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親の子への支配 干渉 見捨てなどいろいろあるしそれらのいろいろをこの10年余考え悩んできたけれどもう 子らは自我を持って 親からの影響を選択しているように思うこの頃ということは彼らは 選べるようになった・・と少しは 良かったと思えばいいのかそうなのもう 親がどうしようとも 動かせない子に成長したそれを 良しとすることだなただ 相変わらず考えて できればいい形で構えていたいからこうかな?ああかな?と 肝のすえ方を置き換えたりしてるまそれも 親っていう業やっぱりあれこれ やってみて 失敗してみて 悟ったように思ってそれで 今があるでもいやいや このままじゃないぞまぁだ わかってないことがあるらしいまそれも おいおい・・・マイケルもさ10数年 自分ができなかった素朴な子供時代をと 我が子の育児に寄り添い気も晴れてきっと すっきり This is it!と やれたのだと思う50公演は あの痩せた体でどうだったろう・・・神様もリハーサルを終えた それで完結としたとしたのかなと思うありがとう
2010.01.31
クリスマスのプレゼントをもらって 開けてもいいの?のような顔をスタッフみんながしている。一生懸命に愛を受け止めたい 愛したいとのオーラがみんなから出ている。マイケルのDVDを見たら それだけで理解できた。私は その前に裁判で長く戦って疲れ果てた後に だんだん原告の嘘が露呈して結局 「無罪」となったとき 法廷から出てきたマイケルを多くの親族 スタッフが 支えるように見守るように囲む中深く息をはくようにして弱弱しく やっと車に乗り込んだ後それを確認したみんなが 静かに 心から抱き合って 安心して喜んでいた姿を見てこの人は 愛されていると思った。彼にも届いているのだろうけれど それ以上に使命があったのか私なんかなら 極身近な数人との関係だけでさえ神経をすり減らすのだけれど彼は もっと もっと 大きく自分の身をけずってどうしても 放っておけない知っている悲しみを どうにかしたかった知っているから・・・・できれば私も 同じ悲しみを感じることがあったら 見ぬふりせずに寄り添いたい恥ずかしいほど小さな器だけれど。彼ほどの才能が無くても ツバメのように一生懸命飛んでいる人もいるのだろう何の評価も得なくても 飛んでいる人もいるまたそれを知っているからこそ 彼は謙虚だったのだなぁ
2010.01.30
父の退院後 一度母に電話をしたとき ちょうどオムツ換えで 手が離せないというので「今日はもういいから母さんが 一息ついたときに そちらから電話して・・」と言ったんだけどそれ以来4日電話が無くて私がこちらから電話してたのは 迷惑だったのかも・・・と待機状態だったでも 心配になって 夜電話した。するとやはり父がしょちゅう母を呼ぶので 気が休まらず夜も 何回も呼ばれるのだという退院後2,3日は 「一緒に心中しよう!と思ったほどよ。」というでも ようやくペースもつかめて 大丈夫そう・・だってそれは 私を安心させたいためかもだんだん落ち着いてくれたらいいんだけど・・・・母だって 歳とって眠りが浅くてね・・・と言ってたのにそんなに頻回に夜中 起こされたら 大変だろうと思う。いつ呼ばれるかと 構えていたら 眠剤も飲めないだろうし・・そういえば 私も 今不眠でねェ・・と言っているけどあの頃は ちょっとした物音にも敏感に起きて 一日が 昼なんだか夜なんだかだったっけだから眠れねーよ・・なんて 贅沢なことだありがたいことだそんな信じられない状況の時期も やはり当事者でなければ 乗り越えられなかった母だって 私を助けられはしなかった越えるしかなかった夢のように 人生は過ぎていく夢の中だと 思って生きるのもいい
2010.01.29
折り返し点を過ぎた という感覚が主人にも来たのかなあんなに熱心で いつも仕事の事を考えていて家族は 二の次のようだった若い頃ついこの間まで 休日も出勤し仕事をしていたのにポキッと折れた感じ「僕の会社じゃないし・・・」と熱情も醒めてしまったのか・・・ナルシスト?と思うほど 若さと格好には自信があってそれをやんわり否定する私の無力感があったのにいよいよ 写真などで客観的に自分を確認して 自覚ができてきたのか・・ガクッときたようだそれも寂しい私まで あーーそうなんだ・・と思うだから そのまま老後に入っていったら 老いてしまうだけだったかもしれないでもこれから もういっちょよいしょ!!とやってみようよボチボチ ゆっくり 人生を見直しながら 直せることなら直してもう一回 やってみよう二人でさ
2010.01.25
父が退院した。末妹が 付き添ってくれて 無事帰ってきたらしい。病院での ベッドのリクライニングのリモコン TVのリモコンに慣れてしまって家のリモコンがわからなくなり チャンネルをかえるごとに 母を呼ぶらしい命令形はそのままだから 大変だ30分とゆっくりしていられないと 母がこぼしていた。78の母・・・・
2010.01.25
Bは なんともまったりしております。好きな時間に起きて 図書館に行ったり 本屋さんに行ったりしながら笑顔も増えました。その笑顔で 私も中途覚醒はあっても それも年のせい・・と また眠れるようになってきましたまだ期間があるから バイトしなくちゃ とか事業関係の勉強しなくちゃ とかそういう気配は ありませんが・・・それでも母さんを 援護するぞ!的な 覚悟をしたのかたとえば私が 買い物をして帰って来て 2階のキッチンまで荷物を運ぶのを躊躇しているとささっと下りて来て 荷物を持ってくれる東京ガスの点検がくるからと 私が部屋の掃除をしていると Bも早起きして階段の掃除(これが念入りなんだなあ)をしてくれる。洗面所もきれいになってたっけまたせっかく車の免許を持っているのだから 事業を始めたら私のアッシーになってほしくて「軽自動車買うから 母さんを運んでくれない?」と言うと車は 無理! と言ってたBだけど「そうだねェ・・・・」と脈ありそうしたら 助かる主人は まだ会社勤めで アッシーには無理がある役所やら 取引先やらに行くのに 歩く距離が長いと堪えるから助かるよー昔 Aの母親学級で 講師が言ってたことを時折思い出す「任せるけれど 高みで見守る・・んでなく 助けてもらう 弱みを見せる・・ことが 子供達の余裕を生みます。」という言葉理屈でなく こじつけでなくもう 裸で 正直に 弱味も わがままも そのままに強くも 頑張ってもいない 老いた母が そのままに助けてもらおっと・・・このところ昼間っから 子らが 家から出たり入ったりしても近所に遠慮とか 世間体とか 全く無くなっただってもう 私 できることしかできないし考えられる範囲も 小さな範囲だし弱っちいただの おっかさん
2010.01.21
父の退院があと1週間と決まった。一刻も早く家に帰りたい父もう 今日などは 母を午前と午後2度も呼び出してそのたびに母は自転車で駆けつける・・という始末。看護師さんなどは 「奥さん 疲れて行けないからと 断られた方がいいですよ・・」と 母のほうを気遣ってくださっているらしい。駄々っ子になってしまった父っていうか 前からだっけ・・・母も 憎らしいようで いないと寂しいしよく泣くようになって かわいそうでもあるし・・・と複雑そして主人の実家警備会社から主人に今夜 電話があった一番安い契約で 緊急通報をしたら安否確認をしてくれる・・というのを契約している義実家お風呂に1箇所 義父と義母それぞれに通報ベルを持っている警備会社の方が 義実家の玄関前から電話をくれたのだ「緊急通報があったので 来てみたのですが 電気はついているものの 電話をしても 呼び鈴を押しても 反応がないので 息子さんの同意を得て 入っていいでしょうか?」と初めて知ったきりんのき鍵を持っているんだぁ・・・・で 「お願いします。」と応えて 入ってもらった。もちろん 主人も実家にあらためて電話をしたけれど 出ない。そのうち警備会社の人から電話「ご無事でいらっしゃいました。」とその電話で 義母に代わってもらって 主人が母と話す「大丈夫なの?」「大丈夫よ。ただまちがって押しただけ。」「そうか じゃあ良かった。」そんな会話でもさあ声かけにも応えず 電話にも出ないって・・・・怖かったのかもナア・・・・警備会社の方の声若い もしかしたら息子より若いくらいの方の声だったけどしっかりした 信用できる声だった。有難うございましたご苦労様でした。うちとしては緊急時の訓練にはなったのかも。**********Aは試験に向けて猛勉強中Bはだいぶ覚悟ができたのか 父さんの営業プランにも耳を傾けている。いったいどうなるのか僕に何ができるのかそんな 見えない将来だったけど父さんは B独自の夢を形にしてもいいんだよ と自営業のいろんな可能性を 具体的に話しているいい高校を出て いい大学を出て いい会社に入って・・だけじゃなくてどんなんでも 自己実現はできる思い込み過ぎなくていいなんとでもなるあとは肯定的な気持ち満ちた気持ち踏み出せる一歩たとえばもし 男の子である息子が小さい時 唐突に バレエをやりたい・・と言ったら?うーーーん いろいろ将来性 勉強との両立 適正 男がやるのか?・・いろいろ考えてもしかしたら「うーーん それはおまえに合ってないかも・・」というかも知れないそういうことじゃないんだね・・とにかく 目指す気持ち夢を見る気持ちやってみたい気持ちくじけない気持ちそんなものを育てるのが 実は個々の実際よりも大事だって事自分とまわりを肯定する気持ちそれがあればやっていける一歩が踏み出せるちょっと前の主人とBの会話「ねえB 現地案内の道端での看板持ちのバイト いいんじゃない?」「え? どうかなあ・・・」「イスに座って 看板持っているだけで 面倒はないし 本だって読めるかもよ。」「・・・・・・そうもいかないと思うよ(苦笑)」「そうか(苦笑)」一度はシステムエンジニアを志したB すごく受験勉強もしたっけそこそこ希望の大学にも入れて 良かったようだったけどうんそれがどうってこともないやっぱり基本は 動けるかどうかしようと思えるかどうかだから 事象は問題じゃないってこと看板持ちでも いいんだ始まればいいんだ
2010.01.17
父は このごろ亡くなった祖父(父の父)の話をよくする。やはり癇癪もちで 神経質だったらしいが おしゃれで独特の感性の持ち主だったらしい。で父は祖父が好きだったんだなと思う。その祖父は 通訳として戦後も働いていたらしく 外国製のいろいろな遺品が残ったらしい父が学生で貧しかった頃 その遺品を日常使用していたものだから 母はてっきり裕福なお坊ちゃんだと 思い込んだという。その祖父だが ガン?そんな重い病を患いあまりの痛み苦しみに自死した。で それを助けてやれなかった祖母を 父はずっと許さなかったのだと思う。祖父の事を話す父と 祖母に対した態度は あまりに差があった。祖父が亡くなった50歳頃には とても父は不安定で その年代を乗り切ることができないような そんな気持ちに支配されていた・・といつか言っていた。父は父で いろんな葛藤があったんだ母も母で いろんな苦労があったんだそうやって今 ここにいるんだろう。しかーーし退院してから 家でもし転んでひっくり返った場合どうやってベッドまで引き揚げたらいいですか?と 母がリハビリ士に聞いたところ「あ そういう訓練もしますね。」ということで母が付き添わないリハビリ時和式の 畳の部屋で転んだ場合の訓練があったそうで父は「自分の家は和式じゃない!」と断固として 訓練をボイコットしたそうだ。リハビリ指導の方も お手上げで母曰く「みんなに嫌われないうちに 家に戻してあげたい。」と思ったのだって。さあ家に戻ったはいいけれど どこまで78の母が面倒を見れるか・・・・末妹が 週1度母の買い物を手伝い次妹も それ以外を手伝うというそれは 主に車での移動ということだ。車の免許のない私は 事務かただ。日常生活は やはり母の仕事となる。どこまでいけるのかなまあ とりあえず できることから様子を見ていこうと思う。
2010.01.14
おととい みぞれの混じる雨の日病院へ父を見舞った。 母が前日 病院へ行ったら父が「タクシー代よこせ! もううちへ帰る!!」と 怒鳴ったというので「ドクターに もういいので退院したい と申し出るから 一緒にいてくれないか・・?」と母から電話があったからだ。腎機能も 肝機能も 心臓も 弱っていて食欲も無くリハビリだけの為に病院にいても リハビリに疲れ果てて弱っていくだけだというのだ。入浴の時の鏡に映った自分の ガリガリの弱った体に 父は泣きそうになったのだという。確かに リハビリをしなかった正月の間に 半身は固まってしまった。病院に帰って リハビリ マッサージをしたら また柔らかくなった。だから帰宅後、訪問リハビリで 訓練無しのマッサージのようなことがしてもらえるのならいいのだけど。母も毎日自転車で 特に北風や こんなみぞれの日に 自転車で病院へ通うのはしんどい。でも 退院しても父は歩けないしいろいろうるさいし大変だと思う。それでも夫婦二人 ゆっくり終末期をやっていってもらえたら申し出の結果退院へ向けて ケアマネージャーさんとの打ち合わせなども密にし 体調の管理栄養指導など しっかり受けるという条件で 月内退院の許可を得ることができた。父と母 笑顔でハイタッチしてた。そういう瞬間の二人の気持ちは 特別なものだろう・・よかったね主人の実家の義両親の方が 私の両親より4年ほど高齢で義母が 脳梗塞で左足が動かない中 義父の介護を介護サービスを受けながらも頑張っている。それも とても気になる。義母の暮れに行ったとき小さく愚痴った絶望的な毎日・・も大変だと思う。早く 私たちの事業に見通しをつけて 申請や認可を いろいろたくさんクリアしうまいこと動き出したら近所の介護ホームに来て欲しい。私たちもそれなりに 新規で新生活だから一杯一杯だけどホームで 近所であれば 安心でもある。私も今年の冬は 体のきしみに四苦八苦で 自分の老後にも不安なくらいでいかに生きるかはいかに誰かとの関係を持ちつつ老後を生きるかのような気がするんだ・・・だから ま 頑張って乗り切りたい今年は正念場だ
2010.01.13
きのうもそうだった。Aが 朝(世間的には昼)起きて 自分でトーストを食べている時通りすがりに「ゆで卵があるよ?」などと 声をかけてしまう私にスゴイ怖い目つきで手で 目線を振り払い「要らん!」と応えるAはいはい オー怖すごい怖い目つきなんだよ。殺されそうなくらい勝手に入り込むんじゃねえ! ということ?Aは はっきりきっぱり そうやって私に教えてくれるでも ちょっとするともう「ねえねえ これクリーニングに出しておいて・・・」などと ごく柔らかい眼差しで 私の部屋のドアを開ける 私の部屋も 昔は「母さんだって 個人的な時間が必要なの うるさい! 勝手に声をかけないで!」と きつく 小学生のAに 言う時があったから敵同士のようなえ? いつ声をかけていいの? みたいなピリピリ感があったろうそれが今 どんなときも いつでも 母さんお部屋は寝てるかもしれないけど まあ 声かけていいんだから・・・という 安心感をもてたのだとしたら よかったこっちはそうだけどAにはまだ っていうか 今「うるさい! 声 かけんな!」の時間があるんだな。きっと ちいさかったAには 母さんの「うるさい!」の 目つきが とてつもなく怖かったろうなぁ・・・とはいはいわかりました・・と そう受けております。
2010.01.12
2本の木 というドキュメンタリーを見た。60代の夫婦が ガンという病に前後して侵され二人が同じように 足から木になっていき 最後は見つめあいながら2本の木になってしまうというギリシャ神話にたとえた 旦那様の自費出版の本と残されたビデオから振り返った番組だった。 奥様が永らえるほどに 御主人は傷んでいき 二人でほぼ同時期に 木になってしまった。ガンなどの緩和ケア病棟で亡くなった奥様を看取って 御主人も何ヶ月か後に亡くなってしまう。緩和病棟 ホスピスなら痛み無く終末を迎えられるのだと思ったら 本当に耐え難い時期まで最終の施術は施されないのだった。耐えられるギリギリまで 生きなくてはならない。2人でそれを乗り切らなくてはいけない。人生って そういうことなんだな。私の友人もガンが各所に転移して 痛み止めにモルヒネをつかっていて「幻覚を見るの。」というほど 使っていた。壮絶な最期だったと思う。人は 生きるものなのだな自殺 というのは やはりどこかが病んでいる時なのだな毎日を丁寧に 生きようと思う。与えてもらえた毎日を 大事に生きていこうと思う。
2010.01.09
Aは ワッと買って なーーんだ!と不要品にするBはじっくり考えて なかなかいいものをタマーに買う彼らが売っていいよ・・というものを年末オークションに出したらAのものは 新品だから売れBのものは 中古でも競り合って売れたAとBの長所 うまくバランスが取れればいいのになあ・・・似ているようで 相反する性格さていったい できるのか自営業・・・・理想が形になるのか?と縮こまらずに一歩まず 業界の講習会に参加することにして 申し込んだ。それに伴って 申し込みの件で連合会に問い合わせいろいろ聞いたらいろんなことがわかってきた起業支援センターに出向いて いろんなことを聞いたらいろんなことがわかってきただからまず 闇雲でも 一歩踏み出すことで 世界が広がるんだなあやってみよう新しい世界いいんだよ・・このままで・・ここにいて・・というだけじゃなくやってみようちっちゃいところに留まっているのは 親の方かもしれないよ別のスタンスそれも有りってことだわっかるかなあ・・・瀬戸際あとどんなに頑張っても 現役で20年?25年??そいで おしまいなわけでせっかく 生きれているわけだからやれることはやっていきたい努力もしたい85も過ぎた終末期の方々がずーーっと言えなかった お墓まで持っていこうと思っていた戦中の事をやはり 言っておきたいと言葉にする気持ちがわかる長生きができる時代になると いいことはその方が 最新の今の時代を見て 歴史のある目で 「そこが危ない」とわかること歳をとるからこそ できることもありますよーーと高齢者 応援!************いつも7時のニュースを英語で聞いてますと 言い切った私に英会話学校の講師が「何%わかりますか?」と聞くんで「50%」と ニコニコ応えた私に「オウ! ○子!!」と 驚いた姿を忘れられないのですねェ・・上出来でもない○子に そんなにわかるはず無いって思われたのかもしれませんねだけど なんとなくわかった英語 充分じゃない?過小評価されたと思ってもいいじゃない 自分を信じていけば・・いいんだよ私が 許せば・・・私は 善意を 可能性を 信じて生きてきたんだね謙遜しなくちゃいけない?いいよねいいと思ったこと やってみます!生きてるって すごいことやってみようよ
2010.01.08
父は計6回ほど入院し 手術は4回 それぞれ2~3ヶ月くらいの入院だったと思う。母は わがままな父の要望と病院の間で オロオロしながら入院期間中は ほぼ毎日見舞いに通った。娘らは 父と半絶交な時期もあったりしてあまり寄り添っては来なかった。父も 母でなければダメなこともあって母の負担は大きかったと思う。ここへ来て 母も78歳大変だと思うなんで こんなに・・と愚痴も言ってたっけ。頻繁に母を送り迎えしてくれている末妹でも父のわがままには付き合えないし下の世話もできない母曰く末妹がいない時の方が 父はリラックスしているんだ・・・って父と母の世界 があるま・・ね時と空間に身を委ねて なるようになると揺れていよう父と母二人が背負う自己責任部分もある私だって妹だって自分の家庭で起きたことを 自分で乗り切ってくるしかなかった母に背負ってもらうわけにもいかなかった。私が 最悪状態だった頃母は よく「代わってあげられるなら 代わってあげたい。」と言ってたけど代われないこともあるんだよね。だから今の母の現状を 代わってはあげられない母が 父の妻として全うしていくしかないと思う。いやーーー今年は かなりハードだ・・・・・でも これもきっとなにかの突破口になるんだろう受け入れよう
2010.01.07
我が子ながら 大人と同居するってのは なかなか面倒だ。だから 嫁に入り旦那様の家族と同居するっていうのは大変なことだろうなあ。意思の疎通が簡単にできて 和気藹々できるならいいけれどうちなんか結構それぞれ個室にこもって 共有スペースを利用しあうっていう感じの家族だからその共有スペース たとえばお風呂とかの利用時間がむずかしいしかも父さんがお風呂を洗って一番風呂が前提だから父さんの帰りが遅いと みんながそれを待たなくちゃいけなくて私の胃は キリキリするなにも そんなことで私が気を揉むことはないのだけどAを 擬似父にしてしまった私はAが 「いつ 風呂に入れるんだ! まだか・・・」と 考えているだろうと思うだけでキリキリするわけだ。これは しょうがない自然な反応だから父が 何を怒り イラついているか 考えるくせがついているんだ感じるのがイヤで 小さい頃も家を出てほっつき歩いていたのかもしれない見ないように見ないようにでも 主人は 子供達に対して毅然としているから時々は 「主人と子供らとの問題」として 自分から引き離すようにしているんだけどうん子供らと そんな父親との出会い 関係をそういう出会いとして 認めるそれを経験さすという 手放し方をしているところではあるそこに割ってはいって 調整する事はないんだ社会の入り口だもんね 父親ってそれこそ会社に入った子供のフォローをするわけにはいかないんだから出る幕じゃない
2010.01.06
正月が終わって家族みな 「これから」を想ってきっと なにか・・と前向きな感じ日曜日 主人がBに「庭の枯れ草やら 草取りやら 掃除をしてくれ」と 頼んでBも 「ああ そうだね やっておくよ」と応えたのにちーーーーーーーーっともやらんで 夕方まで寝てるんすよで私が「ねえ・・・草取りは??」と聞くと「そうだねえ・・・ 朝起きれるようにだんだんして行こうかな。」と ニコニコ 穏やかに応えたそして「この参考書 売ってもいいよ。でも それは 小遣いから出したから 売れたらお金ちょうだいね。」とニコニコBは言いくさる。あれ?なにかもっと大事な事を話したい気がするけどニコニコB 心の中に なにがあるのか・・・・あれ?問題ってなんだったっけ
2010.01.05
そりゃあ 父はわがままな事を言うしかも 病気をしてから余計にわけわからんでも もう疲れきった78の母も余裕がない父がしどろもどろ なにか言っているのに「ハイハイ」と着替えさす薬を飲ませる食べさせる最後まで聞けない父のリズムを待てない私は 家族のリズムをゆっくり待ってただろうか・・・と母を見ていて思った。実家から帰って主人が「お義母さんと ○子って似てるね。」と言った。ふふ~んそうなんだあんなふーだったんだな母はタクシーが待ってる病院の受付が混む妹が来る前に着替えさせたいといつも 焦っているそれはされるほうもするほうも疲れるよなぁこの私が 母に言ったよ「父さんの気分のままにゆっくりやればいいよ。」遅れたってうまく行かなくたってどうにかなるんだからって私も子供が勉強しない早く寝ない学校行かない手続きに行かない・・・・・といつも 焦ってイライラしてたけど彼の事は 彼の事とそのリズムに身を任せてしまえば なんてことないだめならダメで なんとかなるふ~~ん・・・と達観しようではないか
2010.01.04
実家へ行ってきた。正月の外泊許可で帰って来ていた父昨年末 退院後の自宅療養について 介護士やリハビリの療法士 ケアマネージャーらが実際に実家に来て 動線を考え ベッドから風呂 トイレ ダイニングまでの動き方通院のための車の乗り降りなどを 写真を撮り母が後で見て 一目でわかるようにした図解レポートが できて来ていた。でも 今回の外泊で母が一人で行ってみるとやっぱり そのとき指導を受けたようにはうまくできなかったらしい。それに フローリングがすべりすぎて 立ってもうまく踏ん張れずすべって倒れてしまいそれを起こしてベッドに戻すのに 大変だったのだって・・・さて・・正月の父 テーブルではろれつがあまり回らず聞きづらい話の前後が混線するでも ニコニコ笑って嬉しそうだった。食後 結構多量の粉薬を ヨーグルトに混ぜて飲み込んだその時私が 冗談を言ったら 噴出して またそれが気管にも入り込み むせてしまった。苦しくて涙まで出してしまって悪かったなあ・・・パジャマも全とっかえで でも 母と一緒に着替えさせてあげられた。左手は 棒の様に固くなってたっけ。父の祖父の大島紬の綿入り丹前(どてら 綿入り長着物)。風を通すために かけていたのを目ざとく見つけたAが「これはなに?」と おばあちゃんに問うたそうだ。説明したら「良かったら 僕 もらえない?」と言うから「じゃあ そのうちにね。」と答えたらしい。それを受け継いだ 私の亡き祖父も おしゃれな人でお金が無くても いいものを着ていたそうだ。そういえばAも 良いものが好きだっけ気質も祖父に似ているというし血って 不思議なものだ。私は 嫁に出たけれど実家の代々の血は Aに受け継がれてたのか・・・う~~ん それからBも フリーターの従兄と 語り合ったようだ。心なしか 帰路の車中は 何かを得たような顔だった。さあ 今年は どうなっていくかなあ・・すべては なるようになる ってことだ歩調を合わせて いけばいいな************************私は 車の免許を持っていない若い頃 取っておきたかったが 父が「女に 必要はない」と許してくれなくて子供ができてから とっても必要だったけど 子供を置いて教習所に通うこともできなかった。はっと気づいたら 足腰が悪く 教習所にも通えない年になっていてだから 妹達のように自分で 実家に車で通うこともできず主人に土日の都合を聞いて 連れて行ってもらう・・ってことに実家も(主人の実家はもっと遠い) 最寄の駅から 不便なバス路線を使うか タクシーでないと行けない私が電車を乗り継いで行くのも かなり足腰に負担ジレンマがあるでも できないし できないことを無理にやっても きっと自分に 家族に負担がかかるで家にいながらできることは 実家の不用品をオークションで処分したり いろんな公的優遇制度を見つけたり 税務処理 資産運用をすること私が税務処理をすることで ずいぶん無駄が省けたと思う。それほど今までの 父のずさんな(素人な)会計処理には あきれるいろんな公的サービス利用の仕方次第で 雲泥の差があるそれは 役場からこういう優遇処置ができますから 受けてみたら??なーんてサポートは まったくないのね父の症状をネットで検索して これは「難病」に相当するんじゃないかと保健所に掛け合い申請し 受理されそれでやっと 今の療養時の いろんなサービスが受けられることになった介護サービスの上乗せ看護サービスの利用療養費のサービス 支援それらは すべて 患者側の申請によって「はい 利用できますよ。」って 許可制みすみす 活用できるのに 知らないというだけで利用できなくて 自己負担の事を考え 二の足を踏んでいる方も多いと思うそれを 知らせたい利用者と 自治体サービスを結びたいと思う私個人には力はないけど システムの活用の周知のお手伝いができたら・・と思う
2010.01.02
快速に乗れば 実質都心までの時間はあまり変わらないけれど新しい住所に AもBも それぞれ一人で行ってみたんだって・・Bは グルグル歩き回ったけど どこだかわからなかった・・ってAは 「なんだか寂しいところだね・・」ってそうだねーーーこれから開発が進むところだよ静かでいいじゃない?新しく始めようね。それから後でわかったんだけど 回りには介護ホームが4ヶ所くらいあるんだ。もし 両親らが近所のホームを選んでくれたら月々の料金には 基本的な生活&介護費用しか入っていないから町に買い物に出かけるとか 旅行に行くとか 病院に通うとか介護保険では面倒なことは 近所にいられれば 仕事をしていても できる事はあると思う。ここにおいでよと 呼べるようになるには やはり 事業が成り立っていく見込みが得られるようにがんばらなくちゃ・・動物園も近くにあるしなかなかいいところだよ子らにとっても都心の一流企業本社に勤めるってわけでも無いらしいし・・Aは 春に資格試験があって それに合格したら 就職活動をするという案外近所のいくつかの企業を口にしているから現実的に考えているんだなあ・・と感心したBは いまだに模索中 ただ Aのチャレンジに触発されたのか なにやら考えているようだ将来は・・・と不安だった どうしようもない頃と違ってとりあえず住処を 手渡せたことで たとえば 学費を払い終えて就職が決まったかのように・・それで区切りを得て 手放す感覚になれたできるところまではやったんだという とこかなおせっかいも ここまで卒業だ・・いや 何が残っているかはわからないけれど・・・ただの暗闇が 少しは薄い暗闇になってきたしそのときはその時とりあえず・・・と覚悟を決められた
2010.01.01
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