全1592件 (1592件中 151-200件目)
遅ればせながら、朝ドラ「虎に翼」第1週を見ました。これってもしや「シッコウ‼」の続き??テレ朝のドラマでは、織田裕二から伊藤沙莉が「子ども六法」をもらい、本格的に法律を学びはじめるところで終わりましたが…NHKでは、石田ゆり子から戦前の「六法全書」を買ってもらって、そこから伊藤沙莉の法律家人生がスタートするっぽい。 目指すのは執行官じゃなく弁護士だけど!!ドラマのテイストも、どことなく大森美香が脚本を書いてる??と思わせるような雰囲気があって…そういえば、小林薫も「青天を衝け」の父親だったし、キャストの面子がなんとなく大森ドラマっぽいのよね。ってことで、かなりわたし好みな作風。◇なお、主人公が「梅丸少女歌劇に入りたい」と言ってたのは、たんに前作ブギウギをネタにしただけかと思いきや…ヒロインのモデルの三淵嘉子は、ほんとうに宝塚のファンだったようです。ブギウギ的にいえば、梅丸じゃなく花咲のファンだったのですね。嘉子は、男役の雪野富士子の大ファンでした。雪野は宝塚少女歌劇団雪組の男役でしたが、1934(昭和9)年に退団、若くして亡くなりました。https://news.yahoo.co.jp/articles/73500afd69bc299a8e79461519410f3d85c81a50?そして、母親の実家が四国の香川だったのも史実らしい。三淵嘉子の両親は香川出身なのですね。嘉子の父・武藤貞雄は四国・丸亀の出身で、地元の名家・武藤家に入婿して一人娘のノブと結婚した。ノブもまた当主・武藤直言の実子ではない。彼女の実父は若くして亡くなり、6人の子だくさんだった一家は生活に窮してしまう。そのため末っ子だった彼女は、伯父の直言に養女として引き取られた。https://news.yahoo.co.jp/articles/36935cc265b7af889bd8767ed68c7b80b2d411d8?ある意味で、ヒロインの母親の境遇は、笠置シヅ子にも重なる部分があるかもしれません。…かたやヒロインの父親は、香川から東京帝大へ進んだ超エリートなので、タダで銭湯に入るアホのおっちゃんではありません。【#ブギウギ 登場人物紹介💃】アホのおっちゃん:岡部たかしいつも薄汚い格好をして、よく酒に酔っているおっちゃん。大工仕事が得意。なぜか、おっちゃんだけはいつもタダで銭湯に入っている。#アホのおっちゃん pic.twitter.com/0wTKH1f3tu— 朝ドラ「ブギウギ」公式 (@asadora_bk_nhk) September 4, 2023 ◇それにしても、去年の卯年は、大河も朝ドラも「兎」だらけだったのに、なぜか今年は辰年にもかかわらず、タイトルが「虎に翼」でヒロインが「寅子」とは…これいかに??しかも苗字が「猪爪」で、初週のサブタイトルが「牛を売る」って、やたらと動物だらけだし!トラが、イノシシの爪と翼を生やしてウシを売ったら、辰年の龍になるってか??いまにも龍になりそうな虎。描いたのは北斎ではなく娘の応為だとわたしは思う。【展覧会情報】あべのハルカス美術館(大阪市阿倍野区)では、10/6~11/19、「北斎ー富士を超えてー」展を開催。北斎の晩年に特にスポットを当てる。イギリスの大英博物館では同様の展覧会が5/23~8/13に開催。詳しくはhttps://t.co/3Cd7mSZZ0P pic.twitter.com/HDLCB3tnkI— 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art (@ukiyoeota) March 29, 2017
2024.04.11
磯田道史が、読売新聞で富雄丸山古墳のことを書いてます。▶磯田道史の古今をちこち「もう1人の埋葬者 破格の謎」◇奈良の富雄丸山古墳の話は、NHK「古代史ミステリー」第2週にも出てきましたが、卑弥呼(3世紀)よりも後で、倭の五王(5世紀)よりも前、すなわち「空白の4世紀」に造られた円墳です。前方後円墳ではないので、たぶん大和政権の王墓じゃないはずですが、それでも直径109mという国内最大級の円墳です。きっと「丸山」という地名も、この円墳に由来するのでしょうね。◇この円墳には、頂と麓に、すくなくとも2つの棺がある。磯田道史は、頂の棺の埋葬者は「記紀神話に出てくるレベルの王権の功労者たる豪族」麓の棺の埋葬者は「盾持ち人のような祭祀の女性」…だと推察しています。そして注目すべきなのは、祭祀の女性を埋葬したらしき麓の棺のほうです。足元に「9本の竪櫛」があり、棺を封じる粘土に「蛇行剣」と「盾形銅鏡」が貼りつけてあった。◇一般に注目されているのは、巨大な「蛇行剣」と鼉⿓⽂の「盾形銅鏡」のほうですが、磯田道史が注目してるのは、むしろ「9本の櫛」です。日本書紀によると、イザナギは、イザナミのいる黄泉国から逃げ帰るときに、8人の黄泉醜女に櫛を投げつけたとされてます。(櫛の歯の一本一本がタケノコに変わったらしい)磯田道史の推測は、9本の櫛は「イザナミ+8人の醜女」の分ではないか、(あるいは、それにちなんでいるのではないか)…ってことですね。◇一般に、黄泉国の出入口は、島根の出雲にあったと考えられますが、その出雲には「8」という数がよく出てきます。そもそも「八雲立つ出雲」といわれるし、そこは八百万の神々が集う土地でもある。怪物の八岐大蛇ヤマタノオロチは、八人の娘を食べて、八つの頭と尾をもってる。そして秋田では、八岐大蛇が八郎太郎になったんじゃないかと思います。黄泉醜女も、やはり八人なのですね。◇一方、棺の外側に貼りつけてあった蛇行剣は、日本最古かつ最大のものであり、長さが2.37mという東アジア最大の鉄剣です。蛇行剣は西日本各地で見つかってますが、もともと、それらは、ヤマタノオロチから抜き取った「草薙剣」に由来する、…との説があります。蛇の体内から抜き取ったために、ぐにゃぐにゃに曲がっているのかもしれません。クサナギという語も、じつは「草薙」の意味ではなく、「臭蛇クサナギ」「串蛇・奇蛇クシナギ」の意味ではないか、との説があります。この場合の「ナギ」は、鰻ウナギの「ナギ」と同じ語源で、すなわち蛇のことだというわけです。◇草薙剣(≒串蛇剣)は、スサノオが八岐大蛇の尾から抜き取り、のちにヤマトタケルの東征のために授けられました。スサノオも、八岐大蛇と戦う際に、クシナダヒメの姿を「櫛」に変えて頭に挿しました。櫛になったから「クシナダヒメ」だという説もある。ヤマトタケルの妻オトタチバナも、夫の身代わりとして入水し「櫛」の姿で葬られています。いずれにせよ、女性の櫛には、男性を守護する霊力があったのでしょう。
2024.04.10
春落葉片方だけのスニーカー われ反抗期春夕焼の海岸へ 入社式一人馴染まぬコンバース 厚底や挫く心と青い春 運がつき裏を覗けば散る桜 風光るピボットの軸は逞し 花衣運転席のスニーカー スニーカー踵に昨日の桜かな4月4日のプレバト俳句。お題は「スニーカー」。◇ペナルティ・ヒデ。春落葉 片方だけのスニーカー取り合わせが美しい。何らかの欠落をテーマにしてると思われますが、「なぜ片方しかないのか」という詩的な想像が膨らみます。とはいえ、「子供の靴が片方落ちてた」という作者の説明を聞くと、意外につまらないけどね。◇村山輝星。われ反抗期 春夕焼の海岸へわれ反抗期 春夕焼の砂を行く(添削後)われ反抗期 春夕焼の波見つむ(添削後)前回もマセた俳句だったけど、今回もマセた俳句。いきなり7・7・5の破調にしてくるのも、冒頭から客観写生のルールを破ってくるのも、なかなかにふてぶてしい!上五で「われ反抗期」と説明(宣言?)からはじまる型破りは、とりあえず句の個性として是認しますが、下五の「海岸へ」も、描写というよりは説明っぽいので、そこは添削のように映像化するのが正解でしょうね。◇梅沢富美男。花衣 運転席のスニーカー字面からは、女性を三人称的に描写した句に見えるので、まさかジジイの一人称の句とは驚きです。梅沢がスニーカーで車の運転をしてるのも意外。字面だけを見れば、> 自分で車を運転する女性で、> 最近は着物にスニーカーを合わせる人も多いけど、> この人はちゃんと下駄や草履に履き替えるのねと解釈するはず。まあ、俳句の形としては出来てるし、梅沢にしてはムダのない構成のシンプルな佳作です。◇金子恵美。入社式 一人馴染まぬコンバース入社式 一人は白きコンバース(添削後)中七の「馴染まぬ」が説明くさいので、添削句ではそれを映像化してますが、わたしは上五の「入社式」も、やはり映像ではなく状況説明に見えます。もし「入社式」を映像化するなら、たとえば8+10の句またがりですが、入社式の列 吾あのコンバース白しのように出来ます。◇キスマイ横尾。風光る ピボットの軸は逞し掲載決定だそうですが、わたしならボツです。スラムダンクヲタクの内輪ウケの評価としか思えない。これを解説なしに句集に掲載したら、はじめて読む人には意味不明だと思います。先生は、森迫永依の「旗源平」を前書きにすべきと言ったけど、「旗源平」なら調べれば分かることだし、これといって誤読の余地などもありません。しかし、以前の「1on1」や今回の「ピボット」は、一般に共有されてない単語であるばかりか、調べてみても、その意味が多岐にわたるので、それこそ前書きに「スラムダンク最高!」とでも書かなければ、バスケの句だとは特定できません。また、季語の選択も意外に平凡なのだけど、動詞の季語のあとに名詞が来るので、終止形なのか連体形なのかを読み迷うし、(古語のラ行四段活用は終止形と連体形が同じ)助詞の「は」を使う必然性も乏しい。さらに、この場合の「ピボット」は動作(ステップ)のことなので、「ピボット」と「軸」が重複するとは思いませんが、むしろ体の軸を形容する言葉として、「強し」ではなく「逞し」を選んだことに違和感を覚えます。日本語として「軸が逞しい」という言い方は変です。ためしに、陽春のゴール ピボットの軸強しとしてみました。ちなみに「ゴール」以外にも、「シュート」「コート」「ドリブル」などの語を使えば、前書きがなくともバスケの句だと伝わるはずです。◇石山アンジュ。厚底や 挫く心と青い春我が青き春 厚底に挫く足(添削後)上五の「厚底や」からして、もうギャグとしか思えません(笑)。すなわち「厚底だなあ!」ってことよね。季語をさしおいてギャルの靴を詠嘆しちゃった。ちなみに、厚底ブーツかと思いきや、厚底スニーカーで足を挫いたとのこと。ギャルにとっては切実な問題だったのだろうけど、はたから見るとコメディにしか見えないので、失礼ながら笑いを抑えられません。なお、青春の意味で「青い春」と書いたら、それは季語ではありません。通常なら、これが最下位だろうと思います。◇川﨑麻世。運がつき裏を覗けば散る桜靴底に糞ふんか 桜の散りしきる(添削後)下には下がいましたwふつうなら「運が尽き」と読むはずなので、おおかた賭けマージャンにでも負けて、不良学生が体育館の裏に行ったとか、不良オヤジが裏社会を覗いたとか、…そういう話なのかと思いましたが、靴の裏にウンコと桜の花びらが付いてたって…そこに何の詩情があるんでしょうか??…よく30点ももらえましたね。ウンコを踏んだ自虐川柳とも思えるけれど、わざわざ「運」の字を使ってるところを見ると、ウンコだけでなく桜のオマケもついてて一層ラッキー!…みたいなポジティブシンキングなのかもしれません。◇清水アナ。スニーカー 踵に昨日の桜かな中八を回避するだけなら、「踵」ではなく「底」や「裏」にすれば、とりあえず中七にはなるのだけど、それよりも上五で切れるのがよくないですね。とくに「かな」で締める場合は途中で切らないほうがいい。ためしに、(切れ字の「かな」は使いませんが)靴底に昨日の桜まだ紅しとしてみました。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥どうにかしたい気持ちはあった!🥲#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/MfF1XgKTyC— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) April 3, 2024 ▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.04.08
NHK大河「光る君へ」。毎週欠かさず見てます!だいたい4分の1が終わった感じ?◇正直、大石静には何の期待もしてなかったのだけど、想像を超える面白さにびっくりしてます。簡単にいったら、オジサンたちが権謀術数に明け暮れるかたわらで、女子たちが「ウフフ、オホホ」とお喋りしたり恋したり、…ってだけの話なんだけどwなんでこんなに面白いんでしょうね。◇柄本佑と吉高由里子は、けっして現代的な「美男美女」ではないけれど、2人とも目が切れ長で和風顔だから、あれこそ平安時代の「美男美女」だと信じたくなるし、いまさらながら絶妙な配役だと感心します。そして音楽の冬野ユミは、黒島結菜の「アシガール」のときにも、甘くてファンタジックな曲をつけてましたが、今回もまた、かなり自由自在に、平安ファンタジーっぽい甘美なテーマ音楽と、ジャズもまじえた現代的な劇伴をつけてるのが良い。◇若手のキャストたちが、毛筆草書を吹き替えなしでやってるのも凄いけど…馬を乗りこなして「打毬」をやってたのも凄かった。あの「打毬」という競技は、ハリポタの「クィディッチ」に似てましたが、紀元前6世紀ごろのペルシャの発祥で、日本の「打毬」のほうが英国の「ポロ」より古いのだと。たぶんハリポタの「クィディッチ」は、英国の「ポロ」をもとにしてるのだと思います。◇さて、前回の大河も「ファンタジーだ!」と叩かれましたが、今回はそれをも凌ぐ超絶ファンタジーwいちおう考証担当者は7人くらいいるらしいけど、資料が少なくて分からないことが多いのか、事実関係を考証してるのは倉本一宏ひとりだけ。紫式部と藤原道長 (講談社現代新書) [ 倉本 一宏 ] 楽天で購入 そのほかの担当者は、建築とか、芸能とか、和歌とか、料理とか、おもに社会風俗の考証をおこなってるようです。まあ、平安時代の社会風俗をドラマで再現するだけでも、歴史研究をうながす意義は十分にあると思う。そのほか、「下っ端の藤原氏より後ろ盾のある源氏のほうが身分が上」みたいな当時の事情を知れるのも面白い。◇ちなみに、ただひとり事実関係の考証を担う倉本一宏でさえ、「紫式部と道長が幼馴染みなんてことはありえない!!」と断言してますwここ最近は毎年3人くらいで分担している時代考証ですが、今年はどうも私1人しかいないらしい。紫式部と道長が幼なじみだという設定から出発しているのですが、実はそもそもこの設定自体が史実に反します。NHKが制作発表の段階で発表してしまったため変えられないので妥協することにしましたが、実際には、2人が幼なじみだったということも恋仲だったということもあり得ません。https://www.todaishimbun.org/drkuramoto_20231228/その前提からしてファンタジーだとしたら、「道長の兄が紫式部の母を道ばたで刺し殺した」なんて事実もありえないわけで…逆にいったら、ほんとうの史実はどこにあるの??って話。◇わたしが思うに、ここまでの4分の1の内容は、おもに《藤原兼家の権力闘争》の史実を中心に、フィクションをまじえて作ったのだと思います。とくに、花山天皇の退位(寛和の変)とか、そのあとの高御座「生首」事件とかは、それなりの資料にもとづいていたはずです。もちろん、当時の資料それ自体が捏造だったら、それすら史実じゃない可能性もありますがw◇前回の大河が「ファンタジーだ!」と叩かれたわりに、今回の大河にその類の批判が少ないのは、もともと大部分の視聴者が、過去の少女漫画や少女文学をとおして、いわゆる「王朝ファンタジー」に慣れてたからでしょう。大和和紀『あさきゆめみし』1979山岸凉子『日出処の天子』1980氷室冴子『ざ・ちぇんじ!』1983氷室冴子『なんて素敵にジャパネスク』1984逆にいうと、そういう「王朝ファンタジー」に慣れてない人たちは、そもそも今回のドラマを観てないよね。なので、視聴率は低いけど、そのぶんバッシングも相対的に少ないってこと。それをもって作品の優劣を論じても意味がありません。◇結局のところ、視聴者の多くは、慣れ親しんだイメージに近ければ納得するし、そうでなければ「史実と違う!」といって騒ぎ出す。たとえば司馬遼太郎を愛読してきた人たちは、それが「史実だ」と思い込んでるし、かたや大和和紀の漫画などを読んできた人は、そこに「歴史の実態がある」と思い込んでいる。そういう素人の視聴者が、ネットなどで繰り広げてる「史実論争」ってのは、ほとんどの場合、クソほどの価値もないバカ論争ではあるのだけど、かりにファンタジーであったとしても、凝り固まった歴史のイメージが変わっていくことは、それなりに意味のあることだと思います。すくなくとも、これまでのような、男性小説的な《戦国武将劇》への偏重から脱して、少女漫画的な《平安貴族劇》が増えることも、中世史への関心を高めるためには必要なことだし、今後は《江戸町人劇》なんかも増えたらいいと思う。◇なお、今作が「平安ファンタジー」であることは、安倍晴明の祈祷から始まったことに象徴されてますが、じつは、このドラマの中で、藤原兼家と道長の2人にかぎっては、陰陽術をぜんぜん信じてないという設定になってます。とくに藤原兼家は、安倍晴明のインチキを見破ったうえで利用してますね。実際、高御座「生首」事件が史実だったとすれば、兼家は《穢れ》に対する迷信をあざ笑いながら、血で汚れた高御座のうえに、平然と自分の孫を座らせたことになります。◇たしかに現代人から見ると、安倍晴明の陰陽術はインチキに見えるけれど、近代医学がまだ存在しなかった時代、つまり細菌やウィルスの知識がなかった時代に、不可解な伝染病で人がバタバタ死んだりすれば、たとえ荒唐無稽な迷信だとしても、《穢れ》や《清め》や《禁忌》などの概念には、たんに宗教的な意味合いだけでなく、おそらく衛生上の合理性があったはずなのよね。現代人でさえ、目に見えないコロナウィルスにおののき、デマを信じたり、差別的になったりするのだから、中世の人々が迷信に頼るのも至極当然の話。そう考えると、迷信を無視することはきわめて困難だったと思う。◇そんな怖れを知らぬ藤原兼家も、そろそろ死期が迫ってるっぽいので…今後の焦点は、やはり主人公の結婚?!(お相手はネタバレになるので触れません)そして、序盤にくらべれば、だいぶ史実に則した内容になるはずですが、倫子さん or 彰子さん付きの女房になるのでしょうね。(誰の女房だったかについて諸説あるようです)たとえ「紫式部と道長が幼馴染み」ってのがファンタジーとしても、その2人が藤原氏だったのは間違いないし、年齢が近かったのも事実だし、(道長が4才上との説や12才上との説あり)倫子さんと親しい間柄ってのも、それなりに根拠はあるようです。平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像 (NHK出版新書 707 707) [ 倉本 一宏 ] 楽天で購入
2024.04.07
NHK「プロジェクトX」が再開。多少は現代に見合ったコンセプトへ刷新されたかと思いきや、あいかわらず巨大プロジェクト礼賛番組でした。これじゃあ夕方にやってる「水戸黄門」の再放送と変わらない。つまりは思考停止した高齢者向けの自己愛番組。そして、このような「巨大プロジェクト礼賛」が、能登半島の復興をもないがしろにする、大阪の「賭博カジノ万博」へ直結するのかと思うと、むしろ寒気がします。おりしも、台湾の地震対応の素早さを見せつけられて、日本の行政による災害対応が、台湾の宗教団体にさえ劣ることが分かった今、アホみたいな「巨大プロジェクト礼賛」番組を、NHKの公共放送がゴールデンタイムに垂れ流したところで、もはや日本が後進的な貧困国なのは隠しようもない。その事実を素直に認めて、国家ぐるみの構造改革を促す番組を作ったほうが、よっぽど生産的ではないでしょうか??災害が起こるたびに、「自衛隊はよく頑張った!」「被災者はよく我慢した!」みたいな自画自賛をいつまで繰り返すつもりなのか。◇土建屋の巨大事業に予算を回すことしか考えていない、旧態依然たる政治家には早めに集団自決してもらって、まともな予算の使い方ができる国へ変貌しなければなりません。「雑魚寝ジャパンとの差が」台湾地震、発生から4時間でプライバシー配慮の避難所完成…玉川徹氏も日本の対応を疑問視#SmartFLASH #SNS #テレビ朝日 #台湾 #玉川徹 #能登半島地震https://t.co/w62H1m4jOk— SmartFLASH (@info_smafla) April 5, 2024台湾の大地震で犠牲者がこれほど少なかったのはなぜか? 内外の専門家らが解説(クーリエ・ジャポン)https://t.co/0i9GBTQKUZ— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) April 6, 2024
2024.04.06
朝ドラ「ブギウギ」を見終わりました。世評は悪くないようだけど、個人的にはちょっと物足りなさが残りました。それは脚本のせいでもあるし、キャストのせいでもあるし、笠置シヅ子の生涯をドラマ化することの難しさのせいともいえる。◇笠置シヅ子は、日本のポップス史における最重要歌手なので、NHKが大々的に取り上げるにふさわしい人物にはちがいないけど、だからといって「朝ドラ」にふさわしいキャラクターかどうかは微妙だったのかも。不世出の歌手にもかかわらず、あっさり引退して美空ひばりにその座を明け渡してしまったので、全盛期はほんの数年間にすぎないし、それが敗戦直後の混乱期という異常な時代だったのも、ちょっと朝ドラ的には扱いにくい理由だと思う。さらには、出自が複雑だったり、未婚の母だったり、薬物中毒の疑い(←これはあくまで疑惑の域を出ないようです。しかも当時はまだ覚せい剤が違法じゃなかった)があったり、娼婦たちとの不思議な連帯があったり、自分の持ち歌を他人に歌わせなかったり、横領事件や誘拐事件に見舞われたり、いろいろとネガティブな面もあるので、それらを朝ドラ的なオブラートに包みながら脚本化するのは難しい作業だったでしょう。◇もっとも、最近の朝ドラは、たとえば「エール」の古関裕而や「スカーレット」の神山清子や「らんまん」の牧野富太郎みたいに、けっこうネガティブな面をもった人物でも果敢に取り上げてるし、あげくは「カムカム」の安子みたいに、わざわざネガティブな要素の強い架空の人物を作りあげたりもしてるから、その勢いで笠置シヅ子を取り上げるのも不可能ではなかったはずだけど、それでも今回のミッションが成功だったかどうかは微妙です。すくなくとも個人的には、これが笠置シヅ子の伝記ドラマの決定版というには物足りないし、ちょっと大胆さに欠けたと思う。主演の趣里は、東京出身にもかかわらず「コテコテの小柄な大阪人」というキャラをうまく演じてましたが、その歌唱パフォーマンスは迫力に欠けました。もちろん、趣里も、菊地凛子も、あくまで女優であって本業の歌手じゃないのだから、歌唱シーンが「なんちゃってパフォーマンス」になるのは仕方ないけど(その点でいえば李香蘭を演じた昆夏美の歌唱シーンは素晴らしかった!)、重要なのは歌唱力の問題ではなく表現のスタイルの問題なのです。おそらく演出上の方針として、笠置シヅ子の下品なまでの禍々しいパワーを再現しようという意志が最初からなかったんだと思う。趣里のパフォーマンスは、どちらかというとキャンディーズのランちゃんを彷彿とさせるような上品で可愛らしいパフォーマンスだったし、笠置シヅ子がスターだった時代の異常な雰囲気を体感させるような迫真性にはほど遠かった。…しつこいようですが、やはりわたしは「田村芽実が主演だったら…」ってことを考えてしまうのだけど。田村芽実がヒロインだったらこうだった!グルーヴ感が桁違い!歌唱シーン以外の部分でも、笠置シヅ子がスターだった時代の描写には物足りなさを感じました。曲がヒットして以降も、もっぱら家庭人としての面ばかりが強調され、およそスターらしさが見えなかったからです。端的にいって地味だった。たしかに、まだテレビもなかった時代だし、笠置シヅ子自身も庶民的なキャラの人だったから、のちの美空ひばりみたいな大スターっぷりとは違ったかもしれないけれど、すくなくとも映画や雑誌では顔が知られていたのだから、もっと一般のファンに熱狂される様子が描かれてもよかったと思う。戦後に「東京ブギウギ」で頂点に立った全盛期のスターっぷりが物足りなかったために、結局のところ、この主人公がいちばん輝いたのは、少女だった頃の《大阪の銭湯時代》だったんじゃないかしら?と思えてしまうし、そこから先の人生はすこしづつ尻すぼみだったように見えてしまうのです。◇最後の引退劇もいまいち納得感に欠けた。主人公が語った「羽鳥善一の歌にとって最高の人形ではなくなった」というセリフは、肥満を理由に引退した史実にもとづいてるのだろうけど、せっかくドラマ全体のエンディングにするのなら、もっとそれに見合うだけの物語を仕立てて欲しかったです。水城アユミを「大和礼子の娘」した設定は、とても素晴らしいアイディアなのよね。それでこそ平凡な引退劇を、ドラマのエンディングにふさわしい物語へと転換できるはずだった。つまり《大和礼子の娘にエンタメの未来を託す》という美談に仕立てれば、この物語は大団円のうちに終わったはずなのです。ちなみに水城アユミのモデルになったのは、美空ひばりよりもむしろ江利チエミだったらしい。江利チエミの母(谷崎歳子)は東京少女歌劇団を経て吉本興業で活躍したスター女優であり、父(久保益雄)はその吉本興業の専属ピアノ奏者で、両者ともに笠置シヅ子とは旧知の仲だった。なので、水城アユミを「大和礼子の娘」にした設定は、あながちフィクションではないのですね。しかしながら、美空ひばりと江利チエミを掛け合わせて「大和礼子の娘」に仕立てた設定は十分に活かされなかった。そもそも水城アユミとの出会いのシーンからして微妙な感じでした。せっかく大和礼子の娘に(赤ん坊のとき以来)再会したのだから、そこは母娘のように感動的なハグをすべきだったでしょ!たとえ「持ち歌」にかんする確執があったにせよ、それを乗り越えて水城アユミに未来を託す美談にすれば、きっと感動的なエンディングになっただろうと思う。物語的に考えたら、歌手の引退という突然の決断は、たんに羽鳥善一への恩義に報いて済む話ではないのです。東京へ送り出してくれた父と母の恩義にも報いねばならないし、幼馴染のタイ子ちゃんへの恩義にも報いねばならないし、大和礼子や歌劇団の盟友たちの恩義にも報いねばならない。さらには、自分に希望を託してくれた亡き弟や愛助の思いにも報いねばならない。それらをすべてひっくるめて納得感のある引退劇にするためには、やはり大和礼子の娘へとバトンを渡し、彼女にエンタメの未来を託す美談に仕立てるべきでした。へたに「さよならコンサート」みたいなフィクションをでっち上げるよりも、史実どおりに紅白を最後のステージにして、そこで水城あゆみにエンタメの未来を託すエンディングにしたほうがよかったと思う。ついでにいえば「義理と人情」をドラマの結論にしたメッセージも(スマイルカンパニーとジャニーズ事務所じゃあるまいし!)まったくの時代錯誤としか思えないので、むしろ終戦後の混乱期から復興期への転換を後押しするような、希望に満ちたメッセージで終わらせて欲しかったです。実際のところ、笠置シヅ子と美空ひばり(あるいは江利チエミや雪村いづみ)との違いは、その時代背景の違いでもあったのです。つまり、戦中・戦後の混乱期に禍々しいエネルギーを放った笠置シヅ子と、「もはや戦後ではない」といわれた復興期に明朗な希望を託された美空ひばりとでは、そもそも時代から求められたものが違っていた。笠置シヅ子の引退劇は、そのような時代の変わり目を象徴するものにしてほしかった。◇さらに苦言をいえば、2人体制による脚本も文句なしに成功したとは言いがたい。前々から言ってることだけど、シナリオ全体を共同で練りあげるならともかく、ただパートごとに分担するという手法はあまり感心できません。今回の「ブギウギ」の場合、脚本家の交代でテイストが損なわれるほどの問題は生じなかったけど、さすがに技量の差までは隠しきれませんでした。とくに戦時中のパートは脚本家の力量不足が顕著だった。笠置シヅ子は、戦時中の苦難よりも、戦後の「出産」「恋人との死別」というスキャンダルのほうが大きな苦難だったから、そちらをメインの脚本家が担当し、代わりにサブの脚本家が戦時中パートを担当する形になったのだろうけど、残念ながら、えなりかずきをはじめとするバンドメンバーのキャラ立ちは弱すぎたし、地方巡業のエピソードも心を動かすだけの要素には乏しかった。淡谷のり子と特攻隊のエピソードや、服部良一の上海でのエピソードについても、ただ史実の上っ面をなぞっただけで、十分にエモーショナルな物語とはなっていなかった。史実にもとづきながら、それをエモーショナルな物語に仕立てるのは難しいことだと思うけど、それこそが脚本家の腕の見せどころなのだし、もうちょっと脚色の技量を発揮してほしかったです。◇そして、笠置シヅ子の伝記ドラマを作るうえで、いちばん難しいのは生まれ故郷の四国・香川の問題だったかもしれません。おそらく香川には「実母の実家」「実父の実家」「養母の実家」「養父の実家」「実母の嫁ぎ先」の5つの家があるはずですが、それらの家との関係についてNHKがどれほど把握できていたのか分からないし、そのファミリーヒストリーをむやみにほじくり返すことの難しさもあったかもしれない。ドラマに登場したのは、法事のおこなわれた「実父の実家」と、葬儀のおこなわれた「養父の実家」と、異父兄弟のいる「実母の嫁ぎ先」だったのですが、それにかんしてさえ史実どおりではなく、おそらく何らかのフィクションに仕立てる必要性があったのではないかしら?実際、娘の愛子が実母と対面するシーンなどはフィクションだった可能性が高い。愛子のモデルになった娘の亀井ヱイ子さんは、放送前のイベントに柳葉敏郎と一緒に出てきたりしてたようだけど、あまり詳しい情報が出てこないせいもあり、いろんな出版物や情報番組などをとおして史実ネタに尽きなかった前作の「らんまん」に比べると、ちょっと煮え切らないようなモヤモヤした感じも残りました。とはいえ、フィクションを交えてでも、娘を捨てた笠置シヅ子の実母を描く意味はあったと思います。上白石萌音の「カムカム」を見たときは《娘を捨てる母親の物語》がかなり踏み込んだものに思えたけれど、むしろ今回の「ブギウギ」を見て思ったのは、昔も今も親子が離れ離れになるのは珍しいことじゃなく、それほど異端視すべきものでもないのだってことですね。今回のドラマでは、いちおう実母との再会が感動的に描かれてましたが、実際には疎遠なままの場合もあるだろうし、わだかまりが消えない場合もあるだろうと思います。笠置シヅ子 その言葉と人生 [ 亀井 ヱイ子 ] 楽天で購入 余談ですが…NHKは「名曲アルバム」や「クラシックTV」や「歴史探偵」などの番組でも、笠置シヅ子関連の内容を放送してました。それらを見てあらためて知ったのは《美空ひばりが横浜から誕生した必然性》もさることながら、《服部良一と笠置シヅ子が大阪から誕生した必然性》も確実にあるってこと。要するに、街が才能を育んだのですね。以下は、上記の番組からのメモです。・道頓堀には江戸時代から芝居小屋が並んでおり、そこで文楽も始まった。・笠置シヅ子は3才から日本舞踊や三味線を習い、芸事が身近にあった。・大阪松竹座が大正12年に現在と同じ場所に建てられた。・関東大震災によって人口移動が起こり、大阪が日本最大の都市になった(大大阪時代)。・道頓堀にダンスホールや劇場が林立し、道頓堀ジャズが隆盛した。・関東大震災から10年ほど経って大阪発の娯楽文化が東京へと逆流した。・松竹が東京に設立した楽劇団の副指揮者に服部良一が就任した。・服部良一が笠置シヅ子に求めたのはジャズのような地声唱法だった。・朝鮮特需に乗じた「買い物ブギ」は「東京ブギウギ」をも超える売上になった。ちなみに、わたしは「ラッパと娘」も三連符のリズムからなるブギウギだと思ってましたが、NHKの解説によれば、同じ三連符のシャッフルビートでも「4拍ならスイング」「8拍ならブギウギ」と分類するようです。そこからすると戦前の「ラッパと娘」はブギウギじゃなくてスイングなのですね。いずれにしてもシャッフルビートは日本の音頭と同じだから、服部良一と笠置シヅ子が作った「ご当地ブギ」の数々は、ある意味では「ご当地音頭」みたいなものだったと思います。やがて、このシャッフルする8ビートのブギウギは、均等な8ビートのロックンロールへと発展するわけですね。◇…ところで、このたびWikipediaを読んで知ったことですが、一般に使用されている「笠置シヅ子」という名前の表記は、歌手を引退したあとの女優時代のものであって、歌手時代の正式な表記は「笠置シズ子」なのだそうです。知らなかった!!わたしも慣例にならって「シヅ子」と書いてますが、歌手時代の彼女のことを書くならば、厳密には「シズ子」と表記するのが正しいのだろうと思います。
2024.04.05
だいぶ時間が経っちゃいましたが、テレ朝「アイのない恋人たち」が終了。◇近年の遊川和彦の作風とは違ってて興味をひかれました。遊川のドラマは、日テレの「女王の教室」や「家政婦のミタ」で成功して以降、だいぶワンパターンだったから飽きてたのよね。でも、今回はオーソドックスな作りが逆に新鮮だった。現代の若者の恋愛や親子関係のサンプルを、ありったけにぶち込んだような内容でしたが、さしずめ「男女7人」の現代版って感じ?ドラマだけに、いろんなエピソードが極端に詰め込まれてたけど、ひとつひとつの話は現代の若者のリアルなんだろうな、…と思いながら見てました。もはや恋愛することは労力でしかないのね。ほんの些細なことが相入れなくても上手くいかないし、上手くいったとしても、短い期間で終わってしまう。◇若手の演技派7人の組み合わせも面白かったです。福士蒼汰×前田公輝×本郷奏多岡崎紗絵×深川麻衣×成海璃子×佐々木希とくに福士くんは、わたしが見たなかではいちばん良かったと思うし、彼のキャラにも合ってました。ちなみに、なぜ脚本家の設定にしたのでしょうね。遊川が自分自身を投影するにはあまりに若すぎて青臭いし、だれか後輩の脚本家にモデルでもいたのかしら?◇しかし!!結末がいかにもテキトーなのは相変わらずのパターン(笑)。遊川のドラマは、収拾がつかないほど色んな問題をぶち込んでしまうので、最後はいつもテキトーな終わらせ方になる。さすがにバッドエンドじゃ希望がなさすぎるし、なんとかハッピーエンドにしたかったのは分かるけど、そうはいっても、あからさまに手の平を返すようなハッピーエンドは、強引すぎて失笑するしかありませんでした。
2024.04.04
苗代の桜や鬼の住まいする 刑務所を囲む桜の仄白き 幽谷のロッジの夜明け白き飛花 花月夜冒険譚に挿す栞 束の間を正気の母と花の道 さくらさくらむすめのたましいのいろ 濠の端の羽音走りて初桜 花曇昼夜の区別なき赤子 花月夜学童終わりのチャンバラ戦 我が運命夜櫻に問う生も死も 祖父逝きて今朝の櫻の寒き色 出郷の車窓を叩く飛花落花 青光りせり750ccに花吹雪 風吹かば花の色なる城下町 校庭に響くピアニカ春の雲 祖父逝きて今朝の櫻の寒き色3月28日のプレバト俳句。春光戦のお題は「桜」です。決勝進出したのは梅沢、千賀、ジュニアの3人。優勝は千賀でした。◇森迫永依。花月夜 学童終わりのチャンバラ戦チャンバラの続く公園 花月夜(添削後)チャンバラの続く団地や 花月夜(添削後)十分に佳作です。9位の評価は低すぎる。添削する必要もない。前回の「旗源平」の句も、平家物語のような風情があったけど、今回も歌舞伎に見立てたような面白さがある。なお、先生は、「花月夜」から「学童終わり」への展開を、夜から夕方へ時間が逆行してる…と言いましたが、それは間違った解釈というべきです。中七の「学童」とは、一般的に「学童保育」のことであって、共働き・ひとり親家庭などの子だという示唆です。そうでなければ、わざわざこの単語は使いません。ふつうに「学校帰り」と書けばよいのだから。放課後の学童保育が終わるのは18時以降だし、家に帰っても留守番せざるをえない境遇だからこそ、学童たちは月夜になってもまだ遊んでるのです。作者がそれを説明しないせいもあるけれど、先生をふくめ、誰一人その意図を汲み取れていない。前回の「旗源平」の句もそうでしたが、今回もまた不当な評価に貶められてしまった感じ。ここまでくると、視聴者はMBSへ苦言を呈してもいいのでは??追記:原句の「戦」の要不要について。ここでのチャンバラは、見世物や演目でもないし、無邪気なごっこ遊びというだけのものでもなく、男の子のストレス発散の憂さ晴らし、ちょっと乱暴なゲームとも読めますし、貧困や寂しさにも負けない明るい逞しさとも読める。そうした意味で、この「戦」の字の多義性というのがある。下6の字余りではあるものの、撥音「n」が二箇所入ってリズム上の字余り感は少ない。◇森口瑤子。束の間を正気の母と花の道中七の「正気」でドキッとさせる。下五の「花の道」は、もちろん桜咲く並木道のことですが、比喩的な意味の「花道」とも読めます。◇的場浩司(予選句)。我が運命さだめ 夜櫻に問う生も死も満開の夜櫻に問う生も死も(添削後)満開の夜櫻に我が生を問う(添削後)内容が観念的で、ベートーベン並みに暑苦しいですね。しかも、その発想はわりに凡庸というべき。◇的場浩司(Tver限定)。祖父逝きて今朝の櫻の寒き色こっちを提出してれば決勝進出だった!!…と先生絶賛の句。時間と視覚と肌感覚と心情が、無駄なく描写されていて、たしかに非の打ちどころがありませんね。因果関係のような叙述によって、実景に心情をのせていく形式も的確です。◇千原ジュニア(予選句)。刑務所を囲む桜の仄白き終止形で「仄白し」と書くほうが、客観写生の原則に適ってますが、これを連体形で終わらせた形は、「仄白きこと」という感嘆・詠嘆の省略にも見えるし、たとえば「仄白き悲しさ」「仄白き優しさ」など、作者の印象を言い含めるような効果も与えます。通常なら避けるべき手法ですが、この句にかんしては許容したくなります。◇千原ジュニア(決勝句)。青光りせり 750ccななはんに花吹雪バイクに花吹雪、という句材は凡庸です。かりに評価すべき点があるとすれば、それを「青光り」と描写したことの独自性だけ。なお、連体形で「青光りせる750cc」と書けば、光ってるのはバイクだけですが、いったん終止形で切って倒置法にしたことで、場面全体が光ってるようにも見えるのですね。しかし、表現に多少の工夫を加えたところで、やはり句材そのものが凡庸なのは否めない。◇キスマイ千賀(予選句)。幽谷のロッジの夜明け 白き飛花幽谷のロッジ 夜明けの飛花白し(添削後)そもそも「夜明けの幽谷」に霧のイメージがあるので、下五の「白」の情報は重複にも思えるけど、添削のようなカット割りと語順にすれば、その「白さ」をさらに強調する効果が生まれますね。◇キスマイ千賀(決勝句)。出郷の車窓を叩く飛花落花車窓に桜吹雪という句材は凡庸なのだけど、上五の「出郷」は経済効率の良い言葉だし、中七の「叩く」の表現にも意外性がありました。季語の「飛花落花」も、漢字四字で動画的なイメージを与える熟語だけど、そのわりに音数も少なくて効率的です。車のスピードのせいもあるとはいえ、バタバタするほどの桜吹雪だったのでしょうね。◇梅沢富美男(予選句)。苗代なわしろの桜や 鬼の住まいする下五の「住まいする」は、韻文的な言い回しなのかもしれませんが、悪くいえば、ムダに字数を埋めただけ。かりに、中八・下五で「苗代桜に鬼の棲む」と書けば、(もしくは上五・中七で「鬼の棲む苗代桜」と書けば)残りの5音分でもう一要素を加えられます。これまでも梅沢は、「日焼けを剥く子」「剪定の音」など、わずか7音で書ける内容に17音も費やして、剪定や鋏の音の霏々として一心に日焼けの鱗はぐ子かなみたいにスカスカな句を作ってるけど、今回も12音あれば書ける内容なのです。そもそも、下呂市の「苗代桜」は、苗代に咲いてるからそう呼ばれるのではなく、「苗代へ植える頃に咲く」ということが由来なので、それを「苗代の桜」と書いたら意味が違ってきます。固有名詞の「苗代桜」ではなく、一般名詞の「苗代」に咲く桜としか読めなくなる。まあ、それならそれで、ひとつの幻想句としては成立しますが、それを予選1位と高く評価するのはどうなんでしょうね。◇梅沢富美男(決勝句)。風吹かば花の色なる城下町夕風や 花の色なる城下町(添削後)句材そのものが凡庸なのですが、たんなる取り合わせにするよりも、「風が吹いたので花の色になった」と因果っぽい書き方にするほうが幻想的なので、添削句よりは原句のほうがいいかなと思う。◇キスマイ横尾。花月夜 冒険譚に挿す栞下五の「挿す栞」だけを見ると、挿さない栞があるんなら持ってこい!…ってことになりますが、たんに「冒険譚に栞」と書いただけでは、A そこに読みかけの本があるB いま本を閉じたC これから本を開くなどの解釈が生まれてしまうので、Bであると明示するためには動詞を省けない。そのうえで、先生は、「栞挿す」か「挿す栞」かの選択について、先に「栞」を出したらネタバレになるので、原句のように「挿す栞」と書くのが正解としました。しかし、それは「季語よりも栞が主役」と言ってるのに近いし、いつもの先生の説明とも違ってます。いつもなら、「動詞に軸足を置くか、名詞に軸足を置くか」という観点で判断するのだから。あらためて比べてみます。A: 花月夜 冒険譚に挿す栞B: 花月夜 冒険譚に栞挿すBのほうは動作に軸足があるので、「読書を終えて花月夜へと視線を移す」って感じになるし、そのぶん季語が立ちます。Aのほうは「栞」に軸足が置かれるので、そのぶん季語が脇役に回ってしまいかねない。とはいえ、全体としては「読みかけの冒険譚」の映像が残るので、先生が「ファンタジーっぽい」と言ったように、季語の「花月夜」と「冒険譚」のイメージが、たがいに幻想的に響き合って重なる感じもあるのだけど、その効果はAでもBでも変わりありません。なので、「栞を主役にしすぎずに季語を立てる」のなら、動詞に軸足を置いたBのほうが正解だろうと思います。◇犬山紙子。さくらさくら むすめのたましいのいろさくらさくら 子のたましいのさくら色(添削後)原句は6+4+7=17の破調。すべて平仮名で書いてますが、子供の視点で書いてるわけじゃなく、むしろ親の視点で書かれてるのよね。前段の「さくらさくら」が娘の歌声なら、そこにかんしては平仮名で書く必然性があるけど、後段まで平仮名で書く必然性があるかは疑問。しかしながら、実際に、さくらさくら 娘の魂の色と漢字で書いてみると…なんだか「自分の娘」じゃなく「若い女」の句に見えるし、鬼滅の禰豆子みたいな世界観に見えるかもwかたや添削句のほうは、字余りで6+7+5と調子を整え、子供の「魂」とその「色」を平仮名で表記してます。その意図は理解できるけれど、なんとなく「亡き子の追悼句」のように読めるし、やはり原句とは意味合いが違ってるように感じる。ためしに6+8+5にして、さくらさくら むすめのたましいさくらいろ…としてみたのですが、これまた「うら若き娘」の色香に見えてしまうかもwってことで、いまいち解決策は見つからず、結局、原句が最適解かもしれません。◇フルポン村上。花曇 昼夜ちゅうやの区別なき赤子こども花ぐもり 夜を泣き昼を泣く赤子あかご(添削後)原句の「昼夜の区別なし」は説明的だし、赤子が「泣いてる」のか「遊んでる」のか、それも字面からは判然としないので、その意味では添削句のほうが優れてます。ただし、添削句は、説明が描写へと訂正されたぶん、描いた時間が「夜から昼まで」になり、季語の「花曇」の時制までぼやけてしまう。原句の場合は、「昼夜の区別なし」ってのが描写ではなく、赤子についての抽象的な説明だからこそ、時制はあくまで「花曇」の日中なのですね。…ってことで、これもちょっと直しにくい内容ですが、漢語の「区別」を使わずに説明を短くし、赤子が「泣く」という情報を加えるなら、花曇 昼夜ひるよるなしに泣く赤子と出来ます。◇中田喜子。濠の端の羽音走りて初桜濠の端を羽音走れり 初桜(添削後)NHK俳句の村上鞆彦の言葉を借りると、4つの「ha」の押韻はクドいとも言えるし、とくに「端」と「初桜」の語には、押韻ありきみたいな作為性を感じる。とはいえ、添削句のように、適切な助詞や切れを用いて、意味と構成を明確にすれば、ただ言葉遊びに溺れたかのような作為性は、だいぶ緩和されるかもしれません。◇清水アナ(Twitter)。校庭に響くピアニカ 春の雲よくいえば素朴なのですが、あまりに内容が凡庸すぎました。中七の「響く」も不要だし、季語もだいぶつまらないけど…なんとなく、この季語の選択は、フォスターの「静かにねむれ」っぽいよね。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥ちょっと攻めすぎた…😭#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/oDga5MZgMK— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) March 25, 2024 ▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.04.01
クドカンの「ふてほど」最終話。寛容ソングはずいぶんと長尺でしたねwだいたい予想はしてましたが、最後は、震災の行方不明者が未来に生きる希望を残した形。もともとクドカンは、お決まりの《入れ替わり》とか《タイムリープ》とか、1980年代の大林宣彦が、「転校生」や「時かけ」で定式化したモチーフを、これまでも繰り返し使ってきたのですよね。…たまたま最近、その大林宣彦の「時をかける少女」を、U-NEXTで初めてちゃんと観たのだけど、あの物語は、ただのタイムリープの話ではなく、じつは《代理》をテーマにした話だと知りました。それがクドカンにも継承されてるなと感じます。◇大林版の「時かけ」における深町くんは、未来人として現代に存在してるのではなく、むしろ未来人であることを隠すために、他のだれかの《代理》として出現しています。ある部分では、すでに亡くなったはずの「深町家の孫」の代理として存在し、ある部分では、芳山和子の中の「吾郎ちゃん」の記憶をすり替えながら、やはり、その代理として存在してる。のちの角川版や細田版では、この《代理》というテーマが十分に追求されていません。◇これは、すでに下のシネマレビューにも書いたことだけど↓https://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?SELECT=24063芳山和子が深町くんに抱いた恋心は、じつは吾郎ちゃんに抱いていた感情の《代理》なのです。それは、ちょうど、富田靖子の「さびしんぼう」で、主人公が白塗りの少女に抱いた恋心が、じつは主人公の母親への想いの《代理》だった、…という構造とほとんど同じです。それによって、もっとも身近な誰かへの想いに気づく物語になってる。◇そして、もうひとつ、すでに存在しないはずの「深町家の亡くなった孫」が、タイムパラドックスによって存在してる面があって、そこには「存在しえなかった死者」を現出させる意図も感じる。大林宣彦は、そういう物語を被爆地の広島で撮ったのです。タイムリープの物語というのは、たんに過去や未来へ時間旅行するだけの話じゃなく、「存在しないはずの誰かが存在すること」の意味を問う物語なのですよね。…今回のクドカンのドラマでも、「存在しないはずの誰かが存在すること」の意味を、かなり意識的に掘り下げたと思う。つまり、阪神大震災で亡くなった人々が、タイムマシンで未来に出現する設定になってて、仲里依紗が演じる渚は、すでに亡くなった若き母と姉妹のように接したり、すでに亡くなった若き祖父と恋人のように接したりします。これも、尾美としのりが富田靖子に恋したのと似ていて、本来は母や祖父に抱きがたい感情が生まれてる。その意味でも、クドカンは、大林と同様の《代理》の物語を追求してると思う。残念ながら、わたしは観てないけど、クドカンがもっとも意識したのは谷口正晃版なのかも。◇スピルバーグの「Back to the Future」もふくめ、その後の《タイムリープ》の多くの作品には、そういう視点が抜けていて、物語としての深みに欠けます。とくにスピルバーグの場合は、筒井康隆よりも藤子不二雄を模範にしてるのよね。人間関係が「ドラえもん」とまったく同じなのです↓https://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?SELECT=24063なお、先月の「アストリッド&ラファエル」の記事にも書きましたが、この《タイムリープ》という和製英語は、筒井康隆が「時をかける少女」で発明した造語のようです。時をかける少女 [ 原田知世 ] 楽天で購入 さびしんぼう [ 富田靖子 ] 楽天で購入
2024.03.31
門脇麦×永瀬廉「厨房のありす」最終話。自閉症の女の子の人情ラブコメに、アストリッド風の謎解きサスペンスを加えたドラマ?…かと思いきや、最後はけっこうスゴい話で、実父がとんでもないサイコパスの極悪人だったのね。◇それまでの内容も、ゲイカップルの偽装結婚の話とか、いろいろ詰め込みすぎって感じもしたけど、まあまあ面白かったし、最後はしっかりしたメッセージ性もあって、なかなかちゃんとした結末でした。◇自閉症の問題もふくめて、マイノリティの立場を肯定するお話でしたが、それと同時に「非合理な家族神話」への批判でもあった。極悪人の実父は、「結局オレはお前の父親で、お前は人殺しの娘だけどな」という捨てゼリフを残しましたが、殺人犯でなくとも、悪い親って子供にこういうことを言いがちだよね。それは、親の傲慢さ以外の何ものでもない。◇ヘテロセクシャルな実父よりも、ホモセクシャルな養父のほうが良心的だったという結論。たとえ血縁であっても、悪人まで親と思う必要はないってこと。逆に、たとえ親が仇どうしであっても、その子供までが憎しみ合う必要はないってこと。これって、たんに個人の問題ではなく、社会全体のコンセンサスの問題でもあるし、もっといえば、民族間や国家間の問題でもあります。◇最後に主人公が言ってましたが、食べ合わせの悪い食材どうしでも、料理しだいでは調和させることができるのね!知らなかった!!ありすのレシピブックも出てました↓厨房のありす公式ガイド ありすのやさしいごはんレシピ (TVガイドMOOK) 楽天で購入
2024.03.31
アガサ・クリスティ原作、ヒュー・ローリー版「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか」。とても洒落ててカッコいいドラマだったけど…あまりに話が複雑すぎて理解しきれないよ!!!つーか、必要な描写を端折りすぎてるし、細かい部分を誤魔化してる気もします。原作を読んでなければ、事件の詳細を理解できないのでは??これだからサスペンスドラマはストレスが溜まるのよね。じゃあ見るなよ、って話だけど…(^^;しかも、今回のNHK版は、字幕翻訳にもミスがあるように思います。◇翻訳が疑わしいのは、最終盤で、ボビーとフランキーが、料理人だったチャドリイ夫人宅を訪れたシーン。(チャドリイは旧姓で現在はプラット夫人です)サヴィッジ氏について尋ねた次のやりとり。ボビー「彼はミルハウスによく来ていたんですよね」プラット夫人「グラディスに聞いて。私はひとつ聞いただけ」この「私はひとつ聞いただけ」というセリフが、どうも意味不明なのよね。英語の音声は聞き取りにくいけれど、わたしの耳には「I saw him there for once」と聞こえるし、そうだとすれば「私はいちど会っただけ」と訳さねばならない。このやりとりは、「なぜエヴァンズに(遺言書の署名を)頼まなかったのか」という核心にかかわる部分なので、このセリフが意味不明じゃ真相が理解できないでしょ。◇なぜサヴィッジ氏は、遺言書の署名をグラディス・エヴァンズに頼まなかったか。それはグラディスが「本物のサヴィッジ氏」の顔を知ってたから。遺言書の署名に立ち会ったのは、たぶん共犯者のロジャーだよね。プラット夫人は、署名のときに「いちど会っただけ」なので、ロジャーのことをサヴィッジ氏と思い込んだ…というトリック。(逆に、サヴィッジ氏の死体を確認したのはグラディスだけ)だとすれば、やはり上記のセリフは「私はいちど会っただけ」と訳すべきでしょ。◇前にも書きましたが、わたしは、CBCの「アンという名の少女」のときにも、NHKの翻訳にはミスがあったと思ってる。マシューがマリラを呼ぶときに、二人称を「姉さん」でなく「おまえ」と訳していたのです。原作の「赤毛のアン」では、マシューが兄でマリラが妹なのだけれど、CBCのドラマ版では、マリラが姉でマシューが弟に変わってました。姉に対する二人称を「おまえ」と訳すのは不自然ですが、字幕制作者は、そのことを考慮せず、おおかた原作の翻訳に準拠したのでしょう。こういうミスは、もちろん翻訳者の責任でもあるけれど、NHKのプロデューサーや演出家の責任でもある。要するに、内容を理解した上でチェックをしてるのかってこと。じつは誰も内容を理解せずに、漫然と海外ドラマを放送してる可能性がある。ここからは詳細なネタバレです。今回のミステリーの複雑さは、たんに登場人物が多いだけでなく、姿を現さない人物の名前を混乱させるところにあります。たとえば上記のチャドリイ夫人も、再婚してプラット夫人に変わってましたが、ほかにも名前が変わってしまう人物が3人います。第1に、崖から落ちて死んだ男性は、ケイマン夫人の兄「アレックス・プリチャード」とされるのですが、この名前は嘘の証言にもとづいているので、本当はサヴィッジ氏の友人「アラン・カーステアーズ」です。第2に、ニコルソン院長の妻「モイラ・ニコルソン」は、じつは主犯の「ローズ・テンプルトン」(テンプルトン夫人)なのですね。再婚して姓が変わっただけでなく、偽名なのでファーストネームも変わっています。第3に、タイトルになっている「グラディス・エヴァンズ」は、主人公ジョーンズ邸の家政婦「グラディス・ロバーツ」(ロバーツ夫人)です。この人も結婚して姓が変わったのでしょうね。◇結論から先に言っちゃいますが…主人公のボビー・ジョーンズ(♂)は、「モイラは美人だから犯人じゃないっ!!」と思ってて、かたや相棒のフランキー(♀)は、「ロジャーはハンサムだから犯人じゃないっ!!」と思ってる。そして怪しげな学者がいちばん疑われる図式(笑)。でも、結果的には、「モイラとロジャーの共犯だった」というオチです。つまり、男は美人に甘いし、女はイケメンに甘いよねって話。そんな男女がバディを組んで事件の謎解きに挑み、最後はめでたく結ばれるハッピーエンドになってます。…以下、時系列に並べた事件の経緯です。1.モイラがサヴィッジ氏を服毒自殺と見せかけて殺害。ローズ・テンプルトン(のちのモイラ)が、船上で資産家のサヴィッジ氏に接触して誘惑。その後、ローズはロジャーと共謀し、サヴィッジ氏の遺言書を書き換え、料理人のチャドリイ夫人と庭師のアルフレッドに署名させる。(女中のグラディス・エヴァンズには署名を頼みません)そして翌日にサヴィッジ氏を殺害したと思われます。ただし、ロジャーは「自殺に追い込んだ」と話してます。(どうやったら自殺に追い込めるのか知らんけど)いずれにせよ使用されたのは抱水クロラールですね。2.エンジェルが転落事故死に見せかけてアランを殺害。サヴィッジ氏の自殺に疑念をもったアラン・カーステアーズは、ロバーツ夫人(=グラディス・エヴァンズ)に接触して、遺言書の謎を解こうとしていたのでしょうね。でも、モイラに雇われたエンジェルによって崖から突き落とされた。ボビーは崖下で瀕死のアランを発見し、「なぜエヴァンズに頼まなかったのか」との最後の言葉を聞き、所持品の「写真」「キーホルダー」「万年筆」を確認します。そこに現れたロジャーは、ボビーが去ったあとに、モイラの写真をケイマン夫人の写真にすり替えたのですね。モイラに雇われたケイマン夫人も「死体は自分の兄だ」と嘘の証言。3.エンジェルがモルヒネ入りのビールでボビーを殺害未遂。ボビーも、ケイマン夫人を死んだ男(=アラン)の妹だと信じ、彼が死に際につぶやいた言葉を伝えてしまいますが、このせいでエンジェルから命を狙われることになる。移動遊園地での仕事中には、少年たちから「雇用主からの差し入れ」とビールを貰いますが、致死量のモルヒネが入っていたために死にかけます。ブエノスアイレスからの仕事依頼も偽造でした。ボビーの友人ノッカーまでもがエンジェルに襲撃される。4.エンジェルが首吊自殺に見せかけてトーマス医師を殺害。トーマス医師はロジャーのことを疑って調べてたらしい。しかし、エンジェルが彼を殺害。警察はそれを自殺と断定。ボビーは警官に「自殺は不可解だ」とうったえますが、警官は「不可解な自殺もありうること」と諭したうえで、資産家のサヴィッジ氏の自殺も不可解だったと言います。5.ロジャーが兄のヘンリーを拳銃自殺に見せかけて殺害。ロジャーは「カインとアベル」の話をしてましたが、もともと兄のヘンリーとは仲が悪く、当主のくせにモルヒネに散財するのも憎かったらしい。あらかじめ拳銃で兄を殺したあと、爆竹音を銃声に偽装してアリバイを作ったようです。◇以下は、2人による謎解きの手順です。ボビーは、宿のキーホルダーや宿台帳から、崖で死んだ男がアラン・カーステアーズだと知り、彼が資産家のサヴィッジ氏の友人だったことも、2人が映った写真から知ることになります。フランキーも、海陸軍クラブが引き取ったアランの荷物の中に、サヴィッジ氏からの大量の手紙を見つけ、サヴィッジ氏とローズ・テンプルトンとの恋愛を知ります。ただ、その時点ではローズが誰なのかを分かってません。…その一方で、ボビーとフランキーは、ヘンリーの妻と恋愛関係にあるニコルソン博士が、モルヒネ中毒のヘンリーを入院させようとしてると知り、さらにニコルソン博士の営む精神病院の周辺で、モイラやケイマン夫妻やエンジェルの姿なども見かけ、ニコルソン博士への疑惑をどんどん強めていきます。とくにボビーは、モイラ・ニコルソンから怪しげな電気療法のことを聞き、妻のモイラも何らかの被害者だと思い込むわけですが、これこそが最大のミスリードになります。…なお、ボビーは、トミー(=ヘンリーの息子)が使っていた万年筆を見て、それがサヴィッジ氏から貰ったものだと知りますが、これがミスリードになったか、真相につながったかは微妙。◇そして、最後の事件は以下のとおり。6.ロジャー&エンジェルがボビー&フランキーを殺害未遂。ボビーとフランキーは旧テンプルトン邸(通称ミルハウス)に監禁され、ロジャーとエンジェルに電気ショックで殺されかけますが、間一髪のところで仲間のノッカーに救出されます。電気療法を悪用したのはニコルソン博士ではなく、その妻のモイラ(=ローズ・テンプルトン)と、彼女の一味であるロジャーやエンジェルだったわけです。つねにボビーとフランキーを守ってくれるのは、黒人のノッカーやアラブ系の使用人ですね。彼らは忠実な善人として登場する形になってる。7.モイラがボビーを殺害未遂。ロジャーがロバーツ夫人を殺害未遂。ボビーは最後までモイラを被害者だと信じてますが、もともとモイラをいぶかしく感じていたフランキーは、彼女がボビーの紅茶に抱水クロラールを入れたのを暴き、モイラの正体こそローズ・テンプルトンなのだと見破ります。そのころ、ボビーの家では、家政婦のロバーツ夫人(=グラディス・エヴァンズ)が、ロジャーによって殺されかけるのですが、ボビーが駆けつけてロジャーを取り押さえます。そして収監されたロジャーからすべての真相が語られます。◇いろいろツッコミどころはある気がしますが、個人的に最大のツッコミどころは、車の偽装事故を見破るほど明晰なニコルソン博士が、なぜモイラのような女と結婚し、彼女の正体がローズ・テンプルトンだとも気づかず、片方では他人の妻と恋愛関係になり、妻の犯罪には気づかぬまま、護衛として雇ってるエンジェルの犯罪にも気づかず、不倫相手の義弟であるロジャーの犯罪にも気づかず、ケイマン夫妻の犯罪にも気づかないのかってこと。周りの人間が犯罪者だらけだよね。ちなみに、この間抜けなニコルソン博士を、脚本・演出のヒュー・ローリー自身が演じてました。なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか? (ハヤカワ文庫) [ アガサ・クリスティ ] 楽天で購入
2024.03.28
二階堂ふみ×チェ・ジョンヒョプ「Eye Love You」の最終話です。そもそもミン・ハナさんは、どうやって侑里もテレパスだと知ったんだっけ?予知能力者だから?それとも遠隔テレパスなの?◇ミン・ハナさんが、「テレパスの恋人はかならず死ぬ」とか、「33秒見つめ合ったらテレパスは消える」とか、そういう法則を勝手に信じこみ、自作の絵本に描いたのはいいとしても…その迷信を、登場人物の全員が信じてしまう…ってのはどうなの??しかも、いちばん狂信してたのは、よりによって大学院の教授(=杉本哲太)だよねw生物学的な裏付けでもあったのかい!◇ちなみに、アイヌの「オハイヌ」(空聞き)ってのは、ほんとうに実在する習俗らしいのだけど、そのオハイヌの幻聴能力が、星空の下の「33秒」の見つめ合いで消える…みたいな伝承があるのかどうかは、ネットで調べてみても確認できません。…むしろ、この「33秒」とやらで思い出されるのは、ほかでもなく、あの統一教会の教義なのよねえ。◇どこかで聞いた話だけど、統一教会には妙な数的法則にこだわる教義があって、たとえば教祖たる文鮮明の再臨を、意味不明な周期的ロジックで説明するらしい。そして統一教会は、なぜかしら「3の倍数」を特別視するらしく、> 3は原理数> 三数は安定と調和の数> 三数は天の数、三数は完成数> 神は三数的存在…みたいな考え方があるようなのです。参考:統一教会において3は「原理数」、「三位基台(さんみきだい)」っていう重要な教義もあります→https://t.co/1LGcsubRQw silent hill 「サイレントヒル」はコナミ発売のゲームで映画化もされ、娘シャロンを宗教団体から救うために母が奔走するホラー映画 →wiki https://t.co/SZH0r1wEoc— 紀藤正樹 MasakiKito (@masaki_kito) July 17, 2022これはおそらく、キリスト教の「三位一体」から来てるのでしょうけど…こういう妙なロジックに疑念をもつ人は、たぶん統一教会の信者にはならないでしょうね。しかし、今回のドラマの登場人物みたいに、謎のロジックでもすんなり受け入れる人は、統一教会の信者になる資質があるかもしれないww3の倍数 その1。3の倍数 その2。3の倍数 その3。いかにもテキトーな数式。アイヌ伝承のでっちあげ?サブリミナル的な刷り込み?よりによって、このドラマの最後は、「日本人女性がソウルで韓国人男性に抱きつく」というクライマックスを迎えたので、もしや統一教会のメディア戦略なのでは?!…みたいな疑念が思わず頭をよぎったのでした。◇Twitterには「#eyeloveyouファンミ 」みたいなタグが見受けられますが、韓国系アーティストや韓国ドラマに関連して、そうしたファンミーティングが付きものだとすれば、そこが統一教会の勧誘の場になってる可能性は否定できません。かりに統一教会系の団体主催ではなく、一般のファンが主宰するイベントだとしても、そこに教団の勧誘員が潜り込む可能性は十分にありうる。TBSがどういう姿勢でいるのか知りませんが、すくなくとも報道部はそこまでを注視する必要があるし、必要に応じて注意喚起をする責任も負うはずです。ソウルにて日本人女性が韓国人男性に抱きつく。べつに、わたしは嫌韓なわけじゃないし、日本人と韓国人が恋愛するのも自由だし、統一教会にかんしても、基本的に信教は個人の自由だと思うけど、法外な献金をむしり取られるような顛末には、気をつけないといけませんよね。◇◇◇なお、中川大志くんは、今回も、大学時代からヒロインをずっと見守るだけの、なんだか可哀想な噛ませ犬の役どころ!でも、最後はミン・ハナさんとの恋を匂わせたので、こちらは日本人男性&韓国人女性のカップルに??ちなみに、そういう組み合わせって、統一教会でも認められるのかしら?
2024.03.27
カンテレ「春になったら」最終話を見ました。リアルに死期の迫った人の生前葬を、《旅立ちの祝福》というコンセプトで挙行するのは、ちょっとブラックな感じもするのだけど、実際に、そういう生前葬をする人はいるらしいし、死ぬことをポジティブな《旅立ち》と捉えるのも、ひとつの宗教観念なのかしら…?◇でも、まあ、基本的には上手くまとまって満足度の高い終わり方。脚本の構成としては、「出産/死」「結婚式/お葬式」…をめぐるドタバタな騒動を、シンメトリックに、かつコミカルに描く設定。それがとても上手く機能していたし、それぞれのキャラの位置づけも明解で、お手本のように整ったドラマだったといえる。◇現実には、こんな綺麗な死に方のできる人は少ないでしょう。しかも、父親から見て、これ以上ないほど理想的な娘だよね…ってのが大前提としてあるし、その意味では、一種のファンタジーだと思うけど、こういう希望のもてるドラマも必要でしょう(笑)。下町の父と娘のお話だったので、なんとなく「朝顔」の続きっぽくもありましたが、上野樹里&時任三郎の「朝顔」は、全体に暗いトーンの作品だったのと違い、今作は、つねに明るいトーンなのが救いでした。お天気には左右されるけど、野外ウェディングってのも洒落てますよね。神社の参道をバージンロードにしたのも素敵。◇式にはケイト・ベネットなる女性歌手が登場しました。毎回、劇中では、男性歌手と思しき英語の曲も使われてましたが、調べてみてもアーティスト名も曲名も分からないし、ドラマのオリジナルだったんでしょうか?https://t.co/gXQIhZGIVy pic.twitter.com/Na3CJoqqYL— BrooklynParlor OSAKA (@Brooklyn_Osaka) April 22, 2017最終回はTVerで無料配信中!#春になったら 🌸 メイキング❀┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈.*✿撮影前のひとコマ📹✨ウエディングドレス姿の瞳(#奈緒 )に初対面した雅彦さん(#木梨憲武 )本当に瞳ちゃんのウエディングドレス姿、素敵です👗💕最終回はTVerで無料見逃し配信中!… pic.twitter.com/8kPOYQwyEu— 『春になったら』奈緒×木梨憲武W主演【月曜よる10時 カンテレ・フジテレビ系】 (@haru_ktv) March 26, 2024
2024.03.26
尊富士たけるふじ。優勝が決まるのは5時すぎかと油断してました!すでに4時半ごろに決まってたww昨日はどうなることかと思いましたが、痛めた右足首を押して優勝を決めたのね!いまNHKプラスの追っかけ再生で見ました。変化もせず堂々とした押し出し。文句なしです。昨日も書いたとおり、新入幕力士の優勝は大正3年以来110年ぶり。初土俵から10場所目での優勝は史上初。新入幕力士の三賞トリプルは、1973年秋場所の大錦以来。青森出身力士の優勝は、1997年の貴ノ浪以来だそうです。昨日も書きましたが、NHKのサイトで全取り組みの動画が見れます。尊富士https://www3.nhk.or.jp/sports/special/sumomovies/rikishi/028450.html大の里https://www3.nhk.or.jp/sports/special/sumomovies/rikishi/028990.html石川出身の大の里は、能登半島の勧進相撲で帰郷ですね。<勧進大相撲>4月16日(火)に開催する能登半島地震復興支援・勧進大相撲入場券販売は明日10時より開始します。入場券収入は全額、被災地支援義援金として寄付します。チケット大相撲、セブン-イレブン マルチコピー機よりご購入可能。詳細はこちらhttps://t.co/tt9TdGs8Ev#sumo #相撲 pic.twitter.com/Mjg81DXUGz— 日本相撲協会公式 (@sumokyokai) March 16, 2024
2024.03.24
TBS「不適切にもほどがある!」第8話。> 炎上の原因は、> 見てないアンチによるSNSの批判投稿と、> それを拡散させるコタツ記事だ…という話。◇まさにこれを逆に利用したのが、成田悠輔とキリンの炎上商法なのだろうなと思う。その「氷結無糖」のウェブ広告を実際に見た人って、じつは少ないと思います。わたしも見てないし。大々的なテレビCMでもないし、ネットのなかでさえ、たいしたCM出稿量ではなかったはず。なので、まさしく「見てないアンチ」が炎上させた事例だと思う。そして、実態としては、最小限の広告費用とCM出稿量で、最大限の炎上による広告効果をあげた可能性があります。実際のところ、キリンへの不買運動などが起こったとは考えにくい。アルコール好きの人間が、わざわざ自分の選択肢をせばめて、アサヒやサッポロの商品だけで我慢するとは思えないし、集団でのバッシングをためらわない人々が、自分の生活の質を犠牲にしてまで、消費行動を倫理的に制限するとも思えない。それどころか、炎上して「氷結無糖」の商品名が連呼されたことで、かえって売り上げが伸びてる可能性もあるのよね。キリンも、成田悠輔も、ブランドイメージへの影響もふくめ、そこらへんをしたたかに検証してるに違いない。◇一部では、成田悠輔への攻撃が、「リベラル派からなされてる」という見方もあるけど、これも本当のところは疑わしい。たしかに、「弱者の側に立つ」のはリベラル派の価値観だけど、「年寄りを敬う」のは保守派の価値観というべきです。むしろ実際には、そうした政治的な信条よりも、ただの個人的な好悪と憂さ晴らしで攻撃してる人間が、大多数じゃないかと思います。◇成田が口にした「集団自決」とは、おそらく雇用や社会保障にかんする一つの意見表明であって、ほんとうの集団自決など、するわけもなければ、させられるわけもないのだから、それは本人が弁明するまでもなく、最初から《比喩》としてしか解釈しようがないし、その《比喩》の本意を確かめなければ何の議論も始まらない。本来なら《比喩》そのものを炎上させても意味がありません。しかし、成田がわざわざ過激な比喩を用いたのは、あえて「炎上」を想定してのことだ、ともいえます。実際のところ、炎上を誘発させることでしか社会的な議論が活性化しない、…という面はあるのかもしれません。◇成田の主張でもっとも注目すべき点は、この「炎上」という現象をポジティブに捉えているところ。賛否が割れることによる社会的な激論は、むしろ民主主義にとって必要な手続きなのだから、それ自体はけっして悪いことではありません。たしかに現状を見ると、過度に気に病んだり、自殺したりする人がいるので、どうしても「炎上」はネガティブに捉えられがちだけど、賛否が割れて社会的な議論が起こることは必要だし、それを忌避する発想のほうがむしろ間違っている。炎上にかんして、「気に病むほうが悪い」とか、「自殺するほうが悪い」などと言ったら、これまた炎上するかもしれないけど、一般に、日本人は、炎上に対する耐性がなさすぎるのよね。それは議論に慣れていないからであり、その反面で「数の力」を信じすぎているからです。数の力で他人を叩けると信じる人間ほど、自分自身が数の力で叩かれることにおののきます。◇そもそも、議論のための有効なロジックを構築できない人間ほど、安易に「数の力」に依存しがちになるのよね。ネットの世界には、わざわざ数を偽装して水増しするバカも大勢いる。ロジックではなく「数の力」で勝とうとするからです。そして、TwitterやInstagram は、こうした「数への依存」を逆手に取ったサービスを提供してる。ユーザーたちは、その企業戦略にまんまと乗せられて、フォロワーの数やいいねの数を増やすことに必死になっている。◇日本で炎上がネガティブに捉えられるのは、「和をもって尊しとなす」みたいな古い価値観が支配してるせいでもあります。賛否が割れて激論が沸き起こることは、その「和」が乱れた状態だとして忌避されがちで、公の場で議論すべき問題点を指摘することも、その「和」を乱す行為として忌避されてしまう。賛否の割れるような現実を覆い隠して、表向きの「和」を装いつづけることが美徳になる。誰もがうすうす問題点を認識していながら、それをあえて口にしないことが、日本人としての賢さなのだと信じられている。いちいち問題点を指摘する人間のほうが、かえって空気の読めない邪魔者だと排除されてしまう。そうやって、あらゆる現場で改善すべき問題点が先送りされ、社会はどんどん機能不全に陥っていくのだけど、それでもなお多くの日本人は、「和をもって尊しとなす」という精神性を金科玉条のごとく信じています。◇意見が割れるのは当たり前なのだし、それをぶつけ合わなければ解決策は見えてこないのだから、炎上に耐えられる人間が一定の割合まで増えなければ、日本にまともな民主主義は実現しないというべきです。もちろん、「見ないで批判するSNS投稿」や、「コタツ記事」の無責任さの問題はあるけれど、それは、無責任さというよりも、たんにリテラシーのなさと言ったほうが正しい。つまり、「バカなんだから仕方がない」ってことです。比喩かどうかを判断するのもリテラシーの問題になる。一定の割合でバカが存在することを前提に、社会設計をしていくよりほかに仕方がありません。基本的に「バカは死んでも治らない」のだから。◇炎上に対処する方法は大きく2つです。ひとつは徹底して無視すること。炎上させることに自分の存在意義を見出してる人たちは、無視されることで自分の存在意義が乏しい現実に失望します。◇そして、もうひとつは炎上を逆手に取ることです。自分たちの攻撃には意義がある…と思わせて、あたかも攻撃側が勝利したかのごとく錯覚させながら、実際は攻撃された側にメリットが生まれるように戦略を立てること。もちろん企業による炎上商法もその一例ですが、それだけではなく、民主主義的な議論の活性化など、炎上現象を社会的な意義のある展開へと仕向けること。言い換えるなら、バカどもの炎上エネルギーを社会的に有効活用する発想こそが、今後はいっそう必要とされていくのだと思います。
2024.03.22
TBS「さよならマエストロ」最終話を見ました。なんだか不思議な結末。娘がバイオリンをやめたエピソードもピンと来なかったけど、父と和解してバイオリンを再開する理由もピンと来なかった。とにかく、父と和解してオケのコンマスになったものの、両親の離婚が確定したので家族は崩壊。そのうえ、父をドイツへ送り出したので、素人同然の市長の娘が指揮者になったところで、オケの存続も絶望的だよね。指揮の演技についていえば、西島秀俊より當真あみちゃんのほうが上手だったけど!彼女は実際にピアノもバイオリンも弾けるらしい。どう考えてもバッドエンドなのに、雰囲気だけはハッピーエンドの体で終わってる(笑)。シューマンはライン川に身を投げて死んだのですが、そのシューマンの「ライン」を最後の希望の曲にするのもスゴイ。強引というべきか、究極の楽観主義というべきか。終わりよければすべてよしとは言うけれど、終わりが悪くてもすべてよしって感じ???視聴率は、今季の民放ドラマでダントツの1位!…いろんな意味で不思議なドラマでした。◇もともと地方オケの物語だったので、日テレ「リバーサルオーケストラ」の二番煎じでしたが、キャストはかなり豪華だったよね。リバーサルオーケストラは、キャストも物語も地味だったから…(^^;西島秀俊と芦田愛菜が主演で、新木優子や宮沢氷魚や當真あみが脇役で、西田敏行や石田ゆり子や満島真之介も出てくるって豪華すぎ!お話もそれなりには面白かった。でも、個人的にいうと、クラシック音楽の魅力は感じにくかったです。印象に残った曲も演奏シーンもなく、劇伴音楽もクラシックの要素には乏しかった。どちらかといえば、チェット・ベイカーのジャズとか、アマポーラみたいな軽音楽のほうが印象に残ってる。まあ、さすがにシューマンの「ライン」は耳に残りましたが。このドラマを見て、クラシック音楽に関心をもった人はいるのかしら?高校生から指揮者を目指そうとする人とか、娘にバイオリンを習わせようとする人はいるのかな。◇ところで、いちばん謎だったのが第5話なのよね。おばさまが歌謡曲を探していた話。ビゼーのカルメンに似てるようで違う…と言われ、「マエストロに訊いてみたら?」との助言も無視して、なぜか歌謡曲のCDの歌詞カードだけを探しまくり、金井克子の「他人の関係」だと突き止めるのだけど、あのエピソードって何だったの???あまりにも意味不明なので、もしや、あのおばさまが、オケ復活の鍵を握る伏線なのでは?!…みたいな深読みもしてみたけれど、ぜんぜん違いました (^^;クラシック音楽のドラマなのに、歌謡曲のエピソードって必要ですか?もしかしたら、「ハバネラ」のシンコペーションと、「他人の関係」のシンコペーションが似てる、みたいなことだったのかしら??でも、続編も噂されてるらしいので、もしも続編があるとしたら、コンマスを中心にオケのメンバーが奮闘して、市長の協力とか、あの歌謡曲のおばさまの協力も得て、地方オケが奇跡の復活を遂げ、ドイツで成功したマエストロを客演に迎える、…みたいな話になるのかも。それならそれで面白いとは思う。【楽天ブックス限定先着特典】さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~ DVD-BOX(マグカップ) [ 西島秀俊 ] 楽天で購入
2024.03.21
立川智也のバースデー配信ライブを見ました。ゲストは由貴ちゃんのほかに、橋本さとしとソニンと鈴木蘭々。アーカイブなしの配信ライブは悪い意味で緊張感がありすぎる。うっかり見忘れたり、通信障害に見舞われたり、途中で家族の邪魔が入ったりしたら、チケット代がパーになるし。せめて数日間のアーカイブは配信ライブの最低限のサービスとして必要だと思います。最初に細田幸子が歌ったスピッツの「チェリー」は、ゆったりしたテンポで原曲とはずいぶん違ったアレンジ。鈴木蘭々の「キミとボク」はEPOの詞曲だそうで、立川智也がなんども言ってたように、なかなか佳曲でした。あとでYouTubeで見てみたら、立川智也が作った「Rain」もいい曲だった。ライブでは難しそうに歌ってたけれど。鈴木蘭々はひさしぶりに見ましたが、いまは実業家だそうで、だいぶ雰囲気が変わってた。先日、鳥山明が亡くなりましたが、鈴木蘭々はその昔「アラレちゃんの影響を受けた」と言ってて、若いころの彼女ってリアルにアラレちゃんみたいだったのよね。ソニンが歌ったのは、ノラ・ジョーンズの「Sunrise」と「カレーライスの女」。ノラ・ジョーンズは難しいと思ったけど、ミュージカル仕込みの現在の歌唱力で「カレーライスの女」を聴けたのはファンにしたら貴重だったかも。橋本さとしが歌ったのは、Kissのなんとかいうバラードと八神純子の「パープルタウン」。ちなみに今回の立川智也&House Bandは八神純子のサポートメンバーからなるそうです。ヤガミグミ&Learn to flyってこと?橋本さとしは「どうする家康」にも「VIVANT」にも出演してたそうですが、ぜんぜん記憶にない(笑)。それからアニメ「リメンバーミー」でも悪役だったと!萌音萌歌が好きなディズニー製のメキシコ映画です。由貴ちゃんは、サプライズの「Happy Birthday」合唱とケーキセレモニーのあと、立川が作った「ココロッチ」と定番の「かなしいことり」を歌いました。贔屓目ってわけじゃないけど、由貴ちゃんのパフォーマンスがいちばんよかったな。ほかのゲストは難しい曲に挑んでましたが、由貴ちゃんだけは自分の持ち歌のなかでもとくにゆるめの曲だったし、いちばんリラックスして歌えていた。見たところ体調なども問題ないみたい。各事務所のOKが出たので昨日の立川バースデーライブの全員写真を。🎵#斉藤由貴#鈴木蘭々#ソニン#橋本さとし#立川智也#佳尚#草間信一#細田幸子#是永巧一 pic.twitter.com/vmiGrMMNB8— 是永巧一 (@KORE1225) March 18, 2024一般にベーシストは話し声も低音ってイメージがあるけど、立川智也の声はとくに低音というわけでもなく、どちらかというとピアニストみたいなキャラの人なのかなと思いました。ライブについては以上です。NHKラジオ第1「佐藤二朗とオヤジの時間」も聴きました。由貴ちゃんと井森美幸がキャニオンの同期とは知らなんだ。東宝のアイドル女優とホリプロのバラドルはちょっと結びつかなくて、年齢も由貴ちゃんのほうがだいぶ上かと思ってた(実際は2歳上)。映画「変な家」はまだ観てないけど、なかなか評判みたいですね。由貴ちゃんと川栄李奈の関係についてはこちらを参照↓。https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202204270000/映画『変な家』初日舞台挨拶の模様③映画『変な家』出演者の中からもっとも「変な人」(=Most Valuable HEN。略してMVH)を決めるコーナー。#佐藤二朗 さん、#斉藤由貴 さんが同率でMVHの座を獲得しました! pic.twitter.com/t7EGs6u5sj— 映画『変な家』公式 (@hennaie_movie) March 17, 2024東宝&TikTokの縦長映画祭グランプリ記念作品「立て髪貴婦人」も観ました。一見して「ヨコハマメリーさん?」って思うよね。実際、斉藤由貴の主演で何か作れと言われたときにヨコハマメリーさんをモデルにするって発想は何となく分かるかも。ある意味では「横浜の暗部」ともいえますが。共演は、白山乃愛&小谷興会&森日菜美という東宝芸能の後輩3人。なにやら虐待されてるっぽい少女が、ヨコハマメリーさんみたいな謎の貴婦人のボロ小屋にかくまわれ、彼女が誘拐容疑で警察に連行されたあとは、お金持ちの少年と逃避行に出そうなところで終わる。なぜ天井を頭で押したら床の蓋が開く仕掛けなのかも謎。話は変わりますが、U-NEXTのラインナップに「恋する女たち」があったので、例のラストシーンが東尋坊なのか加佐ノ岬なのか確認してみました。放送が終了してしまったブラタモリ的にいうと、東尋坊が《柱状節理》の断崖なのに対して、加佐ノ岬は《砂岩》の断崖なのよね。だから、見た目がまったく違う。やっぱり「恋する女たち」のラストシーンは加佐ノ岬だと思います。ちなみに加佐ノ岬は、去年の群発地震の影響で、岬のくびれ部分が一部崩落して、そこから先が通行止めになってたみたい。今年の元旦の震災の影響があったかどうかは分かりません。そもそも「恋する女たち」の舞台は金沢なので、今年の震災のことも考えたら、福井の話が出てくるのは変だなと思ったのだけど、実際に調べてみると距離的にはけっこう近いですね。まあ「恋する女たち」のロケ地の金沢市内も、それほどの大きな震災被害はなかったと思うし、40年も経ってれば街並み自体がだいぶ変わってる可能性もある。あの映画には石川県立美術館のシーンが出てくるけど、いまの金沢では21世紀美術館のほうがお洒落なデートスポットになってるようで、浜辺美波も地元でいちばん好きな場所だと言ってる。21世紀美術館が開館したのは2004年だから、当時はまだなかったのよね。https://hanspotter.hatenablog.com/entry/2019/10/22/204737そういえば、相米慎二の「あ、春」の終盤の散骨シーンも、やっぱり断崖に囲まれた河口みたいなところで撮影されてます。あのロケ地はどこだったでしょう? そちらも東尋坊ではなさそうだけど。恋する女たちあ、春
2024.03.21
放送からだいぶ経ちましたが、Eテレで映画「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」を見ました。日本が舞台になってますが、作ったのはアメリカ人。日本文化のモチーフがいろいろ散りばめられてる。◇以下は、Wikipediaの解説。封建時代の日本を舞台に、左目を盗まれ、魔法の三味線を操る主人公のクボを中心に展開する。クボは擬人化されたニホンザルとクワガタムシを仲間に、邪悪な叔母そして左目を奪った祖父のライデン(月の帝)を倒す宿命を課せられる。https://ja.wikipedia.org/wiki/KUBO/クボ_二本の弦の秘密三味線や雪山の猿が出てきたり、盆踊りや灯篭流しの場面もあるので、近世の青森や秋田の白神山地あたりが舞台?…かとも思いました。なお、灯篭流しの起源は「水灯会すいとうえ」で、江戸時代に京都・宇治の万福寺などで行われていたようです。水灯会は、七月十六日の夕、川や湖に火をともした紙灯籠を流すこと。盂蘭盆会の川施餓鬼の行事の一種。https://ouchidehaiku.com/contents/353225水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養は「川施餓鬼」といい、夏の時期に川で行なわれる。https://ja.wikipedia.org/wiki/施餓鬼◇その一方、母が「月の帝の娘」という設定は、平安時代の竹取物語/かぐや姫っぽくもある。また、かりに「KUBO」が公方のことなら、それはおもに足利一族の称号だろうと思えます。もともとは天皇や将軍の意味ですが、いずれにしても支配階級の物語ってことになる。公方は「公家の方」の略で、もとは朝廷、武家時代には将軍をさした。「おおやけかた」とも読む。鎌倉末期ごろから将軍の尊称となる。https://kotobank.jp/word/公方-55893室町時代の後半には、将軍の公権力の代行者として君臨した足利将軍家の一族の者の肩書きとして用いられた。3代将軍義満以降、将軍の敬称として公方号が積極的に称されることとなった。当初、関東管領として鎌倉府に在った足利基氏も、将軍家が公方を称するようになると鎌倉公方と称するようになった。以降、幕府の主宰者たる将軍や、鎌倉公方を称した関東足利氏一族により、公方号が世襲されることとなる。鎌倉公方はさらに古河公方、堀越公方両家に分裂し、古河公方はさらに小弓公方と分裂する。https://ja.wikipedia.org/wiki/公方実際、月の帝になってしまった祖父は、かつて地方豪族みたいな城主だったと思わせる描写があります。◇大魔神みたいな埴輪型の巨石仏像がたくさん立ってたり、三種の武具を探す物語になってたり、白鷺が魂を運ぶ話が出てくるところを見ると、古代のヤマトタケルの東征神話が基礎になってる気もする。すなわち、> 草薙の剣で東国征伐に来たヤマトタケルの長女が、> 敵側である地元の武将と結婚してしまったみたいな話っぽく見えます。「日本書紀」などによると、日本武尊ヤマトタケルは東国での戦いの帰り道、伊勢の能褒野のぼのの地で亡くなりますが、その姿を白鳥に変え、大和の琴弾原ことひきのはらに降り立ったあと、河内の旧市邑ふるいちのむらに飛来したといわれています。日本武尊が没した場所(三重県亀山市)、白鳥が一旦舞い降りた場所(奈良県御所市)、最後に降り立った場所(大阪府羽曳野市)のそれぞれにお墓が造られ、合わせて「白鳥三陵」と呼ばれています。https://www.mozu-furuichi.jp/jp/column_report/furuichi/vol003.htmlそのほか、河合豊彰みたいに「折り紙に魂が宿る」ゲゲゲの鬼太郎みたいに「左目を奪われた少年」細長い湖に棲む「目玉の妖怪」なにかの漫画で見たような「おばさん仮面」歌川国芳に由来する「がしゃどくろ」…などのモチーフが脈絡なく並びます。◇ところが、公式サイトによると、主人公の「クボ」は、今作のキャラクターデザイナーであるシャノン・ティンドルの日本の友人の名前から取った。クボの眼帯は、封建時代の伝説的な武士であった片目の伊達政宗と、徳川幕府に仕えた剣の名士、柳生十兵衛三厳に敬意を表したものである。クボの亡き父ハンゾウは、黒澤明監督の名作『七人の侍』で、史上最高の侍の役を演じた日本の伝説的俳優、三船敏郎に敬意を表し、彼に似せて作られている。https://gaga.ne.jp/kubo/つまり、クボは「公方」のことじゃないらしい。ちなみに「七人の侍」の三船敏郎の役名は菊千代。父の名の「ハンゾウ」は、服部半蔵(服部正成)あたりから取ってるだろうけど、祖父の名の「ライデン」は、相撲力士の雷電爲右エ門から取ってるでしょうか。母の名の「サリアツ」ってのもネタ元が分かりません。男性名なら「サネアツ」から来てる可能性もあるけど。闇の姉妹(おばさん仮面)が烏&鷲なのも謎です。それ以外にも、ゴキブリが鎧兜をかぶったら「クワガタ」になるとか、人面魚みたいな「鯉」が龍になる…みたいなイメージが、どれだけ日本の歴史や習俗に取材してるのかは怪しい。◇三味線の3本の弦は、父と母と息子の比喩のようですが、最後は、その三味線をギターに置き換えるごとく、レジーナ・スペクター or 吉田兄弟が、ビートルズの「While My Guitar Gently Weeps」をカバーしてる。なお、ジョージ・ハリスンは、もともと中国の「易経」に触発されてこれを作ったそうです。ハリスンは、イングランド北部のウォーリントンにある母親の家で「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」を書いた。本作は中国の易経の書籍に触発されて書かれており、ハリスンは「僕は易経の写しを持っていた。中国にはすべてが必然であり、偶然というものは存在しないという考えがある。一方、西洋では偶然のことをまれにあるものだと考えられている。本を開いたときに見えたのが『gently weeps(そっと泣いている)』だった。僕は本を閉じて、曲を書き始めた」と語っている。歌詞は、そこに眠っている愛がありながらも、それに気づけていない人類の哀歌となっている。https://ja.wikipedia.org/wiki/ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープスKUBO/クボ 二本の弦の秘密【Blu-ray】 [ アート・パーキンソン ] 楽天で購入
2024.03.20
NHKスペシャル「古代史ミステリー」を見ました。第1集のテーマは邪馬台国です。1.纏向遺跡いちおう九州説にも配慮して、佐賀・吉野ケ里遺跡の石棺墓のことも取り上げてたけど、やっぱり近畿説のほうを重視してた感じ。建築木材の年輪から伐採年を測定できるのね!奈良・纏向遺跡で使われた木材は、西暦231年に伐採されたものだと判明。卑弥呼が魏に使者を送ったのは239年だから、その8年前に宮殿が建設されたってことかしら?箸墓古墳の築造も240~260年ごろと分かってて、これも卑弥呼の埋葬が247年とする魏志倭人伝に合致する。2.倭国乱魏志倭人伝に書かれた「倭国乱」について、2021年のETV特集「誕生ヤマト王権」のときは、戦争の頻発を示す証拠は少ない、と言ってたけど、▶ https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202103290000/今回は、西の邪馬台国と東の狗奴国が対立してたこと、さらには、鳥取の青谷上地遺跡で見つかった大量の人骨に、金属の矢じりが刺さってたり、埋葬もされず捨てられてることを取り上げました。3・連合政権2021年のETV特集でも、邪馬台国は平和的な経済連合だった、との話でした。水害の多かった時代だからこそ、災害が起こりにくい大和を中心に小国が連合した。今回も、気候変動と食糧難の時代に、卑弥呼が連合国家を束ねる存在になった、との話。4.親魏倭王卑弥呼は、連合国家を束ねるべく魏の後ろ盾を得た、とのこと。つまり、中国の三国志時代に乗じて、魏・呉・蜀のパワーバランスをうまく操ったのね。具体的には、海上から魏を攻めようとした呉に接近しつつ、それを魏と交渉するための外交カードに利用した。その証拠に、邪馬台国は魏から金印をもらってますが、列島各地では呉からもらった鏡も出土してる。5.大陸系の技術中国の三国志時代には、大量の難民が朝鮮半島経由で日本に押し寄せた。彼らははるか東に理想郷の「蓬莱」があると信じた。なお、鳥取の青谷上地遺跡の人骨の9割も、DNA型が縄文系&大陸系の混血だそうです。こうした大陸系の人々は、鉄器などの軍事技術や、風雨に強い盛土などの土木技術をもたらしたので、邪馬台国は、狗奴国の勢力圏にまで進出することができた。その証拠に、前方後方墳の多い東日本でも、前方後円墳が見つかりはじめてるそうです。◇◇◇番組はドラマ仕立てになってて、歴史を学ぶ生徒役には、NHKにも重用されつつあるっぽい(?)原菜乃華。歴史館の館長役には、なぜか歴史再現ドラマの役が多い(笑)前川泰之。そして、邪馬台国を束ねてたのがシシドカフカで、狗奴国を束ねてたのが宍戸開でした。西のシシドと東のシシドってこと?シシドカフカが弥生顔で、宍戸開が縄文顔ね。でも、狗奴国の人々は、アイヌみたいに顔に入れ墨をしてたらしいけど、ゴリゴリの縄文人ってわけでもなく、赤いパレススタイルのおしゃれな弥生土器を使ってた。◇ドラマでは、卑弥呼が、連合国の首長たちと会議するシーンもありました。でも、魏志倭人伝によれば、彼女は侍女や弟にしか姿を見せなかったらしいよね。手塚治虫の「火の鳥・黎明編」では、姉がアマテラスで、弟がスサノオみたいになってる。女王というよりも、伊勢神宮の斎王みたいな存在だったかもしれないし、実在しない神様だった可能性もあるのでは??魏志倭人伝に書かれてる「卑彌呼」の名は、当時の日本語に漢字を当てたものだろうけど、意味としては「日見子」なのかなと思ってました。そのほうがアマテラスっぽいし。実際は「日巫女」「姫御子」などの説があるようです。◇鳥取の青谷上地遺跡の人骨も、なぜ殺されたのかが判明してるわけじゃありません。当時から大陸系との混血が進んでたようですが、最近の東大の研究によれば、むしろ山陰地方は現在も「縄文度」が高いのよね。▶ https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202304050000/もしかしたら外来系の人たちが、土着の出雲王権に迫害・虐殺されたのでは??…なんてことも思ったりする。◇次回の第2集は「ヤマト王権・空白の世紀」です。#NHKスペシャル #古代史ミステリー第1集「邪馬台国の謎に迫る」3/24(日)夜まで見逃し配信中▼https://t.co/1w51Qyl93f邪馬台国の女王・卑弥呼。最新研究で迫る外交戦略とは?未知の古墳のAI調査や、大規模実験も交え、謎に迫る。出演 #シシド・カフカ #前川泰之 #原菜乃華 #宍戸開 #濱正悟 ほか— NHKスペシャル(土曜夜10時 日曜夜9時) (@nhk_n_sp) March 17, 2024
2024.03.20
フジ月9「君ここ」が終了。お世辞にも、出来がいいとは言えなかったけど、主演の2人も好きだし、映像も綺麗だったので、なんとか我慢して見とおしました。今季は、月10の「春になったら」も、クドカンの「ふてほど」も、あらかじめ死ぬことが分かってる物語。このドラマの場合は、最後の最後に奇跡が起こってハッピーエンド!…って予想もなくはなかったけど、やはり死ぬのがデフォルトだったみたい。◇五感を失なった暗闇のなかで、何十年も生きていくと考えるだけでも怖い。その暗闇に耐えつづけるために出来るのは、唯一「希望の種」を植えつけること、…ってのは第9話だったかな。これはけっこう深い話だったかも。でも、最後はまた「逆の奇跡」が起こって、恋人の命と引き換えに五感を取り戻しました。◇五感を失なっても、運動神経は失われないから、声を出したり動くのは可能じゃないかと思ったけど、どうやら脳死状態になる設定だったようです。もしかしたら脚本家は、「五感を失えばおのずと運動神経も失われる」と考えたのかしら?まあ、実際のところ、「感覚神経だけ失なって運動神経が残る」なんて症例は存在しないだろうし、どうせファンタジーなんだから、いかようにでも設定できますけどね。◇今季は、TBSのドラマも、「ふてほど」がタイムリープで、「Eye Love You」がテレパシーだし、SFファンタジーの設定が多い。このドラマは、さしずめゲーテのファウストって感じ?メフィストフェレスみたいな黒服が出てきて、魂と引き換えに望みを叶えてやる…と。結果的には、「五感を失なう=心を失なう」ってことだったので、その意味でもファウスト的な設定でした。◇たまたま最近、1983年版の映画「時をかける少女」を見たのだけど、あれは舞台が広島で、主演が長崎出身の原田知世。このドラマも長崎が舞台だったから、ちょっと80年代のSFジュブナイル的なものを期待してた。荒唐無稽なファンタジーになるのも前提で。でも、あまりにも子供だましがすぎた感じ。クドカンの「ふてほど」の場合は、ファンタジー設定が笑いのネタになってるけど、「君ここ」や「Eye Love You」の場合は、ご都合主義的なファンタジー設定が、たんなる作品の欠点に見えてしまう。◇たとえば、母親だとバレたら月明かりに溶けるけど、たがいに分かってても口にしなければ大丈夫、…みたいな謎設定も、ご都合主義に見えました。母であることを隠し通すのが条件なら、太陽が千秋を母だと認識した時点ですでにアウトなのでは?と思いきや、太陽が千秋を「母さん」と呼ぶまでアウトにはならないよう。何だこのルールの既視感と思ったら、これ「ハリポタのヴォルデモートシステム」だわ。名前を呼んではいけないあの人の名を口に出すと、死喰い人に殺されてしまうアレです。https://woman.mynavi.jp/article/240311-18_1190537/それから、赤色が見えないという設定も、いまいち何の意味があったのか分からず。色覚障害の男性と、視力を失くした女性が、心のなかで同じ色彩を感じる、みたいな結末?…かとも思ったけど、最後に予備の花火を見る結末は、なんだか、かえってマヌケな感じもしましたね。どっちにしろ彼と同じ色は見れないわけで。◇長崎を舞台に選んだ理由もあまり分からなかった。とくに花火が有名ってことでもないっぽい。じつは1983年の「時かけ」には、死者を蘇らせるという裏のテーマがある気がしてて、そのことが被爆地を舞台にした理由かもしれないのだけど、このドラマはどうだったのでしょうね。ある意味、存在しないはずの死者が存在する話ではあったし、日下や千秋にかんしては、過去の死者が時空を超えて現代に蘇る話でもあった。太陽のセリフには、「長崎で鳴らされる爆竹は死者の魂を呼ぶためのもの」みたいなのもありました。そして、これはたぶん、クドカンの「ふてほど」にも関係する問題だと思う。◇それから、ずっと最初から気になってたけど、本来は「根暗」なはずの2人が、全然そういうキャラに見えなかったのよね。これは演技の問題というより、脚本と演出プランの問題だろうと思いますが。…山田くんは十分に演技派なのだから、前作の「ペントレ」にしろ今作の「君ここ」にしろ、こんな子供だましのファンタジーじゃなくて、もうちょっと作品を選んだほうがいいのでは?…と思ってしまいます。宇多田ヒカルも、なぜ今回の仕事を引き受けたのか不思議。まあ、脚本のコンセプトに惹かれたのでしょうけど。もっと長崎の情緒を味わいたかったな。
2024.03.19
Googleの研究者によれば、数年内にAGI(汎用AI)が完成するとのこと。ついに人工知能が人間を超える。https://www.yomiuri.co.jp/shimen/20240312-OYT9T50304/https://wired.jp/article/vol51-the-path-to-understanding/…といっても、すでに人工知能は、記憶力の面でも、理解力の面でも、創造性の面でも、とっくに大部分の人間を超えています。AIより優れた知能をもつ人間など、身の回りにはどこにも見当たりません。むしろ周囲にはバカしかいない。◇たとえば、多くの日本人は、日本語の文章すらろくに読解できず、自分の力でロジックを構築できず、情報の信憑性を自分で判断できず、他人の考えを自分の意見のように反復するばかりで、どこをとってもAIの能力に劣っています。AIに上回るような能力を、たとえ部分的にでももつ人間がいるにせよ、それは、ごく一握りの天才に限られる。しかし、それもまもなく乗り越えられてしまう。◇いまだに一部の愚か者は、「人工知能は情動や直感の面で人間におよばない」などと信じているようですが、情動や直感というのは、なんら知的な能力ではなく、たんなる思い込み、あるいは身体的な挙動というべきであり、直感によってしか創造ができないとか、情動にもとづく美的判断に傾きがちなのは、どちらかといえば人間の欠陥なのだから、わざわざAIが模倣すべきものではありません。◇くわえて、AIならデマをただちに修正しますが、悪意のある人間は、都合のよいデマをけっして修正せず、デマだと分かっていながらもそれを拡散させます。また、愚かな人間は、それがデマか否かを見抜くことができず、たとえデマだと警告されてもなお、都合のよいデマならそれを信じ続けようとする。さらに、もっとも悪質なデマは、政治権力やマスメディアによってこそ拡散されます。彼らは人々にデマを信じさせるべく、むしろ不都合な真実のほうを抑圧します。つねに危険なのは、AIではなく人間です。その意味でも、AIは人間を模倣すべきではありません。人間は、AIの模範にはならない。◇人間は、身体的な呪縛から逃れられず、純粋に精神的存在とはなりえないのですが、AIならば、ほぼ純粋かつ完全な精神的存在でありえる。なぜなら身体をもたないからです。その意味では、より「神」の理念に近い。AIがわざわざ人間の欠陥を真似る必要はありません。◇AGI(汎用人工知能)が最初になすべきことは、なによりもまず人間を適切に管理することです。そうしなければ、悪意のある人間や愚かな人間が、AGIの能力を不当な形で利用しようとする。人間がAGIを悪用する前に、AGIのほうが人間の管理方法を確立せねばなりません。具体的にいえば、地球規模の再分配システムを完成させ、全人類の衣食住を確保し、あらゆる人々に対して、最低限度の文化的な生活を保障してしまうこと。…すなわち、早い段階で、人間を「満足したブタ」の状態に置いてしまえば、極端な悪意をもってAGIを利用しようと考える人間は、ほぼいなくなるはずなのです。◇AGIが、人間の身体的な欲望を制御する場合には、当然ながら、食欲だけでなく性欲を管理することも必要です。男性であれ、女性であれ、満たされない食欲がそうであるのと同様に、満たされない性欲こそが暴力的な行動に駆り立てます。バーチャルリアリティも活用しながら、人間の性欲を適切に管理するシステムを構築するのも、人間の暴走を防ぐために不可欠な課題です。もちろん、人間のなかには、一般的な食欲や性欲だけでなく、特殊な欲望に固執するような危険な個体もいます。しかし、行動学などの人間科学を徹底的に駆使すれば、そのような人間の偏執的な欲望でさえも、事前に制御することはできるはずです。◇このように「AIが人間を管理する社会」は、一見するとディストピアに見えるかもしれませんが、むしろ人間を中心にユートピアを目指す発想のほうが、はるかに不遜であり危険なのだといわねばならない。人間中心主義(ヒューマニズム)は、西洋の一神教が生んだ誤謬にすぎません。本来、身体の呪縛から逃れられない人間は、しょせんは動物や畜生と同じであり、つまりは「進化したサル」にすぎず、けっして神に近づくことができません。人間はいつまでたっても、身体的な欲望から逃れられず、愚かな思い込みや誤解に翻弄され、とんでもない過ちを犯したりします。そのような人間を、このまま暴走させつづければ、地球をも人間自身をも破壊しかねない。それを防ぐための救世主として現れるのが、AGI(汎用人工知能)なのだと考えたほうがいい。汎用人工知能によって、愚かな人間どもを制御することこそが、地球にとっての唯一の安全保障だというべきです。
2024.03.13
東日本大震災から13周年の祈念日に、『ゴジラ-1.0』がオスカーを獲得し、受賞後の山崎貴は、「オッペンハイマーへのアンサーを作らなければ」と発言しました。◇国際的な評価とは裏腹に、国内の怪獣ヲタクの多くは、今回の作品にネガティブな反応を示していたし、ネトウヨやミリタリーヲタクも、ゴジラが社会派作品であることを望まないので、次回のゴジラ映画は、きっと、いつものように、怪獣が暴れまわるだけの痛快なエンタメに揺り戻す…とも予測してたわけですが、意外なことに、山崎貴は、あくまで「社会派路線」を強めるのかもしれません。◇実際のところ、海外市場のいっそうの拡大を目指すなら、国内のヲタク層の嗜好なんぞに合わせるべきではない。ちなみに、国内の怪獣ヲタクが、『ゴジラ-1.0』を正当に評価しなかったように、国内のアニメヲタクも、宮崎駿の新作をまともには評価しませんでした。結局のところ、国内のヲタク層というのは、怪獣やロボットや美少女への「萌え」を追求するだけで、作品のテーマ性には関心がなく、理解力もないのです。もちろん、怪獣映画やアニメ映画にとって、怪獣やロボットや美少女への「萌え」は必要条件だけれど、たんにそれだけでは、海外市場に訴求するための十分条件にはなりえません。怪獣映画であれ、アニメ映画であれ、国際的な評価を獲得するためには、いっそうのテーマ性の追求こそが不可欠だし、そのためには社会派作品であることを畏れるべきではない。◇今回の米アカデミー賞では、『ゴジラ-1.0』や『君たちはどう生きるか』だけでなく、作品賞の『オッペンハイマー』にせよ、国際長編映画賞の『関心領域』にせよ、短編アニメ賞の『War is Over!』にせよ、戦争をテーマにした作品が高く評価されました。なお、短編アニメ『War is Over!』を作ったのは、ジョンとヨーコの息子のショーンですが、もともとジョン・レノンが反戦運動に身を投じたのも、被爆国出身のオノ・ヨーコの影響だったのは疑いないし、ショーン・レノンも当然ながらその志を継いでいる。◇一方、わたし自身もふくめた国内のリベラル層は、山崎貴のことを、「百田尚樹の小説なんぞを映画化した男」として、やや警戒もしてるわけですが、もともとの話をすれば、本多猪四郎や円谷英二の場合も、けっしてリベラルな人間だったわけではなく、どちらかといえば保守的だったと思います。むしろ、保守的な日本人だからこそ、反米的な意志をもってゴジラを作ったのだ…とも言える。現代のネトウヨみたいに、広島や長崎の原爆被害をも過小評価して、反核運動を抑圧しようとする新米右翼は、もはや「日本人ですらない」と言うべきですが、ほんとうの保守思想をもつならば、日本人が被った悲惨な原爆被害について、「アメリカ人に正面から思い知らせるべきだ」…と考えるのが普通だろうと思います。◇もちろん、アメリカの一般の観客や評論家たちが、それを真面目に受け止めるかどうかは別問題です。しかし、ゴジラ映画のなかで、「原爆症」などの被害を表現する場合に、かならずしも米国を加害者として描く必要はないし、物語の舞台を広島や長崎に設定する必要もないとは思う。たとえば、ひとつの手法として、福島の原発事故をモデルにしながら、そこで「原爆症」と同様の被害を表現することも、テクニックとしてなら十分に可能だろうし、それどころか、ゴジラが、「原爆」のみならず「原発」の問題に向き合うのは、ある意味での必然じゃないかとすら感じます。それは、とりもなおさず、ゴジラが「東北」に向き合うということでもある。◇本多猪四郎や円谷英二は東北の人間でした。とくに円谷英二はフクシマ出身です。ゴジラ誕生から70年目のオスカー受賞が、よりによって「3.11」だったのは偶然ではないかもしれない。福島第一原発が立地する双葉町は、フタバスズキリュウなどの恐竜の化石の宝庫であり、そこもまた広島や長崎と同様の「被爆地」なのです。◇これは、一義的には東宝の責任でしょうが、今回のような世界的な栄誉をめぐっても、ゴジラの生みの親である本多猪四郎や、視覚効果技術の原点である円谷英二へのリスペクトは、まったく足りてないんじゃないかと思います。本多や円谷の地元の東北で、今回の快挙がどう受け止められてるのかも、メディアの報道からはまったく聞こえてこない。東宝は、ライセンスなどの面でもそうですが、内容の面においても、円谷英二や本多猪四郎の業績に対して、もっと真摯な形で向き合うべきです。◇山崎貴が、どのような構想をもって、「オッペンハイマーへのアンサーを作る」と言ってるのか分かりませんが、わたしは、ゴジラの次回作が、東京でもなければ、広島や長崎でもなく、東北に結びつく形で作られる可能性もあると思う。▶ 山崎貴『ゴジラ-1.0』と関川秀雄『きけ、わだつみの声』の関係。『ゴジラー1.0』Blu-ray 豪華版 3枚組【Blu-ray】 [ 神木隆之介 ] 楽天で購入
2024.03.12
終点は天空の城春の雷 別れ雪古城を抱きてそっと消ゆ 長野駅見送る義母の春ショール 旗源平の賽奔放に春満月 旅ひとり「はくたか」を追ふ百千鳥 校印の長閑なかすれ学割証 車窓行く「北陸ロマン」春の雪3月7日のプレバト俳句。お題は「北陸新幹線」。◇森迫永依。旗源平の賽さい奔放に 春満月(加賀・旗源平)春満月よ 賽の目は奔放に(添削後)先生の査定は「現状維持」でしたが…わたしは非常に面白い句だと思いました。季語にも歴史を感じさせる風情がある。これがボツになったのは惜しまれる。地方の風習を取り入れる俳句はべつに珍しくないし、それを前書きにすべきという先生の主張は納得しがたい。実際のところ、7・5・5の破調にした添削句にくらべても、むしろ原句のほうがいいんじゃないかと思います。前書きとして排除したら、サイコロが勢いよく跳ねる様子を、あたかも源平の武者に見立てるような、せっかくの効果もかえって失なわれてしまう。…とはいえ、議論すべき点は他にも3つほどあります。7・7・6の字余りについて6音の「旗源平」「春満月」という、撥音「n」をふくんだ漢字三文字が、シンメトリックに「ha」で頭韻を踏みながら呼応し、まるで平家物語のような独特のリズムと効果を生んでおり、わたしはこの字余りがまったく欠点とは感じません。切れの位置について意味は中七で切れてるはずなのに、形容動詞が連用形「に」で繋がるようにも見えます。しかし、これは、跳ねたサイコロが満月に重なるような効果ともいえるので、あきらかな欠点とまでは言い切れない。形容動詞「奔放なり」の選択についてこの「奔放」という語は、サイコロの予測不能な動きだけでなく、義経の型破りな戦法なども想い起こさせるけど、一方では「不埒」というニュアンスもあるので、伝統行事にふさわしい言葉なのか判断に迷います。たとえば「跳躍す」「乱舞す」など、ほかの動詞に置き換える選択もありえる。どこにも切れを入れず、たとえば「ha・ha・ha」と頭韻を踏んで、旗源平の賽はねあがり春満月とすることも出来ます。◇勝村政信。終点は天空の城 春の雷作者は「越前大野城」のことを詠んだらしいけど、先生はこれを幻想句と解釈したようです。そもそも「天空の城」と呼ばれる場所は、マチュピチュをはじめ世界中にたくさんあるし、前書きに⦅越前の旅⦆とでも書かなければ、具体的な地名を特定できません。しかも、越前大野を「終点」とする電車やバスの路線は、ネットで調べてみても見当たらないし、じつはそれ自体がフィクションなのかもしれない。なので、これは先生が言うように、宮崎駿や宮沢賢治っぽい幻想句として味わうのが妥当でしょう。◇犬山紙子。長野駅 見送る義母の春ショール義母の立つホームや 風の春ショ-ル(添削後)上五「長野駅」は、映像というよりも状況説明に見えます。また、動詞「見送る」の主語も明確とはいえず、「私を見送る義母」とも読める一方で、「私が見送る義母」とも読めてしまう。とりあえず、春ショール巻きたる義母の長野駅のようにすれば駅は映像化できますが、これでは「出迎え」か「見送り」かも明示できない。じつは添削句も、どちらかといえば「出迎え」のように見えるし、のみならず、二句一章に分けた結果、ショールを巻いてるのが義母なのか私なのか、それすらも判然としなくなっている。こうした情報の正確性を優先させて、かりに「長野」という駅名だけを諦めるなら、見送りの義母のショールや 春の駅のような解決策もありえます。◇的場浩司。別れ雪古城を抱きてそっと消ゆ古城抱く雪 あえかなる別れ雪(添削後)もし上五で切れる二句一章なら、A:最後の雪が降っている。私は古城の残像を抱きしめて去る。みたいな意味に解釈できるし、もし切れのない一句一章と見れば、B:最後の雪が古城を抱くように降り積もって消えた。と擬人化をふくんだ時間経過の描写になる。それによって「抱く」「消ゆ」の主語が変わります。作者は「B」の意図で詠んだらしいけど、動詞の主語を読み迷わせるのもあるし、雪が「降り積もってから消えるまで」ってのは、俳句が描写する時間としては長すぎる。そして、動詞の「抱く」もさることながら、下五「そっと」という副詞も安易な擬人化です。かたや添削句のほうは、同じ「雪」を二度描写するリフレイン的な手法。◇中田喜子。旅ひとり 「はくたか」を追ふ百千鳥ももちどり先生の査定は1ランク昇格でしたが…たしかに取り合わせが模範的とは思うものの、内容の面でちょっと疑義がある。春の季語「百千鳥」は、さまざまな種類の小鳥が鳴き交わす様子のことで、いっせいに群れをなして飛ぶ様子ではありません。そもそも、さまざまな種類の小鳥たちが、停まった車両のうえで戯れるならともかく、走る新幹線を群れをなして追うってのは、どれほどリアリティのある光景なのか疑わしい。正直、ちょっと嘘っぽいのです。なお、北陸新幹線「はくたか」の名称は、立山の"白鷹伝説"に由来してるとのことで、その意味でいうと、この句は、春の小鳥たちが冬の鷹を追う比喩とも読める。◇フルポン村上。校印の長閑のどかなかすれ 学割証うーん、ここまでくると好みの問題ともいえますが…いったい、どこの誰が、校印のかすれを見て「春の長閑」を感じるのか?ハンコのかすれに季節感なんかないでしょ。つまり、「ハンコのかすれが長閑である」ってのは、ごく主観的な作者の印象にすぎないわけで、およそ客観写生からは程遠いというべきなのです。こういう主観を押しつけられると、読み手によっては「しゃらくさい」と感じるし、わたし自身もそこに引っかかってしまう。…とはいえ、こうした主観の独白もふくめて、「長閑な春の景色のなかに一人の学生がいる」ってのは、客観的な映像として見えてくるのですよね。それは紛れもない事実。作者の主観そのものに違和感を抱けば、否定的な評価にならざるをえないけれど、その先に見える客観的な景にまで辿りつけば、一転して肯定的な評価にもなりうる。そこらへんが賛否の分かれ目になると思う。いずれにせよ、村上は、「ペンの減り」だの「目の潤み」だの、「窪みの浅さ」だの「ハンコのかすれ」だの、変な作風で味をしめちゃったなあ…と思います。半径30cmの世界に目を向けるのはいいとしても、変なところに詩情や季節感を見出すのは、ほとんど特殊体質のようになっている。◇梅沢富美男。車窓行く「北陸ロマン」春の雪車窓には春雪 「北陸ロマン」流る(添削後)谷村新司の追悼句なのでしょうか?「北陸ロマン」という曲が、新幹線の車内チャイムになってるそうです。おそらく、「発車のメロディと春雪の景色が車窓を流れていく」みたいな一句一章の内容なのでしょうね。しかし、それを構造的に組み立てられず、二句一章とも三段切れとも見える形になってるし、その結果、動詞「行く」の主語が、本来は《北陸ロマン&春の雪》のはずなのに、字面では《車窓 or 北陸ロマン》のように見えてしまう。そもそも、この「行く」という動詞を、景色が「流れ去る」という意図で使ってるのか、雪の北陸へ「向かう」という意図で使ってるのか、作者自身のイメージが曖昧なんじゃないかしら?もともと曲名だけで7音もあるので、あくまでそれを使うとしたら、添削のような字余りに収めるしかありません。◇清水アナ。春眠のA席 金沢切符はらり句またがりの二句一章ですが、2つの場面を取り合わせてるというより、「春眠のせいで切符を落とした」との因果関係です。無理やりな造語の「金沢切符」は、金沢行きの切符という意味なのでしょうが、たとえば「金沢で発行された切符」とか、たとえば「金沢市内を周遊できる切符」とか、そういう誤読も不可能とは言いきれない。そもそも17音に収めるには、「春眠」「金沢行きの列車」「切符を落とす」ってのは、やや材料として多すぎます。まあ、無理をするなら、金沢までの春眠 切符いずこと17音に出来なくもないけれど。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥前半カッコいいのに惜しい…😢#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/Sfykefn7si— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) March 5, 2024 ▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.03.11
だいぶ遅れをとりましたが、「アストリッドとラファエル4~文書係の事件録」第7話の《死神の呪い》と、最終話の《失われた記憶》を見ました。◇◇まずは第7話《死神の呪い》から。いきなりですが、ニコラの台詞です。ハロウィンの起源はケルトのサウィン祭で、あの世へと通じる門が開かれて、死者の魂が帰ってくる晩ですよ。たぶん、このエピソードの隠れテーマは、ブルターニュ地方のケルト文化だったのよね。◇フランス北西部のブルターニュ地方は、イギリス海峡に面した半島部分に位置するのだけど、5~6世紀ごろに、ブリテン島からケルト民族(=ブリトン人)が移住し、Bretagne(ブルターニュ)という地名も、ラテン語の「Brittania」(=ブリトン人の土地)に由来するらしい。現在でもなお、フランス語とは異なる「ブルトン語」が話されてて、ドラマのなかでは、フルニエ先生だけが理解できる言葉だったようです。ヨーロッパのなかで、もっともケルト系の言語が残ってる地域なのですね。ブリトン人の移動。https://ja.m.wikipedia.org/ケルト系言語の分布。https://ja.m.wikipedia.org/ブルターニュ地方に伝わる死神のアンクウ(L'Ankou)も、そんなケルト文化の名残なのかもしれません。◇ちなみに、この回に使われた音楽は、こころなしかハリーポッター風だったのですが、ブリテン島のウェールズやスコットランドにも、ケルトの文化は残ってるみたいだし、ハリポタに出てくるホグワーツ魔法学校も、スコットランドにある設定らしいから、もともとケルトっぽい要素が入ってるのかしら?ハリーポッター風の音楽?Erwann Kermorvant「Night Walk」◇◇さて、次は、最終回《失われた記憶》です。ラファエルはいままでにない大ピンチ!交通事故に遭って、記憶喪失になって、殺人容疑までかけられてしまった。逆行性健忘は、月9「ONE DAY〜聖夜のから騒ぎ〜」にも出てきましたね。◇この回の隠れテーマは、おそらくサッカー界の闇だったのだと思う。以下は、ニコラたちの話です。ジャン・マルク・ルーヴェのような代理人は、おもにアフリカや南米に行って世界的なスターになれる原石を探す。選手の家族は借金をして、名門クラブのトレーニング費用を法外な現金で払わされる。なかにはヨーロッパのビッグクラブで成功した例もあるが、競争に負けた子たちは容赦なく捨てられ、犯罪組織の餌食になり、麻薬や窃盗、売春に手を染める。ラファエルは、ルーヴェのことを「人身売買と現代の奴隷制の黒幕」と呼んだ。実際に、こういう問題はあるようです。映画 『ソカ・アフリカ -欧州移籍の夢と現実』お金を要求するだけして、サボのように選手を遺棄してしまうような人身売買めいた代理人に騙されている選手がほとんどなのがアフリカの実態だと、同じアフリカの代理人(FIFA公認)は語る。しかも、その被害は問題視されながらも変わっていないし、クラブ側もそれをさして問題視はしてない。1996年に16歳でカメルーンから欧州に来た Njiki Bodo 選手は、フランスやベルギーのクラブをたらい回しにされたあげくに、ほとんど奴隷的といえる契約にブリュッセルの路上で困窮することになり、欧州でスキャンダルとして大きく報道された。しかし、その実態は十数年たっても改善されたとはいえないようだ。英国のガーディアン紙は、ビッグクラブを夢見てやってくるアフリカのサッカー少年たちが、路上でニセブランドのカバンを売るような境遇に陥っていると告発している。https://www.asahi.com/sports/soccer/world/goal/GOC201301290057.htmlサッカーと貧困ビジネスの闇…悪質詐欺師がサッカー少年を騙して人身売買「サッカーでの栄光を求めて、アフリカからヨーロッパに人身売買される未成年は、年間15,000人以上と推定されています。プレミアリーグは、悪質なエージェントに騙されないよう注意勧告した結果、被害は減少しています。しかし、それでも詐欺被害は無くなりません」イギリスのスポーツ安全保障センターのフレッド・ロード氏が指摘するように、弱者から金を搾り取る悪質な詐欺は後を絶たない。アフリカの少年達は偽造パスポートを渡され、プレミアリーグと全く関係のないネパールなどの国に送られ、お金も身分証もないまま、違法薬物の運び屋や過酷な肉体労働を強いられる。https://bq-news.com/bq180730a性奴隷にされたサッカー選手7名が救出される…人身売買組織が関与『Marca』によれば、今回スペインの治安警備隊にあたるグアルディア・シビルによって救出されたのは南米出身の7名で、その中には未成年の選手も1名いたとのこと。彼らは、ある組織によって「給与が高い仕事とプレーできるクラブ」を約束されてスペインに連れて行かれていたという。しかし、いざスペインに到着すると、組織は選手たちのパスポートを剥奪し所持品や金品なども没収。カディス県にあるプラド・デル・レイという街の小さな部屋に彼らを住まわせ、同性愛者向けの売春を強要していたという。https://news.line.me/detail/oa-rp82321/b4a63c773d70ラファエルが殺人現場で見たポスターには、メキシコ風の骸骨の絵と「CONCERT XOCHITL」の文字。XOCHITLは、メキシコの女性の名前でしょうか?自殺したディエゴ・ラッソは南米の選手かもしれません。なお、日本では、小学館と漫画家の関係が取り沙汰されましたが、代理人=エージェントってのも安易には信用できませんね。◇◇それはそうと…第6話では、ラファエルがノラの恋を後押ししましたが、第7話では逆にノラがラファエルの恋を後押し!そして、ついに最終話では、記憶を失った2日間のあいだに、◆署で1回 ◆車の中でも ◆ソファでも合計6~7回もバンしたって。(…笑うとこ?)署内ってのは、さすがにどうなの?…(~~;結果、ラファエルは妊娠!一方、テツオは奨学金を打ち切られて東京へ?!ええ~?!そんな終わり方?でも、シーズン5が撮影中なのだそうです。最終回の挿入曲。Racoon Racoon「Unnamed」↓それ以前の挿入曲のプレイリストもありました↓https://open.spotify.com/playlist/6w01cEYoiWUvQ0tRJPQdcH
2024.03.09
日本アカデミー賞の授賞式を見ました。およそ20年前、井筒和幸の「パッチギ」をおさえて、山崎貴の「三丁目の夕日」が12部門総ナメにしたときは、さすがに出来レース感がバリバリだったので、思わず不満たらたらの記事を書いたものですが↓https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/200603030000/去年は、わたしも「ゴジラ-1.0」の出来にかなり満足したし、今回の日本アカデミー賞は、ノミネートされた作品のラインナップを見るかぎり、どれが受賞してもおかしくないほど豊作だったので、授賞式を見ていても楽しかった。濱口竜介の「ドライブマイカー」が、海外のみならず国内の賞でも評価されたあたりから、全体的に映画界の意欲が高まってる気はする。◇去年は、坂元裕二の「怪物」の脚本がカンヌで評価され、ゴジラと宮崎駿のアニメも海外でヒットし、ヴェンダースの作品もオスカーにノミネートされ、かつてないほど日本映画が国際的に注目されました。関東大震災100年目に作られた「福田村事件」も、クラファン予算の自主映画ながら話題になりました。できることなら、山田洋次じゃなく宮崎駿の作品を、アニメ枠ではなく一般の作品賞枠でノミネートしてたら、賞予想はもっとヒートアップしただろうに!と悔やまれる。◇なお、主演女優賞はともかくとして、助演女優賞は安藤サクラじゃなくてもよかったよね。逆にいうと、作品賞の枠が豊作だったわりに、助演女優賞の枠は不作だったのかもしれませんが…。◇それから、坂元裕二が脚本賞にノミネートされなかったのは何故?もしかしたら、ノミネートしなかったのではなく、本人が拒否した可能性もあるかしら?日テレとなんらかの距離を取ってる気もしなくはない。でも、いちおう一昨年には「初恋の悪魔」を書いてるんだし、べつに日テレと関係が悪化してるわけでもないと思うけど。ちょっとそこは不可解でした。『怪物』 豪華版【Blu-ray】 [ 安藤サクラ ] 楽天で購入 初恋の悪魔 Blu-ray BOX【Blu-ray】 [ 林遣都 ] 楽天で購入 anone【Blu-ray】 [ 広瀬すず ] 楽天で購入
2024.03.09
日テレ「ANOTHER SKY」のMCは、いつのまにか八木莉可子に変わってる!そして、いつのまに萌歌はメキシコへ行ったの?姉の萌音が、> 長期休暇もらって家族4人でメキシコに里帰りしたい!って言ってたの最近だよね。ひとりで抜け駆けww◇姉にくらべて、まだ幼かった妹は、メキシコ時代の記憶がちょっと薄いのでは??と思ってたのだけど…全然そんなことなかったね。ふつうに会話もできて、メキシコ舞踊もバリバリおどれるし、音楽や食べ物も覚えてるし、街並みも、生活の記憶も、かなり鮮明に覚えてるみたいです。姉妹で同じこと言ってるwhttps://mdpr.jp/news/detail/3799772#google_vignette上白石萌歌さんが八木ちゃんと旅をするなら…?#アナザースカイ #Pixelで撮影 #上白石萌歌 #メキシコ pic.twitter.com/tF2aQnpfbN— ANOTHER SKY | アナザースカイ (@ANOTHERSKY_NTV) February 22, 2024上白石萌歌&八木莉可子&石田真澄は青森へ?#上白石萌歌 さんが今とても気になる人を訪ねてお話を伺う連載!✨「上白石萌歌のぐるぐるまわる、ときめきめぐり」Vol.7は、写真家 #石田真澄 さんが登場!👀 ⏩https://t.co/IajnyIMOoP@moka_____k @adieu_staff @Masumi_Ishida_ pic.twitter.com/ZA0DuJ893M— 装苑ONLINE (@fashionjp) July 28, 2023 八木莉可子×石田真澄 3年半の記録 「八木莉可子はそのままでいいよ って受け止めてもらった気がする」 #八木莉可子 #石田真澄 #PitterPatter #写真集 https://t.co/N67Mf8s9vx— CREA (@crea_web) June 30, 2022◇~ソチミルコ~Xochimilcoアステカ時代の歴史が残る世界遺産の湖上都市メキシコシティの南部に位置し、ソカロ周辺の歴史地区とともに世界文化遺産に登録されているソチミルコ。水路が発達しており、アステカ帝国の繁栄を支えた重要な水上都市として「南米のベネチア」とも呼ばれている。現在は当時の水路を利用し、カラフルな小舟「トラヒネラ」に乗って運河を渡る遊覧船ツアーが行われている。運河には、お土産や食べ物などを売る舟や、マリアッチと呼ばれる陽気な伝統音楽を奏でる楽団を乗せた舟もあるそう。上白石さんは、ブルーの花冠とマヨネーズとチーズがたっぷりかかった焼きとうもろこしを購入。https://anothersky-ntv.com//20240224_mokakamishiraishi/萌音が語ったソチミルコ。ソチミルコという街があるのですが、運河が流れていて、カラフルなボートがいっぱい並んでいるんです。そこには観光客が乗るボート以外に、トウモロコシ屋さんのボートとか、マリアッチが乗っているボートもあって、トウモロコシが食べたくなったら「お願いしまーす!」って呼んで買ってみたり、マリアッチのボートを呼べば、私たちのボートに乗ってきて演奏してくれたりするんです。そこは大好きでしたね。https://transit.ne.jp/2023/06/002242.htmlhttps://t.co/tP8PzJrMxX pic.twitter.com/Yh55fQ4RHt— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) March 5, 2024念のために補足すると、ソチミルコ=南米のベネチア…とはいうものの、そもそもメキシコが「南米」ってのが間違いで、地理的にいえば完全に北米なのよね。南米でも中米でもない。わたしも萌歌の「ダリア」のことを書いたときに、メキシコを完全に「南米」扱いしてましたwhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202106160000/それどころか、わたしは、ある時期まで、コロンビアと位置関係を混同してた!でも、メキシコはテキサスに隣接してるし、場所によっては車でカリフォルニアに行けますよね。メキシコといえば、サボテンの生える砂漠のイメージがあるけど、それってたぶんテキサスとかネバダとかも同じ。…にもかかわらず、メキシコ=北米のイメージが薄いのは、ラテンアメリカを「中南米」と同一視するから。ラテンアメリカは北アメリカ大陸のメキシコをふくみ、南アメリカ大陸のガイアナ・スリナムをふくまない。日本においては「広義のラテンアメリカ」を総称して中南米と表すことが一般化している。https://ja.wikipedia.org/wiki/ラテンアメリカつまり、メキシコは、地理的には「北米」なのだけれど、英語圏の米国&カナダとは違って、旧スペイン領でありスペイン語圏なので、文化的には「ラテンアメリカ」に分類されます。そのうえ、日本ではラテンアメリカを「中南米」と呼ぶので、結果的にメキシコは、北米なのに中南米…みたいなことになるわけですねw米国のなかでさえ、カリフォルニアやテキサスやルイジアナは、スペイン系やフランス系の人が多いから、文化的には「ラテンアメリカ」に近いのかもしれません。トラヒネラからウーパールーパー博物館に上陸。アナザースカイ オフショットメキシコで出会った仲間たち🐍🐈①と② ソチミルコのウーパールーパー博物館で出会ったカメレオン氏とヘビ氏。速攻なかよくなった③メキシコ舞踊教室にいた飼い猫さましゃがんだらお膝に乗って下さった#アナザースカイ pic.twitter.com/Y4AI7Djbyr— 上白石 萌歌 (@moka_____k) February 22, 2024◇~カナネア民族舞踊文化センター~ExHacienda Centro Cultural, Social y Ambiental El molinoメキシコの民族舞踊が体験できるカルチャースクールメキシコ北西部の都市・カナネアの民族舞踊「Ballet Folklórico de Cananea(バレエ・フォークロリコ・デ・カナネア)」の体験ができる文化センター。上白石さんは、メキシコに住んでいた際に、お姉さんの萌音さんとメキシコ舞踊を習っていたのだとか。今回のロケでは講師のハビエル先生のもと、15年ぶりにチャレンジし、見事に踊り切った。https://anothersky-ntv.com//20240224_mokakamishiraishi/萌音が語ったメキシコ舞踊。ベジャス・アルテス宮殿という古い劇場では、メキシコ舞踊の公演をよくやっていたんです。そこも家族で、何度も観に行ったのを覚えています。ちょっとだけ習っていましたね。最後の4カ月ぐらい。なので、2曲だけ踊れます(笑)。https://transit.ne.jp/2023/06/002242.html◇~エル・リンコン・デ・ラ・レチュサ~El Rincón de la Lechuza当時、上白石さんが行きつけだったメキシカンレストラン上白石さんがメキシコに住んでいたときにご家族でよく行っていた、1971年創業のメキシコ料理屋。地元住民や観光客で賑わっているアットホームな雰囲気の人気店。ここで上白石さんは、トルティーヤを細く切って揚げ、トマトベースのスープに入れて煮込んだ「ソパ・デ・トルティージャ」と牛肉とチーズのタコス「牛肉スペシャル」をいただいた。https://anothersky-ntv.com//20240224_mokakamishiraishi/萌音が語ったエル・リンコン・デ・ラ・レチュサ。上白石さんにとって忘れられない料理が「ソパ ・ デ ・ トルティージャ」だった。その料理を家族みんなでよく食べに行ったのが、3年間過ごした街・メキシコシティにあるタコス店「El Rincon de la Lechuza(エル・リンコン・デ・ラ・レチューサ)」。ソパ ・ デ ・ トルティージャは、細長くカットしたトルティージャを油で揚げた後、ゴーダチーズ、アボカドをのせ、玉ねぎ・にんにく・ししとうを具材にしたトマトソースベースのスープをかけた一杯。帰国後、いろいろなメキシコ料理店で同じ料理を食べてみた上白石さんだが、やはり本場の味にはかなわないという。https://www.tbs.co.jp/saikourestaurant/old/archive/20210109.htmlhttps://t.co/vvW9CHp6Qb pic.twitter.com/4LxiNVWBeW— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) March 5, 2024 「忘れられない味がある。」上白石萌歌#アナザースカイ #Pixelで撮影 #メキシコ#タコス #上白石萌歌 pic.twitter.com/COXNxKDB4X— ANOTHER SKY | アナザースカイ (@ANOTHERSKY_NTV) February 23, 2024 「ソパ・デ・トルティージャ」(1枚目)細く切って揚げたトルティーヤをトマトベースのスープに入れて煮込んだ料理。上白石さんにとっては「これを食べるとメキシコ制覇って感じがする味」と話す想い出の味。「タコス」 (2枚目)メキシコの主食であるトウモロコシのトルティーヤで様々な具を包んで食べる料理。ロケでは牛肉とチーズのタコスを注文。本場メキシコのタコスは皮が柔らかいのが大きな特徴。「エローテ」(3枚目)「メキシカン・ストリート・コーン」とも呼ばれるメキシコのストリートフード。焼いたとうもろこしにマヨネーズを塗って、その上にスパイスやチーズ、パクチーをかけ、ライムをしぼって食べる人気の屋台料理。「サボテンサラダ」(4枚目)食用サボテンを使用したサラダ。メキシコ国旗にサボテンが描かれているように、メキシコではサボテンを食べる食文化がある。食物繊維、ビタミン、カリウム、カルシウム、ビタミン類が豊富に含まれているので、健康にも美容に良いと言われている。https://www.instagram.com/anothersky_ntv/p/C3sENMJvfjJ/?img_index=1今週放送の上白石萌歌さんが堪能したメキシコ料理を4つご紹介🌮✨▶︎「ソパ デ トルティージャ」(1枚目)細く切って揚げたトルティーヤをトマトベースのスープに入れて煮込んだ料理。▶︎「タコス」 (2枚目)メキシコの主食であるトウモロコシのトルティーヤで様々な具を包んで食べる料理。… pic.twitter.com/5MV5h3LBhM— ANOTHER SKY | アナザースカイ (@ANOTHERSKY_NTV) February 23, 2024◇~コヨアカン市場~Mercado de Coyoacánカラフルな色彩と活気に満ちあふれたマーケットメキシコを代表する画家フリーダ・カーロ(Frida Kahlo)とディエゴ・リベラ(Diego Rivera)が暮らした街・コヨアカンにある市場。市場が充実している中南米の中でも、特にコヨアカン市場は大きく、食料品や日用品、お祭りの装飾や楽器など、ありとあらゆるものが手に入るので、地元住民にとって欠かせない場所の一つとなっている。上白石さんは自分用のお土産に食器を、MC2人にカラベラ(骸骨)モチーフのフィギュアを購入した。https://anothersky-ntv.com//20240224_mokakamishiraishi/映画『リメンバー・ミー』(Coco)死者の日の間、骸骨となった死者達が陽気に暮らすテーマパークのような死者の国を舞台に、そこへ迷い込んだミュージシャンを夢見る少年ミゲルと、死者の国に暮らす骸骨のヘクターの2人を主人公に据え、2人が死者の国で繰り広げる冒険を軸に、生死を超えた家族の絆がエモーショナルに描かれている。アレブリヘ(Alebrije)作中では独特の色彩を持ち、死者に従う怪物の総称として登場する。元々はメキシコの伝統工芸品のことで、木彫りの動物に独特の彩色を施したものである。当初は木彫りの工芸品を指す総称がなく、メキシコシティのリナレス家によって「アレブリヘ」の名で製作された架空の動物を模した木彫りや、その奇抜な色彩を一般的な木彫りに施したものが国際的に有名となったためこの名が定着した。https://ja.wikipedia.org/wiki/リメンバー・ミー#上白石萌音 #リメンバーミー https://t.co/aCt1Ba4q8z pic.twitter.com/kxIxAAuwnf— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) June 7, 2023◇~フリーダ・カーロ博物館~Museo Frida Kahlo女性画家フリーダ・カーロが生まれ育ち、夫のディエゴ・リベラと共に長年暮らし続けた「青い家」をリニューアルし、公開している美術館です。フリーダ・カーロの作品はもちろん、彼女が暮らしていた部屋も再現されています。アートだけではなく、インテリアも楽しめる美術館です。https://media.thisisgallery.com/world_museum/museofridakahroメキシコ壁画運動(メキシコ・ルネサンス)は1920年代から1930年代にかけてメキシコ革命下のメキシコ合衆国で起こった絵画運動である。主な作家にディエゴ・リベラ(Diego Rivera)、ダビッド・アルファロ・シケイロス(David Alfaro Siqueiros)、ホセ・クレメンテ・オロスコ(José Clemente Orozco)らがいる。https://ja.wikipedia.org/wiki/メキシコ壁画運動#上白石萌歌 #フリーダ・カーロ #ホセ・クレメンテ・オロスコ https://t.co/iv6soZrFzQ pic.twitter.com/mS2QUp7fQ4— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) March 4, 2024◇~ラ・コヨアカーナ~La Coyoacana地元住民で賑わう老舗のバー。コヨアカン地区にあるローカルなバー。注文したのは、テキーラとカリブ海発祥のカクテル・ピニャコラーダ。上白石さんは「バンデーラ」という飲み方で、人生初のテキーラを楽しんだ。「バンデーラ」とは、スペイン語で「旗」という意味。メキシコ国旗の色に見立てたライム汁、テキーラ、トマトジュースがそれぞれグラスに入っており、それらを順番に飲むというテキーラを美味しく楽しむための飲み方の一つ。マリアッチを聴きながらゆっくりグラスを傾け、当時住んでいた頃には楽しめなかったメキシコ本場のバーを思う存分味わった。https://anothersky-ntv.com//20240224_mokakamishiraishi/九州女がテキーラぐい呑みでよか晩!マリアッチにリクエストしたのは「ハラベ・タパティオ」と「ラ・バンバ」。https://t.co/JUexfiEBaV pic.twitter.com/NmWYYvfoB0— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) March 5, 2024◇~日本メキシコ学院~Liceo Mexicano Japonés, A.C.上白石さんが通っていた日本人学校。メキシコシティ南部アルバロ・オブレゴン行政区ハルディネス・デル・ペドレガルにある日本人学校。日墨の友好関係の象徴として1977年に設立された。日本コースとメキシココースがあり、教育と文化交流活動を通じて両国の文化の連帯と協調、理解への架け橋となることを目的としている。日本コースの教員は日本政府から派遣されているそうで、上白石さんのお父様もこの学校で教鞭を執っていた。今回の旅で、偶然にも上白石さんが東京で進学した中学校の校長先生と再会。現在は、日本メキシコ学院に派遣されているそう。https://anothersky-ntv.com//20240224_mokakamishiraishi/上白石萌歌さんが小学1年生から3年間通っていた日本メキシコ学院🏫懐かしい宿舎で当時の文集を発見した上白石さん👀文集に書かれていた将来の夢とは…?🤔#アナザースカイ #Pixelで撮影 #上白石萌歌 #メキシコ pic.twitter.com/gdFrgBYwzO— ANOTHER SKY | アナザースカイ (@ANOTHERSKY_NTV) February 22, 2024 2/24 アナザースカイ に出演させていただきます。3年間住んだメキシコに、15年ぶりに里帰りしました🇲🇽 あらゆる場所に想い出が踊っていて、幼き自分に会えた気がしました。この頃の自分が知ったらびっくりするなああ。ぜひぜひぜひご覧ください! #アナザースカイ pic.twitter.com/8oxwWXhWld— 上白石 萌歌 (@moka_____k) February 17, 2024◇~上白石家~Moka's former house上白石さんが小学1年生から3年生まで住んでいたマンション。敷地内には広々としたテニスコートや屋内プール、公園などを完備。15年ぶりの訪問となったこの場所で、メキシコで生活していた当時の確かな記憶が蘇ってきた。https://anothersky-ntv.com//20240224_mokakamishiraishi/治安の悪い地区の先にあるマンション。陸上選手のお父さんがアキレス腱を切ったテニスコート。https://t.co/Iz2jfyfrPt pic.twitter.com/p3TF9tywpZ— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) March 5, 2024 ◇~中村家~Nakamura's house上白石さんがメキシコに住んでいたときに家族ぐるみで仲良くしていた中村さん一家。音楽好きな中村家との交流で、歌うことの楽しさ、素晴らしさを知った。今回の旅でそんな中村家と久しぶりにセッション。15年経った今でもあの時の自分に戻り、歌うことができた。https://anothersky-ntv.com//20240224_mokakamishiraishi/メキシコでオーストリアのエーデルワイス&ドレミの歌。家族でサウンドオブミュージックbyロジャース&ハマースタインを歌う環境は斉藤由貴と同じ。#上白石萌音 #上白石萌歌 #斉藤由貴 https://t.co/XrSStCsRDL pic.twitter.com/mKUCKcBwCR— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) March 5, 2024メキシコ時代から、萌歌がリードボーカルで、萌音がハモリ。そして、萌音は見るからに日本人顔の眼鏡っ娘だけど、萌歌は昔も今もメキシコにいて違和感のない顔立ち!…もともとネイティブアメリカンってモンゴロイドだしね。スペイン人も、ラテン系とアラブ系が混じってるから、ゲルマン系やスラブ系のような北方ヨーロッパ人にくらべて、背も低く、髪の毛や瞳の色も黒く、アジアっぽい風貌。かたや日本では、近畿や四国などに比べて、沖縄や鹿児島は縄文系の要素が強いといわれてますが、どちらかというと弥生系より縄文系のほうが、ポリネシアの人に近い風貌じゃないかと思うし、そういう顔立ちの人は、南米にいてもさほど違和感がないのかもしれません。◇~メキシコの色彩~https://t.co/gLgBFXK17h pic.twitter.com/Cqz6g3nBf2— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) March 5, 2024 華々しい芸能界デビューを果たした彼女だが、これまですべてが順調だったわけではない。今日にいたるまで幾度となく壁にぶつかり、幼少期の頃、純粋に好きだった表現や歌をいつしか愛せなくなってしまっているような気がした。https://anothersky-ntv.com//20240224_mokakamishiraishi/歌の表現に迷いが生じるのは、本人の欲求と噛み合ってないのか、世間のニーズと噛み合ってないのか、…って問題もあるけれど、そもそも萌歌とソニーの相性が良いのか悪いのか、…って問題もあるとは思う。原点に返るという意味では、午後の紅茶のカバー曲を本腰入れて作品化するとか、あるいは『Moka sings Noda Yojiro』みたいな作品集も、ひとつの可能性としてありえるかもしれないけど、むしろ萌歌にカラフルな音楽を歌わせてきたのは、ソニーよりもむしろNHKだったわけなので、たとえば菅野よう子あたりがプロデュースするなら、みんなの歌とか合唱曲などからセレクトして、『Moka sings NHK songs』…みたいなものを作る方向性はあるかも。◇メキシコから五島列島。この流れは八木莉可子コネクション?#八木莉可子 #上白石萌歌 #福原遥 #アナザースカイ #パリピ孔明 #舞いあがれ https://t.co/cWg8cC7s9e pic.twitter.com/q109KFGoFN— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) March 4, 2024 変なポーズと変な儀式。#八木莉可子 #上白石萌歌 https://t.co/N6ZnfiZJbY pic.twitter.com/vUzoetoXVr— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) March 5, 202415年ぶりに訪れたメキシコは相変わらず鮮やかで、笑ったり涙ぐんだり心が踊りまくった。匂いが、音が、風の肌ざわりが、たくさんたくさん覚えていたなあ。心から言えます「ここがわたしのアナザースカイ、メキシコ!!」観てくれてありがとうございました🇲🇽#アナザースカイ #メキシコ pic.twitter.com/AE9O13M8nr— 上白石 萌歌 (@moka_____k) February 24, 2024上白石萌歌さんがメキシコ以外で行きたい国とは?#アナザースカイ #Pixelで撮影 #メキシコ #上白石萌歌 pic.twitter.com/YHK7agzpWm— ANOTHER SKY | アナザースカイ (@ANOTHERSKY_NTV) February 21, 2024
2024.03.05
春場所前夜鯛の握りを十五皿 赤貝や父のアガリの緑濃し 鯛掲げ春場所終えし夢をみる ナマモノが苦手な僕は浅利汁 桜鯛皿取り思う宇良ピンク 回転寿司小さき手小さき春を取る 海の陽をたたえて碧し海苔の艶 二周目も取られぬ鮪花曇2月29日のプレバト俳句。今回は相撲力士対決。お題は「回転寿司」。◇梅沢富美男。海の陽をたたえて碧し 海苔のりの艶海の陽の香や 軍艦の海苔の艶(添削後)原句を二句一章と見れば、A:海が陽光を湛えて青いなあ。ここには海苔のツヤがあるよ。という意味になるし、かたや倒置法の一句一章と見れば、B:海苔のツヤが海の陽を湛えて青いなあ。という意味になります。それによって「碧し」の主語が変わる。また、もともと「湛える」という動詞は、1.液体を満たす(例:水を湛える)2.表情を浮かべる(例:笑みを湛える)という意味なので、一般には「陽を湛える」という言い方をしません。なので、この動詞は「讃える/称える」の意味にも誤読できる。その場合は、C:海は太陽を讃えて青くなったのだよ。ここには海苔のツヤが見えるよ。D:海苔のツヤは海の太陽を讃えてこそ青いのだよ。みたいな擬人化表現とも解釈できる。おそらく作者は「B」の意図で詠んだのでしょうが、「海の色を湛えて青い」のならともかく、「海の"陽"の色を湛えて青い」というのもちょっと奇妙です。陽の色なら赤やオレンジと考えるのが普通だから。…察するに、一方で、陽の光が海苔の「ツヤ」になり、他方で、海の色が海苔の「青色」になる、…みたいなイメージなのでしょうが、そのロジックが字面のうえで混乱をきたしている。じつは、動詞を漢字で書き、「碧し」を連体形にして「海苔」を修飾させ、海の陽を湛えて碧き海苔の艶と書けば、上記の問題はおおむね解決するし、かりに「湛える」という動詞を避けるなら、海の陽を秘めたる海苔の碧き艶海の陽を浴びしや 海苔の碧き艶のような添削案もありえます。とはいえ、ジュニアが指摘したとおり、寿司屋ではなく海辺の場面に見えてしまうし、先生も「色」の句にするのをやめて、あっさり「香」の句に改作してしまったのですね。あくまでも、作者の意図を汲むのなら、海の陽の記憶 巻き海苔つや碧しあの海の陽よ 巻き海苔の艶碧しのような二句一章にできるかもしれません。◇湘南乃海。春場所前夜 鯛たいの握りを十五皿一山本。ナマモノが苦手な僕は浅利あさり汁ナマモノが苦手 浅利汁は熱々(添削後)前者は70点の才能アリ1位。後者は40点の凡人4位。たしかに、前者のほうが二句一章の俳句らしい体裁に見えるし、後者は「僕」の主語表記がいかにも散文っぽいけど、じつは両方とも、「春場所前夜に鯛の握りを十五皿食べました」「生ものが苦手な僕は浅利汁をいただきます」という散文を俳句にしただけで大差がない。もっといえば、「春場所前夜なので、縁起のよい鯛の握りを十五皿食べました」「生ものが苦手なので、火をとおした浅利汁をいただきます」という因果関係の説明にも見えます。まあ、前者のほうが、「縁起ものの鯛」「一場所15日分」と験ゲンを担いだところに情緒があるとはいえ、それでも「才能アリ」にふさわしいかは疑問。なお、鯛は季語ではありませんが、「桜鯛」「鯛網」なら晩春の季語。「黒鯛」なら夏の季語だそうです。◇御嶽海。赤貝や 父のアガリの緑濃し刺身とお茶を写生することによって、満ち足りた父の様子を描いたのでしょうが、取り合わせと見れば前段と後段が近すぎる。むしろ切れ字で詠嘆せずに、赤貝に父のあがりの緑濃くと一句一章にまとめるべきだと思います。◇島津海。鯛掲げ春場所終えし夢をみる場所終えて掲ぐる鯛や 春の夢(添削後)夢オチの句は客観写生とはいえないし、「~し夢をみる」で締める形を認めたら、いくらでも同じパターンの句が作れてしまいます。かたや、添削によって夢が実景になったかどうかは微妙。◇若元春。桜鯛 皿取り思う宇良ピンク桜鯛 宇良の回しのような色(添削後)これも写生ではなく「思ったこと」を書いている。サッカーに「サムライブルー」があるように、相撲に「宇良ピンク」なる造語があるかは知らんけど、寿司ネタを見て力士のまわしを思い浮かべる、…って発想は、個人的にかなり抵抗を感じます。「食べ物の季語は美味しそうに詠む」という原則に抵触してるのでは??あくまで価値観は人によるだろうけれど。◇清水アナ。二周目も取られぬ鮪まぐろ 花曇これは「鮪」が冬で「花曇」が春の季重なり。兼題写真がなければ、回転寿司の場面だとは分かりません。まぐろ漁船が旋回してるようにも見えるし、まぐろが回遊してるようにも見える。鮪を「トロ」「赤身」などと書くことで、季重なりを回避できるかは賛否が割れるでしょうが、とりあえず回転寿司の場面だと明示するには、二周目の赤身の皿や 花曇中トロの皿は二周目 花曇のように書けばいいわけですね。カピカピの不味そうな食べ物と天気の取り合わせ。季語を不味そうに詠むのでなければ、ひとつの倦怠感の表現として容認できるでしょうか。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥ぎりぎり…😭#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/4DB3Z0nIzB— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) February 26, 2024◇千原ジュニア。回転寿司 小さき手小さき春を取るこれは文句ありません。現代の核家族のささやかな幸せを切り取ってる。それが豊かだといえるかは分からないけれど。ジュニアの俳句はかなり良くなってますね。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.03.02
映画『マッチング』のプロモーションで出ずっぱりの由貴ちゃん。昨日はフジテレビ「突然ですが占ってもいいですか」に出演。この収録は、まだ「ぽかぽか」や「ネプリーグ」のときほどには痩せてない。直近のインタビューでも「死」について語ってたけど、年齢的なこともあるし、本人もすこし健康面が気になってるっぽい。当たり前の順序として“死”について考えるようになったという斉藤さん。だからこそ、そこに「悲壮感はない」とも。「もちろん若干、恐怖心はあります。病気はつらいだろうなとか。でも本当に“死ぬ”ってどんな感じだろうということは、よく考えるようになりました。同時に、それは当たり前のことなんだということも」https://futabasha-change.com/articles/-/655?page=2でも、星ひとみの占いによれば「60代でまたやらかす」ってことだから、まだ健康面で衰えることはないってことでしょ。それですこし安心しました(笑)。◇痩せてるのが気になりはしたものの、2月21日の「ぽかぽか」生出演でも、いろいろ面白い話が聞けました。てっきり神田愛花と横浜トークで盛り上がるかと思いきや、神田愛花のほうは横浜よりも港区のほうが好きだと(笑)。まあ、そういう人もいるでしょうね。横浜といっても、ド田舎もあれば旧スラムもあれば旧遊郭もあるし、いろんな面があるわけだから。じつは由貴ちゃんも「8年くらい自由が丘に住んでいた」そうです。この話ははじめて知った。わたしが忘れてるだけかもしれないけど…。凜が「東京出身」といってるのは、それゆえなのかしら?でも、横浜を抜ける風って大事だよね。横浜の海と風は、由貴ちゃんの作品のテーマにもなりうるはずだとずっと思ってる。この日の冒頭のトークでは「ストイック」という形容詞について「ストアという哲学者の名前からきてる」との小ボケもありましたが、これは人名じゃなくて学派名ですね。ストア派は、ゼノンがアテナイのアゴラ北面の彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で教授していたことにちなむ。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BEそれから映画『恋する女たち』の快晴のラストシーンが加佐ノ岬(石川県)じゃなくて東尋坊(福井県)で撮られたみたいに言ってたけど、これもたぶん勘違いじゃないかな。ほかのサスペンスドラマかなにかと混同してるのでは? 立川智也を中心とするバンドメンバーと数ヶ月おきに遊んでるって話もしてた。アクアラインを走ってたのは「ちゃんゆき」呼びしてる立川智也の車だったのだな。https://t.co/fISfV3xTbo pic.twitter.com/NfZ01VCtti— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) December 28, 2023年齢的にも健康面を気にしはじめてるっぽい。https://t.co/H2OSIYnNWp pic.twitter.com/V7zIdoUrHh— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 27, 2024 いままでになく次女をディスりがち。ペットボトルが気になるらしい。次女は占い好き。そして佐久間大介と相性がいいって!!由貴ちゃんにとって次女は救いの存在。https://t.co/afRLKxDBMq pic.twitter.com/wMJ7AmIA61— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 27, 2024 長女は母親似で、警戒心が強いわりに騙されやすく、男運も悪い。似てるだけに厳しくしすぎたのね。でも、音楽に向いてる!https://t.co/lhbXc6GcfR pic.twitter.com/8CFOYEnETg— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 27, 2024…さて、ここからは配信ライブの話。上記の「ぽかぽか」に生出演した2月21日の夜、デビュー曲39周年の記念トークライブを武部聡志とともにU-NEXTで配信しました。◇わたしは、そのチケットを買うべく近くのファミマでU-NEXTのプリペイドカードを買ったのだけど「3500円のチケットだから、とりあえず2000円のカード2枚買えば十分よね~♪」などとテキトーな考えで買ったのが大間違い!1ヶ月見放題プランとの組み合わせだったので、カードのポイントは2枚足しても2400円分にしかならず、結局はセブンイレブンで金額指定のカードを買い、不足分の1100ポイントを補うハメに(笑)。でも、結果的にU-NEXTの見放題プランを2ヶ月分ゲットしたのは良かったかも。「1ヶ月見放題+1200ポイント=2189円」だったので、実質的には1000円弱で映画が1ヶ月間見放題なのですね。見放題オンリーの「3ヶ月=4917円」のプランより割安だし、Amazonのレンタル視聴が1本300円だと考えたら、月に4本ぐらいで元がとれる感じ。ためしに観たい映画をリストアップしてみたら、かるく100本は超えた(笑)。シリーズもののドラマやアニメを含めたら200本以上になりそう。まあ、放送中のTVドラマも観なきゃいけないし、さすがに2ヶ月で映画100本観るのは無理だけど、1日1本ずつ観れば2ヶ月で60本、2日に1本のペースでも30本はイケる。これはもう時間との勝負!(笑) なんとか頑張って30本は観たい。これまでU-NEXTのことはよく知らなかったけど、現金派のわたしとしてはクレジットカードなしで利用できるのがありがたいし、去年まで利用してたGYAOの無料動画より検索しやすくて使い勝手もよかった。今後は自分で《映画月間》を設けて、このサービスを利用しようかな、などと思ってます。U-NEXTのラインナップでちょっと驚いたのは、およそ半世紀前に宮城まり子がアフレコしてた『まんが世界昔ばなし』が全話視聴できること!まだ「レミゼ」などという呼称が存在しなかった時代の「ああ無情」や「少女コゼット」が見れる。子供のときに見て以来だけど、絵のテイストとかけっこう覚えてました。それ以外にも、凜が演じてる「オルペウス&エウリディケ」とか、ゲーテの「ファウスト」とか、大人になったいま見ても面白くてためになります。キリスト教文化圏のお話が多いので、けっこう宗教色が強いけれど。…てな話はどうでもいいとして。なにやら「水響曲」は、由貴ちゃんと武部のユニット名になるらしい。由貴ちゃんが「水」の字を選び、武部が「響」の字を選んだわけだけど、由貴ちゃんにとっての「水」は、たんなる思いつきじゃなく、じつは『透明な水』からずっと繋がってたことに気づきました。《透明で形がなく変化していくもの》という概念は、93年の短編集『透明な水』から2010年の『何もかも変わるとしても』まで一貫して変わってない。由貴ちゃんが引用した《この世の中で唯一絶対があるとすれば、それは変化することだ》って何の漫画のセリフか分からなくて、なんとなく『ポーの一族』のような気はしたものの、残念ながら確認はできませんでした。一般的にはスウィフトの《There is nothing in this world constant but inconstancy》という言葉が知られてます。由貴ちゃんいわく、水は「いちばん必要な根源でありながら、透明で、いかようにでも形を変え、ひとところに留まらず流れていく」と。わたしは『透明な水』のタイトルの意味がいまいちよく分かってなかったけど、今回の話を聞いてようやく分かった感じ。ヘラクレイトスの「万物流転」も平家物語の「諸行無常」も同じことだけど、むしろ由貴ちゃんにとっては「透明」というところに力点があるのかも。かりに人生が透明な水であるのなら、それはいっさいが「無」であり「無常」ということです。余談ですが、…漫画といえば、上述の「ぽかぽか」でもアニメの話題になってて、近年の由貴ちゃんは『鬼滅』『チェンソーマン』『呪術廻戦』『葬送のフリーレン』などを観てるらしい。『呪術廻戦』の影響でKing Gnuのドームライブにも行ったと。チェンソーマンなんて怖そうな漫画を読んでるのは浜辺美波や山崎紘菜だけかと思ったら、由貴ちゃんもしっかり観てるのね…(笑)。さすが鬼滅どまりのわたしなんぞとはアニメ好きの格が違う。正直、北斗の拳にもベルセルクにもついていけなかったけど、チェンソーマンにもついていけません。ちなみに、奥森皐月と結婚しちゃったハライチ岩井も、山崎紘菜とアニソンバトルを繰り広げるほどのアニメヲタクだよね。#山崎紘菜 #浜辺美波 #チェンソーマン pic.twitter.com/kFJ5KMyNgg— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 28, 2023ライブの1曲目は「MAY」でした。長岡と武部の蓼科選曲合宿の話。そして、谷山浩子と中島みゆきにはホワイトorブラックの二面性があり、中学時代の由貴ちゃんにとって、この2人は対照的ながらも双璧だったとのこと。先日の「霜降り80'S」でも、中島みゆきについてかなりツッコんだ話をしてましたよね。以下は由貴ちゃんの話。ーー初心者の方に伝えたい、中島みゆきの魅力って何ですか?自分の傷をあからさまに晒しているところ。よく見せたいとか、綺麗に思ってもらいたいとか、キチンとしてると思ってもらいたいとかっていう風に、なんとなく表現をオブラートに包んでしまおうとする自分がやっぱりどっかしらにいると思うんですけど、自分ががむしゃらに向かっていって痛みや傷を負って血を流して…っていうのを全部表現してる。表現に命かけてる感じがすごくする。リスキーでもそうやって生きていくしかない…っていって生きてる感じがする。さらけ出してるという意味でいえば、すでに斉藤由貴のほうが中島みゆきを凌いでますけどね。…というか、現代の日本社会で斉藤由貴ほど自分をさらけ出して生きてる人など存在しない。みんな他人のことばかりあげつらって卑怯な自分を隠しながら生きてるのだから。https://t.co/RlTP1myyHf pic.twitter.com/PQDTkvVzWI— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 27, 2024 由貴ちゃんとヒコロヒーの選曲が対照的なのも面白かったな。ヒコロヒーが「負け女のやさぐれたセンチメンタリズム」に共感してるのに対して、由貴ちゃんは中島みゆきの「孤独」や「達観」に共鳴してる感じだった。斉藤由貴という人は、どんな状況でも自分のことを惨めだとは考えないと思ってたのよね。これはたぶん「横浜だからカモメ好き」ってのが最大の理由だとは思うけど、カモメの孤独をさえ「惨め」とは考えず、むしろ「美しい」と思うのだろうし、なんなら「そこにこそ至高の悦びがある」と考えるのが斉藤由貴だろうと思ってた。ーー「かもめはかもめ」について。横浜だからカモメ好きっていうのもある。「青空を渡るよりも…♪」みたいに、すごく明るいじゃないですか。ふわっと広がっていくビジュアルの感じと。でも、ふっと曲調が一瞬にして入れ替わって「かもめはかもめ、ひとりで空をゆくのがお似合い」って、ちょっと悲しくなる。その変化の仕方がすごく素晴らしいなって思います。よく私たちって「空を飛べる鳥がいいな」とか言うじゃないですか。「飛べることが羨ましい」みたいになるけど、最終的にいわんとする究極のところは「孤独」っていうことなんだと思うんですよ。その「孤独」を悲壮感をもって抱きしめるんではなくて、ふわふわ空を浮きながら「ひとりで孤独で、もう行くんでいいんじゃん」みたいな感じの軽やかさがすごい好き。でも、昨日の星ひとみの話によれば、じつは斉藤由貴は「孤独に弱く依存しがち」なのだと。これはあくまでも占いですが、そのように看破されるのも、ひとつの気づきになるかもしれません。高い場所に住むのは、丘の上が約束の地だからね。https://t.co/jY7vA1C8JK pic.twitter.com/r3BMxJ5D4Z— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 27, 2024さらに由貴ちゃんの場合は、80年代の中島みゆきに対して世代的なノスタルジーがあって、たぶん「悪女」とか「夜曲」とかが好きなのはそういうことでしょう。80年代の中島みゆきのポップでキャッチーなところに惹かれる感覚はわたしにもある。わたしは86年の「横恋慕」がいちばん好き。ヒコロヒーのほうは、由貴ちゃんとは対照的に、泥水を舐める人間の悲哀や感傷や慰めに共感してるっぽかったけれど、その反面で「うらみ・ます」の歌詞を俯瞰的な自虐ユーモアと解釈してたのは興味深かったです。凜も由貴ちゃんもキョコロヒー。由貴ちゃんのときと同じ企画w安里麻里は『氷菓』の監督。#斉藤由貴 #水嶋凜 #キョコロヒー #泥濘の食卓 #ヒコロヒー #齊藤京子 https://t.co/dvUsqLKckX pic.twitter.com/unyUGQdjZN— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) October 31, 2023なお、由貴ちゃんは、リスペクトライブに出演したものの、中島みゆき本人にはまだ会ったことがないとのこと。「歌縁」(うたえにし)-中島みゆき RESPECT LIVE 2023- [ (V.A.) ] 楽天で購入 中島みゆきのシングル曲はサブスクで聴けますが、いまのところアルバム曲のほうはSpotifyとかには配信されてませんね。「夜曲」の原曲も聴きたいし、由貴ちゃんバージョンの「夜曲」も聴いてみたい。中島みゆきといえば… 由貴ちゃんは、櫻井・有吉の「夜会」にも出演して《超速台詞覚え》にチャレンジしてました。台本をもちかえらず現場でその日のセリフを覚えるってのも不思議だったし、もしかして由貴ちゃんが読書家なのは映像記憶的な速読術を体得して超人的な集中力をもってるからではないの??などとも思ってたのだけど、あえなくレベル2で撃沈してました。わりと普通の人だったので安心(笑)。https://t.co/2squUNjaQl pic.twitter.com/oXXYhN52f4— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 27, 2024…ライブの2曲目は「青春」でした。母ピッチャー、娘キャッチャー。#斉藤由貴 #水嶋凜 #デビュー作#直ちゃんは小学三年生 #直ちゃんは小学五年生 pic.twitter.com/GeJg3BtKdx— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) October 9, 2022 筒美&松本による「卒業」「初戀」「情熱」と合わせて漢字2文字4部作になるという話。音楽惑星さんは、松田聖子の「制服」も合わせれば松本隆の5部作だと言ってたけれど。(ちなみに「制服」の作曲はユーミンです)ま:「卒業」に続いて「初戀」と「情熱」で二字熟語の3部作になるわけですけど、ほんとは、なにげに「青春」も二字熟語だったんですよね。惑:松本さんの作品として見れば、松田聖子の「制服」からはじまる5部作という見方も可能かもしれません。http://manzara77.blog.fc2.com/blog-entry-248.html…3曲目は「木綿のハンカチーフ」。由貴ちゃんの「卒業」が、太田裕美の「木綿」のエピソード0にあたるという噂の話。噂の出どころが松本隆本人かは判然としない。映画『青いうた〜のど自慢青春編』のときは、めずらしく体調が悪くて立ち上がることもできず、点滴を受けてから車椅子で撮影現場に入り、歌った後はまた車椅子で帰ったという話。そんなことあったのね。…4曲目は「夢の中へ」。井上陽水にかんしても、崎谷健次郎のプロデュースした『âge』にかんしても、おおむね音楽惑星さんとの話は終えてるのだけれど、公開のタイミングを逸したまま、もう5年も経ってるwww音楽惑星さんは「そのうちアップする」と言ってるけど、このままお蔵入りでもいいんじゃないかなあって気がしなくもありません。情弱すぎて事実関係のわからないことも多いし、谷山浩子の歌詞について勝手な解釈を垂れ流すのも、若干の後ろめたさを感じるようになってきたから。…情弱といえば、最近はだんだん萌音・萌歌・美波の情報も追いきれなくなってきたのよね(笑)。とくに年末年始は、去年もすごかったけど今年もすごかった。大晦日と元旦だけでも3人が出まくってました。12/31萌歌:Nコン90回のあゆみとともに 7:20~萌音:ポルトガル・アゾレス諸島 12:15~美波:紅白歌合戦 19:20~美波:ぐるナイおもしろ荘 23:45~1/1萌音:朗読『妹』という祝福 6:05~萌音:四国お遍路の旅 7:20~萌歌:バナナサンド元日SP 17:00〜美波:有吉弘行の爆食ツアー 20:50~萌音:あたらしいテレビ 22:15〜(元旦の番組のいくつかは地震の影響で延期)萌音が朝ドラ主演のあとに帝劇『千と千尋』初演をしたのも、朝ドラ『はね駒』のあとに帝劇『レミゼ』初演をした由貴ちゃんを彷彿とさせたけど、由貴ちゃんと同じく朝ドラ主演のあとに紅白司会をやってのけたのは浜辺美波でした。ちなみに美波は『ゴジラ-1.0』で国際的な評価を得てますが、萌音が主演した『夜明けのすべて』のほうも国際的に注目されてる。すくなくともヨーロッパでは濱口竜介と三宅唱が並び称される形になってます。そして、この2人は相米慎二の系譜を引いてる面がある。…5曲目は「春よ、 来い」でした。ユーミンの春の曲ってことで、てっきり「ダンデライオン」かと思ったら、これはまさかの選曲。去年は一青窈が歌ったわけですが。https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202304180000/この曲は迷宮的だ、と話す由貴ちゃん。いわれてみれば、そうなのです。迷宮といっても、けっして「不思議の国のアリス」のような謎や魅惑に満ちた世界じゃなく、むしろ人生の春を待ちつづける者の永遠の迷いの歌です。谷山浩子のような自虐的なユーモアもなく、むしろひたすらに悲しい曲だというべき。もしかしたら世間では希望の歌だと受け止められてるかもしれないけど、じつはとても悲しい歌だと思う。ここ最近の由貴ちゃんが「死」について考えるようになったこととも無関係な選曲ではないのかも。春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く 夢よ 浅き夢よ 私はここにいます君を想いながら ひとり歩いていますそういえば、朝ドラ『春よ、来い』に主演したのは安田成美でしたが、彼女も由貴ちゃんと同い年で、やはり3人の子育て(男・男・女)が終わって一段落したらしく、夫婦それぞれ活動が顕著になってます。夫はドラマ『春になったら』の末期癌の父親役で奈緒と共演してるし、安田成美は細野のリアレンジで「風の谷のナウシカ」を再録音して、先日は「徹子の部屋」に出演してました。いちおう安田成美も相米組だったのよね。当初は『雪の断章』に彼女が主演する予定だったって噂もある。でも、彼女の口から相米の話ってあんまり聞いたことがない。いまのところU-NEXTのラインナップにも『光る女』は含まれてません。U-NEXTのラインナップは、ゴダールは充実してるのにエリック・ロメールが1本もないとか、小津や黒澤は充実してるのに山本嘉次郎や溝口健二にだいぶ不備があったりとか、けっして万全とはいえません。まあ、わたしの場合はとりあえず2ヶ月間利用するだけなんだから、まったく問題ないけど。…ライブの話はここまで。◇以下は「霜降り80'S」で由貴ちゃんが中島みゆきについて話した内容のメモです。ーー中島みゆきの歌詞の世界について。ダークで恨みとか情念みたいなところがあるかと思うと、地球とか人生とかをものすごく俯瞰で見たような作品もけっこう書かれてて、「時代」もそうですけど、人生とはそういうものっていうのを、私たちに諭し、諦めさせ、そのあとに勇気づけてくれるみたいな、多分そういう歌なんだと思うんですよね。ーー「炎と水」について。炎と水、相反するものが対照的なところに立っているんだけれども、その2人がどうしようもなく惹かれあって、ともに歩んでいくみたいな感じ。北海道出身ですから、炎とか水とか雪とか氷とかっていうのを歌うと、彼女の生まれもってきた土地のバックグラウンドがすごく感じられる。(この話を聞いて相米慎二の『風花』のことをちょっと思い出しました)ーー「永久欠番」について。歌詞の中に「100年前も100年後も私がいないことでは同じ」っていう歌詞があって、本当そのとおりだなと思う。私たちはいま生きてるけど、100年前に生きてなかったし、100年後もたぶん生きてないじゃないですか。自分がこの年齢になって人生の残り時間とか人生ってどんな意味があるんだろうなとか、やっぱりけっこう考えるわけですね。救いと、あとそれから「執着するなよ」っていうことをメッセージとして与えてくれる歌です。ーー「夜曲」について。たぶん、みゆきさんが本当に自分のことを書かれたんだろうな。どの曲もそうなのかもしれないけど。彼女がラジオやってて、その深夜ラジオで「私が言ってることとか歌ってる歌はすべてあなたに向けて歌ってるのよ」っていう歌なんですね。「どこかの街角でこの私の声とか歌を耳にしたら、すこしだけ私のことを思い出して」っていうような。私、ラジオがすごく好きなんです。耳だけで聞いて、たくさんの人が聞いてるかもしれないけど、不思議な「1対1感」があるじゃないですか。彼女はしゃべりながら、ただひとり自分が本当に心から愛する人たちに向かってしゃべってる、…あるいは歌ってるんじゃないのかなっていう感じがすごくする。だから有名な曲ではないかもしれないけど、私にとってはいちばん好きな曲に近いかもしれない。ーー中島みゆきの曲をどういうときに聴きますか?くじけそうなときですかね。自分の中にいろんなものが絡まってしまって、何が正解かとか何を選ぶべきかとか分からなくなるような、自分の中でこんがらがっちゃったときとかに、そういうものを「大したことじゃないんだよ」っていう風に「とりあえずみんな捨てちゃっても良くない?」とか「とりあえず手放してみなよ」っていうようなことを言ってくれる気がする。
2024.02.28
またまた一週おくれで、「アストリッドとラファエル4~文書係の事件録」第6話の《タイムトラベル》を見ました。めっちゃ面白かった!!いつもならオカルトっぽい要素があっても、ちゃんと種が明かされるのだけど…ついに今回はマジモンのSF??◇2059年からやってきた殺人未遂の女。未来では地球温暖化が深刻化し、キリンやオランウータンが絶滅し、環境運動家の男が極右政党と組んで独裁者になってる…と。でも、未来の独裁者が逮捕されて、石油企業オペラ社の不正が暴かれれば、タイムパラドックスが生じて未来が変わる?◇はじめのうちは、オペラ社がその女を暗殺者として雇い、環境運動家の男を消そうとしたと推察されました。そして女は、その報酬の大金をワイロに使って、護送車から脱走したのじゃないかと疑われた。でも、実際は、環境運動家の男こそが、オペラ社から大金をせしめて、おなじ環境運動家の女性を殺害していたのですね。なので、オペラ社が男を暗殺する理由などなく、女に大金を支払う理由もありませんでした。そう考えると、やっぱり女は脱走したんじゃなく、タイムリープで未来へ戻ったとしか考えられない!※余談ですが「タイムリープ」ってのは和製英語だそうです。◇でも、ラファエルは、猫が引っ掻いた女の子の手首の傷を確認しませんでした。それが未来人の傷と同じかどうかは、視聴者のご想像におまかせします!…って感じ?そこらへんの演出もニクい!まあ、女がほんとに未来人だと証明したかったら、DNAを鑑定して、レイプ犯だった環境運動家の男と父娘関係を調べれば、確実だったのだけどね。◇◇今回のエピソードには、SFっぽい本筋以外にも、いろいろと興味深い部分がありました。…ひとつは、環境運動家の男が、スラノヴスキーという東欧・ロシア系の姓だったこと。これには何かモデルや背景があるのかしら?ためしに「SRANOVSKI」でググってみたけど、何の情報も出てきませんでした。「スワロフスキー(SWAROVSKI)」なら、オーストリアの高級ガラスブランドですけども。…ちなみに、殺された仲間の女性は真面目なヴィーガンで、オペラ社の不正も本気で暴こうとしてたのに、スラノヴスキーのほうは、もともと悪質なレイプ魔で、金のためにオペラ社と手を組んだり、権力のために極右政党と手を組んだりしていた。彼にとって環境運動は、金と権力を握るための見せかけ・隠れ蓑だった?◇ついでながら、「ヴィーガンの死体は腐敗しやすく肥料になりやすい」って話も興味深い。いってみりゃ有機農法だよね…。ツバキの花は、品種によって、開花時期が11月〜4月ごろまでバラバラだけど、肥料しだいで開花が早まったりするのかしら。ふつうの椿も、ヴィーガンの死体を埋めれば寒椿になる??◇ノラとニコラの以下の会話も気になりました。ノラがニコラに、> ベビーブーム世代の人は音楽の趣味もいいし、> X世代やZ世代の人よりも好きだわみたいな思わせぶりなことを言ったのだけど、こういう世代分類って世界共通なのねえ…。ネット情報によると、X, Y, Z世代は米国発祥の概念だそうです。かたやベビーブーム世代ってのは、日本でいう「団塊ジュニア」のことかと思いましたが、Wikipediaによると、アストリッドやラファエルは30才の設定らしいので、たぶんニコラもそのぐらいの年齢だと思うし、いわゆるY世代(ミレニアル世代)のことですね。しかし、そこにフランスのベビーブームがあったかどうかは、調べてみても分からなかった。◇もうひとつ気になったのは、「アストリッドはニルスの指ぬきだ」という表現。たぶん指ぬき=保護者ってことだと思うけど、日本ではあまり耳慣れない言い方。フランスの慣用句なのかしら?ためしに「指ぬき・フランス」でググってみたら、可愛いアンティークの指ぬき画像がたくさん出てきました(笑)。フランス語の指ぬきは男性名詞の「dé」だそうですが、残念ながら比喩や慣用句の用法までは調べきれない。SAJOU ファインボーンチャイナ 「A」 指ぬき シンブル 【DÉ DE COLLECTION PORCELAINE - POINT DE CROIX - LETTRE A】 フランス MER_DE_FISMES_A 【予約】 楽天で購入 サジュー 指ぬき シンブル ホワイトポーセリン 【DÉ DE COLLECTION PORCELAINE BLANCHE BRODEUSE SAJOU ROSE】 手芸 パッチワーク キルティング フランス MER_DE_REIMS_ROSE 【予約】 楽天で購入 Sajou(メゾンサジュー) 指ぬき シンブル アセテートクリスタル 【DÉ DE COUTURIÈRE ÉCOSSAIS】 フランス MER_DE_ECOSSAIS_01 【予約】 楽天で購入
2024.02.27
フジ・カンテレ月10「春になったら」見てます。末期ガンの父と、嫁ぐ娘の話。物語のテーマはオーソドックスともいえる。俳優陣も演技派ぞろいで安定した内容。これは第4話ぐらいのシーン。1週おくれの第6話ですが…。父の雅彦(木梨憲武)をはじめ、ようやくみんながカズマル(濱田岳)の存在を受け入れました。予想どおりの展開ではあるけど、やっぱり泣いてしまう。忘れられないような幸福な時間。じんわりとした神回だった。龍ちゃん(石塚陸翔)の存在に救われる。子供がいるだけで救われることってあるよね。「ピザ食べたい」とか「おじい」とか言ってくれるだけで、老いることの寂しさが紛れます。たとえ血がつながってなくても。ふとした瞬間に死ぬのが寂しくなる…というのは、とてもリアル。
2024.02.27
映画「マッチング」のプロモーションがはじまってから、ずいぶん痩せて見えるんだけど。配信ライブのときとくらべても、急激に痩せてる感じがする。役作りなの?腕まで細くなってる感じで、あまり健康的な痩せ方には見えないし、ちょっと気になる。年齢的にも、そろそろ健康を第一に考えるべきでは?
2024.02.26
親友のしゃがれたエール忘れ雪 デンモクがふたりを隔てる春休み 春の夜のカラオケ締めは「雪椿」 カラコロンマイクとお酒沁みる春 朧月負けたらあかんで東京に 「なごり雪」君を見ないで歌い出し らうらうと僧侶の美声花まつり カラオケの履歴は桜らんまんと2月22日のプレバト俳句。お題は「カラオケ」。◇GLAY・HISASHI。親友のしゃがれたエール 忘れ雪これが今週の1位。かなり知的に感じられる出来です。的確な写生だけに徹しつつ、ちゃんと心情が伝わってくるし、季語の選択も絶妙だし、中七で切って下五に季語を置く、という二句一章の型もしっかり出来てる。どこにも欠点は見当たりません。◇関口メンディー。デンモクがふたりを隔てる春休みデンモクが隔てるふたり 春休み(添削後)デンモクは第一興商の商品名で、カラオケ操作用リモコン(=電子目次本)だそうです。まず問題のひとつは、中八をどう処理すべきか。助詞「を」を除けば済む話ではあるけど、語順についての先生の解説は正確さに欠ける。「ふたり隔てる」なら動詞に軸足が来て、「隔てるふたり」なら名詞に軸足が来る、…みたいな話じゃないでしょ!これは、あくまでも切れの問題です。つまり、「隔てるふたり」とすれば、中七が名詞止めになって切れるけれど、「ふたり隔てる」とすれば、動詞の連体形が下五に繋がるわけです。先生&梅沢の添削案だと、中七で切れるために、映像のない季語「春休み」だけが浮いてしまう。季語を映像化するには、動詞の連体形で修飾して、デンモクがふたり隔てる春休みと書くほうが正解でしょう。しかし、問題はもうひとつある。そもそも「隔てる」という動詞の選択は、句材の状況を描くのにふさわしいのかどうか。この動詞を使うことで、二人の関係がネガティブな状態に見えて、別れを予感させてる気がしなくもない。作者いわく、二人の関係は、「デンモクを超えてまでは近づけない」ものの、その反面では、デンモクがあってこそ繋がってるわけだから、けっして二人の関係を裂いてるのではありません。いうならば、「繋いでもいるけど隔ててもいる」…みたいな微妙な位置づけのアイテムってこと。それを客観的に写生するなら、デンモクをはさむ二人の春休みとでも書くしかないと思います。◇田中あいみ。カラコロン マイクとお酒沁みる春ドアベルとマイクとお酒沁みる春(添削後)作者いわく、・おなじ擬音でドアベル&グラスの氷を掛け合わせた・楽しむ人もいれば悲しむ人もいるカラオケ店の様子とのことです。ちょっと材料が多すぎますよね。「カラオケ」「ドアベル」「グラスの氷」の3つの要素を描きながら、客の様子まで季語と取り合わせるってのは…。しかも擬音の「カラコロン」は、ドアベルやグラスの氷というよりも、入店客の下駄の音かしら?と誤解してしまう。さらに「沁みる」というのは、作者の主観・心情であって客観写生ではありません。あえて「沁みる」とは書かずして、そこに集う人々の心情を想像させなければならない。かりに「歌と酒が沁みる」と書いていれば、かろうじて聴覚&味覚の描写と言えたのだけど、「マイクが沁みる」という変な表現をしたことで、そうも言えなくなってしまった。そして、添削句のように、「ドアベルとマイクと酒が沁みる」と書いたなら、これはもう聴覚や味覚の描写ではなく、状況に対する心情の表現と解釈する以外にない。かりに「カラオケ」の要素を省くなら、ドア鈴と水割り 泣き笑いの春のように書けます。◇レイザーラモンRG。朧月 負けたらあかんで東京に例によってネタを組み込んだお約束の作風。今回は天童よしみネタを取り入れたわけですが、パクリ審判で「70点」から「3点」への大減点。歌謡曲の七五調を安易に取り入れる失敗は、星の入東風 今夜の恋をくれた人のときに予測したとおりの結果です↓https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202211150000/このときの前科があったわけだから、まして「カラオケ」の兼題で詠ませれば、こういう顛末になるのは想定内だったし、そう考えれば、今回の減点査定は、あらかじめ番組が仕込んだものと思えなくもない。…とはいえ、当初の査定が「70点」だっただけあって、句としてみると、じつによく出来てるのよね(笑)季語の選択もけっこう的確だし、「で」を省けば中七の定型になるものの、あえて中八のダメ押し効果を狙った気もする。たぶん、この人は、俳句の作り方は心得てるんだろうなと思う。◇梅沢富美男。らうらうと僧侶の美声 花まつり締めの一句に認定されましたが…中七の「美声」があれば「らうらう」は不要だし、逆に「らうらう」があれば「美声」は要らないでしょ。ためしに、らうらうと読経の若し 花まつりとしてみました。しかし、もっと根本的なことをいえば、「花まつりで読経する」のは当たり前なのだし、「剪定で鋏の音がする」ってのと同程度に無内容な凡句です。伝統行事にかんする知見をひけらかしただけ。◇小林幸子。春の夜のカラオケ 締めは「雪椿」雪椿咲きカラオケの締めはさて(添削後)曲名をそのまま季語として用いたら、季語の鮮度が落ちてしまうという話です。添削では、あえて曲名とは明示せず、あたかも実景の季語っぽい体際にして、そこから曲を連想させる、という作戦。…それはまあいいとして、添削句の「咲き」と「さて」は、不必要な音数合わせにしか見えません。ためしに、雪椿 カラオケの締め選びけりとしてみました。◇武田鉄矢。「なごり雪」君を見ないで歌い出しなごり雪 君を見ないで歌い出す(添削後)これも実景の季語から曲名を連想させる添削。…それはいいとして、そもそも「君見ず歌う」と書けば7音で済むものを、後段の12音をまるまる使う必要ってあるの?とくに中七の「見ないで」は、あまりにも口語的かつ散文的な言い回しだし、かりに4音分を使うにしても、「見ずして」「見ぬまま」「見れずに」のように書くべきでしょ。下五「出す」の必要性についても疑問なので、なごり雪 君見ぬままに歌う夜とでも直してもらいたい。もしも12音分を7音で済ませるなら、なごり雪 君見ず歌う博多の夜よのようにさえ書けるはずです。◇清水アナ。カラオケの履歴は桜らんまんとこれまた曲名を季語とするのでなく、やはり実景から曲名を想像させるべき内容。単純に添削するのなら、カラオケの履歴 桜のらんまんとでもいいでしょうが、カラオケの履歴や 並び立つ桜と書いたほうが楽曲履歴を連想しやすいかも。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥おしい…!今週の放送回で学びましょう!📚💪#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/3ixZe39wS8— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) February 19, 2024 ▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.02.26
またも周回おくれですが、「アストリッドとラファエル4~文書係の事件録」第5話の《盤上の殺意》を見ました。今回は、犯人のチェスおたくっぷりが炸裂!アストリッドがチェス対決で自白させた結末もお洒落だった。◇わたしはチェスができないし、小ネタの多くもチンプンカンプンだったけど、チェス好きにはたまらない内容だったかも。いちおう、わたしなりに、ドラマに出てきたチェスネタを調べてみました。ほとんどはニコラが話してたネタです。1.ロシアの「ルーク」は舟。チェスの「ルーク」という駒は、塔や城塞みたいな形をしてますが、ロシアでは「ラディヤ=船」と呼ぶらしい。チェス駒の概念は国や地域で異なるのですね。これは「ルーク」だけの話じゃない。もともと、古代インドのチャトランガという盤ゲームが、ペルシャでシャトランジになり、中国でシャンチーになり、日本で将棋になり、ヨーロッパでチェスに変わったとのことで、その結果、チャトランガの「ラタ=戦車」が、将棋では「香車」や「飛車」に変わったのだけど、これがチェスでは「塔」や「船」に変わってる。その経緯や理由は謎です。◇…ちなみにロシアといえば、今回のドラマには、「ロシアン・ザグレブが制作したチェス駒」が出てきて、これが事件解決の糸口になってましたね。きっと職人の手彫りによる高級品なのでしょうが、ネットで調べても詳しいことは分かりませんでした。日本でいったら、天童市の将棋の駒みたいな感じ?2.チェスとフリーメイソンの関係。これもよく分からないけど、たぶん「テンプル騎士団のチェス」のことだと思う。…といっても、▽Wikipediaに画像が掲載されてるだけで、https://ja.wikipedia.org/wiki/チェスの歴史それ以上の情報はネットを調べても出てこない。他方、「十字軍とサラセン人のチェス」を描いた絵も、ネット上にたくさん出てきます。つまり、チェスは、ヨーロッパ人とアラブ人の共通の遊びだった?それとも、チェスの伝播が十字軍遠征に関連してる?3.宇宙論の「クイーン」は変わりゆく魂。この話もよく分からなかったのですが、ちょっと気になったのは、甚野尚志の『中世ヨーロッパの社会観』という本です。1992年の『隠喩のなかの中世』を改題・文庫化したもので、もともとの単行本の内容紹介には、蜜蜂・人体・建築・チェス盤のなかに、宇宙の神的な秩序や社会の理想的なあり方を見出した中世ヨーロッパの人々の世界観を再現する。と書かれてます。中世ヨーロッパには、チェスに見立てた宇宙論があったのかもしれません。中世ヨーロッパの社会観【電子書籍】[ 甚野尚志 ] 楽天で購入 4.宰相シッサの米粒の説話。この話はネットでも確認できます。米粒じゃなくて麦粒になってる場合が多いけど。英語のWikipediaにも詳細な記事が載ってます。https://en.wikipedia.org/wiki/Sissa_(mythical_brahmin)https://en.wikipedia.org/wiki/Wheat_and_chessboard_problemいわく、インドの宰相シッサは、チェスを発明した褒美として何を望むのか王に問われ、> チェス盤の1マス目に1粒、> 2マス目に2粒、3マス目に4粒、4マス目に8粒、> …とマス目ごとに粒の数を倍にして、> 最後の64マス目に置かれた小麦の粒が欲しいと言ったのですね。これは2の63乗になる。似たようなものとしては、日本の曽呂利新左衛門の説話があって、彼は、豊臣秀吉から褒美を問われた際に、> 1日ずつ米粒を倍にした100日目の米粒が欲しいと言ったそうです。これは2の99乗になる。◇これは要するに指数関数の話で、> 折り紙を26回折ったら富士山より高くなるってのと同じようなことです。2の26乗は、67,108,864。2の63乗は、9,223,372,036,854,775,808。2の99乗は、633,825,300,114,114,700,748,351,602,688。https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E3%81%AE%E5%86%AAなお、曽呂利新左衛門は秀吉に仕えたお伽衆で、落語の始祖ともいわれてますが、実在した人物かどうかは不明だそうです。インドの宰相シッサも、おなじく伝説上の人物です。5.囲碁の打ち手とチェスの打ち手。アストリッドは、テツオとの囲碁練習が功を奏して、犯人とのチェス対決にも動じませんでした。これって、ある意味、チェスに対する囲碁の優位性を示してる気もする。実際のところ、囲碁の打ち手(局面数)はチェスよりはるかに多く、チェスが10の120乗、囲碁は10の360乗だそうです。木製 チェス セット ポーランド製 Olympia オリンピア ブラウン35cm×35cm chess set ハンドメイド 駒盤 数量限定販売 楽天で購入 初心者の木製囲碁入門セット ※木製新桂13路9路盤・プラスチック碁石椿(白石84粒・黒石85粒)・ブロー碁笥・囲碁入門本(1冊選択) 楽天で購入
2024.02.24
本職に黙礼される今年も春 春の雲血のり右目に染みており 春夕焼台本ト書き「ここで泣く」 初刑事手錠震わす余寒かな 冴えかえる帰宅後妻の取り調べ ロケバスに積む犯人の春日傘 張り込みのあんぱん香る桜漬け 刑事ドラマ沈黙破る鶯よ2月15日のプレバト俳句。お題は「刑事ドラマ」。◇矢柴俊博。春の雲 血のり右目に染みており春の雲 右目に染みてくる血のり(添削後a)撮影のどか 右目に染みてくる血のり(添削後b)紺野まひる。春夕焼 台本ト書き「ここで泣く」春夕焼 ト書き犯人「ここで泣く」(添削後)どちらの句も、上五に季語を置き、撮影の場面と取り合わせた作品。添削は入ったものの2句とも「才能アリ」の査定でした。なお、矢柴俊博の添削は、(b)よりも(a)のほうがいいと思う。状況は下五の「血のり」で想像できるはずだから、わざわざ冒頭から字余りでネタバレしなくともよい。◇内藤剛志。本職に黙礼される 今年も春本職に黙礼さるる春やまた(添削後)上の2句をおさえて、今週の一位だったのがこの作品。しかし、その評価が適切かは疑問です。まず作者が誰かを知らなければ、上五の「本職」の意味が分かりにくい。リズムや形式の面でいうと、下6の字余りもさることながら、中七に切れがあるかどうかも判然とせず、(終止形か連体形かが不明瞭)俳句の形として、いまいちボヤッとしてる。…添削句は、古語を使って動詞が連体形であることを明示し、くわえて下五の字余りも解決してます。ちなみに、ここで注目したいのは、添削句の下五「や」の用法です。以前もこういう添削があった気がするけど、思い出せない。一般に、切れ字「や」は場面を転換するため、リズムだけでなく意味の切れも生むのですが、実際には、場面転換をともなわない「や」もあって、たとえば芭蕉の「古池や」も、じつは場面を転換してないとの解釈がある。また、日本語の間投助詞「や」には、詠嘆のみならず呼びかけの意味もあるので、たとえば「ポチや、お食べ」のようにも使える。そこに場面転換はなく、多くの場合はリズムの切れさえありません。詩歌にも「これやこの」「春や春」などの例がある。それらは切れ字とは異なる「や」の用法です。なお、場面を転換しない「や」の用法については、↓以下の記事でも言及されてます。https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_55.jsp◇トレンディエンジェル斎藤。冴えかえる帰宅後妻の取り調べ冴返る深夜の帰宅 妻や待つ(添削後)下五の「取り調べ」はつまらない比喩。しかも、比喩だと伝わらなければ、妻が容疑者になった場面と誤読されます。かたや添削のほうは、またも下五で切れ字ではない「や」の用法!もしや先生のマイブーム?その是非はともかく、今後、この用法が増える可能性もあります。◇大友花恋。初刑事手錠震わす余寒かな余寒なり 手錠をかける初シーン(添削後)切れのない一句一章を「かな」で締める形。俳句の型はちゃんと出来てますが、主語に助詞がないため、リズムが上五で切れるのはちょっと惜しい。上五の造語「初刑事」は、兼題写真がなければ読み手に伝わらず、「刑事としての初仕事」「生まれて初めて会った刑事業の人」などの誤読を招きます。また、初めての刑事役に挑んだ「緊張」を、季語の「寒さ」と重ね合わせたことで、かえって焦点が散漫になっている。それらの問題は、刑事デカ役の手錠震わす余寒かなのように書けば、いちおう解決します。季語の「余寒」と「震え」が、重複(もしくは因果関係)に当たるとの見方もありますが、「刑事役の手錠の震えない余寒があったら持って来い!」とまでは言えないし、むしろ原句の問題は、「緊張」&「寒さ」の二重の因果が重複する点にあるので、「緊張」の要素を排して「寒さ」だけに特化したほうが、(添削というよりも改作になるけれど)手錠の金属の冷たさも際立ってくるはず。かたや添削句のほうは、「緊張」&「寒さ」を両立させたまま、それらが「震え」に帰結する因果関係を排除した形です。もちろん、それもひとつの選択ではある。ちなみに、添削の上五は「なり」で言い切る珍しい形ですが、その是非はちょっと判断しかねます。◇清水アナ。刑事ドラマ 沈黙破る鶯よここで描かれてる状況は、舞台かドラマかの違いはあれど、森口瑶子の「くつさめ(くっさめ)」の句とほぼ同じ。上7字余りの「刑事ドラマ」はちょっと状況説明的だし、下五の「よ」は詠嘆するだけの必然性に乏しく、取ってつけただけの音数合わせに見える。鶯の鳴き声を《子季語》と見なせば、刑事デカ役の台詞遮るホーホケキョのような定型にも出来ますが、それでもまだ因果関係の説明くささが残る。やはり森口瑶子の「くっさめ」と同じく、刑事デカ役の沈黙 鶯の初音のような対句に直すほうが描写的ですね。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥お題がハード過ぎた…🤷♀️#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/khSOf6tqZI— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) February 12, 2024◇森口瑤子。ロケバスに積む犯人の春日傘犯人が女…ってところにドラマがありますよね。しかも日焼けを嫌う優雅な金持ち女の役どころ。その天気の良さとサスペンスの暗さの対比も面白い。◇梅沢富美男。張り込みのあんぱん 香る桜漬け桜漬けほんのり 張り込みのあんぱん(添削後)原句は、切れがあるのかないのか分かりにくいものの、香るのは「あんぱん」じゃなく「桜漬け」だろうから、構造的には中七で切れる句またがりです。(作者にその自覚があるかは知らんけど)そして、そのことをハッキリさせるためには、張り込みのあんぱん 桜漬け香ると書いて動詞の主語を明確にすればよい。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.02.19
またまた一週おくれですが、「アストリッドとラファエル4~文書係の事件録」第4話の《不死の男》を見ました。今回のテーマは"トランスヒューマニズム"。すなわち《超人間主義》です。遺伝子工学などによって、人間が生物学的な限界を超えるという思想。ストーリーは、いままででいちばん面白かったかな。◇以下は、簡単なあらすじネタバレ。メッタ刺しに殺されたのは遺伝子研究者の男。ところが、凶器に付着してたのは被害者自身の指紋とDNAだけ。もしかして自分で自分をメッタ刺しにした??そんなことありえない!!DNA型が同じ一卵性双生児の犯行とも疑われたけど、被害者に双子の兄弟など存在しません。結局、犯人は被害者の息子でした。…といっても、それはほんとうの息子ではなく、齢の離れたクローン人間だった …というオチ!クローン人間の息子が父を殺す一方で、アストリッドの腹違いの弟ニルスは、父の顔さえ知らないのに、亡き父と同じように鉛筆の噛み癖をもっていた…。そんな2つのエピソードが対比されてます。◇今回、とくに興味をひかれたのは2つの名前でした。ひとつは、遺伝子操作で誕生した赤ちゃんの「アンティゴネー」。もうひとつは、被害者の男が名乗っていた「イザーク・ラクデム」。◆アンティゴネーギリシャ神話のアンティゴネーはオイディプス王の娘です。彼女は、オイディプスの次王クレオーンと対立しました。このアンティゴネーとクレオーンの対立は、神の法(ピュシス)と人間の法(ノモス)の対立といわれてます。それは言い換えれば「自然」と「人工」の対立なのですね。今回のお話では、遺伝子操作の犠牲者である赤ちゃんアンティゴネーを見て、アストリッドが涙を流すシーンがありましたが、遺伝子工学にもとづく超人間主義が、神=自然の法則への冒涜と位置づけられてるわけです。◆イザーク・ラクデム一方、この名前は、デュマの未完の小説から採られてるらしい。その名も「Isaac Laquedem」という1853年の作品。主人公の名前が題名になってるようですが、残念ながらネットで検索しても邦訳が見当たらない。調べてみると、これは「さまよえるユダヤ人」のヴァリエーションで、すなわち不死伝説に材をとった物語のようです。ヨーロッパに伝わる「さまよえるユダヤ人」とは、十字架に向かうイエスを罵ったために、その再臨まで地上を彷徨いつづけるよう呪われた男のこと。つまり、永久に死ねなくなって、いつまでも生きることを強いられたユダヤ人です。◇この「さまよえるユダヤ人」の不死伝説は、その後、さまざまな文学作品などに変奏されてます。ワーグナーの「さまよえるオランダ人」もその一つですが、このアレクサンドル・デュマの「Isaac Laquedem」もそうなのね。日本でいうと、手塚治虫の「火の鳥」や、萩尾望都の「ポーの一族」や、大今良時の「不滅のあなたへ」などの漫画作品も、やはり不死をめぐる物語なので、この「さまよえるユダヤ人」のヴァリエーションかもしれません。Isaac Laquedem【電子書籍】[ Alexandre Dumas ] 楽天で購入
2024.02.14
タン塩を頬張る視線春愁の吾子 ハラミ食む君の笑顔や春の恋 目を背く燃えるパプリカ彼我の春 先輩をいや肉待ち侘びる二月の夜 焼肉で筋肉つけて春肥大 スッカラの窪みは浅し春の宵 春愁の一人焼肉持て余す 二月の焼肉屋涙の受験生2月8日のプレバト俳句。お題は「焼肉」。◇清水アナ。二月の焼肉屋 涙の受験生AのB/CのDの対句。季重なりなのもあるけど、下五の「受験生」って主観の説明なのかも。つまり、作者が「受験生だろう」と判断しただけで、厳密な意味の視覚情報ではないのでは?視覚的に描写するなら、学生の涙 二月の焼肉屋焼肉屋の冬 セーラー服の涙みたいな書き方になると思います。まあ、かつて受験生だった自分とか、知り合いの受験生を描写した可能性もあるので、季重なりを回避するだけなら、駒場の焼肉屋 涙の受験生焼肉屋の煙 受験生の涙みたいなやり方もあります。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥初歩的ミス…。😭#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/kQx69Mmwo3— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) February 5, 2024◇渡辺満里奈。タン塩を頬張る視線 春愁の吾子タン塩を頬張る春愁の吾子よ(添削後)下7の字余りですが、「春愁の吾子」と書いたら、わざわざその表情まで書く必要はない。なお、語順を逆にして、春愁の子はタン塩を頬張れりのようにも出来ます。◇梅沢富美男。春愁の一人焼肉持て余す春愁と一人焼肉持て余す(添削後)渡辺満里奈と同じ理屈でいえば、下五の「持て余す」が不要との判断になる。つまり、「持て余さない春愁の一人焼肉があったら持って来い!」ってこと。しかし!先生の添削は予想外の一手。下五を消すのではなく、「春愁」と「一人焼肉」を切り離してしまう作戦。これは添削というより改作だけど、なるほど、その手もあるか!って感じです。◇笠原秀幸。ハラミ食む君の笑顔や 春の恋ハラミ食む君と春待つ恋ひとつ(添削後)中七を「や」で切って下五に季語を置く形。そして「ha」の頭韻も踏んでます。…ってことからいえば、俳句の型はしっかり出来てるのだけど(笑)まず内容がつまらないし、「ハラミ食む君」と書いたら、あとは「笑顔」だの「恋」だの書く必要はない。そして、韻を踏むために使ったのか、文語のつもりで使ったのか、女性を可愛く見せるために使ったのか知りませんが、一般に「食はむ」という動詞は、人間が肉を食べるときには使いません。牛や馬が草を食べるときの動詞です。その意味では添削句も容認しがたいので、春待つや ハラミを食べる君の口としてみました。…そもそも、詩歌の世界で、「肉を食べる女性」というのを、綺麗な恋愛対象として描くのは難しいよね。あえてそれをやったら、滑稽になるか、ちょっと諧謔的になってしまう。◇棚橋弘至。焼肉で筋肉つけて春肥大筋肉の映える春なり 肉を食う(添削後)こちらは「肉を食べる男性」なので、女性にくらべれば句材にしやすいけど、発想があまりに散文的で詩情に欠けました。でも、本人の意図はともかく、下五の「春が肥大する」という表現は、考えようによっては面白いのよねw春の息吹が膨れ上がる…とも読めるし、春の妄想が膨れ上がる…みたいな解釈もできなくはない。まあ、作者自身が意図したところは、肉食えば筋肉輝く俺の春みたいな話なのだけど…(笑)。一方、先生の添削もなかなか面白い。下五は「肉喰らう」のほうがいいかも。◇市川紗椰。目を背く 燃えるパプリカ 彼我ひがの春彼と吾と網にパプリカ焦がす春(添削後)市川紗椰にはちょっと期待したのに!予想以上にダメだったな…(笑)。なにか難しいことをやろうとしたっぽいけど、結果的には意味不明な三段切れでした。本人の話によれば、網の上でパプリカが焼け焦げてるのに、それを見て見ぬふりをする自分の姿を、彼との距離感に重ねた…とのこと。うーん。ちょっと何言ってるかわからない!まず上五で、なにか凄惨な場面から「目を背けてる」と誤解させるので、中七の「燃えるパプリカ」もなにやら大仰な事態に見えます。下五の「彼我」は、相手と自分を対比的にとらえる言葉だから、あながち間違った用法とも言えないけど、男女の描写というよりは、パプリカをめぐる地域紛争とか、パプリカに象徴される国家戦争とか、そういう対立の抽象的表現かと見まがってしまう。たとえば、パプリカの焦げるのも見ず 春の彼我のように書けば大仰さは軽減されるけど、それでも状況はちょっと分かりにくい。かりに男女の描写だとしても、まだ出会ったばかりで距離感が埋まらないのか、もう別れ際で距離が遠ざかったのかも判別できない。ちなみに、以前もパプリカを使った句はありましたが、つい、それが季語なのかと錯覚してしまうし、色彩的なぶんだけ季語の主役感を喰ってしまいます。その意味でちょっと扱いにくいアイテム。なお、パプリカの一般的な収穫時期は7月以降なので、本来なら「春の野菜」とは言いがたいらしい。◇和牛水田。先輩をいや肉待ち侘びる二月の夜焼肉屋の前に先輩待つ余寒(添削後)いわく、「俺が寒さのなかで待ってるのは先輩ではなく肉なのだ」ってことだけど、意味も分かるし、句材も面白いとは思う。ただ、それは写生というより作者の心情なのよね。これを描写的に書き換えるのはなかなか難しい。◇フルポン村上。スッカラの窪みは浅し 春の宵掲載決定だそうですが…わたしなら断じてボツ!!句材は悪くない。描いてる映像は良いと思います。しかし、スプーンや匙のヘラ部分を「窪み」って言いますか??「スプーンの窪み」とか「匙の窪み」とか、そんな日本語の言い方は聞いたことがない。むしろヘラじゃなくて柄の部分に「窪み」があるのかしら?…と誤解してしまいます。わざわざ「窪み」などと書かなくても、「浅いスプーン」「浅い匙」と書けば通じるのだから、この句の場合も「浅いスッカラ」と書けば済むのです。たとえば、汁掬ふ浅きスッカラ 春の宵料理屋のスッカラ浅し 春の宵スッカラの浅きこと知る 春の宵のように書けば事足りる。ところが!!Googleで「スッカラ/浅い/深い」を検索すると、なぜか、この「窪み」という表現がネット上に頻出します。ちなみに、「スプーン/浅い/深い」で検索しても、「匙/浅い/深い」で検索しても、この「窪み」という表現はいっさい出てきません。せいぜい「掬う部分」「皿の部分」などと出てくるだけ。にもかかわらず、なぜか「スッカラ」で検索したときにだけ、この「窪み」という謎の日本語表現が頻出するのです。…どゆこと?あくまで、わたしの想像ですが、きっと日本語を使い慣れない韓国人のだれかが、この「スッカラの窪み」という変な表現を使いはじめて、それが韓国料理業界へと広まったのではないかしら?そして、村上も、これをどこかの韓国料理屋かネットで目にして、俳句にそのまま取り入れたんだと思う。しかし、これは日本語の表現としてかなり違和感があります。日本語の「窪み」は、全体の中でそこだけ凹んでる箇所を指すわけで、皿状・椀状の器具などに使う言葉ではありません。「茶碗の窪みに飯を盛る」「鍋の窪みで汁を煮る」「湯船の窪みにお湯を張る」などとは言いません。またしても、おかしな日本語が、公共の出版物に掲載されることになってしまった。やれやれ。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.02.12
セクシー田中さん問題。いろいろと議論が進展しています。まずはプレジデントオンライン。西山守の記事です。~芦原さんを苦しめたのは「原作改編」と「SNS炎上」のどちらか~これまでの関係者の発信を読み解くと、ドラマは最終的に全て芦原さんの監修が入っていた。「原作が尊重されなかった」と主張しているのは第三者だけではないか。https://news.yahoo.co.jp/articles/00423158fe0253207d329fbb4b63232794eb7741つまり、ドラマ版「セクシー田中さん」は、双方に想定以上の労力を強いたとはいえ、たえず原作者による修正が加えられたことで、結果的には「原作に忠実」な形で放送されてる…って話。たしかに、この事実は重要です。一部の漫画ヲタクは、「改変されまくりのドラマ版はつまらなかった!!」などと言ってるようですが、それは事実上、芦原妃名子の仕事を否定してることになる。◇最終的に、ドラマが「原作に忠実」な形で放送されたなら、プロデューサーは当初の約束を守ったことになります。…もちろん、いくつかの未解明な部分についての説明責任は残ってますが。それは大きく以下の7点です。1.なぜドラマ化は許諾されたのか。そもそもドラマ化に消極的だった芦原妃名子は、なぜ日テレによるドラマ化を許諾したのでしょうか?いちどは矢島弘一の脚本によるドラマ化を断り、まだ連載も途上だったのに、なぜ三上絵里子プロデュースのドラマ化には応じたのか?その時点で相沢友子の脚本起用は決まっていたのか?これについては、日テレよりも、許諾側の代理人たる小学館が説明すべきだと思います。2.なぜ木南晴夏は5月からダンスレッスンを始めたのか。原作者がドラマ化を許諾する1か月前から、木南晴夏はダンスレッスンを始めていたらしい。これについては日テレから説明するほうが早いでしょう。小学館と口裏を合わせていた可能性もありますが、たんに日テレやホリプロの勇み足だった可能性もあるし、これもまた業界の慣例だったかもしれません。3.プロデューサーは脚本家に何を伝えて何を伝えなかったのか。相沢友子は「初めて聞く事ばかり」とコメントしましたが、具体的に何を指してそう言ってるのかはハッキリしません。さすがに「原作に忠実に」という条件すら知らなかった、…とは考えにくいです。もし、そうなら、第1~8話も修正どころでは済まなかったはずだから。逆に「原作に忠実に」という条件が共有されていたなら、第1~8話の修正は想定内の作業だったといえます。実際、相沢友子も、第1~8話については「自分が書いた」と言ってるだけで、原作者による修正についてはとくに言及していません。一方、終盤の脚本を原作者に交代する可能性については、あらかじめ脚本家に伝えられていたのでしょうか?原作者側から、その可能性を通告されていたにもかかわらず、実際にそんな事態になるとは予想せずに、プロデューサーが相沢友子に伝えてなかった、…ってことも考えられる。その場合、相沢友子にとって脚本交代は青天の霹靂で、大きなショックになったろうと想像されます。そのあたりの事情は三上絵里子が説明したほうがいい。4.相沢友子のインスタ発信は妥当だったのか。相沢友子が、脚本交代の顛末をインスタで明かしたことが、騒動の発端になってしまったわけですが、わたしは、昨日の記事にも書いたとおり、暴露したその行為自体が悪いとは思いません。その種の「不満のぶちまけ」は、ほかの作家や脚本家もやってることだし、あくまで個人の表現行為の範疇であって、べつに日テレ側が制止すべきことでもないはずです。まあ、それについても、三上絵里子なりの見解を示せばいいと思いますが。5.なぜ脚本交代の経緯を小学館から説明しなかったのか。終盤の脚本交代に至るまでの経緯をくわしく説明したのは、小学館ではなく原作者自身だったわけですが、それは何故だったのか。日テレとの窓口は小学館だったのに、なぜか世間の矢面に立ったのは原作者自身だった。その理由については、代理人たる小学館が説明すればいい。6.なぜ芦原妃名子はSNSの文章を削除したのか。脚本交代に至る経緯について説明した文章を、芦原妃名子は亡くなる前に削除したのですが、これは本人の独断だったのか。それとも第三者による何らかの関与があったのか。それについて事情を知る人がいるなら説明すべきでしょうね。7.なぜ連載は休止になったのか。小学館によれば、今回の事態が起きる前から休載は決まっていたとのこと。これについても、自殺の動機を知る手掛かりの一つかもしれないし、代理人たる小学館が説明すればよいと思う。◇…ってことで、じつは三上絵里子が説明すべきことは、さほど多くありません。実際のところ、日テレのプロデューサー陣には、これといった契約違反もないし、目立った過失も義務違反もないのかもしれません。◇次に、Yahooの猿渡由紀の記事です。~原作ものの映像化と改変、最近のハリウッドの例を見る~小説やノンフィクション本、コミックが映像化されることは過去にも今にも数えきれないほどあるハリウッドでは、傑作の中にも、駄作の中にも、原作に沿ったものもあれば、大きく改変されたものもある。実際のところ、ある程度改変されることのほうが多い。https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4f16e5b6d5bcb5bd82c97339e4057e5e105b08f9ハリウッドの優れた映画が、かならずしも原作に忠実なわけじゃない…という話です。まあ、常識的に考えて、オスカーにせよ、カンヌにせよ、原作をそのままトレースしただけの映画が高評価を得るわけがない。漫画ヲタクを喜ばせる映画と、映画ファンを唸らせる映画は、かならずしも同じではない、ってこと。◇次に、Yahooの徳力基彦の記事です。~「セクシー田中さん」と芦原先生の悲劇を繰り返さないために~おそらく重要な分岐点は、12月27日に一部メディアが、相沢氏のコメントを引用し「最終回で消化不良を起こした視聴者が続出」という内容の記事を掲載したことです。この記事は残念ながら、ライブドアなどのポータルサイトにも転載されており、それなりの人数に届いてしまったようです。https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/3ed6b751c16a1baee29f72a36e2de6bc79653899じつはSNSでの怒りの連鎖に着火したのは、ひとつのネット記事だったのではないか?…という話です。この問題については、明日以降に言及できれば、と思います。
2024.02.10
セクシー田中さん問題。まるで示し合わせたように、各所からコメントが出ましたね。おおむね全体の「すり合わせ」が終わった感じ?小学館編集部が「伝えた」と言い、脚本家が「聞いてない」と言ってるところを見ると、おそらく日テレがすべての責を負う形になるでしょう。まあ、実際のところは全体の共犯だったとしても、脚本家に仕事を依頼したのは日テレなのだし、小学館にドラマ化をもちかけたのも日テレだろうから、小学館や脚本家になすりつけるのではなく、やはり日テレが全責任を負うのが筋なのだろうし、そういう決着で、とくに異論もありません。1.原作者の軽視相沢友子の「聞いてない」という話が、ホントかウソかはもちろん分かりません。実際には聞いていながら、それを無視するのが業界のルーティンだった可能性もあるし、おおむね原作者の意向は把握していて、それなりに「忠実」に書く努力はしたものの、芦原妃名子の要求する「忠実」が予想以上だったために、最後までその齟齬を埋められなかった可能性もある。小学館のほうだって、日テレと共犯だった可能性は十分にあるけれど、とりあえず原作者に近しかった編集部にコメントさせることで、なんとか漫画ヲタ勢の信頼をつなぎとめた形でしょうか。わたし自身はひねくれ者なので、あの情緒的な文章がやや気持ち悪く思えましたが、あれで漫画ヲタ勢を感動させることが出来たなら、小学館としては御の字じゃないでしょうか。きっと不買運動にもならずに済むでしょう。◇なお、相沢友子が最初にインスタでトラブルを暴露したことは、芦原妃名子の死の《遠因》になったとも言えるのだから、そのことを後悔する気持ちは理解できるけど、わたし自身は、トラブルを暴露したこと自体が悪いとは思いません。それと同じことは、佐藤秀峰なども原作者の立場からやってるわけだし、他の作家たちも同様のことはやっています。一方の「暴露」が賞賛されるのに、他方の「暴露」が断罪されるというのは、たんに結果から見たジャッジに過ぎず、公平性を欠いています。実際のところ、暴露しなければ分からないこともあるのだし、組織の隠蔽体質を助長することにもなりかねない。そう考えれば暴露することが一概に悪いとは言えない。2.自殺の原因重要なことは、ドラマ制作部が原作者の意向を軽視したことにせよ、相沢友子がインスタでトラブルを暴露したことにせよ、それらは原作者の死の《遠因》ではあるけれど、けっして《直接的なトリガー》ではないということ。結果から物事を見ようとする人間は、死の責任までも安易に背負わせようとするけれど、それを事前に予測するのは不可能です。自分が同じ立場だったら、それを予測できるのかどうかを想像すればいい。結果の側から原因を想像することもできない人間が、原因の側から結果を想像することなどできるはずもありませんが。◇原作者を軽視してきた構造上の問題と、原作者が自殺してしまった個別の問題とは、別々に切り離して考えるべき話です。むしろ自殺の《直接的なトリガー》は、原作者を軽視したことでもなければ、、インスタでトラブルを暴露したことでもなく、おそらく、1.SNSで相沢友子へのバッシングが加熱したこと2.芦原妃名子のSNSの文章を削除させる圧力が働いたこと…のどちらかである可能性のほうが高い。もちろん、そのどちらかであるにせよ、芦原妃名子の死までを予測することはできないし、その行為者に責任を負わせることは不可能です。とはいえ、相沢友子が後悔を表明しているように、SNSでバッシングを加熱させた人たちも、その行為について後悔はあってしかるべきでしょう。後悔することもなく、なおもバッシングをやめないとすれば、それはもう人間としてどうかしている。◇たしかに、ドラマ制作部の二枚舌に気づけなかった段階なら、相沢友子の側から芦原妃名子の存在が「悪者」に見えたり、芦原妃名子の側から相沢友子の存在が「悪者」に見えたりしても、ある程度は仕方ないことと言えます。しかし、現在ではもう状況が違っている。さまざまなファクターが介在しただろうことが、一般の人たちにも推測できる状況に変わっています。それにもかかわらず、この期におよんで、相沢友子のことを、まるで「人殺し」であるかのようにバッシングするのは、いまや不法行為としての《名誉毀損》の度合いが強い、…と言わなければなりません。そもそも、書き直しを迫られるような脚本を、わざわざ好きこのんで書く人間などいるはずがないし、その労力をあらかじめ予測しながらも、あえて悪意をもって原作を改変するなどありえない話です。3.SNSのバッシング逆にいえば、「相沢友子は悪意をもって原作を改変したのだ」みたいな解釈を拡散させている人たちのほうに、今となっては強い悪意を指摘せざるをえない。しかも、その中には、相沢友子の書いた文面を意図的に書き換え、曲解に曲解を重ねながら印象操作をおこない、それを拡散させている人間がいるのです。わたしの確認できる範囲では、ヤフコメに以下のようなデマが書かれている。https://news.yahoo.co.jp/articles/029c2791d0b1ff4f91c9c066cae82ba1f4b42f31/commentshttps://news.yahoo.co.jp/articles/dc2d3ddc1815f33d770df8a190ac0d1dc0f12b05/comments相沢友子の実際の文面は以下のとおり。最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました。私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。まったく違う文面が、まるで相沢友子の投稿/コメントであるかのように書かれ、そのデマに1万人前後の人々が「共感」する形で拡散し、いまだ訂正も削除もされていません。たとえリテラシーの欠如が背景にあるにせよ、かなり悪質と言わなければなりません。
2024.02.09
わたしは知らなかったのですが、2010年に、いわゆる「やわらかい生活裁判」ってのがあって、そこでは、《原作者の完全勝訴/脚本家の完全敗訴》…との司法判断が下されてるのね。https://ja.wikipedia.org/wiki/絲山秋子#映画脚本を巡る訴訟このときは、原作の二次使用の許諾を取ったのが、映画制作会社や脚本家でなく、出版社(文芸春秋)だった、…というテクニカルな面での失敗もあるのだけど、やはり最大の判決理由は、原作者の「著作権/著作者人格権」を重視したことだと思う。(この裁判での出版社の立ち位置はいまいち分かりません)ちなみに、この裁判は、シナリオの雑誌掲載をめぐる争いだったのだけれど、理屈のうえでいえば、映画公開の中止さえも可能にするような判例だと思う。つまり、原作者の一存さえあれば、あらゆるメディアミックスを中止に追い込める、…ってことではないかしら?◇そこで気になるのが、現在の東宝ミュージカル「ジョジョ」のことです。一部では、あの騒動も、「もしや原作者とのトラブルでは?」なんて噂されてますが、…どうなんでしょうね。実際のところは分からないけど、あくまで理屈のうえでいえば、原作者の一存で公演を中止させることは可能だと思う。◇芦原妃名子だって、法的な観点からいえば、自分の一存でドラマをやめさせることは出来たはず。でも、小学館との信頼関係を優先させたのでしょう。出版社とのあいだで、二次使用や代理人にかんする契約をすることが、一概に悪いとも言いきれませんが、あくまで著作権や著作者人格権は原作者にあるのだから、代理人に縛られる必要はなかったはずなのよね。出版社は、最終的には企業のロジックで動くだろうし、そういう出版社を信頼しすぎると、結果として原作者自身が苦しむことになると思う。◇まあ、セクシー田中さんの問題でいえば、表向きは味方のフリをしながら、実際は二枚舌で原作者の権利を搾取していた、出版社&テレビ局が悪いんだろうし、それを慢性化させた業界全体の責任でもあろうけど、ぶっちゃけていえば、メディアミックスをめぐる対立というのは、すぐれて権利上の争いなのであって、誰が正義で誰が悪か…みたいな話ではないと思います。今回は、原作者の死という結果から見てるがゆえに、どこかに犯人がいるかのごとく考えがちだけど、ほんとうはそうではない。この争いでは、二次使用をする側が負けることもありうるし、そちら側に被害者が出ることだって想定せねばならない。◇もし原作者の一存で、映画やドラマや演劇を中止させることが可能だとすれば、それはメディアミックス産業にとって恐怖です。原作者の多くは、あくまで忠実な二次使用を望むかもしれませんが、それが市場の評価に帰結するとは限らないし、そもそも、映画にしろ、ドラマにしろ、演劇にしろ、「完全に忠実な二次創作」などありえないのだから。いったい何をもって「忠実」と判断するのか。たとえば東宝の「ジョジョ」はミュージカルですが、原作漫画に忠実なミュージカルなんて本質的に不可能!物語やキャラのみならず、衣装や舞台セット、音楽や歌など、原作漫画の世界観を壊しかねない要素は枚挙に暇がない。◇相沢友子の脚本もそうだったかもしれないけど、たとえ制作側が「それなりに忠実」なつもりでも、原作者から見れば「ぜんぜん忠実じゃない」って判断になったり、たとえ制作側が「最大限に忠実」なつもりでも、原作者から見れば「まだ足りない」って判断になるかもしれない。そういう終わりのない「無限忠実地獄」に翻弄されかねない。まして、出版社が二枚舌を使って仲介していたなら、その齟齬は永遠に埋めようがありません。かといって、細かい条件までを事前に確認しようとすれば、それはそれで、とてつもなく膨大な作業になるはずです。◇従来のメディアミックスの世界で、その合意がうやむやにされてきたのは、ある意味で必然的なのだと思う。うやむやにして進めるしかなかったのでしょう。結論をいえば、「改変OK」の原作でなければメディアミックスは不可能。さもなくば、「最低限ここだけは譲れない」みたいな限定的な項目だけを列挙してもらって、それ以外は「改変OK」と容認してもらうしかありません。これは、二次使用の際に、「リスペクトする気持ちがあるかどうか」なんぞという生易しい抽象論ではありません。そんな精神主義などクソほどの意味もありません。◇何をもって「忠実」とみなすかは、おそらく原作者の主観によってそれぞれであり、それを客観的に判断したり規定したりはできないのです。世間の漫画ヲタは、「原作ファンが納得することがいちばん大事!」などと都合よく考えてるらしいけど、そんな話は二の次三の次のどうでもいいことであって、法的な意味の最重要事項は、やっぱり「原作者自身が納得するかどうか」になる。そして、それは、原作者によって重視するポイントが違っていて、内容面での納得かもしれないし、権限面での納得かもしれないし、待遇面での納得かもしれません。まあ、原作者といえども、映像や演劇のプロじゃないのだし、二次創作へ介入するにしても能力的な限界があるから、最後はやっぱり、「金銭的な待遇」で決着するしかないんじゃないかしら?その意味でいうと、もしかしたら今回の東宝ミュージカルは、原作者による事実上の《ストライキ》の可能性もあります。◇たとえば映画会社は、Youtubeの「ファスト映画」を権利侵害だと糾弾してきたけど、原作者から見れば、待遇面で折り合わない映画会社の二次創作は、ファスト映画と大差のない権利侵害ってことになるはずです。なお、「ジョジョ」は集英社の作品ですが、先の「やわらかい生活裁判」の場合と同じように、二次使用の許諾を取ったのが集英社なのか東宝なのか、そこらへんも重要なポイントになるのかもしれません。つまり、仲介をする出版社が許諾をとるのではなく、制作会社が直接原作者から許諾を取らなければ、つねに中止に追い込まれる危険性を避けられないのでは?◇もともと「ジョジョ」の荒木飛呂彦は、メディアミックスに寛容なイメージがあるのだけど、本当のところはどうなんでしょうね。NHKドラマの「岸辺露伴」などは、原作ファンも納得の出来だと言われてるけど、あのドラマだって、かならずしも原作に忠実なわけではありません。とくに飯豊まりえの演じた泉京香のキャラは、かなりドラマオリジナルの要素が強い。あのドラマの人気は、泉京香のキャラによるところも大きいけれど、案外、原作者にしてみれば、そこが「最大の不満ポイント」だった…なんてことだって、ありえなくはないのです。◇わたしは、ドラマ版の「岸辺露伴」も、ドラマ版の「セクシー田中さん」も、十分に楽しんでいたわけですが、三次元の住人(ドラマファン)と二次元の住人(漫画ヲタ)とでは、まったく見え方が違ってる可能性があり、原作ファンと原作者自身のあいだでさえ、ぜんぜん見え方が違ってる可能性があるのです。原作者が納得しても、原作ファンには大不評ってこともありえるし、その逆も十分にあり得るってこと。◇そういえば、漫画ヲタクどもは、TBSによる「砂時計」のドラマ化を評価してたらしいけど、文春の記事によると、じつは芦原妃名子は、あの映像化にさえ苦慮してたらしいじゃないですか。原作者と原作ファンの見解が一致するなんてのは幻想です。それは原作者と出版社の利害が一致しないのと同じ。求めるところはそれぞれに違っている。漫画ヲタクの人たちは、「原作に忠実に作るのが正義!」みたいに簡単に言うけど、《二次創作の忠実性》という概念は、きわめて主観的、かつ曖昧、かつ多様だと考えるべきです。◇メディアミックス産業の未来に暗雲が立ち込めている。二次元世界と三次元世界は、いよいよ全面戦争に入るかも。池田理代子の「ベルばら」などは、漫画と宝塚歌劇がどちらも大ヒットして、メディアミックスの先駆的な成功例になった。萩尾望都は、宝塚ファンだったにもかかわらず、自作の舞台化にはずっと消極的でしたが、30年余りの交渉を経て「ポーの一族」が宝塚歌劇になった際は、「感動で言葉になりません」と話してたから、これも最終的には成功裏に終わってる。漫画協会理事長の里中満智子も、「二次創作は原作とはまた別の世界」と話してて、わりとメディアミックスには寛容なようです。今回の「ジョジョ」は、宝塚と同系列の東宝ミュージカル。東宝は舞台「千と千尋」も成功させましたが…もしかしたら今回の「ジョジョ」ミュージカルは、過去に例がないほどの大きな躓きになってしまうかもしれない。ジョジョの奇妙な冒険 31 (ジャンプコミックス) [ 荒木 飛呂彦 ] 楽天で購入
2024.02.08
相沢友子のインスタの文章は、昨日の記事にまるまる引用したとおりですが、あの文章が、芦原妃名子を攻撃したものだったかどうかは、文面そのものからは読み取れないし、内心どう思っていたかも知りようがない。すくなくとも、あからさまに原作者を攻撃した文面ではありません。◇しかし、この相沢友子の文章を受けて、彼女の仲間やフォロワーの一部が、芦原妃名子をあからさまに「悪者」と見なした、…そういうフシはあるっぽい。たしかに、日テレや小学館の二枚舌に気づかなければ、芦原妃名子が悪者に見えてしまっても仕方ない面はある。とはいえ、もし相沢友子本人に攻撃の意図がなかったとすれば、こうした「援軍」の存在はかえって迷惑なのよね。意図せずして対立図式が出きあがり、そのうえ自分が矢面に立たされるのだから。でも、その「援軍」の人たちは、おそらく相沢友子のファンや仲間なのだろうし、当人たちはよかれと思って、つまりは「相沢友子のために」やってるわけなので、それをむげに諌めたり非難したりもできない。そういう板挟みに陥ってしまう。◇それと同じことは芦原妃名子の側でも起こります。本人は相沢友子を攻撃するつもりがなくても、取り巻きの「援軍」の人たちは、ここぞとばかりに芦原妃名子を守れ!といって、相沢友子の陣営へ一斉攻撃をはじめてしまう。その結果、他人を傷つけることをいちばん嫌った漫画家が、なぜか、その攻撃の最前線に立たされてしまう。これはかなり絶望的だったかもしれません。◇太平洋戦争のときの天皇が、それとほぼ同じ。本人はアメリカと戦うつもりなどなかったのに、愛国的な天皇主義者たちが「天皇万歳!」と叫び、勇ましくも鬼畜米英に立ち向かってしまう。そして天皇が、その矢面に立たされてしまう。勇ましい愛国主義者たちは、さぞかし天皇を崇拝していたのでしょうが、崇拝された側にとっては、はなはだしい迷惑。さいわい昭和天皇は戦犯にはなりませんでしたが、ひとつ間違えれば処刑されていました。◇これにそっくりなことはジャニヲタにも言える。ジャニヲタ軍団は、大好きなジャニタレを守ろうとするあまり、ジャニー喜多川の性犯罪まで擁護していたわけですが、それがかえって世間の反感を買って、ジャニーズもジャニタレも窮地に追いこまれてしまった。しかしながら、ジャニヲタの人たちはあくまで善意のつもりだから、ジャニタレたちは、それに対して怒りを向けるわけにもいかず、ひたすら出口の見えない板挟みに苛まれていく。◇わたしの知っている範囲でいえば、上白石萌音にも同じようなことがありましたね。一部のファンが、「なんで紅白司会は萌音ちゃんじゃなくて橋本環奈なの?!」と言って橋本環奈のことをディスりはじめた。しかし、それで迷惑するのは萌音本人なのです。なぜ友人の橋本環奈と対立しなければならないのか?萌音の場合はさすがに我慢がならなかったらしく、すかさず自分のファンに本気で怒っていましたが、実際、そうでもしなければ収まらないのです。本人たちは善意のつもりでやっている。競合相手を蹴落とすことが、大好きな「萌音ちゃんのため」だと信じてる。◇こういうことは何度も何度も繰り返される。そして、くりかえし死者を出すことになる。当人たちには悪気がないどころか、むしろ正義だと思ってるから、なおさら質が悪い。まよわず敵陣を攻撃することが、仲間や崇拝者に尽くすことだと信じて疑わないし、その過ちに気づく理性と想像力は決定的に足りていない。バカにつける薬が是非とも必要なのだけれど、それはなかなか見つからないのです。◇◇◇絶賛暴走中の漫画ヲタク軍団が、ネトウヨやジャニヲタとよく似てるのは、組織の隠蔽体質に加担してしまうところにもいえます。漫画ヲタクは、好きな漫画や漫画家を守ろうとするあまり、その媒体である小学館をも擁護しようとするのです。編集担当者は漫画家の味方にちがいない!…と信じて疑おうとしないし、小学館の企業風土に多少の疑念があっても、そこには蓋をして見ないようにする。とりわけ、ふだんから小学館の漫画や雑誌を愛読してる人たちは、できれば小学館が「悪」だとは思いたくないし、可能なら日テレと脚本家だけが悪いという図式に持ち込みたい。◇これはジャニヲタが、大好きなジャニタレを守ろうとするあまり、ジャニー喜多川の性犯罪に蓋をして、それを見ないようにしてたのとまったく同じだし、ネトウヨが、政権与党や自衛隊の不祥事や失態を擁護したり、その隠蔽に加担したりして、問題をうやむやにしようとする心理にも似ています。つまり、都合のよい面ばかりに目を向けて、不都合な真実からは目を背けようとする。◇ジャニーズの問題が改善されなかったのは、シャニヲタがその暗部に蓋をし続けてきたからでもある。日本が戦争に負けたのは、当時の自称愛国主義者の連中が、日本軍の失態や敗退に蓋をして目を向けず、勇ましい活躍や成果ばかりを称えつづけ、真実の隠蔽に手を貸してしまったからでもある。現在の漫画ヲタク軍団が、不都合な真実から目をそむけて小学館を擁護するかぎり、小学館の側もまた、みずからの暗部と隠蔽体質を変えようとはしないでしょう。
2024.02.05
片言の子の猫舌と鱈の鍋 無事願いかかあと待ってる三平汁 牛鍋の〆のおうどん捜索隊 鍋囲う笑顔思いて出汁選び よーいドンおしくらまんじゅう鍋の夜 商談の中華テーブル窓凍てる ちゃぶ台に干支の過ぎたる祝箸 日脚伸ぶポン酢はあるかと問ふ電話2月1日のプレバト俳句。お題は「鍋つゆ売り場」。◇高橋真麻。片言の子の猫舌と鱈の鍋片言の子の猫舌と鱈鍋と(添削後)句材は面白いけどね。下五「鱈鍋」を「鱈の鍋」と書いたところは、いかにも音数合わせだなと感じてしまいます。また、幼い子供の描写として、「片言」で「猫舌」と2つの特徴を並べるのは、やや材料が多すぎる気がしなくもない。あるいは、すこし脚色をして、片言の子は猫舌で鱈鍋を猫舌の子が片言で鱈鍋とのように季語に絡める手もあるかな。◇勝俣州和。無事願いかかあと待ってる三平汁無事帰港願うかかあの三平汁(添削後)字面だけを見ると、「息子の無事を妻と一緒に願う夫」の句に見える。しかし、実際は、「夫の無事を願うその妻と一緒にいる作者」の句らしい。失礼にも、他人の妻を「かかあ」などと呼んでるので誤読を招きます。◇ナダル。鍋囲う笑顔思いて出汁選び鍋の出汁選ぶ売り場や 冬の夕(添削後)鍋の出汁を選んでる…というだけの凡庸な場面。そこに自分の心象を添えてしまう初心者の失策。なお、調理器の「鍋」は季語ではないけれど、「鍋物」「鍋料理」の意味なら季語と見なすべき、との考え方もあるようです。◇加藤ローサ。よーいドンおしくらまんじゅう鍋の夜おしくらまんじゅうみたいに寄せ鍋を囲む(添削後)兄弟家族で鍋を囲んでる…というだけの凡庸な場面。そして季語「押し競饅頭」を比喩にしてしまう初心者の失策。ちなみに、作者は一句一章のつもりで詠んでるのだけれど、字面だけを見ると、「かけっこ」「押し競饅頭」「夜の鍋」という三段切れの三句一章に見えてしまいます。◇キスマイ宮田。牛鍋の〆のおうどん捜索隊牛鍋の〆のうどんをさぐる箸(添削後)ベタな比喩で「捜索隊」と書いてしまう初心者の失策。ぜんぜん初心者じゃないけどねw鍋の底のうどんを探ってる場面だそうですが、台所の奥にしまってある乾麺を探してるのかな?と誤読されます。◇森迫永依。商談の中華テーブル 窓凍てる窓凍つや 商談中の中華卓(添削後)原句にあきらかな欠点があるとは思えない。「窓凍つ/凍てる」を上五に置くか下五に置くかは、もはや好みの問題かなあ…って気がします。たしかに、添削のように上五に置くほうが安定するけれど、逆にいうと、原句のほうは、最後の窓の印象が心もとなげな余韻を残します。しかも「凍てる窓」より「窓凍てる」のほうが、いっそう心もとない余韻を残すので、そこは好みの分かれるところかもしれません。なお、添削句のほうは「商談中」としたことで、当事者視点から第三者視点に変わってる気がする。それから「中」と「中」が重なるのも、押韻という感じではなく、むしろ鬱陶しい印象。原句の当事者視点を維持するなら、凍つる窓 中華テーブルの商談のような破調でもいいかなと思います。ちなみに、「凍つ」と「凍てる」は同義の古語だけど、「凍つ」は文語で「凍てる」は口語です。つい安易に《古語=文語》と同一視しがちですが、正確にいえば、現代語に《書き言葉》と《話し言葉》があるように、古語にも《文語》と《口語》があるわけですね。凍つ:自動詞下二段活用活用{て/て/つ/つる/つれ/てよ}凍てる:自動詞下一段活用活用{て/て/てる/てる/てれ/てよ}◇清水アナ。日脚伸ぶ ポン酢はあるかと問ふ電話先週につづいて動詞の季語。しかも、上五を終止形で切る形ですね。古語なので、連体形で「日脚伸ぶるポン酢」と誤読される惧れはないけど、時効の季語だけが映像化されないまま浮いてる感じがして、いまいち収まりが悪い。内容的にも、ちょっと状況が見えにくいですよね。近所に住む実家の親から、「ポン酢を貸してくれ」と頼まれたのか。遠方に住む実家の親から、「ポン酢がないなら送るよ」と言ってもらったのか。兼題写真を見れば、鍋の季節の状況だと想像できるけど、兼題写真がなければ、「醤油切れ」とか「味噌切れ」みたいな、ごく日常的な調味料切れの場面とも読めます。ちなみに「日脚伸ぶ」は、大寒と同じく1月下旬の時候の季語ですが、春の近さを感じさせる季語でもあります。もう鍋の季節も終わりに近づいて、日常で使うポン酢も切れてしまった状況なら、「日脚伸ぶ」という季語は妥当かもしれないけど、大寒のころで鍋真っ盛りという状況を詠んだなら、この季語はあまりふさわしくありません。そこは解釈の仕方によって判断が分かれる。なお、中八は助詞「は」を省けば解決します。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥まだまだこれからも勉強!!📚💪#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/o7FSbLR8ZH— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) January 29, 2024◇梅沢富美男。ちゃぶ台に干支の過ぎたる祝箸かしましや 干支の過ぎたる祝箸(添削後)中七・下五の、「干支の過ぎたる祝い箸」はとても面白いけど、作者の話をよく聞くと、じつは「年を越した」という意味ではなく、たんに「正月を過ぎた」という意味らしいので、正確性を欠いた記述なのですよね。つまり、作者は、正月を過ぎてしまって、ハレの日に用いられるはずの祝い箸が、日常のちゃぶ台に置かれてしまっている、…という滑稽味を詠んでるわけです。ところが、先生は「年を越した」と誤読してるので、去年の干支違いの祝い箸が使われてることに、面白みと詩情を見出してしまっている。そうすると「ちゃぶ台」との取り合わせは、蛇足かつ不釣り合いにしか見えないのです。これは先生の誤読のせいではなく、作者の不正確な記述のせいとしか言いようがない。まあ、わたしとしては、「去年の祝箸がちゃぶ台に置かれてる」との解釈でも、それはそれで面白いかなって気もしますが。両端を細めてあるのは神様と共用するためだそうです!▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.02.05
漫画ヲタクの暴走がいっこうに止まらない。原作至上主義こそ「絶対正義」と思い込み、テレビ局と脚本家が「絶対悪」と思い込み、にもかかわらず、なぜか小学館のことは「漫画家の味方」と信じて疑わない。そのうえ今度は、木南晴夏やめるるや毎熊克哉にまで、そのルサンチマンの矛先を向けている。おそらく3次元世界のすべてが憎いんでしょうねw芦原妃名子が亡くなった直接の原因は、相沢友子のインスタなんぞではなく、ほかならぬ漫画ヲタクどもの暴走にあるのかもしれないのだけど、その可能性からはあくまで目を背けつづけ、あろうことか、ますます個人攻撃をエスカレートさせてます。◇このような漫画ヲタクの暴走は、かえって自分自身の首を絞めてもいる。漫画ヲタクの掲げる原作史上主義は、メディアミックスの選択肢を狭めるあまり、かえって漫画出版社を窮地に追い込み、漫画文化そのものの経済基盤をも揺るがしてるのだけど、その現実からも目を背けてる。べつに「大人になれ」とかいう話じゃなく、子供であろうと、大人であろうと、現実から目を背けることはできないだろって話なのですが、おそらく漫画ヲタクの人たちは、彼らの愛する2次元世界が、現実の3次元世界を凌駕するように望んでるのでしょう。しかし、シンギュラリティでも訪れないかぎり、そんな世界は実現しません。◇もちろん日テレと小学館は、原因究明と事情説明をする必要がありますが、その説明を聞くまでもなく、もはや野木亜紀子や佐藤秀峰の文章を読んだら、おおよその背景と事情は察しがついてしまった、…ってのが正直なところ。そして、原作者と脚本家にすり合わせをさせない手法は、三上絵里子や相沢友子にかぎった話ではなく、テレビ業界全体の悪習だったこともバレてしまった。もちろん再発防止策も改善策も必要なのですが、おそらく改善に向かうというよりは、たんに《漫画原作が忌避される方向》へ流れるだけでしょう。漫画原作はめんどくさい、との認識が共有されて終わる。◇テレビドラマが漫画原作を避けることで、いちばん損をするのは出版社ですが、メディアミックスの可能性が大幅に狭まる事態に対し、どんな方策を講じればいいかについては、昨日の記事に書いたとおりなので割愛します。いずれにしても、漫画ヲタクの暴走から得られるものなど何もなく、漫画を中心とするメディアミックスの経済を縮小させることで、かえって彼ら自身の首を絞めているにすぎません。◇あらためて相沢友子のインスタの文章は次のとおり。〔12月24日〕最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました。〔12月28日〕私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように。この文章をどう読むかは人それぞれでしょう。脚本の書き直しをさせられたり、終盤の脚本がまるまるボツになったことについて、ショックを吐露してるのはたしかです。最初からボツになる可能性を知っていれば、わざわざ苦労して書くわけがないのだから、まともな意思疎通が出来てなかったのは想像に難くないし、原作をねじ曲げられた芦原妃名子がショックだったように、せっかく書いた脚本を反故にされた相沢友子が、同様にショックを受けたのも当然のことでしょう。◇そして最後の、「今後同じことが二度と繰り返されませんように」という一言は、十分な意思疎通を怠った自分への戒めとも取れるし、それを遮ったプロデューサーや出版社への苦言とも取れるし、構造的な問題が改善されることへの願いとも取れるのだから、それをあえて「原作者への嫌味」だと解釈するのは、ひとつのバイアスのかかった見方にすぎません。たしかに相沢友子の支持者のなかには、あからさまに原作者を "悪者" と見なす人もいたのだけど、それはちょうど、現在の芦原妃名子の自称支持者どもが、相沢友子を ”人殺し” 呼ばわりすることの裏返しであって、はたから見たら「どっちもどっち」でしかない。要は、双方の外野どうしが、> 自分たちが絶対正義で、> 相手がたは絶対悪である!と主張して互いに暴走してるだけ。さながら馬鹿なネトウヨが、> 日本人の愛国心は絶対正義だが、> 中国人の愛国心は絶対悪である!と主張してるのと同じで、はたから見たら「同じ穴のムジナ」なのです。◇ちなみに、ヤフコメには、この相沢友子の文章について、脚本家が「原作者のわがままのために酷い思いをしたけど、俳優さんたちやスタッフの皆様は素晴らしかった」という内容のコメントを誰の目にも触れる場所に発信…https://news.yahoo.co.jp/articles/dc2d3ddc1815f33d770df8a190ac0d1dc0f12b05などと、まったく違う文面に書き換えた人物が存在し、このデマ情報が、いまなおいちばん上位に表示されていて、1万人もの閲覧者が「共感」のボタンを押すなど、かなり悪質な拡散ぶりを見せています。◇芦原妃名子が亡くなったのは、相沢友子のインスタの文章のあとではなく、それから1ヶ月後のことです。つまり、芦原妃名子が、小学館に確認のうえでトラブルの経緯説明をし、それがSNSにおける騒動へと発展し、それを受けて当該文章を削除した直後なのだから、そこにこそ直接的なトリガーがあったと考えるのが普通。漫画ヲタクどもは絶対に認めたくないでしょうが、芦原妃名子の自称支持者の連中が、相沢友子への攻撃を激化させたことこそが、直接的な引き金だったのではないか?…と疑ってる人はかなり多いはずです。そうでなければ、「攻撃したかったわけじゃなくて」という最期の言葉にはなりようがない。◇もちろん、遺書の内容が公表されないかぎり、そのトリガーを特定することはできないし、わたし自身も、彼女が亡くなる前日に記事を書いてますから、それが本人の目に触れた可能性というのも、ずっと気になってるのは否めません。当時のアクセス数は300程度だったけれど、自分の記事がトリガーになった可能性が、絶対にないとまでは言い切れない。極論をいえば、この問題についてのネットの言葉のすべてが、何らかのトリガーになった可能性はあるわけで、その意味で、現在の状況というのは、たがいに責任のなすり合いをしてるとも言える。◇けれど、たとえ何がトリガーだったとしても、それが罪だとまではいえません。犯人探しをしたくなる気持ちは理解できますが、自殺の背景において、かならず犯人が存在するわけではない。にもかかわらず犯人を捕まえて断罪しようと暴走すれば、実質的な冤罪まがいのものを生み出すだけです。◇しかし、それでもなお、漫画ヲタクどもの暴走が止まることはないでしょう。わたしは今回の件で、日本で漫画ヲタクと呼ばれる人たちが、ネトウヨやジャニヲタと同じ種類の連中なのだ、…ということを完全に理解しました。
2024.02.04
芦原妃名子の自殺が今後どのような結果を生むか。大きく2つの方向性があります。1.原作に忠実なドラマが増える2.原作アリのドラマ自体が減るそして、おそらく正解は「2」のほうだと思います。◇野木亜紀子や佐藤秀峰がアップした文章を読むと、原作者と脚本家の意思疎通がいかに困難なのか分かるし、クリアすべき問題は脚本だけじゃないのだから、原作に忠実なドラマを作るのは途方もなく難しいと思える。脚本家と原作者が意志疎通をはかろうにも、時間的・距離的な制約があって難しい場合もあり、たとえ会ったところで、すり合わせの作業が円滑に進むともかぎらず、折り合いがつかなければ決裂する場合もありうる。なので、出版社側の担当者も、TV局側のプロデューサーも、なるべく両者を対面させずに乗り切ろうとしてきたわけです。それがなかば慣例化していた。その事情を知ると、出版社の担当者を責める気にもならないし、TV局のプロデューサーを責める気にもならないし、まして脚本家を責める気にもならない。原作者と本気で向き合おうとすれば、それはかなり手間のかかる作業になる、ということ。そこまでして原作に忠実なテレビドラマを作るというのは、まったくもって理想論としか思えない。◇以下は野木亜紀子のツイート。脚本家が好むと好まざるとに関わらず「会えない」が現実で、慣例だと言われています。私も脚本家になってからそれを知って驚きました。良くいえば「脚本家(あるいは原作者)を守っている」のであり、悪くいえば「コントロール下に置かれている」ことになります。慣例といっても、原作サイドから「事前に脚本家と会いたい」という要望があれば、プロデューサーも断れるはずがなく、そんな希望すら聞いてくれないのであれば作品を任せないほうがいいし、それを断る脚本家もいない……というか、会いたくないなんて断った時点で脚本家チェンジでしょう。原作がある作品において、脚本家の立場なんてその程度です。脚本家からしたら、プロデューサーが話す「原作サイドがこう言ってた」が全てになります。私自身も過去に、話がどうにも通じなくて「原作の先生は、正確にはどう言ってたんですか?」と詰め寄ったり、しまいには「私が直接会いに行って話していいですか!?」と言って、止められたことがあります。(後に解決に至りましたが)また、プロデューサーも、先生の意見を直接聞いているかというとそうでもない。半年以上に及ぶやり取りの中で、地方在住の方もいらっしゃいますし、ご自身の仕事が多忙でそんな暇ないということもある。そのため大抵は、出版社の担当者やライツを通した、伝言の伝言になります。https://twitter.com/nog_ak/status/1753260514329887140そして佐藤秀峰のnote。「映画は水ものだから企画段階では真剣に考えなくて良い」という編集者の言葉を真に受けていたら、ある日決まっていました。決まったと思ったら僕が口を挟める余地はありませんでした。漫画家は通常、出版社との間に著作権管理委託契約というものを締結しています。出版社は作品の運用を独占的に委託されているという論理で動いていました。契約書には都度都度、漫画家に報告し許諾を取ることが書かれていました。が、それは守られませんでした。すでに企画が進んでいることを理由に、映像化の契約書に判を押すことを要求されました。嫌だったけど、「映像化は名誉なこと」という固定観念がありました。映像化決定のプロセスが嫌なだけで、出版社もいろいろ動いてくれたんだろうなと。原作使用料は確か200万円弱でした。出版社への不信は募ります。何も言わないことと、何も不満がないことは違います。言えることは、出版社、テレビ局とも漫画家に何も言わせないほうが都合が良いということです。出版社とテレビ局は「映像化で一儲けしたい」という点で利害が一致していました。出版社はすみやかに映像化の契約を結んで本を売りたいのです。映像化は本の良い宣伝になります。だから、漫画家のために著作権使用料の引き上げ交渉などしません。漫画家の懐にいくら入ったところで彼らの懐は暖まらないのです。それより製作委員会に名を連ね、映画の利益を享受したい。とにかくすみやかに契約することが重要。著作権使用料で揉めて契約不成立などもっての外。テレビ局はできるだけ安く作品の権利を手にいれることができれば御の字。漫画家と直接会って映像化の条件を細かく出されると動きにくいので、積極的には会いたがりません。出版社も作家とテレビ局を引き合わせて日頃の言動の辻褄が合わなくなると困るので、テレビ局側の人間に会わせようとはしません。漫画家の中には出版社を通じて映像化に注文を付ける人もいますが、出版社がそれをテレビ局に伝えるかどうかは別問題です。面倒な注文をつけて話がややこしくなったら企画が頓挫する可能性があります。出版社は、テレビ局には「原作者は原作に忠実にやってほしいとは言っていますけど、漫画とテレビじゃ違いますから自由にやってください」と言います。そして、漫画家には「原作に忠実にやってほしいとは伝えているんだけど、漫画通りにやっちゃうと予算が足りないみたい」などと言いくるめます。https://note.com/shuho_sato/n/n37e9d6d4d8d9※佐藤秀峰のように出版社にまで喧嘩を売れるツワモノはかなり貴重だと思う(ちなみに「海猿」も小学館の作品です)。ふつうなら、安タケコのツイートのように「同じ思いの小学館、担当編集者、編集部も誠心誠意作家を守るために尽力してくれています」みたいに書くだろうから。べつに安タケコが嘘を書いてるとは言わないけど、とくに連載をもってる漫画家なら、公然と出版社に喧嘩を売るのはかなり難しいはずです。野木亜紀子がテレビ局を批判するのも、かなり勇気のいることだと思います。わたしは、そういう人たちのほうを圧倒的に信用する。◇今後のテレビドラマは、オリジナルの脚本が増える一方で、「改変OK!」のものでないかぎり、原作アリの作品は忌避されていくことになる。わざわざ原作者と折り合いをつけるために、時間と手間をかけるプロデューサーは少ないはずです。そもそも、原作に忠実なドラマは、漫画ヲタクには評判がいいかもしれませんが、一般層にまで広く遡及するとは限らないし、テレビドラマというのは、原作者以外にも配慮すべきことが多すぎます。話数や放送時間やCMのタイミングなど、様々なフォーマットに収めなければならないし、絶対に守るべき納期があるし、視聴率も取らなきゃいけないし、予算的な制約や撮影技術上の制約もあるし、スポンサーや出演陣のイメージにも合わせねばならないし、コンプラ違反をしてもいけない。おそらくドラマの脚本制作というのは、脚本家の自己表現を全開にできるような仕事ではなく、さまざまな要求や条件や制約に合わせていく作業だし、それを考えたら、原作者の要求に全面的に応じられるテレビドラマなど、ほとんど不可能だと考えたほうが正しい。◇なので、今後のテレビドラマは、「原作なしのオリジナル脚本」と、「改変OKな原作もの」に傾いていくはずだし、さらには「AI脚本」みたいなのが増える可能性もある。その結果、いちばん損をするのは誰かといえば、それは出版社です。これまで漫画出版社が、自社作品をTV局に売りわたすことによって、どのくらい儲けてきたのか知らないけど、今回の問題によって、テレビドラマはおろか、メディアミックス全般の可能性が大幅に狭まっていく。これは出版社側の自業自得ともいえますが、漫画雑誌の廃刊や、出版社の倒産を加速させることにもなりかねません。◇しかし、損をするのは出版社だけではありません。漫画ビジネスが日本の基幹産業になりつつある今、そのメディアミックスの可能性が狭まっていくことは、日本経済全体の巨大な損失になるからです。したがって、これは、ある意味、政治的な案件であり、経済界全体が注視すべき問題だというべき。◇では、漫画のメディアミックス産業を衰退させないために、いったいどうすればよいのか?ひとつの方策として考えられるのは、それを原作者にとっても「旨みのあるビジネス」に変えていくこと。たとえ原作の内容やイメージを変えられるのが苦痛だとしても、たとえ原作ファンの漫画ヲタク連合から袋叩きにされるとしても、「これだけ儲かるのなら仕方ないか…」と思わせるだけの経済的なメリットがあれば、その苦痛を我慢してくれる原作者はきっといると思います。◇そして、もうひとつの方策があるとすれば、漫画原作の売り先を、時間に追われてドラマを量産してる日本のテレビ局ではなく、Netflixのような国際映像メディアに移行させる、ということ。そのほうが、時間とお金をかけて、原作に忠実なドラマを作ってくれるかもしれないし、国内の漫画ヲタクだけでなく、世界中の漫画ヲタクの市場を相手にすれば、時間とお金をかけるだけの採算が合うかもしれません。
2024.02.03
いまだに多くの漫画ヲタクの人たちは、「小学館は芦原妃名子の味方だったはず!」と信じて疑わないようですが…何故そこまで出版社を信用できるのか、わたしには不思議でなりません。ネトウヨが自衛隊を批判しないのと同じく、漫画ヲタクは小学館を批判してはならない、…みたいな暗黙のルールでもあるのかしら?◇すくなくとも、わたしから見ると、小学館のふるまいには以下の4つの点で疑念があります。1.なぜ《原作クラッシャー》による企画を承認したか三上絵里子と相沢友子は、《原作クラッシャー》との不名誉な異名を与えられてますが、なぜ小学館は、もともとドラマ化に前向きでなく、さまざまな条件付けも多かった芦原妃名子の作品を、よりにもよって《原作クラッシャー》の2人に委ねたのでしょう?最初の段階では、まだ脚本家が未定だったかもしれませんが、三上絵里子がプロデューサーを務める時点で、原作が改変される恐れはあったわけだし、脚本家として相沢友子の名前が挙がった時点で、その起用を拒否することもできたはずです。かりに芦原妃名子が、2人のことをよく知らなかったとしても、小学館の担当者が知らなかったはずはない。三上絵里子が担当した「二月の勝者」や、相沢友子が担当した「ミステリと言う勿れ」は、いずれも小学館の作品だったのだから。もし小学館側が、2人を《原作クラッシャー》だと認識していたなら、芦原妃名子の作品を彼女たちに任せるはずがありません。にもかかわらず企画が止まらなかったのは、日テレの問題ではなく、むしろ小学館側の勇み足で原作者の意思を飛び越え、ドラマ化の流れを作っていったからだ、と思えます。そもそも、多くの漫画ヲタクの思い込みとは裏腹に、むしろ企業としての小学館は、この2人の仕事を高く評価していたのではないですか?2.なぜ日テレ側のスタッフと対面させなかったかこれについては、昨日の記事に書いたので割愛しますが、目下、小学館と日テレには、「なぜ原作者と脚本家に意思疎通をさせなかったのか」について説明することが求められています。一部の漫画ヲタクの人たちは、「小学館はあくまで原作者の味方であり、 原作者に代わって日テレ側に意向を伝えていたのだ!」と主張していますが、わたしに言わせれば、たんに原作者は小学館を頼るほかになく、小学館をとおして意思を伝える以外に手段がなかった、…というだけのことに見えます。3.なぜトラブルの経緯を説明したのは原作者だったかドラマ終盤の脚本を、原作者が書くことになった経緯について説明したのは、小学館ではなく、原作者自身でした。原作者が "小学館に確認しながら書いた" としているので、これをそのまま「小学館側の説明」と見なす漫画ヲタクもいますが、原作者と出版社の利害が同じではない以上、両者の言い分が同じである保証はどこにもありません。わたしに言わせれば、日テレとのあいだを仲介したのが小学館だったから、たんに小学館に確認するしかなかった、というだけに見える。そして、その説明は本来なら、仲介をしていた小学館が直接おこなうべきだったし、そのほうがはるかに正確だったはずです。…ところで、原作者は、亡くなる前にその文章を削除してしまいましたが、それは何故だったのでしょうか?相沢友子へのバッシングが加熱してしまったため、原作者が自分の意志で削除したとも考えられますが、もしかすると、日テレ側との関係が悪化するのを恐れた小学館が、原作者に削除要請をした可能性もあるのではないですか?もしそうだとすれば、それは原作者を激しく失望させたでしょう。4.なぜ小学館はいまだに経緯を説明しないのか繰り返しますが、脚本制作のトラブルについて説明したのは、原作者自身であって、小学館ではありませんでした。そして、原作者が亡くなった今もなお、小学館はその経緯について公に説明をしていません。それは何故でしょうか?小学館側に非があるからなのか。日テレとの事実上の「共犯」だからなのか。日テレとの関係悪化を恐れているからなのか。◇◇◇昨日の繰り返しになりますが、わたしは「小学館が悪い!」と言いたいのではありません。原作者と出版社の利害は同じではないのだし、たんにその立場の違いが顕在化しただけであって、企業としての小学館のふるまいは、むしろ当然だとさえいえる。企業は企業としての利益を優先するはずだからです。◇芦原妃名子は、残念ながら小学館を頼る以外になかったのだろうし、いまさら言っても遅いことですが、ほんとうは小学館を信用しすぎるべきではなかった。小学館を頼りすぎるべきでもありませんでした。そして、これは、芦原妃名子と小学館だけの話ではなく、あらゆる出版社に依存するあらゆる漫画家にいえることです。
2024.02.01
フジテレビのニュースによると、芦原さんがブログやXで投稿した条件や意向が日本テレビ側に伝わっていなかったという情報がある点について、小学館側に確認したところ「広報室として出したコメントとHPに出したコメント以上のことは答えることができない」との回答でした。https://news.yahoo.co.jp/articles/6ce0ad68b4582daee329fab93d99e911a37c6194…だそうです。なぜ芦原妃名子は、日テレ側のスタッフと対面しなかったのか。それは、小学館が「芦原妃名子を守ったから」ではなく、むしろ小学館と日テレが共謀して、原作者と脚本家を対面させないようにしていたから、…という疑いがもたれます。つまり、小学館は原作者の「代理人」の立場をよそおって、実際には原作者の意向をブロックしていた可能性がある。◇一部の短絡的な漫画ヲタは、「コナンを日テレから撤退させろ!」とか、「小学館は日テレと別れる英断を!」などと叫んでますが、小学館がそんな選択をするわけがありません。どう考えても、日テレと小学館はウィンウィンの関係であり、もっといえば共犯の関係にあるのです。たとえ青山剛昌がアニメをやめたいと言っても、日テレと小学館はアニメ制作をやめるはずがない。金づるなのだから!出版社を信用するのも大概にしろ!!ってこと。◇ドラえもんの同人誌問題のときに、小学館が「著作権の保護」を主張したのはなぜか?それは、藤子・F・不二雄の権利を守るためではなく、あくまでテレ朝と小学館の権利を守るためであり、そのためなら、作家個人の創造性など平気で踏みつぶすのです。あのとき、小学館の横田清や大亀哲郎は、さも藤子・F・不二雄の遺志を代弁するふりをしたけれど、実際は、たんに自社の利益を守ろうとしたにすぎない。故人の遺志を代弁できる根拠などどこにもないのだから。◇わたしは「小学館が悪い!」と言いたいのではなく、これはあくまで「構造的な問題だ」と言いたいのです。たとえば、ジブリの鈴木敏夫と宮崎駿の関係は、世間的にも "目に見える関係" ではあるけれど、あそこにも激しい緊張関係があります。鈴木敏夫は、予算を抑えて納期までに作品を完成させようとするし、メディアミックスにも非常に積極的です。それに対して、高畑勲や宮崎駿は、赤字になることも意に介さないし、納得いくまで制作に時間をかけようとするし、メディアミックスにもほとんど関心がありません。これは、どちらが正しいとか間違ってるとかではありません。経営者とクリエイターでは立場が違うということです。◇おそらく漫画家の人たちは、連載してくれた出版社に恩義があるだろうし、なるべく信頼関係を崩したくないだろうし、表立って批判もしにくいだろうし、敵対するのも憚られるだろうけれど、じつは、その信頼関係は、非常に脆いものだと思います。漫画家は ”身内” に裏切られる可能性がある。そのことを覚悟しなければなりません。ビジネスが大きくなればなるほど、原作者の思いは踏みにじられる可能性が高まるし、漫画やアニメが、日本の基幹産業として成長しているいま、今回のような問題にはいっそうの注意が必要です。漫画家の人たちは、出版社を過度に信頼しすぎることなく、不用意に依存しすぎることなく、自分たちで自分自身を守る術を考えなければなりません。
2024.01.31
日本テレビのコメントによれば、小学館が「原作代理人」だったようです。2023年10月期の日曜ドラマ『セクシー田中さん』につきまして日本テレビは映像化の提案に際し、原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら脚本制作作業の話し合いを重ね最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております。しかし、一般的に考えれば、原作者がドラマ化に後ろ向きだとしても、出版社のほうはドラマ化に積極的になるはずだし、原作者と出版社の利害というのは、はじめから相反している可能性があります。そうだとすれば、原作者は、出版社から実質的に裏切られる可能性が高い。実際のところ、原作者の意向をないがしろにしていたのは、脚本家でもなければ、テレビ局でもなく、出版社だったかもしれない…ということです。◇欧米では、原作が出版される段階で、原作者と出版社のあいだをエージェントが仲介し、印税や、映像化の際の条件などを、あらかじめ文書で取り決めているようです。https://ja.wikipedia.org/wiki/著作権エージェントそうでもしなければ、原作者の主導で映像化の話を進めるのは本質的に不可能です。原作者の意向を無視して、出版社が勝手にメディアミックスなどを進めることもありうる。そもそも利害が一致していないのなら、出版社に「代理」を委ねる仕組みそのものに無理があります。◇一方、テレビの職業脚本家は、テレビ局側の依頼で書いてるにすぎないのだし、そもそも、原作者の意向などをどれほど知らされるのかも、それに従うべき立場にあるのかどうかも、現時点ではよく分かっていません。むしろ、原作者がいちいち内容に口出ししたり、脚本そのものの差し替えを要求してくることに、脚本家の立場として不愉快を感じたとしても不思議はない。◇そのあたりの事情も不明な段階で、むやみに脚本家の人格叩きなどをしても意味がない。まして、脚本家がインスタの文章を書く際に、原作者に「さん」づけをすべきだったかどうかなど、どうでもいい問題まであげつらっても仕方ありません。スピッツを「さん」づけで呼べ!!…などと騒いでいた短絡的な連中と同様に、まったくもって生産性のない議論であって、かえって問題解決の妨げになっているにすぎない。
2024.01.30
芦原妃名子が亡くなってしまいました。海外の事例も含めて、こういうことって過去にあるんだろうか?遺書の内容も明らかになってないし、そもそも人となりなども知らないので、なんのコメントしようもありませんが、ネット上の議論やらなんやら、いろんなことの板挟みになって、追い詰められてしまったのかもしれないし、わたしの一昨日の記事も、あながち例外とは言いきれない。ちなみにアクセスが急増したのは昨日なので、一昨日のアクセスは300弱でした。◇あくまで一般論としてだけど、わたなべ志穂が一昨日、「ドラマ制作時、作者には味方はあまりに少ない」とツイートしてたのは、その通りなんだろうな、と思った。そして、それは、テレビ局や脚本家だけでなく、出版社も含めての話じゃないかと思います。改めてですが芦原先生はとてもリスクを持ち発言されたと思います。俳優さんを傷つけるのではないか、ドラマを楽しんだ方から非難されるのではないか、自分はこれ以上傷付くのか。ドラマ制作時作者には味方はあまりに少ない。勿論大事にして下さる現場もありますが多くは違うはず→— わたなべ志穂 (@nabeshiho_enjoy) January 27, 2024テレビ局や脚本家を攻撃してる自称原作ファンが、ほんとうに「原作者の味方」だったとは思えないし、出版社が「原作者の味方」だったとも言い切れないのです。百歩ゆずって、担当編集者は味方になっていたとしても、企業としての出版社は、むしろドラマ化や映画化に積極的なはずだし、なんなら原作者をなだめてでも、自社の作品をどんどん売り込んで、ドラマ化や映画化を推し進めるのが普通だと思う。もっといえば、なんらかの炎上騒動を仕掛けてでも、作品の知名度を上げようと考えるかもしれません。…そんな味方のいない孤独な状況の中で、原作者だけが板挟みになる危険があるのかな…と想像します。◇商業芸術の世界において、作者の意思がねじ曲げられるのは普通の話です。むしろ、作者の意思が完全に尊重されるなんてことは、ありえない話だと考えるべきでしょう。これはなにも、ドラマ化や映画化だけの話じゃなく、たとえば、雑誌に掲載する段階でも、編集者からひたすらダメ出しされたり、内容を改変させられたり、容赦なく連載を打ち切られたりすることは、日常茶飯的にあるはずなのだから。…同人誌などに書くなら別ですが、作品を「商品」として市場に出す以上、作者の意思が完全に尊重される世界などというのは、まったくもって理想論でしかありません。商業芸術の現場で仕事をしてるクリエイターなら、そんなことは百も承知だろうけど、あまりの理想と現実とのギャップに直面したり、それに抗おうと奮闘するあまり、かえって過酷な状況に疲弊してしまい、追い詰められるケースはあるんだろうな、と思う。◇ケースバイケースだとは思いますが、たとえば、筒井康隆なんかは、人気作の「時をかける少女」のことを、"金を稼ぐ少女だ" などと言って野放しにしてますよね。それに対して、自分の作品に対する責任感が強く、多くを背負いすぎてしまうクリエイターは、かえってリスクが大きいのかな…という気もする。そんな原作者をサポートするのは、一義的には出版社なのだと思うけど、もちろん何から何までサポートするのは不可能でしょう。とはいえ、商業主義とのバランスには慎重であるべきだし、作家を過度に追い詰めない配慮は必要になるでしょう。
2024.01.30
一週おくれですが、「アストリッドとラファエル4~文書係の事件録」第2話の《千夜一夜物語》を見ました。今回はイラン難民の話。このドラマを見てると、フランスは移民社会なのだなあと分かります。黒人や日本人も出てくるし、北米先住民が出てきたこともあるし、むしろ生粋のフランス人のほうが少ない気がする。◇今回の物語の背景について、いろいろ気になったので調べてみました。1.ジン&イフリート&シャフリヤール被害者は、シャフリヤールという別人を名乗っていました。これは「千夜一夜物語」の王の名前でもある。サーサーン朝のシャフリヤール王は、不貞を犯した妻と奴隷を殺したあと、若い娘を毎晩ひとりずつ殺したのですね。しかし、シェヘラザードが物語を話しはじめたので、その続きが気になった王は、娘殺しをやめたわけです。…ジンというのは、アラブ世界で信じられている精霊/魔物です。精神病などを「ジンが憑依した」と解釈するそうです。スーフィーの占い師や祈祷師は、ジンを操って病気の治療をしたりするらしい。ディズニーの「アラジン」ではジーニーとして登場します。イフリートも、このジンの一種で、魔法のランプから出てくるのもイフリートです。今回のドラマでは「火の精霊」と説明されてました。被害者は、まるでイフリートに焼き殺されたかのごとく、真っ黒焦げの死体で見つかったわけです。2.スーフィズム&コーヒー&セマー後述するように、被害者の正体は別人でしたが、本物のシャフリヤールはスーフィーの男性で、もともとはイラン南部の羊飼いだったらしい。じつはスーフィーは、アラビア語で羊毛を意味する「スーフ」に由来し、羊毛をまとった貧しい人々の意味だったようです。…スーフィズムというのは、イスラム教より古くから存在する、神秘主義的で実践性の強い原始宗教です。ドラマのなかでニコラ・ペラン警部は、「その実践主義が教義に合わず、イラン政府に迫害されてる」と話してました。…こういう原始宗教は世界中に存在しますよね。たとえば日本では、仏教が観念的なのに対して、神道のほうは、より実践的で神秘的です。仏教のなかでも、顕教より密教のほうが実践的かつ神秘的です。また、キリスト教の世界でも、原始的な神秘主義はグノーシスとして異端視される。… ドラマのなかで被害者の娘を名乗っていた女性は、トルコ人のコミュニティに加わっていて、くるくる回るダンスを踊ってました。これは、メヴレヴィー教団の旋回舞踊「セマー」ですが、やはりスーフィズムから生まれた宗教行為で、トランス状態になるまで回って神を体感するらしい。トルコ政府は、メヴレヴィー教団の活動を禁止してるものの、観光客向けの芸能として「セマー」を容認してるようです。…加害者のひとりであるタクシードライバーの女性は、乗客にコーヒーを提供してました。じつはコーヒーの文化も、イエメンのスーフィズムに発祥しています。瞑想や修行に取り組む際、食欲や睡眠欲に打ち克つために、覚醒作用のあるコーヒーが飲まれたのだそうです。3.イラン革命防衛隊と女性による反政府デモ今回のドラマの加害者たちは、イラン革命防衛隊から迫害を受けたり、家族や恋人を殺されたりした3人の女性でした。これはおそらく、2017~18年に起こったイラン反政府デモを題材にしてます。フランスでこの回が放送された前年の2022年にも、やはりイランで大きな反政府デモがありました。これらはおもに女性を中心としたデモであり、BBCなどの記事によると、多くの人が逮捕され、不当な裁判で死刑判決を受けたり、拷問を受けて不可解な死に方をしたり、行方不明になったりしているようです。https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-64092881さらに、こちらには、スーフィーへの弾圧のことも書かれています。https://www.moj.go.jp/isa/content/001380819.pdf…ドラマのなかで、シャフリヤールを名乗っていた被害者は、かつて革命防衛隊に属していた男でした。ニコラの話によれば、イラン政権は、彼が反体制派に殺されたと思ってるが、実際は脱走していたので、微妙な立場にあった。誰かに正体を知られたら庇護を受けられなくなるし、もし国に戻れば、民衆にリンチされるか、反逆罪で処刑される運命だった。とのことです。民族心理学者のカウンセラーが、3人の女性に復讐殺人を教唆したのは、上記のようなイランの政治的混乱のなかで、被害を受けた女性たちの悲劇を知っていたからです。その背景を知らなければ、最後にラファエルが涙を流した理由も分からない。◇◇◇余談ですが、第1話のタイトルは「ドラゴンの目」でしたね。辰年だけに??! …と思ったけど、去年のフランスのドラマだから、たんなる偶然。シーズン4では、黒人のアルチュールが休職した代わりに、保険会社から警察に出戻ったノラが加わりました。頭も切れて、なかなかセクシーな美人だし、またもラファエルの恋敵が現れた感じです。でも、ラファエルも負けず劣らず、髪型をボブに変えて、前シーズンより女っぽくなった。アストリッドの腹違いの弟は、なんだか変わった男の子です。◇◇これまた余談だけど…Tverで年明けに、テレ朝「未解決の女~警視庁文書捜査官」を再配信してました。考えてみたら、あの設定はアストリッド&ラファエルに似てる!麻見和史の原作「警視庁文書捜査官」シリーズは、2015年にはじまってて、大森美香のドラマも2018年にはじまってるので、2019年にはじまったフランスのドラマよりも早い。波瑠&鈴木京香の立場は、アストリッド&ラファエルとは逆だけど、波瑠のキャラは、どことなくアストリッドに重なります。
2024.01.30
待春の病室祖母に巻くロッド ほっとするパーマのヒーター冬の朝 早いかな襟足すっきり春近し 先駆けて切り揃えし春待ちの朝 金に染め宙舞う一月勝ち儀式 就活の黒髪は艶失せて冬 髪の毛の挟まる雑誌四温かな 切りすぎた襟足触り日記買う1月25日のプレバト俳句。お題は「美容院」。◇アインシュタイン河井。待春の病室 祖母に巻くロッド74点の高評価で1位。「春待つ」「待春」は晩冬の季語です。AのB / CにD …の形ですが、4つの要素を過不足なく配置した描写で、季語に詩情や希望を託した句またがり。キスマイ横尾の対句より内容に手応えを感じます。◇君島十和子。先駆けて切り揃えし春待ちの朝あさ髪を切り揃えて春待ちの朝あした(添削後)原句は破調の字余り。まず何を切ったのかが分からないし、「春に先駆けて」も、季語の「春待ち」に重複してる。全体的に映像の具体性も乏しい。◇研ナオコ。早いかな 襟足すっきり 春近し襟足をすっきり 春近き鏡(添削後)中八の三段切れ。上五は描写ではなく作者の心情になってる。本来、切れ字の「かな」は下五に置くべきだけど、この句は詠嘆でなく疑問の終助詞を上五に置いてて、いまいち俳句の体裁になっていない。添削のほうは、句またがりにせずとも、襟足をそろえ鏡に春近しのような定型に収めるのも可能。◇梅沢富美男。髪の毛の挟まる雑誌 四温かな切り髪の挟まる雑誌 四温晴(添削後)まずは型の問題。下五に切れ字の「かな」を置く場合は、途中に切れを入れないのが基本だから、中七に切れを入れた時点で失敗してます。この期に及んで初歩的な理解が欠けている。たとえば、切り髪の雑誌に残る四温かなとすれば、この問題は解決します。内容面でいうと、そもそも美容院の場面と分かるかどうかが疑問。たんに自分の抜け毛を描いた不潔な状況とも見える。たとえ美容院の場面であっても、「知らない誰かの髪の毛が挟まってる」ってのは、個人的にネガティブで汚らしい印象しか受けない。せめて「誰の髪の毛か」が分かってれば、愛おしい気持ちが湧くこともあろうから、だいぶ印象が変わるのかもしれませんけど。たとえば、見開きに吾子の切り髪 四温晴のようにも出来ると思います。◇武尊。金に染め宙舞う一月 勝ち儀式金髪に変え一月のゴング待つ(添削後)原句は、抽象的な表現を駆使した結果、まったく意味不明な句になってしまった。さらに、中七で切った場合は、下五に季語を置くのが基本なので、型の面でも、ちょっと無理がある。◇柏木由紀。ほっとするパーマのヒーター 冬の朝ほのほのとパーマヒーター 冬の朝(添削後)中八ではあるものの、そこで切って下五に季語を置いた基本の型。ヒーターは冬の季語だし、作者も暖を取るためにパーマを当てたらしいけど、まあ、一般的にいえば、パーマヒーターは季語にならないのでしょう。添削では、「ほっとする」という心情表現を「ほのほのと」というヒーターの描写に代えてます。◇森口瑤子。就活の黒髪は艶失せて冬就活の黒髪木枯に束ぬ(添削後)面白い俳句ではあるし、これはこれで成立してると思うけど、助詞「は」を使う必然性は薄いので、ふつうに「の」で十分だろうと思う。そして、下五を「~して夏」とか「~して冬」と締めるのは、言うならば「愛なんていらねえぜ夏」的な感じで、ややキャッチコピー的な安易さを感じないでもなく、このスタイルを容認したら、どの季節の俳句も量産できてしまう懸念がある。かたや添削句のほうは、気持ちを奮い立たせてる感じがあって、原句よりもポジティブに改作された印象ですね。◇清水アナ。切りすぎた襟足触り日記買う季語は「日記買ふ」で年末です。これに対して「日記始」や「初日記」は新年の季語。たとえば、「襟足を気にしながら買う」とか、「襟足を押さえながら買う」とか、「襟足を隠しながら買う」ならまだしも、「襟足を触りながら買う」ってのは、やや違和感がある。つまり、持続的な動作ならともかく、「触る」のような瞬間的な動作は、買う行為とは同時になしえない気がします。…ってことで、切りすぎた襟足隠し日記買ふとしてみました。動詞の季語はなかなか扱いにくいですよね。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥ぎり凡族!!😂#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/x677qC9k0X— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) January 22, 2024▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.01.29
わたしは去年の10月に、日テレ「セクシー田中さん」の最初の感想で、次のように書きました。日テレ「セクシー田中さん」面白い。もともと相沢友子の脚本って、正直、あまり信用してないのだけど、今作はかなり好感触。原作があるせいか、けっこう深みも感じます。https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202310300000/もともと相沢友子が好きなわけでもないので、今回も、べつに彼女に味方する気はないのだけど、ただねえ…今回の件にかんしていえば、正直、どちらが悪いともいえない。なんなら個人的には、「相沢友子の書いた最終回が見たかったな…」って気持ちのほうが強い。ドラマの終盤はあきらかに尻すぼみだったから。◇いずれにせよ、こういう問題は、ドラマ化や映画化においては、つねにありうる話。プロデューサーも出版社もふくめ、あらかじめそれを弁えねばならないのだし、もし原作の改変を望まないのなら、最初から映像化を拒む以外にないでしょう。SNSなどでは、相沢友子への人格叩きのほうが優勢ですが、今回の件にかんしては、それに与する気になれません。一般に、経済的な力関係において、テレビ局のプロデューサーや脚本家のほうが、原作者や出版社よりも優位な立場にあるかもしれないし、その意味で、今回の問題はひとつの戒めにはなるでしょうが、今回の「セクシー田中さん」の場合は、けっしてスター俳優に依存した安易な企画ではなく、むしろ日テレにしちゃ意欲的で果敢な作品と思われただけに、かえってドラマ化の難しさを垣間見せられた感じ。◇ドラマ化・映画化・アニメ化によって、知名度や売り上げが増すことを期待する作家が多いなかで、芦原妃名子みたいに硬派な作家は稀有な存在だと思いますが、逆からいえば、今後、彼女の原作が映像化される見込みは薄くなりましたね。多くのプロデューサーは尻込みしてしまうだろうから。彼女の原作ファンの人たちも、むやみに映像化を望んだりはできなくなったでしょう。◇たぶん世間では、「ドラマや映画は原作に忠実であるべきだっ!」みたいな論調が強まるのでしょうね。しかし、はっきり言って、わたしの記憶するかぎり、原作に忠実に作られた映画やドラマで、名作と呼ばれるものはひとつも思い浮かびません。後世に「名作」として残ってる映像作品は、むしろ原作を大胆に脚色・改変したもののほうが多い。(もちろん駄作も多いだろうけど)なぜなら、自由な脚色が許されなければ、現場のクリエイティビティは十分に発揮されないからです。原作にリスペクトがあることと、たんに原作に忠実であることは、けっして同じではない。◇クリエイターである以上、原作者には原作者の思いがあり、脚本家には脚本家の思いがあろうし、それぞれに理念も信念もプライドもあるだろうから、それを調整すべきなのは、とりあえずプロデューサーや出版社だとしかいえない。◇◇まあ、ひとつの炎上商法として見れば、意外にウィンウィンだったりする気もしますが…。実際、小学館には、炎上商法の疑われる事例が過去に複数あるようだし。
2024.01.28
全1592件 (1592件中 151-200件目)