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【粗筋】 品川に家を買った課長、見る見る痩せて顔色も悪い。話を聞くと、駐車病だと言う。家族でドライブをするのが夢で、車を買って憧れの車通勤を始めたが、会社に駐車場がないので、近くの駐車スペースを利用、しかし、いつも満員で、有料駐車場しか止められない。そこで、朝3時に車で出て池袋へ。無料の駐車スペースを確保して品川の家まで帰り、安心して朝食。それから満員電車に揺られて出勤……精神的にも疲れ果て、日曜日にはぐったりして家族のドライブも出来ないと言う。部下が聞いて、伯父さんが同じことを言っていたのを思い出す。そこで提案、品川から池袋に出勤する課長は、伯父さんの家の駐車場に止め、池袋から品川に出勤する伯父さんは課長の家の駐車場に止めるという作戦。先方に行って話をすると、双方同じような境遇で、かみさんは隣の手芸教室に通い、子供の学校も似たようなもの。それならいっそ、家をまるごと交換しようという話になる。「会社の仕事もほとんど同じだからお互いの交流を兼ねて仕事も交換してしまいましょう」「それはいいですね……私が品川から池袋へ引っ越して品川へ通うことになりますなあ……それでは、困ったことになります」「何です」「どこかに駐車場はありませんか」【成立】 栗山進の作品が昭和41年の本にあり、翌年の雑誌には、三笑亭笑三が演じたとある。
2024.09.30
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【粗筋】 西南戦争で熊本城に籠城している谷干城から手紙を託されて城を出た谷村計介、途中で西郷軍の桐野利秋に捕まるが、密命を話すと見逃してくれる。使命を果たして城内に戻った計介は、桐野に密命を語ったことを苦にして腹を切り、城内に碑が建てられる。【成立】 明治の橘家圓喬(4)の速記があるが、主人公の名が「圭助」になっており、現実の谷村は田原坂で戦死している。
2024.09.29
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【粗筋】 茶碗屋の八兵衛と砂糖屋の六兵衛が喧嘩をして、何かにつけて反目しあっている。家主の源兵衛がたまりかねて奉行に訴え出るが、白州でも二人が口喧嘩を始めたので、奉行は厳しく叱り付け、二人の手を手錠でつないで帰す。二人は何をするにも手をつないだままになり、とうとう根負けして仲直りを申し出た。奉行は仲直りをした証拠に何か唄えと言う。二人は仕方なく、「♪一つとえィ、人の通ってる町中を、八兵衛さんと六兵衛さんと手を引いて……」 役人が手錠を放り出して、「この錠かいな」【成立】 桂文之助(2)の作らしい。数え歌の「♪一つとえィ、人も通らぬ山道を、お類さんと吉さんと手を引いて……この嬢かいな」を踏まえた落ち。「茶碗屋裁判」とも。タイトルは茶碗だけで、砂糖はどないするんやろ。【蘊蓄】 お茶碗一杯分ご飯で、角砂糖14~15個分の砂糖を取っているって資料が出ているけれど……写真はその絵……お茶碗一杯は一合と書いてあったり半合と書いてあったり150gって書いてあったり、資料によって違う。150グラムは米の時の一合で、炊くと350グラムくらいになるって……どれが正しいのか分からない。それに、ご飯に含まれる糖分は運動によって消費されるもので、砂糖の糖分とは全く違う……って理科で習ったんだけど……
2024.09.28
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【粗筋】 若旦那が茶屋に行ったまま10日も帰って来ない。店の者を迎えにやるが10日も帰って来ない。番頭を迎えにやるが10日も帰って来ない。後は権助だが、酒癖が悪いから大変なことになる。そこで旦那自ら、権助の着物を借りて迎えに行く。 二階では大騒ぎ。旦那は下の物置のような部屋で待たされる。さすがに疲れたのか、二階では一人ずつ芸を見せる。番頭の歌は同じところの繰り返し、若旦那がなかなか……「あいつ磨いとったんやな」 そこで襖が開くが、「部屋を間違えました、失礼」と言う女、見ると、昔馴染みだった女ではないか。「旦那も落ちぶれて……」「わしは息子を迎えに来たのじゃ」「まあ、道理でよく似ていらっしゃって」「お前はどうしたんじゃ……」 昔贔屓にしていたが、いい男が出来て所帯を持つというのでれたのだ。その亭主の浮気が止まず、苦労して結局別れ、またこういう商売に戻ったと言う。「苦労したんやな」 泣き崩れる女を抱き寄せる……「お迎えの方、若旦那お帰りですよ」「え、帰るか……そうか……ううん、親不孝者め」【成立】 上方落語。前半は東京の「木乃伊取り」と同じ感じ。それにしても上方は一人が迎えに行くと、その結果を10日も待っている。一番簡単なものでも30日、多いのは5人が迎えに行っているから、最初の若旦那はふた月も帰って来ないことになる。最近は前半を省略して親父が迎えに行くという演出もある。私が聞いたのはみんなそうだった。
2024.09.27
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【粗筋】 禿頭の侍が謡をうたいながら歩いていると、美しい娘がうっとりとこちらを見つめている。そのうちに寮へ来てくれといわれて、やはりわしに惚れているのかと、心勇んで出掛けたが、実は癪が起こった時に銅をなめると治るのだが、あいにく持っていない、幸いあなたの頭が茶瓶そっくりだから、なめさせてくれという申し出。仕方なくなめさせてやり、供の者と帰り道。「あなたが謡をうたっているから、狐が化かしたんでしょう」「狐か。道理で薬缶(野干)を好んだ」【成立】 林家正蔵(1)の作と伝わっている。「やかんなめ」ともいうが、東京の「やかんなめ」は少し違う。落ちが分からないからの改定か。上方では「梅見の薬缶」がある。「ねずる」は「ねぶる」と同じで「なめる」こと。野狐を「野干(やかん)」と呼んだことを踏まえた落ち。謡で狐に化かされるのが分からない。ご教授下さい。【蘊蓄】「野干」は本当はジャッカルのこと。
2024.09.26
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【粗筋】 茶の湯好きの隠居が銭湯へ行くが、入ってから出るまで、全てが茶の湯の心構え。すり足で歩き、手桶を水さしでも運ぶように動かし、上がると手拭いを茶巾のように折るという調子。銭湯の主人も茶の湯が好きなので、思わず番台から飛び下り、隠居の前に手を付いて、「お道具拝見つかまつりとうございます」【成立】 安永2(1773)年『再成餅』の「茶人の銭湯」。茶の湯の仕種の分からない演者には出来ない。客もそれを知らないと何だか分からない。バレ噺だがなかなか粋である。「浮世風呂」に入ってもよさそうだが、普通の寄席では聞けない。
2024.09.25
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【粗筋】 根岸に住む隠居、退屈で茶の湯を始めることにしたが、もともと茶道など知らないので、小僧の買ってきた青黄粉に椋の皮を入れて飲み、「腹を下すのも風流だなァ」などと悦に入っていた。 小僧と二人で飲んでいるだけでは詰まらないと、長屋に住む人まで呼んで飲ませるようになったが、みんな菓子目当てに集まり、茶の方は飲んだふりだけでお茶菓子泥棒が横行するようになる。さあ、菓子屋の付けが来て驚き、芋を燈し油でかためるというひどい菓子を発明し、勝手に「利休饅頭」と名付けて客に出すようになった。 ある日、客が茶を飲んでびっくり。あわてて饅頭を頬張ってまたまたびっくり。あまりのひどさに雪隠に立つふりをして窓から畑へ投げ捨てたのが、仕事をしている百姓の頬にピシャッ……「(頬に付いたものを見て)ああ、また茶の湯か」【成立】 安永5(1776)年『立春噺大集』巻一の「あてちがひ」が素人茶の湯の噺で、上方ではそのまま「あてひがい」という落語になっていると書かれているが未詳。 文化3(1808)年古今亭三鳥作『江戸嬉笑』の「茶菓子」が、最後の客の場面だけで落ちも同じ。その後は各笑話本に掲載されている。 頭らの茶席の情景には、講談「福島正則荒茶の湯」も取り入れられている。 「素人茶道」とも。上方には「裏から入りました」という落ちになる同じ題名の噺があったらしい。 青黄粉はウグイス餅などに用いる青みのある黄粉。椋の皮はニレ科の落葉高木で、木は天秤棒などに、葉は磨き剤に、皮は石鹸の代用として使われた。【一言】 柳家小さん(4)を初めて聴いたのは、大正10年頃の春、薬師の宮松で、まだ蝶花楞馬楽でした。『長屋の花見』で、いきなり銭湯で上野の花の噂かな、ちょうど私、俳句をやりはじめた頃ですから、まずびっくりしました。それまで噺家の口にする俳句は月並の、むっとして帰れば門の柳かな、世の中は三日見ぬ間の桜かな、に決まってましたから。暮のやはり宮松で『茶の湯』をやりました。畑で農業をしている小さんのやるお百姓がどうしても亙友あたりの絵にそっくりにおもえました。それからというものはすっかり馬楽一本槍で、その出ている寄席へ通うようになりました。(龍岡晋)【蘊蓄】 茶の湯に禅の精神が取り入れられたのは室町末期のこと。村田珠光から、武野紹鴎、千利休らに受け継がれた。
2024.09.24
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【粗筋】 仲のよい夫婦だったが、女房が病気で死ぬ。死ぬ前に再婚したら化けて出るという約束をしたが、回りの世話で断りきれずに再婚。その夜、約束の幽霊を待ったが、いっこう出てくる気配がない。それから5年、茶漬けを食っている昼間に先妻の幽霊が現れた。話を聞くと、髪を剃ったから伸びるのを待っていたと言う。「それにしても、こんな昼間に出んと、夜出たらどうや」「だって、夜は怖いんだもん」【成立】 享和3(1803)年桜川慈悲成作『遊子珍学問』の「孝子経曰人之所畏不可不畏(こうしきょういわく、ひとのおそるるところ、おそるべからず=孝子経にいう、人が畏れることを畏れる必要はない)」。東京に移植されて「三年目」になる。【一言】 嫁はん……というか女性の理想像の二タイプです。前の嫁はんが物ひとつはっきりよう言わんしとやかなうつむきかげんの女性であるのに対し、後の嫁はんは明るくてまだ娘々したところがある胸を張った女性であるという対比ですね。そのどちらもがかわいいんです。おたくの奥さんはどちらのタイプですか? うちですか? うちは、そうですなァ……、まァ前者のタイプでは決してないことだけは太鼓のような判をおせます。ドン!(判を押した音です。嫁ハンにどつかれた音ではありません)(桂枝雀(2))
2024.09.23
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【粗筋】 上方者が江戸見物に出て、供の者に、「茶店では茶代を出すのも色々面倒がある。わしが『おい六助行こう』と言ったら6文、八助と言ったら8文の茶代を置け」 と言いつける。毎日見物して回ったが、浅草の観音様で夕立にあい、供の者に宿まで傘を取ってくるように命じた。ところがすぐに雨が上がったので、茶店の主人に、「今八助が傘を取りに行ったが、観音様へ来るように言って下され。茶代も八助から受け取るように」 と言って出て行った。主人が考えて、「はて、この間は同じ供の者を六助と言っていたが……ははあ、名前が茶代になっているのだな」 と見抜き、供の者が来ると、「旦那様は観音様へお出でになりました。茶代は百助からもらうというにということでございました」「えっ、百助。困ったことに三十二助しかない」【成立】 1776(安永5)年『鳥の町』の「茶代」。上方では「百助茶代」とも。 1802(享和2)年十返舎一九の『臍繰金』にある「茶代」は、同じように供の者の名前で茶代を置く。ある日雨になったので少し長く休もうと思うが、まさか二十助ではおかしいから、「十助、これまた十助」と呼ぶと、供の者が理解する。しかし、いつも小銭しか入れていないので、「旦那、わしは十五助と改名しとうございます」。一九は文化5(1808)年の『江戸前噺鰻』にも同じ噺を載せている。
2024.09.22
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【粗筋】 茶と栗と柿を売りに出た男、「ええ、茶栗柿や、ちゃくりかきや」と売り歩く。「茶は茶、栗は栗……と別々に言わなきゃ何を売っているのか分からない」といわれて、「茶は茶で別々、栗は栗で別々、柿は柿で別々」と売り歩いたが、やっぱり売れなかった。【成立】 『日本昔話集成』331の「茶栗柿」。マクラに使われるとされているが、聞いたことはない。落ちに続いて、「馬鹿に付ける薬はない」といわれて「飲む薬でもよろしい」と続けることも。
2024.09.21
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【粗筋】 酔って帰った熊さんが、翌朝迎え酒をやりたいと言い出したので夫婦喧嘩が始まる。家主が止めに入って、「長屋を開けるか夫婦別れをするか、どちらかに決めろ」と言う。熊さんが女房に出て行けと言うと、女房は仲人に話をつけろと言う。仲人の漢学の先生のところへ行くと、「お前は酒の飲み方が下手だ。1升飲んでも2合か3合しか飲んでいないような顔が出来るように化けろ化けろ」 と、狐が玉藻前に化けたという話を例にして言い聞かせる。 熊さんは家に帰る途中で、友達の久さんが臨月のかみさんと夫婦喧嘩をしているのを見ると仲裁に入り、先生に聞かされた話を真似するが、もちろん目茶苦茶になる。「とにかく、酒の飲み方が下手だ。お前も化けろ化けろ」「酒じゃねえ。俺のところでは茶釜が錆だらけになっていたのが原因だ。茶釜の喧嘩だ」「ああ、それじゃあ、狸が化けたんだ」【成立】 「天災」とよく似ている噺。「化けろ化けろ」とも。
2024.09.20
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【粗筋】「お前は熱い茶を速く飲むが、何かコツがあるのだろう。教えてくれ」「何でもない。一口、二口飲んでみて、後は死んだ気になって一気に飲む」【成立】 1774(安永3)年『茶のこもち』の「茶」。頑固者の噺の枕に。【一言】 そんなに無理することもあるまいに……(興津要)【蘊蓄】 Wニュースによれば、暑い時こそ熱い緑茶がいい。鎌倉時代の栄西の『喫茶養生訓』を引き、解熱効果あり、暑気あたりを防ぐ、解毒作用、頭や目の熱を除く、利尿作用という効果を説明する。 一方D社では、70度以上の茶を飲む人は、65度未満の茶を飲む人より食道がんの罹患率が8倍になるとしている。
2024.09.19
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【後筋】 浪江は重信を殺したものの、すぐにおきせと夫婦にはなれず、竹六を仲立ちに仕立て、おきせに子供のために再婚を勧めさせ、まんまと入夫する。翌年、おきせが懐妊したが、乳が上がってしまい、まだ乳飲み子の真与太郎が夜泣きをするようになって浪江はうるさくてたまらない。この子にとっては自分が父の仇になるということで、今のうちに片付けてしまおうと考える。おきせには正介の知人の大尽に里子に出すと言って、正介には十二社の滝に投げ込んで殺すよう命じておいた。 十二社の滝は当時は3丈(10m)の高さ、正介が子供を投げ込むと、滝の中から重信の亡霊が現れる。正介が泣いて詫びると、真与太郎を育てて仇を討ってくれと言い残して亡霊は消える。はっと我に返ると、投げ込んだはずの真与太郎がそばにいるので、これを連れて宿に泊まるが、そこで南蔵院にいた頃に親しくしていた本郷原町の万屋新兵衛夫婦に会う。腹をすかせた真与太郎に、おかみさんが乳を飲ませてくれる。正介は翌日、故郷の練馬赤塚村へ帰り、姪の家で世話になっていたが、近所の松月庵という寺の門番がいなくなったので、その茅ぶきの小さな家を浪江からもらった金で買い取り、真与太郎と一緒に移り住む。この松月庵の庭に大きな榎があり、中に乳房の形のこぶがあって、そこから甘露のような露がしたたり落ちており、真与太郎はこれを飲んで成長する。 ある日、万屋新兵衛夫婦がここを訪れた。おかみさんの乳に腫れ物ができ、夢のお告げがあって来たという。試しに露を付けると、けろりと治ってしまった。これがきっかけで不思議な霊験が噂となり、正介はこの露を竹筒に入れて売ることが許され、松月庵も信者の寄進で立派になって行く。 真与太郎が5つになる頃、扇折りの竹六が現れた。おきせの乳が出ないので浪江の子供が死に、その後乳に腫れ物が出来て痛くてたまらないので、噂の露をもらって来るよう頼まれたのだという。正介は、自分達がここにいることを浪江には黙っているよう頼んだが、口の軽い竹六はぺろりとしゃべってしまう。浪江は、正介は気が弱い男だからと気にも掛けていなかったが、真与太郎も生きていると聞いて、捨ててはおけないと考え出す。 おきせの乳に露をつけたが一向によくならず、かえって痛みが増し、胸の中に雀が飛び込んであばれていると言い出す。腫れ物を突いてそれを追い出してくれと言うので、脇差でちょっと突いたつもりが、深く斬り込んでしまう。とたんに胸から一羽の鳥が飛び出し、浪江がこれに気をとられている間に、おきせは息絶えてしまう。子供ばかりか妻まで亡くした浪江は、半ば自棄になって真与太郎と正介を殺しに赤塚村へやって来たのがちょうどお盆の13日であった。 正介は竹六と会った日から、いずれ浪江が来るに違いないと、真与太郎に真実を教え、重信の形見の脇差を与え、立派に仇を討つようにと話しているところへ浪江が乗り込んで来た。浪江は一気に斬り捨てようとするが、天井が低かったため切っ先が天井板に食い込む。正介がとっさに投げた線香立てが目潰しになり、さすがの浪江も立ち往生。 まだ5つの真与太郎が、まるで重信の霊に助けられるように脇差をにぎり、浪江の脇腹に突き立てて、ここにめでたく本懐を遂げる。【蘊蓄】 芝居などで人気になり、板橋区赤塚松月院境内に旧赤塚村役場跡碑のそばに記念碑がある。後ろの榎がモデルとなったとある。
2024.09.18
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【粗筋】 浪江は重信を訪ね、下男の正介を連れ出すと、これを脅して師匠を連れ出すようにせまる。6月6日のことで、正介に言われて蛍を見物に出た重信を、茂みで待ち伏せしていた浪江が竹槍で突く。怪我をした重信に斬り付けようとするが、重信も刀を抜いて身構える。隙がないので、浪江は正介に手伝うように声を掛ける。重信も正介を呼ぶ。どちらの言うことを聞けばよいのか分からぬ正介であったが、浪江の方がこちら向きでにらんでいるので、木刀で主人の頭をねらい打った。振り向いたところ浪江が斬り付けてようやく倒すと、正介に急いで寺へ帰り、師匠が殺されたと報告するように申しつけた。正介が寺へ飛び込むと、小坊主がおっとりと応対に出て、「師匠ならさっき帰って、もう絵を描いていらっしゃる」と言う。いぶかりながら奥へ行ってみると明かりがついている。そっとのぞくと、確かに師匠・重信が龍の右手を描いているところ。描き上げたとみえて、重信と署名をして、落款を押す……と、こちらを向いて、「正介、何をのぞく」 この一言に悲鳴を上げて後ろへ倒れた。とたんに今までかんかんと点いていた灯がふっと消える。この物音に和尚を始め大勢の者が出てきて、なかば気を失っている正介を開放して、灯を付けて座敷へ入ってみる。 重信の姿はないが、最前まで描き残してあった雌龍の右手がみごとに描き上がり、その墨も乾かず、重信の押した印の朱肉がまだべっとりと濡れていた。【一言】 「乳房榎」は「牡丹灯籠」と同じく、劇化されて度々上演された。私も先年国立劇場で、これを脚色上演したことがある。その時、改めて通読して、今更ながら圓朝の巧妙な構想力と、性格描写のたしかさに打たれた。 圓朝はこの噺を、薄暗い高座で、蝋燭のシンを剪りながら、しとしとと話したことであろう。明治の御代の、おだやかな宵の光景を、まのあたりに見るような気がする。 梅若の縁日、蛍の飛び交う落合の夜、高田南蔵院本堂の闇それらの情景り、高座で話すにふさわしい。 次第に不倫の恋におちてゆくおせき(ママ)の心理も、圓朝の芸によって、聴く者の胸にしみじみとつたわったことだろう。圓朝は、もともと人情噺として、此の「乳房榎」おこしらえたのである。舞台にかけて、役者を動かそうと思ってこしらえたのではない。それを舞台にかけることは、自体無理がある。観客の興味をひくために早変わりをみせたり、本水を使ったり此の「乳房榎」には、上演のたびに、そういうものが附いてども、地下の圓朝は苦笑しているかも知れない。(宇野信夫:大正の震災の後、浅草の常盤座で『乳房榎』がかかった。河原崎権十郎(2)が早変わりを演じ、中村幹尾という二枚目が磯貝浪江を勤めていた、と思い出を書いている)
2024.09.17
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【粗筋】 間与島伊惣太という侍、絵が好きなのを同僚にとやかく言われて宮仕えをやめ、本職の絵描きになって菱川重信と名乗った。この妻がおきせという絶世の美女であった。宝歴2(1752)年正月2日に男の子・真与太郎が生まれ、その3月15日に夫婦で向島の梅若の縁日へ出掛けた。ここで花見などで和歌・俳句を書いた紙をその場で扇に仕立てる「扇折り」という商売をしている竹六という男と行き合って話をしたが、これを見ていた磯貝浪江という侍が竹六に声を掛け、絵を習いたいと思っていたがあの先生に紹介してくれるようにと申し出た。これから浪江は重信の家に出入りをするようになる。 その年の5月、重信は高田砂利場村の南蔵院という寺から、本堂の天井に龍を描いてくれという依頼。正介という爺やを連れ、泊まり掛けで描きに行く。浪江は毎日のように留守宅を訪れていたが、帰り際に腹痛を起こして泊めてもらい、深夜におきせを口説きに閨を襲う。目を覚ましたおきせに、刀に掛けてもと脅すが、おきせは聞き入れない。子供の真与太郎に刀を突きつけてついに言うことを聞かせたが、それからはずうずうしく通ってくる。この浪江は主人の重信とは正反対、若い時から道楽をして女を喜ばせる術を心得ているのか、おきせの方でも次第に浪江にひかれるようになってしまう。そうなると邪魔なのは師匠の重信。留守の間はよいが、間もなく絵が完成して戻ってくる。何とか戻らぬようにできないかと、もとより悪い奴でございますから、これより一計を案じます。【成立】 三遊亭円朝の作。この作以前に伝説らしきものも見あたらないので、完全な創作。【一言】 「乳房榎」が形成(編集刊行)されたの明治二十一年は、文学史でいえば、森鴎外がドイツ留学から帰国した年で、既に近代と考えるべき時代である。伝説の形成としては極めて新しい。 それが伝説として流布したのは、はなし自体の伝奇性もさることながら、他に次の二つの要素が考えられる。ひとつは、その誕生が「落語」という口承芸能によった、ということ。口承芸能は文字媒体の文芸と違って、享受者の創造をより逞しくさせるという特性があり、巷間への伝播力も強い。つまり、二次的な伝承効果がある、といっていいだろう。二つめは、はなしが芝居仕立てであったために演劇化が容易であったということ。現に明治三十年(一八九八)東京真砂座で初の演劇化が試みられて以来、しばしば上演が重ねられた。その都度脚色が施され、より広く巷間に流布したわけである。(白井雅彦)【蘊蓄】 江戸名所図会(天保7(1836)年)には次のようにある。 松月院の門前にある所の一堆の塚上に榎木二三株あり。その下に小祠を営み、白山権現を勧請す。土人云ふ、この塚の樹木などに手を触れる事ある時は、必ず祟りありとて、尤も恐怖せり。按ずるに、上世高貴の人を葬したる荒陵ならん。 榎は神格化されるものが多いのは柳田国男が既に『孝子泉の伝説』(全集9)で指摘している。榎と乳の病いとの結びつきは見つからないが、銀杏にその力があるとして「乳銀杏」というものは多く存在する。
2024.09.16
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【粗筋】 ソクラテス先生のところへハミルトン君がやってくる。「良く来たね、ハッつぁん」 実は娘が百人一首にある業平の歌、 千早振る神代もきかず竜田川からくれないに水くぐるとは の意味を聞かれて困っているというのだ。 先生の解釈によると、竜田川というのは物理学者の名前でノーベル賞も取っているという。宇宙から振ってくる放射線をつかまえようと、地下にタンクを作り、そこに純水(H2O)を満たしたカミヨカンデという物を作ったが効果がなかったので、これを改善、スーパーカミヨカンデを作り上げた。その放射線が水の中で赤い光が確認され、この放射線に千早という名前をつけた。「それで、どうなりました」「それでおしまい」「何です」「 宇宙から振ってくる千早をとらえることに成功した……千早振る カミヨカンデは効果がなかった……カミヨも効かず竜田川 色が赤いだった……カラーは紅……カラ紅に水くぐるとは になるだろう」「ひどいね……最後の『とは』って何です」「ううん……まだ研究中です」【成立】 柳家小六が大学で物理を専攻していたというのを聞いた大師匠・小三治が、「じゃあ物理の落語を作れ」と言った。2003年のこと。これに応えて、2008年頃からマクラとして演じている。落ちについては「この研究は永遠(とわ)に残る」ってのを提案したが、音に出すとあまりよくない。
2024.09.15
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【粗筋】 娘から百人一首にある業平の歌、 千早振る神代もきかず竜田川からくれないに水くぐるとは の意味を聞かれて困った親父が隠居に尋ねると、隠居が迷解釈を始めた。 竜田川とは相撲の名で、これが吉原の千早太夫に一目惚れ。これに振られたので、妹の神代太夫に口をかけるが、これも言うことを聞かない。竜田川、相撲を廃業して豆腐屋になったが、10年後、店の前に現れて「空腹だからせめてオカラをくれ」と言った女乞食が、何と千早の成れの果て。「お前にやるオカラはない」と突き飛ばされ、千早は井戸に身を投げて死んでしまった。「それで、その女が化けて出るんですね」「出やしない。いいか、最初に千早が振ったから『千早振る』だろう」「えっ、これは歌の解釈なんですか」「神代も言うことを聞かないから『神代も聞かず竜田川』、おからをやらないか『からくれないに』、井戸に落ちて『水くぐるとは』だ」「最後の『とは』ってのは何です」「ううん……『とは』は千早の本名だ」【成立】 桂文治(1:1773~1815)の作と伝わっている。安永5(1776)年『鳥の町』にある「講釈」が、「とはは、千早の稚名(ちごな=幼名)」という落ちまでほとんど同じで、こちらの方が先行作。宝暦13(1763)年、板翠幹子の『風流戯註百人一首講釈』は歌の珍解釈集。安楽京伝『百人一首始衣抄』もこれの受け売り。 「無学者」物の一つで、これから「やかん」につなげて「木火土金水」という題名で演じた例も見える。「木火土金水」は無学者のオムニバスとして用いられる題名。「無学者論」「竜(龍)田川」とも。同工異曲の「陽成院」からつなげた例もあったという。昭和50年頃の書物では、「陽成院」から続くのが普通で、最近つけなくなったと書かれているが、聞いたことが無い。明治のころは「百人一首」という題で、中の歌の珍解釈がを並べ、落ちにこの歌を用いたそうだ。 文化4(1807)年の喜久亭壽曉のネタ帳『滑稽集』には「百人一首」とある。古今亭志ん生(6)が「井戸に落ちたから『水くぐるとは』だ」で落としているのは珍しい演出。 竜田川が豆腐屋になるのは、豆腐屋の行灯に流水という文字を描くので、そこから思い付いたという説も……どうでもいい。 立川談志(7:自称5)は、隠居が八五郎にどう思うと尋ね、八五郎の答えからストーリーを作って行く。【一言】 あるとき、落語の話ということは伏せて、ごく生まじめな女子学生に、「千早振る神代もきかず龍田川……」という古歌についての隠居のコジツケ解釈をきかせたところが、彼女、本気にしてしまった。あとで彼女の誤解(?)をとくのに、すっかり骨を折った経験がある。(安東伸介:ある噺家は、正しい解釈や歌の背景を得々と説明した便箋10枚以上の手紙をもらったそうだ。私は浅草で、「私は教師ですが、あなたの言っていることは全部出鱈目です」と叫んだ女性を目撃した)● 昔は50歳頃から隠居の身になる者が多かったから、隠居を5、60歳というつもりで演ります。別に隠居でなくとも、大家のつもりでもいいですな。暇をもてあましてて、話し相手がほしいてえ気分ですね。だから、歓待する気分で迎える。その上、言葉の端々に、「天地間に知らないことがない」といったやかん振り(知ったかぶり)を匂わせ、言葉遣いも下品に、ぞんざいにならないよう気をつけます。(三遊亭小円朝)【蘊蓄】 百人一首の歌は、正しくは「くくる」で染物の「くくり染め」をいう。川に浮かんだ葉と写った葉が二重写しに見える様子を表現したもの。花札にも図案化されている。
2024.09.14
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【粗筋】 夫婦と子供二人でデパートのぬいぐるみショーに来たが、バーゲンを見付けた母親が行ってしまう。長男は、「男同士で冷やかしに行こうじゃないか」と言うが、父親は、絶対に何も買わないと約束する。次男家具を見付けて「これ、うちのと同じや」と言うと、長男が「こんな高い物はうちにはない」と教える。長男にかまっているうちに次男の姿が消えたり、あっち行ったりこっち行ったり、いよいよおもちゃ売り場が近付くと仮病を使って逃げようとする。長男に、「面白いゲームがただで出来る」と聞いて、一緒にやると、父親の方が夢中になる。「おもしろいやろ……これ、買うて」 ぐったりして。そろそろ母さんと会う約束の時間だと行こうとすると、またしても次男がいない。母親が、長男を見付けて、「あら、弟はどうしたの」「母ちゃんの後ろにいるけど、お父ちゃんが迷子になっとる」【成立】 桂文枝(6)の創作落語。第50作目、1984年12月の作品。
2024.09.13
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【粗筋】 堀之内のお祖師様参拝の帰り、新宿のなじみの引手茶屋に上がった助さん・又さん・梅さんの三人。助さんは行きに見初めた、顔に鼻のある、目のぱっちりした、受け唇で眉の濃い、目の際に黒子のある女郎を探索するよう注文。モンタージュ作成をするまでもなく、黒子が決め手となって豊倉のお山らしいということになった。ところがこのお山を見るとやたらに顔の長い女だったので、回しがあると言うのを幸い、追い出してしまった。すると、廊下で「本命」を発見、「逃がすな、生け捕れ、あっちへ逃げたぞ」と大騒ぎ。やっと捕まえると、4日前に見世に出たばかりのお熊という女だった。あまりいい女だから、酒なんぞ飲んでいる場合じゃない。大急ぎでお床入り。「お前を見た途端にブルブルッと震えたんだ。これから毎日通うからよろしくお頼み申します。……おい、何とか言っておくれ」「よさねえか、このフト(人)は、ヂヤマ(父親)が年貢の金に困って売られたが、イド(江戸)ってェ所は気休めばかりだノンシ。ウラ(私)もねぶたくてなんねから、ええ加減にねぶったらよいだノンシ」「すごい訛りだね……お前の国はどこだい」「越後の小千谷だがノンシ」「小千谷……だから体が縮み上がったんだ」【成立】 「新宿三人遊び」とも。大阪では「蜆売り」が同じ題名で呼ばれることも。豊倉とは新宿を代表する大見世。 越後小千谷の名産「小千谷ちぢみ」を仕込んだ洒落。ひどい女を見てする気がなくなった、つまりあそこが縮んだというバレ掛かった落ちがあったらしい。【蘊蓄】 お祖師様は現在の杉並区堀の内1丁目。元は真言宗だが、元和年間(1615~23)、開山の日円上人が改宗して日蓮宗になった。元禄年間には住職の女犯が発覚して天台宗に改宗されたが、再び日蓮宗に戻る。明和年間(1764~71)頃に厄除けで人気となり、参詣が盛んになり、『江戸名所図絵』には「群参稲麻の如し」と紹介されている。
2024.09.12
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【粗筋】 やぶ医者のところに迎えが来た。医者は見栄を張って、呼びに来た男と下男に駕籠を担がせて出発するが、途中で病人が死んだという知らせが入り、男はもう医者に用がないと帰ってしまう。下男と医者で駕籠を担いで帰ろうとすると、肥汲み屋に出会い、肥汲み屋に担がせて、医者は再び駕籠に乗る。肥汲み屋がもう一軒汲んで行くと言って、老婆のいる家で仕事を始める。老婆が駕籠について尋ねるので、「医者が乗って来た」と答えると、耳が遠いので「萵苣を持って来た」と聞き違え、駕籠の中へ冷たい手を入れる。中の医者が驚いて老婆を蹴飛ばしたので、老婆はウーンと言って倒れてしまう。この声に家から飛び出した老婆の息子が、「何をするんや、年寄りを足にかけるとは」下男がこれを止めて、「足で良かった。この人の手に掛かったら、命のないところや」【成立】 上方噺。笑福亭松鶴(6)が得意にしていた。東京では柳家小さん(4)が三遊亭縁馬(3)から教わっている。本文の落ちは東京では小噺で「医者の手」に収録してある。江戸の小噺についてはそちらを参照。【蘊蓄】 萵苣はレタスやサラダ菜によく似た野菜で、「夏の医者」で重要な役割を果たす。面倒なのでレタスだと説明してある書物が多いが、全く違うもの。京都では肥を買い取ることを許さず、野菜と交換するのが一般であったことをふまえた噺。
2024.09.11
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【粗筋】 家付きカー付き婆ァ抜きなんて言われた頃、三人息子がいるお婆さん、老人ホームなどに入れるのはみっともないと、三人息子が十日ずつ交代で面倒を見るということになった。ところが、次男の息子が遠足で、明日は早く出るから一日早く三男の家にやって来た。兄弟で唯一の独身である三郎、今日午後二時に彼女が来るのだ。「私隅で小さくなってます」「喫茶店で義太夫を聞いてる気分になるから駄目です」「近所のお宮でお祭りやってますから、暗くなるまで遊んで下さい」 と追い出される。このお祭りで、幼馴染みの健ちゃんに再会。お互いに好きだったことが分かり、一緒にお茶を飲んで別れる。数日後に速達が来て、 春芽ぐむ六十路を超え死稚児桜 の句を添えて、昼間は息子さんが留守だというので、今日遊びに来るという。今日は会社の公休日なのだ。「大変です。健さんが来ます。見られるの恥ずかしいから、お前どっか行っておくれ」「僕隅で小さくなってます」「お寺でジャズを聴いているような気分じゃないですか」 と、近所のお宮に追い出される。やって来た健さん、隠居所が出来たから一緒に住もうと提案、今でも運転しているから、月に何度かドライブしましょうと言う。「あーら、家付きカー付き、婆ァありですか」「嫌ですよ、子供抜きにしてもらいましょう」【成立】 名和宏の創作を古今亭今輔が演じた。昭和34年の本にある。
2024.09.10
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【粗筋】 石町2丁目の穀屋・美野口孫右衛門は、子供に恵まれないため、奉公人の忠兵衛を養子にする。忠兵衛は豊島町の大工・八右衛門の娘・おつるを見初めて女房にする。これを見届けて孫衛門は他界したが、忠兵衛は相場に手を出して身代をつぶしてしまう。忠兵衛は、臨月になった女房を八右衛門方に預けて、大阪に稼ぎに行ったがそのまま戻らない。おつるは生まれたお梅を連れ子に、大工・喜三郎と再婚する。 16年たったある夕暮れ、忠兵衛がひょっこり八右衛門宅に現れた。忠兵衛が喜三郎方を訪ねると、おつるは他界し、喜三郎がお梅を連れて父親の消息を知るために大阪へ立ったという。驚いた忠兵衛は自分の再び大阪へ行くことにした。 神奈川宿で娼婦を買うと、何とこれが娘のお梅であった。借金の50両を払って江戸へ戻ることにし、二人で手を取りあって、「江戸へ戻ったら世帯を持って、楽しく暮らそう」 と言っているところへ、若い者が顔を出し、「御初会から所帯を持とうなんて、おうらやましいことで……へへ、畜生め」「おや、親子だと分かったらしい」【成立】 東海道神奈川にあった親子塚、通称畜生塚の由来だという。親子が関係をするのは「畜生道」だということを踏まえた落ち。
2024.09.09
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【粗筋】 70過ぎた旦那に、かみさんは後妻でまだ40、子供が出来ないので33歳の養子をもらった。このかみさん、年より若く見えてまだ色気もあり、養子がむらむら……旦那の留守をねらって、二階にいるかみさんの部屋へ行き、後ろからそっと抱きしめると、「この畜生め」 と叱られた。すごすごと梯子の方へ戻ると、「そこから降りたら、なお畜生よ」【成立】 よく分からないが、その後このかみさんが子供を産んでしまう。大旦那喜んで、この子を後継ぎにするから、今の養子を追い出そうとするという、ミステリーがあるような、ないような……『源氏物語』にも通じる深い物語がある。
2024.09.08
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【粗筋】 息子がひどい脚気になって歩くのも辛い。厠へ行くのも辛いので、仕方なく親父の尿瓶を借りることになった。親父のお古じゃねえかと思いながら、モノを出して入れようとすると、尿瓶が、「いえ、この畜生め」【成立】 親と息子がそれを同じ相手に入れるんですから、畜生と言われても仕方がないんで……どういう意味か、うぶな私にはよく分かりませんが……
2024.09.07
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【粗筋】 ちきり伊勢屋という質屋の主人伝次郎が易の名人白井左近にみてもらうと、「あなたは来年2月15日九刻に死ぬ」といわれた。先代がむごいことをした報いだというので、伝次郎は財産を使って人に施してやり、自分もこの世の名残りに遊び暮らす。2月15日は前夜からお通夜と称して大騒ぎ、いよいよその時刻になったが死ねない。 一文無しになった伝次郎、死相を占ったために所払いになった白井左近に会った。もう一度人相を見ると、人助けをして命まで救ったことで死相が消え、80歳以上まで生きる長寿の相になっているという。伝次郎が左近にいわれた方角に向かうと、幼友達の伊之さんに会い、二人で駕籠かきを始めた。そんな時昔贔屓にしていた幇間の一八を乗せ、こさえてやった羽織と着物を借りると、近くの質屋に持っていく。ここの内儀と娘は、店を火事で失って心中をするところを伝次郎に 300両を恵まれて助かった身であった。伝次郎は勧められるままにここの婿となり、ちきり伊勢屋を復興するという……積善の家に余慶あり……「ちきり伊勢屋」でございます。【成立】 安永8(1779)年『壽々葉羅井』の「人相見」は、明日の八つに死ぬと言われ、家財道具を売り払って時計を買う。刻限が近付くと我慢が出来ずに逃げ出す。享和2(1802)年十返事舎一九の『臍繰金』にある「人相」は、易者に死を宣告されて大騒ぎをするという内容で、死ぬ刻限が近付いてくると、いたたまれなくなって行方をくらますという落ち。文化11(1814)年根岸守信の随筆『耳袋』巻一の「相学奇談の事」も、自分の通夜をする辺りまでがよく似ている。 小さん系の噺であるが、演じられなくなり、明治26(1893)年に『百花園』に60ページ以上に渡って掲載された2代目の速記から、三遊亭圓生(6)が掘り起こした。「圓生百席」では、枕で左近の易についての説明と逸話を30分にわたって紹介しているが、この枕だけを独立させて「白井左近」という題で演じられることもある。軽く流しても1時間、枕を付けてしっかり演じると2時間も掛かる長い噺なので、前後二部に分けて演じることもある。しかしはっきりとした切れ場にはならないし、後編は後日という演出もおかしいので、ここでは一席に扱った。 翁家さん馬(5)の「天眼鏡」と題した速記本(1890年、全7席)では、死に損なって駕籠屋になった伝次郎が、馴染みの幇間から着物をもらって質入れに行くと、この質屋の養女が首つりをしそうになったのを助けた娘で、恩義を感じて密かに支援するが、義父に知られて盗人に取られたと嘘を言い、帳面から伝次郎が捕縛される。根岸肥前守が裁くが、娘が名乗り出て真相が明らかになる。伝次郎を養子に迎えることが出来ないので、千両で手打ちとなり、伝次郎はこれを元に商売を始め、元の呉服屋を復興して繁盛する。【一言】 長いはなしですが、お葬式の所まで来れば楽です。(三遊亭圓生(6))【蘊蓄】「ちきり」は、質屋や両替商の屋号に使われることが多い。数字の五を図案化したデザイン(Xの上下をふさぐ、▽△がくっついた形。そごうのロゴの丸の中の部分)が、「ちきり締め」という真ん中がくびれた木製の鎹(かすがい=くさび)に似ているで、俗に「ちきり」と呼ばれたもの。「ちぎり(竿秤)」の意も掛けているという。
2024.09.06
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【粗筋】 自分がいる所も認識できない野郎に、説明する。「世界地図を開くと、アジアの東の方に、唐辛子みたいな赤いのがあらあ。これが日本よ」「ほう、アジアって日本にあったのか」「あべこべだ。アジアの中に日本があるんだ」「じゃあ、アジアってどのくらい広いんだ」「それやお前ぇ……日本の5倍はあらあ」「へえ……じゃあ東京の何倍だ」「計算すりゃあ分かるだろう……その……アジアは東京の6倍にならあ」「すげえ、広いんだなあ」「それから日本がここにあると、地球の裏側はブラジルで、日本が朝飯を食っているとブラジルは晩飯……日本で晩飯を食っているとブラジルでは朝飯ということになる」「へえ……地球のこっちか……じゃあ、地下鉄で行くのか」「地球の中は通れねえ。引力ってのがあって、真ん中で止まっちまう……だから回りをぐるっと回って行く」「へえ、日本とブラジルがつながっているのか」「間には海もあって、他の国も沢山あるんだ」「そりゃ大変だ」「何が」「間の国は一日中昼飯を食っていなきゃならねえ」【成立】 鈴木凸太が昭和18(1943)年、戦時中に書いたもので、桂小文枝が演ったそうだ。戦後は桂枝太郎が取り上げたが、枝太郎は、かなり変えたので自分が85%、原作が15%くらいで、落ち以外はすっかり変わってしまったと語っている。だから粗筋は多分枝太郎のもの。
2024.09.05
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【粗筋】 喜六が清八の家に行くと、おかずをずらっと並べて飲んでいる。訳を聞くと、「隣町に近目の煮売屋があるやろ。そこで色々注文しておいて、屋台の向こう側へ紙切れを落として『金を落とした』と言うたった。相手が探して下を向いた時に背中を押してへたらせ、その隙に包みを持って帰ったんや と言う。冗談だったのだが、喜六は本気にしてさっそく同じことをしようとする。煮売屋をへたらせ、うまくいったと大喜びで清八の家に駆け込んで来た。「で、品物はどうした」「あっ、忘れて来た」【成立】 上方噺。桂小文治から桂米朝に伝わる。【蘊蓄】 煮売屋は、煮たり焼いたりして調理したものを食べさせる店。女は寄りつかず、労働者の男達が集まった。現在の赤提灯よりも粗末な店らしい。看板代わりに蛸や魚をぶら下げていたという。明治までは大衆食堂の意味で残ったが、その後はおかずを売る店に代わった。 田舎衆、二三人づれにて堀江を通りけるに、煮売り見世にある行燈(あんどん)の書付(かきつけ)を見て言はるるは、「さけさかなあり」。また一方には「酒肴」と書いてあるを、酒又有と読まれて、「出来た、おやまありとは書かれぬにより、酒又有とは尤(もっと)もじゃ」……元禄16(1703)年『軽口御前男』
2024.09.04
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【粗筋】 盲目と近目の男が一緒に出掛けることになった。戸締りをしようと、近目の男が錠前を掛けたが、目を寄せていたので自分のまつ毛を錠に締め込んでしまった。盲目の男が助けようとしたが、鍵を近目の男の鼻の穴へ突っ込んでひねる。「あいた、あいた」「開いたらええやないか」【成立】 上方の小噺。桂文我が芝居噺の枕に用いていた。「めくらの錠前」「あいたらええ」とも。現在は「近目」も「めくら」も放送禁止用語。尚、漢字では「じょうまえ」だが、江戸時代には「じょうまい」と発音する。
2024.09.03
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【粗筋】 「火事だ、火事だ」の声に、遅れてはならじと飛び出す野次馬ども……若い者が先を争って走っていく後ろに、年寄りが一人、ふうふう言いながら走って行く。「ああ、苦しい……年をとったら近火にしてもらわねえと、やりきれねえ」【成立】 火事の登場する落語に入っているのを聞いた記憶がある。「邪魔だ邪魔だ」って、自分の方がよっぽど邪魔なんで……っていうのはよく聞くね。
2024.09.02
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【粗筋】 無筆のくせに読めるふりをしている男が、芝居の看板を見ているところへ、もう一人無筆の者が来て読んでくれとせがむ。「ちょっと遅かった、今読んだばかりだ」とか、「親父の遺言で同じ物は二度読まない」と誤魔化すうちに、通り掛かりの人が「今度の狂言は『山門五三の桐』だね」と言っているのを耳にして、「今度の狂言は『反物五反の裂れ』だ」「そんな芝居があるのかい」「呉服屋の騒動だろう」【成立】 上方にも東京にもあったが、現在は演り手がない。「山門五三桐」という題もあり、この方がネタばれはないが、落語の題は楽屋で記録するための符牒だから、分かりやすいように記録する。【蘊蓄】 『山門五三桐』は「絶景かな」でお馴染みの石川五右衛門の芝居。
2024.09.01
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【粗筋】 伊勢屋の旦那がまた死んだという八五郎。「また」を聞きとがめた隠居に話をすると、養子がみな若死にで、これで3人目なのだという。隠居はその原因は嫁さんの器量が良すぎるからだという。「何よりもそばが毒だと医者が言い……っていうだろう」「蕎麦は毒かい……じゃあ、饂飩にするかね」 八五郎には通じないので、「ご飯をよそって渡す時に手と手がふれるだろ。辺りを見ると誰もいない。顔を見るといい女……短命だろ」「……手から毒が入るのかな……」 何度も説明を受けて納得がいかない。炬燵の話に変えて、「炬燵で足と足が触れる……短命だろ」「……足から毒が……」「にぶいね、お前は。『新婚は夜することを昼間する』と言うだろう」「夜することを……ああ、あれかい。それならそうと早く言ってくれれば、俺は勘がいいからピンと来るんだよ」 悔やみの文句も教えてもらい、葬式に行く前に腹ごしらえをしようと自宅へ戻り、忙しいという女房に無理に給仕をさせる。「手と手がふれた。辺りを見ると誰もいない。顔を見るといい……ああ、俺は長生きだ」【成立】 享保12(1727)年『軽口はなしどり』の「本腹のうわさ」。縁起をかついで、「長命」「長生き」とも。古今亭志ん生(5)は最後の夫婦のやり取りで、ご飯をよそるのに茶碗ですくったり、投げてよこしたりする、ガチャガチャなかみさんを創造し、「お前とこうしていると、俺は長生きができる」と落としている。【一言】 たしかに、バレ噺といわれる艶笑落語は、いわば「耳で聞くあぶな絵」のようなものであり、若いお嬢さんなんかが聞いたら、まっかになってうつむいてしまうような噺も少なくない。それはそれで、おもしろくないことはないが、やはり最上の艶笑落語は、だれが聞いてもえげつなくなくて、しかも、ひとりでに含み笑いがこみあげてくるような、たとえてみればこの『短命』のようなものが第一級ではあるまいか。(江國滋)● まことに皮肉な落ちで、ありがたさと情けなさが背なか合わせになった佳作だった。(興津要)● このような噺は、近頃はだんだん演りにくくなってきました。と、いうのは「指が触って……」などっといっても、今は手ぐらい触るのはなんでもないですからね。昔はあの程度でよかったが、今じゃだんだん通用しなくなっていますから。まァ噺のほうはそういう時代であったことを心得て聞いていただかないといけませんな。こういう噺は結局、味を聞かせる噺ですから、演りさえすれば受けるというものじゃない。やたらに笑いを求めても、いやらしいなんという感じになったら駄目ですし、そこらが難しい所です。(柳家小さん)
2024.08.31
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【粗筋】 天神祭のお渡りになると、人の足音も止まって静かになり、丹波ホオズキを売る「丹波ホオズキ、丹波ホオズキ」の声だけが聞こえるのが常であった。お渡りを見物して帰った男、路地まで来ると人の家をのぞいている者がいる。「何してんね」と尋ねると、「シーッ、お渡りや」「お渡り……丹波ホオズキ、丹波ホオズキ」【成立】 上方の小噺。「お渡り」が男女の何かを意味する。何をって聞かれても、うぶな私には分からない。ただそれだけのこと。そもそも売り声が分からないとねえ。
2024.08.30
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【粗筋】 本願寺さんの千畳敷という大きな広間を高い所から見物した男、座敷に丹波ホオズキが落ちているのを見つけて拾いに行くと、坊さんが緋の衣を着て昼寝してた。【成立】 上方の小噺。そんなに広いんだよってこと。。「丹波鬼灯」は実が大きい種類。浅草の浅草寺といえば、七夕の後の穂好き市が有名。七夕前後三日の朝顔市と、9日10日の四万六千日に行われるほおずき市が風物詩になっている。二日で10万鉢、鉢無しの物はそれ以上売れるそうだ。このほおずき市で出ているのは丹波鬼灯と千成鬼灯の二種類。丹波鬼灯は茨城県の三和町産が主流。【蘊蓄】 京都東本願寺は、参拝客も一緒に朝全員で教を読むので有名だが、千畳敷の座敷に四千人が集まったこともある。夏休みなどうまく遭遇出来れば百人以上の読経も珍しくはない。 母が亡くなって、うちの宗旨がお東さんだぞって、初めて知った。明治の頃、門の修復のために全財産をはたいてしまったそうだ。
2024.08.29
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【粗筋】 毎年1月に入院をする旦那がいる。幇間の一八が訳を聞くと、5人の妾がおり、それぞれ雑煮を出すが、断りきれずに食べるため胃をこわして入院するのだという。新年を迎えるが何か妙案はないかと言われ、旦那が食べたふりをして一八が袂に隠すという作戦を考え付く。 さて、当日肝心の一八が来ないので、仕方なく自宅から順に雑煮を食うが、最後の妾の家まで来ると、やっと一八が追いついた。旦那は助かったと、計画通り餅を隠させるが、これが妾に見つかった。他の女の所で食べてきたのかと、妾がなじるので、「御新造、ヤキモチをお焼きにならない方がようございます」「何を言ってる。私が焼き餅なら、お前の袂に入れたのは何の餅だい」「私のはタイコモチでございます」【成立】 鼻の三遊亭円遊(1)の作らしい。有名な落語研究家の人が書いているのは「餅は餅でも、私の餅はタイコモチでございます」という落ち。あまりにくどいので「餅は餅でも」をカットしたが、言葉に出すとまだ無駄なような気がして「粗筋」ようにした。勝手な改変だが、研究家の方も実際に聞いたことはないはずなので……
2024.08.28
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【粗筋】 追剥にやられたと派出所に申し出があり、巡査の連絡で非常線が張られた。 さて、うどん屋が商売をしていると、男が現れ、喧嘩をして追われている。金をやるから服を取り替えろと言う。その通りにして流して行ったが、町外れまで来ると服を戻し、「実は俺は泥棒で、非常線を張られたので、変装したんだ」 と告白。うどん屋はうどんを食って行けと言い出す。泥棒が断るが、うどん屋はしつこく食うように勧め、とうとう逃げ出そうとしたところをねじ伏せられた。「こいつめ。俺はうどん屋に化けていた探偵だ」「ちくしょう。とうとう一杯食わせやがった」【成立】 仮名垣魯文の作と伝えられる。「非常線」とも。三遊亭小円朝(3)が得意にしていたといい、速記が残っている。実際に聞いたのは古今亭志ん生(5)だけ。【蘊蓄】 仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』ではロンドンの博覧会を見物した野次・喜多の珍道中により海外の風俗を、『安愚楽鍋』等では明治初期の牛鍋屋を舞台に庶民の風俗を描写した。
2024.08.27
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【粗筋】 亀を助けて竜宮城へ行こうと思い立った男、動物園で歩き回ったが、亀がいない。疲れてベンチに座ると、後ろから声を掛けられた。それが丹頂の鶴で、子供を残して捕まったから逃がしてくれれば、竜宮城ではないが、栄耀栄華の国に連れて行くと言う。「本当かい」「はい、鶴の一声で」ってんで、逃がしてやる。5日経ったがお礼に来ない。「鶴は千年というから、数百年経ってから礼に来るんじゃないか。首を長くして待っていると、こっちが鶴になっちまう」と言っているところへ、ごみ箱から鶴が現れた。掃き溜めに鶴というやつだ。鳥の国に連れて行くというので背中に乗って行くと、歓迎の礼砲に、鳩が豆鉄砲を食らったようにひっくり返る。町では救急車に乗って急患鳥(九官鳥)が走り、警察官が詐欺(鷺)を捕まえている。財布を見て泣いているのは始終空(四十雀)、銀のボートに乗っているのは歌を忘れたカナリヤ、お寺にいるのが仏法僧……鳳凰の法王に逢って玉手箱をもらった。開けてびっくり……あっという間に白髪のお爺さん……ではなく、髪の毛が全部なくなっている。「無理もない、助けたのがつるつるの二羽だ」【成立】 栗山すすむの作を、三遊亭円右が演じた。
2024.08.26
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【粗筋】 屋敷のお嬢様の13歳の誕生日にダンスパーティをやるというので、敷地にあるアパートの住人招待されたが、誰もダンスを知らない。「お前さんはどうだい」「ダンスどころか、部屋には箪笥もないくらいで」「大学生だからダンスを習っていないのかい」「大学にはダンス学部はないんで……2,3度タンゴを教わりに行きましたが」「じゃあ出来るだろう」「2,3度では覚えきれません。15回は行かないと」「どうして」「タンゴ15といいますから」 結局誰も出来ないが欠席するのは失礼というので出掛ける。挨拶をしろと言われた大家「今日は結構なお天気で……お嬢様の13回忌」「殺しちゃ困るよ」」「13歳のお誕生日を機に、本日は家賃の値上げにつきまして……」「何言ってるんだい」 ダンスが始まるが誰も踊れない。お調子者の熊さんに踊ってくれと言うと、「素面じゃあ踊れませんや」「でも随分飲んでるよ」「ビールとワインとウイスキーを頂いて……」「そんなに飲んだら足腰が立たないぜ」「それで踊らずにすむでしょう」【成立】 昔々亭桃太郎(1)の創作落語。昭和25年、ダンスホールが盛んな頃の作品。ダンスシーンはほとんどないが、アコーディオンの伴奏を頼んで演じた。
2024.08.25
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【粗筋】「おい、今度はおいらの家で遊ぼうよ」「嫌だよ、お前の所狭いんだもの」「今度広くなったよ」「引越でもしたのか」「ううん、お父っつあんが箪笥を売ったんだ」【成立】 貧乏の噺の枕でたまに聞く。
2024.08.24
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【粗筋】 医者は定年もなく、死ぬまで出来る上、医学部を卒業した医者が次々デビューし、医者が余ってしょうがない。そこで客を、いや患者を呼ぶのにネオンサインを付け、女子大生看護師を写真で選べる、手術2割引き、入院五回でディズニーランドご招待……それぞれサービスをしている。24時間営業のビョウーソンでは、薬も箱で並べばら売りもあって、予算に合わせて自由に選べる。ドライブスルー駐車、飲み屋に出る流しの医者もいる。御堂筋には屋台の医者が並んでいる。 新しい病院に行くと、先生がロックに乗って登場、激しく踊りながら注射器を取り出して血を取る。「来月大坂城でライブやるから見に来て下さい」「歌いまんのか」「いや、生で手術をします」 診察が終わるとバク転をしながら帰って行く。 ガラガラ抽選で胆石が出たら海外旅行。「よし、やってみよう……出た、胆石や」「それは尿道結石」「違いまんのか。何が当たったんです」「尿道検査が無料です」【成立】 桂三枝の創作落語。第70作目、1987年12月の作品。サングラスをかけて踊ると息が切れて……いい年をしてよくやっていると思ったが……当時44歳。どうしてそこまで息が切れるのだろう。
2024.08.23
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【粗筋】 番頭が病気で足が不自由になってしまった。旦那が気の毒がり、出入りに幇間に頼んで花街へ連れて行かせる。番頭を駕籠に乗せ、芸妓や幇間らがだんじり囃子をはやしながらお茶屋へ繰り込むが、二階に上げる時に番頭を落としてしまった。番頭は箒を腹へ縛りつけると、竹のしなりを利用して二階へ飛び上がる。「まるで飛び鼠ですな」「いや、うちの白鼠だ」【成立】 上方噺。白鼠は主人に忠実な奉公人のことだが、一般には番頭のことをいう。「愛宕山」と同じ方法だから演じられているかどうか定かではない。
2024.08.22
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【粗筋】 隣町には次郎兵衛狸というのがいて、芝居の真似をしたという言い伝えがある。子供がこの町には何かないのかと聞かれた秀、今でも雨の夜になるとだんじりを叩く「だんじり狸」というのがいると言った。そんな狸がいる訳もなく、仕方なく友達の米と勝に頼んで三人で出掛けた。 たに雨が降ればいいのだが、数日雨が続くとさすがに辛くなり、米と勝は嫌がるようになった。仕方なく秀が一人で出掛け、大雨の中でだんじりをやったので風邪をひいて寝込んでしまう。秀は二人にやってくれるよう頼むが、米も勝も断って逃げてしまう。 が飲み屋に行くと、遠くでだんじりが聞こえる。二人でやっているらしいので、「ああ、勝の奴が行ってやったんやな。わしも行ってやりゃあ良かったかな。まあええわ。明日あやまったらしまいや」 博打場にいる勝もこの音を聞いて、「何や、米と秀やな。米も気のきかんやっちゃな。秀は病気やないか。俺に一緒に行こうと言うてくれれば行かんでもないのに……」 秀が布団の中で目を覚まして、「ああ、だんじりや……わしの前では嫌やと言うてたが、二人で行ってくれたんやな。友達は有り難いな……しかし、うまいもんや。ほんまに狸が叩いてるようやないか……」【成立】 小佐田定雄作。昭和59年(1984)年10月1日、桂べかこ(現・南光)により初演。大阪「だんじり囃子」の「♪チキチンチキチンチキチンコンコン……」というせわしない調子を取り込んだ噺。【一言】 平成2(1990)年11月20日に大阪サンケイホールで開かれた独演会では、南光さん(当時は「べかこ」でした)がラストシーンで、月の中で腹鼓を打つ狸の姿をスライドで見せ、ビジュアルなサゲにして見せてくれたのを憶えています。(小佐田定雄・この男たちに共感を覚えた本当の狸が出て来たのだろうか、それとも、彼らの行為に感動を覚え、病気と知って何とかしてやろうとする他の人間なのだろうか……そういう雰囲気を残した落ちであった。スライドで狸を見せてしまっては、答えをはっきりさせた分、曖昧模糊とした雰囲気が壊されるようにも思われる。もちろん、それはそれで面白いのだが)
2024.08.21
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【粗筋】 市川団十郎の弟子の団子兵衛、連日雑用に追われて帰りが遅く、長屋の木戸を開けてもらうのに大家を起こすのが日課になっているので、大家の方で追い出しにかかった。 そこで、団子兵衛の方から菓子折りを手に、「今度の舞台では師匠の団十郎と共演することになりました」 と挨拶に行くと、大家の方ではすっかり機嫌を直して、「路地はいつでも開けてあげるから、しっかりおつとめなさい」 と激励してくれた。ところが、普段は芝居など見ない大家が、団子兵衛が出ているならと見物に出掛けてしまう。『清水清玄』の舞台だが、どう探しても団子兵衛は出ていない。どうしたのかと思っていると、庵室の場で淀平に投げ飛ばされ、下敷きにされたのが団子兵衛。四つんばいになったとたんに大家と目が合って、「おや団子兵衛さん」「大家さん、今夜も路地をお願いします」【成立】 安永2(1773)年『俗談口拍子』の「雪の夜の大屋」が直接の原話と思われる。文化4(1807)7年喜久亭壽暁のネタ帳『滑稽集』に「ばんニもうし とんだり」「こん夜ハとんだり」とあるのがこの噺である。「団子平」「団子兵衛芝居」とも。柳家禽語楼の「きゃいのう」も同じ人物名を用いている。 『清水清玄』は、文化14(1817)年初演の鶴屋南北(4)作『桜姫東文章』の一場面。鎌倉新清水寺の清玄という僧が、吉田家の息女・桜姫に邪恋を抱いて破戒、寺を追放された後、忠義の奴・淀平に殺されるがなお怨霊として姫につきまとうという話。 落語では、「清玄という坊主が桜姫に会いたがったが、会えなかった。坊主と桜じゃ絵が違う」という、花札を取り込んだくすぐりがあるほどだが、芝居があまり通ったものではなくなっており、「団子兵衛」も演じられなくなっている。【一言】 「住みかへてみても浮世は鍋の尻 苦々せぬ日は一日もなし」という狂歌を枕にふってから、この芝居ばなしにはいることにしています。(桂文治(6))【蘊蓄】 市川団十郎(7)(1791~1859)、天保11(1849)寝ん伎に能楽を導入して『勧進帳』を創演、歌舞伎十八番を制定したが、1842年天保改革の贅沢禁止令で江戸追放の重刑に処せられると、息子に八代目をゆずり、自分は海老蔵、白猿などの芸名で上方や名古屋の舞台に立った。
2024.08.20
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【粗筋】 大変な癇癪持ちの若旦那、花を生けていた所へ来た丁稚の返事が悪いと、持っていた木鋏を投げつけた。鋏が畳に刺さり、小僧が泣いて逃げるのを見て、番頭が異見に登場する。小僧の不始末をわびているうちに、畳の鋏を見つけて驚いたふりをすると、「まさか、あんさんが丁稚に投げつける、そんなことはごわへんやろなァ」 親の元にあれば可愛い息子、その人様の息子に怪我をさせては申し訳がない。癇癪を起こして叱るよりも静かに言い聞かせる方が効果があるということをこんこんと諭した。若旦那も異見が身にしみたのか、涙を流して反省し、これからは腹が立っても怒鳴りたてず、耳もとでそっと叱ると約束をした。 数日後、お茶会が開かれたが、丁稚が畳のへりにつまづいてお椀を引っ繰り返してしまった。若旦那は怒鳴りつけようとして思いとどまり、丁稚をそばへ呼んで何かを言う。とたんに丁稚がウワーンと声を上げて泣き出した。番頭が丁稚を部屋の外へ連れ出し、「注意をされて泣き出すとは何事じゃ。いつもならげんこつの二つも張られているのじゃぞ」「頭張られる方がましでございます」「何じゃと……若旦那は耳元で何とおっしゃったんや」「耳をジカジカッとしがんででした」【成立】 「耳じかじか」とも。明治時代に演じられていた記録があるが、現在では演じ手がいない。現代に復刻するなら「耳に噛みついていらっしゃいました」という落ち。安永2(1773)年『聞上手』の「悪い癖」は「肩へ食いついていた」という落ち。【一言】 他の噺ではめったに聞くことのできない番頭の意見である。船場のあちこちの店の奥座敷では、こんな意見が実際に行われていたにちがいない。店には父親よりも煙ったい大番頭という存在があって、若旦那を一人前の船場商人に育てあげていたのである。理をもって叱り、情をもって諭すという「小言」の見本のようなもんで、企業の管理職には参考になる話術かもしれぬ。(小佐田貞夫)
2024.08.19
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【粗筋】 謀叛を起こした平将門、7人の影武者を出して同時に攻めてくるので、相手はまどわされて破れる。俵藤太がこれを討ち取りたいと不動に願を掛けると、本物の将門を教えられ、そのこめかみを狙うようにとのお告げがあった。教えられた通りに本物の将門を見破って、矢を射ると見事に命中。こめかみがすうっと上がって下がったので……米屋町では大騒ぎ。【成立】 くすぐりを加えた地噺で、赤坂の柳亭燕路が演った。米が上がったり下がったりすれば米屋町では騒ぎになる。 将門はこめかみよりぞ射られける俵の藤太のはかりごとにて という狂歌は、こめかみ(米)、俵、はかり(秤)と米屋に関わる言葉を集めたもの。【蘊蓄】 平将門は親族の土地争いで注目され、従兄に奪われた土地を取り戻したが、そこで暴利をむさぼった役人から財を取り戻して農民に還元した。これが関東で評判となり、救いを求めて来る人々のために勢力を広げて行ったらしい。この延長で国司を追い出したことと、天皇を名乗ったことで反乱とされたが、都の藤原氏に、回りがそう呼んでいるので自らは名乗っていない、国司も私腹を肥やしていたのを懲らしめたので、印形その他は次の国司に返すという弁明書を贈っている。しかし、従兄の貞盛が報復を狙っている様子があったため、直接都に出て行かなかったことが、政権の反発を招いたらしい。結果として、瀬戸内海の海賊を集結した藤原純友と共謀して乱を起こしたことになり、神のご加護で天皇が守られたと宣伝に使われた。 海音寺潮五郎の「平将門」と「風と雲と虹と」は、二人の謀叛人を描くが、同じ場面が全然違うものだったりして面白い。NHKの大河ドラマ「風と雲と虹と」(1976年)は、二つを原作とし、冒頭に海音寺が出て解説、将門と純友を毎週交互に描くという異色の作品。絵巻では平安着の鎧兜や十二単が描かれるが、まだそうなっていないはずだという考証、関東には挑戦からの移民が多かったという考証、これらが一般の常識を持った視聴者から間違いとして指摘された。反論には確たる資料はない。因みに、子供のための将門の本を3冊読んだが、全て源平合戦時代の鎧兜だった。
2024.08.18
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【粗筋】 三上山の麓で、俵藤太がムカデを射たが、矢が立たない。2本目の矢をつがえて神に念じると、ムカデは人間の唾を嫌うとのお告げがあった。矢に唾をつけて狙いを定めると、ムカデが、「2本目にツバはいりません」【成立】 俵藤太が、竜神に頼まれてムカデ退治をしたという伝説がある。2本の矢をはね返され、ムカデが人間の唾を嫌うということで、3本目の矢に唾をつけて退治した。竜神から、鎧兜、米俵、釣鐘をもらったが、釣鐘は持て余して三井寺に寄進したという。『三才図会』では、どうして海底に釣鐘や鎧兜があったか、海の底でも米を食っていたのかという疑問を記している。【一言】 唾と矢の関係で笑わす一種のバレである。(宇井無愁)【蘊蓄】 平将門を討った功で一躍有名になった俵藤太、ムカデ退治や龍宮の伝説は後から作られたものであるが、『太平記』にも載せている。俵という名前の由来には次の説がある。 1 出身地から取った。大和田原、近江田原、下野田原の三つの説がある。 2 年貢米徴収の役に当たっていたことから「俵」がついた。 3 龍宮で土産に米の尽きない俵をもらったので「俵藤太」。 龍宮に行ったというのは、罪に落ちて左遷されている期間を、美化して作られたものと思われる。名前が俵か田原か色々あるのも、もともと大した身分の者ではなかったということ。 将門の従兄の平貞盛と協力して将門を討って、一躍英雄になったが、二股をかける人物で、どちらが飼っても利益を得るようにしていたという。将門を討った後、間もなく亡くなって、土地は自然に貞盛のものになり、貞盛の子が伊勢守となり、次第に瀬戸内に権力を広げ、5代目に清盛が登場する。
2024.08.17
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【粗筋】 新築の家の前で掃除をしていると、通りがかりの人が便所を貸してくれという。小僧が「引っ越して来たばかりで、主人もまだ使っていない」と断ると、お尻をもじもじしながら行ってしまう。主人が出てきて訳を聞き、「困っている人を助けるのは当たり前だ」と小僧を叱り、追いかけて行くように命じた。小僧が追いついて、「旦那に叱られました。どうか戻って用をお足し下さい」「いや、結構。もう垂れたも同然です」【成立】 安永7(1778)年『春笑』の「新宅」。享和2(1802)年、十返舎一九の『臍繰金』の「雪隠」も同じ。落ちは食べ物を勧められた時に「いただいたも同然」と辞退する言葉をもじったもの。
2024.08.16
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【解説】 寿限無とたらちねが結婚するという話。お互い名前を呼び合ううちに朝になってしまい、「もう2,3回呼び合えば夜になるだろう」という落ちになる。「寿限無」の方ですでに開設しているので番外とした。三笑亭夢之介が演った。たらちねさん離婚したんですかって聞いたら、同姓同名の別人ではないかということであった……ということもすでに紹介した。某公共放送が好きらしく、週一回の枠で年間3回も放映された。
2024.08.15
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【粗筋】 鶴女の言葉に閉口し、いたたまれなくなった八っつぁん、とうとう思い余って鶴女を絞め殺してしまう。夜になると、幽霊が現れ、「よそはときめく春ながら、花の咲かざる身の上じゃなあ。自ら我が君に殺害されたりしを私恨となし、意趣遺恨、不倶戴天、一念通さでおくべきか。七代祟りて怨嗟し、会稽を遂げ、報復せんと欲すなり」【成立】 殺されて化けて出るが、やっぱり難しい言葉を使うというだけ。明治大正の作品にあると紹介されていた。林家彦六(正蔵8)の演っていたのと同工異曲。離縁したのもどうかと思うのに、殺しちゃうってのはなあ。
2024.08.14
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【粗筋】 いけぞんざいな八五郎のところに、言葉の丁寧な鶴女が嫁に来た。どうも長屋住まいらしくないというので、八五郎が言葉を教えるが、廓言葉になったり、やくざ言葉になったりでうまくいかない。ある日、家主のところで夫婦喧嘩が始まり、長屋の者が止めに入るが誰もとめることが出来ない。鶴女が止めに入り、「御内儀には白髪秋風にたなびかせ給う御身にて、嫉妬に狂乱し給うは、自ら省みて恥ずかしゅう思し召されずや。早々にお静まりあってしかるべく存じたてまつる」 と言うと、婆さん煙に巻かれたようにおさまってしまう。家主が感謝して、「お鶴さん、ありがとうよ。でも、どうしてばあさんピタリとおさまったんじゃろう」「そりゃァ、鶴の一声じゃもの」【成立】 「たらちね」の後日談として創作されたもの。
2024.08.13
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【解説】 「たらちね」は上方の「延陽伯」をそのまま移植したと解説されている……まあ概ね同じ。名前など細かい部分の異同に対する考察は省略。 それで、こちらはそれを艶噺に仕立てたもの。 待っている間に新婚生活を想像するのも同じ。飯を食うシーンを想像して大騒ぎ。お隣から「子供が寝ついているから静かにして」と文句をいわれる。 子供と言われて、子供も出来るのやろうなと、子供と出掛ける想像をしてまた大騒ぎをして文句を言われる。ここらまで普通の噺と同じ。 その続き……子供が出来る前に何かしなければならない。育ちがいいというから、男のそばに寄らないだろう。「こっちへおいで」「でも……」「ほら、捕まえた」「あ、いけません」「ええやないか……ほら……」「そんなご無体を……ああれえ……」とエスカレートする。隣の人がまた来て、「明るい時から何をやっとるのや」【成立】 艶噺の会で2,3人のを聞いた。上方落語には遠いのでかなりの確率かも。普通の寄席と違うのは最後のところだけ。あれ、明るい時からって……もう子供が寝付いているんじゃなかったっけ……それから、「艶陽伯」のその2としたが、「たらちね」と同じなのでその1はない。
2024.08.12
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