モラルを忘れていませんか。自戒も込めて

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2008.11.20
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カテゴリ: カテゴリ未分類
今朝の毎日新聞から、元厚生事務次官殺人事件を受け、余禄と社説に読むべき文章が


余禄から、

「人には心にわだかまる不満や憎悪が、何かの拍子で暴力を正当化する独善に変わる時が
ある。そんな独りよがりの正義やゆがんだヒロイズムにとらわれた人間が~」

この文章の「独善」と、「独りよがりの正義やゆがんだヒロイズム」という内容の
意味を感じるべきだと思われる。

「どんなに偏狭な憎悪と悪意がばらまかれようと、自由と寛容とを空気のように
呼吸する社会は市民が守る」


実現していくものでなければならない。それが市民である。

社説には、「類例を見ぬ卑劣な犯行 暴力容認の風潮一掃しよう」というタイトルで
書かれていて、この社説も必見ではないだろうか。

「自分の主義主張を暴力で訴えること自体が民主主義に反している」

民主主義のおかげで、好きなこともいえるわけだが、その言論の自由を取り違えて
しまっている人が国民にいることもネット社会は露呈してしまっていることも
社説は語っている。余禄で言われる、「市民とは」ということからしても、
取り違えている人間はなんらかの気づきと訂正を感じなければならないはずなのだが。
どこがどうすれば人間の尊い精神性を失いそうになっている人の心を元に戻せるのだろうか。

「今回もインターネット上で、犯行を支持するかのような無責任な匿名の意見が飛び交って
いる。東京・秋葉原の無差別殺傷事件の後、犯行に便乗した脅迫事件などが続発したり、


市民とは、平和や安全を守るものならば、殺人犯人が支持されるわけがないのだが、
国民の中に、言論の自由を取り違えてしまっている人がネット上で現れてしまって
いることにも、国民全体で憂慮しないと、経済と愛や精神性もつながっていることなのだから、そういうところでも、生き辛さが増加されてしまうことになってしまう。

経済問題にしても、お金のやり取りやイノベーションだけではなく、国民全体の
精神性も考慮にいれなければ、解決しない問題である。



テレビでは、防犯アナリストなどという肩書きの人が出演をさせ、防犯というところから
恐怖心を付加し、より殺伐とするようなほうへ関心を向けさせるような発言だったように
思えて残念に思った。

なんらかの本だったか、昔は、防犯という意識が、そんなに必要のないことだった。
それは、人間の性質が安心できる人と人の間でなされていたからである。というような
話と、防犯商品の増加との悲しい兼ね合いを指摘していたような論文があったと思う。

そういうところまで、深めた話にもっていけなかったのだろうか。

防犯のために、青いサイレンをまわした車を運転して呼びかけてくれる人もあるが、

家庭や共同体や人と人との間に安心感が生じていれば、防犯商品のほうに向かうことには
ならない。

そちらのほうがもはや非現実的と思われるようでは、日本という国の良さがまた減少してしまい、アメリカの銃社会のような疑問の社会を問えなくなってしまうではないのだろうか。

防犯アナリストというような技術的な感じ方を持つ人こそ、人と人の間の信頼感、安心感とは
なんだろうかという哲学、心理学的な方向も加味していないと、大きな偏りを生じると思った。

ちょっとわかりにくい話だったが、「ネオリベラリズムと精神分析」という本も
そういった懸念が書かれていたと思う。

ある事件に対し、どういう見方ができるのか、どういう発言ができるのか、
その発言が、平和や安全へのもとになれるような発言ができることが、
市民であり、もう一度繰り返すが、新聞の余禄にあった言葉の、

「自由と寛容とを空気のように呼吸する社会は市民が守る」

ということではないのだろうか。

社会の安心感と人間の精神性のために、間違った発言をそのままにしてしまう
ことが、そのままにされてしまう人もかわいそうなことだし、人生のどこかで、
間違っていた発言の大きさに愕然として、懺悔するような感性がその人たちに
遭遇できればその人たちは助かるのかも知れないが、凶暴性というものに関しては、
普通は人は、避けてしまうであろう。

だからこそ、家族や親類や共同体にいるような近い人が間違った発言や行為を誰かが
してしまう前に、違うのではないだろうかと示唆してくれる人がいる人は幸福である。

そういう感性を与えてくれる人がそばにいた人は幸福である。

核家族から、個の時代へとまで言われてしまう、孤独な構造が、
気づきを与えられない人を生み出してしまうのかも知れない。

しかし、孤独であっても、どこかで、その人は心に悲しみがあっても、
優しい気持ちや、間違いに気づく感受性を、得なければならない。

生きているということは、今まで誰かからの直接的以外にも間接的
な支えあいがあったからこそ、生きられているわけである。

そのことは理解しなければならないことである。

一人一人の力は小さいかも知れないが、自分だけ間違えた発言をしても
どういうこともないだろうでは無く、誰かが正しい発言にすべきだと気づく、改心
することによって、社会は明るくなれる。

間違えた方向に集団同調してはいけない。
そこにどこでどう気づくことが出来るか。

改心することは出来る。気づくことは出来る。













































































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Last updated  2008.11.20 08:54:11


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