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森の声

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2025.08.12
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カテゴリ: カテゴリ未分類
かなり昔に読んだ記事ですが、「日本と戦争」ということについて「日本人は勝つときには色々な勝ち方をするが、負けるときにはいつも同じ負け方をする」ということを書いていた人がいました。

調子がいいときには色々な発想をするのですが、負けそうになってくると思考停止して、「自分がこれまでやってきたこと」を正当化し、「自分のメンツや利権を守ること」ばかり考えるようになってしまうのです。そして、負けが決まると「しょうがなかったんだ」と「言い訳け合戦」が始まり、みんなが「被害者」になるのです。扇動していた人までも「自分も被害者だ」と言い張るのです。

多分それは、「みんな一緒」、「みんな同じ」を大切にして、「個と個による話し合い」をせず、「全体の気分」で行動する日本の社会では「責任の所在」が曖昧だからなのでしょう。もしかしたら、そのために「みんな一緒」、「みんな同じ」という価値観の基に行動する社会システムを作り出したのかも知れません。

そんな時、その「全体の気分」を代弁してくれる人が出てくると、みんなその人に従ってしまいます。でもその人も「みんなの気分を代弁しているだけで自分には責任がない」と考えています。まただから、議論もしません。「自分の意見」ではないので「議論」が出来ないのです。

コロナのことに関しても海外では色々な検証が始まっているようですが、そのようなニュースは日本のテレビでは取り上げません。そして相変わらず昔と同じことを言い続けています。恐怖や不安を煽ってきた政府や、スポンサーや、メディアが自分たちのメンツを守ろうとしているからなのでしょうか。

そんな日本では、「多数派と異なる意見」は、何の議論も検証もせずに、最初から「間違っている」という烙印を押され、排除されてしまうのです。その時に使われるのが「非国民」とか、「アカ」とか、「陰謀論者」などというような扇動的な言葉です。「自分とは異なった意見」、「別の見方」という風に考えるのではなく、何の議論も検証もしないまま、多数意見とは異なるということだけで「間違った意見」として処理されてしまうのです。

「人権」に関しても様々な意見があるはずだし、あっていいはずなのに、全体の流れと異なることを言うと、話し合いや議論をすることなく、一方的に「あの人には人権感覚がない」などと否定してしまうのです。
本質を議論することなく、流行や気分で是非を判断するのです。

そんな風に、相手を罵るときも「自分の顔」を見せません。「顔」を見せないまま「自分こそ正義だ」的に好き勝手なことを言うのです。ネットにはそういう無責任な意見があふれています。また、直接言う場合でも「自分の意見」として言うことはしません。「みんなそう思っているよ」「みんなそう言っているよ」などというような言い方をします。

でも今、その「みんな一緒」「みんな同じ」というシステムが限界に来ているのです。教育現場でも、子育て現場でも、社会構造ででもです。そもそも、人と人のつながりが希薄になった現代社会では「みんな一緒」「みんな同じ」は意味がないのです。

その状態から抜け出すためには「議論」と「対話」が必要になるのです。「勝ち負けを争う議論」ではなく「本当のことを明らかにするための議論」です。「相手のことや自分のことを知るための対話」です。でも、日本人は元々議論が苦手です。儒教の影響も大きいと思います。人と人のつながりが薄い環境で育っている現代人は対話も苦手です。



私の所には滅多に否定的な意見は来ませんが、それでもたまには来ます。そんな時でも、相手は自分の素性を明かしません。そして、批判はしても自分の意見は言いません。相手を批判し、否定することに酔っているのでしょう。





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Last updated  2025.08.12 09:03:57
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