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1階の見学を終えて、立派な階段をのぼり2階に移動します。
大谷美術館の建物の中で、この階段の手すりは唯一見学者が触れていいものだそうなので、遠慮なく掴まらせてもらいました。
つやつや、ピカピカで、ツルツルです。
この階段は、段差が少なく踏み込みが広くてとても上り下りがしやすいです。当時の小柄な日本人、特に着物や長いドレスを着た女性にとても優しい階段だと感じました。あんな階段なら億劫にならずに 1
階と 2
階を行き来できそうです。
ここで案内役の職員さんが交代。

2
階は、古河虎之助氏が家族と共に暮らすための、いわばプライベートな空間です。
階段を上り切ると、そこは広い廊下というか小さなホールというか、そんな空間になっていて(一番下の写真)、 天井には明かり取りの窓があり、柔らかな光が差し込んでいます。その窓は直接外に繋がる天窓ではなく、その上にもう一層屋根裏部屋があってその屋根にも天窓があるという造りになっているそうです。外の光は入るけれど酷暑、極寒の季節でも、室温には影響しない工夫なのだろうと思います。
階段と言い、この天窓と言い、
住み心地が設計の重要なポイントであることが伝わってきます。ジョサイア・コンドルの想いをこの館が語っているようで、感動してしまいました。
さて、廊下はいくつかの重厚なドアにぐるりと取り囲まれていますが、このドアの中には驚くような世界が広がっていました。
まず左手前のドアの中は畳敷きの、ほんのりお線香の香りが漂う仏間でした(中段の右側の写真)
。
ドアを開けると板敷の狭い空間の奥に襖があり、襖を開けると 3
畳の前室と 5
畳の仏間という作りになっていて、入り口の重厚なドアから奥の仏間まで、違和感なく自然に洋が和へと繋がっています。前室と奥の間を、不思議な形のアーチが区切っていますが、禅寺の
花頭窓を大変気に入ったコンドルのデザインだそうです。
次の ドアの中は 小ぢんまりしたゲストルームで、ここは洋室でし た。
左側の 3
番目、一番奥のお部屋は
客間、一番上の写真です。ドアを開けるとやはり板敷の廊下と襖があり、 大変凝った造りの二間続きの和室で、立派な床間や違棚が設えられ、ここにはまたに、コンドルが抱えていた当時最高レベルの職人の技が遺憾なく発揮されていました。
このように、左側にはプライベートな中でも公的な意味を持つ部屋が並びますが、右側にはまさにプライベートな部分を包み込む部屋が続いています。
まず一番奥のドアは、この中も和室で、家族が過ごす居間になっていました。中段右の写真です。客間より一段格式の低い和室の設計になっていますが、 1
階の応接室の真上にあたる南東の角部屋で、一日中心地よく過ごせる部屋になっており、鴨居には蚊帳を吊るためのフックなども設置されて、お屋敷の中では生活感を感じるお部屋でした。
東向きの、お庭を見下ろすテラスに面した廊下の内側には虎之助氏の奥様と子どもさんの部屋があり、その奥に主寝室と更衣室がありました。主寝室のみが洋室で、更衣室も和室になっていました。
主寝室の壁紙は、2階のもう一つの洋室であるゲストルームと色違いで、おしゃれ!と思いましたが、残念ながらどちらも写真がギャラリーにありませんでした。
そして最後は浴室とトイレです。

こちらが浴室。トイレは水洗トイレで、浴室は日本式の浴槽のついたお風呂でした。どちらも壊れて、壁や床に貼られたタイルの傷みも激しかったので修理をする計画だったそうですが、タイルの貼り方一つにも難しい技法が使われていて、現代の技術では再現不能とわかり、応急処置だけ施し、現在は立ち入り禁止にしているそうです。
また、お風呂は、コンドル氏は当初西洋式のバスタブを設置するつもりだったそうですが、虎之助氏の、首までつかりたいとの要望で、和式の浴槽に変更されたとのことでした。
2
階のドアの中はすべて一般の見学者は入室禁止で、ガイドツアー参加者のみ見学可でした。
コンドル氏は 1877
年に 24
歳で御雇外国人として来日し、 1920
年に亡くなるまで、 50
年近く日本で暮らし、鹿鳴館やニコライ堂などの他、多くの私邸の建設にも携わりました。しかし、この旧古河邸のように現存する建物は少なく、しかもこの建物は 1917
年(大正 6
年)竣工と最晩年の作であることから研究資料としても非常に貴重な物である上に、先のタイルの例でも言える通り、もし壊れたり傷がついた場合に現代の技術では修復できない可能性も高いのです。
浴室のタイルだけではなく、すべての部屋のすべての調度が非常に貴重で、また高度な技術で仕上げられているので、修理が困難あるいは不可能だったりするため、持ち物をぶつけたり押し付けたりしないように、傷もつけないようにと、ガイドツアー中も何度も注意を促されました。
文化財保護という観点からも、どんなに大事にしても、しすぎることはないのだと強く感じました。
そしてもう一つ、この日、お雇い外国人なるものについても認識を新たにしました。
当時未開の地だった日本にやってきた「お雇い外国人」たちは、素人ではないにしても、その分野で一流とは言えない人たちだったのではないかと、わたしは考えていました。
けれど、コンドル氏は来日前に若手の登竜門と言われるコンテストで賞を取っており、イギリスでも将来を嘱望されていたそうで、
もしイギリスに留まっていても一定の成果を挙げ評価されていただろうと言われているそうです。 そんな若者が日本にやって来たのは、以前から日本や日本文化に興味があってぜひ日本に行きたいという思いがあったからで、実際に、
コンドル氏は本当に日本と日本文化を愛し、 24
歳で来日してから亡くなるまで日本に住み、
日本人の女性と結婚して、
茶道、花道などにも親しみ、日本文化や風習への造詣、理解も深かったのだそうです。それは、この、最晩年の作品である旧古河邸を拝見して、はっきりわかりました。
少なくともコンドル氏に関しては、わたしが思っていた一種の出稼ぎというのは全く見当違いでした。
やはりよく調べもせずに勝手に思い込むのは、ダメですね。