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昨日のブログに千眼寺跡(薩英戦争本陣跡)の写真をアップしたが、個人宅の中に残された住職・智福和尚の石像のみだったので、住宅の一角ではあるが、外側に残された「薩英戦争本陣跡の石碑と表示板」をアップする。これは道路に面しているので誰でも眼にすることが出来るが、写真の通り石碑の文字は読みずらい。今日の写真も同行者のIさん撮影のものである。
2011.10.27
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昨日は近所の人と連れ立って初めて2人で“常盤散歩”に出かけた。日ごろ一緒にグラウンドゴルフをやっているのだが、雑談の中で私が近辺の史跡めぐりをしていると話したことから「ご一緒しましょう」ということで実行に移された。朝9時出発して帰り着いたのは、午後の3時前という充実した一日を過ごすことができた。その方は、地質学が専門なのだが、歴史などその他にも造詣が深く、研究の成果は著書やホームページに沢山発表されている。一日ご一緒するなかで、いろいろ話も聞けて大変勉強になった。昨日も史跡10箇所くらいまわったが、その中で3箇所が特に印象に残った。一番目は、当ブログ10月15日に記載の南日本新聞の地図で(9)の「常盤谷仮屋跡」である。ここは常盤2丁目の谷の奥まった場所という表示になっているが、昨日初めて行ってみた。現在は谷の先端まで住宅になっていたが、近辺の方に聞いてみると、かなり広い範囲に屋敷があったらしいとのこと。屋敷の入り口のあたりには、武家屋敷があり、武者返しの石塀などもあったそうだが、車を通す道を作るなどから区画整理も行われ、それらもなくなってしまったらしい。それでも写真に見られるように、古い石垣や石門も残っていた。二番目は(1)の千眼寺跡(薩英戦争本陣跡)である。ここは外から見える場所に「薩英戦争本陣跡」の石碑と表示板はあるが、千眼寺跡の遺跡は個人宅の奥まったところにあるので、これまで遠慮をしていたが、今日お許しをえて撮影をすることができた。快くお許しいただき感謝の他ない。ありがとうございました。尚、写真は「智福開基老和尚塔と掘られた石像」である。三番目は(12)の「水上の御仮屋跡の古井戸と岩永三五郎が手がけた石垣」である。ここも個人宅の屋敷内にあるのでこれまで遠慮していたが、今回お許しをいただき撮影することができた。感謝の他ない。ありがとうございました。なお今回の写真4枚はいずれも同行した近所のIさん撮影のものを使わせていただいた。ありがとうございました。写真は一番上 水上の御仮屋跡 二、三枚目 常盤谷仮屋跡の周辺 一番下 千眼寺跡の石像
2011.10.26
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秋晴れに恵まれた今日、鹿児島三大行事(曽我どんの傘焼き、妙円寺詣り、赤穂義臣伝輪読会)の一つ「妙円寺詣り」に行ってきた。鹿児島市の照国神社から約20kmと言われるが、我が団地は参詣道路の途中にあるため、ここからはちょうど15kmである。メンバーは近所のI夫妻とかみさん・私の4人組である。9時に団地を出て参詣道に出てみると、ウオーク・ラリーに登録してゼッケンもつけた人々ががひきもきらず続いている。参加は自由で一人でも、二人でも、グループでもかまわない。もちろん届け出る必要もない。要所要所には交通整理をする人もいて、安全は確保されている。途中の道路も数年前から整備されているが、鹿児島市の部分が、まだ未整備が残る。徳重神社(妙円寺跡)のある日置市のチェスト館から先はほぼ完全に歩道もできている。その道を長蛇の列が続くが、その道すがら戦国武将の旗印をつけたのぼりがはためき気分をもりあげてくれ、ときおり通る広報車が「妙円寺詣りの歌」を流してくれる。また、道端には地域の人々の好意による湯茶の接待所が設けられ、お茶のみならず、黒砂糖やふかしたサツマイモ、漬物など心温まる接待をしてくださる。気分がなごみ、次に歩を進める元気をもらえる。ほんとにありがたいことだ。さて肝心な「妙円寺詣り」とはそもそもどういう行事なのか。当ブログ10月12日に少し書いたが、薩摩藩主第17代島津義弘が豊臣方として関が原の戦いに参戦、徳川方の戦中を突破し帰鹿を果たした。鹿児島城下の武士たちは往時の苦難をしのび、義弘の祀られた妙円寺(現在は徳重神社)詣でをするようになったのがこの行事の始まりとされる。今では、鹿児島の秋の風物詩みたいになっている。今日も徳重神社の境内では武道の奉納試合や武者行列があり、人があふれ、ついに本殿に直接お参りすることは出来なかった。写真を撮るには絶好の被写体が多かったのだが、昨夜デジカメの電池が駄目になっていることが分り、今日に電池補充が間に合わなかった。残念!帰りはJR伊集院駅から満員列車に乗り、鹿児島中央駅へ。20分弱。その後、バスで帰った。本日の歩数、26903歩。
2011.10.23
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土曜日の朝は、どんぐりの会恒例のグラウンドゴルフから始まる。今朝は8時過ぎに集まったのは9人。いつもより2,3人少ない。公園の掃除の後、2チームに分かれてゲーム開始。我がチームは4人。4ゲームやって3人はホールインワン出すも私は不発に終わる。ただ合計では2位だった。他チームでゲームしたかみさんは、どうしたことかホールインワン3個も出していた。帰ってかみさんを乗せてスーパー2店舗を回る。昼食後、都市農業センターの畑に行く。久しぶりに行ってみると、コスモスが満開である。2週間ぶりくらいかなあ。コスモスを愛でる人の車で広い駐車場も満杯である。やっと車を止めて夫婦二人、ゴム長に履き替えて人の間を縫うように畑に急ぐ。今日の仕事は、落花生とからいも(サツマイモ)の収穫である。落花生は小さな実しかつけておらず、がっかりだが、それでも小さな袋いっぱいとれた。“からいも”は20株くらいしか植えていなかったが、予想外に大きないもが出来ていた。通りがかった子供たちや、かみさんの知人にすこしづつおすそ分けをして喜んでもらえた。
2011.10.22
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先日他の地図を頼りにして探し回って結局見つけることの出来なかった“明治の宮廷歌人”といわれた「八田知紀誕生地」を今回は南日本新聞の地図(当ブログ10月15日掲載)を頼りにして探し出すことができた。しかし写真で見る通り、今は普通の民家となり半分は木で覆われたような形になっているので、やっと見つけることが出来た。八田知紀(はったとものり)の紹介はは当ブログ10月10日に詳しいが、この誕生地がまだ西田村とよばれていた1799年(寛政11年)この地に生まれた。幼名を彦太郎といい、号は「桃岡」(とうこう)である。また明治天皇に歌道御用掛として和歌を教えた。代表的な歌に「吉野山 霞の奥はしらねども 見ゆる限りは桜なりけり」がある。八田知紀に関連したものとしてやはり10月10日当ブログ写真で紹介した桃が岡にある「桃岡八田先生幽栖之地」の石碑がある。話題は変わって、今日は我が校区の小学校4年生の妙円寺詣りの日だった。幸い武岡の上にあるので、よその学校みたいに市街地を歩いてきて水上坂を登る必要はない。一般的に照国神社を出発して、妙円寺(現在は徳重神社)までは19kmといわれているが、武岡からは15kmくらいになる。学校から5kmくらいある日置市の「チェスト館」までは歩道がない箇所もあり、安全確保のために毎年地区の青パト隊がお手伝いをすることになっている。青パト隊2年生の私も昨年に引き続き出動(大げさだなあ!)した。今年も日中暇な10人が参加。我々は危険箇所だけ車から降りて誘導すれば良いのだが、今年は子供や父兄と歩く距離が長く、「チェスト館」に着いたときは、万歩計は8500歩くらいになっていた。そこから先は歩道も広く安全も確保されているので、子供たちはあと10km先の妙円寺を目指して歩いて行った。我々はそれを見送り、チェスト館の物産館で買い物などして車で帰ってきた。
2011.10.20
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昨日は好天に恵まれてデジカメ持参で散歩に出た。終わってみれば、17138歩も歩いていた。最近では出色の歩数である。で、どこまで行ったかというと先日来歩き回っている常盤の史跡を一つづつ訪ね歩いたのだ。とはいっても20くらいある史跡を全部回れたかというとそうはいかなかった。そんなに広くない地域なのに5箇所回るのが精一杯だったが、それにはそれなりの理由がある。地図を見るのが下手なのか、目指す場所に行き着かず、引き返してみたり、また地図を見たりでそれに時間がかかることと、探し当ててもそこが民家だったりで、なかなか分りずらいのだ。それはともかく、少しづつアップしたいと思う。今日は先日の南日本新聞掲載(当ブログでは10月15日引用)の地図で(4)の石敢當である。写真では風化して文字もはっきり分らないが、この石敢當がいつ作られたのかもはっきりしない。これは相当に古い時代のものであろうことは、この貫禄を見ても分るのだが・・・。そもそも「石敢當」とは何なのか? ウィキペディアによると次のようになっている。読み方は「いしがんどう」「いしがんとう」「せっかんとう」がある。中国福建省発祥であるが、日本では主に沖縄県や鹿児島県で見かける。台湾・シンガポール等の一部地域にもある。日本では沖縄本島を中心に周辺に数多く点在、また薩南諸島、奄美群島を含め鹿児島にもかなり存在する。その他、日本全国にも分布するが、その数は少ない。小玉正任は鹿児島県1153基、沖縄県きわめて多数としており、色々の統計を総合して1万基であろうかとしている。鹿児島県では「せっかんとう」とよばれることが多い。T字路、三叉路の突き当たりに作られることが多い。現在でも沖縄県の各地で作られた大小様々の石敢當を見ることができる。これらの地域では市中で徘徊する魔物「マジムン」は直進する性質をもつためT字路や三叉路などの突き当たりにぶつかると向かいの家に入ってきてしまうと信じられている。そのために石敢當を設け魔物の侵入を防ぐ魔よけとする。魔物は石敢當に当たると砕け散るとされる。私の団地は30年以上前に造成が始まり、住宅が建てられてきたが、下の2枚の写真で見られるように結構数多く作られている。もちろんT字路や三叉路であっても作られていない場所もある。それは多分縁起をかつぐかそうでないかで決まるのではないかと思う。
2011.10.19
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久しぶりに恋愛小説を読んだ。そして少しばかりのときめきを感じた。藤田宜永の「愛の領分」である。なんでも2001年の春、直木賞ととった作品だそうだ。藤田宜永の作品は2年くらい前に「流砂」を読んで面白かったので、今回も読む気になったのだ。奥さんは、国会議員の小池百合子じゃなくて、同じ直木賞作家の小池真理子だ。作品に何の関係もないですね。「吹き降りが屋根を激しく叩き、中空をくぐもった陰気な音が走っている。暮れかけた空が、一瞬、黄金色に割れた。春雷である。淳蔵は稲光につと目を上げた。裏の家の塀から張り出したサンシュユの枝が揺れ、小さな庭に、黄色い花びらをちらせていた」という名文で始まるこの作品は、川端康成の名前が数回出てくる。川端康成をいくらか意識しているのかもしれないと思いながら、読み進んだ。他にも「列車が小諸の方に向かって走り出した。暖かい気持ちをホームに残してきてしまったような思いが、胸の奥に宿っている」「上田で昌平と美保子が結婚式を挙げている日東京は激しい雨だった。仕事場の裏のアジサイが雨に打たれて揺れていた」「新しい季節が巡ってくると、こともなげに前の季節を忘れてしまうものだ。春がくれば冬を、夏を迎えれば春を、秋がくれば夏を、冬を迎えれば秋を・・・・・・・」「吹き荒れる風の音を聞きながら、淳蔵は、枯れ色だった心が色づいていくのを感じた」などなど文章を書く上に参考になるえもいわれぬ文章がちりばめられている。物語は今は仕立屋になっている宮武淳蔵のところに昔世話になった高瀬昌平がたずねてくるところから始まる。淳蔵とは昔から訳ありの昌平の妻、美保子と淳蔵の家が旅館をやっていた頃そこの従業員だった馬淵太一の娘佳世の二人の女性と淳蔵とのからみで物語りは展開していく。終わりごろに川端康成の「雪国」の言葉を引用して 「美しい“徒労”って言葉、覚えてる?」と美保子がつぶやくように言った。「さあ」淳蔵は首を傾げた。「忘れたの。『雪国』の中に出てくる言葉よ。駒子が、自分にひたむきな想いを抱いているのが分った島村は、それを“美しい徒労”って思うシーンがあったでしょう」・・・・・・・・・・・・美保子が低い声でつぶやいた。 「私のは醜い徒労だったわね」その後のことは、佳世とのことも余韻を残して終わっている。 「解説 記念碑的作品」のなかで渡辺淳一は次のように書いている。「具体的にいうと、一つの風景や人間の表情を説明するにしても、大胆かつ直截に切りこみ、その表現をその場だけで惜し気もなく捨てていく。この見切りのよさが、この小説の飽きさせない魅力になっている」「おそらく藤田さんは、・・・・・この一作に思い切り使い込み、投入したのであろう」「同じ小説を書く側であるわたしなどからみると、なにかもったいないような、そんなにあっさりつかってしまっていいの、といいたくなるようなところがあるが、これが勢いのある作家の書き方でもある」歳をとってもたまには恋愛小説もいいものだなあと思わせる一冊だった。
2011.10.17
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先日来 2回当ブログで取り上げた「谷峰城」跡の場所は何処だったのか?行司(私)差し違えでどうにか一つの結論が出た。行司は2回ともこれまで歩いたり、資料をみたりして「日枝神社のすぐ上にあった」という説に軍配を上げてきた。ところが、折も折、地元の南日本新聞の昨日の記事に「町名誕生100周年の常盤町で史跡巡りをせよ」という記事が掲載された。“特捜指令”を受けた地域報道部の女性記者がそこを巡り、“奥深い歴史 文化薫る街”を取材した力のこもった記事である。その記事の一部、地図と史跡案内図が上の写真である。私がその記事の中で一番最初に見たのは、もちろん「谷峰城」の場所である。目を凝らしてみると(14)が「谷峰城跡」となっている。行司(私)が昨日まで上げた場所は刺し違えである。私は疑問を解きたいと思い、新聞社の地域報道部に電話をした。今日の記事の「谷峰城跡」は常盤町内会の史跡案内板の場所とちがうのですが、新聞社としてはどういう見解で(14)になったのか教えてほしい旨を伝えた。先方も町内には十分取材をして書かれた記事だったようだが、しばらく時間をくださいとのことで、その後2回も電話をいただいた。関係者に再度あたって念入りな調査をされたようだった。その電話の概要を書くと、結論としては、「(14)が正しい。但し山城なので、日枝神社の上のあたりもその中に入っていたことも考えられるので、町内会案内版は調整がつかないままああいう形になってしまった」ということだった。まあしかし一件落着となったわけで、刺し違えはしたものの行司の私もすっきりした。15日は久々のドライブでかみさんと孫一人を連れてさつま町まで行き、川内川で遊び、「山太郎がに」を買って帰り味噌汁の材料にした。その後、おじさんコーラスの練習に少し遅れたが行ってきた。16日は校区の運動会である。土・日おじさん八面六臂の活躍である。
2011.10.15
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鹿児島市 常盤の史跡案内板である。ちょっと見難いと思うが、10、日枝神社 11、谷峰城 18、桃が岡 である。某学舎の桃が岡の案内版によると、「谷峰城」と「桃が岡」が同じ場所ということになっているのだが、この案内版では明らかに別の場所である。県立図書館所蔵の「常磐町之史蹟」(昭和14年8月30日発行・発行者 甲西史談会)によっても、「谷峰城」は日枝神社の山の上である」となっている。したがって(11)の場所が谷峰城跡とみていいのではないかと、私も思う。話題は進んで、この常盤を貫く道路は、鹿児島市道 横井水上坂線である。この道路を挟んで史跡が散在しているが、(17)の「水上坂」の登りの手前右側に下の写真の(15)の「水神様」がある。この水神様はその昔「阿弥陀井戸」と呼ばれていた(上記 常磐町之史蹟による)が、現在は写真のように水道になっている。昔はこの道が参勤交代の通路であり、左側には(16)の「東・西客屋跡(水上の御仮屋)」があった。毎年10月の第4土・日には鹿児島市からこの道を伊集院の徳重神社まで歩く「妙円寺詣り」が行われる。「日置市 祭りイベントカレンダー」に下記の案内がある。「妙円寺詣り 10月第4土・日(23年10月22日・23日) 日置市伊集院町徳重神社近辺 時は1600年、天下分け目の戦いとして知られる関が原の戦いの折、豊臣方として戦った島津勢は徳川方の戦中を突破し帰鹿を果たしました。鹿児島城下の武士たちは往時の苦難をしのび、いつからともなく妙円寺詣りとして参拝するようになりました。当日は鎧冑に身を固めた勇壮な武者行列のほか・・・」私も数年ぶりに歩こうと思っている。
2011.10.12
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鹿児島市武岡は現在私の住む町である。そして終の棲家になるであろう街でもある。場所は新幹線の鹿児島中央駅西口側の数百メートル先の常盤トンネルを抜けて行った先の台地である。小学校が二つ、中学校が一つ、高校が甲子園でも大活躍の樟南高校と県立高校の二つ、養護学校が一つある。33年前の1978年(昭和53年)から少しづつ開発された比較的新しい団地といえる。このところの私のルーツ探しともいえる“歴史散歩”の中でいろいろ興味を惹かれることが出てきた。先日来ここに書いた佐志島津家の墓地や我が家の墓地のあった笑岳寺墓地跡はその武岡団地の下に位置する。つまり鹿児島中央駅西口から出て、常盤トンネルの入り口周辺が笑岳寺墓地跡にあたるのだ。こうしてみると、私の生まれた場所もこの近くであり、私がこの周辺を離れたのは疎開をした3年間、清水町の8年間、北九州・長崎・徳山の20年間の31年間である。この周辺で40年間棲息? したことになる。「この辺のことをもっと知らなきゃご先祖さまに申し訳ない」というのは大げさだが、この辺のことを少し調べてみようという気になった。そこで、得意の? ネット検索を始めたのだが、武岡の歴史については、なかなかヒットしない。それでも、幾つかのホーム・ページとブログに行き当たった。数少ない情報の中の「鹿児島市のホームページ」に次のようなものをみつけた。 八田知紀誕生地 所在地 鹿児島市常磐町八七八 解説知紀(喜左衛門)は1799年(寛政11年)西田村に生まれました。知紀は25歳で京都の薩摩藩屋敷の蔵役人になり、桂園派の歌人 香川景樹の門弟になったのです。よく歌をよみ号を「桃岡」(とうこう)としました。後に自分の歌集「桃岡雑記」をまとめ明治になると、宮内省の歌道御用掛に選ばれて活躍し、1873年(明治6年)、東京で74歳の生涯を終えました。なお、八田知紀の閑居の地であった桃岡公園には「桃岡八田先生幽栖之地」の記念碑が建っています。(出典 「鹿児島市の史跡めぐりガイドブックー四訂版ー」 鹿児島市教育委員会・平成11年3月発行)早速翌日現場をたずねた。場所は鹿児島中央駅から常盤トンネルを抜けてしばらく歩き左側の階段を途中踊り場はあるが、全部で200段以上登った樟南高校のグラウンドの上の広場だった。そこには、もちろん八田知紀の記念碑が建っていた。そしてそこで某学舎が設置した案内板を見つけたのだが、それには「ここは昔、谷峰城と呼ばれた山城の跡である・・・・八田知紀の号にちなんでこの地を『桃が岡』と呼ぶようになった」とある。そこで今度は谷峰城について調べてみた。ところが日枝神社の前に常磐町の町内会が町誕生100周年を記念して建てた史跡案内板の谷峰城の跡は「桃が岡」とは違う場所になっている。私はすぐその足で、町内会案内版に書いてある谷峰城跡をたずねた。そこは水上坂を武岡に向かって左折し急な坂を登った場所である。周囲を歩き回ってみたが、城の跡を示す表示はそこには無く、民家が密集している。しかし、地図の通りの道筋をたどって行ったので間違いはない。某学舎の案内板の「桃が岡」が、谷峰城跡というのには疑問符がついた。どちらが正しいのか。両方の場所が離れ過ぎている。もう少し調べる必要があるが、ここでは常盤町内会の説が正しいのかなと思う。それと「桃が岡」と「八田知紀」の石碑自体の場所が某ブログと某エッセイによると、昔とは違う場所に移ってしまったということになっている。これも調べてみようと思い、昔の「桃が岡入り口」の石碑が水上坂に登る途中にあるということでそれを先ず探した。あった、あった常盤1丁目に小さな石碑を見つけた。そこを先に進むと、段々鬱蒼とした場所に行き当たり、先のほうに石段が見えてきた。この上に違いないと思い階段を登っていくと、常盤トンネルのすぐ上の先日私が行った「桃が岡」に登った階段に地下道を通ってつながっていた。これはどう解釈すればいいのか。某ブログ等が正しいとすれば、先日行った山の上ではなくて、常盤トンネルの少し上のこのあたりが昔の公園の場所で常盤トンネルや道路が出来たために、200段も階段を登った上に移されたのだろうと考えるべきだ。しかし、前記「鹿児島市ホームページ」等にある通りとすれば、昔の「桃が岡公園入り口」の石碑の通り、進んだ山の上にあってもおかしくない。どちらが正しいのか考えながら引き返していると、道路を掃いている80歳くらいのご老人とお会いした。これは地元の長老に間違いないと思いこれまでの疑問をぶつけてみた。またちょうどそこに私と同じくらいの年配の方も通りかかられて、お二方から話を聞くことができた。特に私と同年配の方は、常磐町100年記念にも関わられた方で詳しく話を聞くことが出来た。正にラッキーそのものだった。お話によると、「谷峰城は常盤町内会案内板の位置が正しい」「桃が岡公園と八田知紀の碑は昔から同じ所にある」ということだった。そこで私が「別の説もあるようですが・・・」と問いかけたら、お二人とも「ここに何十年も住んでいるが、そんな話は聞いたことがないですよ」とのことだった。これだけで、私としても断言は出来ないが、他の文献も調べてみたい。この「桃が岡」と「八田知紀の石碑」のことだけで、今日は終わってしまったが、まだまだ沢山の史跡がこの周辺にはあることが分ったのので追々書いていきた。
2011.10.10
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「火車」は、「電車が綾瀬の駅を離れたところで、雨が降り始めた。なかば凍った雨だった。どうりで朝から左膝が痛むはずだった。」という書き出しで始まる。そして身体に故障をかかてしまった主人公の姿へ。私は本を読む場合、それが何百頁のものであろうと、いつも関心を持って書き出しに注目する。そこから物語がどういう展開をみせるのか、期待が膨らむからだ。今回もさすがと思わせる滑り出しである。主人公の職業はは前回読んだ「東京下町殺人暮色」と同じ刑事である。もっとも、その設定は違うが、男の子が一人いて、妻は両者ともいないなど、ある意味共通している部分もある。宮部みゆきの作品を沢山読んだわけではないが、彼女の得意の登場人物なのかなと思い読み進んだ。物語のスートーリーはともかく、カード社会を考えさせるのが大きなテーマだろうと思った。出てくる用語は「クレジットカード」「カード会社」「ブラックリスト」「「信用情報機関」「「滞納」「未払い」「割賦」「サラ金」「銀行ローン」「要注意人物」「「キャッシング」「負債総額」「借金」「破産申立」「自己破産」「返済金」「債権者」「破産」「消費者破産」「消費者金融」等などお金に関する言葉のオンパレードである。そしてもう一つのキーワードはコンピューターである。「顧客のデータ」「プリントアウト」「コード」「基礎データ」「クローズド・システム」「アクセス」「キーボード」などなどである。仕事でも少しパソコンにさわり、その後もパソコンを少しかじっている私は何とか理解できるが、若い人は別にして、年配者のなかにはこの本自体を苦手にする人もいるだろう。この物語はその2つのキーワード「カード社会」と「コンピューター」があって初めて成り立つ小説である。この二つの現代社会の怪物をよく調べて、物語にした宮部みゆきもやはり凄い人である。登場する二人の女性はそれぞれ違ったところはあるが、その二つに引き回された犠牲者であると思う。私の周囲にもそのために人生を誤った人が沢山いる。それが現代なのかも知れないが、その怪物の正体を知るためにも、沢山の人に読んでほしい。文庫本で600頁に近い物語だが、分りやすくスムースに読めるし、途中休み休み読んでも物語の本筋を見失うことのない本である。
2011.10.08
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先日来、島津家の墓所を知る中で、私が島津家の2ヶ所の墓所の近くに偶然住んでいたことがあることを、思い出しそれを調べ始めた。その中で鹿児島市清水町にある「本立寺跡」は薩摩藩主の初代忠久から5代貞久までを祀ってあり、今も石塔が五つ残っている。(「ゆっくり悠、 遊 観光かごしま」かごしま まちあるき100コース」 古地図でめぐる城下町 かごしま)もう一つは鹿児島市武町にあった島津墓所である。ここのすぐ近くに小学3年(昭和23年)の途中から中学2年(昭和28年)の途中まで住んでいた私はこの島津墓所は遊び場でもあった。その近くに我が家の墓地など一般の家の墓地もある広大な墓地もあった。当時我が家ではここを「武の墓」とよんでいた。ただこの一帯は昭和45年墓地の改葬と区画整理が行われ、現在は様子が一変してしまった。その上、新幹線の鹿児島中央駅への最後のトンネルの出口や武岡団地への入り口として常盤トンネルが出来て、私の記憶にある島津墓所も一般の墓地も跡形もない。今となっては、島津墓所に祀られている方を知る方法も無い。そこで、私はネットで次のように検索してみた。「鹿児島市武町にあった島津墓所」と入力すると「島津関連」と出て、佐多さんという方が「佐志島津家の墓所は鹿児島城下の武町笑岳寺墓地にあったそうです。現在は東京都小平市の小平霊園に改葬しています(宮之城町史に記載)・・・小平市は確認しています」と記述されていた。私が「笑岳寺墓地」というのを知ったのは、これが初めてであり、大いに興味をそそられた。そこで9月27日に当ブログに書いたように「私の歴史散歩デー」となるわけだが、このとき笑岳寺墓地跡に出来た「笑岳寺公園」そこから相当離れた場所に西郷隆盛が開学した「武小学(西田小学校)」の石碑などをみつけたのだが、そこも笑岳寺跡となっていた。前記佐多さんの記述を見たときには、佐志島津家墓所だけが笑岳寺跡と思っていたのが、実際に歩いてみて、この広大な墓地跡全部が笑岳寺跡ではないかと思うようになり、県立図書館に行って色々調べてみた。地図は昭和16年のものがあって、それをコピーしてきた。偶然にも私の生まれた翌年の地図である。私の戦前の家も鹿児島市中央町(宮田踏み切りの近く)にあり、空襲で焼けてしまったのだが、そこからも笑岳寺墓地もそう遠くはない場所だった。この地図は私の記憶とぴったり一致するもので、思っていた通り、笑岳寺墓地は広い場所を指すものだった。地図の中でいうと墓地の左側のまだ少し左に一般の墓地とは石垣で区切られて島津家墓地はあったと思う。墓所は20段くらいの階段を上って行くところで、墓石もいくつかあり、相当に広いところだった。そうそう 肝心な佐志島津家のことを分っただけでも書いてみたい。平成12年6月30日発行の「宮之城町史」によると「宮之城島津家墓地」の項に次のように述べられている。「佐志島津家はお下(した)の兄である(第17代薩摩藩主島津)義弘の五男忠清を始祖として、お下と宮之城島津家三代 久元との間に生まれた久近が二代を嗣ぎ明暦2年(1656)8月第19代藩主久光の命により、その第4子久峯が久近の嗣子となり、お下の湯沐邑(ゆあみむら)(化粧料)三千石(佐志の地)を賜った。第四代久當の時、本家の三男家に準ずる家格に取り立てられた。こうして私領佐志郷が成立した。第十一代久容の明治2年版籍を奉還する(2850石を奉還し家禄700石を貰う) 鹿児島城下の南泉院馬場に沿って屋敷があり、千石馬場通りの角に位置して『佐志屋敷』と呼ばれていた。また上之園町にも下屋敷があった」その後ろに佐多さんの記述と同じことが、述べられている。私は宮之城在の佐志島津家の墓所が何故鹿児島武にあったのか、不思議に思っていたが上記により家格も上位であり、屋敷も鹿児島城下にあったとのことで、納得できた。尚、黒田清光(調)の「笑岳寺墓地由緒墓」に佐志島津家の墓がないかと思い調べてみたが、格が違うせいかよく分らないが、家臣の名前などは散見されたが、島津家の名前は一つもなかった。今後も佐志島津家墓所と笑岳寺墓地との関連も調べるが、今回の調査の中で出てきた昭和45年まで我が家の墓地もあった「笑岳寺」のことと、武3丁目にあったという「寿国寺」という寺について調べてみたい。
2011.10.04
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今日は快晴からうす曇りへと最高の運動会日和だった。我が家の娘一家の次男坊は4年生だが応援団が8人も集まった。昼ご飯は本人を入れて9人という人数で周囲を圧倒した。?その孫は3年生からソフト・ボール少年団に入っているのだが、昨年の運動会は途中から雨になり、ユニフォーム姿を見ることは出来なかった。運動会では恒例として昼休みに各クラブがユニフォーム姿でグラウンドを一周するようになっているとのことで今年はそれが実現した。写真はジジ馬鹿が写した一枚である。 今日の弁当は娘とかみさんがそれぞれ作って持ち寄ったものだ。毎年娘から煮しめなどはかみさんに作ってきてくれとのご下命があるので、それに従っているのだ。しかしこれもあと2年だけだということで、ババ馬鹿で作っているようだ。
2011.10.02
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この2,3日朝晩も暑いくらいの日が続いていたが、今朝は10月という月を待っていたかのように、涼しさが戻ってきた。土曜日恒例のグラウンド・ゴルフに行くのにいつもの半ズボンはやめて、Gパンにしたが、上はポロシャツにした。成績はいつもの通りだが、言わぬがハナか。ただ11人参加中9人がホールインワンを出すという好成績だったが、私もその9人の中にかろうじて入ることが出来た。昨日は調べものがあり、県立図書館に行ってきた。9時過ぎには着いたが、12時半まで次々に読んだり、筆記したり、久しぶりに楽しかった。その後、近くの中央公園のベンチでかみさんが作ってくれた「おにぎりと沢庵」を昼飯とした。これがまた、おいしい。たまには、こういう場所でのこういう昼飯もいいものだ。まだ時間はたっぷりある。足は近くの照国神社(島津家28代藩主 斉彬を祀る)に向かう。正月の初詣以外に行くことはめったにない。境内も人影まばらである。ゆっくりお参りした。次に隣にある、斉彬公の銅像を拝謁し、更に隣の公園へ。そこにあったのが、写真の「戊辰之役戦士顕彰碑」である。その添え書きは次の通りである。「慶応四年(1186年)一月京都鳥羽伏見で薩摩長州両藩が徳川幕府討伐の戦端を開き、翌年5月函館五稜郭の幕府軍を降した戦いである。これによって明治政府の基が定まり、わが国は近代的な統一国家となり、植民地化を防ぎ、独立が守られました。・・・・・薩摩から八千余名の人々が参戦し、六百名をこえる戦没者と多くの戦傷者を出しました」とある。その戦没者名簿を見ると、我が家の姓と同じ姓の人が3人含まれている。我が家は「百姓」だったと先祖から聞いていたので、この戊辰の役には色々な階層の人々が引っ張りだされて犠牲になったのだろうと思うことだった。ただこれを機会にもう一回我が家のルーツを探してみたいとも思う。
2011.10.01
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