全8件 (8件中 1-8件目)
1
獅子文六の「南の風」を歴史散歩で知った「江田どんの屋敷」の参考資料的な気持ちで読み始めたのだが、その「江田どんの屋敷」については私の想像以上のことが書いてあり、大きな収穫があった。そのことをご教示いただいたやまももさんに改めて感謝するとともに、以前訪問した「やまももの部屋」の「小説に描かれた鹿児島の街」~「獅子文六の『南の風』と福昌寺」を再訪して読んでみた。 そこには主人公の六郎太、母・春乃、妹・康子の親子三人が鹿児島の親戚「江田どんの屋敷」に旅装をといて、母親の実家で華族でもある鬼頭院家の墓参をする場面が詳細に描かれている。その墓が薩摩藩主・島津家の菩提寺の福昌寺跡の墓地内にあるのだ。一読をお勧めしたい。 さて、話は戻るのだが、その親子三人が鹿児島駅頭着いて、母親の春乃が出迎えの“中郷の叔母さん”と挨拶を交わす描写がある。「これは、まア、わざわざと、お鹿さん・・・・」と、春乃は、五十恰好の、色の赤黒い、鼻の巨きな婦人の前で、あらゆる丁寧さをもって、述べた。すると、見るから人の善さそうなその婦人は、それに倍する慇懃さで、縷縷として尽きない、長い挨拶を返したが、六郎太と康子は、ただ一語も、その意味がわからぬのに、驚いた。しかも、挨拶と挨拶の間には、地に届くほどのお辞儀が、お互いに、繰り返された。二人の子供が紹介されるまでに、恐らく五分近くを費やしたにちがいない。「六郎太と康子でございます・・・・。中郷の叔母さんですよ」それから、また始まった長い挨拶に、康子は、顔を真っ赤にして困惑し、六郎太は、デパートの送迎人のように、ただ、頭ばかり下げたーなんという、礼儀正しい国であろう。そして、なんという、言葉のわからない国であろう。 ここまで読んだ私は思わず吹き出しそうになり、近くにいたかみさんに、この部分を読んで聞かせた。そして二人で昔を思い出して大笑いした。「やはり、よその人には鹿児島の女性の挨拶は奇異にうつるのかねぇ」と言いながら・・・。それは今から30年前、私が親会社をやめて、鹿児島に子会社を作るべく北九州育ちのかみさんと子供三人を連れて鹿児島に帰ってきてからのことだ。親戚への帰郷の挨拶廻りや、親戚一同が開いてくれた私たちの歓迎会、あるいはお盆や正月など、人があつまるとき、女性同士で交わされる挨拶がまったくその通りだったからだ。頭が畳に着かんばかりの挨拶が繰り返され、一方が頭を上げると、もう一方が頭を下げたままなので、頭を上げた方は慌ててまた頭を下げる。なんのことはない。この繰り返しなのだ。そういうことに慣れないかみさんは、ただただびっくりしていた。ただそれも私の母親世代くらいまでだったようで、最近はそういう場面を見ることは少なくなった。ヤレヤレ! ホッ!
2011.12.23
コメント(12)
19日の拙ブログに取り上げた「江田どんの屋敷」の石垣の写真と記事を見た「やまももの部屋」のやまももさんから貴重なコメント書き込みをいただいた。「古地図にみるかごしまの町」春苑堂出版(1996年3月)によると、獅子文六の小説「南の風」のなかで、主人公の親戚の家という設定で登場するのが、「江田どんの屋敷」だというのだ。「江田どんの屋敷」について情報不足だった私は、すぐにでも読んでみたいと思っていたら、偶然にも我が家の本棚に鎮座ましましているのを昨日発見し、「奇跡だ!」と喜び昨日のブログに書いた。 早速読み始めたのだが、まだ読破はしていない。ただ「江田どんの屋敷」がどういう建物や庭を持っていたかなど概要は分ってきた。尚、この小説は昭和16年朝日新聞の連載小説として5月22日から11月23日まで掲載されたようだ。 主人公の六郎太がその母親・春乃と妹・康子の三人で鹿児島駅(鹿児島駅とは書いていないが、車に乗って行く途中の風景からして恐らくそうだろうと思う)に降り立ち、出迎えをうけた後、車で屋敷につくまでのことを次のように書いている。 「車は、舗装のできた広い路を、走りだした。白亜の堂々たる建築が、二つ三つ見えた。県庁とか、市役所とかいう話だった。鹿児島も、相当な近代都市だと、思わせた。そのうちに往来が狭くなり、家並みが低くなってきた。建築にこれという特徴がなく、潤いの欠けた、殺風景な印象を与えた。 車は長い橋を渡った。甲突川という河だそうだ。やがて、町外れの風景になって、山が、両側に迫ってきた。車の駐まったところは、一軒家の古色蒼然たる武家門の前だった」 昭和15年生まれの私は、上の記述のような風景は全然見たこともなかったのか記憶にもなく、ただ県庁や市役所など大きくなってからの記憶と結びつき当時からそうだったのかと、感慨深いものがある。甲突川を渡り、町外れの風景になり、山が両側から迫ってきて着いたのが武家門のある家だったというのも、今の水上坂の手前にある「江田どんの屋敷」の風情と変わらない。そして文章は屋敷の様子へと続く。 「古いというよりも、今や、崩壊に瀕している門の柱や、扉や、苔蒸した瓦を、眺めていたのである。武家門は麹町区あたりにも、少しは残ってるが、どれも、きれいに補修されて、原型そのものを見たのは、これが初めてだった。 門を入ると、砲塁のような石垣が、邸内を覗かせまいとするように、聳えていた。それに沿って曲がると、初めて、傾斜の上に、玄関が見えたが、家屋に達するには、三本の道があった。一つの石段は、真っ直ぐに、玄関に達していた。もう一つの石段は、それに平行して、些か低く、内玄関のようなところへ、迂回していた。最後の道は、石も敷いてなく、植え込みと隔てて、勝手口へ行くらしかった」 「六郎太一人が、靴を脱いだ玄関は、門に比べると、意外なほど小さかったが、シンとして、薄暗く、不思議な威厳があった」 「彼を奥へ案内した。曲がり縁を、二度ほど曲がって、眼下に庭の見える、八畳の客間へ通ると、中廊下から母親や康子も、出てきた」「なんちゅてん、百七十年にもなりもすで・・」 「島津公が江戸へ参勤交代の途次、この座敷で、休息したこともあった」 「間数は全部で十一間で、勿論平屋であるが、地位(ちぐらい)が高い上に、さらに石留めの盛土をして、土台ができている。その上に廊下より座敷が、一段高くなっている・・・床下に悉く、厳重な柵を張ってあるのは、敵の間者が忍び込むのを、防ぐ用心でもある。広い屋敷に、押入れが一つもないのは、事ある時に、襖を取り払って、槍、長刀を自由に振わんがためである・・・六郎太は、一抱えもあるような自然石の手洗鉢を見た。活花になりそうな、太い孟宗竹の雨樋を見た。その他、建具や家具まで、すべて、ガッシリ、ドッシリして、彼には気持ちがよかった」 「門といっても、長屋つきの武家門は、細長い家のようなものである。・・・武者窓に、簾が掛けてあって、窓際に、床机が置いてあった。それに腰かけて、家の主人は、外を通る農夫や商人の片言隻句を聞いて、下情上通や、弾圧の緒を捉えたのだそうだ。仲元部屋は、いかにも寒そうな、三畳だった。その隣が駕籠部屋で、鼻を抓まれそうに、暗かったが、よく見ると一台の塗駕籠が寂然と置いてあった。・・・家そのものが、博物館のようで・・・」 長々と引用してきたが、江田どんが薩摩藩の中級武士だったことからして、中級武士の住まいの広さや佇まいが大体分った。ただこの小説からは、間取りなど平面図は描けないが、図面は残存しているとの話もあるので、いずれ見ることが出来ればいいなと思う。この小説から見える「江田どんの屋敷」は相当に広大なものだったようだが、現状は石垣が一部残り、その上の土地には普通の民家が数軒建っているので昔を偲ぶ建物の名残は一切ない。 それにしても、獅子文六は、鹿児島の研究を取材旅行もふくめて念入りによくやったものだと思う。鹿児島出身の作家ではないかと思うほどである。神奈川県横浜市に出身である。全部読み終わっていないが、西郷隆盛研究の学者を登場させて歴史のこと、“かごっま弁”鹿児島の地名、名所、名物などなどその博識にはびっくりした。この「南の風」では他にも書きたいことがあるが、またの機会にしたい。
2011.12.22
コメント(8)

19日の続きである。武の「田のかんさあ」と「庚申供養碑」を巡った後、10分くらいかけて建部神社に着く。先ず、神社の後方、武中学校の通学路(急峻な坂道でこの上にほんとうに学校があるのかと思うほどである)を少し登った右側どての上にあった。建立は“文化9年壬申正月吉日”とある。「武郷土誌」によれば、「武岡を支配する神である。大正時代までは農家では田の神の祭りをするとともに、この山神も祀っていた。田の神と同じように稲や農作物の豊作を祈り、庶民にも親しまれていた。すなわち山岳宗教的な神であると同時に田の神でもあった」とある。 その他、武郷土誌に建部神社には「猫神」(ねこんかんさあ)や馬頭観音(うまんがん)などもあるということが書いてある。そこでそれ等の見学ができないかお願いしてみたが、保安上の問題で見学はお断りしているとのこと。残念だが断念して帰る。尚、「猫神」は鹿児島市磯の島津邸跡にもあるとのこと。いずれ見に行きたい。 ご一緒したIさんが「建部神社から鹿児島市街を写すならこのポイントがいいですよ」と教えてもらって写した写真である。鳥居を入れて額縁さながらである。 昨日19日の拙ブログに「やまももさん」からコメントをいただいた中に「江田どんの屋敷」のことがあり、私の知らなかったことで、大変参考になった。その中に「江田どんの屋敷」のことが獅子文六の小説「南の風」に書いてあるとのことだったので、早速図書館に行って借りてこようと思っていた。ところが、驚くなかれ!今朝グラウンドゴルフから帰り、着替えをしようと2階に上がり、廊下にある本棚を何気なく見ると買った覚えもない「獅子文六全集」が3冊、目に入った。後付けを見ると、昭和43年、朝日新聞社発行で全16巻発刊されようだが、その中の1~3巻であった。かみさんに聞くとかみさんの叔父宅が引越しをするとき、処分寸前だったものをいただいてきたものだそうだ。私は「南の風」がその中にありますようにと、祈るような気持ちで一巻から見ていくと、なんと三巻目のしかも最後に「南の風」が出てきた。これは奇跡だ!ほんとに奇跡だ!まだ数ページしか読んでいないが。そのなかに鹿児島出身の加世田重助という青年が出てきた。多分彼がからむなかで「江田どんの屋敷」がでてくるのだろうと思う。これから、読み進み新しい発見があればまた書きます。
2011.12.21
コメント(6)
(12月16日の上巻から続く) 藩主島津重年が江戸へ向かったのは7月はじめ...。それからわずか70日ほどの間に御手伝い方(薩摩藩)から30人もの自殺者がでた。 村請けの百姓の若者たちの中からも、“とっつあん”達の働きに対する不信が出てきはじめた。また薩摩の侍衆への同情もでてくる。そして彼らの中からも町請け得心を言い出すものもあらわれ始めた。この際将来のためにも丈夫な堤を築いてもらった方が良いとの思いも背景にはある。御手伝い方の想いとは裏腹にそれほどサボったり杜撰な工事をする手合いもいたということだ。また接待や表契約と裏契約の差額が郡代役所に入ることなども知るところとなる。 一方、地元薩摩では工事費捻出のため、使用人を減らし、城中でも空き地を菜園にするなどしたが、藩全体が重税と年貢で押しつぶされる寸前であった。 そういう中での薩摩藩の必死の村方の切り崩しと公儀高官への働きかけが功を奏し「村方得心ならば難場の町請を許可する」というところまできた。そこで早速残りの32箇所の難場の見積もりを町方に依頼する一方、村方にも再見積もりを依頼する。そうすれば10箇所くらいの難場は町方に切り換えられるのではないかとの考えがあった。結果町方業者の見積もりは仮に10箇所をとっても、10万両安くなるものだった。 そしてついに郡代役所から新しく12箇所の町請け許可がおりる。先の許可分と併せて18箇所となった。そうなると町方業者が次々と挨拶に訪れる。そしてその者たちから知ったこと。「それは現地詰めの公儀高官たちが、御普請開始後、1ヶ月もたたぬころから、難場の町請け切り換えを切望しはじめていたという事実である」その裏側を知った「平田はうつむき、つよくこぶしを握りつづけた。改めて彼は自信の無力を痛感した。幕府機構と対決したとき、外様大名とはいかに無力、かつ哀れなものであるかと、刃物で肌に刻みつけられるように平田は知った。痛烈に知らしめられたと言ってよかった」 9月24日、第二期工事は、四工区いっせいに開始された。第二期「水行普請」には難工事が多かった。その中でもニ箇所、四の手「油島新田地先の川分け堤」三の手「大くれ川のしめ切り」などで難渋した。御手伝い方本小屋の算用部屋でもちょっとした手違いから支払い手形八百両の二重切り問題が発生し、自責の念にかられた藩士等4人の犠牲者を出す。 「工事をおこなうのは幕吏であり、請負人であり、計画の変更や普請の出来栄えに一喜一憂するのは土地の農民である。他人が他人のためにする工事へ、資金と労力をそそぎ込む・・・お手伝い方の役目は、一口で言えばこれに尽きた」「だが少しでも手がすくと、さすがの平田も大難場『油島千間堤』へは、時おり工事の進み具合を見に出かけた」 ある日、朝拝ヶ峰に向かう「いきなり視界が展けて枯れ萱の斜面へ抜け、やがて七州見晴らしの絶頂に出た。・・・・愛甲は崖の突端へ出た。そして人々に背を向けたまま、『足元に広がるこの濃尾の野・・・』と、手をあげてぐるっと空間へ弧を描いた。『この野に生まれ継ぎ、生まれ継いでゆく幾十万の民が、我々の辛酸と犠牲によって百年二百年ののちまでも水の害から救われ、悪田変じて青田となるならば・・・・これはこれで、立派に意義のある仕事ではないでしょうか』・・・・・こう、平田は愛甲へ言うのだった『農民の救い、国利の大計ー。それを申すなら薩摩の民はどうなったか。・・・舟を持つ漁師は帆の一反、網の日とひと張り、百姓は牛馬はおろか鋤鍬にまでこれまでの数倍、数十倍に及ぶ重税を課せられ稗粥さえすすりかねている有様ではないか。・・・・・』・・・平田は腰をあげた。枯草を踏み、崖のふちにへ向かってよっくり歩みながら、『ここには、死を怖れている者は一人もいない』」このように総奉行の平田は感情におぼれることなく、またきれいごととして考えるでもなく冷徹に現実を見据えていた。上に立つものとして当然のこととはいえ、立派というほかない。 「と、気の毒そうに佐吉は背後から話しかける・・・・・。『薩摩の衆にはこたえるでしょう。濃尾の冬は』『この野の風には牙があるよ』と、弥九郎はかこった」薩摩の御手伝い方はこれまで経験したことのない厳しい冬を迎えていた。だがそんな中に一つの光明が見えてきた。二の手の現場が12月17、8にちごろには工事が完成するというのだ。「(故郷へ帰れる!)つぶやいただけでも、動悸が高まってくるほど嬉しい」(ああ、だが-』みるみる静馬の眼はうるんだ。(兄を置き去りにしてゆくのか?)伊織を・・・・死んだたくさんの同僚たちを・・・・」このようにあまりにも犠牲が大きく工事を終えてあの懐かしい桜島の見える故郷に帰れることを喜ぶほど単純ではなかった。 12月26日から休み、正月は4日から仕事初始め。宝暦5年ー。濃尾の野で迎えるはじめての正月。それでも雑煮の膳に地酒が添えられた。年内にも仕上げるという当初の計画に比べれば遥かに遅れはしたが、3月か4月の初めには残る工区もことごとく完成する見通しとなった。その間にも幕吏のなかから二人目の切腹者、難工事の出水による犠牲者がでた。 四の手 大難場「油島千間堤」3月27日完成 三の手 大難場「大くれ川洗い堰工事」3月28日完成前年の師走完成の二の手をのぞいて、一の手、三の手、四の手すべての工区が完成したのである。四の手の藩士らは黒松の記念植樹をした。「この苗木が根張りたくましい老松に生い立つころ・・・・われわれは此の世に生きていまい。が、松籟は千間堤あるかぎり、薩摩藩士一千名の悲泣を奏でつづけるのだ」という気持ちだった。 入費の総計はざっと四十万両、約二十三万両が銀師(金貸し)からの借入金、残りは上納金、藩債、増税、物産の売却、藩費節約などの金、収納米七十七万石の換算すれば、薩摩藩の二年間の全収入を上回る巨額に当たった。この犠牲によって恩恵を受けた村々は美濃、伊勢、尾張三州にわたり、都合329箇所にのぼっている。 屠腹したもの50名、病死者202名。香をたきながら平田は国許への報告書をしたためた。翌朝、切腹した平田が見つかった。 薩摩藩の御手伝いは、このように悲劇的な結果に終わってしまった。巷間この悲劇が薩摩藩士を、このあとの倒幕に向かわせるエネルギーになったとの見方もあるが、そこは私にはまだ分らない。ただ救われるのは現在、岐阜と鹿児島が“宝暦治水”が縁となり、交流が盛んになっていることだ。お互いの慰霊祭への参加や先生の交換などもあり、ますます交流が深まっている。
2011.12.19
コメント(4)

快晴に恵まれた朝9時近所のIさんと久しぶりの散歩に出かけた。Iさんとは毎週土曜日のグラウンドゴルフもご一緒しているが、史跡めぐりも今日で3回目である。二人で歩くと長い距離もアッという間である。 私たちの住まいは団地の一番奥にあるので、今日のまず第一目標の「水上坂」(みっかん坂)までも3千歩くらいは歩くことになる。二人で“みっかん坂”を下りはじめたのだが、先日、地質学者のIさんが「この奥の方になにか水源があるかも分りませんね」と言われたとき私が「ここはまだ“まむし”が出そうだから今日はやめておきましょう」と言った場所を通りかかった。「今日は行ってみましょうか」と私。そして二人で藪の中を突き進む。コンクリート張りなのだが、10年以上も人が通っていないような道で途中“かずら”に足を取られたり、降り積もった桜島の降灰を全身に浴びながら、勇躍進むもそれらしきものに出会うことが出来ずそれ以上の突進を断念。残念だったが、フィールド・ワークの楽しさを満喫した。 そして今日の第一目標の「江田殿屋敷跡の石垣」を発見。 この江田家はネット上の「薩摩の石組み」さんによると、薩摩藩の中級武士の家柄で安政4年(1857)江田国雅は藩主斉彬のとき、御鉄砲奉行役、御使番役であった。約200年前に作られた江田邸は今はなく、江田家は神当流馬術の師範家であったと言われ、当時の主座などの配置図は記録として残っているそうだ。現在は屋敷跡の確認は難しいが、石垣のみ残っている。尚、石垣に写真の通り排水口がある。 次に他の用事もあり、常盤町公民館を訪ねた。ここは無人で用事を果たすことは出来なかったが、「古井戸後神」という石碑を見つけた。詳細は一切分らないが、なにか由緒あるものと想像できる。また調べてみたい。 公民館を出て西田町の方に向かっていると「二人地蔵さん」を発見。これも詳細は不明だが、武岡に登るこの狭い道端にあるのは、なにか深いわけがあるのだろう。花や水が供えられていた。 常盤町から武町へ。先日西郷屋敷を訪れたとき、すぐ隣に赤い建物の「淡島神社」を見かけて気になっていたのだが、今回「武郷土誌」でそれを知ることが出来たので、今日写真を写してきた。 この「淡島神社」は武郷土誌によると、祭神は少彦名命(すくなひこなみこと)で、勧請の年月は不詳であるが、社司の福崎家は旧藩時代勘定奉行をつとめていた。そのころ勧請されたのではといわれている。淡島神社は和歌山市加太の淡島神社の分祀であるという。「和漢三才図会」巻之七十六によると、紀伊の国、粟島大明神、名草の郡蚊田にあり、蚊田を加田ともいう。神徳としては、医薬の守神であり、特に婦人の病気、安産、子授の神といわれ、温泉、裁縫の神でもある。この神社は、昭和25年に再築されたときは、武小学校の近くにあったが、昭和49年ごろ今の西郷屋敷の近くに移転した。 そこから歩いて7~8分。宮田通り近くの武幼稚園、武公民館の構内にある「田の神」像と「庚申供養碑」に行く。 その案内板には次のように書いてある。「南九州(旧藩薩摩地域)独特の石像である。田の神は古くから『たのかんさあ』と呼ばれおもに江戸中頃に稲の豊作を願ってたてられた。この田の神は、自然石を浮き彫りにしたもので、頭にはコシキをかぶり、右手には、メシゲ(杓子)左手に椀を持ち野袴をつけた姿は踊っているようです。製作年代は右隣りの石碑に「安永七歳奉庚申供養 武村三才中」とあるのでおよそ230年前の1778年に庚申供養のため旧武村の三才(おせ・壮年)によってたてられたことが分ります。昭和29年武幼稚園が開園したとき、付近の田んぼにたっていたこの田の神を現在地に移し変えたものです。・・・」 このあと先日も訪ねた「建部神社」を再訪したが、そのことは後日書くことにする。
2011.12.19
コメント(8)
薩摩の人間なら誰でもその内容に詳しくはなくても言葉だけは知っている“宝暦治水”“薩摩義士”を題材に書かれた「孤愁の岸」を読んだ。杉本苑子の出世作であり、第四十八回直木賞を受賞した小説である。 私たち鹿児島の人間は宝暦治水については子供のころから「薩摩義士」「木曽川の治水工事」「平田靭負の切腹」(ひらたゆきえ)などという言葉でいつの間にか覚えてしまうほど折に触れて聞いてきた。また城山町の鶴丸城北側にある「薩摩義士碑」にも馴染んできた。ただ、私は齢(よわい)重ねてこの歳になるまで恥ずかしいことだが、その詳細を知ることはなかった。このたび、縁あってたまたまこの本のを手にして読むことで初めて全体像を知り大きな感動と感慨を持った。その感想を一言で言えばこれほどの悲憤慷慨を以って読んだ本は初めてだったということだ。少なくとも薩摩の血が流れる私には悲しさが先にたって、口惜しさで歯軋りする思いだった。あまりのことに、先を読み進むのをやめてしまいたいほどの思いに何回も駆られたくらいだ。 それは「薩摩藩、鹿児島城下。七草は過ぎたがまだどこからか琴の音、屠蘇の香など漂ってきそうな、生温かい新春の一宵、幕府からの一通の奉書がもたらされたことから始まった」その奉書には「濃州、勢州、尾州川々御普請御手伝い仰せつけられ候間、その趣き存ぜらるべく候。もっとも此の節、参府に及ばず候。恐々謹言 宝暦三年十二月二十五日」とあった。「文中に『美濃、伊勢、尾張の川々』とあるのは、木曽川、長良川、伊尾川{揖斐川}の三巨川と、それらにまじわる枝川をひっくるめて称したものであり・・・」それは濃尾平野の米の取れ高、六十四万五千石の穀倉を守りぬきたい幕府の治水を実現するためのものだった。 「普請手伝いといえば、ほとんどの負担を意味する。大名諸侯の財力をそぐために、幕府が好んで用いた手だった。わけて島津家は外様の雄藩。幕府にとっては寸刻の油断もならぬ海底の竜である。金蔵には金がうなっているともみられていた」しかし島津藩の内実はそれまでの色々な事情で金子にして六十万六千両の借財をかかえていた。 第24代当主 まだ若年でしかも病弱の島津重年と重職たちの協議の結果、諸般の事情に鑑み公儀御手伝い受託を決定した。普請総奉行に国老で勝手方家老 平田靭負(財政一切)、副奉行に筆頭大目付役 伊集院十蔵久東(人事一切)も決まり、その他用人など主な役に13人、役付き藩士200余名、他にも医師、書役など600余名、総勢1000名の派遣が決定された。平田は「武士は苦痛はこらえなければならぬ。恥辱はこらえてはならぬ。だが明日からは恥辱にも耐えねばならぬ」という覚悟を披瀝した。それほどの決意でこの御手伝いに臨もうというのだ。 資金調達のための先発隊は、一足早く大阪へ向けて出発。やがて平田らも大阪藩邸に着くと、それまで情報として入手していた総入費10万両から14万両と思っていたものが、江戸家老らがその後、たしかな筋より探し出したところ、総入費は30万両を超えるものだったとの大変なことが分ってきた。平田を先頭に上方の町を金策に走り廻る日々が続く。平田は都合20日間、上方に滞在のあと美濃に向かう。 普請場は、濃尾の野に広がる川々の全流域に及び、おおよそ工区を4つに分けて、一ノ手、二ノ手、三ノ手、四ノ手となっていた。 御手伝い方本小屋は安八郡大牧村鬼頭家の邸内、伊尾川を見下ろす高台に建て増しされていた。「濃州勢州 尾州川々御普請御手伝 島津薩摩守」としたためられていた。「とうとうやって来たのだ!濃尾の野に・・・」「工事に先立って郡代役所から村々へ『心得』として廻された触書の写しだ」と言われた二階堂は紙片を家村に渡した。それは御手伝い方に対する食事のこと、宿舎のこと、掛売り禁止など、薩摩藩士にとっては内容のひどいものだった。「生肝でも噛むような顔つきで沢庵をかじり、薄い味噌汁をすすりながら、二階堂が言った。『腹は据えてきたんだ。前からは幕吏、うしろからは金貸し、横からは土地の百姓どもにいびられる毎日だろう、と。-なあ及川』」という実情だった。 そういう困難な中、四ノ手で一つの事件が起こる。二人の藩士が刺しちがえて自刃~自裁という悲劇である。しかし平田総奉行は「腰の物にて怪我」と言えと指示した。以後もこのような自刃に対しても全てそのように言いあらわした。自刃の原因は幕府側の堤方役人と御手伝い藩士とのぶつかり合いにあったのだが、その背景には、郡代役所上役の資材不正入札、賄賂、百姓同士のいがみあいなど沢山の要因があった。それらに対する御手伝い藩士の身をもっての抗議であった。 彼らの遺志とはなんだったのか。一言で言えば“冗費を防ぐ”という一条であった。つまりは現在の“村方請負”は内達の倍を要する巨額に達することが分ったことだ。そこから村方請負を“町方請負”に切り換える運動を始める。運動が少しだが実り、町方請負に切り換えたいと希望していた難場38ヶ所のうち、6ヶ所の水中工事が許可された。 そういう中で、平田は御入用金70万両が予想されていたとの秘密文書を入手する。「謀られた」御手伝いを甘受したことへの悔恨で「かたちを変えて仕掛けられた合戦なのだ」という想いでいっぱいになった。14、5万両との内達が30万両にはねあがったとき、ひそかに覚悟していた平田は、その70万両にもさほど驚愕しなかった。 第一期工事も終わり、普請場は夏の休暇に入ったが、中級以下の幕吏と御手伝い方の人々だけは働いた。いよいよ第二期工事に備えて夏休み中に諸資材を揃えておかなければならない濃尾の野はいっせいに雨季に入った。そして5ヶ月の辛酸のあげくつくろいあげた川筋に決壊場所が続出しはじめた。 そういう中、町方請負への反発から、村々の庄屋、年寄りなどが嫌がらせを始める。物価の高騰、人が働かない、石寄せ、木寄せがはかがゆかない。 そこにもってきて疫病の発生である。 そこえ藩主 重年が江戸出府の途中激励のため現場を訪れる。重年は憔悴がはげしかったが、病人小屋を見舞う。そして言う。「桜島の噴煙をのぞむ汝らの故郷・・・、あの鹿児島城下へそろってふたたび帰ってくるのだ、よいか・・・よいか汝ら」(号泣が薄い小屋の羽目板をふるわせ、外にまで洩れた) 平田の費用試算は54、5万両。村方請負をこれまで通り野放しした場合である。ただ10ヶ所を町方請負に切り換えることができれば、10万両削減でき、44、5万両になる。(12月19日下巻に続く)
2011.12.16
コメント(0)
鹿児島市中央駅の西口を出て山(武岡)に向かって数百メートル歩くと、常盤トンネルがある。その南側の少し上には鹿児島中央駅に向かう新幹線最後のトンネルもある。この二つのトンネルの周辺は拙ブログに何回か書いた「笑岳寺墓地」と「島津どんの墓」(寿国寺)のあった場所である。その昔、西口から見て右側(北)に「笑岳寺」、左側(南)に「寿国寺」があったのだ。両寺とも広い敷地だったそうで、この一帯は仏教の荘厳な雰囲気が漂っていたことだろう。そして残念ながら、この二つの寺も明治2年の廃仏毀釈によって廃寺となっている。 私は終戦後疎開先から鹿児島市に戻って小学校3年の途中から中学校2年の途中まで約5年間、このすぐ近くに住み、笑岳寺墓地には我が家の墓もあり、「島津どんの墓」ともども遊び場所でもあった。そこでこの二つの遊び場所はそもそも何だったのかということに興味を持ち、「笑岳寺」と「寿国寺」について調べてみた。 「笑岳寺」は「宝蔵山笑岳寺」といい、永禄12年(1569)11月伊集院大和守忠朗が創建したもで、伊集院の曹洞宗梅岳寺の末寺であった。伊集院大和守忠朗は薩摩藩主第15代島津貴久のとき国老になった人で、法名を笑岳道観といっていたのに因むものである。本尊は聖観音。開山は梅岳寺の七世月盛呑撮和尚である。この寺は廃仏毀釈によって明治2年11月廃寺となった。その跡は墓地となり「笑岳寺墓地」と称されていたが、昭和48年にこの一帯で区画整理が行われ、墓地は武中学校上の「武岡墓地」に改葬された。ただ笑岳寺墓地跡の一部が「笑岳寺公園」となりその名を留めている。 「寿国寺」は「元持山寿国寺」といい、享保14年(1729)8月、第21代島津吉貴が茶円迫にあった真言宗の地蔵院(ここに鼻取地蔵があった)をここに移した。そして僧の玄黙に命じて再興し、黄檗宗の寺として元持山寿国寺と改め開山した。高嶺を後ろに負い前方には広い田野を臨み風致よく、正門には「第一関」と書いた扁額が掲げてあった。即非という人の書である。この門をくぐって上がっていくと、天王殿というのがあって、梅壇林と書いた扁額がかけてあった。これは隠元の書いたものである。それから石段を数十段登ると仏殿に獅子窟の額がかけられていた。この寺は,中国の風格を持っていた。寺禄は400石で黄檗宗としては薩摩第一の大刹であった。この寿国寺の下院が田上村の三蔵院にあった。聖観音(木立像)を安置し、嬰児の長育を祈るのに霊験あったといわれ、俗に子安観音と称していた。 ここには、拙ブログ11月25日に書いたように島津家の墓が4基あり、歴代当主の御夫人や息女、側室が葬られていたが、ここも区画整理にともない福昌寺に改葬された。前記、新幹線トンネルの工事のとき、鹿児島県教育委員会(県立埋蔵文化センター)による発掘が行われたが、寿国寺のものとみられるはん池(はんち)が見つかった。このはん池は当時の様子を伝える絵図によると門前池の一部であろうと考えられている。 この池には内側に浮島(中島)が設けられていて、そこには石像が設置されていたことが伝えられているが、発掘調査でこの石像ではないかと思われる破片が見つかっている。また池の西側で見つかった井戸跡や柱跡は長寿院のものではないかといわれている。 いずれにしてもこれ等を知ったことで、当時の武岡下の様子が偲ばれ大きなロマンを感じることだった。 参考文献 「常盤町の史跡」昭和14年8月30日発行 発行者 甲西史談会 「武郷土史」 昭和49年2月20日発行 発行者 武小学校郷土誌 刊行委員会 ネット情報 「鹿児島県上野原縄文の森 縄文の風 かごしま考古ガイダンス」
2011.12.12
コメント(6)
あと3日すると21世紀を迎えることの出来た1999年12月29日早朝母が亡くなって今年で12年になり、年末の慌しさの前にということで、4日母の13回忌の法要をすることが出来た。12年前のあの日、当時59歳でまだ現役だった私は28日夜も妻と病院に行き、いつもの通り母に食事をとらせ、「これでお正月は無事迎えることが出来るだろう」と思い翌日からの正月休みを楽しみに家に帰った。 ところが29日の朝、枕もとの電話が鳴り響き一瞬何が起こったのかと思ったが、すぐ「母に異変が・・・」と思い電話をとった。予感の通り母の異変を知らせる電話だった。当時奄美大島に転勤でいた娘一家も正月を我が家で過ごすべく帰ってきていたが、それも起こさず妻と二人慌しく病院に車を走らせた。病室に駆け込むとそこには悲しい現実が待っていた。私たちの到着も待たず母は一人で旅立っていたのだ。 あれから12年、今回は12月3日には姪の結婚式もあり、遠く関東・関西から一族が6人帰ってくるので、遠方組に迷惑のかからないようにと思い、お寺さんに「結婚式の翌日に法事をしてもかまいませんか」とお聞きし「我が宗派ではそういうことには一切こだわりません」ということで結婚式と法事を連日で行うことになった。 遠方組を迎えて2日夜は花嫁になる姪の私の妹一家の招待による夕食会が城山観光ホテルの中華料理店 翡翠庁であり、私たち夫婦もこれにも招待された。3日、12時写真撮影、1時チャペルでの挙式、2時30分から披露宴と目出度い楽しい宴はあっというまに過ぎていった。 4日、天気晴朗。もう13回忌ということもあり、今回は19人の近い身内だけにした。西本願寺別院で法要。そのあと同じお寺内にある叔父と従兄弟の納骨堂に全員で参る。そこから3台の車に分乗し、昼食のため“いちにいさん”へ移動。遠方組が帰省したらここにはよく案内しているのだが、この日のメニューは初めてだったこともあり、好評で主催者の私と妻はホッとする。19人といっても93歳の叔母から下は小学4年生の我が家の孫まで4代にわたっているので、若い連中も満足するように追加料理なども頼んで皆喜んでくれた。食事が終わって、再び車に分乗し、我が家の墓地のある“武岡墓地”に参る。こんな大勢が一緒にお参りするのは母の初盆以来のことである。母をはじめご先祖さまが、この賑やかさは何だろうとびっくりしたことだろう。いいお参りが出来て皆嬉しそうでなによりだった。 三度、車に分乗し、桜島フェリー乗り場に向かう。大人組13人が今晩の宿舎、レインボー桜島に行くためだ。私の車だけが桜島に行くことになるので、荷物を全部積み込む。桟橋で息子や婿殿の車と分かれていざ桜島へ。ホテルの前から予定していた“サクラジマ アイランドビュー”に乗る。時に15時32分。これは、鹿児島市交通局が走らせているバスで、今年の10月1日から運行している。「桜島港~湯之平展望所循環バス」となっており、1日乗車券(500円)を買えば、途中のバス停で自由に乗り降りできて大変便利な代物だ。バスが小型なので、我々13人とあと4,5人で座席は満杯となる。ともあれバスは途中名所に停まりまがら、湯之平展望所へ。私はここは初めてだったが、いつも行く有村溶岩展望所とは違い、目の前に切り立った山容は迫力満点である。土石流の恐れがあるためか、そのための流れる川も目にすることが出来る。一日乗車券は買っていたものの、時間もないので1周60分でホテルに入る。 温泉のあと、夕食会となったが、母の法事ということで、先日書いていたエッセイ「大叔父の涙」を挨拶代わりに読んだ。するとあちらこちらからすすり泣きの声が聞こえ読んでいた私も途中つまってしまった。あとでメールやコピーで送ってくれと言われ、その約束をした。カラオケなどでも盛り上がり、10時まで大騒ぎだった。賑やかなことが好きだった母も喜んでくれて許してくれるだろう。 5日、朝6時からの朝風呂に入るべく6時10分に浴場に向かう。今日もいい天気だ。8時からレストランでバイキングの朝食を済ませ、再びフェリーで錦江湾を渡り、鹿児島市街地へ。私の車と、タクシー2台に分乗し、空港行きリムジンバスの通る市役所前まで遠方組を送る。昨年の兄弟11人の京都・奈良旅行以来の再会だったが、今度はまた何時会えるのか。3泊4日の楽しい日々はあっと言う間に終わってしまった。遠方組はまた17回忌に来ると口々にいいながら喜んで帰って行った。 写真はレインボー桜島前に建てられている“大正噴火 九十周年記念碑”である。ちなみに再来年は百周年にあたる。
2011.12.06
コメント(10)
全8件 (8件中 1-8件目)
1