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これまた大変な事件だ。JTなどが報告が遅れたことも大問題だが、そもそも何で農薬が入るのか。河北省の工場らしいが、中国はもう何でもアリだと見なければならない。環境汚染、食品安全、常識で考えてはいけないのだろう。かくいう我が国も問題は多いけれど、中国の問題も我々の問題だと意識して行かねばならない。密接につながっているのだから。環境も経済も。家人によると昨日は生協から電話があったそうだ。昨夏に宅配で購入したギョーザに問題の品目があったからだそうだ。私も食べたはずだ。そう、中国とつながっているのだ。
2008.01.31
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ひさびさに庭の小鳥に登場してもらいましょう。こんな低温続きの冬でも、午前9時台にもなると昇ったおひさまを受けて、鳥たちもやってきます。この日はシジュウカラとスズメたちが一緒に飛び回っていました。雪の残る庭。小枝を飛び渡る鳥たちでした。
2008.01.30
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夜中からフレッツ・スクウェアで吹奏楽コンクール全国大会の演奏を聴いている。なんて便利な素晴らしい世の中になったことか。これで何夜(朝)目かだが、聴き出すと止まらない。全国トップクラスの演奏はどれも素晴らしいが、中学の部では特に湯沢南中学校の演奏に惹かれた。素直で伸びやかなサウンド。中学の場合はどうしても個々の技量は進んでいないから、細やかにみれば粗雑さは残るし、ダイナミックも作れない。それでも、和音が美しく響くし、バランスも整っている。例えばブラスがリズムを柔らかく刻み出す時など、うっとりするほどの音楽になっている。生徒一人一人が回りの音を良く聴いているのだろうし、全体の中での役割を徹底的に理解しているのだと思う。高校でも言えることだが、個人の技量は当然プロとは格段に差があるが、合奏として醸し出す音楽は、決して学芸会的な感動ではない。本当の音楽として伝えるものがある。個々人がアンサンブルの意識を高くもって、練習を積み重ねているから、なのだろう。そう言えば、秋田は泣く子も黙る吹奏楽のメッカだった。僕が中学の頃だが、中学なら山王中、高校なら花輪高、秋田南高、横手高、というあたりだったろうか。合唱でも全国的に高いレベルを示していたように思う。ふと気になって、東北吹奏楽連盟のサイトで過去の金賞団体を見てみた。湯沢南中は昭和40年代から伝統のある学校だったのだ。そして、近年では湯沢北中学校も金賞を獲得しているが、つい最近は再び湯沢南中が金賞となっている。指導の先生が異動したのだろうか。そして僕は例によって地図を開いてみた。湯沢は訪れたこともない。この素晴らしい生徒達がどんな町で練習を重ねていたのか。聖地普門館で金賞の栄誉を獲得して、大きな思い出となっただろう。湯沢の山河で育ち、全国の舞台に立った子ども達は、どんな気持ちでステージに上がったのだろうか。僕が湯沢の子どもだったら、どんな気持ちで...(タイトルの湯沢南中の思い出、とは、ちゃっかり成りきってみた、そういう意味です。)一般に吹奏楽でトップレベルの中学はある程度の規模も必要で、学年4クラスか5クラス程度はあるはずだ。だから、「南中」とは称しても市の中心にあり実質は市立第一中学校なのか、などと勝手に想像してみた。すると、地図で結構興味深いことに気が付いた。市役所を中心にして国道13号沿いに1.5kmほど北上すると「湯沢東小」、同じく南に1.5kmほどに「湯沢西小」がある。方位は南北なのだが。そして、中学校となると、北の「東小」よりちょっと北に「湯沢北中」、南の「西小」のちょっと南に「南中」がある。こんな位置関係だ。湯沢市の都市規模からすると、官庁街の近くや昔の城跡付近などに拠点校となる小学校、中学校があるのが普通だと思う。その上で、比較的最近になってから町の外延部に「南中学校」「第二中学校」などを設置するというパターンだ。しかし、湯沢はあえて町の南北に分離している所を見ると、拠点校が規模拡大したために、対等に二分したのではないだろうか。新設校だとすると、町の北に置くか南に置くかで調整ができない事情があったのかも知れない。以上は勝手な想像だ。それにしても、南中も北中も吹奏楽で東北トップのレベルを示したということだから、湯沢はすごい。
2008.01.29
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少し前に市内でスパゲティ専門店に入ったが、TREnTA(トレンタ)さんという店。初めてはいる。カキのスパゲティなどを食して、一応店のパンフをいただいて帰る。良く読むと、本店は秋田で東北で店舗展開しているようだ。大曲を本拠に、仙台や盛岡に展開する企業だから、気になる。どんな経営者の方だろう。地元経済界にインパクトを与えているのだろうか、などと思いながら探したが、その時はホームページを探しても見つからず、経営者の方もわからない。思い出して今朝見たら、公式サイトがあるようだ。訪問者カウンターの数字も浅いので、つい最近開設したのだと思う。経営者の方の名前もわかり、やっぱり関係記事もあった。○ あきた企業活性化センターの記事私は正直言ってグルメではないので味については論評できない。でも、麺はうまかった。味付けがちょっと濃いように感じたが、地元東北の素材を活かそうという意欲が感じられた。フランチャイズ展開で全国を目ざすとのことだが、注目したい企業だ。
2008.01.28
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子どもたちが作ったようです。東北の伝統文化?かまくら。でもこの大きさでは、子どもでもとても入れないでしょう。何年か前にもうすこし大きいのを作って子どもも入ったように思いますが、上の子が3歳くらいでしたから、子どもの体が小さかったのが実情かも知れません。いずれにしても最近は降雪がめずらしいですから。
2008.01.27
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よく知らなかったのだが、都市間を結ぶ高速バスとして最近は格安のツアーバスなるものが盛行しているそうだ。『仙台経済界』で読んだのだが、昨年のあずみ野観光バス事故の説明である程度合点がいった。形態としてはバス会社が設定した路線を運行するバスに乗り合うものではなく、旅行会社が募集した旅行に応募した上で旅行会社が借り切ったバスに乗る形式。客が支払うのは運賃ではなく旅行代金であり、乗客ではなく旅行会社の催すツアーの会員なのだ(だから会員制バスとも呼ぶそうだ)。■参考記事 都市間バスの愛称を考える(08年1月21日)仙台と東京の間だと、片道3千円程度で乗ることができる。確かに格安だ。大型バスを一日借り切るコストは概ね7万円程度。二十数人乗せるとして、これで成り立つのだという。しかし、規制緩和による貸切バス事業の業界再編の波の中で、旅行会社の要請のためかバス事業者は低価でバスを貸さざるを得ない事情もあるようだ。仙台では法人タクシーがついに減車に踏み切った(24日の河北新報記事)。規制緩和で新規参入が相次ぎ、過当競争が表面化。従業員の生活苦なども報じられた。仙台は緊急調整区域に指定され、事実上の規制強化。そして、今回の自主的な減車の動きだ。私は、行政と私人の関わりという根本的なところで(営業の自由)、また法政策的に考えても(市民の利益や安全確保策)、あるいは経済学的に考えても、厳格な免許制は行き過ぎていると考える立場だ。更に言えば、行政学的にも(官庁組織の自己目的化と癒着)、要らない権限と公務員はなくすべきとの立場だ。今回のタクシー数社の減車は、まさに自由主義経済の帰結であると読み取ることも可能かも知れない。しかし、現実問題として従業者の生活なども無視して良いとは言えないだろう。机上の経済論理はそれとしても、まさに地を這うようにタクシーを運転して家族を支えようとする人を考えない行政では逆に困る。そして、もちろん特定の人たちだけの優遇では困るから行き過ぎず不足せずの対応が求められる。難しい。さらに利用者にとって適正なコスト、質の悪化と安全面なども考慮する必要がある。ツアーバスのあずみ野事件は端的にこれを示してしまったか。直接は関係ないが、最近バスの運転手の事故が目立っている。昨日(25日)も蔵王で宮城交通の運転手が急死したとのニュースがあったし、登米での急ブレーキ事故が実は運転士が気を失ったためだとの報道もあった。やはり安全を確保するのに積極規制が必要なのかも知れない。難しい。見えざる手に委ねられない部分をいかに政府が律するか。こんな表現自体が古典的だが。たぶん法論理や経済理論では、明確な答えは出せないのだ。かといって政治力学だけで決められても困る。ある程度未来を見越した上での決定権者の無私の判断が期待されるのだろう。この場合は国土交通省や地方運輸局ということになる。実はこれが不安なのだが。
2008.01.26
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ストーンサークルを見てみたい、と言ったらある人は、あんなのタダの石だぞ、見るもんじゃねえ、つまんねぞ、と。たぶんこの人も見に行ったのだ。なおさら行きたくなった。■参考サイト 大湯ストーンサークル館 思い立ったら北東北のページ 昨春に弘前から秋田八幡平方面へ南下する際に、小坂の康楽館や大湯環状列石に立ち寄ろうとも思ったのだが、夕刻も近づており素通りした。名前だけ聞いて想像するしかなかった名所を、実際に足で踏んで見てみるということが、私は好きなのだが、だいたいこういうパターンでは妻がそんなのつまんないでしょ、ただ見るだけだったら写真でいいだろ、と反対することになる。私自身も、その名所や旧跡そのものに特別深い思い入れや興味があるというよりは、子供の頃から聞いた名前だ、折角近くを通っているからその場に居合わせてみたいという思いが強いのだろう。いつまた来ると知れない好機、今行かないと後悔しないか、地図がオレを呼んでいる、と何か期待感と義務感とが混ぜ合わさったような思いだ。子供の頃、石にまつわる話としては、他に殺生石、北投石などに興味を持って、何々県にあるんだな、と思いを馳せていた。彼の地を訪れる夢が実現したのは最近のことで、那須の殺生石は5年くらい前、玉川温泉の北投石はやっと昨春だ。あとは大湯のストーンサークルだ。未だ見ぬ遺跡。今は学ぶことしかできない。大湯の環状列石は、我が国にストーンサークルという言葉を広く知らしめた国指定特別遺跡だ。(以下の参考:伊藤孝博『東北ふしぎ探訪』無明舎出版、2007年 978-4-89544-466-8)1 発見 昭和7年12月大湯町風張台地の耕地整理工事で、野中堂地区から群石が出現。 付近は謎めいた伝説を擁する地だ。昔から野中堂地区と隣接の万座地区には、「開墾すれば禍が起きる」との伝承があり、さらに群石の北東2kmには三角の黒又山がある。地元では黒万太(くろまんた)と通称し、草木地区の長だった黒沢万太を祀ったとの古伝がある。加えて草木地区は八郎太郎伝説のふるさとだ。 野中堂の名は、野原に浅間神社が建っていたからとされるが、富士山信仰に関わる浅間神社がなぜここに勧請されたかは謎だそうだ。2 調査 前例のない遺跡発掘で専門家の視察が相次いだが、遺跡の正体を解明はできる者はなかった。日中戦争激化のため、地元に結成された大湯郷土研究会がいったん遺構を埋め戻す。昭和17年に東京の神代文化研究所が大規模な発掘調査を行う。これにより、野中堂と万座の巨大な環状列石の全貌が明らかになる。 戦後昭和21年には朝日新聞のキャンペーンで紹介され、同社の後援で秋田県教委も発掘調査を行う。 さまざまな説が出された。日時計状組石に着目したある学者は、従来の縄文時代観に見直しを迫る可能性を示した。太陽運行が関心対象となるのは農耕文化段階だからだ。また、これほどの規模の石組建造物を築く定住集団と政治権力が想定される。遺跡の年代は縄文後期前葉(約4000~3500年前)とされる。 環状列石の説明はいまなお定説がないが、天文施設説、祭祀施設説、集団墓地説などが昭和20年代に出揃った。そして、昭和26年には文部省の文化財保護委員会と秋田県教委を主体に、国の第一次発掘調査がスタート、遺構は大湯町環状列石の名で国史跡に指定。27年には第2次発掘調査。昭和31年に国指定特別史跡。 昭和40年代以降は本体の2遺跡の周辺の調査に力点が移され、周辺エリアとの関係で遺跡の意味を説き明かそうという地道な努力が続けられた。昭和48年から51年までの周辺遺跡分布調査に基づき、昭和59年から63年及び平成元年から13年まで18次の発掘調査が、文化庁の指導で鹿角市教委が中心となり行われた。関連遺跡として7カ所以上の配石遺構が確認された。3 環状列石の説明 祭りと祈りの場とする説が、現段階では最有力。 1万2千年ほど前温暖化による海面上昇で現在の列島の原型ができる。海面上昇がピークとなる縄文前期(6000年~5000年前)には列島の内陸深くまで入り江ができて豊富な魚介類資源をもたらした。陸上でも広大な落葉広葉樹の森林が出現し豊かな木の実や動物をはぐくんだ。大湯縄文人も豊かなムラ社会を形成し、自然を畏敬し死者を悼む心を育てていった。縄文後期前葉(4000年前)になると再び寒冷化。大規模集団生活を支える食糧確保が困難になり、小集落に分散。その時、祭りと祈りの場は、各村の繋がりを保ち季節の折々に再確認する拠り所という新たな意味を帯びた。 そのための舞台が環状列石だった。各集落の位置などから大湯川と草木川にはさまれた台地を適地とした。 遺跡の本体をなす2つの環状列石とそれぞれに付随する日時計状組石の配置は明らかに太陽の運行観測にかかわるから、大湯縄文人の四季の確認と年間作業段取りに活かしていたことは十分に考えられる。さらに、誕生や死などの人生の節目も環状列石で祭りを行ったことも考えられる。 しかし問題なのは、環状列石の周囲に墓域があっても、野中堂と万座の環状列石本体は墓坑を伴わないこと。二重の環帯を更正する配石の下には土坑があるが、副葬品や脂肪痕は確認されない。このおびただしい配石群が、墓でないとすれば何なのか。太陽の運行のみならず月や星の運行も観測しており、配石には個々に固有の意味があるのだろうか。4 他との関連 日本では大湯以外にも類似遺跡が多く見つかり、大規模なものでも40カ所以上ある。環状列石は29カ所。いずれも縄文後期のもので、やはり祭祀や集会の場あるいは集団墓地と考えられるという。 興味深いのは類似遺跡の分布で、29カ所全てが北海道、東北、関東周辺であり、しかも明らかに一群のブロックを形成していること。関東周辺は富士山を中心とした一群の分布とも見える。同様に東北北部は十和田湖を中心に分布、北海道は洞爺湖や有珠山・樽前山あたりを中心にしているようにも見える。これら3つのブロックに、石と円環と天体に強く関心を持つ大湯縄文人の仲間が集中していることは、大きな謎だ。
2008.01.25
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鍼灸師の竹村文近さんが、ドラムの音が人の決断力を強くする、と書いていた。竹村さんは、作家の色川武大さんの鍼灸治療をしていた。色川さんのナルコレプシー体質(睡眠障害、幻覚作用)も改善させた。竹村さんの所には山下洋輔ニューヨークトリオの黒人ドラマー、フェローン・アクラフが治療に来ていた。肩関節に鍼を刺した時、筋肉の反応が早くて鍼が曲げられてしまい、特注の鍼を作ったほどで、筋肉そのものがまさにドラムだった。竹村さんは、色川さんとはジャズの話で盛り上がっていたのだが、大胆にも色川さんにすごいドラマーがいると話したら、一関から出てきてくれてフェローン・アクラフを聴いてくれた。そして、何かやれそうな気がしてきた、と語った。おおよそこんな内容の文章だった。(カラダに効く音楽(第12回)『音遊人』第12号(08年2月号) ヤマハ株式会社発行)色川さんが亡くなられる前のことだからもう20年も前になるのだろう。そして、一関でジャズと言えば、色川さんも通ったはずの菅原マスターの Basie だ。色川さんが移住する縁もあってだと思うが、文人を輩出した城下町に文学とジャズの新しい薫りを咲かせようとする運動があった。心と体と音楽は、つながっている。言葉にすると陳腐になるが、今まで見たことも聴いたこともないものに接する驚きに、動かされる。そして、人と町もつながっていくのかも知れない。文章に構成することがしにくいメタフィジークなことをあれこれ頭の中で考えてしまっている。人の本質的なことなのか、それとも単なる雑念で言葉にできないだけなのか。
2008.01.24
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山形の観光パンフに出ていた。山形と宮城のハシゴして味くらべ、という企画。(やまがた観光ルートガイドブック秋・冬版「味・人・風景・・・温泉も 全部まるごとおいしい山形!」やまがた観光キャンペーン推進協議会、平成19年8月)----------お肉対決 米沢牛 × 牛たん冷やし麺対決 冷やしラーメン × 冷やし中華鍋対決 山形の芋煮 × 宮城の芋煮麺対決 山形ラーメン(米沢、新庄、酒田) × 白石うーめんすし対決 庄内すし海廊 × みやし寿司海道デザート対決 ラ・フランス × ずんだ餅----------うん。なるほどね!
2008.01.23
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警察庁と国土交通省が自転車専用道を整備する「自転車通行環境整備」モデル地区を、全国で98カ所指定した(国土交通省発表)。駅や学校の近くで自転車交通量の多い場所を選定。歩道と車道の間に幅2メートルの専用道を作るタイプと、車道脇の幅1.5メートルのカラー舗装による専用レーンのタイプと、2つの種類があるようだ。これらにより分離された自転車走行空間を実現する狙いらしい。2009年度までに整備を終える。東北のモデル地区は次の通り。----------青森市青森地区盛岡市盛岡駅西口地区花巻市花巻駅西口地区仙台市宮城野通地区石巻市石巻地区秋田市秋田地区能代市能代地区山形市山形中心市街地区福島市福島地区郡山市郡山地区会津若松市会津若松地区----------ここにいう自転車専用道(レーン)は、自転車専用道路とは異なるだろう。後者はまさに道路の整備であるが、今回報道の自転車専用道(レーン)は既存の道路に専用レーンを設けるもので、道路整備というより交通規制的な側面が強いのだろう。警察が入る所以だ。■関連する過去の記事 自転車道を考える(07年10月22日)
2008.01.22
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宮城交通のバスに乗ったら、社内につり下げているビラに「しろくま号」とある。どこに行くバスなのだろうか。近くに寄って一枚いただいてよく見ると、'07~'08シーズン みやぎ蔵王えぼしスキー場 しろくま号(12月29日から3月9日まで土日祝日1往復運行。片道大人1300円。予約制)というものでした。マフラーしたクマ君がスノボーやっています。気にするほどでもないことだが、何で「しろくま」号なのだろう。ホッキョクグマが蔵王にいるハズもない。日立のエアコンじゃあるまいし(正確には「白くまくん」です)、行き先と連想できるイメージなら、何も無理せずに「えぼし号」とかで良いのじゃないか。一緒につり下げていた「好評運行中!高速バス山形蔵王←→仙台」は、特に愛称はないようです。そう言えば、都市間高速バスなどでは愛称が付けられるが、宮城交通のサイトから、愛称があるものを集めてみました。----------大阪・京都 フォレスト名古屋 青葉金沢 エトアール成田・千葉 ポーラスター青森 ブルーシティ八戸 うみねこ弘前 キャッスル秋田 仙秋盛岡 アーバン鶴岡・酒田 SSライナー・夕陽長野・松本 信州ライナー----------福島、郡山、本荘、大船渡、気仙沼、釜石・遠野、新宿などには付いていないようです。また、より近距離の高速バス(山形、上山、石巻、古川など)は愛称がありません。都市間バスの愛称の付け方を見ると、共同運行先との関係もあるのでしょうが、大都市との間の場合は仙台や北をイメージする名前を付け、東北地域内の場合は相手先の都市のイメージなのでしょう。念のため見てみましょう。名鉄バスのサイトには仙台便の愛称が出ていません。近鉄バスのサイトによると、仙台は「フォレスト号」とちゃんと出ています。山形行きの夜行バスもあるようで、「アルカディア号」。なるほど。郡山・福島「ギャラクシー号」 何でだろう。日立・いわき「シーガル号」 わかるけど、フラガール号とか。栃木・宇都宮「とちの木号」 ギョウザ号ではどうでしょ。つくば・水戸「よかっぺ号」 ちなみに、首都圏では、ツィンクル号(新宿)とかクリスタル・ライナー(甲府)とか、何か格好いいネーミングでした。でも、地域性を感じる東北・北関東のネーミングの方が面白い。ところで宮城交通バスに戻りますが、鶴岡・酒田のSSとは、何でしょう。庄内と仙台のことでしょうか。たぶん。今度は宮城交通と共同運行も多いJRバス東北を見てみました。キャッスル、アーバン、うみねこ、はもちろん出ています。宮交共同運行以外で見ると、次のようです。----------東京方面では 新宿-仙台「(ドリーム)政宗」 東京-泉中央・古川「ドリームササニシキ」 東京-本荘「ドリーム鳥海」 東京-盛岡「らくちん」(これだけ特異なネーミング) 東京-青森「ラ・フォーレ」 新宿-郡山・福島「あぶくま」仙台発着では、 横手・湯沢・大曲「グリーンライナー」 花巻温泉「けんじライナー」 新潟「WEライナー」(どういう意味?) 古川、米沢、江刺、福島などは特に愛称はないようです。さらに、盛岡発着で 弘前「ヨーデル」(何かシャレを狙っているか) 二戸「スーパー湯~遊」----------などという具合でした。
2008.01.21
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19日(土)のTV番組「るくなす」で紹介していた。ラーメン消費量日本一は山形。番組の内容はこんな感じだった。(イザという時にはメモをとるのが編集長です)----------ラーメン消費量日本一の都市は山形市。これは47都道府県の県庁所在地を対象にした「1世帯あたりの年間支出(外食)」(総務省家計調査2004年~2006年の平均)で「中華そば」の項目で上位3位までを山形市、仙台市、福島市という東北勢が占めている。特に山形市はダントツ。外食中華そば(1世帯当たりの年間支出)1位 山形市 13,897円2位 仙台市 10,767円3位 福島市 10,590円以下、4位宇都宮市、9位秋田市、10位盛岡市、11位青森市、など。全国平均5,483円。山形では「そば屋でラーメン」だそうだ。インタビューを受けた仙台の人は「そばはそば屋、ラーメンはラーメン屋だね」なのに、山形の人は「常識だね」。蕎麦處みねた、秋津そば、栄屋本店(冷やしラーメン発祥の地)、漆山寿々喜そば屋、そば処泰光(天童市)を紹介。佐藤屋では、明治37年に初代がラーメンを初めており(現在は4代目)、百年の歴史が息づく。一般には日本のラーメンは明治43年浅草の来来軒が最初とされるが、山形の歴史はもっと古い。三津屋本店も蕎麦で有名だが、昭和30年代は中華そばの名店だった。そば職人の手で育てられた、麺がうまいラーメン。それが山形のラーメンだ。ちなみに中華めんの購入量(つまり外食でなく家で食べるラーメン)でみると、1位 盛岡市、2位青森市、3位秋田市、6位仙台市、7位山形市。----------おだずまジャーナル的なネタ、しかもまとめも上手い。当編集局としては、先を越されて悔しいが(笑)、山形の麺職人の心と技はすばらしい。番組でも笹森さんが言っていたが、昔は外食店と言えば「そば屋」と「食堂」。たしかに、ラーメンという独立した外食分野なりラーメンを主とした売り出しは最近のことだ。山形のように熟達したそば文化の町なら、そば屋でそば職人がおいしい中華めんを手作りして出してくれたのも、自然だったのかも知れない。さぞかし美味しい中華めんに、和風のスープ。山形では良くそばを食べては美味いと思っている我が家だが、山形のラーメンも味わってみたい。ああ、麺の食文化の何とすばらしいことか。■関連する過去の記事(東北の麺と食文化関係) ○ 築館の西屋ラーメンさん(07年12月31日) ○ わんこそば 世界へ!(07年10月29日) ○激辛冷麺1分で完食とは!(07年4月30日) ○もりおか三大麺(06年11月18日) ○そば王国山形(06年11月17日) ○東北のめん類データを見る(06年11月14日)
2008.01.20
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来る3月卒業予定の昨年11月末現在の高校生の就職内定状況が、河北新報記事に出ていた。内定率(%)は次の通り。----------青森 69.0(前年同期比 + 5.0ポイント)岩手 79.2(+ 4.5)宮城 67.8(+ 2.8)秋田 79.7(+ 4.4)山形 80.3(+ 1.4)福島 80.4(+ 3.2)----------福島が高い。11月末時点としては過去10年間で最も高い。山形も9年ぶりに80%を越えた、ということだ。私はこのデータを見る時、いつも青森と宮城に注目てしまう。今回は青森が宮城を上回った。伸び率も大きく改善。同じ新聞記事にも書いていたが、県内求人倍率は宮城と山形が最高の1.39で、青森は東北で唯一なのだが1を割り込んで0.89である。内定状況がいつも低い青森と宮城だが、事情が随分違う。できるのにしない、と、したくてもできない、か。いつもステレオタイプですみません。マクロデータの比較はともかくとして、高卒予定者の皆さん、暗い世の中だけれど前を向いて明るく進もう。がんばろう東北。■関連する過去の記事 青森の就職内定状況が好調(07年11月20日) 高卒者就職内定状況が改善(07年3月10日) 福島県の高卒内定率が全国一(06年5月17日)
2008.01.19
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そしたら17日もまた記録更新だそうだ。連日の寒さで。宮城県内の1日の電力消費量が17日は5754万7千kwhで、連日の最高記録更新。17日は仙台はこの冬一番の寒さ。(NHKローカルニュースから)また、岩手県では17日が過去最高の3293万4千kwhで、昨年12月20日の記録を更新したそうだ。(岩手日報記事から)電力消費量データは電力会社しか発表できないだろうから、東北電力のホームページを拝見したら、ちゃんと出ていた(記事)。各県(支店)別は見あたらなかったが、エリア全体で、昨日17日は3億997万1千kwhと過去最高の電力量だそうだ。しかも、何と3日連続での記録更新、というすごさ!!■関連する過去の記事 電力消費量が最高(08年1月18日) 山形県で1日電力消費量が最大に(07年1月14日)
2008.01.18
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一昨日(16日)の宮城県内の一日の電力消費量が過去最高を記録した。この日の仙台市は強い寒気のせいで、一日の平均気温が0度5分と、寒かった。一日の県内の電力消費量は、5566万9千kwh。これまで最高は去年8月10日に記録した5510万6千kwhだが、これを上回る記録。■関連する過去の記事 山形県で1日電力消費量が最大に(07年1月14日)
2008.01.18
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言うまでもない阪神大震災の日だ。1月17日。思い出したのは、居間のカレンダーに子どもが書き込んでいたから。阪神大震災、5時47分に地震はきた、と。学校で習ったのだろうか。災害の教訓は、子ども達が最も直截にその意味を心に留めることができるのではないだろうか。6千の犠牲があった。人の社会が助け合い支え合いだというならば、いつ遭遇するかも知れない天災の記憶と教訓を、人々が共有し、そしてしっかり次代に引き継いでいくことが大切だ。命を守り合うことにまさる助け合いはあるまい。私も大災害に遭遇したことはない。しかし、先人の教えを知ることで、いざという時に備えることは、できる。例えば、明治三陸津波の教訓を代々受け継いできた三陸の町がある。地震の記憶を風化させまいと努める人がいる。そして、学校や施設で、避難の指導にあたる人たちがいる。家庭で、職場で、地域で。そして行政や報道は常にその心がけを先導し続けて欲しい。災害にあっても落とす命を落とさないよう。人類の知恵の成果を示そう。
2008.01.17
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ニュースを見てびっくりしまくっている。かつて十條製紙工場を擁する石巻の一市民だった私、思わず「何すや」(発音はナヌスヤ)と叫んでしまう。日本製紙の「環境偽装」。言葉もすさまじい。ふと机の脇に年賀ハガキがあって、変に実感も湧いてしまう。なんでそうなのか。悪いものは悪い。隠してきたのは悪質だ。長年にわたる社内ぐるみのようでもあるから、本当にひどい。さて、Kスタはどうなる。明日は宮城県でもコメントが出るのだろうか。
2008.01.16
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山形県によると、山形、庄内両空港の07年の利用状況は、東京便が好調で、特に山形空港は全体で11年ぶりに増加に転じた、ということです(山形新聞記事)。----------庄内空港では、東京便(一日4往復)の年間乗降客は前年比0.4%増の39万1967人。91年10月の開港以来、最高。搭乗率は機材繰りの関係で1ポイント減の63.9%だった。大阪便は前年比2.1%増の1万7228人。運航期間が7-8月に短縮され、既に路線廃止が決定している札幌便は、大幅減の9345人。全体としては1.4%減の41万8540人となった、とのこと。山形空港も、東京便(一日1往復)は前年比33.1%増の6万2983人と大幅に伸び、03年の復活以来最高を記録。06年4月のダイヤ改正でビジネス利用が落ち込む中、県は首都圏や羽田空港乗り継ぎで利便性が高い西日本方面への働き掛けを強化。その結果、東京便利用客のうち、団体客が52%を占め、“観光路線化”が利用者数の増加に結び付いたといえる。大阪、札幌、名古屋の各便は同2.9-4.9%の減少だった。全体としては、前年比5.4%増の20万6063人で、11年ぶりに増加に転じた。----------利用客減少傾向にあった山形空港の約5%増加が特筆されるように思います。団体観光利用が押し上げたようですが、ビジネス需要との関係で考えると、今後の地方空港のあり方を示唆しているように思います。■関連する過去の記事(空港関係) 福島空港を考える(07年3月29日) 山形空港の悩み(06年1月30日)
2008.01.16
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朝日新聞記事によると、大都市圏では私立中高一貫校で高校の募集停止(いわゆる完全中高一貫)が相次いでいるという。1都2県(千葉、神奈川)ではここ5年間に私立中学(中等教育含む)は定員を1000人増やし、私立高校は7000人以上減らした。愛知や関西も同様。6年一貫で進学実績を伸ばしたいという思惑と、高校からの入学組に対応して進度を変える手間を省くため、だという。少子化を背景に、優秀な生徒を囲い込む私立の流れが加速しているということだろう。相対的に数が多くなり生き残りが課題の女子校に特に目立つ。中堅進学校が公立の滑り止めを脱皮する狙いもあるそうだ。 1都3県(埼玉含む)では今春の中学入試は、5万2500人で、小学6年生の6人に1人が受ける見通しで、過去最高だった今年度をさらに若干上回るそうだ。県立千葉中の開設(県立千葉高校に併設)など公立の一貫校も増えており、公立を合わせると受験者は6万を超えるとも。こうした中学受験ブームも追い風になっている。 もっとも高校募集停止には問題もあって、似た境遇の生徒がずっと一緒のため社会性の欠如を心配する声もあるそうだ。------------ザッとこんな記事だった。東北の教育事情は首都圏などとはだいぶ異なるが、それでも中高一貫校の台頭の兆しは、あるように思う。ところで、中高一貫教育には、3つのタイプがある。(例示した学校のクラス数は1学年あたり)(1)中等教育学校(一つの学校で一体的に中高教育)。いわゆるミドルスクール。 東北を中心に例を挙げれば、 仙台育英学園秀光中等教育学校(私立、前期3クラス、後期2クラス) 新潟県立津南中等教育学校、群馬県立中央中等教育学校(2)併設型の中学校・高等学校 (高校入試を行わずに同一の設置者による中学と高校を接続) 例 宮城県立古川黎明中学校・高校(中学2クラス、高校6クラス) 青森山田中学校・高校(私立、中学2クラス、高校11クラス)(3)連携型の中学校・高等学校 (既存の中学校と高校が,教育課程の編成や教員・生徒間交流等の面で連携を深める。) 従来の私学の中・高併設タイプではなくて、近年主に公立中・高間で取り組まれるもの。 例 軽米高校・葛巻高校(岩手) 志津川高校(宮城)文部科学省のサイトには全国の取り組みが紹介されている(説明)。中等教育学校なる制度が我が国に導入されて10年近くになるが、制度改革による多様化としての機会提供という意味にとどまらず、教育の成果としても評価を受けつつあるようだ。東北では、中等教育学校としては仙台育英学園秀光(平成15年度、前期全学年9+後期全学年6クラス)。併設型では、私立で 青森山田中学校+高校(平成13年度、7+33) 弘前学院聖愛中学校+高校(平成18年度、4+18) 東日本国際大学附属昌平中学校+高校(平成12年度、3+18) 桜の聖母学院中学校+高校(平成18年度、6+13)公立では、青森県、宮城県、秋田県(2ペア)、秋田市、福島県が設置済み。----------青森県 県立三本木高校附属中学(平成19年度 学年2クラス)+三本木高校(全20)宮城県 県立古川黎明中学校(平成17年度 2)+古川黎明高校(6)秋田市 市立御所野学院中学校(平成12年度 4)+御所野学院高校(2)秋田県 県立横手清陵学院中学校(平成16年度 2)+横手清陵学院高校(設置母体校は県立横手工業高)(5)秋田県 県立大館国際情報学院中学校(平成17年度 2)+大館国際情報学院高校(設置母体校は県立大館商業高)(5)福島県 福島県立会津学鳳中学校(平成19年度 3)+会津学鳳高校(6)がある。----------さらに、平成20年度以降では、仙台市が東北初の公立中高一貫校を開設し(21年度)、また併設型は宮城県立(仙台市、仙台二女高を母体)、岩手県立(一関市、一関第一高を母体)で設置を予定している。私立では、岩手中学校・高校(21年度)。宮城県でいうと、古川黎明は今春に初の高校卒業生を輩出する。その進路状況が注目される。また、進学校として着実な大学合格実績を挙げている古川学園も中学校を開設予定で先日入試があった。古川学園中学校が上記の文部科学省サイトに出ていない理由は調べていないが、進学校に進めるというメリットは大きいだろう。初年度ということで倍率は高くなかったようだが、やがて人気が出るのではないだろうか。東北の中高一貫教育の成果と評価はこれからだが、見守っていきたい。
2008.01.15
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諸藩の財政改革が必要とされた基因は何か。凶作による減収や幕命による諸事業などの支出が圧迫したという個別の要因はあるだろうが、より根本的には米経済を建前としたシステムに経済の実態を反映していない矛盾があった。1 家康の統治システムと経済政策天下統一の地盤を受け継いだ家康は、きわめて巧妙な統治体制を完成させた。派手さや斬新さは見えないが、むしろ信長や秀吉の豪放で粗野な進め方に対して慎重に仕組を構築し、人心を従えた盤石の泰平実現システムをめざした。家康が重視したのは法治主義の徹底である。武家社会の基本法にはすでに鎌倉幕府による御成敗式目があり、戦国大名も領国ごとに分国法を敷いていたが、実力本位の戦国時代には法治も形骸化していた。そこで分国法を越えた天下の法度を定めた。一国一城令を初めとして、武家諸法度、禁中並公家諸法度を公布する。また、貨幣政策の確立にも努めた。中世には中国の永楽銭が通用していたが、家康は、銀座、金座などを設置し、幕府が鋳造権を握るとともに金一両を定位貨幣として、通貨事情を改善させた。経済面では、貫高、俵高が混在していた各地域の収穫高を石高制に統一した。家臣の知行も石高で示すことで、封建的階層性の俸給や役務など明確で公平な表現を可能にした。さらに石高制で農民の生産力も一元的に把握され、年貢の確保、増徴が可能となった。信長や秀吉が重商政策をとったのに比較して家康の経済政策は地味であるが、封建体制はもともと米経済に立脚したもので農本主義こそ基本であった。百姓は死なぬように生きぬように、と苛酷な農民収奪を行ったように思われがちだが、六公四民などが行われた戦国時代に比べると、四公六民という家康の税率は農民の生活と再生産を保証する善政と言えた。もっとも家康が商工業を軽視したわけではなく、鉱山を幕府直轄領に編入し、また朝鮮との関係を修復し、衰退した明との貿易の代わりに南蛮貿易の発展に意を用いた。秀吉の朱印船制度を継承し、やがて貿易を幕府直轄として利潤を独占した。2 幕藩体制の転換点江戸時代の前期は、政治哲学の実践を果たす藩主ら為政者が名君とされる余地があった。儒教の仁政をいかに実現するかなど、政治の論理で対処できる範囲がまだあったのだろう。しかし時代が下がると文治だけでは立ち行かなくなってくる。倹約令にとどまらず、上方豪商から借金をし、諸士から上納金を召し上げるなど、藩財政の窮乏が浮き彫りになってくる。幕府でも同様で、綱吉の元禄時代も好景気の恩恵を受けたのは商人であり、財政の赤字は目立っていった。元禄8年(1695年)幕府は貨幣改鋳に乗り出すが、改鋳とは実は改悪であり貨幣の品質を落として約五百両の出目(利益)を得るというものであり、これがためインフレが起こり、にせ金が横行する。この貨幣改鋳は安易ながら財政再建にもっとも安易に効果が出る手法であった。幕府や諸藩がこうも短期間に財政を悪化させたのはなぜか。主原因は国内の経済実態の地滑り的な変動である。江戸の武家支配層は領内の農作物を年貢として吸い上げて、それを金銭に換えて消費生活を行っていた。しかし、貨幣経済、商品経済が急速に成長し始めた。これらは、国自体の経済規模を拡大する自律性をもち、商品の供給量の増大と物価の上昇をうながす。それに対し、武家が依存する米経済は毎年の生産量がほぼ一定するから停滞性が強い。これにより、米経済と貨幣経済の格差はたちまち逆転し、幕府も諸藩も財政赤字に苦しむこととなった。(百瀬明治『名君と賢臣』講談社現代新書1313、1996年 4-06-149313-2 などから)■関連する過去の日記(藩政改革関係) 仙台藩の経済と財政を考える(2 仙台藩の歳入歳出)(08年1月3日) 秋田藩佐竹義和の改革(07年12月21日) 秋田藩佐竹義宣の改革を考える(07年12月19日) 上杉鷹山の知恵袋 竹俣当綱(07年1月17日) 仙台藩の経済と財政を考える(1 藩札)(06年7月25日)
2008.01.14
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暴走なまはげが女湯に乱入した事件。昨日のTVニュースで流していた。大晦日のこと、男鹿温泉郷周辺の町内会の青年ら数人がなまはげ行事で家々を訪問した後、午後8時半過ぎに旅館ロビーで勇壮な振る舞いを披露。ところが、1人のなまはげが女性浴場に入り込み、洗い場にいた複数の女性の体を触るわいせつな行為をしていた。温泉郷周辺の3町内会長らは今月8日、対応を協議し、問題を起こした町内会のなまはげの温泉郷への出入りを3年間禁止することなどを取り決めた。同市観光課は「観光文化都市としてなまはげを全国にPRしていただけに残念。再発防止に努めたい」と話している。(さきがけonTheWeb記事から)国の重要無形民俗文化財を地域の町内会が披露するのは大変結構なことだ。酒の勢いでサービス精神が行き過ぎたのだろうか。ほどほどにお願いします。
2008.01.13
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あまり地下鉄は使わないが、昨夜は疲れて地下鉄に乗ろうとホームで待っていた。なかなか来ない。すると駅員がメガホンを携えて何かしゃべっている。よく聞こえない。そばまで歩いていくと、人身事故か何かで電車は来ません、ということらしい。困ったものだ。仕方なく地上に這い出して徒歩で帰ったのだが、駅員さんに何やらキップをもらった。期限なく使えるのだという。地下鉄、有効と書いたシンプルなキップだが、よく見ると、20.-1.-1 とある。元日の混雑時用にストックしておいたのだろうか。そもそも元日はそんなに地下鉄が混むのか。何か良くわからないが、使えるというのは本当だろうから、何かの時に利用しよう。得した気分だが、こっちは最初に払ったのだからもちろん得してはいない。全線乗れるのなら別だけど、最低料金分と言われたような気がする。帰宅してニュース見ていたら、小沢代表が衆院本会議の採決をすっぽかしたのがどうとか流していたが、テロップで停まっていた仙台市地下鉄が動き出した、とか出ていた。そうか、あのまま待っていて乗った人もいたのだろうか。事情であきらめた人には、このキップを渡してくれた、と言うことか。もう12時近いのだから、あきらめた人も多かろうが。あまりない経験だったろう。
2008.01.12
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小さい頃は物事や概念を、対にして並べたり順番づけてみたりする変な癖があった。電化製品なら、ナショナル、ゼネラル、東芝というところだった。みんなはナショナルなら僕はゼネラル、というように思い入れを与えたりしていた。何の意味もないことだが。新聞に載っていたナショナルのマーク。大きな「N」の字体の中に丸いデザインのやつだ。懐かしい。広告のウラにいっしょうけんめい書いたものだ。そういえば、ゼネラルというブランドはどうなったのだろうか。富士通ゼネラルという会社があるが、これがその流れをくんでいるのか。
2008.01.12
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奥州市の黒石寺で行われる蘇民祭は、裸の男たちが争う奇祭だ。千年の伝統だという。今年のその祭りのポスターが、JRから掲示拒否されたという。 昨日の新聞記事でそのポスターを見たが、モノクロで男を強調しており、結構良い絵だと思った。JRが拒否した理由は不快感を与えるということだそうだが、人によってはそう思うのだろうか。私個人は、駅や電車で見ても、そんなに問題は感じないと思う。たしかに、ちょっと普通じゃないという感じは受けるが。 何か「お客様主義」にもとづく過剰反応なような気もする。また、「人間くさいもの」「雑なるもの」を忌避しがちな、最近の風潮に乗っているような気もする。 若い女性や、笑顔満面の子どもやお年寄りなど、ストーリーにはまったコギレイでお利口な人物像より、リアルな人間くささがあっても良いじゃないか。祭りには、非日常的なエネルギー発露の場という側面があるだろう。そんな面を、有る意味ストレートに表現して、それはそれで面白いポスターだと思ったのだけど。まあ、JRの対応を批判までするものではないが、コギレイなもの、ヴァーチャルなものが賛美優先されそうなご時世に、あえて泥臭い、汗くさいものを許容する度量があっていいじゃないか。ちょっと嫌だなとおもっても、それを切り捨てれば済むと思ってしまうことに、ほのかな危険すら感じる。
2008.01.10
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福岡市東区の3児死亡事故(06年8月)の地裁判決(8日)は、危険運転致死傷罪の適用(求刑懲役25年)を退けた。国民が注目した事件を引き起こした罪責に対して刑が軽いなどの批判はあるだろうが、背景には「危険運転」罪の立証のハードルの高さがある。また同罪の適用実務上生じてきたバラツキも指摘されている。 同罪をめぐる問題を考えてみた。 1 地裁判決について 検察側は、被告が事故前に泥酔状態だったと主張。現場直前の交差点を大きくふくらんで左折したこと、見通しの良い直線なのに12m前まで被害者の乗るRVに気づかなかったことなどを根拠に、「正常な運転が困難」であり、かつそれを認識していた、と主張した。危険運転致死傷罪と道交法違反(ひき逃げ等)の併合罪で処断刑の最上限の懲役25年を求刑。 弁護側は、飲酒量は争わなかったが、事故後の飲酒検知では酒気帯び程度だったことを指摘し、泥酔状態の証拠はないと反論。事故原因は脇見運転として業務上過失致死傷罪の適用を求めた。 昨年12月、結審後の裁判所が検察側に業務上過失致死傷罪などを予備的に追加するよう求め、危険運転罪の適用が見送られる可能性が高まっていた。 判決はまず、危険運転致死傷罪の要件である「正常な運転が困難な状態」とは、正常な運転ができない可能性がある状態でも足りず、道路や交通状況などに応じた運転操作を行うことが困難な心身の状態にあることを必要とすると解すべきである、とする。 その上で、右側の景色を眺める感じで脇見を始め、その後、前を振り向くと突然目の前に被害車両が現れたと供述する被告供述は、十分信用でき、被害車両を発見できなかった原因は脇見だったと認めるのが相当である。被告が被害車両を間近に迫るまで気付かなかったことについて説明できないことを前提に、正常な運転が困難な状態だったとする検察官主張は失当である。被告は事故前に相当量の飲酒をしたが、スナックを出た後から事故現場まで蛇行運転などはなく、衝突事故なども全く起こしていなかった。事故直前に車の速度を80~100キロに加速させたが、事故当時の道路・交通状況からみれば必ずしも異常とは言えない。しかも、事故の48分後の呼気検査で警察官は被告が酒気帯び状態(0.25mg/L)だったと判定したことからすれば、酒酔いの程度が相当大きかったと認定することはできない。被告がアルコールの影響により「正常な運転が困難な状態」だったと認めることはできない、とした。 判決は、危険運転致死傷罪の成立を否定。業務上過失致死傷と道交法違反(ひき逃げ等)の併合罪として、処断刑最大限の7年6月の実刑とした。 2 危険運転致死傷罪の構造と問題 危険運転致死傷罪(刑法208条の2)の構成要件を整理すると(やや簡略化)、(1)飲酒や薬物の摂取により正常運転困難な状態で走行(2)進行制御困難な高速度走行や進行制御技能なき走行(3)人車通行妨害の目的で、直前進入等人車に著しく接近し、かつ重大な交通の危険を生じさせる速度で運転(4)赤色信号を殊更に無視し、かつ重大な交通の危険を生じさせる速度で運転が原因の事故で死亡させた場合懲役1年以上20年以下(けがをさせた場合は同15年以下)となる。重い刑罰を科せるのは、過失犯である業過致死傷(211条)とは異なり「故意犯」であるためだ。 「故意」の認識対象は何かとなれば、当然、上記(1)から(4)の構成要件要素たる事実である。もっとも(3)の「目的」は目的犯一般についての議論はあるかも知れないが。さらに、そもそも客観的に「正常運転が困難」や「重大な交通の危険」が存在していたと言えるのかどうか、「殊更に」といえるかどうか、など語義上明確でない概念が導入されているために、実践的なハードル線引きが難しい事情があろう。3 危険運転罪の運用の実態 (毎日新聞記事などから整理) 全国での適用は年間380件(2006年)あるそうだ。 しかし、01年に同罪が成立した当初から、適用の困難さを懸念する声はあった。例えば「正常な運転が困難な状態」は明確な基準がなく、アルコール検知の数値や事故前の飲酒量、被告の様子などを積み重ね立証するしかない。ハードルが高い。検察も起訴には慎重な姿勢で臨んでいる。 同罪で起訴後、訴因を業過に変更したり予備的に追加した裁判例は、今回の福岡のケースも含め少なくとも11件(法務省まとめ)。1審で業過致死傷、2審で危険運転罪となり判断が分かれた例も2件ある。 愛知県春日井市で06年に起きた6人死傷事故では、検察が「殊更に」信号無視したとして起訴したが、一審名古屋地裁は「青信号と思いこんでいた可能性が排除できない」と業過致死傷罪を適用。しかし二審名古屋高裁は「信号を意に介さず進入した」と危険運転致死傷罪を適用(懲役18年)した。 要件の曖昧さや立証の困難が実務上問題だが、結果として「裁判官や地域によって判断が異なる事態」そのものも問題だといえるだろう。一つの方向として、立法政策的に解決していくことが考えられる。4 国民の規範意識について 3児死亡事故などを契機に昨年、交通罰則の強化が相次いだ。業過致死傷罪(懲役5年以下)に代わって自動車運転過失致死傷罪(同7年以下、刑法第211条第2項)が施行され、道交法も飲酒やひき逃げに対する罰則が引き上げられた。飲酒による死亡ひき逃げ事故の上限は懲役7年6月から15年となり、危険運転罪との溝もかなり改善された、とも言われる。 立法上の対応が進んでいると評価できるが、ここで重視すべきなのは規範を支える国民の法意識である。飲酒運転に対する非難の意識は近年急速に高まってきたと言える。 およそ実定法は国民一般の法意識に叶い、これに支えられて適用・執行されるべきである。特に刑罰法規は、国民社会の安全維持システムとして作用するために、国民の規範意識に叶ったものでなければならない。 最近では、事故という結果を生じないとしても、飲酒してハンドルを握る行為自体を戒める意識が広範に定着しつつあると思う。事故を起こさなければいい、という考え自体が危険である、そんな寛容なことでは悲劇は繰りかえす、危険犯としての「飲酒運転罪」を、軽くない法定刑を伴って立法することも視野に入れて刑罰法規システムで規制することもやむを得ない、という方向に動いているのではないだろうか。 5 附 : 朝日新聞社説の残念さ 最後に一言。読んで残念に思ったのは「朝日」の社説(9日)だ。 曰く、「これが危険運転致死傷罪の危険運転にあたらないというのは、普通の人の常識に反していないだろうか。」求刑と「判決との落差は大きい。」問題は「今回の事故が『危険運転』(中略)に当たるかどうかだった。」「事故の原因は脇見運転だ。それが危険運転ではないと判断した裁判所の論理だった。」重い刑罰を科す場合には慎重な運用が望まれるとしても、「今回のように大量に酒を飲んで『正常な運転』ができるとは、とても思えない。」「現に追突して大事故を起こしているのだ。(中略)警察官による検知が酒気帯びだったというのも、事故から1時間近くたってからのことだ。(中略)事故直後に検知していればどうだったのか。」「なにが危険運転にあたるのか。(中略)その際、国民の常識からかけはなれたものであってはならない。」 立法論としてならともかく、これだと正面から判決を批判してみせて、ハイ終わりというだけのものだ。もちろんマスコミの裁判批判じたいを否定するものではないが、判決批判だけで終わるというのは、大新聞の社説としてあまりに淋しいように思う。今回の事件では、正常な運転が困難かどうかの認定に微妙さを残した。おそらく裁判所も悩みがあったとは思われるが、良心に従って危険運転罪を構成しないと判断したのだ。それを裁判官と同次元に立って(つまり立証されるかされないかという平面において)賛否を論じるのは、それはそれで結構だが、裁判官の代わりに「朝日」が判決を書いたってしょうがない。むしろ、その微妙さを解説し、法規の問題点と立法論、飲酒運転に対する国民の法規範意識の推移、刑罰という抑制手段以外の手段や方策との関係、などを説明して欲しいところだ。裁判批判が悪いとは言わないが、何か大衆意識を駆り立てているつもりでもいるのか、単に「国民常識から離れてはならない。もっと重くさばかないと国民は納得しない」と言うだけで、それで何になるのか。実をいえば司法の独立は自由主義の大原則だから、多少の配慮はあって然るべきだ。「朝日」が考えているほど国民は単純ではない。「もっと重く裁くべき」という感情は私も抱くが、それはマスコミ自身の報道ぶりに寄った面もある。被告だって法治国家の国民であり、裁判官が心証を得ないのに罪を認めるようでは、そんな裁判システムでは国民みんなが困るのだ。そのことは普通の国民は冷静に理解するだろう。この裁判で裁判官が心証を得ないのはおかしい、と「朝日」が言うのはまさに報道の自由でいいけれど、大新聞としては視野が狭すぎる。「朝日」にはこういう悪い面がある。大衆意識や「お情け論」に物事を解消して見せて、何か体制批判や話題提起をしたつもりになっている。他紙を見た方がいい。例えば「読売」社説(9日)は、危険運転罪の壁の厚さを指摘しながらも、同罪の適否の微妙さや立証の困難もあわせて紹介して、飲酒運転追放の機運を高めるべきことを訴えている。その際に、国民の法意識が相当の厳罰を是認するようになったと今回の判決が指摘したことを引用した。社会の意識の流れを見据えて、裁判所の意図もくみ取って、世の中に提唱する、という姿勢だと言えるだろう。 これなら大新聞の論調として、まずはうなずける。 「毎日」社説(9日)も、今回の適用見送りは「法規定の弱点が露呈された結果でもある」とし、立証の困難と適用基準の曖昧さを指摘する。そして、曰く、「たとえ結果が重大でも、事故自体は過失によるものなのに、最長で30年もの懲役刑を科すことには、法律の専門家から殺人などの故意犯との量刑のバランスを欠く、といった批判が相次いでいた。施行後約6年が経過し、見直すべき時期を迎えたのかもしれない。」「飲酒運転撲滅の機運が高まる折、酒量や酔いの程度にかかわらず、酒を飲んで車を運転すること自体を、社会的、法的にさらに厳しく処断すべきでもある。危険運転罪適用の可否をめぐって量刑の不均衡が生じるのは、事故を起こすまでの飲酒運転が結果的に容認されているせいでもある。飲酒運転即犯罪という共通認識が広がれば、違反者をれっきとした故意犯として処罰することへの抵抗感も薄れるのではないか。」「危険運転罪の新設など厳罰化の動きは被害者対策として進められたが、もともと被害者や遺族の救済は刑罰のみによって達成できるものではない。経済的支援や再発防止策、精神面でのケアなどを充実させ、被害感情を少しでも和らげるために社会全体で努力と工夫を重ねなければならない。判決を機に、被害者対策のあり方も問い直すべきだ。」 と、慎重な論旨を展開している。立法論として解決せよとの趣旨かどうかちょっと微妙であるが、国民の規範意識を踏まえながら飲酒運転即厳罰という運用を定着させるべき、との主張は、現実論としても妥当な提案だ。また、現在生じている量刑のバラツキをなくすべきとの説明も説得的である。さらに、刑罰論以外の支援やケアについても言及した。内容の賛否の前に、社説として何を書くのかの姿勢(レベル)の点で「朝日」は稚拙さを露呈してしまった。残念だ。
2008.01.09
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昨夜TVを見ていて、変な言い方があった。アレおかしいな、というと、5年生の娘が、あ、「馬に乗馬する」みたいだね、と。おや反応が早い、学校で教わったのか。オレが子供の頃は「馬から落馬する」だったが。変わったような変わっていないような...
2008.01.09
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山形県河北町はスリッパ生産量日本一だそうだ。タオル、フォーク、メガネなど産地はあるが、わが東北に堂々スリッパ産地があるのは誇らしい。知らなかった私は恥ずかしい。河北町公式サイトの名物紹介にもしっかり出ている。雛とべに花の里。さくらんぼやそばと並んで、スリッパ! 全国生産量の4分の1というから何ともご立派だ。スリッパは西洋人が土足で上がるのを防ぐために日本で発明されたそうだ。私は家ではスリッパは履かない。面倒くさいし、歩きにくいし、それに却って摩擦で床が傷つくような気もする。一応玄関にはあるのだが、専ら学校の行事に出かける際に持参するものだ。それでも考えてみると、家庭用のフワフワのものから業務用のペラペラのものまで、スリッパも多様で奥が深い気がする。旅館などでは子ども用のかわいいのがあって、子ども達も喜ぶ。河北町の上記サイトにリンクされた企業のページには、おみやげ用として、壁掛け、状差し、メガネ入れなど。特産の紅花を活用しているのも、とても素晴らしいアイディアだと思った。
2008.01.08
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三閉伊一揆(三閉伊通一揆)は弘化から嘉永年間の藩政末期に起こり、農民側が勝利するという我が国民衆運動史上珍しいケースだ。盛岡藩は領内を33の「通り」に分けて統治し、このうち閉伊郡と九戸郡の一帯は、大槌通、宮古通、野田通の3つの通から成っていた。これらを三閉伊通と総称したことから、三閉伊(通)一揆と呼ばれる。1 弘化三閉伊一揆 天保7年(1836年)から翌年にかけて盛岡藩領北上川流域の各地で打ち壊しを伴う激しい一揆が続いた。藩は横沢兵庫を家老に抜擢して財政改革に乗り出す。商工鉱業の振興で増収を図る一方、天保14年(1843年)から五年間は一戸1貫800文の御用金を徴収する代わり他の御用金は課さないとした。ところが弘化4年(1847年)にこれに反して新たに御用金を課した。しかも、林業、鉱業、漁業、塩業などに豊かな三閉伊通に偏った賦課であったため、同年11月17日に野田通の各村から一揆が始まった。 一揆勢は20日には500余人となって大芦(田野畑村)に、さらに南下し乙茂、小本などを経て21日に小堀内(宮古市)まで進み、18日に田老村を出発した組と合流、一揆勢は千人を超えた。23日には二升石村(岩泉町)からスタートして野田通で仲間を集めた勢力とも合流。 一揆の頭取(最高指導者)は閉伊郡浜岩泉村切牛(田野畑村)の百姓で佐々木弥五兵衛。70歳近い高齢だが、肝が座り体も頑健で、小本の祖父(おど)と呼ばれた。既に天保の藩政改革の前から十数年にわたり領内を歩き村々のリーダー格の家に泊まっては一揆を説いて回ったという。三閉伊の人々が蜂起し合流したのは、弥五兵衛の事前調整による組織化のためだ。弥五兵衛はときに集団を先回りして村々に参加を呼びかけたと言われ、周到で計画的な行動力があった。 11月24日一揆勢は役人の阻止を突破し宮古通代官所のある宮古町に押し入る。ここで酒屋の若狭屋徳兵衛宅を打ち壊している。恨みのない隣家には手を出すななどと叫んで回る声があったとされ、統制がとれていたことを示すと思われる。若狭屋は門村(岩泉町)の山師佐藤儀助の出店で、嘉永の一揆は佐藤儀助にも押しかけているので、若狭屋に対する「恨み」とは鉱山事業に関わるトラブルのようだ。 27日に大槌通山田町に入った一揆勢は1万人を超える。29日代官所のある大槌町では1万6千に増加。大槌を出て南下した一揆勢は和山峠越え、笛吹峠越え、仙人峠越えの三手に分かれ、遠野町に向かう。遠野を目ざしたのは南部氏一門の南部弥六郎を通じて要求実現を図ろうとしたものである。一揆勢は仙台藩領への逃散を標榜していたのを遠野に進路変更したともされるが、弥五兵衛ら指導者はまず遠野南部氏に訴え、ダメなら仙台藩主に訴え、さらに失敗したら幕府に直訴するとの三段構えだったともされている。 一揆勢は12月4日までに遠野町の早瀬河原に集結。ここでは5千人ほど減って1万1千人。みぞれ降る寒さに遠野町が食事を供出したという。12月3日に盛岡から派遣された南部土佐の説得を拒否、弥五兵衛は4日、南部弥六郎の家老新田小十郎に25ヶ条の願書を提出。願書は、安家村(岩泉町)の農民俊作が書いた。願書の中心は三閉伊通の御用金約8千4百両の免除など。 意外にも南部土佐は御用金免除など12ヶ条は即座に受諾したため、5日に一揆勢は解散。 一揆勢が「横沢という沢の人を喰らう悪狼」と呼んだ藩家老横沢兵庫は免職され、藩主南部利済(としただ)も隠居せざるを得なかった。2 弘化三閉伊一揆のその後 弥五兵衛は解散直後の年の暮れから、早くも再決起に向けて村々を回って、一戸一文のカンパを募っていたという。弥五兵衛は藩の回答どおり実行されるか不安をもっていたといわれ、兼ねての三段階戦略からすれば次の段階に進んで要求実現を考えていたようである。 弘化5年(1848年)1月に果たして盛岡藩は約束を反古にする姿勢を示す。弥五兵衛は三閉伊に加えて遠野や北上川流域にもオルグ活動を広げ、藩により二子通の上根子村(花巻市)で逮捕され同年(嘉永元年に改元)6月15日盛岡で獄死する。斬首とも伝えられる。 してみると南部土佐の即決回答が、本藩に受け入れられなかったのか、或いは最初から騙して解散させた後に指導者をおびき出す作戦だったのかも知れない。 同じ嘉永元年(1848年)6月南部利義(としとも)が藩主となるが隠居した利済が実権を放さず、長男利義を一年で退位させ次男の利剛(としひさ)を藩主にするなど、院政を継続し、弘化一揆の領民の声を無視して御用金賦課を押しつけた。 安家村の俊作は嘉永元年10月に逮捕され、盛岡で投獄の後嘉永3年に北郡田名部通の牛滝(青森県下北郡佐井村)に流罪。3 嘉永三閉伊一揆 嘉永5年(1852年)三閉伊の百姓たちが仙台藩領に逃散する動きが始まる。同6年には盛岡藩が新たな御用金を村々に賦課。同年3月から4月に野田通や大槌通の村人が蜂起しかけたが、頭取である袰綿(ほろわた)村(岩泉町)の忠兵衛の急死で中断。5月19日野田通田野畑村の人々が決起。仙台領に手間取り(出稼ぎ)に行くとして参加者を募りながら進行した。 一揆勢はまず北に向かい野田の鉄山役所を打ち壊した後、内陸寄りに南下、26日に上田通の門村の佐藤儀助宅に押しかけ闘争資金5百両を貰い受ける。藩による鉄山事業関連の課役が領民の負担であったことを思わせる。 一揆勢は東進し、袰綿、岩泉、乙茂、小本と海岸部に出て南に転じる。小本村に入った28日には三千から四千に増加。29日には宮古町で佐藤儀助の出店だった商人刈谷勝兵衛宅を打ち壊す。6月2日に宮古を出る頃は1万人を数える。3日に大槌町に押し寄せたが、大槌通代官所の役人は全員逃走したという。 嘉永6年6月5日一揆勢は仙台藩境に近い釜石村に到着。大槌通の参加者を含めて総勢2万5千人。6日に指導者は参加者の約半分を帰村させ、約半数の勢力で越境し気仙郡唐丹村(釜石市唐丹町)に入る。 嘉永三閉伊一揆の中心的指導者は田野畑村の畠山太助とされる。しかし大集団をひとり太助だけが統率できたはずがなく、一揆勢は見事な指揮系統を整えていた。参加者は各村の頭取たちによる合議による作戦で、組織的に行動した。頭取集団は「小○」の大幟を掲げて、大旗本組、本陣組と呼ばれた。この指導部の周囲を、若者集団が警護に当たった。一揆勢は出身の村ごとにまとまり、それぞれの旗の下に進んだ。指揮命令が通りやすく、また不審者が紛れ込まないようにしたとされる。 参加者は叺(かます)(藁筵の袋)を背負って参加し、法螺貝の合図で出発したので、一揆のことを「貝吹き」や「叺背負い(かますしょい)」と呼んだ。 仙台藩領に入った一揆勢は、大綱三ヶ条なる仙台藩主宛願書と盛岡藩の政策の改善を求める四十九ヶ条の訴状を提出する。三ヶ条とは、藩主に南部利義を復帰させること、三閉伊を仙台藩領とすること、あるいは天領にすること。このように百姓が藩主を否定する要求を公然と掲げたのは一揆史上画期的なことである。 四十九ヶ条の訴状は、貢租納入方法の改善、御用金賦課への反対、金上侍制度の否定、など。 これを受けて唐丹村で両藩の交渉が行われ、盛岡藩は一揆勢の引渡を求め仙台藩は拒否。仙台藩としては、かつて天保8年に盛岡藩領からの越訴の百姓たちを引き渡した際に、盛岡藩が約束を破って頭取を処刑したことがあったためとされる。 おりしも嘉永6年6月のペリー来航で諸藩は警備兵の派遣を命ぜられ、仙台藩も千五百を派兵することになり仲介交渉どころではなくなる。一揆勢も大人数が留まる余力はなく、45人の代表を残して、三千人は帰村する。(仙台藩領に逃散した人数は当初一万数千から順次縮小していたことになる。)四十五人衆は畠山太助、栗林村(釜石市)の三浦命助などを含め、村々から代表を選んだ。一揆参加者は25日、三閉伊通惣百姓中の名で太助や命助らと契約を結び、もし代表者たちが命を落とせば年に十両づつ十年間遺族の養育費を渡す、などを約した。 7月になると盛岡藩も譲歩姿勢を示すが、実際には遠野の役銭取立所を再建し、南部弥六郎を要職から排除し、利済の院政下で領民負担増を進めようとしたため、三閉伊通の百姓は素早く行動し、7月8日遠野役銭取立所を打ち壊す。10日には仙台領の四十五人衆が故郷の各村に決起を呼びかける。12日に大槌通から250人が仙台領に逃散、18日には野田通で決起、宮古通と合わせ3千5百人が宮古に迫った。 盛岡藩は遂に発砲に踏み切り、一揆勢に死傷者を生じる。8月にかけて農民の不満は雫石通、五戸通、三戸通、沼宮内通、福岡通、田名部通にも及ぶ。 仙台藩も黙っておれなくなり、四十五人衆を気仙郡盛町に移し、さらに9月には仙台城下に移した。亡命指導部と南部領内の各村を断ち切ることで、南部の騒動を煽っているとの批判を避けようとしたと思われる。一方で仙台藩は幕府に報告する旨を盛岡藩に通告。動揺した盛岡藩は9月21日一揆勢の要求の多くを受諾。10月4日には負担増政策を進める石原汀と田鎖茂左衛門を罷免。翌日南部弥六郎を藩大老に復帰。さらに10月9日には一揆勢の残りの要求も受け入れた。 南部弥六郎は四十五人衆の身柄を引き取るため仙台城下に赴き、帰村を促すが、四十五人衆はさらに粘り、上納金は直納とすること、三閉伊の百姓の借金返済を30年の年賦とすること、一揆参加者を逮捕しないことなどを求める。南部弥六郎はほとんどを認め、一切咎めをしないとの安堵状を手渡す。30年年賦こそ認められなかったが、返済を督促しないよう貸し主に触れを出すと約束したので、一揆勢の全面勝利と言える。 そして南部弥六郎は約束を守った。一揆参加者に何の処罰もせず、俊作らも釈放され帰村。 他方で盛岡藩は藩役人二百数十名を処分。南部土佐、石原、田鎖のか、休職中の家老横沢兵庫なども含まれた。南部利済は幕府によって江戸下屋敷謹慎を命じられた。参考:伊藤孝博『東北ふしぎ探訪』無明舎出版、2007年
2008.01.07
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何とか6県全部を整理できました。いずれも聞き取りが中心と思われるので、数の比較に厳密な意味はないのですが、やはり塩釜様と竹駒様の両社が多いですね。ところで仙台の榴ヶ岡天満宮がCMの効果なのか6倍増、とありますが、何か受験生向けのCMでもあったのでしょうか。私もかつて近くに住んでいたので、懐かしいです。○青森県 31日~1月3日の県内初詣人出数(雑踏警備を行った9カ所の神社仏閣)合計は61万人で前年に比べて3万6千人減。1 善知鳥神社(青森市) 16万人(前年比1万人減)2 櫛引八幡宮(八戸市) 14万人(同1万人減)津軽地方では弘前市の最勝院が7万5千人(同5千人減)で最も多く、同市の岩木山神社が4万人、平川市の猿賀神社が3万5千人、弘前市の弘前八幡宮が3万人。(陸奥新報から。県警調べ。)○岩手県 正月三が日の初詣客数(主な寺社約20箇所)寺社の初もうで客は約90万人。前年より約10万人減少。大晦日から元旦にかけての大雪の影響。1 盛岡八幡宮 23万3千人(前年25万人)2 志和稲荷神社(紫波町)12万人(同13万人)3 中尊寺(平泉町) 11万3千人(同16万2千人)(朝日新聞から。県警調べ。)○宮城県 正月三が日の初詣客(52寺社)1 塩釜神社 44万3700人(去年より1万3200人増)2 竹駒神社 43万7000人(1万7000人増)3 大崎八幡宮 9万6500人(4500人減)4 東照宮 7万8200人(同1万2200人増)なお、榴ケ岡天満宮の人出は、昨年より5万人多い6万人と、6倍に急増。区画整理で付近にマンションが増え、テレビCMも盛んに流れた結果か。(NHKローカル、毎日新聞から。県警調べ。)○秋田県 正月三が日の神社(主な33神社)総人出数38万1千人。悪天候で過去5年最高の人出だった去年よりも2万9810人減少で、平年並み。1 太平山三吉神社(秋田市)10万1000人(去年より4000人減)2 彌高神社(秋田市千秋公園) 6万5000人(5000人減)3 護国神社(秋田市) 3万7500人(1800人減)4 土崎神明社(秋田市土崎港)2万7500人(同数)県北は大館神明社の1万2000人、県南は横手神明社の1万1000人がそれぞれ最多。(NHKローカル、さきがけウェブ、毎日新聞から。県警調べ。)○山形県 正月三が日の初詣客(人出5千人以上の26寺社)前年を約10万2000人下回る約89万1500人。悪天候が続いたため。とみられる。1 護国神社(山形市)13万5000人(昨年比5000人減)2 鳥海月山両所宮(山形市)10万人(増減なし)3 荘内神社(鶴岡市)7万人(同)4 亀岡文殊堂(高畠町)6万人(同3万人減)5 上杉神社(米沢市)5万5000人(同1000人減)今年1300年祭を迎える天童市の若松寺では昨年より1000人多い5500人、山形市の諏訪神社でも4万1000人(同1000人増)となった。(毎日新聞から。県警調べ。)○福島県 正月三が日の初詣数(主な50寺社)約110万4千人。会津地方以外は好天となり昨年より1万1000人増。1 開成山大神宮(郡山市) 約20万人(昨年同)2 伊佐須美神社(会津美里町)約18万人(1000人減)3 福島稲荷神社(福島市) 約9万人(福島民報、毎日新聞から。県警調べ。)■関連する過去の日記 県内では初詣に156万人(08年1月5日) 2007年東北の初詣でデータ(07年1月7日)
2008.01.06
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今年の正月三が日は、好天に恵まれ、昨年より5万5千人多い、延べ156万人あまりが初詣に参拝したそうだ。県民の大半はお参りしていることになる。参拝客の多い順に1 塩釜神社 44万3700人(去年より1万3200人増)2 竹駒神社 43万7000人(1万7000人増)3 大崎八幡宮 9万6500人(4500人減)など(NHKローカルから。県警調べ。)いや~、竹駒さんはいま一歩で、接戦でしたね。あまり意味はないですが。私は元旦8時頃に市内の近くの神社に、一人歩いてお参りして来ました。小さな社ですが由緒があります。上の娘が今年も正月から1週間合宿に出発するので、安全で楽しく過ごせるようにと出発前に参拝しました。その後、3日には上の子以外の家族でこれまた由緒ある大きな神社へ。去年もやりましたが、この後東北の参拝客数を整理してみたいと思います。■関連する過去の日記 2007年東北の初詣でデータ(07年1月7日)
2008.01.05
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各県の知事が4日の仕事始めの挨拶や訓示等で語ったことばを集めてみた。ちょっと手軽にNHK各ローカル局サイトから。本来なら全文をみてポイントを比較抽出したいところですが。○青森県(三村知事) いやおうなく押し寄せる急激な人口減少や地域格差の拡大などに対応していくためにも新たな価値や利益を生み出すシステムづくりに取り組んでいきたい。それを果たすためには職員1人1人が毎日の仕事を大切にし、やるべきことをやることが重要だ。○岩手県(拓増知事) 厳しい財政状況だが県民がふるさと岩手に誇りを持ち安心して暮らしていくことが出来るよう医療や福祉のセーフティーネットを充実させるとともに地域経済の活性化に重点を置いていきたい。強い使命感と挑戦する気持を持って希望に満ちた岩手の新しい時代を創造するため一緒にがんばりましょう。○宮城県(村井知事) 宮城県の景気は緩やかに回復しているが仙台以外は依然として厳しい状況だ。足腰の強い地域経済にしていくため、さらに企業集積を図り、人材の育成に取り組んでいく。平成28年度までに県内総生産10兆円を達成することを目標に企業誘致などを進めた結果、あすに希望が持てるようになってきた。この勢いを持続して行こう。また、子どもの学力向上のための基本計画の策定や、医師不足の解消に向けた対策、さらに宮城県沖地震に備えて地域の防災力の向上に取り組む。○秋田県(寺田知事) 7日に行われるそうだ。○山形県(斎藤知事) ことしはこれまでの改革から具体的な成果が現れる年にしたい。財政再建を押し進めたうえでその成果を示す年にしたい。また、農業共済組合の不正な水増し契約を県が放置した問題について組織の緩みが生み出した問題であり、互いの業務をチェックし合って県職員として高いプロ意識を持って仕事にあたってほしい。○福島県(知事) 厳しい財政状況のなか、自主財源をつくり、行財政改革を進めることで、福祉や地域医療を確保することが求められている。これまで以上に経営的な感覚を持って知恵を絞り、最小の経費で最大の効果を上げる政策をつくり出して欲しい。企業誘致や医師の確保、子育て支援といった、去年まいた種の芽を着実に育てて、福祉の向上にもつなげる一年にしたい。「野口英世アフリカ賞」や全国初の「声楽アンサンブルコンテスト」などの大きなイベントを活用しながら福島県の魅力を全国に発信していきたい。 (年頭記者会見で、来年猪苗代町で開かれるフリースタイルスキー世界選手権大会について)県内で初めて開かれる大規模な国際大会であり、今年のリハーサル大会と来年の本大会の成功に向け、支援していきたい。■関連する過去の記事 新年度の東北各県知事の訓示集(07年4月4日)
2008.01.04
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仙台藩の戊辰の戦乱を記した書物から、仙台藩の財政環境を学ぼうとしている。戊辰の混乱で悲哀の末路を迎えるが、この書物は、勤王佐幕の順逆論に終始することなく、藩政の経済基盤を考慮に入れ、この大藩の崩壊の過程を社会経済の視点から総合的に考究しようとするものだ。○橋本虎之介『仙台戊辰物語』歴史図書社、1980年 (『仙臺戊辰物語』昭和10年刊行の再刊)この書の中に、化政期の仙台藩の歳入歳出が記されている。前後の財政環境を踏まえながら記す。大藩の気風からか奢侈享楽の意識が染みついた仙台藩だが、天譴のごとく災害が続く。文化元年仙台城二の丸中奥の炎上、6年秋に蔵王山大爆発で阿武隈川の魚全滅、9年6月に旱害と七月に豪雨洪水、文政5年2月仙台大火(全焼五百余)、翌六年正月に全焼約二百戸、七年冬江戸上屋敷類焼、8年不作、など。藩の政治も、綱村吉村の中興期を経て、化政期27年間は藩主も夭折し、みるべき治績もないどころか上も下も遊楽驕奢の結果、必然的に藩の財政を加速度的に紊乱に導いた。他方で国際情勢との関係では、仙台藩は工藤平助(赤蝦夷風説考の著者)や林子平(海国兵談)を輩出し、海国日本に警鐘を打つ大きな貢献をしたが、結局この北辺の国際紛議から藩として多大の犠牲を払い財政難に拍車をかけることとなった。寛政11年幕府は松前氏の封地東蝦夷を直轄とし、津軽、南部両藩に出兵を命じ、次いで文化4年仙台藩に松前表の警固のため5百名の出兵を命じた。滞在中の食糧、武器調達に調練など、これは大変な騒ぎとなり、幕府の督促でさらに増兵を求められる。榴ヶ岡杉山台で調練を積み、文化5年、択捉国後に1,220人、次いで箱館備えの800人が進発。これら派遣兵は年内に無事帰藩するが、莫大な出兵費を捻出すべく、封内の農民に向こう5カ年で1万5千両の上納を命じ、藩士一統5年賦の貸上金を命じて、急場をしのいだ。更に領内の沿岸警備についても寛政以来度々幕府から防備を令達され、財政難からお茶を濁していたところが、文化5年に南部領田名部にロシア船が来訪したこともあり、牡鹿から気仙まで40箇所に備え組(平均150人ほど)を置いた。蝦夷出兵費ほど莫大ではないが、年々支出するため、後の安政の北海道再警備とともに藩治に過重な錘となった。化政期の財政状態はどうか。百万石の実高のうち60万石相当は他藩に比して多い家臣の知行高にとられるため、差し引き40万石内外の蔵入しかない。それに、独特の藩直営の米管理専売制である買米制度も凶作や相場下落で脅かされた。幕府からは毎年諸役を仰せつけられ、参勤交代も藩格から金がかかる。やむを得ず豪農富商には上納米御用金を仰せつけ、藩士には貸上金を命じたが、それでも常に不足し、大坂などの大商人から度々借財をした。最高職である首班奉行(執政)や、出入司(財用方総司として正保元年から設置)の苦労も並大抵ではなかった。5代吉村でやや立て直した財政は、続く宝暦、天明の飢饉、幕府の国役などによって百万両程度の借金ができ、遂に寛政2年には、向こう10年間15万石の格式で諸事節約を命じた。翌3年と4年は大豊作で江戸の米相場高直で50万両の大利潤を挙げて、享和3年までの借金もだいたい片付いた。ところが、文化元年また米価下落、その上に上記の蝦夷地警備と海岸防備に諸災厄で、臨時出費がかさみ、文化9年には40万両程が借財となって残った。文化5年の家臣貸上金、7年の節倹令などで打開を図る。文化9年、あまりの滞借ぶりに蔵元升屋平右衛門もさすがに融通を渋りだした。出入司が大坂に赴き七重の膝を八重に折って頼み入り、向こう3年に必ず返済を約してひとまず落着。しかし、幕府下命の日光山本房修営の融通などで文化14年までに新借財も36万両に達し、再び財用方が上坂し、諒解運動。ようやく20万両だけは30年賦償還、残る15万余両は5カ年で返済することで協約が成立。大藩の信用も地に落ちた感があった。片倉小十郎村典(村嗣)の財政意見書(文化12年10月)によると、当時の御領内惣高101万721石余。これより知行高57万9693石余及び支藩一ノ関田村侯分を差し引いた残りが、御蔵入高39万9450石余となるが、これから四公六民による百姓作得米を控除し、物成(年貢)御蔵入高をはじめ御家中召上金穀、御分領諸役運上、幼少長病役、御塩方利潤、江州常州總州物成等を合計し、経常収入は、米7万94万石余、大豆4467石余、金5万5321両。これに対し歳出は、玄米扶持、切米金穀として微禄者への給与が米4万7357石余、金1万2450両余、役料が米1227石、金2200両余。差し引き残りの米2万1710石余、大豆4467石余、金4万658両をもって、国元を初め江戸京大坂の三都経常費に充てねばならぬ勘定だ。この経費見込みが、米1万1830石、大豆380石、金7万7640両とあるので、結局これを控除すると、米では僅かに9880石余、大豆4080石しか余らず、金では3万6980両余を不足する。米大豆を見積もり換算して1万6、7千両を除くと、概算2万両、というのが歳入不足となる。しかし、この数字は経常費予算であり、臨時支出や借金返済を含んでいない。片倉村典もこれを認め、買米の利益では歳入欠陥の補填も難しく、さらに旧債の利息にも追いつかない。毎年借財が増加して最早愚慮も及ばない、と敏腕の国老も弱音を吐く。その上で、寛政2年の格式下げの破綻財政に「障子一重と申す御時節」と記している。この財政不如意の折、豪華を極めた藩主の参勤交代も極力緊縮し、文化12年2月の参府の際は儀衛の半分を減らしたと記録されている。次いで齊義、齊邦の文政年間も同断で、先代の借金の上に、二度にわたる関東諸川修治命で20万両に近い工費を費やし、財用はますます逼迫した。文政6年から10年頃までの予算概説書も二、三あるが、この年代も経常歳出入で以前1万両ないし2万両の歳入不足を生じ、その他の欠陥を加えると経理難となり、買い米利潤にも頼れず、借金に頼った点は同じ。当時の江戸の風評では三百諸侯で勝手元の行き届いているのは、仙台様を初め、細川、土佐、阿波、丹羽、上杉の諸大名とされた。薩摩は屈指に漏れたという。しかしその実は上記のような困窮財政であった。藩の御菓子司の大町一丁目明石屋惣左衛門が文政4年に藩に出した文書では、数十年前の菓子代まで滞借したらしく、明石屋がいくらでも良いから枉げて支払って貰いたいと出願している始末だ。歴代藩主が将軍に献上した自慢の塩瀬饅頭だが、仙台藩の内情を示すエピソードである。■関連する過去の日記(藩政改革関係) 秋田藩佐竹義和の改革(07年12月21日) 秋田藩佐竹義宣の改革を考える(07年12月19日) 上杉鷹山の知恵袋 竹俣当綱(07年1月17日) 仙台藩の経済と財政を考える(1 藩札)(06年7月25日)
2008.01.03
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昨日も今日も仕事のため結果をニュースで見ただけだが、全国高校サッカーは宮城代表の宮城県工業も岩手の遠野も勝ったそうだ。宮城工(県工)は鹿児島実業に3-0で勝利。相手の名前だけ見ると信じられないスコア、しかも零封の爆勝だ。前評判も試合状況もわからないから、取り急ぎ新聞記事でどれくらいスゴイのか確認しよう。南日本新聞(鹿児島)のサイトには現時点で速報も解説も出ていない。スポーツ新聞の記事を眺めると、鹿実の初戦敗退は5年ぶりで、過去の優勝や準優勝など華麗な経歴に改めて目を奪われる。また、産経の記事では、「鹿実はまさかの完敗」の見出しを掲げ、優勝候補ともされた同校の敗退を報じている。相手には申し訳ないが、こんな勝利は東北人としてとても嬉しい。私は宮城県大会の決勝をTVで見たが、惜しくもPK戦で敗れた利府高の分も県工には頑張って欲しい。これで大波に乗って行けるだけ行って欲しい。かたや昨年の見事な全国制覇を飾った盛岡商業を破っての代表となった遠野は、江の川に苦戦の末、後半ロスタイム得点で1-0でベスト16に。宮城工の勝利と異なり、突破はおそらく順当だろうが、苦戦でむしろ緒を締めて自分たちのサッカーを展開してもらえれば、と思う。東北勢では青森山田が1-2で惜敗したのは残念。残る優勝候補は、青森山田を下した作陽、藤枝東、東福岡、流通経済大柏などだそうだが、遠野、宮城工も名前を全国にとどろかせてみたい。明日(3日)に、遠野は近大和歌山と、宮城工は三鷹(東京B)と対戦だ。行け行け、何も恐れず、行け。
2008.01.02
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なかよし亭が開店しました。年末にわが家の中にできた店舗?です。下の娘がクリスマスにもらった一輪車が入っていた段ボール箱を活用して、姉妹で作ったようです。ちゃんとイメージキャラクターも決まっています。インターホンを押して用件を伝えるようですが、それにしても何の店なのでしょうか。よくわかりません。
2008.01.02
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皆さん明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。今日(1日)の河北新報朝刊には、今季Aクラスを目ざす東北楽天の年男(としおとこ)が5人紹介されている。アレッと思ったのが、朝井投手が24歳になっている... そうか朝井は1月1日生まれなのだ。おめでとう~! 今年の意気込みは1年間ローテ守ることと2桁勝利。そうそう、大いに期待しています。イーグルス投手陣のカギは何といっても岩隈と一場の完全復活。この2人が計算できれば、本当にありがたい。当然柱になるだけの力を持っている投手だ。そして、朝井の躍進、田中の成長、それに永井、長谷部、片山など若手がグングン活躍してくれれば、夢がふくらむ。朝井投手は、キャップをはずして頭の汗を拭く、高校球児のようなさわやかさが良い。07年は幅も広がって頼もしさが増した。今年は大いに楽しみだ。ところで、この記事だが、永井、朝井、横川、嶋、沖原の「5人の日本人選手が」年男、という。とすると、外国人選手にもネズミ年生まれがいるのだろうか。早速ポケットガイド2007を開いてみる。1984年、1972年が該当年だ。いました。リック・ショートさん。1972年12月6日生まれ。イーグルスになくてはならない、青い目のサムライ、リックさんです。1億円で更改とのことですが、打って欲しい場面で打ってくれるのがリック。来季は優勝を目ざすと意気込みを話してくれた。いっしょに頂点をめざそう。というわけで、2008年頑張れイーグルス!
2008.01.01
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