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私は、このところ何か面白い本や作家はいないかと探していた。そこに、このところブログを通じて行き来のあるやまももさんの「やまももの部屋」から「私の宮部みゆき論」に行き着いた。詳しくは読んでいないが、その入れ込みようは半端ではない。なにか面白そうだと思い先日ここに書いたように、「東京下町殺人暮色」を買ってきた。物語は主人公である中学1年の八木沢順少年とその父親で警視庁捜査一課の刑事 道雄を中心に展開するミステリー小説である。私は筋こそミステリーであるが、単なるそれではなくて、立派な文学作品だと思った。その親子に「日本画壇の異端児・異色の作風」の日本画家 篠田東吾と八木沢家の家政婦 ハナがからんで物語は展開していく。私は読みながら主筋はもちろんだが、順少年(因みに我が娘の長男が中一であるので比較しながら読み進んだのだが・・・)とおじいちゃん・おばあちゃんにあたる年齢の東吾とハナとの色々なからみや会話は大いに楽しむことが出来た。たとえばこうだ。秘密めいた東吾の自宅に順が入り込んだはじめて日の会話で、順が言う「『・・・裏庭をスコップで掘っている東吾さんをー』順はあわてて訂正した『すみません。篠田さんです』『東吾でいいよ。それが私の名前だから』その声音はやさしかった。頭をなでられたような気がした」そのような出会いから始まった二人の関係はまわりから敬遠されているようで、秘密めいた東吾であるにもかかわらず、その後もおじいちゃんと孫のような関係が続く。もう一人の家政婦ハナとはもっと密接な関係である。仕事柄いつも家にいない父親はそれがもとで、順の母親である妻とは離婚しているので、順の全てをみていると言っても過言ではない。順も実際それが好きなこともあって、白菜の漬物のやりかたや、躾までもなされていて、よその家に行ったときも座布団の扱いまで出来てびっくりされるほどだ。ハナは順を「ぼっちゃま」とよんでいるのだが、あるとき順にこのように語りかける。「・・・人は誰でも武装するものだ、ということでございます。ただ何で武装するかは、その人によって違います。鎧を着る人もいれば、鉄砲を持つ人もいます。・・・そして、どう武装しているかによって歩く場所も違ってまいります」と優しい声だった。私はまるで本当のおばあちゃんの教えみたいに感じた。そしてこのハナのことを読みながら、一つ思い出したことがあった。私は4年間の学生時代延べで10人くらいの子供たちの家庭教師をやったのだが、その中にハナとどこか共通する人がいたのを思い出した。そのご家庭は両親ともお医者さんだったが、私の教えた子供さんは小学生で中学年だったと思う。当時としては、珍しいいわば共稼ぎの家庭だったので、子供さんは、ほとんど住み込みのお手伝いさんに任されていたようだ。そのお手伝いさんは、明治維新の元勲の、或る一人のお孫さんということで、わけがあり、その仕事をされていたようだった。その子供さんの父親は単身赴任をされており、母親は帰りが遅いので、私も夕飯のご相伴にあずかることも多く、そのお手伝いさんともよく話をしたものだった。教養もあり、子供の両親が頼りきって子供をまかされるのが分る気がした。話はとんでもなく飛躍してしまった。ストーリーは最後の方でめまぐるしく展開して、息もつかずに読み終えた。意外性もあったが、何かホッとするところがあり、余韻を楽しむことが出来た。おっと 危ないこれぐらいにしておこう!宮部みゆきの次の本も用意した。「火車」である。また楽しみが一つ増えた。
2011.09.29
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昨日は枠オーバーだったのか、途中で終わってしまった。復習をすると、「笑岳寺公園」と200m離れた場所にも碑文の中に「笑岳寺跡」という文字を発見したのだ。私の記憶でも左側の場所の方が正しいと思うが、区画整理と2つのトンネルで分りにくくなっており、確信はもてない。こうなれば図書館に行って当時の古地図を見てみなくてはならい。ただこの一帯は一般の墓も含めて大きな墓地だったので、その昔「笑岳寺」は大きなお寺だ ったのかもしれない。いずれ調べてみるつもりだ。ただ島津家墓地も一般の墓も全て移転しまっているので、当時の面影はない。私の歴史散歩にはもう一つ大きな目的があった。それは自民党副総裁だった二階堂進氏の二階堂家と西郷屋敷のことである。私が探しまわった島津墓地とすぐ近くにあった西郷屋敷は現在、公園になっている。 西郷隆盛が晩年を過ごした屋敷であり、島津家家老だった二階堂家から譲りうけたものと、言われている。しかしそれとは別に西郷屋敷と少し離れた場所に二階堂家の屋敷があったのを覚えている。その屋敷の場所というのは、「笑岳寺跡」の島津墓地への入り口の左側にあり、道路を挟んで右側には石垣に囲まれた「永吉さん」に広い屋敷があった。つまり二階堂家と永吉家の間の道を武岡に向かって進むと山際に島津墓地があったのだ。その周辺を歩き回ってみたが、区画整理と、二つのトンネルで様子が一変しているためについにその跡を見つけることは叶わなかった。子供の頃の記憶をたどり、家主さんの家や当時近所だった人の家も探したが、2,3の人のそれらしい苗字を発見しただけだった。しかも当時とは入り口が反対側についていたりして確信は持てなかった。いづれもう一回歩き回ってみたいものだ。
2011.09.27
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このところ「やまももの部屋」のやまももさんとネット上で知り合ってから、鹿児島の歴史に詳しいやまももさんに刺激を受けて、もともとそういうことが好きだった私の好奇心が頭をもたげてきた。先日来薩摩藩主の島津公の初代から29代にわたる墓所のことを、「やまももの部屋」で知り自分 も調べてみた。そして自分とかかわりのある2つの場所が偶然にも島津墓所の近くにあったことから興味は倍増した。鹿児島市清水町に中学3年から学校を卒業して鹿児島を離れるまで8年間住んだ自宅が島津家の菩提寺の一つ「本立寺」の近所だったのだ。ここには初代忠久から5代貞久の石塔があるとのこと。ここを当時朝晩近くを通りながら、島津家の墓地だということのみで、詳細は知ろうともしなかった。ただ、日向佐土原島津家の子孫 島津久永氏が昭和天皇第五皇女 清宮貴子内親王と昭和35年3月10日結婚の後、物々しい警備のもと、お二人が参拝にみえとことは、よく覚えている。もう一ヶ所は6代から28代までの菩提寺のある福昌寺である。ここは私の高校の母校の真後ろにあり、忘れようにも忘れられない場所である。ここでは卒業写真のスナップも写している。ところが、もう一ヶ所思い出したのだ。それが今日それを探して歩き回った場所である。我が家が母の郷里の疎開先から鹿児島に帰ってきて最初に借りた家の家の近くに島津墓地があってそこでよく遊んだものだった。場所は鹿児島中央駅の西口から出て、常盤トンネルの入り口周辺である。私が徳山を引き上げて昭和56年鹿児島に帰ってきた後も、その住んでいたあたりが懐かしく、少し歩き回ったのだが、私が鹿児島を離れていた間に、区画整理がなされていて、“今浦島”という感じだった。そこでこの2、3日そのことをネットで調べたり、地図を見たりしていくらかの予備知識を持って、9時過ぎには家を出た。その場所は「笑岳寺跡」が後に島津墓地になったとのことで、現在は「笑岳寺公園」や住宅になっていることまでは分っていた。この島津墓地は本家ではなく、佐志島津家のものであったことも分った。右往左往しながらどうにか「笑岳寺公園」にたどりつたが、どうにも確信が持てない。そこでちょうど公園のすぐ近くで車を洗っておられた方に、色々聞いてみた。親切な方で色々話をしてくださった。私より1歳上で、若いときそこに住んでおり、定年になり 鹿児島に帰ってみえたとのことだった。お話の中で分ったことは、少しややこしくなるが、私が思っていた島津墓地はもう少し左側に位置して いなくてはならない。現在「笑岳寺公園」とは少しずれがあるようだ。気を取り直した私はそこから常盤トンネルの手前をを200mくらい左に移動した。すると常盤トンネルと新幹線の最後のトンネルの左側に、そこも「笑岳寺跡」だっとのではしか考えられない石碑を発見した。もちろん私が子供だった頃にはなかったものである。そしてその右側には次のような表示があるではないか。
2011.09.27
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最近は一冊の本を読むのに数日かかるようになった。酷い時は10日もかかる。もっとも時間は余るほどあるのだが、パソコンに割く時間が長いことと、一番の原因は根気が続かなくなったせいだ。今回、この「空白の研究」を読破するのにも10日くらいかかってしまった。こういう状態であれば、本の「空白の研究」よりも「自分の頭の空白の研究」が先だったかもしれいと思うことしきりである。この本は「真実の証明」「美醜の探求」「嫌悪の条件」「不安の分析」そして表題の「空白の研究」の短編5作品でなっている。短編の範疇がどれくらいの長さをいうのか寡聞にして知らないが、「空白の研究」は文庫本の80ページ以上はある。ここでは一番面白かった「空白の研究」のみを取り上げる。ミステリーなので筋書きは省くが、前半は、被告人の「鑑定請求書」や「鑑定決定書」「起訴状ー控訴事実」諸々の「供述書」などからなっている。しかし被告人の供述がめまぐるしく変わるので精神鑑定を施すことになる。そこで東京中央大学医学部精神医学教室の主任教授 祝田 卓の登場となり、俄然面白くなる。私はここからは一気に読み進んだ。被告人に対して次のような精神鑑定を行うのだ。1、ウェクスラー・ベルビュー成人用知能テスト2、クレペリン精神作業テスト3、TATー物語による心理テスト4、SCT-文章完成テストこの中で、私が知るのは、実際受けたこともある「クレペリン精神作業テスト」のみだある。しかしこれとて結果をみてどういう判断をするのかも、今回この本で初めて知ることができた。精神鑑定を上の4つの方法でやってみるものの、なかなかうまういかない。そこで色々と問題もあるアミタールナルを使う麻酔分析を試みるが、これもうまくない。最後は「催眠面接」をして、飲酒テストまでやってしまうのだが、ここにはどうなったかは、書かない。興味のある方は、ご一読を!今日は4時から6時までおじさんコーラスの練習だった。先週、東京の演奏会に行った鹿児島からの有志17名からのお土産やみやげ話もあり、大いに盛り上がった。練習には50名以上が集まった。
2011.09.25
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かみさんは校区の婦人学級の研修旅行に出かけた。行き先は桜島がある大隈半島とのこと。自衛隊の施設や今は亡き衆議院議員 二階堂進氏の本宅であった「二階堂住宅」の見学などである。ここには私も以前行ったことがあるが、1810年(江戸時代)の建物といわれており、国の重要文化財に指定されている。一人取り残された私はいつも行くBOOK/OFFに行ってきた。今日の収穫はコミックなどを除き2割引だったことだ。写真の4冊 藤田宜永「愛の領分」 野中広努、全回顧録「老兵は死なず」 宮部みゆき「東京下町殺人暮色」 阿川弘之「雲の墓標」の4冊を買って帰ってきた。前にも当ブログに書いたと思うが、今日の4冊をみれば分るように種々雑多である。自分がそのとき気分が向いたものを読むからだ。そういう私でも何気なく読んだ作家の作品が自分の好みに合えば、その作家に傾倒していくことはままある。今日買った中の一冊、藤田宜永の本などはそうだ。以前読んだ「流砂」が面白かったので今日も買ってみた。今は亡き某漫画家ならきっと「それで いいのだ」「今度の総理も いいのだ」と言ってくれるだろう。ジャンジャンこのフレーズは尊敬する某ブロガーを真似ました。いかがでしょう。話が脱線したが、いずれにしても本を読むことは楽しい。昔は興にのれば、文庫本一冊を一日で読んで後で目がかすんで仕方がなかったりしたが、最近はもうそんなことは出来なくなった。4冊あれば10日から2週間は楽しめる今日この頃である。
2011.09.23
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最近、あるエッセイを書くために戦前 伊敷の練兵場があった場所の近くの電停を調べる必要があった。そこでネットで調べていたところ、「鹿児島の市電と街」から「鹿児島市電の思い出」にたどり着き、当時の地図に出会えた。そこからたどっていきブログ「ポンコツ山のタヌキのたより」の“やまもも2968さん”が主宰されていることが分った。またやまももさんはカテゴリも豊富であらゆることに精通されているが、その中にエッセイも発見した。これが素晴らしく、エッセイもどきを趣味の一つとする私は「他にもあったら読ませてください」とお願いをしたことから、ネット上での交流が始まった。私に対しても、地図を調べて書き上げたエッセイを楽しみにしている旨のお話があり、私も書きあがった時点で厚かましくも、メールで添付した。するとやまももさんが「鹿児島市電の思い出」のところにアップしてくださった。私としては嬉しいことだが汗顔の至りでもある。少しづつ、やまももさんの過去に書かれたものを読ませていただいているが、「鹿児島の市電と街」のなかの「一色次郎と幻の『名山堀』」を読んで現在の鹿児島市役所の海側の街などは埋立地であることなど、鹿児島に生まれ育った私が知らないことが多く興味深く読んだ。私自身、名山堀のある名山町には行った記憶もないが、隣の易居町にはかかわりがあるので、書いてみたい。易居町には高校時代の親友の自宅があり、よく遊びに行っていた。彼の家は、野菜を中心に食料品を商っていたが、お客さんは近辺の飲み屋さんが多かったようだ。高校卒業後彼は東京の大学に進学したが、私は地元に残っていたので、彼が帰郷する夏休み、冬休み、春休みには毎日のように清水町から自転車で遊びに行っていた。いま考えるとずいぶん商売の邪魔をしていたのではなかったかと思う。近くの温泉銭湯“朝日湯”にもよく一緒に入ったものだ。せめてもの罪滅ぼしは、ご両親が亡くなったのが私が帰鹿した昭和56年の後だったので、野辺のおくりが出来たことだ。易居町にはもう一つ思い出がある。小川町に住んでいたこれも高校時代の友人が地元の大学を中退することになり、彼がやっていた家庭教師の後を私が引き受けた。そこは助産婦さんのお宅で生徒は小学校中学年だったように思う。このいわゆる産婆さんは肝っ玉かあさんであった。当時の易居町近辺は“夜のお姫様”が出没する場所だったが、純情だった私?に気を使って彼女たちに「この方はうちの先生だから、引っ張らないで!」といつも言ってくれていたらしい。今頃あの親子はどうなっているのだろう。と思って地図を検索してみると今はあの産婆さんと同じ姓の「○○アパート」となっている。産婆さんもご存命なのかそれとも子供だった息子さんの代になっているのか、いつか消息をたづねてみたい。食料品店だった彼の家は妹さんが建て替えて住み、彼は福岡に住んでいて今でも行き来している。今日は近くまで行ったので“みなと大通り公園”を写してきた。写真の左側が易居町である。前面に桜島の南岳がみえる。
2011.09.22
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私の記憶が正しければ、2007年以来鹿児島に台風は上陸していない。そして今回の台風15号も、朝からNHKがぶち抜きで中部日本以北の警戒のために情報を流している。私たち鹿児島に住む人間は、以前は「台風といえば鹿児島」ということで半分あきらめの心情でそれを受け入れてきた。それがすっかり変わってしまった。戦後アメリカ女性の名前で呼ばれていた頃の台風は名前とは裏腹に怖いものだった。その中でも、昭和26年10月14日のルース台風は今も忘れることはない。10月9日、我々と一緒に住んでいた祖母が亡くなり、14日は親族が集まって初7日の法要を我が家で営んでいた。当時は予報もラジオで聴くだけで、そう詳しいことは分らなかった。しかし、昼過ぎから風雨が強くなり、親戚も早々に引き上げていった。ところが、後で分ったことは、ある親戚は帰りのバスが風雨をさけるために甲南高校に逃げこんだそうだ。叔父の家は当時二軒茶屋に住んでいたが、海の埋め立て前で家が砂浜の近くだったので、高波を受けて床上浸水となり、近所では死者まで出る騒ぎだった。二軒茶屋の話になるが、私が学校を卒業して県外に出て行く昭和37年当時までは、電亭から少し海側に歩くとすぐ叔父の家があった。よく遊びに行って、従兄弟たちと家の前の遠浅の海辺で走ったり相撲をとったりしていた。ところが昭和56年鹿児島で仕事をするために一家を連れて帰ってきて、二軒茶屋の叔父宅にも義兄に連れていってもらい、挨拶に行ったが、産業道路など出来ており、戸惑った。「ここじゃっど」と言われて車を止めた場所は昔と同じなのだが、家も建て替えてあり、周りもすっかり変わっているので、まさに今浦島という感じだった。なによりも海を埋め立てて大きな道路を作り、大きな街を作ってしまっているので、戸惑うはずだ。私にとっては、こういうことを繰り返しながら街は変わっていくのだと実感するモデル地区?である。台風の話が二軒茶屋の話になったが、台風15号の被害が少なからんことを願うばかりだ。
2011.09.21
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世の中の3連休も終わったようだが、それを待っていたかのような雨である。 今日から仕事の人は大変だろう。皆さんご苦労さまです。 かみさんはヨガ教室に行ってしまって、一人静かにパソコンを叩く音がするのみだ。 さて昨日の研修旅行の続編である。 昼食を終わって三々五々 ”東洋のナイアガラ”と称される「曾木の滝」の展望台に行く。 過去数回、訪れた場所であるが、雨の後のせいかこれまでで一番の水量である。 色々な角度から写真を写したが、今日の写真は中心部を写したものである。 その後、再びバスに乗り、曾木地区多目的広場まで行く。そこから森林浴をしながら7,8分 歩き曾木発電所展望公園へ。川内川を挟んで向こう側に「曾木発電所遺構」が見える。 その後、再びバスに乗り、その名も 湧水町にある「丸池」へ。ここでおいしい水を飲むことが 出来たが、激しい雨になり、帰路につく。溝部の物産館でお土産を買って高速道路を帰って きた。「曾木発電所遺構」と「丸池」についてはまた後日詳細と写真アップの予定。 家に帰ってみると、町内会から、敬老の日のお祝いとして、お茶と丸ぼうろが届いていた。 感謝!
2011.09.20
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今日は敬老の日。 私たち校区の成人学級36人のメンバーを乗せた市の福祉バスは9時20分公民館前を出発。 高速道路を姶良インターで下りて蒲生経由で一路“鶴田ダム”へ。 ダムの対岸に渡る橋が工事中の大きなクレーン車に遮られ渡れず引き返して、別ルートから 再度挑戦するなどハプニングもあったが、どにかたどり着いた。 現場には祭日にもかかわらず我々一行を案内するため出勤された国土交通省の方々が5人も 待っていてくださった。その案内でエレベーターで地下一階約35mへ。水面より少し下に位置 するそうだ。そこで放水口の説明を受けたり学習する。堤高117,5m 長さ450mの西日本 最大のダムである(写真)。このダムは治水と発電のため作られたものである。 東日本大震災による原子力発電所の事故解決の目途がたたない中、自然エネルギーを使って の発電所を見学できたことは有意義であり、また色々なことを考えさせられた。 そのあと、曾木の滝に急ぎ、食堂で鯉のあらいや鯉こくなどの定食を食す。 後編は明日につづく。
2011.09.19
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世の中は3連休の真っ只中である。幸か不幸か365日サンデー毎日の私にはあまり 関係ない。そうはいっても娘の家から中1の長男坊が2泊3日で遊びに来ていて何かと 慌しい。今朝は中央駅まえのダイエーに買い物がてら連れて行ってきた。 私も明日は校区の成人学級の研修旅行である。天気が良ければいいが・・・。 鶴田ダムや旧曾木発電所などを見学してくるバス旅行である。 昨年は長島だったが、いい研修旅行だった。明日も楽しみにしているところである。
2011.09.18
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昨日から今日にかけて文化庁の「国語世論調査」のことが、テレビや新聞で 話題になっている。それによると「寒っ」という言葉は85%の人が許容範囲 として受け入れているようだ。私もあまり賛成ではないが、「寒っ」という言 葉はまあ許せるかなあと思う。 それよりも私がいつも腹立たしく思っているテレビでタレントたちが連発する 「すごい楽しい」「すごい悲しい」は「すごく楽しい」「すごく悲しい」では ないかということだ。この言葉がテレビから聞こえる度に私がいちいちテレビ 向かって文句をいうので、かみさんからたしなめられるほどなのだ。 そこでこの「寒っ」騒動を機会に「すごい楽しい」の問題にも決着をつけよう と思いNHKの“ことばおじさん”こと梅津正樹アナウンサーがどういう見解を お持ちなのか調べてみることにした。(物好きでで暇人の私ならでは!) そこで梅津アナ出演の「お元気ですか、日本列島」の中の「ことばおじさんの 気になることば」を検索した。そこから「気になることば」のホームページへ。 すると2010年5月のホームページに「“すごい”が増えています」という ところにたどり着いた。 その概要は「1980年代頃から増えています。文法的には“すごい”は名詞 にしかつかない。形容詞、動詞には“すごく”をつけるのが正しい使い方です。 若い人はよそよそしく感じる丁寧な表現よりも気軽で言いやすい方を使うよう です。しかし正しくは『すごく楽しい』です」 となっていた。私としてはこのところの胸のつかえが下りた気がした。 私自身も知らず知らずのうちに間違った言葉使いをしているかもしれないが、 お互いに気をつけたいものだ。
2011.09.16
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朝8時 近所の友人夫婦の車に我々夫婦も便乗させてもらって一路 “健康の 森公園”へ。今日は「第25回長才(おせ)まつり・グラウンドゴルフ大会」で ある。224組1000人を超す「昔のよかおご・よかにせ」(鹿児島弁である が美男美女とでもいいますか・・・)が集結している。だが今はもう「よかおご・ よかにせ」の面影は無い人が多い 失礼(こういう時、正直者の私は嘘がつけな くてごめんなさい!)。 我がどんぐりの会は2組エントリーしていたが、私たちA組は西伊敷チームと対戦。 成績は想像あれ。我々はいつもオリンピック精神である。 ただ最後に「ホールインワン大会」があったのだが、これに参戦して5回目で見事 にホールインワン。商品をゲットすることが出来た。参加賞ももらってめでたしめ でたし! 帰りには泉石蔵に寄り野菜など買って帰る。 そうそう今日の昼の弁当は大会事務局の斡旋によるものだったが、おいしかった。 家に帰り着いたのは午後3時半をまわっていた。
2011.09.15
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一時休止のつもりが、一年以上休んでしまった!! 休むのにも飽きたので少しずつ復活しようと思う。 また写真も撮らないといけないなあ! 今度は休み休み一歩づついきます。 一年以上の空白の間も相変わらずの生活だったが、元気が何よりだったと思う。 おじさんコーラス、グラウンド・ゴルフ、農業センターの畑などなど相変わらずの 毎日でした。 そうそう明日はグラウンド・ゴルフの大会だ!
2011.09.14
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