんが、金のエンジェルでおもちゃの缶詰を入手されました。その中に、魔鏡が入っていたとのことです。今の缶詰はキョロちゃんの形の様ですね。ちなみに私が持っているのは、「月カン」、「太陽カン」、「夢カン」、「未来カン」、それから名前の分からない青い四角いカンです。いつまにか入手したものですので、あまり良い缶詰はありません。ちなみに陶磁器のおもちゃの缶詰はないですね。残念。また昨日は、4万ヒットのお祝いをありがとうございました。さらに日記でご紹介まで頂いたしのぶ7165さん、古い桶の話のご紹介も頂いたmarnon1104さん、ありがとうございました。また明日から、いつもの昔のお話になります。よろしければ、またよろしくお願いします。
2007.05.22
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魔鏡。光を当てると見えない像が浮かび上がる鏡。隠れキリシタンは、そこに浮かび上がったキリスト、マリア、十字架を崇拝しました。隠れることを余儀なくさせられた時代の産物。薄い鏡を磨く時、裏面の模様がわずかな凹凸となって、隠れた図柄を作り出す。キリシタン魔鏡では、裏面の図柄を埋め隠すことで、魔鏡としての不思議さが増しています。見えないものが見えるとき、人はそれをより神聖なものと感じます。抑圧は皮肉にも人の信仰を強めたのです。キリシタン魔鏡には、通常はあるべき作家の銘がありません。しかし銘がないことにより、さらに強い作家の意志を感じます。時代を陰で支えることは、強い意志が必要です。見えないものが見えるとき。そこには陰を生きた人の想いが浮かび上がります。魔鏡※ 鏡をクリックすると魔鏡の像が浮かび上がります。
2007.04.13
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かつて口裂け女が子供達の前に現れます。岐阜で現れた口裂け女は、過剰な塾通いに翻弄される子供達が生み出した幻影。塾に通う路を遮るように口裂け女は現れ、運動不足の子供達を100mを2秒で走る脚で追いかけました。「わたし、きれい?」と聞かれ、「きれい」と答えると、「嘘つき」と言われ、「いいえ」と答えると、カッターで切られた子供達。そんな八方ふさがりの状況は、まさに子供達の心の悲鳴。親達が、塾へ路を口裂け女が邪魔する理由を知ったとき、彼女は街から姿を消します。口裂け女を消したのは、苦手なポマードではなく、親達の理解。その後、学校には、トイレの花子さんが現れます。しかし親達は、口裂け女の時のように、子供達を守りはしません。花子さんは、“かわいい”から。なぜ花子さんは、トイレに閉じこもるのでしょう。なぜそこしか居場所がないのでしょう。花子さんは、様々な形にマスコミに登場します。不可視な存在でありながら、トイレにカメラが向けられます。親達にカメラを向けられ、常にかわいい子であることを望まれる子供達。家庭でまで演じなくてはならない子供達は、安息の場所を探します。トイレにこもる花子さんは、まさに子供達そのものの姿。かつて口裂け女に追われた子供達は、今はトイレに追いつめられました。私達は見逃していないでしょうか。子供達の、とても孤独で危険なサインを。
2007.04.11
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幽霊の画集を拝見していて、月岡芳年の「宿場女郎図」に目が留まりました。この絵は、結核でやせ衰えた遊女が階段を上る途中で振り向いた様を描いています。遊女は骨が浮かぶほどやせ衰え、もはや老女の様です。階段に片手を掛け、かろうじて自らの体を支えて振り向く様に、芳年は幽霊を見たのです。隔離された2階の黴臭い部屋で、過酷な生涯を回想しつつ、彼女はその時を待ちます。陽気な妖怪画に対して、幽霊画はひたすらに暗いのです。それは幽霊画が、抑圧された者の声だからです。時代の弱者は、幽霊画を通じて助けを求めています。芳年の幽霊画の悲劇は、日本では過去のものとなりました。もし現代に幽霊画が描かれるとしたら、それはどんな姿でしょうか。現在、孤独な高齢化社会が進みつつあります。芳年の幽霊画に、私たちの将来の姿が重ならないと言い切れるでしょうか。幽霊画の本当の怖さは、そのメッセージにあるのです。
2007.03.04
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20世紀の初頭にアメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルは、人が亡くなると体重が3/4オンス軽くなることを測定したんだよ。測定には天秤ばかりを利用している。「魂は3/4オンスの重さがある」というけど、これは本当だと思う? ねこさん。後日、ランフォードが同じ測定をすると、今度は魂が負の重さを持つことに気がついた。つまり人が亡くなると、体重が増えるんだ。これはなんだろう。今日では、人が亡くなる時の急激な体温低下が原因と判明している。体温低下で、周囲の空気に対流が起きる。対流の空気の流れは、精密天秤を動かしてしまう。つまり、彼らは魂の重さは測っていなかったんだ。常に再試験では、前の試験結果が正しいのか、疑う必要があるんだね。ところでねこさんは、魂の重さってあると思う?私はあると思うよ。仕事中、気が重くて仕方がないから。あっ、魂より責任とか義務とか、そういうのがもっと重いかな。えっ、お前の存在は軽いって。なに毒舌になってるの、ねこさん。いいんだよ、私はあるがままに生きるんだから。
2007.01.03
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