2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全17件 (17件中 1-17件目)
1
![]()
博士は悩んでいた。不老不死の薬を発明するまでは良かったのだ。だが、それを販売してしまうと、世界が滅んでしまうかも知れないというところまでは頭が回らなかった。 絶対に死なないと分かれば、人は向上心を失うだろう。限られた人生だからこそ、人は努力するのだ。永遠の命を手に入れた人類は、衰退の一途をたどるはずだ。私に人類を滅ぼす権利はない。 博士はそう判断すると、七十年近い人生のほとんどの時間をつぎ込んで発明した不老不死の薬をトイレに流した。流れていく薬を見ていると、自分の人生がまるで無駄だったように思えて悲しくなったが、同時にこうも思えた。・・・いや待てよ、寿命があったからこそ、私は不老不死の薬を発明できたのではないか。そうだ、人生の時間が限られているからこそ、私は不老不死の研究に没頭できたのだ。そんな皮肉な現実が博士には妙に痛快だった。 トイレの水が止まると、まるで暗い気持ちまで一緒に流してしまったように開き直った博士は、残りの限られた人生をタイムマシーンの開発にそそぎ込むことに決めていた。
2006.07.29
コメント(0)

街全体が、停電した。厚い雲に月が覆われた夜で、街は一瞬で深い闇に包まれた。 街はその機能を失い、途方に暮れたように静まり返った。街の人々はなすすべを失い、人質に取られたようにおとなしくなった。 街の人々は、普段当たり前のように使っている電気のありがたさを思った。ある人はシャワーを浴びている最中に停電になり、慌てて浴室から出ようとして石鹸で滑って頭を痛打し、ロウソクの明かりを頼りに後頭部を氷で冷やしながら光の大切さを思ったし、ある人はデスクトップの前で、その日の深夜が締め切りの原稿と格闘している最中に停電になり、真っ黒になったディスプレイに絶望し、言い訳を許さない編集者の顔を思い浮かべて更に絶望し、開き直って封印していたウイスキーを懐中電灯で探して飲みながら電気の偉大さを思った。 まるで早送りのように流れていく電車の外の風景を眺めながら、私はふと、思う。私は、あるいは我々は、日常の忙しさにかまけて、何か大切なものを見過ごしてはいないだろうか。あるいはそれに気づいているのに、まるでこの国の白痴化が目的のように氾濫する陳腐なバラエティー番組に笑ってごまかされるように、知らない振りをしているのではいか。 結論の出ないまま、今夜もいつもの駅に電車が停まる。私はホームに降り、疲れ果てた人々に交じって改札に向かって歩く。家に帰っても、笑えるくらい膨大な仕事が待っている。極限まで体を酷使して、何のために働くのか。地位か? 金か? プライドか? 女か? 馬鹿馬鹿しくて、私はすれ違う見ず知らずの男を殴りたくなる。だが、見当違いの怒りは、すぐに深い溜息に取って代わる。次の瞬間、私の住む街の光が消える。突然放り込まれた闇の中で、私は永遠に何が失われたのかに気づかない。
2006.07.23
コメント(0)

私はあなたを愛しています。あなたのことを愛しているんです。あなたのことを想うと、胸をかきむしりたくなリます。あなたは私のすべてだ。あなたにとっても、私は運命の男なんです。なのにあなたは、私ではない男と婚姻関係にある。でも考えてみてください。結婚なんて、しょせん紙切れ一枚の関係なんです。紙切れには、何の拘束力もありません。だから安心してください。安心して私の元に来ていいんです。私の住む広尾のマンションには、あなたと生活するためのすべてがそろっています。イタリアから取り寄せた100万円のソファーベッドも、あなたに座り心地を確かめてもらいたがっていますよ。これを読んだら、必ず私に電話をください。必ずですよ。今私は、あなたの住むマンションの部屋を眺めながら、車の中でこれを書いています。今からメールボックスにこの手紙を投函します。あなたの今晩の夕食は何ですか。私はあなたのことを愛しています。あなたも本当は私のことを愛しています。やせ我慢なんてしないでください。体に悪いですからね。やせ我慢なんてしないで、早く私の元に来てください。必ず来いよ。絶対に来い。あなたはお洒落な人だから、食卓にはワインが並んでいるのでしょうね。今夜の夕食はチキン南蛮かな。根拠はないです。ただの勘です。あなたを愛しています。絶対に逃がさんぞ。あなたはお洒落な人です。これを読んだら必ず電話をください。今私は、あなたの住むマンションの真下に居ます。
2006.07.20
コメント(0)

最近郊外にオープンした話題の近未来水族館に出かけた。近未来水族館の最大の目玉は、何と言っても館内の魚とフリートークを楽しめる点だ。私はイルカが大好きなので、彼らのショーを観たあと、フリートークが出来るチケットを買った。 私の話し相手はチロロという名の若いオスのイルカだった。チロロはイルカ達の中で一番高くジャンプすることが出来、その華麗さが人気を呼び、近未来水族館のアイドル的存在だった。 私は初恋のようにドキドキしながら、透明のプレート一枚隔てた向こうにいるチロロと対面した。水の中のチロロは芸術作品のように美しく、思わず息を呑んだ。「・・・あげん空高くジャンプしちょるときって、どげん気持ちですか?」 ずっと聞いてみたかったことを、私は尋ねた。 「べつに、普通だよ」「・・・普通?」「そうだよ、だって仕事だもん、毎日やってんだよ、毎日ジャンプしてんだよ、ルーチンワークだよ、そりゃあやっつけになるでしょ」 私は涙が込み上げてきた。何だか裏切られたような気がして、無性に悔しかった。「おまえなんか、こげんしてやる」 私はフリートークルームに備えてあるパイプ椅子を持ち上げると、透明のプレートに向かって思い切り投げつけた。椅子は大きな音を立てて跳ね返った。「何やってんだよバカ、割れたらどうすんだよ、しょうがねえ田舎者だな」 チロロに殴りかかろうとした私を、駆けつけた係員数名が床に押さえつけた。身動きを奪われた私は、悔しくて悔しくて、あふれてくる涙に視界がぼやけ、一瞬、水の中に居るのは自分のほうではないかと錯覚するほどだった。
2006.07.16
コメント(0)
![]()
妹が語尾にアザラシを付け始めた。何でも学校ではやっているのだという。こんにちアザラシ、どこに行くアザラシ、早くしてアザラシ・・・聞いていると、だんだん腹が立ってくる。「おまえもう、アザラシ付けるのやめろよ」 私は怒って妹に言う。だが、妹はちょうど反抗期で、聞く耳など持たない。「嫌だアザラシ、黙れアザラシ、兄アザラシ」 私は怒りで拳を握り締めるが、殴られないのは妹が一番よく知っている。私はふと、妹がアザラシになればいいのにと思った。そうなればもう、語尾にアザラシを付けないのではないかという気がしたのだ。 すると、不思議なことに妹がアザラシになっていくではないか。私は大変驚き、アザラシになった妹に声を掛けることが出来ない。アザラシになった妹は、手をバシバシ叩きながら言った。「いわしくれアザラシ、いわしくれアザラシ、早く持ってこいアザラシ」 ミドルシュートを打つように、私はアザラシの顔面を蹴る。
2006.07.13
コメント(0)

仕事でベトナムのホーチミンに出かけた。戦争でアメリカに勝った過去を持つベトナムの国民を、私は尊敬している。ベトナム人もまた、戦後驚異の復興を遂げた日本人に敬意を払ってくれる。日本の電化製品と自動車は世界一なのに、どうしてアメリカにへいこらするんだ? と彼らは不思議がる。アメリカなんか相手にしなくても生きていけるよと。 だが、ベトナムはベトナムなりに、社会主義国としての悲しい側面を持っている。 夜、ホーチミンの郊外を歩いているとき、アオザイを着た少女にシャツの裾を引っ張られた。 少女は十三歳で、ミンと名乗った。日本円にして三千円でどう? とミンは交渉してくる。外国人相手の売春である。日本と違うのは、ミンが遊ぶためではなく、生活のために体を売っている点だろう。 私は悲しくなり、首を振って歩き始めたが、ミンはしつこかった。 ミンが二千円まで自分の値段を下げたとき、私は立ち止まって提示額を彼女に支払った。行為が目的ではなく、ミンから開放されるためである。そのことを察すると、ミンはかなり驚いていた。「あなたみたいな日本人は初めてだ、みんなお金を払ったら必ず体を求めてくる」 英語と日本語とベトナム語で、ミンは言う。私は何も言えず、苦笑いを浮かべる。ミンは更に言葉を継いだ。「あなたは大変珍しい、だから、特別に呪わないであげる」
2006.07.12
コメント(0)
![]()
家に帰ると、知らない女が餃子を焼いていた。驚く私を見ても、女に動じる様子はない。それどころか、勝手に人の冷蔵庫を開けて缶ビールを出して飲み始める。私の存在など完全に無視している。 餃子を焼く、ジュッーという食欲をそそる音と匂いに私は生唾を飲む。女は出来上がった餃子を皿に盛ると、黙って一人で食べ始める。ひょっとしたら一つくらい勧めてくれるのではないかと期待したが、甘かった。「タレはつけないんですか?」 女はちらっと私を見、つけなくてもおいしいから、ぶっきらぼうにそう言った。それきり女はまた、私が居ないかのように、餃子をつまみにビールを飲む。失礼な態度に腹を立てた私が口を開こうとしたとき、それを制するように女がしゃべり始めた。「全部夢だと思えばいいのよ、現実の出来事じゃなくて、夢の中で起こったこと」 そうすれば、大抵のことは我慢できるでしょ? 女は私の返事も聞かずに新しい餃子を焼き始める。
2006.07.11
コメント(0)
![]()
三年前に死んだ彼女に会いに近所の公園に出かけた。蚊に刺されないように、携帯用の蚊取り線香と、彼女の好きだったきな粉味のアイスクリームを持って行く。 蒸し暑い夏の夜なので、アイスクリームはどんどん溶けていく。もったいないので、仕方なく僕はそれを食べる。緩やかな風が吹き、蚊取り線香の匂いが鼻孔をくすぐる。近くの草むらで、鈴虫が鳴く。 僕は木のベンチに座って、誰もいない公園で煙草に火をつける。見上げると、星は数えるほどしか出ていない。見上げたままでいるのは、涙を我慢しているからではない。そう自分に言い聞かせる。遠くで、間延びした車のクラクションの音が響く。僕は煙草を吸う。夜空に向かって、ゆっくりと煙を吐く。
2006.07.10
コメント(0)

仕事の疲れが溜まってくると、朝がなかなか起きられない。ちゃんと目覚まし時計をセットしていても、無意識のうちにアラーム音を消して、知らんぷりで眠っている。 それではダメだということで、解決策を求めて近所の量販店に出かけた。 いろいろ物色していると、ちょっと値段は張るが面白い目覚まし時計を見つけた。好きな曲とアラームをセットしておくだけで、その時刻になると生のロックバンドが目覚まし時計から飛び出してきて、インプットした曲を演奏してくれるという代物だ。これなら絶対起きられると思い、有り金をはたいた。 その夜、さっそくこの目覚まし時計をセットして眠ったのだが、翌朝私は大幅に寝過ごしてしまった。ふと見ると部屋の隅に髪の赤いヴォーカルとギターがいて、私がなじると、彼らは言い訳をした。ドラムとベースが寝坊して、セットした時刻に演奏が出来なかったのだという。お話にならないので、私はでたらめな目覚まし時計を返品する意思を彼らに伝えた。それだけはやめてくれ、彼らは慌てて私の足にすがりついた。「頼むよ、返品だけはやめてくれ、あんた確かクラッシュの曲だったよな、明日の朝はばっちり決めてやるからさ、だから頼むよ」 考えてみればヴォーカルとギターは悪くないのだし、とりあえず明日の朝まで様子を見るか。そう思って私は彼らを許した。
2006.07.09
コメント(0)

窓の外から子供の笑い声が聞こえた。屈託のない笑い声に誘われるように、窓に寄って外をのぞいた。隣の家の駐車場で、親子三人が花火をしている。若いお母さんと、お姉ちゃんと弟。確かまだ幼稚園児の男の子が、次々と色の変わる花火を手に持ってはしゃいでいる。お姉ちゃんが、弟の消えた花火を水を張ったバケツにつける。男の子はもう次の花火を手にして、お母さんに火をつけてもらっている。 そういえば、ここしばらくお隣さんを見なかったなと私は思う。それからすぐ、花火を囲む輪に父親の姿のないことにも気づく。 お姉ちゃんが線香花火に火をつける。小さなオレンジの点が薄闇に浮かび、やがて音もなく消えた。お姉ちゃんは、消えた線香花火を持ったまま動かなかった。お姉ちゃんは、泣いていた。小さな肩を震わせていた。お母さんが傍に寄って、その小さな肩を抱き寄せる。私はカーテンを閉め、デスクトップの前に座り、仕事の続きを始めた。
2006.07.08
コメント(0)

黒人の男は丸太のように太い腕を突き出し、拳を作ってみせた。「ヘイこの野郎、その大口をきけないようにしてやろうか?」 こんな腕で殴られたらマジで死ぬかも知れないと俺は思う。だが、俺はプロだから恐怖を顔に出さない。逆に落ち着き払った態度で、決めゼリフを口にする。「分かった、ユーがそこまで言うなら、もうひと勝負やってもいい、ただし・・・」 と、ここでひと呼吸置いて、相手の目を見て俺は続ける。「ただし、中途半端はなしだ、ゼロか百、つまり互いに命を賭ける、ユーが負ければ人買いの契約書にこの場でサインしてもらう、俺が負けても同じようにする、この条件でどうだ?} 人買いと聞いて、黒人の男は一瞬ひるむ。だが、こういうタイプの男は絶対にのってくる。俺は経験的にそれが分かる。「ヘイ上等じゃねえか、やってやるよ、あとでほえ面かくなよ」 案の定、黒人の男は俺の挑発に引っかかる。テーブルの上に、五十三枚のトランプが広がる。黒人の男の目が一段と鋭くなる。だが、俺はプロだからカードでは絶対に負けない。今夜も一人、屈強な男の命が俺の手で奪われる。
2006.07.07
コメント(0)

自宅からオフィスのある新宿まで、毎朝一時間かけて通勤する。池袋で乗り換える山手線の満員の車内で、ここ一週間だけで三度も同じ女性と乗り合わせた。ただ乗り合わせただけではない。何度も目が合って、互いに異性として相手を意識している。ある程度大人になれば、それくらいは分かる。 東京の人口を考えても、短期間に同じ相手と同じ車両で何度も乗り合わせる確率は、恐らく限りなくゼロに近いだろう。私は彼女との出会いに、運命めいたものを感じていた。 今度乗り合わせるようなことがあったら、思い切って話しかけてみようか。そんなふうに考えていたところ、今朝、山手線の同じ車両で、再び彼女と乗り合わせた。彼女はアジサイ色のカーディガンを着ていて、カラーコンタクトだろうか、茶色っぽい瞳で私を見つけた。 車内はひどく混んでいて、実際に声をかけることは出来なかったが、それでも私は友人に対してのように、ごく自然に彼女に微笑みかけていた。自然に表情が緩んだのは、もう彼女を赤の他人とは思えなくなっていたからかも知れない。だが、私の微笑みに対して、彼女は小さく首を振った。表情を変えず、ただ小さく首を横に振った。それが何を意味するのか私にはよく理解できなかったが、根拠もなく、この先もう二度と彼女と乗り合わせることはないだろうと思った。
2006.07.06
コメント(0)

海外旅行中、高熱を出して入院した。収容されたのはペンシルヴァニア州の郊外にある大学病院だった。適切な治療のおかげで三日後には快復したが、私にとって重要だったのは、治療にあたってくれたドクターとの出会いだった。彼は日本人の母親を持つハーフで、まだ一度も日本を訪れたことがないのに、ほぼ完璧な日本語を話した。日本の味噌汁を癌の特効薬として広めようと考えています、彼はよく冗談を言った。笑うと、小さなえくぼが唇の端に出来た。 彼になら、自分の苦しみを打ち明けてもいいのではないか。入院中、彼の人柄を知るにつれ、私はそんなふうに思うようになっていた。 退院後、治療のお礼という名目で、ドクターを食事に誘った。忙しい仕事をやりくりして、彼は時間を作ってくれた。メインディッシュを食べ終えると、私は口火を切った。「ドクター、実は・・・」 私は宇宙人だった。地球の調査のために送り込まれた宇宙人だった。だが、私は調査員として精神的に限界に達していた。六十年前の愚かな戦争が嘘のように、地球人は本当に優しい。そんな優しい地球人の住む星を、侵略を目的に調査しているのだ。地球人の笑顔を見るたび、私の胸は鋭く痛んだ。私はもう、調査を辞めたかった。辞めて宇宙に帰りたかった。だが、任期が終わるまでそれは許されない。「・・・本当につらいんです、いったいどうすればいいのか」 うなだれる私を、ドクターは笑い飛ばした。「おまえは調査員としてまだまだだな、任期をあと五年延ばす、心を入れ替えて調査に専念しろ」 ドクターは調査員を監督するため宇宙から送り込まれていたのだった。
2006.07.05
コメント(0)

夏の日の午後、ジューシーなパッションフルーツを食べた。パッションとは情熱のことである。情熱の果物! 何て魅惑的な響きなんだろう。私はこの魅惑的な果物を、バニラアイスの上に載せて一緒に頂く。これが声が出るほどうまいのだ。ふと視線を感じて振り返ると、妹が私を見ていた。「お兄ちゃん、パッションフルーツのパッションって、どういう意味なの?」「おまえ中二にもなってそんなことも知らねえのかよ? 情熱だよ情熱、決まってんだろ」「ばぶー、嘘ですー、パッションフルーツのパッションは、キリストの受難って意味なんですー」 私の拳が飛び、妹が泣いた。
2006.07.04
コメント(0)
![]()
表参道の駅のホームで彼女と待ち合わせた。待ち合わせの時間は午後の四時。三時に目的の駅で降り、七時まで待ったが、彼女は現れなかった。 帰りの電車の中で、携帯に記憶された彼女の番号を何度も眺めた。だが、僕は発信ボタンを押さなかった。ぎりぎりのところで思いとどまった。明日からも生きていくために、ほんの少しでもプライドを残しておかなければならないからだ。 自宅に戻って、そうめんを食べた。食欲などなかったが、何か口にしないと元気が出ない。だから、つるつるして食べやすいそうめんを、失恋した夜に食べた。
2006.07.03
コメント(0)
![]()
熱で寝込んでいる飼い猫の頭に冷やし枕を敷いてやった。飼い猫は閉じていたまぶたを開き、非難がましい眼差しを私に向けてきた。いかにも寝込んでいるのはおまえのせいだと言わんばかりに。「冗談だろ?」 昨日の夜、家業を継ぐため実家に帰る決心をしたことを告げると、飼い猫は驚きの声を上げた。「しょうがないんだよ、親父ももう歳だしさ、最近ちょくちょくクレームが入るっておふくろも言ってたし、俺が帰んなきゃ、もう回んないんだよ」「・・・決心、固いのかよ?」 私が頷くと、飼い猫は猫とは思えないような深い溜息をついた。その深さのわけを私は知っている。飼い猫には、この町で知り合った恋人がいるのだ。実家に越すことになれば、その恋人ともう会えなくなる。遠距離恋愛なんて便利な選択肢は、猫の世界にはない。つまり私は飼い猫に対して、遠回しに恋人と別れろと言っているのだ。「心配すんなよ、おまえはほら、雑種のわりには毛並みもいいんだし、すぐに新しい彼女が見つかるさ」 口にしてから私は後悔した。飼い猫は黙り込み、背中を見せて丸くなった。しばらくして飼い猫は発熱し、私は一晩中看病した。 冷やし枕に気持ち良さそうに頭をごろごろさせている飼い猫に向かって、私は言った。「もしあれだったらさ、おまえはこの町に残ってもいいんだぜ、そうすっと、新しい飼い主が見つかるまでは、ノラ猫になっちゃうわけだけどさ」 飼い猫は頭を動かすのをやめ、熱っぽい目で私を見た。「ノラ猫なんてやめてくれよ、モテなくなるじゃねえか」
2006.07.02
コメント(0)

うだるような夏の暑さを、涼しげな風鈴の音色がなぐざめる。彼女はほとんど裸に近い格好で、二階の部屋の窓枠に背中を預け、すぐ下の外の通りをぼんやりと眺めている。彼女の使ううちわの音が、大きな虫の羽音を連想させなくもない。 彼女は一週間前に恋人を失ったばかりだった。バイク好きの彼氏で、以前にも仕事だと彼女に嘘をついて、ツーリングに出かけたことがあった。雨でスリップしてバイクごと崖から転落した、突然電話がかかってきて、休日出勤しているはずの恋人の死を、彼女は告げられた。 今朝目が覚めてからずっと、下の通りを彼氏が歩いてくるような気がしてならなかった。そのうちいつものように、柔らか過ぎる髪に寝癖をつけてひょっこり現れ、人懐っこい笑顔を見せてくれるのではないかと。そんなイメージが、彼女の頭から離れなかった。暑さを紛らわせる風鈴の音色のように、それがただの思い込みだと分かっていても、どうしても窓から離れることが出来ないのだった。
2006.07.02
コメント(0)
全17件 (17件中 1-17件目)
1