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弘前の禅輪街の一画、長勝寺から1.2軒いったところでしょうか、今回紹介する寺院が門戸を開いています。津軽八十八霊場の五十一番札所:桜庭山 陽光院です。ここには西目屋の岩窟に祀られていた通称”花咲松の観音”と呼ばれる千手観音像が収められています。行基菩薩が刻んだとする尊像は、一度は清水観音堂に遷され、そして最後はこの陽光院に遷され今に至ります。なんとも変遷を繰り返した観音か、なかなか波乱万丈です。津軽八十八霊場五十一番札所:桜庭山 陽光院寺門前に着くと、まず気になるのが清水観世音と刻まれた社号標です。花咲松の観音は、清水観音堂に収められていたこともあり、”清水観音”という別称も有るんです。門をくぐると地蔵堂と共に准胝観音の様な石碑が置かれています。花も供えられており、大事にされているようです。こちらは津軽三十三観音霊場の写しで、禅輪街の寺院それぞれに1つづつ置かれています。禅輪街の三十三ヶ寺をまわることで、津軽三十三観音霊場を巡礼したのと同じ効果を得られるものとされていそうです。ちなみにこれは五番札所。その隣には西国三十三観音霊場・四国八十八ヶ所霊場の砂踏み碑が置かれています。本堂が見えてきました。周囲に他の寺院が並んでいるからか、屋根の横幅は控えめです。近代的でありながらも、随所に歴史を感じさせる意匠が施されており、見ごたえがありましたご由緒です。桜庭山 陽光院曹洞宗 蟠瀧山隣松寺末寺開山:行基菩薩 陽光寺は山号を桜庭山という。西目屋高森に坂上田村麿将軍が京都から運んできた清水観世音をまつったのが開基とされ、僧行基が巡国の際に観音をおまいりしたといわれている。その後、桜庭村(弘前市東目屋桜庭)の清水へ移された。 桜庭は津軽為信が津軽統一のころ、その旗下の武将桜庭太郎左衛門信正の領地だった。桜庭太郎左衛門は、大浦為則の代に南部から来て、桜庭の地を与えられていたが、為信が石川城の南部高信を攻めたとき戦功があったので、為信から一字をもらって信正と名乗った。 慶長5年(1600年)為信が大垣の合戦に参加した際、桜庭氏は長男左衛門次郎正次とともに出陣したが、この合戦で左衛門次郎正次は18歳の若さで戦死した。そこで父太郎左衛門は、わが子追福のために領地桜庭の観音へ私田を寄付し、正次の法名を「桜庭院殿忠山道義大居士」とした。 太郎左衛門信正が慶長15年(1610年)に死亡したとき、その遺がいをこの庵寺へ埋葬。やがて後継ぎの太郎左衛門信光が庵を改めて寺院とし、父の法名「陽光院殿信正良勇大居士」にちなんで桜庭山陽光院と号した。同年、藩命によっていまの茂森禅林街へ移されたが、清水観世音の本尊だった千手観音もその時一緒に移されたという。 陽光院には面白い話が伝わっている。二世輝陽和尚は摂州(大阪地方)の人で非常に博学多才だった。住職のかたわら寺子屋を開いて、村人に読み書きを教えたり、養蚕もすすめた。 摂州では農村で古くからワラで作った「ヨコダナ」(バッグの一種)を背負って歩く風習があった。輝陽和尚はこのヨコダナのつくり方を目屋の人たちにも教えたところ、当時としては大変ハイカラなものであり、また便利だったのでたちまち流行した。 そのころ、日屋方面の人たちがヨコダナに山菜を入れて城下町弘前へやってくると木戸口に役人がいていちいち人別した。役人は「お前の檀那寺はどこだ?」と必ず聞いた。ところが、無知な村民たちは難しい山号寺号を知らないので、背負っているヨコダナを指して「これを教えだ和尚さまの寺だ」と答えた。それで、いつの間にかヨコダナが陽光院の代名詞となり、いまでもこの寺を「ヨコダナ」と呼ぶ人がいる。・・・。つがるのお寺さん 下巻 42.43ページ より引用扁額です。力強い字ですねぇ!本堂中央には、かなり古めかしい釈迦三尊が鎮座しており、歴史ある寺院である事を示していました。禅輪街に集められた寺院はいづれも曹洞宗の古刹であり、面白い由緒を持っているんです。御堂左側には何体もの千手観音像と共に立派な祠が鎮座しています。おそらくここに花咲き松の観音が収められているんでしょう。御開帳は年1回、9月17日だけとされています。いまだにお姿を見たことがなく、いつか見たいと思っているんですが・・・今年は平日・・・。運命は残酷です斜めから。津軽三十三観音霊場二番札所の朱印所にもなっている寺院でしたが、おもしろい由緒をもつ観音像を擁していました。松に花を咲かせたという霊験が伝わっており、その姿をいつか直に拝んでみたいもんです。今回も非常に面白い寺院で、かなり満喫できました!御詠歌みやこより はるばるここにきよみずの ながれにうかぶ のりのつきかげ札所本尊:岩谷観音(千手観音) सहस्रभुज以前貰った御朱印です。今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・五十二番札所:観音山 普門院 杉鬱蒼と繁るお山の観音堂
2025年06月12日
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青森の南西、入内集落から更に山の方に進みます。舗装道も途切れ、道は段々とオフロードへと切り替わっていきます。こんな山奥に本当に神社が有るんでしょうか?神社の前に熊を先に見つけてしまいそうで、だんだんと不安になってきましたが、道の脇に鳥居を見つけました。この鳥居は滝へと続く鳥居なんですが、この鳥居から神社へは数分で到着。やっとこさ山奥の謎に包まれた神社に到着です。2024.8.4石神神社長い山道の突き当りに境内が広がっていました。境内には小祠が幾つかあり、先にそちらを紹介したいと思います。境内入り口に鎮座しているこちらは、大地主八代龍神大神を祀る祠です。この地の鎮守として八代龍王を祀っているんでしょうか。先ほどの祠から少々離れたところに清水が湧いております。その脇にも小祠が置かれ、祭神は薬師様だそうです。おそらく薬師如来と言うよりは、少名彦神だと思われます。それでは石神神社の方も見ていきましょう。神明鳥居がいくつも並んでおり、その先に社殿が鎮座しています。参道脇には境内の地図が置かれていました。思っていたよりもずっと境内は広いようです。周辺の山中に様々な神格が祀られていることが分かりますね。神社名から推察されるように、この神格たちの御神体は自然岩です。この様な自然岩を神格として祀るというのは、修験にも通ずるものがあり、非常に興味深いです。今回は気力がもたず、石神神社だけ参拝しましたが、いつかはこれらも廻ってみたいです。ここは本当に本当に山奥ですので、熊とのエンカウントには細心の注意を払わなければなりません。ご由緒書きもありました。入内の石神神社 藩政時代、「石神様」としてその霊験が広く喧伝された。日月輪の自然石から湧き出る清水が難病や眼病治癒に効果があったという。大祭の陰暦6月16日前後は、参詣する人が後を断つことがなかった。杉の大樹はそのことを物語っている。 草創年月は不詳であるが、霊泉の発見者は、眼病を煩っていた小館村(現青森市)の弥十郎という人であると伝えられている。明治初年、神仏混淆禁止のとき、神社の形体が未整*の理由から信仰を禁止させられた。 しかし、霊泉を求める人が多く祈祷所を願い出たが、明治5年(1872年)、県庁から「愚民を惑わす妖言」として不許可になった。その後、自然石の破壊も試みられたという。明治38年(1905年)、三上東満によって再開発され、以後、小野林之助・成田嘉七に継承され聖地として整えられた。祭神は天照皇大神・月夜見大神・大山祇大神、例祭日は陰暦の4月・6月・9月の16日である。日輪・月輪を司る2柱の神格と、諸山を統べる神格を祭神としている神社です。眼病に効く霊泉ともども崇敬は相当のものだったようですが、純然たる神社とは言い難く、そのためか明治期の神仏分離の際には大打撃を受けたようです。県庁からも酷い言われようですが、後に再び隆盛して現在に至ります。因みに山中に祀られる神格は津軽と関わりのあるものが多いのも面白いです。先ほどの地図で見てみると、十和田大神・大星大神・御志羅様・岩木大神などを見つけることができます。十和田神社や大星神社、岩木山神社などの神格を一挙に拝める、神社版の写し霊場といったところでしょうか。面白いですねそれでは先に進みましょう。置くに行くほど鳥居が古くなっていっているように見えました。参道はそれなりに長く、苔に注意しながら登ります。登っていくと山の中腹?斜面の開けた所に社殿が鎮座していました。造りはシンプルですが、山中にこの規模の社殿が有るとは・・・驚きです。扁額には石神大神とあります。社殿内はこんな感じです。中央・右・左それぞれに幣が置かれ、先ほどの神格たちが祀られているんだと思われます。そして面白いことに、この社殿には本殿がありません。その代わり拝殿裏手には、奇妙な形の自然岩が置かれています。奇岩を眺めてみます。岩の一部が浸食によって丸く削れています。向かって右が天照皇大神、左が月読大神として祀られているようです。なぜこの二か所だけがキレイに削れているんでしょうか?なんとも不思議な御神体です。更に先へと道が続いていましたが、またの機会にしたいと思います。続いて御鈴滝の方を見ていきます。こちらも入り口には鳥居が建っていました。さらにスズメバチも盛んに飛んでおり、注意が必要です。鳥居をくぐってすぐ脇には、小堂が置かれており内部には石仏が置かれていました。そのすぐ隣にも小祠です。祭神は不明。小祠の隣には文殊菩薩の石仏です。この時点で大分神仏混淆の要素が見られますね。参道を行くと分かれ道に突き当たります。右に行くと婦人に縁ある神格とされる淡島明神や、月待の1柱二十三夜神が祀られているようです。左には御鈴の滝へ通じています。今回は右の道から先に参拝しました。5分くらい山路を進むと淡島明神に到着です。こちらも漏れなく自然岩が御神体です。こうした巨岩・奇岩は分かりやすい祈りの対象として、人間の力の外にある自然の示現として、様々な場所で御神体となっています。更に先には二十三夜大神が鎮座しているんでしょうが、今回は深入りしません。ここまでにして、次は御鈴の滝に進みましょう。着きました、御鈴の滝です。断崖から幾筋かの水が零れ落ち、荘厳な滝へと変じています。近くには國常立神と書かれた石柱が建っており、滝の手前の巨岩を神体としているのか、滝自体が神体となっているのかは不明ですが、信仰の場であることに変わりはありません。真夏の参拝にも関わらず、この滝の周囲は涼やかで、ここに至るまでの苦難は全て報われました。青森の山中、当に秘境の地に鎮座する巨岩信仰の霊場は、今も変わらず崇敬を集めていました。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年07月23日
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三月に八戸へ引っ越したことを期に、予てより気になっていた奥州南部糠部三十三観音巡りを始めました。最初は期待たっぷりで上機嫌で巡っていましたが、「あれ、どこにも判がないぞ・・・」という札所がちらほら。周辺の方へ聞き込みするも、判は町内会で持ち回り制で管理していたり、お堂の管理者の方が持っていたりと、御朱印全揃えでの結願に暗雲が立ち込めていました。かつての期待はどこへやら・・・。だんだんとモチベーションも下がっていたのですが、先週の土曜日にその状況が一変。一筋の光明が差しました。 十八番札所の作和外手洗観音を訪れた時に、たまたまお堂の管理者の方とお会いし、意気投合!来月の御朱印巡りツアーに参加させてもらえることになりました。みちのりトラベル東北が企画・実施するこのツアーでは、全札所の御朱印を貰えるように手配されている他、先達さんによる札所解説、結願証の発行など至れり尽くせりの内容でした。 管理者の方とお話しして分かったのですが、奥州南部糠信三十三観音の札所の多くが、このツアー以外ではほとんどお堂を開くことはないそうです。このまま個人で巡ろうとしていたら、おそらく痛い目を見ていたでしょう・・・。 ツアーを楽しみにして過ごしていきたいと思います。2024.4.21自分のリサーチ不足でした。御朱印の授与所について詳しく説明してくださっているサイトが有ります。ちょうず堂 霊場案内http://www.cyouzu.com/custom4.html
2024年04月15日
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丁度1年前の頃、僕は2度目の福島出張の真っただ中でした。その現場は2度目ということもあり、そこまで仕事で苦はありませんでした。そうやって心にも余裕が出ると、ついつい遠くへ足を伸ばしてしまうんですよね!この日は夜明け前に拠点を出発し、ひたすら南下。日の出から数十分といった頃合いにひたちなか市に到達。そこからは太平洋沿いを進み、大洗町へ赴きました。以前茨城の友人と東国三社巡りをした折、大洗磯前神社という古社があると聞き、とても気になっていました。その時は鳥居を見て終わったんですが、今回は参拝まで、しっかりと。・・・境内・社殿、素晴らしいです。・・・神磯の鳥居、感激物です荒く削られた岩礁に小さな鳥居が建てられ、時折白波に撫でられ、飛び散るうしおが陽光を受けて輝きます。美しい・・・この一言に尽きますね、ホント。その後はそのまま太平洋沿岸を北上。大洗から福島いわきの蟹洗を目指してひた走ります。その時に立ち寄ったのが水木町。ここには延喜式内社の泉神社が鎮座しており、街中に在りながらも古来よりの姿を留めているという珍しい神社でした。ほくほくした気持ちで境内を後にし、近くの大甕神社を目指すことにします。大甕神社余りにも長い導入、読んでいただきありがとうございます。これだけ長いのは、この日のことがとても印象的で心に残っているからです。大甕神社の存在は以前から知っていたんですが、1回目の福島出張の時はまわる時間が取れず、断念していました。青森に帰ってからも食い入るようにグーグルマップの写真をスワイプ、凝視、スワイプ、凝視・・・といった具合に、かなりこころ引かれていたんです。大甕神社は特に延喜式内社では無いんですが、武甕槌神・経津主神2柱による東国征伐にまつわる神話が伝わっており、物語的にも激アツのスポット。ここをまわらず青森に帰られようか・・・強い信念を心に据え、今回念願の参拝を果たしました。境内の入口は2つあります。社務所に近い参道と、拝殿に近い参道です。今から見るのは社務所に近い方で、こちらには立派な鳥居と随神門。かなりの見ごたえですよねぇ!うわー!うわーーー!うわー!ただただ奇声を発する事しか出来ません。なんですかこの随神門は・・・美しすぎますよ。そしてすぐ脇には社務所。実は拝殿よりも大きく立派な社殿となっています。社務所から見える所に今回の目玉といって差し支えない社が鎮座しています。決して大きな社殿では無いんですが、どことなく存在感がある気がします。社には扁額が下がり、そこに刻まれている神格名は”甕星香香背男(みかほしかがせお)”、伝説上は武甕槌神・経津主神でさえも服従させられなかった程、武に秀でた荒神だったそうです。説明書きも見てみましょう。我国最強神 甕星香香背男大神 大甕と称する磐座は宿魂石と言い、日本神話に登場する我国最強の神 甕星香香背男が祀られている。我国最古の歴史書「日本書紀」に天照大神が鹿島・香取の武神命じて、服はぬ神々草木石類に至るまで、国中を平定したが、勇猛果敢に戦う甕星香香背男を征服することができなかったとあります。 一説によれば、大和朝廷の支配に抵抗した最強の「蝦夷の酋長」を神格化したとも伝わります。ふむ、この社は遥拝所と言う事でしょう。この背後に丘があって、その頂上に宿魂石という御神体があるみたいです。それは後から見るにして、今はこの甕星香香背男大神について考えてみましょう。一般的には流星の神格化と言われている甕星香香背男大神ですが、その根拠は神格名にあるようです。名前の”甕星”という部分、別称の”天ッ甕星”から、明らかに星の神格であることは明白です。そして天体の規則に従わない荒ぶる星といえば流星・・・という風にイメージされたのかも。蝦夷の酋長というよりは、何か隕石衝突などの自然現象をモチーフにしている様に思うんですが・・・どうなんでしょ。悶々と考えつつ、境内を更に進みます。このまま進むと社殿の方に出るんですが、その道の脇には様々な末社などがありますよ。数ある石碑や祠に混ざって、なぜか鶏がおりました。尾羽が長く奇麗なカラーリングをしています。そして末社:天満神社。祭神は菅原道真公。更に隣の神輿舎の神輿。まだまだあります。末社:八坂神社。祭神は素戔嗚神。宿魂石と刻まれた石碑と共にあるのは大杉神社。稲敷市に鎮座する古社で、こちらも茨城県を代表するような有名神社です。こんなのもあります。白蛇塚、白い石で囲われていました。白蛇というと弁財天の使いの宇賀神が思い浮かびますが何か関係があるんでしょうか。これで最後、末社:稲荷神社です。白狐の石像が祠を飾ります。oh~、やっとこさ社殿に着きましたね。まずは手水舎で手を清めまして・・・。一回境内から出ます。これは表参道から見た拝殿です。こちら側にもしっかり鳥居がありますねぇ。この手前に駐車場が整備されているので、車で向かう方はこちらからの方が参拝しやすいかもしれませんね。拝殿はこんな感じです。中規模の社殿ですが、所々の装飾は素晴らしく、全体的なまとまりの良さも感じられます。この社殿手前の両側に若木が植えられているのが好みなんです。この構成だと小さな社殿だとしても、不思議と古社の風格が漂い始めるんです。似た構成のものは福島古殿の伊波止和気神社が挙げられるでしょうか。興味があればご覧ください。そんでご由緒です。大甕神社の由緒御祭神:武葉槌命(建葉槌命、倭文神) 織物の神格地主神:甕星香々背男大神(天津甕星、天之香々背男)例祭:5月5日 当社の創祀は、悠遠住古にして詳らかならずといえども、社伝には皇紀元年と言へり、御祭神 武葉槌命、地主神 甕星香々背男の霊力を封じ国土開発・国家静謐に御稜威灼然なり。 以来、此の地の住民大甕神社を鎮守と仰ぎ奉り各々家業に励み、天下泰平を祈念しつつ現今に及べり。斯かる創祀の古き当社なれば、大甕山上古宮の地に在りても、祭祀の厳修怠ることなし。 時移りて、江戸期藩命を蒙り、甕星香々背男の磐座上に、社殿を造営遷座せり。これ時 元禄8年(1695年)旧暦4月9日なり。幾多の星霜を経たる今日に至るも御神徳著く赫々たり。 是れ偏に氏子崇敬者の丹誠に據るものなり。ここまで甕星香香背男大神について見てきましたが、あくまでも大甕神社の祭神は武葉槌命(倭文神)です。この神格は荒ぶる香香背男を鎮めたことでも知られています。常陸国二之宮 靜神社の祭神としても有名ですが、どのように香香背男を鎮めたのかについては言及されていないようです。武葉槌命が織った素晴らしい織物に感銘を受けて服属した・・・なんてことはなさそうですよねぇ?荒ぶる星の神をそれで止められるでしょうか。うーん、気になる。神話はやはり詳細がはっきりと言及されていない部分が多いですよね。他部族を服属させた時に、うまく統治するには自分たちの神格の正当性を示さなくてはいけないでしょう。相手の信仰の神格を、上手く自分たちの信仰する神格の下につけることで、統治の正当性を示す・・・そうした上古の吸収合併のドラマが感じられます。・・・実際のとこどうなのかはわかんないんですがね。再び拝殿に目を向けると、懸魚の所に面白い表情をした飛龍がぶら下がっています。・・・この龍、笑ってるね?”笑龍(しょうりゅう)”と称されるこの木彫は、昭和8年の社殿建替えの際、彫刻師 後藤桂仙氏によって彫られたものです。ニガッと口の端を持ち上げて笑う龍は、この神社以外では見た事ありません。珍しい造詣ですねぇ!拝殿に懸けられた扁額には式外社と有りますねぇ。拝殿の脇障子にも見事な木彫が。こちらも後藤桂仙の腕になるものでしょう。脇の所には「星香々背男ヲ金田山魔王 石上ニ誅スルノ図」とあります。金田山魔王が何なのかは分からなかったんですが、神話から考えるに武葉槌命のことではないでしょうか。相当な武神と捉えられていた様です。それでは本殿(宿魂石)まで行ってみましょうか。拝殿の左手から登っていけます。社殿の裏手はちょっとした森の様になっており、その奥の丘に石が祀られています。上まで行くのに普通に鎖場があったりと、結構デンジャーです。本殿までの道の脇にまたもや末社。これは天満社だった気がするんですが・・・。おっ、見えてきました。あれが本殿でしょう。側に宿魂石もあるはずなんですが、ここからは見えませんねぇ・・・。正面に回ってみますと、思わず「おほーっぉ!」という驚きの声が出てしまいました。柵で囲われた社が本殿でしょうね。そしてその手前には注連縄がまわされた巨岩が。宿魂石とはこのことでしょう。まさに御神体といった風情です。本殿は小さいながらもしっかりと飾り付けられています。龍・鳳・象・獅子などスタンダードな木彫を中心に、細部まで作り込まれています。長さがしっかりと揃えられた細かな垂木もなかなかお気に入りなんです。脇障子もほら、すんごいでしょう!?こちらも後藤桂仙氏の作でしょうか。反対側も良し!宿魂石も眺めてみましょう。まるで天から降ってきたかのような荒々しい外観・・・。磐座となるのも当然ですよねぇ、こんな見事な岩ならば。それでは次は旧鎮座地を目指します。宿魂石の丘を下ると、お札がこれでもかと張られた円形の石が置かれています。これは境界石と呼ばれる大岩で、縁切りの験があるそうです。こんなにも縁切りを望んでいる方がいるというのも、少々恐ろしい・・・。随神門、鳥居と過ぎまして、横断歩道を渡って、車道を挟んで境内の反対のエリアに来ました。ここには末社か、それとも単立か、久慈浜稲荷神社が鎮座しています。由緒不詳。ここから祖霊社へ。そんで一般道を介して古宮まで向かいます。祖霊社は言わずもがな、地域の英霊が祀られております。祖霊社の脇には鳥居が建ち、その先には石の柵に囲われた謎石が祀られていました。その奥の盛土には山祇の社。細っこい民家脇の道をズンズン進んでいきますと、かつての境内に到着です。今ではこの様に石碑と石祠しかありませんが、かつてはここで大甕神社の祭祀が執り行われていたんです。旧境内からは水木町が一望できます。波穏やかな太平洋も青く輝き、どこまでも続くような蒼天と共に見る者の心を奪います。神がいつまでも見守ってくれるように・・・そういう気持ちを古代の人は持っていたんではないでしょうか。村を見渡せる高所に神格を祀るのはそのためでしょう。本当に美しい景色でした事の真偽は置いといて、本当に面白い伝説が残る神社でしたねぇ!何といっても宿魂石が古代祭祀の趣があって非常に良かったです。水木町は縄文の頃から人が住んでしたとか聞きますが、そうした古い土地には古い信仰が残されているものです。大甕神社も由緒通りなら(皇紀換算で)紀元前の創建となる超古社なんですが、それはさすがにちょっと怪しい・・・。とは言え、見ごたえのある境内・社殿は茨城県内でも随一のもの。ホントに楽しめました今回貰った御朱印です。通常のもの見開き金字のもの大甕神社オリジナル御朱印帳(表)こちらの面はまるでグリモワールの様なデザインです。大甕神社オリジナル御朱印帳(裏)公式サイトへのリンクです。・大甕神社以上です。
2025年12月19日
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去年の11月、三峯神社が鎮座する妙法ヶ岳を登拝。下山後は武甲温泉で汗を流し、数時間かけて茨城の友人の家へと向かいました。そしてその翌日、半分しか開いていない目をこすり、茨城の田舎道をひた走ります。緑ばかりの風景とはうって変わって、茨城の友人のロードスターは陽光を受けて赤く輝いていました。道の先には白くかすむ双耳峰。あれは茨城一の霊山 筑波山です。今回はこの筑波山を一之鳥居から登拝してみたいと思います。標高もそこまで高くなく、登りやすく親しみやすい名山として知られていますが、山中には信仰の痕跡が至る所に散らばっていました。加波山神社(真壁拝殿)の記事でも書いた通り、筑波山も茨城の中では修験が盛んに行われていた様なんです。高い山が少ない茨城県ですが、北は八溝山、東は御岩山、西は鷲子山、南はこの筑波山・加波山など、修験の霊場はかなり多いように感じます。筑波山に近付くにつれて、期待が高まると共に、その山容の見事さに目を奪われてしまいました。周囲は殆ど田んぼであり、遮るものは何もありません。平地にドンッと置かれたような不思議な存在感があり、なぜ上古の昔から信仰されているのかが少しわかったような気がしました。2025.11.2筑波山神社細い路地を抜けて一之鳥居に到着。車出ししてくれた友人に感謝です。この一之鳥居の向いには、登山者用の小さな駐車場があり、今回はここを利用しました。言うまでもなく、えげつなく混みます。鳥居の先も細路地が続きますが、ここにも多数民家が見られます。軒先で柑橘を育てている家が多く、時折サッパリとした香りがかおってきました。このようにかつての参道の脇に家々が並んでいるのは、その集落の発展の過程を覗いているかのような気持ちになり、非常に好みです。そして時間的に前後しますが、この路地の一画には稲荷社や月水石神社など、幾つか祠が置かれています。かつてはこれらも筑波山の信仰の構成要素だったと思われますが、今では少々寂れている印象を受けました。清水稲荷神社の祠です(登拝後に参拝)。脇にはこの様な小祠も。筑波山の山中にある祠同様、巨岩の上に置かれているのが特徴です。かつては巨岩のみがあり、それを神体としていたのかも知れませんねぇ。清水稲荷の名の通り、近くには”雲の井”という湧水があります。そんで次は月水石神社です。覆い堂の中には小さな祠があり、更にその下には巨岩が横たわっていました。珍しく石長比賣神を祀る神社で、御神体の巨岩は月に一度赤い水を流すと言われています。これは月経の比喩で、それ故に安産祈願の参拝者が多かったんだとか。再び参道に戻りまして、先ずは筑波山神社を目指したいと思います。神社の近くには、この様に超レトロな郵便局があります!今でも使われているんでしょうか?そんでこちら、以前参拝した時の写真なんですが、メインの道路にはこんな大きな鳥居が建っています。この先に大御堂、次いで筑波山神社があるんです。普通に参道を進むと、こちらが二之鳥居になるでしょうか。この鳥居の近くには売店やお土産屋、食事処が多いです。以前来た時はいしはまというお店にお邪魔し、”つくばうどん”なる物を食べました。今回は登拝で体をいじめてから、ベスコン状態で山頂の食事処にて頂きました。鳥居の先には、古社に付き物の御神橋があります。筑波山神社のものは特に豪壮で見ごたえがありますよ!祭典の時以外、参拝者は渡れないようです。↓に境内の説明書きを載せます。御神橋(県指定文化財)切妻造 柿葺屋根付 間口一間 奥行四間 天正18年(1590年)徳川家康公が江戸城に入城され筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇め給う。 寛永10年(1633年)11月三代将軍家光公寄進。元禄15年(1702年)6月五代将軍綱吉公改修。安土桃山時代の豪壮な遺風が見られる。 この御神橋は春秋の御座替祭(4月1日・11月1日)・年越祭(2月10.11日)に参拝者の渡橋が許される。境内説明書き より引用御神橋の先には随神門。こちらもかなり大きく存在感があります。筑波山神社の社殿のほとんどに言えることですが、華美な装飾が少なく無骨な感があるんです。これがかえって山岳信仰の社らしくて好きなんですよね!通常であれば随神像が置かれるんですが、筑波山神社の随神門は日本武尊と豊木入日子命が置かれています。どちらも筑波山神社と関係が深い(伝説上の)人物であり、創建譚にも大いに関わっているんです。御由緒も後から見てみましょう。随神門の右手には御神木の大杉が立っています。この杉の下では、筑波山名物の”蝦蟇の油売り”が見られます。つけるとたちどころに傷が塞がるで有名な民俗芸能ですが、これを演じるには免許が必要であり、正式に認められた者でなくては演じられないのです。筑波山の各地のおみやげ物屋で蝦蟇の油(軟膏)が売っていますので、気になる方は探して見てください。僕は悩んだ末に買いませんでした。茨城の友人は筑波山を霞としているので、休日によく出没しているみたいです。ある日友人が早朝に大杉の下を通りかかると、巫女さんが一所懸命に神楽の練習をしていたんだとか。その神秘的な様に目を奪われて、見入ってしまったと言っていました。筑波山、いいとこですよぉ・・・!ついでにここで蝦蟇の油売りを見ておきましょう。江戸時代より伝わる伝統芸能ということで、言い回しも面白いし、見ていて自然と笑みが浮かぶのも良いですね!・YouTube / 小菅透 / 茨城県つくば市に伝わる「ガマの油売り口上」随神門の先には、中央に拝殿、左に社務所、そして右に末社群が鎮座しています。この大きな社殿が日枝・春日神社の拝殿です。公式サイトによると・・・日枝・春日神社 拝殿・本殿寛永10年11月三代将軍家光公の寄進 延暦の初め、奈良興福寺の高僧徳一大士(恵美押勝の子)が筑波の二神を拝し筑波山知足院中禅寺を開基し、その鎮守社として藤原氏に縁の深い両社を勧請したと伝えられる。神仏習合の江戸時代には御座替祭に用いる神輿がこの拝殿に安置され、山下の里宮を兼ねていた。と、あります。やはり将軍家御用達の古社だけあって、社殿の寄進は結構あったみたいですねぇ。後ろには祠が2つ。右が日枝神社:大山咋神。左が春日神社:武甕槌神、経津主神、天兒屋根神、比売神となっています。そんで筑波山神社の拝殿の後ろには、これも末社 朝日稲荷神社が鎮座しています。隣にも小さな稲荷社がありますねぇ。ここまで末社を紹介してきましたが、随神門の左側に厳島神社:市杵島姫命があったんですねぇ。取り忘れてしまいました。なんでも家光公の勧請で、琵琶湖竹生島からの分霊だそうです。そんで拝殿です。このどっしりとした感じ、たまりません・・・!登拝前の安全祈願をして、右側にある登山道に抜けました。御由緒です。筑波山神社祭神:筑波男ノ神(現在は伊弉諾大神に比定されている)、筑波女ノ神(現在は伊弉諾大神に比定されている) 筑波山は、関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として仰がれてきました。御山から受ける恵みの数々は、まさに神からの賜物でありました。その山容が二峰相並ぶため、自然に男女二柱の祖神が祀られました。 その後祖神は「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています。 第十代崇神天皇の御代(皇紀基準で約2000年前)に、筑波山を中心として、筑波・新治・茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕しました。 第十二代景行天皇の皇太子 日本武尊が東征の帰途登山されたことが古記に書かれ、その御歌によって連歌岳の名が残ります。奈良時代の『万葉集』には筑波の歌25首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかります。延喜の式制(927年)で男神は名神大社、女神は小社に列しました。 中世以降仏教の興隆につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主八田知家の末子 八郎為氏が国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続きました。江戸時代、幕府は江戸の鬼門を護る神山として神領1,500石を献じました。幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏が分離されて神社のみとなり、明治6年に県社となりました。沿革 筑波山神社は坂東無双の名嶽とうたわれた筑波山を境内とし、万葉集に「二神の貴き御山と神代より人の言い継ぎ」と崇められているように、古代山岳信仰に始る国内屈指の古社です。西峯男体山頂(871m)の磐座に筑波男大神(伊弉諾尊)を、東峯女体山頂(877m)の磐座に筑波女大神(伊弉冊尊)をお祀りしています。 山下の南面中腹(270m)に拝殿があり、これより山上の境内地「筑波山」を御神体として拝する古代の信仰形体が維持されています。筑波山を御神体と崇めまつる神体山信仰に発し、古来春秋両季に行われる御座替祭(おざがわりさい)に供へ奉る神衣(かんみそ)に御神霊を奉遷して御神体と成します。 筑波山縁起によれば、当神社の創祀は遠く神代に始まります。「天地開闢の初、諾冊二尊が天祖の詔をうけて高天原を起ち、天之浮橋に並び立ち給う、天之瓊矛(あめのぬぼこ)を以って滄海をかき探り給えば鉾の先よりしたたり落ちる潮凝って、一つの島となる。即ち二神は東方霊位に当る海中に筑波山を造り得て降臨し給い、天之御柱を見立て、左旋右旋して東西御座を替え給い、相対面なされて夫婦となり大八洲国及び山河草木を生み給う。次に日神、月神、蛭児命、素盞鳴尊を生み八百万神を生み給う。」 記紀に伝える「おのころ島」とは筑波山のことで、この故に筑波山は日本二柱の父母二神、皇子四所降臨御誕生の霊山であり、本朝神道の根元はただ此山にあるのみと伝えています。 また詞林采葉抄は「筑波山といふ名は、天照大神此の山嶺にて紫の筑琴をひかせたまふに、水波の曲に至り、鹿島の浦の波雲に乗って飛び登り、此の山の嶺に着きにたりけり。よりて着波山といふ。しかして琴名によって筑波山といふ」と記し、山麓の小田城中で北畠親房卿が神皇正統記を著した頃、筑波山が父母二神を祭る天照大御神御親祭の貴き斎庭(ゆには)であったと伝える伝承が広く流布していたことを示しています。春秋二季の御座替祭の由緒や筑羽子(つくはね)羽子板(はごいた)の起源伝説にも諾冊二尊と天照大御神が筑波山と密接に語り継がれ、文化年代の筑波山私記にも「土民相伝ふ、日神筑波山に降臨あり、のち伊勢に遷り給うと。此山、日神の御山なりといふこと三歳の小児まで伝説す。史伝・旧記に引証するを待たずして人これを信ず。真の口碑といふべし」と記しているように、筑波山における諾冊二尊と天照大御神の説話は、他社に比類なき神秘を伝えています。 常陸風土記は、新嘗の夜に祖神尊が筑波神を訪ね給うた時、筑波神の真心こめた歓待に感激されて、「愛乎我胤(はしきかもわかみこ)巍哉神宮(たかきかもかむみや)天地並斉(あめつちのむた)日月共同(ひつきのむた)人民集賀(ひとくさつどひことほぎ)飲食富豊(おしものゆたかに)代々無絶(よよたゆることなく)日日弥栄(ひにけにいやさかえ)千秋万歳(ちよろづよに)遊楽不窮(たぬしみきはまらじ)」と歓びの御歌を筑波山に斎いこめられたことを伝え、この懐しく優しい筑波神の御許に足柄坂(あしがらのさか)よりの東の老若男女が騎歩登臨して喜び集い「筑波嶺のかがひ」を催して万葉集や古今和歌集に数々の名歌を残した本縁を説いています。 更に「筑波岳に黒雲かかり衣袖清国(ころもでひたちのくに)」といふ国俗諺(くにぶりのことわざ)を書き留め万世に伝うべき神授の詞集として、常陸国の国号が、実に筑波山に発していることを教えています。 その後、人皇の御代に入って神武天皇の紀元元年に筑波山神社男体女体両宮が創祀され、崇神天皇の御世早くも筑波国が建置されて采女臣(うねめのおみ・物部氏)の友族筑波命が国造(くにのみやつこ)に任命されました。成務朝の阿閉色命(あべしこのみこと)を経て大化の改新に至るまで、子孫相承けて祭政一致の制に基き世々筑波国造が当神社に奉仕していましたが、以後もまた筑波国造の称号を伝承して慶長の世に及んでいます。 景行天皇の御代日本武尊の御東征に当り、尊は当山に登拝し給いて連歌嶽の遺跡をとどめ給い、帰途甲斐国酒折宮(さかおりのみや)にて「にひばり筑波をすぎて幾夜かねつる」と御詠あり、連歌の始まりとなりました。それ故に連歌を「つくばの道」と称し、遂には日本独特の俳句を生んでいます。 次いで神功皇后三韓征伐の砌、敵国降伏のために御勅願あり、且つ応仁天皇御懐妊あるを以て安産を祈り給い、御凱陣の後神田を寄せ給うと共に御腹帯を当神社に納められました。これ当山の秘社常陸帯(ひたちおび)宮創祀の由緒で、神領民には鹿島神宮祭頭祭、御造営の料を充てることを御勅免あらせられ、鎌倉・徳川の世もまた旧慣により免じられました。 降って皇極・天武両朝には圭田を奉ぜられて神礼を行はせられ、平安時代を迎えました。即ち嵯峨天皇の弘仁14年(823年)正月21日従五位下筑波神、霊験顕著なるを以て宮社に列し(日本後紀巻三)また文徳天皇の嘉祥3年(850年)9月26日伊勢神宮、加茂神社に奉幣の時、当神社にも使を遣はして奉幣せられ(続日本後紀)。以来漸次昇叙して清和天皇の貞観13年(871年)2月男神を従三位、同16年11月女神を正四位下に叙せられました(三代実録)。更に寛平5年(893年)12月両神共に一階を進められ、延喜の制に男神は名神大社に女神は小社に列せられました。 醍醐天皇の延喜5年(905年)4月、紀貫之は古今和歌集二十巻を撰上したが、その序に、天皇の御世の長久を「さざれ石にたとへ筑波山にかけて」願ひ、その御聖徳を「広き大めぐみのかげ、筑波山のふもとよりしげくおはりまして、よろづのまつりごとをきこしめす」と述べ、筑波山が天皇の御聖代を象徴する霊山として厚く尊崇されていたことを偲ばせています。 武門の時代、建久2年(1191年)源頼朝は安西三郎景益、上総介広常、千葉介常胤、茂木四郎義国等の武将を伴って当神社に参詣、神領を寄進なされました。弘安太田文では、筑波社五十六町六十歩と記されています。また頼朝の異母弟、八田知家は筑波山麓に小田城を築き、且つ十男筑波八郎(明玄)をして筑波国造の名籍を継がしめ、筑波別当大夫に補しその支族筑波大膳を社司に任じて当神社に奉仕させました。天正18年(1590年)8月、徳川家康は江戸城に入城、東北に聳える筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇め、慶長5年(1600年)9月関ヶ原の合戦に大勝の後、山司筑波八郎以来の社家筑波氏を悉く追没して家康が厚く帰依していた大和国長谷寺の別当 梅心院宥俊を筑波別当に補し、知足院を再興せしめて将軍家の御祈願所と為し、筑波山神社御座替祭を以て江戸城鎮護の神事と定めました。然して慶長7年(1602年)11月25日、筑波山神領五百石(大字筑波)を寄進されました。 宥俊の弟子二世光誉も家康の信任厚く、慶長15年(1610年)江戸白銀町に護摩堂を建てて常府を仰付けられ、慶長・元和の大阪夏冬の陣には陣中に在って戦勝を祈願し、大願成就の後元和2年(1616年)10月二代将軍秀忠は当山の社堂伽藍を普請、更に寛永9年(1632年)春三代将軍家光は新たに地を相し工を起して筑波山内の社堂伽藍を悉く造営寄進し、同10年11月工成り輪奐の美を尽くした。次いで五代将軍綱吉は知足院十一世隆光を重用し、貞享元年(1684年)護摩堂を湯島に移し、更に元禄元年(1688年)神田橋外に地境を倍加して宏荘な護摩堂を建立しました。次いで元禄8年(1695年)9月筑波山の本坊共々護持院と改称せしめ、元禄3年2月に続いて8年正月に都合千石(大字沼田、大字臼井の2村)を加増したので、筑波山神領は1,500石を算へるに至りました。江戸時代の筑波山神領は、伊勢、日光山両神領と共に他に例のない国役金免除の神領となし専ら当神社の奉務の任に当らせました。 宝暦9年(1759年)、筑波町南表六丁目入口の石鳥居の再建が成り、同11年正月「天地開闢筑波神社」の勅願を掲げることを幕府に奏請したが、後桜町天皇御幼少のため代わって嵯峨宮の御染筆があり、同13年11月この筑波山の由緒を語る神領を掲揚しました。 降って元治元年(1864年)3月に水戸浪士藤田小四郎、田丸稲之右エ門等が筑波山に集結し、護持院本坊に本陣を置いて筑波義挙の兵を挙げ尊王攘夷を天下に呼号して維新回天の魁となったのも故なしとしない。 明治元年(1868年)10月神仏混淆禁止の太政官布達があって、筑波山では護持院を廃して旧に復し、明治2年9月神祗大副伯の実弟白川資義が筑波山神社の祭主に任じられました。明治4年11月17日、明治天皇が大嘗祭を東京で行はせられた時、筑波山の日蔭蔓(ひかげのかづら)が御用命になりました。これは実に古今和歌集以来の歴史の幸せでありました。 明治6年(1873年)10月4日県社に列し、同8年中禅寺本堂跡地に現拝殿を造営して現在の規模を整えました。筑波山神社 / 由緒 より引用拝殿右側の登山道から、つつじヶ丘を経由して山頂へと向かいます。つつじヶ丘までも結構長く、この時点で額から玉のような汗が滴ります。道中には巨岩の上に置かれた祠などがあり、こちらももとは巨岩を磐座・神体としていたと思われます。祭神は不明です。本当にゴロゴロと大岩が転がっており、神聖な地とされたのも当然の流れでしょう。つつじヶ丘のロープウェイ駅に着くと、その車の多さに驚いてしまいます。かつては遊園地も有ったみたいなんですが、今では廃墟と化していました。往時の繁栄ぶりを示す様に、石やら像やらいろいろ置かれています。こちらには拳型の石。その隣には大蝦蟇。蝦蟇の油は筑波山で採取できると口上に出てきますが、それに因んだものでしょう。如意輪観音みたいなポーズをしていて面白いです。更に上にはもっと大きな蝦蟇も。手前の祠には大黒天が祀られます。石碑は宝珠地蔵尊のようにも見えますが・・・。つつじヶ丘駅からの登りがなかなかにキツイですが、そこを乗り越えると後は楽です。途中拓けた台地が有るんですが、そこからは東京の街が良く見えて、スカイツリーなんかも見つけられます。遠く東海の方を見やれば富士山も!ある程度登ったところで弁慶茶屋跡という休憩所があり、その後ろには祠。祭神は不明です。弁慶茶屋からすぐの所に、岩が割れてトンネルの様になっているスポットがあります。これは弁慶七戻りと呼ばれており、この写真では分かりませんが、巨岩が左右の岩によって絶妙なバランスをとって支えられているんです。いつ落ちるのか、その恐怖の前では弁慶でさえもタジタジだったんでしょうね。古来より石門と呼ばれており、ここから先が根幹エリアとなっています。またもや巨岩の上に祠が置かれています。近くで見てみましょう。結構立派な祠ですねぇ。これは稲村神社という摂社で、天照皇大神を祀ります。この稲村神社が鎮座している大岩は高天原と呼ばれており、神々が住む聖域と見なされています。上の方には特徴的な巨岩があり、本来はこれを拝む場だったのかもしれません。更に進んでみましょう。岩の隙間に小祠が見えるでしょうか。ここは母の胎内くぐりと呼ばれるスポットで、修験の拝み場だったようです。修験では、山中に入ることで一度死に、登頂して転生し、下山して生まれ変わるという考えがあります。こうした胎内くぐりもこれに近いものがあり、無明の洞を手探りで進み、光射す出口から俗世に戻るという過程は、まるで生まれ変わりを表している様に感じるんですが、どうなんでしょうか。大きな磐に幾つもの切れ込みが入っていますね。山中でもとりわけ賽銭が多いのがこの場所です。国割り石と呼ばれるこの岩盤は、古代神々がそれぞれ統治すべき場所を割り振るために使ったものだという伝説が伝わっています。こんな岩もありますよ。出船・入船と呼ばれるこの大岩は、名前の通り港に入る船・出る船を表しているとされます。船玉神が祀られます。こちらはちょっと審議が必要なんですが、なんでも大黒天の後ろ姿に見えるんだとか。・・・まぁ、見ようと思えばそう見えないこともないですが・・・。巨岩を背にするこの祠は摂社 渡神社。祭神は蛭子神です。天に向かってそそり立つこちらの巨岩は北斗岩。北斗七星の様に何があっても不動の岩だとされています。脇にある祠は摂社 小原木神社。月夜見大神を祀ります。女体山の山頂まであと少しです。この屏風型の岩の後ろにも摂社が鎮座しています。麓の集落を見渡す様に鎮座しているのが摂社 安座常神社。素戔嗚神を祀ります。屏風岩のすぐ近くには大仏岩。・・・ご自身でジャッジをお願いします。そんなこんなで女体山山頂に到着です。山の上にあるとは思えない程豪華な社殿、こちらが女体山山頂本宮となります。今でこそ伊弉冉大神に比定されていますが、往古の時分は単に女神が祀られているに過ぎませんでした。そこに神道が浸透し、最初の夫婦と称される神格の片割れが据えられたのです。男体山よりも標高こそ高いですが、延喜式では大社ではなく式内小社に数えられます。女体山山頂からは鹿島の海辺や霞ヶ浦が、それこそ一望できます。霞ヶ浦ってこんなに大きかったんだと勝手に驚いておりましたが、それからすぐと陽光に照らされて輝く湖面の美しさに息を呑むことになりました。いやぁ、やはり山は最高ですねぇ次は男体山を目指します。途中にはガマ石という奇岩が。確かに口を大きく開けたカエルに見えなくもないです。この口に石を投げて、入ると願いが叶うとされているようです。売店まで来るともう腹はへってしょうがない、なにか食いたい、そんな思いしか浮かばなくなります。空腹を我慢して売店周辺の岩を撮影。こちらは諏訪神社。祭神は武御名方神でしょう。そんでこちらの巨岩は、何気に当神社の祭神とかなり関わってくるものなんです。セキレイ石と呼ばれており、この大岩の上に鶺鴒が飛んできて、伊弉諾大神・伊弉冉大神2柱に夫婦の道を教えたんだとか。国産みの伝説と関わる面白スポットでした。セキレイ石の隣にはセキレイ茶屋という休場があり、そこで1年振りのつくばうどんをいただきました。やはりつくねは最高ですねぇ!いい塩梅に鳥出汁が染み出してきます。先に食べるんべきか、最後に食べるべきか、それだけが問題です。人で溢れかえる山頂駅を過ぎ、岩がちな山道を抜けると男体山山頂に到着です。この参道脇の水盤?が気になりました。水盤の様に見えますが、上にあった何かを外した跡に水が溜まっているだけの様です。側面には2体の鬼?でしょうか。これを見た瞬間、前鬼・後鬼では?と思ったんです。だとすると、上にあったのは役小角の像なんではないでしょうか。明治期の修験禁止・神仏分離によって取り外されてしまったとか・・・妄想ですが。これが合っているならば、筑波山に現存する貴重な修験の痕跡という事になります。女体山同様、山頂の本宮社殿は美しいですねぇ!男体山山頂本宮の方は名神大社に列しています。帰りは山の中央を通るコースを進みました。登りの方はかなりの人で、人生で初めて山の中で行列ができているのを見ました。このコースでも、幾つか祠を見ることができます。こちらは武甕槌神と並び立つ武神 経津主神を祀る香取神社。総本宮は利根川沿いにあるので、茨城県からもアクセスしやすいです。更に下ると清水湧きだす場所があります。男女川の源流か!とも思ったんですが違うみたいです。ただ、この細い流れが男女川を構成していることは確かでしょう。ここにも祠があります。何かしらの水神が祀られているんではないでしょうか。無事に筑波山神社まで帰ってこれました・・・!1000mに満たない低山とは言え、眺望は十二分に素晴らしく、秋の散策にピッタリでした。巨岩ひしめく山頂周辺のエリアはまさしく神々の庭といった風情で、坂東全域に名を轟かせているだけのことはあります。神話と縁深い場所が幾つもある茨城県ですが、この筑波山も国産み神話と関わる名所として、百見の価値があります。神話と歴史とが織りなす不思議な雰囲気を、めいっぱい味わうことができました以前貰った御朱印です。筑波山神社今回貰った御朱印です。筑波山神社男体山女体山祭日限定御朱印日本百名山ステッカー公式サイトへのリンクです。・筑波山神社以上です。
2026年01月27日
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山梨県一円に散らばる三十三の観音霊場をまわる巡礼です。霊場の開創自体はいつ頃なのかは不明ですが、二十五番札所:金剛山 安楽寺の御詠歌額には元禄13年の銘があり、少なくとも1700年までは遡ることができるようです。霊場の開創とは異なり、札所の多くは1,000年近い歴史を持つ古刹ばかりで、山梨県だけにまわり甲斐はすごく有るんではないでしょうか。御朱印に関しては、札所ごとに対応が異なりますので、どうしてもという方は一度連絡してからの巡礼が安心だと思います。ただし、2026年現在絶対にいただけない札所が数ヶ寺あり、総揃えは難しそうです。僕自身最初こそ御朱印をすべて揃えようと思っていましたが、今では全札所を巡礼するにとどめています。御朱印が無くとも、この古刹群をまわれるのであれば満足感もかなりのものでしょう参拝した札所の位置と札所記事は下のリンクからご確認ください!・甲斐国三十三観音霊場 参拝の記録以上です。
2026年05月17日
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青森市街から遠く東へ、夏泊半島の根元辺りに平内の町が広がります。町には幾筋かの川が流れ、それが河口で合流して陸奥湾へと注いでいます。川のせせらぎと林を抜ける涼風に心躍らせ、夏泊半島を周遊すれば、日々の苦痛も少しは癒えるというもの。青森県でも1.2を争う景勝地です。そんな景勝地の玄関口となる平内には、数ヶ所の寺院があります。今回紹介する寺院もその1つで、しかも曹洞宗の大本山 諸嶽山 總持寺の直末です。津軽八十八霊場二十一番札所:東方山 東福寺町のメイン通りから一本路地に入ると、細い道路が網目の様に走っています。冬になれば通ることが出来るのか、非常に心配なところですが、東福寺は細路地の奥まった所に境内を構えています。入口には六地蔵。道祖神っぽいのも幾つかありますね。鐘楼です。豪華な装飾が施された新しめの堂宇です。境内には鎮守の社として開運稲荷神社が置かれています。もう1つ、本堂前には三宝荒神を祀る小祠もあります。ちなみにこの三宝荒神の御朱印もあるんですが、青森県の中で三宝荒神の御朱印を扱っているのは、この東福寺だけだと思います。祠の横には説明が書かれています。三宝荒神 約450年前(元亀元年頃・1570年頃)、東岳より小湊に移転され鎮護の神として祀られる。火と竃の神ともいわれ、火難・盗難・水難・疫病の厄災消除や身体健全・家内安全・交通安全・商売繁盛などの功徳を持つ。 御開帳は、縁日の28日です。仏法僧の三宝を守護する神格として創造された神格です。蔵王権現などと同様に日本で発祥した神格であり、インドの古い神格の様に多面多臂の姿をしているのは、仏教の明王部などの姿を反映した結果でしょう。その成り立ちからも仏教と深く関わる神格と言えます。説明書きの他にも、三宝荒神の真言まで書かれていました。ほぅ、こんな真言なんですねぇそんで本堂です。優美に伸びる屋根の頂端がなんとも言えず美しいですね!大きく左右に枝葉を伸ばした老松が御堂を飾ります。装飾もこの様にしっかりとした造りです。ご由緒です。東方山 東福寺曹洞宗 諸嶽山總持寺末寺開山:陽山演碩大和尚本尊:釈迦三尊 城主のお姫さまに恋をしたカッパの伝説で有名な寺である。天正11年(1583年)、平内にあった福館城主 七戸修理隼人の一人娘が、行方不明になった。四方八方、手を尽くして捜しても、どうしても見つからない。そこで七戸修理は、氏神である雷電宮に願をかけ、21日間、必死で祈り続けたという。いよいよ満願の日、付近を流れる汐立川(今の雷電川)が、煮えたぎり始めると、一匹のカッパが、修理の前に現れて「姫の美しさに恋をして、川の中に引き込んでしまいました。今後は人を川の中に引き込むようなことはしませんから、どうかお許し下さい」と泣いて謝ったという。七戸修理は、姫の死を悲しみながらも今となっては、カッパを殺すより姫のめい福を祈ることが大切―――と延命地蔵尊を東福寺に寄贈、毎年7月23日から3日間、盛大な祭礼を催して、菩提を弔った。この時にカッパが書いた謝罪証文が残されたといわれている。 縁起によると東福寺の開基は、今から400年前、天正2年(1574年)のこと。東岳にあった大日坊という修験道場が廃寺となった時に分かれて、平内町に造られた寺である。 開祖は陽山演碩大和尚。遠く神奈川県の鶴見にあった曹洞宗大本山総持寺から、布教のためにやってきたらしい。 本尊は釈迦如来像で、青森港が開かれ、一番寺として常光寺が造営された際に常光寺の天芸和尚が、寄贈したものだと伝えられている。 最近になって、南部九戸の乱で非業の死を遂げた”鬼の孫六”堤弾正の墓が発見され、青森市横内の常福院にある堤弾正の墓との関係が話題になっている。この寺の堤弾正の墓を守ってきた山口家の過去帳によると堤弾正の父・滝口定房が弾正が生まれる前に養子を迎え入れており、その子に山口三郎左衛門定行と名乗らせて小湊に派遣していることが記載されている。 おそらくは、常福院の墓から分骨されたものらしいが、詳しいことはわかっていない。 寺の名物和尚は、慈善事業が飯より好きだったという二十六世栄山和尚。ダルマの絵が得意で、県内各地を回ってダルマの絵を売り歩き、生活に困っている人に施したという。 本尊は釈迦如来像。寺宝としては、このほかに延命地蔵尊像、十六羅漢、狩野惟信作の十六羅漢絵巻などがある。つがるのお寺さん 下巻 124.125ページ より引用南部氏の一支族、七戸南部氏と縁深い寺院のようです。大日坊という僧坊?が前身のようですが、名前からして真言宗の寺院だったんではないでしょうか。そしておそらく、先ほどの三宝荒神もその僧坊に祀られていたものだと思われます・・・知らんけど。ご由緒にはかっぱが出てきますね。七戸修理隼人の娘に惚れ、川に引きずり込んでしまいます。水に引けば人は死んでしまうと分かっていながら・・・。愛憎の物語です。その姫の供養の為に納められたのが延命地蔵尊、たしか堂内にそれらしいものがあった気がするんですが・・・詳細は不明です。本尊で無いにしても、面白い由緒を持つ仏像です。斜めから。平内の主要曹洞宗寺院、東福寺でした。この寺と関連のある七戸南部氏ですが、南部氏がそもそも諸流が多すぎて、七戸を名乗っていても他の系統の南部氏出身であることが少なくありません。しかも家系の正当性はそこまで確かなものでは無いらしく、この七戸修理隼人がいったいどこの血筋なのか分かりません。これは更に七戸の寺院を調べて明らかにしていきたいと思います。御詠歌かしこくも のこしてまいることのはわ まごころこめて よをおくるらん本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि今回貰った御朱印です。津軽唯一の三宝荒神の御朱印以上です。次の記事・二十二番札所:無量山 引接院 正覚寺 青森市街に立ち続ける古寺
2025年10月04日
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東北町といえば小川原湖、みたいなイメージがあります。今年の夏に小川原湖伝説について興味が湧いて、伝説の舞台となっている場所をいくつか周りました。下の写真は8月末の小川原湖です。今夏は大変な酷暑で、汗をかかない日は無い、そんな感じでした。この日も熱く、たくさんの人たちが小川原湖で湖水浴を楽しんでいました。その湖水浴場から車で数分、小川原湖ふれあい村に着きます。ここは丘になっているので、小川原湖を眺めるには絶好のスポットです。風で波立つ水面が、ズーッと遠くまで続いています。ここでもまだ小川原湖の端は見えません。さすが青森県最大の湖です。説明書きです。小川原湖小川原湖は、入江の一部が海面低下と湾口の砂丘の発達により形成されたといわれる海跡湖で、面積は62.16㎢、湖岸延長約67㎞、平均水深約11mという青森県最大の広さをもつ湖である。更に、淡水と海水が混合する汽水湖の為、しじみ・しらうお・わかさぎなど淡水魚介類の水揚げが日本一を誇る湖でもある。そんな小川原湖を見守るかのように、丘の上に神社が建っています。2024.8.24広沼大明神社一之鳥居です。沼崎観音堂、姉戸大明神社と同じく両部式です。さっそく拝殿です。割と新しい社で、入母屋の屋根もピカピカです。白と赤のコントラストが目を引きますね拝殿の後ろには天然記念物のケヤキの木が生えています。幹周囲:5.72m、樹高:約30m、樹齢:450年(推定)と、結構な古木です。ケヤキが植えられたのが先か、神社が建ったのが先か・・・。拝殿の蟇股の木彫装飾は龍で、もしかすると勝世姫をモチーフにしているのかも?説明書きです。小川原湖伝説 1300年ほど前の昔、世の無常をはかなみ都より行方不明となった父を捜す二人の姉妹の姿がありました。諸国を巡り、北の果てにある湖のほとりに辿りつきました。 そこで、二人は捜し求める父がはかなくも亡くなっていることを知りました。姉の玉代姫は、悲しみのあまりに湖に身を沈めてしまいました。妹の勝代姫も、後を追うように湖に身を沈めてしまいました。姉・玉代姫の沈んだ湖を姉沼と呼び、妹・勝世姫の沈んだ湖を妹沼(現在の小川原湖)と呼びます。 このお社は、妹・勝世姫を祭る広沼大明神です。祭神は勝世姫命(広沼大明神)となるでしょうか。併せてこちらの由緒も載せます。広沼大明神 小川原湖ふれあい村の奥に隣接し、小川原湖伝説に伝わる『妹勝世姫』を祀る神社で、小川原湖(妹沼)を北方に見下ろす明神岬にあります。 『御領分社堂』(成立宝暦の頃)の記録によると「広沼明神御宮 五尺、六尺五寸 板菱・・・・・別当三右衛門」と記録されていることから沼崎観音堂と同年代の創立とされています。 平成10年1月1日の火事で現在の神社に再建されました。青森県東北町 / 歴史・文化施設 より抜粋斜めから。小川原湖伝説の中でも根幹となる部分だからか分かりませんが、妹・勝世姫が入水する部分には多くのバリエーションが見られます。入水して亡くなりそのまま終わるもの、入水する時に沼の主と戦いになるものなど、語る人が様々に加筆修正して伝えていったんでしょうね。そんな物語を今に伝えるすばらしい神社でした以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2024年09月21日
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今回の札所は黒石の浅瀬石地区にある寺院です。浅瀬石と言えば羽黒神社が有名でしょうか、その隣に境内を構えています。この寺院には面白い不動尊にまつわる伝承が残っており、それも併せて紹介したいと思います。今では別の寺院に置かれていますが、東北三十六不動尊霊場の札所本尊にもなっている尊像にまつわる伝説です。面白くないはずありません。2024.11.17津軽八十八霊場三十二番札所:法隆山 長寿院 地蔵堂道路側から境内に向かうと、古めかしい寺門が置かれています。長寿院、浄土宗の寺院です。津軽八十八霊場三十二番札所の本尊が収められているのは、寺門脇にあるこの地蔵堂です。堂内には沢山の地蔵尊像が置かれていますが、中央には特に古そうな像が鎮座しています。恐らくこれが札所本尊の身代地蔵尊でしょう。この本尊についての説明は見つけられませんでした・・・。見つかり次第、補足したいです。斜めから。津軽八十八霊場では珍しく札所本尊が地蔵尊です。特に身代と付くと、自身の身代わりになってくれるというニュアンスが含まれるようです。ふりかかる災難の身代わりになってくれるとあれば、人々からの崇敬も篤かったんではないでしょうか。御詠歌あせいしの かわのながれのきよければ いのちながびく のりのよしみつ本尊:身代地蔵尊 क्षितिघर्भ以前貰った御朱印です。続いて本堂の方も見ていきます。浅瀬石羽黒神社から境内に入ると、まず目に入るのがこの磨崖の六地蔵尊。この石碑は損耗も見られず、くっきりと地蔵尊の姿が浮き出ています。なかなかに素晴らしい彫り込みです。本堂です。宝形造の御堂はかなり新しめに見えます。津軽八十八霊場のガイドブックには、これ以前の古い姿の御堂も載っていますよ。気になる御由緒を見ていきましょう。まずは黒石市史の記述から。法隆山 長寿院旧本寺:誓願寺(弘前)本尊:阿弥陀如来開山:良遍(元和元年・1615年没)開創:元禄年間(1688~1703年)年中行事:御忌会=春彼岸、十夜会=11月出典:法隆山 長寿院 縁起、過去帳寺宝1. 慈覚大師作といわれ、もと浅瀬石城下の神宗寺本尊と伝えられる一木造りの阿弥陀如来像2. 毛利元就の陣屋仏と伝えられる阿弥陀如来像3. 猫突き不動黒石市史 資料編Ⅰ 寺社・金石文 20.21.23ページ より抜粋次に”つがるのお寺さん 下巻”という書籍の記述です。法隆山 長寿院 法隆山 長寿院は、黒石市浅瀬石にある浄土宗のお寺で、慶長2年(1597年)まで浅瀬石城にあった五倫山 神宗寺を再建したものとされている。 神宗寺は承和3年(836年)に円仁上人が開山し、自作の本尊を安置して霊場としたが、その後楼門は大破し、本堂は朽ちて倒れ、荒廃していたものを文永3年(1266年)に浅瀬石二代城主の千徳彦三郎源重政がこれを修築して菩提寺とした。 この神宗寺には「猫突き不動尊」という伝説がある。天正7年(1579年)に大浦為信(後の津軽初代為信)は浅瀬石城の様子を探るため越前の国から連れて来て堀越城の最勝院の住職をしていた眼尊和尚を浅瀬石の神宗寺住職にするよう浅瀬石城主千徳大和守政氏に推薦した。政氏は大いに喜んで眼尊和尚を迎えた。 文禄3年(1594年)に和尚は城主に願い出て高野山 大善院の住職になり、神宗寺には弟子の承尊を越前から呼んで住職とした。このころ眼尊和尚は為信の内命を受けて大善院の本尊である不動尊に津軽統一を祈願した。しかし、不思議なことに供物が食い荒らされているので、和尚はてっきり承尊の仕業と思って大いにしかって寺から追放した。 承尊は身の潔白を示めそうと本堂の下にもぐり込んで無実を祈願すると真夜中に大地震となり本堂から不気味な叫び声がしたので、眼尊和尚が恐る恐る本堂に入ってみると不動尊が物すごい形相で突き立ち、右手の剣先には大きな猫が突き殺されていた。和尚は大いに恐縮して読経すると不動尊は静かに本座に復した。その後、この不動尊を「猫突き不動尊」と呼んだ・・・というもの。今は弘前市最勝院の寺宝として保存されている。 ところで話は変わって慶長2年(1597年)に浅瀬石城は大浦為信に攻められて落城。このとき千徳家の家臣伊賀軍治直治は本尊および歴代城主の霊位を地中に埋めて隠し、自分は道良と称して弘前誓願寺の弟子になって修行し、慶長12年(1607年)に浅瀬石に帰って神宗寺を再興。そして元和元年(1615年)に現在地に移って法隆山 昭運寺 阿弥陀堂と称した。 寛政6年(1795年)には三代鳴海久兵衛氏が現在の本堂および庫裏を建立、文化4年(1807年)に長寿院の寺号を賜っている。つがるのお寺さん 下巻 78.79ページ より抜粋こうも書籍によって創建年や開山が異なっていると、一体どちらが正しいのかまるで分かりません。どちらにせよ確定的な歴史ではないとは思いますが・・・。前者はつらつらと開山は誰だ、開創は何年だと綴っていますが、後者は大分物語感が強いですよね。自分的には読んでいて面白い後者のご由緒を推したいです。もう一つ面白いのが、猫突き不動尊の所在です。黒石市史では長寿院に、つがるのお寺さんでは神宗寺にあると書かれており、どちらに置かれていたのか、意図する表現なども不明です。ちなみに猫突き不動尊は最勝院のサイトから像様を見ることができますよ。下のリンクからどうぞ!・真言宗 智山派 金剛山 最勝院 / 猫突不動明王斜めから。一戸南部氏から分かれたとされる千徳氏ですが、伝説通りならば長寿院はその菩提寺の後裔だったようですね。同集落の羽黒神社と共に、千徳氏の庇護の元、繁栄していたんではないでしょうか。由緒の真偽はどうであれ、ここも津軽氏が占拠する以前の津軽の歴史を伝える古刹でした。今回参考にした”黒石市史 資料編Ⅰ 寺社・金石文”と”つがるのお寺さん 下巻”という書籍は、どちらも国立国会図書館デジタルコレクションに本登録(無料)することで閲覧可能です。本登録されてから閲覧できるようになるまでは数日かかりますのでご注意ください。以上です。
2025年02月25日
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弘前城の外縁西側に、津軽の浄土宗寺院の元締め的立ち位置の寺院が門を構えています。門を構えるという慣用句そのままに、他で類を見ないような美しい山門を擁するこの寺院は誓願寺。津軽氏の家臣、沼田面松斎の菩提寺でもあり、それだけに津軽氏との結びつきも相当に強いようです。津軽八十八霊場五十七番札所:光明山 無量院 誓願寺誓願寺の山門は他の寺院の山門とは一味も二味も違います。ご覧ください、この独特な形の山門を!この門は装飾に因んで鶴亀門とも呼ばれ、見た目も名前も縁起が良さそうです。説明書きです。誓願寺山門(国指定重要文化財) 誓願寺山門の創建年代は、形式から江戸時代中期と推定されますが、下層の蟇股などに室町期の手法もみられることから、定かではありません。 懸魚を鶴と亀の形に作る極めて珍しい形式で、鶴亀門とも呼ばれています。装飾を近くで見てみましょう。確かに上層に鶴、下層に亀が配され、色も紅白で何とも縁起が良い!くぐるだけで何だか気分がアガります次は境内を見ていきましょう。こちらは筆塚です。文筆家が多かった弘前、ここに限らず神社仏閣には筆塚が収められている例が多いです。このブログで紹介したものであれば、熊野奥照神社にもありますね。隣には平家琵琶の碑がありました。碑面に刻まれしは・・・四つの緒の ながく傳えん梓弓 やしまの波の 遠きしらべを佐野樂翁という詩と琵琶。この碑は、弘前に伝わっていた前田流平家琵琶の最後の伝承者:館山甲午の弟子たちによって二十世紀初頭に建立されました。下のリンクから、YouTubeにて平家物語を楽しみましょう!・YouTube / 平曲・我身栄花より 「桜の中音」新潟大学ときめいと「平家物語のつどい」第20回 平家琵琶鑑賞会・演誦 前田流平家琵琶 橋本敏江門下 鈴木孝庸更にその隣、眉間にしわを寄せてこちらを睨みつけるのは、沼田面松斎そのひとです。説明書きも建っていました。藩祖津軽為信公軍師沼田面松斎顕彰像 当寺に眠る沼田面松斎祐光は、上野国(群馬県)の沼田庄領主沼田五郎家政の末裔といわれる。足利将軍の重臣で、歌人としても知られる細川幽斎に仕えた後、浪人となる。永禄11年(1568年)に弘前藩祖津軽為信公の軍師となる。 面松斎は、易学・天文学・兵法に秀で、識見深謀の才を発揮し、為信公の津軽統一の大望に軍師として大いに貢献したといわれる。 慶長8年(1603年)に新しい居城地の選定を命じられ、面松斎は、位置・河川・地形から高岡の地(弘前城)こそ四神相応の地と進言し、町割も施した。 津軽為信公没後、弘前城の築域は二代藩主信枚公に受け継がれ、慶長16年(1611年)に城が完成した。また近隣から社寺も移転し町屋も形成され、城下町として栄えることとなる。 面松斎は慶長17年に没し、当寺に葬られ、授けられた戒名は「清光院殿面松斎大居士」である。院殿大居士号は、藩主以外には許されぬ格式高いものである。 津軽信枚公が面松斎の功績を如何に評価していたかが推察できる。 ここに軍師沼田面松斎を永久に顕彰するため、菩提寺である光明山誓願寺に石像を建立する。平成23年11月吉日沼田面松斎顕彰会会長 佐藤圭一郎光明山誓願寺第四十八世住職 小坂匡宏ここまで説明を載せたんですが、肝心の墓碑の方は撮り忘れてしまいました・・・。なにはともあれ、津軽氏を支えた名軍師 沼田面松斎はこの寺院に眠っています。そんでもってこっちは古碑の類だそうです。右の聖観音は弘前市指定有形民俗文化財に、左の板碑は弘前市指定文化財に指定されています。説明書きです。弘前市指定有形文化財 図像板碑 一基応安4年(1371年)の年号を刻む、作者・願主共に不詳 碑面に梵字や銘文のほかに絵像を刻みこんだ板碑を特に図像板碑と呼称し、現在当市では本碑と中崎に所在する二基が確認されている。いずれも途中から折れている断碑である。なお本碑は二重郭線内に阿弥陀如来立像を刻んでいる。 なおまたこの碑は、明治年間に大浦城跡本丸石垣取り壊しの際に出土したもので、誓願寺の檀家の一人がこれを譲り受け、自家の墓所内に建てていたが、昭和54年寺に譲り現在地に移建したものである。南北朝時代の仏教信仰の一端を示す資料として貴重なものである。弘前市指定有形民俗文化財 聖観音像 一基寛文11年(1671年)の年号を刻む、作者・願主共に不詳 鎌倉時代以降、それまで仏像の多くは専門の仏師により造像されていたが、やがて地方寺院の和尚やあるいはまた信者自身の手により造られるようにもなった。 江戸時代に至ってもその傾向は衰えることなく、本像もその例により造られたものとみられる。 素朴な中に重厚さを有し、当時の信仰の深さや心情の手厚さをよく表現しているもので、民間信仰を知るに貴重なものである。昭和57年1月26日 指定管理者 誓願寺弘前市教育委員会本堂です。この時は桜満開の春、今年は久しぶりに弘前城の桜も見られて、思い残すことはもうありません(欲望だらけです)。誓願寺境内にも桜が咲き誇り、春爛漫の雰囲気でした。年季の入った扁額ですねぇ。寺の歴史の古さと、格式の高さを感じさせます。堂内にご由緒が書かれていました。光明山 無量院 誓願寺 このお寺は、陸奥国津軽郡の「光明山 無量院 誓願寺」と言います。 慶長元年(丙申・1596年)に弘前藩の開祖である右京大守津軽為信公の時代に京都から法庵岌貞上人を御招きし、十八間四方の本堂に丈六(高さ16尺・約5m)の阿弥陀如来を安置して弘前城が危急の場合の後ろ構えの地として創立された。 元禄元年(正しくは改元前で貞享5年・1688年)3月18日回録(火事)の難に遭いその後数回(延享4年・1747年9月 と 天保10年・1839年2月)の祝融(火災)に罹り椽柱(垂木や柱)は悉く灰火になった。 現在の建物は、明治17年(1884年)の建築である。本堂前廊下は本来鴬張であり当地方の珍しい建築物である。平成26年10月2日 訳:福眞吉美平成26年11月吉日 吉澤秀香 謹書火事の言い回しってこんなに色々あるんですね・・・と、妙なところに感心しつつ、とても面白い由緒でした。特に創建当時の本尊は俗に言う丈六仏であり、相当な大きさだったようです。現存さえしていれば、文化財指定間違いないでしょうね続けて”つがるのお寺さん”の記述も見てみます。光明山 無量院 誓願寺浄土宗 梅福山報恩院専称寺末寺開山:法庵岌貞上人(円蓮社岌貞上人)開基:津軽初代為信本尊:阿弥陀三尊 過去に四度も火災にみまわれただけに「誓願寺は完全に再建すれば火事になるので、天井の一部を張らないとか、不完全にしておかなければダメ」ということになっている。元禄元年(1688年)、天保10年(1839年)、明治14年(1881年)と3度も火事に遭っているとあって、お年寄りたちの間にこうした”迷信”が伝わっているという。 火事で古記類が焼失したため詳しいことは不明だが、この寺は為信の代の慶長元年(1596年)南郡平賀町大光寺に建てられ、二代信枚の弘前築城の際、いまの弘前市下新町に移築されたとされており、藩政時代は寺領三十石を与えられた。 為信は永禄3年(1560年)に生母・桂屋貞昌大姉の菩提所として、大光寺に貞昌寺を建てたが、その際、自分が深く帰依していた円蓮社岌貞上人を京都から招いたという。この上人に誓願寺を建てさせ、のちに大光寺に三重塔も建てたが、この塔の開眼供養も上人が導師となって行った。 元和元年(1615年)8月、誓願寺は現在地に移され、重要文化財に指定されている有名な山門もこのころ建てられたらしい。 門だけは焼失を免れて現在に至っているが、建築手法からみて室町時代の特徴が顕著。その後、数回にわたって修理され、その都度、その時代の特徴が付加されているので建築物として貴重。この山門は京都誓願寺山門を模したもので、向きが変わっていることや美しい彫刻があることでも知られており、夏には多くの観光客が訪れる。 寺の人の話では「目の悪い人が本堂の柱隠しの一部を切り取ってふところに入れておくと目が治る」という言い伝えがあり、だれかが柱隠しを切り取っていった跡がある。 山門の修理は昭和51年12月15日に完成、面目を一新した。・・・。つがるのお寺さん 上巻 118.119ページ より引用こちらの由緒には、誓願寺は初め大光寺に建てられた、とあります。大光寺は弘前から東方にいった平賀の北西にある地域で、地名の由来ともなった鎌倉時代よりの古刹 大光寺が置かれていました。津軽為信の代まではかなり荘厳な伽藍だった様なんですが、津軽家の跡目争いや落雷などによって荒廃。今では後世になって再建された慈照閣(観音堂)が残るのみです。誓願寺はそんな大光寺とも関係があった寺院の様ですね。何とも歴史ある寺院なことか・・・!一説には、京都から招いた円蓮社岌貞上人を最初に住職に着かせたのは貞昌寺。そして隠居寺として誓願寺を建立したともされています。また、新編弘前市史 / 通史編1 212ページ によると、貞昌寺と同じく岩城専称寺(浄土宗 旧奥州惣本山)の末寺だったようで、だいぶ格式高い寺院だったのではないでしょうか。堂内です。丈六ではないものの、今でも相当に荘厳な本尊が置かれています。因みに天井画もかなり秀逸なんです。中央には龍、それを囲むように季節の花々が配されています。こちらも見どころの1つとなります。斜めから。弘前城の守りとして置かれた浄土宗の古刹 誓願寺でした。いつ参拝しても、門前の雰囲気が素晴らしく、今でも往時の寺町の雰囲気を醸しています。弘前には歴史的な建造物が多く在り、古都の風格をまとっていますが、この寺院もその一翼を担っているのです。すばらしき山門を、是非ご覧になりに来てください!御詠歌みだたのむ ゆかりもふかきせいがんじ まいるこころの たのもしきかな本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・五十八番札所:無一山 専求院 有名な閻魔・奪衣婆の像有する寺院調子に乗って撮った写真ギャラリー古参道の今
2025年06月13日
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八戸にある神社と言うと、櫛引八幡宮や蕪島神社など有名どころがいろいろ挙げられます。この神社たちは八戸南部氏との関りも強く、非常に篤く崇敬されていました。現在に至るまで参拝者は引きも切らず、県内外様々な土地から訪れます。今回紹介する神社は、前述の神社と並び立つ程の名社でもあり、また古社でもあります。一説には県内最古社とも言われており、由緒も面白いです。また、八戸の夏祭り 三社大祭の一翼を担う神社でもあり、当に地域の信仰の中心と言える、そんな神社です。法霊山 龗神社八戸城跡から徒歩数分、本八戸駅のすぐ近くに鎮座しているのは法霊山 龗神社。寺院のように山号らしきものがくっついているのは、その創建伝説に起因します。鳥居をくぐると、短い参道の先に拝殿が見えています。参道右手の建物には神輿だったか、三社大祭の山車だったかが収められています。手水舎です。龍の口から水が湧き出ます。手水舎の反対側には、特徴的な樹勢の木が生えています。参道左手の奥には神楽殿があり、5月第二土曜日・三社大祭の時などには法霊神楽と呼ばれる舞が執り行われます。僕も昨年5月に神楽を見に行きました。東北一般に言えることかもしれないんですが、神楽というと決まって権現頭が伴います。法霊神楽も例に違わず、カッカッカッとリズムよく一斉に歯を打ち鳴らすのは壮観です。この権現頭を使った舞以外にも、鶏舞という飾り帽子を被り鈴を持った童女が舞う神楽などもあり、それぞれの舞の違いや特徴を見比べながら見学できました。鶏舞は特に動きが大きく、かなり疲れそうですが、見ている分にはかなり縁起が良さそうに見えました。神楽殿の向いには八大龍神の石碑が置かれています。いよいよ拝殿です。横に広い社で、屋根は入母屋です。背後にはスギ林がひろがり、街中に在りながら厳かな雰囲気を放っていました。気になるご由緒を見てみましょう。法霊山龗神社祭神:高龗神・法霊大明神龗神社の歴史起源のご説明に関して 当神社の起源は諸説あり、現在記録上判明しているものは約900年前あたりからで、それ以前の創建年代などがはっきりと記録されたものが残っておりません。 それ以前に関しましては事実を確認する方法がないため、当神社としましては、通常平安後期ごろから判明している限りで説明させて頂くこととしております。 しかしながら、近年郷土史家はじめ研究者の方々の調査等によりおおよそ類推されるもの、または記録として文章化されていないものの伝承として伝わっている由緒などが伝えられておりますので、ここではその部分を含めた法霊山龗神社の歴史を述べるもので御座います。歴史・御由緒 1 ~ 神社の起源 当神社がある地域はその昔八戸村柏崎と呼ばれておりました。この柏崎という地区は、現在の八戸市中心街・内丸地区・柏崎地区などを含む八戸市の中心地域一体を指すそうです。 稲作を始め、集落という集合体の単位が見られ始めたころ、自然崇拝や産土信仰が各地で起こり始めた頃、柏崎地区の産土神としてこの地域の人々に祀られるようになりました。 これが法霊山龗神社のはじまりと言われます。 その後大和朝廷の蝦夷征討により中央の文化が伝わってくるとともに、地域の産土信仰が神道の体裁を取り始めます。 これは類推するに約1,200年程度前の出来事と考えられておりますので、柏崎村の産土信仰が誕生したのはこれより以前という事になりますが、はっきりした年代を示すものは存在しておりません。歴史・御由緒 2 ~ 農業発展と堤の守護神の合祀 稲作は日本人の食生活の中心を担ってきましたが、当然ながらその稲作技術は時代とともに技術発展を遂げ、畿内や四国近隣では、古くは飛鳥時代頃より溜池や堤などをつくり、農業用水の確保を行うようになりました。 北東北の地でも稲作は行われていましたが、寒冷な気候に弱い稲作はなかなか発展せず、堤などが築かれるようになったのは平安中期頃だそうです。 八戸地方でもその頃から堤が多数築かれるようになり、柏崎地域には柏崎堤が造られました。その堤を産土神に御守り頂く為の社が築かれ、この社は「三崎社」という神社となって祀られていくようになったそうです。 この三崎社は堤のほとりに鎮座していたそうで、現在の内丸3丁目から柏崎方面に存在していたようです。 また、名前の「三崎」とは、3つの崎を守護するという意味で、柏崎堤の他、八太郎崎(現在の河原木方面)、京ヶ崎(現在の八戸中心商店街一体)の守護として三崎社と称しました。歴史・御由緒 3 ~ 修験者「法霊」の御霊を合祀 鎌倉時代初期、八戸は日照り続きで農作物に深刻な被害が出ていました。この頃、今の神奈川県小田原市で生まれ、和歌山県熊野や京都の寺院門跡などで修業を積んだ「法霊」という高い徳を持った霊験あらたかな山伏修験者が、様々な土地で教えを説きながら東北方面へ北上しました。そして先祖代々の地と伝え聞いていた八戸に辿り着きます。 八戸に入った法霊は、不作に疲弊する人々に乞われて雨乞い祈祷を執り行い、寝食を忘れ三日三晩に及ぶ祈祷を斎行したものの、その甲斐むなしく雨を降らせることが出来ませんでした。 人々の落胆ぶりに心を痛めた法霊は、その身を生贄に三崎社内の池に身投げし、その功を得ようとしたところ、その池から龍に化身した法霊がたちまち天に登り、にわかに暗雲立ち込め、恵の雨を降らせたという伝説が伝わっています。この御神徳に感謝し、法霊の御霊を「法霊明神」として三崎社に合祀、社号を「法霊社」と改め、主祭神の一柱としました。 以上の経緯から法霊の御霊はこの地で祀られる事となった訳ですが、法霊明神は分祀分霊を正式に行っていない為、世界で唯一当社にのみ祀られる神として鎮座する事となりました。歴史・御由緒 4 ~ 南部藩誕生から八戸藩へ 江戸時代になり、盛岡城を政庁とする南部藩が誕生しました。 南部藩は現在の岩手県から青森県の太平洋側一帯の地域を与えられ、各地に支城などが築かれていきました。 八戸にも現在の三八城公園に八戸城が築かれ、同場所に鎮座していた法霊社はその館神となります。 その後、南部藩は盛岡藩8万石と八戸藩2万石へ分割され、 これに伴い法霊社は八戸藩の藩神の地位となり、八戸総鎮守として大名家によって二の丸北側に遷座されました。歴史・御由緒 5 ~ 神仏分離令以降から現在へ 明治に入ると神仏分離令が発令され、法霊社も高龗神を主祭神として法霊山龗神社と改称され、廃仏毀釈の難を逃れて現在に至ります。特に山間部でもない平坦な都市部に位置する神社にも関わらず、法霊山と山号を冠しているのはその為です。 現在は神社神道の一社として鎮座しておりますが、世情と共に性質や解釈も広義となり、今では農耕の守護の性格は薄れ、産業の豊作の意を込めて産業商売の神、法霊の徳が人々を繋いだ事から人身縁故の神など、八戸の総鎮守として地域の人々にお祀り頂いております。陸奥國八戸御領内総鎮守 法霊山龗神社 / 歴史 より引用稲作の始まりの頃、当地域の産土神として信仰が形成され、そこに修験僧 法霊への信仰が合わさって現在の形になったようです。前者も後者も雨乞いという特性が共通しており、説明書きにもある通り稲作が如何に重要視されていたかがよく分かります。そしてこちらの説明書きも見てみましょう。おがみ神社 悲劇の名将と世にうたわれた源九朗判官義経は兄の頼朝に追われ文治5年(1189年)4月平泉の高館において三十一歳の若さで自害したといわれている。 短くも華麗だったその生涯を想い、後世の人々は「義経はその前年にひそかに平泉を脱出し、北をめざして旅に出た」という伝説を作りあげたのである。 世にいう「判官びいき」であろう。 ひそかに北へ逃れた義経は、八戸に上陸し市内の高館に住んだといわれる。 元久年間(1205年)義経夫人(京の久我大臣の姫君)が亡くなり京ヶ崎に葬り、法霊(ほうりょう)大明神とあがめられた。おがみ神社がその場所だといわれており、八戸の義経伝説の記録『類家稲荷大明神縁起』が所蔵されている。公益社団法人 八戸観光コンベンション協会龗神社も漏れなく義経北行伝説の舞台となっているんですが、それだけではなく、類家稲荷大明神縁起という八戸の義経北行伝説の種本を所蔵しているんです。これがもととなり、八戸周辺に義経ゆかりの地が幾つも出来たんですね。また、この説明書きの中では法霊大明神の正体は義経の正妻の姫君だとしています。その姫君が切腹したのが龗神社の鳥居が建っている所とも言われているようです。これらの由緒を読んだ時に思ったこととしては、元から雨乞いに関する神格が祀られており、その神格は法霊と呼ばれていたんではないんでしょうか。名は分かっていても、実際にそれがどの様な神格かは分からず、それを補うように修験僧 法霊や↑の姫君の話が付け足されていったんだと思っています。法霊の正体が幾つもあるのは、そのような神格の不明瞭さがあったからなんではないでしょうか、知らんけど。更に明治の神仏分離の際に龗神社と改称している所を見るに、開創から近代まで修験的な特徴が強い霊場だったんではないでしょうか。祀っているのも元修験僧とされる法霊ですし、同じ修験の方たちの崇敬を集めていても不思議ではありません。こうした修験的特徴を持つことから、神仏混淆の要素が強く、それ故に神社名に山号が入っているんでしょう。次に扁額です。斜めから。市の中心街に鎮座する雨乞いの社、法霊山 龗神社でした。県内最古社と言われるだけの由緒と歴史を持っていましたが、やはり一番気になるのは一番最初にどのような神格が祀られていたのかということです。農耕神・雨乞いの神というのは分かるんですが、いかんせん神名となると判然としません。現在は高龗神と法霊大明神が祀られていますが、前者は雨乞いの神=貴船神社=高龗神、後者は創建伝説より祭神の1柱に加えられたんです。祭神の1柱に加えられたということは、違う神格がもともと主祭神として祀られていたということ・・・。うーん、知りたい、知りたい・・・。以前貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・陸奥國八戸御領内総鎮守 法霊山龗神社以上です。
2025年07月09日
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津軽一円の曹洞宗寺院が集められた弘前禅林街。黒門の先に厳かな山門を構える長勝寺が有名ですが、赤門の先、ひとつ隣の裏通りの奥には津軽曹洞宗を統括する格式の寺院が境内を構えているのです。長勝寺は津軽初代為信から連なる累代の菩提寺ですが、その隣に位置する宗徳寺は為信の父 武田守信の菩提寺となっています(実父ではないという説もある)。父子、その子孫が並び立つ構図・・・非常にエモいですね2025.9.21津軽八十八霊場五十三番札所:耕春山 宗徳寺黒門の右手前にある赤門をくぐると、禅林街随一の大伽藍 藤先寺が寺門を開き、奥には大きな本堂が悠々と座していました。月峰院のある曲がり角を奥へ奥へと進むと、今回紹介する宗徳寺の山門が見えてきます。長勝寺のものより小ぶりではありますが、造りや色合いは甲乙つけ難いほどに素晴らしいんです。時を経て少し落ち着いた色合いになった外観がたまりません山門をくぐると右手には、おそらく鎮守のものかと思われる社が置かれています。禅林街の多くの寺院は鎮守として稲荷社を置いている所が多いみたいです。祭神はおそらく荼枳尼天かと思われますが、ここはどうでしょう。おっ、ありましたね。津軽三十三観音の写し霊場の石碑です。ここは三十二番札所に対応するみたいですね。街なかの寺院にしては境内に緑が多く、不思議と気持ちが落ち着きます。木々を掻き分けて射す木漏れ陽の先に、立派な本堂が置かれていました。ご由緒です。耕春山 宗徳寺曹洞宗 圓通山禅林寺末寺(もとは金沢龍光山宗徳寺末寺)開山:明室禅哲和尚本尊:釈迦三尊 宗徳寺は、もと長福山 耕春院といい、禅林三十三ヵ寺の中では、格式の高い寺だった。耕春院は、金沢にあった前田家の菩提寺である宗徳寺の末寺で、為信が実父 武田紀伊守守信のために、天正年間(1573~1591年)堀越に創建したとされている。 武田守信の兄は大浦城主だった大浦為則。当時、武田守信は堀越城主として兄為則の津軽進出に備えていたが、そのころ大浦氏の勢力はまだ弱く、石川城には南部高信がいて強大な支配力を誇っていた。しかし、南部では同族同士のケンカ「九戸の乱」を起こし、石川の高信は大浦氏にも出陣を頼んだ。大浦為則は、万が一を考えて自分の代わりに弟の武田守信を出陣させたところ、守信は永禄10年(1567年)南部桜庭の合戦で武運つたなく戦死した。守信の実子 為信はその後、伯父 為則の養子に迎えられて大浦城主を継いだ。やがて為信は津軽を統一したが、この間、亡き父の霊を弔うため堀越に耕春院を、また、母の菩提所として大光寺に貞昌寺を建立している。為信は耕春院を建てる際、越後から明室禅哲和尚を招いて開山とした。 為信の二男 惣五郎が死亡した時、三男の信枚(津軽二代藩主)が、その供養のため耕春院へ寺領100石を与えた。また、近くにあった曹洞宗の寺を耕春院の門下にした。慶長年間(1596~1615年)に、いまの弘前市西茂森に移した際、耕春院を主座として、常源寺・藤先寺・安盛寺・盛雲院・正伝寺などの末寺をその両側に並べた。 耕春院は、為信の実父の菩提所だけに格式が高く、一般の檀家がない。わずか140を数える檀家は、津軽家とつながりのある重臣や家老級の家ばかりだ。このため、廃藩と同時に寺領が廃止されて非常に困った。さらに明治9年(1876年)、火事で全焼。この時の火事は境内の墓所に立てていた火のついたロウソクを、カラスがくわえて本堂の屋根に、とまったのが原因とされている。庫裏だけは本町にあった当時の豪商金木屋が建ててくれたが、廃寺同様になってしまった。 しかし、三十二世の棟方唯一住職が寺の再建に立ち上がり、自らたくはつをして、明治44年から大正2年までかかって本堂・位牌堂・山門・鐘楼を建立した。そして、棟方住職の代の大正元年に、これも廃藩で廃寺同様に追い込まれていた金沢の宗徳寺を耕春院に合併させ、耕春山 宗徳寺と改称した。 棟方住職の高弟である黒滝精一現住職が、 このあとを継いで現在に至っている。 高山市の素玄寺、柏崎の香積寺、津市の四天王寺、弘前市の長勝寺ほか12寺が末寺。つがるのお寺さん 上巻 32.33ページ より引用津軽初代為信の父 武田守信の菩提寺で、長福山 耕春院という山寺号を名乗っていました。明治初年、様々な政策が発布され、世の中の構造が大きく変わって行くときに、あやうく廃寺という危機に陥りますが、時の住職 棟方唯一氏によって伽藍が整えられます。その時、かつての本寺で廃寺状態であった金沢の龍光山 宗徳寺を合併し、寺号をそのまま受け継ぎ、代わりに自身の寺号を山号にして、今に至ります。御堂の随所には、鶴や亀など目出度い図像が彫り込まれています。懸魚の所にも優雅に空を舞う鶴が!そして向拝部分でふと上を見てみると、見事な龍が描かれていました。おそらく火災予防の意味があるのではないでしょうか。堂内須弥壇も相当に豪華です。左右に龍が舞い、下は極楽の花々で飾られておりました。本尊の釈迦三尊も、御簾で顔が隠され雅な感がありますね。斜めから。宗徳寺の本寺である金沢宗徳寺は前田家の菩提寺だったようです。前田家の出で有名な前田利家は奥州仕置の際に津軽為信を”表裏の仁(裏表のある人物)”と称しており、あまり良く思っていなかったようです。そんな為信の父親の菩提寺に、自身の菩提寺が吸合されているとなると、いったいどんな気持ちなんでしょうかね。不思議な縁もあったもんです。宗徳寺は金沢宗徳寺の寺格を受け継ぎ、今では県内外に多数の末寺を持つに至っています。御詠歌ゆめさめて のちのそいじとおもうなよ よひからまもる じひのたまくら本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・五十四番札所:金龍山 盛雲院 乳井氏所縁の禅寺、盛雲院
2026年05月13日
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奥州南部糠部三十三観音三番札所:岡田山観音に向かう途中に鳥居を見つけたのでくぐってみることに。2024.5.4籠田山月山神社鳥居の先の道は山の方に伸びていますね・・・。神社仏閣巡りは脚が命です。参道脇の御堂です。例のごとく何の御堂かは判別できませんでした。周りの芝なども刈り込まれていたので、月山神社に深くかかわるものなんだとは思いますが・・・。先は見えているので、まだ優しい方の階段ですね。弘前の久渡寺の階段は先が見えていてもつらいですがね。見上げるほどの石段がありますから・・・。二の鳥居までは3分かからず着く位です。では拝殿を見てみましょう。拝殿です。屋根をよく見ると九曜の星がポチポチとついています。南部家御用達の神社の証拠でしょう龍や獅子もかなりリアルな感じです。特に獅子がまとっている雲のようなものの造詣が見事です。しばらくまじまじと眺めていました。境内内の切株に乗っている謎石。御由緒です。御祭神 月夜見命籠田山は遠くから見ると鶴が翼を広げたような地形なので鶴輪山とも呼び、月山神社を九星寺と称しました。向鶴の根城南部家九曜紋の由来が伝えられています。時は根城南部時代までさかのぼり、応永18年(1411年)十代光経公が秋田征伐の際、陣中で出羽月山に戦勝祈願したところ、その夜二羽の鶴が舞い天空より九曜の星が落ちてきた夢を見ました。これは吉兆の知らせだということで翌日の戦いでは大勝利を得たのでした。十一代長安公は永享8年(1436年)神恩報謝として当地に月山神社の建立を勧請し、毎年旧暦9月29日には必ず藩主が参詣しました。明和5年八戸藩主五代信興公が絵馬を奉納したこと等から「殿様の神社」とも呼ばれました。歴史の深い堂舎それが、籠田山月山神社です。御城下三十三観音 十三番札所御詠歌はるばると めぐりて聞けば籠田山 大悲のうみを てらすつきがね平成21年2月吉日拝殿斜めからです。何気なく入った神社に素晴らしい謂れがあると嬉しいですね。今回は南部家ゆかりの神社でした。これでまた一つ南部について詳しくなれた気がします。この調子で南部の歴史を探っていきたいですね以上です。
2024年05月11日
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延喜式神名帳とは・・・延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう、しんめいちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十の神名式上・下のことで,この部分だけがとくに取り出されて「延喜式神名帳」と呼ばれるようになった。延喜式によって「官社」に指定する神社一覧である。wikipedia / 延喜式神名帳 より引用とwikiにあります。当時の律令制によって分けられた国・郡ごとに、神名と所在、大小の別、社数などが書かれています。この延喜式に名前が見える神社を式内社といい、存在していることは知られているが記載がない神社を式外社というようです。式内社や式外社が現在のどの神社に対応しているのかについては、今でも盛んに調査されているようです。式内社の後裔と考えられる神社のことを論社・比定社などと呼び、一種の敬称の様になっています。この記事では、式内社とその論社を並べて楽しんでみたいと思います。青森県民故、式内社とは縁遠い存在ですが、それだけに参拝出来た時の喜びは大きいです。太字で延喜式内社を示し、下に論社・比定社を並べています。論社・比定社は参拝したところを中心に載せていきたいと思います。参拝していない場合は”未”と付いています。個人的に延喜式内社とされている神社には、万葉仮名で神社名を綴ったものが多いと感じました。延喜式神名帳:式内社と式外社東山道陸奥国延喜式編纂当時、現在の青森県の領域は朝廷の支配範囲ではなく、それ故青森県には式内社が一社もないようです100座の神名が記録され、その内訳は1社1座で、大社は15社、小社は85社です。斯波郡:1座 / 小1社現在の紫波町と矢巾町をあわせた領域がだいたいの範囲とされています。奥六郡の1つです。式内小社:志賀理和氣神社紫波町:志賀理和氣神社 未江刺郡:1座 / 小1社膽澤郡と隣り合って存在する郡で、岩手県奥州市の東半分がだいたいの領域です。ここも奥六郡の1つと言われています。式内小社:鎮岡神社奥州市:鎭岡神社膽澤郡:7座 / 小7社岩手県の南西に置かれた郡で、現在の金ヶ崎町と奥州市の西半分がだいたいの範囲です。伊沢郡・胆沢郡とも書かれ、俗に言う奥六郡の一つです。式内小社:磐神社奥州市:磐神社 未式内小社:駒形神社奥州市:駒形神社 本社金ヶ崎町:駒形神社 里宮 未式内小社:和我叡登挙神社奥州市:衣川月山神社 境内の奇岩式内小社:石手堰神社奥州市:石手堰神社式内小社:膽澤川神社奥州市:於呂閇志膽澤川神社 未式内小社:止止井神社奥州市:止々井神社 未式内小社:於呂閇志神社奥州市:於呂閇志神社 未奥州市:於呂閇志膽澤川神社 未氣仙郡:3座 / 小3社大船渡市の一部から陸前高田市を含む領域が主な範囲とされています。式内小社:理訓許段神社大船渡市:尾崎神社 二十八番札所:尾崎神社 大善院(蛸浦観音堂) 海辺の小山に広がる神仏習合の霊場と観音堂陸前高田市:氷上神社式内小社:登奈孝志神社陸前高田市:氷上神社式内小社:衣太手神社陸前高田市:氷上神社磐井郡:2座 / 小2社ほぼ現在の岩手県一関市・平泉町を併せた範囲が領域だとされます。神社もそうですが、歴史の有る寺院などが多く集まるスポットでもあります。式内小社:配志和神社一関市:配志和神社式内小社:儛草神社一関市:儛草神社 未桃生郡:6座 / 大1社・小5社石巻市北半分と東松島市を合わせた範囲が主な領域だったようです。元は牡鹿郡でしたが、8世紀以降に分離する形で成立したようです。式内小社:飯野山神社石巻市:飯野山神社(吉野) 未石巻市:飯野山神社(宮下) 未式内小社:日高見神社石巻市:日高見神社 未式内小社:二俣神社石巻市:二俣神社 未東松島市:石上神社? 未式内小社:石神社石巻市:葉山神社 未石巻市:石神社 未石巻市:龍口神社 未気仙沼市:岩倉神社 未東松島市:石上神社 未東松島市:鹿石神社 未名神大社:計仙麻大嶋神社気仙沼市:大島神社 未気仙沼市:御崎神社南三陸町:計仙麻大嶋神社 未式内小社:小鋭神社石巻市:賀茂小鋭神社 未気仙沼市:大島神社 未石巻市:白鳥神社(城内) 未牡鹿郡:10座 / 大2社・小8社石巻市の南半分を占める範囲が主な領域だったようです。式内社の一部は奥州三十三観音霊場の札所とも深く結びついており、一緒に参拝することをお勧めします。名神大社:零羊埼神社石巻市:零羊埼神社式内小社:香取伊豆乃御子神社石巻市:香取伊豆乃御子神社 未石巻市:和渕神社 未式内小社:伊去波夜和氣命神社石巻市:伊去波夜和氣命神社(水沼) 未石巻市:伊去波夜和氣命神社(大宮) 未式内小社:曾波神社石巻市:曾波神社 未名神大社:拝幣志神社石巻市:拝幣志神社 未式内小社:鳥屋神社石巻市:鳥屋崎神社 未石巻市:羽黒山鳥屋神社 未式内小社:大嶋神社石巻市:大島神社 未石巻市:金華山黄金山神社? 未式内小社:鹿嶋御兒神社石巻市:鹿島御児神社 未式内小社:久集比奈神社石巻市:久集比奈神社 未式内小社:計仙麻神社石巻市:朝日山計仙麻神社 未石巻市:金華山黄金山神社? 未気仙沼市:羽黒神社 未南三陸町:計仙麻大嶋神社? 未小田郡:1座 / 小1社現在の涌谷町の一部が主な領域だったようです。式内小社:黄金山神社涌谷町:黄金山神社 涌谷町:黄金山神社(涌谷) 産金の里と金山守護の社石巻市:金華山黄金山神社 未志田郡:1座 / 小1社主に大崎市の東南部一帯がだいたいの範囲とされているようです。式内小社:敷玉早御玉神社大崎市:敷玉早御玉神社 未玉造郡:3座 / 小3社主に大崎市の西半分がだいたいの範囲とされています。式内小社:温泉神社大崎市:温泉神社式内小社:荒雄河神社大崎市:荒雄川神社(鳴子温泉) 未大崎市:荒雄川神社(岩出山) 未式内小社:温泉石神社大崎市:温泉石神社 未宮城郡:4座 / 大2社・小2社、式外社1社現在の宮城県仙台市北半分と塩竈市、利府町、七ヶ浜町を足したような領域範囲をもっていた様です。陸奥国府にもほど近く、大社も2社と多いです名神大社:志波彦神社塩竈市:志波彦神社 塩竈市:志波彦神社・鹽竈神社 二社で一つの陸奥國一之宮名神大社:鼻節神社七ヶ浜町:鼻節神社 未式内小社:伊豆佐賣神社利府町:伊豆佐比賣神社 未式内小社:多賀神社多賀城市:多賀神社(高崎) 未多賀城市:陸奥総社宮 未多賀城市:浮嶋神社 未多賀城市:多賀神社(市川) 未式外社:鹽竈神社塩竈市:鹽竈神社 塩竈市:志波彦神社・鹽竈神社 二社で一つの陸奥國一之宮賀美郡:2座 / 小2社現在の加美町とだいたい同じ範囲だったとされています。式内小社:飯豊神社加美町:飯豊神社 未式内小社:賀美石神社加美町:賀美石神社 未色麻郡:1座 / 大1社現在の加美町とだいたい同じ範囲だったとされています。名神大社:伊達神社色麻町:伊達神社 未黒川郡:4座 / 小4社現在の黒川郡とほぼ同等の領域が範囲とされています。式内小社:須伎神社大衡村:須伎神社 未大和町:鶴ヶ峯八幡宮 未式内小社:石神山精神社大和町:石神山精神社 未式内小社:鹿島天足別神社富谷町:鹿島天足別神社 未式内小社:行神社富谷町:行神社 未大和町:船形山神社 未名取郡:2座 / 小2社現在の名取市とほぼ同等の領域が範囲とされています。熊野三山の写し霊場が造られるなど、奥州きっての信仰の地でもあります。式内小社:多加神社仙台市:多賀神社 未名取市:多賀神社 未式内小社:佐具叡神社名取市:佐具叡神社(佐倍乃神社境内) 名取市:藤原実方公の墓 歌枕見る事かなわぬ実方の君柴田郡:1座 / 大1社伊具郡の北に位置し、現在の宮城県大河原町・村田町・柴田町・川崎町などを合わせた範囲が領域とされているようです。この内、村田町は蔵王町と同じく白鳥信仰が盛んな地域です。名神大社:大髙山神社大河原町:大高山神社(新開) 未大河原町:大高山神社(台部) 未亘理郡:4座 / 小4社宮城県南部の沿岸、現在の亘理町・山元町を合わせた領域が主な範囲とされています。現代でいうところの県境にあたりますかね。式内小社:鹿嶋伊都乃比氣神社亘理町:鹿島緒名太神社 未亘理町:鹿嶋天足和気神社 未式内小社:鹿嶋緒名太神社亘理町:鹿島緒名太神社 未亘理町:鹿嶋天足和気神社 未式内小社:安福河伯神社亘理町:安福河伯神社 未式内小社:鹿嶋天足和氣神社亘理町:鹿嶋天足和気神社 未伊具郡:2座 / 小2社宮城県南部の角田市・丸森町周辺が領域とされます。中央を阿武隈川がながれており、それによって東西に分けられています。東半分を東根、西半分を西根と呼んでいるようです。式内小社:熱日髙彦神社角田市:熱日高彦神社式内小社:鳥屋嶺神社丸森町:鳥屋嶺神社 未苅田郡:1座 / 大1社現在の宮城県南西の蔵王町や七ヶ宿町、白石市など、蔵王連山の麓の地域が領域とされていたようです。論社の一つがある町は、現在も遠苅田などと呼ばれ、名称の痕跡が残されています。名神大社:苅田嶺神社蔵王町:刈田嶺神社(蔵王町宮)蔵王町:蔵王刈田嶺神社(里宮) 蔵王町:蔵王刈田嶺神社 里宮 奥羽山脈の名峰祀る神社(冬期)蔵王町:蔵王刈田嶺神社(奥宮) 蔵王町:蔵王刈田嶺神社 奥宮 奥羽山脈の名峰祀る神社(夏期)宇多郡:1座 / 大1社福島県浜通り最北の郡です。現在の相馬市・新地町などが領域とされます。岩手県や青森県の南部地方で篤く信仰される”そうぜん様”。その神格の伝承がここにも残っています。名神大社:子負嶺神社新地町:子眉嶺神社 新地町:子眉嶺神社 遠く相馬に鎮座するそうぜん宮標葉郡:1座 / 小1社福島県浜通りの中ほど、現在の大熊町・浪江町・双葉町・葛尾村にあたる範囲に置かれたとされます。式内社の苕野神社は東北大震災で被災しましたが、現在は社殿が再建され参拝可能です。式内小社:苕野神社浪江町:苕野神社磐城郡:7座 / 小7社福島県浜通り地方に置かれた郡で、現在のいわき市とだいたい同じ範囲が領域とされます。延喜式内社の7社は、街の観光資源としてホームページなどで紹介されるなど、活発に利用されています。このブログでも紹介しているので、興味のある方は下のリンクからどうぞ!・延喜式内磐城七社式内小社:二俣神社いわき市:二俣神社 いわき市:二俣神社 謎多き磐城の古八幡社式内小社:子鍬倉神社いわき市:子鍬倉神社式内小社:大國魂神社いわき市:大國魂神社式内小社:佐麻久嶺神社いわき市:佐麻久嶺神社式内小社:鹿嶋神社いわき市:鹿島神社式内小社:住吉神社いわき市:住吉神社 いわき市:住吉神社 東北1社の式内住吉神社式内小社:温泉神社いわき市:温泉神社 いわき市:温泉神社 いで湯の郷の古神社信夫郡:5座 / 大1社・小4社福島市の中央・南部を合わせた領域が主な範囲です。古墳時代の頃には既に朝廷の勢力圏内にあったようで、街の中央に鎮座する信夫山を取り囲む形で式内社が鎮座しています。式内小社:鹿島神社福島市:鹿島神社(鳥谷)福島市:鹿島神社(岡島)福島市:鹿島神社(小田)国見町:鹿島神社 / 医薬神社式内小社:黒沼神社福島市:黒沼神社(堂殿)福島市:黒沼神社(金沢)福島市:黒沼神社(浅川)名神大社:東屋沼神社福島市:東屋沼神社式内小社:東屋國神社福島市:東屋國神社式内小社:白和瀬神社福島市:白和瀬神社磐瀬郡:1座 / 小1社福島県中通り地方の南、現在の須賀川市周辺が領域であったとされます。桙衝神社境内には縄文時代の祭祀場遺跡があり、その頃から神聖視されてきた場所だったんではないでしょうか。式内小社:桙衝神社須賀川市:桙衝神社白河郡:7座 / 大1社・小6社現在の白河市・西白河郡・東白川郡・石川郡を併せた領域だとされています。陸奥国の中でも南端に位置し、坂東二国と陸奥国の境となる白河関がおかれたところでもあります。名神大社:都都古和氣神社棚倉町:馬場都都古和氣神社 棚倉町:馬場都都古和氣神社 農耕神祀る棚倉の古社白河市:都々古和気神社(三森) 白河市:都々古和気神社(三森) 鉾を突き立てた聖なる山と古神社棚倉町:八槻都都古別神社 棚倉町:八槻都々古別神社 八溝山麓に鎮座する神仏混淆の神社玉川村:都々古別神社 玉川村:都々古別神社 玉川村の開拓祖神、筒子別のかみやしろ式内小社:伊波止和氣神社古殿町:伊波止和気神社 古殿町:伊波止和気神社 若木茂る古殿の古社白河市:白河神社白河市:磐戸別神社 白河市:磐戸別神社 関山の山神祀る古社式内小社:白河神社白河市:白河神社白河市:鹿嶋神社 白河市:鹿嶋神社 白河の街の鹿嶋の社式内小社:八溝嶺神社大子町:八溝嶺神社式内小社:飯豊比賣神社白河市:飯豊比売神社式内小社:永倉神社西郷村:永倉神社式内小社:石都都和氣神社石川町:石都々古和気神社耶麻郡:1座 / 小1社福島県会津地方の北部、現在の北塩原村・西会津町・磐梯町・猪苗代町周辺が領域とされます。東北の仏教文化の中心地として有名な地域です。式内小社:磐椅神社猪苗代町:磐椅神社 未磐梯町:磐梯神社 未會津郡:2座 / 大1社・小1社福島県会津地方の内、南会津・会津若松市にあたる範囲が領域とされたようです。名神大社として有名な伊佐須美神社は、現在仮社殿で運営しており、拝殿・本殿の再建が待ち遠しいです。名神大社:伊佐須美神社会津美里町:伊佐須美神社 会津美里町:伊佐須美神社 父子再会の地に建つ総鎮守の社式内小社:蠶養國神社会津若松市:蠶養國神社 会津若松市:蠶養國神社 会津の中心街にある式内社下野国毛野一族の内、北東に勢力を伸ばした下毛野一族が居住した国とされています。五世紀頃には那須一族と下毛野一族両者の支配領域を合わせて下野国として制定されました。11座の神名が記録され、その内訳は1社1座で、大社は1社、小社は10社です。都賀郡:3座 / 小3社足利市と佐野市を除く栃木県南西の大部分がだいたいの領域でした。この郡に国分寺が設置されたと伝わります。全て式内小社ですが、特に大神神社は現在大きな境内を持つ神社に様変わりしており、非常に見ごたえが有りました。式内小社:大神神社栃木市:大神神社栃木市:大平山神社 未式内小社:大前神社藤岡町:大前神社 未式内小社:村檜神社栃木市:村檜神社 未河内郡:1座 / 大1社栃木県の中央、宇都宮市・日光市・下野市・鹿沼市にかかる縦長の領域が主な範囲とされています。日光の山々を祀る二荒山神社が鎮座する地として、山岳信仰の中枢となっています。名神大社:二荒山神社宇都宮市:宇都宮二荒山神社日光市:日光二荒山神社 日光市:日光二荒山神社 日光の神々祀る関東総鎮守の社芳賀郡:2座 / 小2社栃木県の南東、現在の益子町・茂木町・市貝町・芳賀町・真岡市・宇都宮市の一部を含む範囲がだいたいの領域とされています。古社の他、坂東三十三観音霊場の札所となっている古刹も多い印象です。式内小社:大前神社真岡市:大前神社式内小社:荒樫神社茂木町:荒橿神社 未那須郡:3座 / 小3社栃木県の北東、那須町・那珂川町・大田原市・那須塩原市・那須烏山市を含めた範囲がだいたいの領域とされています。古代は下野国とは異なる那須国が置かれており、統治者の墓とされている笠石は、日本三古碑に数えられています。式内小社:健武山神社那珂川町:健武山神社式内小社:温泉神社那須町:那須温泉神社 那須町:那須温泉神社 温泉街の奥に鎮座する那須温泉総鎮守の社大田原市:大宮温泉神社式内小社:三和神社那珂川町:三和神社寒川郡:2座 / 小2社思川の両岸にあたる地域が主な領域とされているようです。他の郡に比べてかなり小さいですが、式内社として2社もの神社が知られているのは面白いです。式内小社:阿房神社小山市:安房神社 未式内小社:胸形神社小山市:胸形神社 未小山市:網戸神社 未上野国毛野一族の内、南西に勢力を伸ばした上毛野一族が居住した国とされます。下野国と同じく、片岡郡・緑野郡・甘良郡の3郡を統括した羊太夫について書かれた多胡碑が、日本三古碑に指定されています。羊という名は日本由来の物ではなく、大陸の遊牧民の姓だとも言われているようです。坂東の他の国同様、早くから拓けていた地域みたいですね。12座の神名が記録され、その内訳は1社1座で、大社は3社、小社は9社です。片岡郡:1座 / 小1社高崎市中央のほんの一部が主な領域だったようです。上野国の郡の中でも最小の郡だそう。式内小社:小祝神社高崎市:小祝神社 未甘樂郡:2座 / 大1社・小1社群馬県の南西、下仁田町・南牧村・甘楽町などを合わせた範囲が主な領域だったようです。特に渡来人が多く移り住んだ地域らしく、馬産が盛んだったことと無関係ではないでしょう。名神大社:貫前神社安中市:咲前神社 未富岡市:一之宮貫前神社 未式内小社:宇藝神社富岡市:宇藝神社 未群馬郡:3座 / 大1社・小2社高崎市の中央とその周辺にまたがる範囲が主な領域とされていたようです。”群馬”は”くるま”と読まれ、字の通り馬産が盛んな地域であったようです。名神大社:伊加保神社渋川市:伊香保神社 未吉岡町:三宮神社 未渋川市:若伊香保神社 未式内小社:榛名神社高崎市:榛名神社 未高崎市:諏訪神社(東明屋) 未高崎市:椿名神社(権田) 未式内小社:甲波宿禰神社渋川市:甲波宿禰神社(川島) 未 東吾妻町:甲波宿禰神社 未渋川市:武内神社 未渋川市:甲波宿禰神社(行幸田) 未勢多郡:1座 / 大1社群馬県の東方、みどり市と前橋市の大部分、桐生市の西半分が主な領域だったようです。かつては赤城山を中心として、その周囲の麓の地域一帯が領域でしたが、後に縮小してしまいました。名神大社:赤城神社前橋市:赤城神社(三夜沢) 未前橋市:二宮赤城神社 未前橋市:赤城神社(赤城山) 未前橋市:赤城神社(横室) 未山田郡:2座 / 小2社桐生市の東半分、みどり市の南半分が主な領域だったようです。片岡郡ほどでは無いですが、こちらもかなり小さな郡でした。式内小社:賀茂神社桐生市:賀茂神社 未式内小社:美和神社桐生市:美和神社 未那波郡:2座 / 小2社伊勢崎市の南半分とその周辺が主な領域だったようです。片岡郡に次いで小さな郡でしょう。式内小社:火雷神社玉村町:火雷神社 未式内小社:倭文神社伊勢崎市:倭文神社 未佐位郡:1座 / 小1社那波郡の北東にあった郡で、伊勢崎市の北半分が主な領域だったようです。・・・こちらも相当に小さい郡ですねぇ。式内小社:大國神社伊勢崎市:大國神社 未信濃国諏訪を始めとする幾つかの領域から成る国です。現在の長野県と岐阜県の一部が主な領域だったとされています。信濃国には48座の神名が記載され、その内訳は大社5社(7座)で、小社41社(41座)です。伊那郡:2座 / 小2社現在の飯田市・伊那市・駒ヶ根市・上伊那郡・下伊那郡を併せた範囲が主な領域だったようです。遠江国や三河国と接しており、天竜川に沿って集落が造られています。信濃と東海地方を繋ぐ主要街道が走る地域です。式内小社:大山田神社下條村:根ノ神社 未下條村:大山田神社 未阿南町:深見諏訪神社 未式内小社:阿智神社阿智村:阿智神社 未阿智村:安布知神社 未諏訪郡:2座 / 大1社言わずと知れた神話が息づく土地です。縄文時代から古代に至るまで人の往来があり、良質な黒曜石の産地としても知られています。狩猟採集民の信仰が残る土地とも言われているみたいですね。諏訪信仰の根源地でもあります。名神大社:南方刀美神社茅野市:諏訪大社 上社 前宮諏訪市:諏訪大社 上社 本宮下諏訪町:諏訪大社 下社 春宮下諏訪町:諏訪大社 下社 秋宮筑摩郡:3座 / 小3社長野県西部に広がる広大な郡です。木曽群とその北部にある諸郡を併せた範囲が主な領域とされます。乗鞍岳や木曽駒ヶ岳、御嶽山など、ハイパープロミネンス峰が林立する地域です。式内小社:岡田神社松本市:岡田神社 未式内小社:沙田神社松本市:沙田神社 未式内小社:阿禮神社塩尻市:阿禮神社安曇郡:2座 / 大1社・小1社長野県北西部にある郡で、筑摩郡の北部にありました。現在の安曇野市や大町市、北安曇郡を中心とした範囲が主な領域だったとされています。名神大社:穂高神社安曇野市:穂高神社 未式内小社:川會神社池田町:川会神社 未更級郡:11座 / 大1社・小10社主に長野市南部の一地域を範囲とする小群です。領域は狭くとも、信濃随一とも言える式内社数を誇ります。式内小社:布制神社長野市:布制神社(石井) 未長野市:布制神社(布施五明) 未長野市:臼女神社 未長野市:布制神社(山布施) 未式内小社:波閉科神社千曲市:波閇科神社 未式内小社:佐良志奈神社千曲市:佐良志奈神社 未式内小社:當信神社長野市:當信神社 未式内小社:長谷神社長野市:長谷神社 上社 未長野市:長谷神社 下社 未式内小社:日置神社生坂村:日置神社(村上) 未生坂村:日置神社(北陸郷) 未長野市:日置神社 未式内小社:清水神社長野市:清水神社(三水) 未長野市:清水神社(田野口) 未長野市:清水神社(真島町) 未千曲市:清水神社 未式内小社:氷鉋斗賣神社長野市:氷鉋斗賣神社 未長野市:更級斗女神社 未式内小社:頤気神社長野市:頤気神社(小島田町) 未長野市:頤気神社(松代町) 未式内小社:治田神社千曲市:治田神社 上の宮 未千曲市:治田神社 下の宮 未名神大社:武水別神社千曲市:武水別神社 未長野市:樋知大神社 未東海道常陸国早くから朝廷の支配地域だったと知られています。8世紀に成立した地方誌である常陸国風土記は有名で、現存する数少ない風土記の内の1つです。常陸国には28座の神名が記載され、その内訳は大社7社(1社1座)で、小社20社(21座)です。鹿島郡:2座 / 大2社茨城県の東側、沿岸地域の内南半分の領域が鹿島郡。名前通り、古来から鹿島神宮との結びつきが非常に強い地域だったようです。名神大社:鹿島神宮鹿嶋市:鹿島神宮 鹿嶋市:鹿島神宮 東国平定に遣わされた猛き雷を祀るかしまの社名神大社:大洗礒前薬師菩薩明神社大洗町:大洗磯前神社 大洗町:大洗磯前神社 浜に建つ 荒波の中の 石鳥居真壁郡:1座 / 小1社筑西市の全域とその東西の一部を含む範囲が主な領域とされています。真壁石という銘石の産地として有名です。式内小社:大國玉神社桜川市:大國玉神社 未信太郡:2座 / 小2社遥かに広がる恵の内海 霞ケ浦の西岸に広がる群です。ここには、東夷征伐を成した経津主大神が鎧を脱ぎ捨て天へと昇り帰ったと伝わる場所があり、現在は楯縫神社が鎮座しています。香取神宮との関連が深い地域と言えるのではないでしょうか。式内小社:楯縫神社美浦町:楯縫神社 未式内小社:阿弥神社阿見町:阿彌神社(竹来) 未阿見町:阿彌神社(中郷) 未久慈郡:7座 / 大1社・小6社茨城県の北部、久慈川の流域を主な領域としていた郡です。今でも山林が広がり、修験や山岳信仰に関連する神社が多く残る面白いエリアです。式内小社:長幡部神社常陸太田市:長幡部神社 未式内小社:薩都神社常陸太田市:薩都神社 未日立市:御岩神社 日立市:御岩神社 数多の神仏祀られる常陸の霊山日立市:薩都神社(御岩神社境内社) 日立市:御岩神社 数多の神仏祀られる常陸の霊山式内小社:天之志良波神社常陸太田市:天志良波神社 未式内小社:天速玉姫命神社日立市:泉神社 日立市:泉神社 上古の頃からの聖域、密筑の大井の泉神社常陸太田市:鹿島神社(春友) 未名神大社:静神社那珂市:靜神社式内小社:稲村神社常陸太田市:稲村神社 未大子町:近津神社(下野宮)桜川市:櫻川礒部稲村神社 未式内小社:立野神社水戸市:立野神社 未常陸大宮市:立野神社常陸太田市:赤土天満宮 未筑波郡:2座 / 大1社・小1社霞ケ浦西岸に位置する地域で、筑波山を囲むつくば市・つくばみらい市を合わせた領域がだいたいの範囲とされます。古来より歌枕となってきた神山 筑波山のお膝元。千年以上の歴史を有する関東きっての古社が鎮座しています。名神大社:筑波山神社 男神つくば市:筑波山神社 男体山山頂宮 つくば市:筑波山神社 男女両神鎮座する常陸の御山とかみやしろ式内小社:筑波山神社 女神つくば市:筑波山神社 女体山山頂宮 つくば市:筑波山神社 男女両神鎮座する常陸の御山とかみやしろ那賀郡:7座 / 大2社・小5社那珂川の流域に広がる郡で、海岸から山間部まで横長に伸びる広い領域を持ちます。那珂川の恵みを受ける田畑が広大に広がっており、古来から豊かな土地だったのではないでしょうか。式内小社:大井神社水戸市:大井神社 未笠間市:大井神社 未式内小社:青山神社城里町:青山神社 未名神大社:吉田神社水戸市:吉田神社 未式内小社:阿波山上神社城里町:阿波山上神社名神大社:酒烈礒前薬師菩薩明神社ひたちなか市:酒列磯前神社 ひたちなか市:酒列磯前神社 波被る 逆連の岩 神渡り式内小社:藤内神社水戸市:藤内神社 未水戸市:立野神社 未水戸市:有賀神社 未式内小社:石舩神社城里町:石船神社 未新治郡:3座 / 大1社・小2社現在の土浦市・石岡市・かすみがうら市など、霞ヶ浦北岸の大部分を領域とした郡です(かつてはもっと広大だったという説もある)。式内社以外にも面白い由緒の神社仏閣が数多くひしめき合う地域です。総社もこの郡に置かれていた様です。名神大社:稲田神社笠間市:稲田神社 未式内小社:鴨大神御子神主神社桜川市:鴨大神御子神主玉神社 未式内小社:佐志能神社笠間市:佐志能神社 未石岡市:佐志能神社(柿岡) 未石岡市:染谷佐志能神社 未石岡市:佐志能神社(村上) 未茨城郡:3座 / 小3社現在の笠間市・城里町・水戸市を中心とした範囲が主な領域です。北では那賀郡や久慈郡と接しており、茨城県の中央に位置しています。式内小社:夷針神社茨城町:夷針神社 未笠間市:愛宕神社 奥宮石岡市:足尾神社 未かすみがうら市:胎安神社 未かすみがうら市:子安神社 未式内小社:羽梨山神社笠間市:羽梨山神社 未式内小社:主石神社鉾田市:主石神社 未小美玉市:宮脇鹿島神社 未多珂郡:1座 / 小1社現在の高萩市・北茨城市・日立市が主な領域とされる郡です。養蚕起源伝説の1つ、金色姫伝説ゆかりの地である小貝ヶ浜などが有名です。式内小社:佐波波地祇神社北茨城市:二田神社 未北茨城市:佐波波地祇神社(大津町) 未下総国千葉県北部から茨城県南西部を主な領域としていたようです。丁度チーバくんの頭蓋骨に相当する範囲です。全11社の内、名神大社1社、式内小社10社で、1座1社です。香取郡:1座 / 大1社下総国の東の大部分を占める広大な領域を持っていたようです。名前の通り香取神宮と関係が深い地域みたいです。名神大社:香取神宮香取市:香取神宮香取市:香取神宮 ①主要社殿 蛮夷平定に遣わされた畏き刀神祀るかとりの社香取市:香取神宮 ②境内・外の摂末社 蛮夷平定に遣わされた畏き刀神祀るかとりの社千葉郡:2座 / 小2社下総の南西、特に沿岸部の地域が主な範囲です。現在の千葉市の大部分と習志野市に相当するでしょうか。海に面しているということで、海由来の伝説が残っているのも面白いです。式内小社:寒川神社船橋市:二宮神社 未千葉市:寒川神社 千葉市:寒川神社 海照す鎮守の社と嵐呼ぶ権現頭式内小社:蘇賀比咩神社千葉市:蘇賀比咩神社 未相馬郡:1座 / 小1社茨城県南部、千葉県と接する領域に置かれた郡です。千葉氏の諸族である相馬氏の発祥地で、相馬氏は後にここから福島県の相馬市まで移ることになります。式内小社:蛟蝄神社利根町:蛟蝄神社 門の宮利根町:蛟蝄神社 奥の宮相模国現在の神奈川県の内、川崎市・横浜市を除いた範囲が主な領域とされます。中世より東国の中心地であった古都 鎌倉や、相模の獅子とも称される後北条氏が治めた小田原など、常に歴史の表舞台にあった国と言えます。全13社の内、名神大社1社、式内小社12社で、1座1社です。足上郡:1座 / 小1社現在の南足柄市・足柄上郡・足柄下郡を中心とした範囲が主な領域とされています。式内小社:寒田神社松田町:寒田神社 未餘綾郡:1座 / 小1社現在の中郡大磯町・中郡二宮町を中心とした範囲が主な領域だったようです。相模国の郡の中では最小範囲の郡だそう。式内小社:川匂神社二宮町:川匂神社 大住郡:4座 / 小4社餘綾郡の上に覆いかぶさるような形で広がる大きな群です。現在の伊勢原市・平塚市・秦野市を中心とした範囲が主な領域だったようです。式内小社:前鳥神社平塚市:前鳥神社 平塚市:前鳥神社 学問と職能の神を祀る古社式内小社:高部屋神社伊勢原市:高部屋神社 伊勢原市:高森神社 式内小社:比比多神社伊勢原市:比々多神社(三ノ宮) 伊勢原市:比比多神社(上粕屋)式内小社:阿夫利神社伊勢原市:大山阿夫利神社愛甲郡:1座 / 1社大住郡の更に北部にあった郡で、現在の愛川町・清川村・厚木市を中心とした範囲が主な領域だったとされます。式内小社:小野神社厚木市:小野神社 厚木市:秋葉社 未髙座郡:6座 / 大1社・小5社相模川と境川に挟まれた肥沃な土地が主な領域で、現在の寒川町・綾瀬市・海老名市・座間市・相模原市東部・茅ヶ崎市・藤沢市・大和市などを合わせた範囲にあたるそうです。式内小社:大庭神社藤沢市:大庭神社 未式内小社:深見神社大和市:深見神社 未式内小社:宇都母知神社藤沢市:宇都母知神社 未名神大社:寒川神社寒川町:寒川神社 寒川町:寒川神社 関東総鎮守に数えられる相州の古きかみやしろ式内小社:有鹿神社海老名市:有鹿神社 未式内小社:石楯尾神社相模原市:石楯尾神社(名倉) 未相模原市:石楯尾神社(佐野川) 未相模原市:石楯尾神社(磯部) 未相模原市:大島諏訪明神社 未座間市:鈴鹿明神社 未藤沢市:鵠沼皇大神宮 未大和市:下鶴間諏訪神社 未甲斐国現在の山梨県にあたる広大な領域を持った国です。日本最高峰の富士山や南アルプスの山々、八ヶ岳などの高峰を幾つも擁しており、その為か山岳信仰が非常に盛んである様に感じました。全20社の内、名神大社は1社、式内小社1社で、1座1社です。山梨郡:9座 / 小9社現在の甲府市の大半、山梨市、甲州市の一部、笛吹市北部の一部分が主な領域とされています。領域内に山間部が多く在り、かの名山 金峰山を奉斎する金櫻神社なども、この郡の項に挙げられています。割合的には圧倒的に平野部の神社が多いです。式内小社:神部神社甲州市:神部神社山梨市:神部神社 笛吹市:賀茂春日神社 笛吹市:神明神社式内小社:物部神社笛吹市:物部神社 山梨市:大石神社 未甲州市:大石神社 山梨市:白山建岡神社 式内小社:甲斐奈神社甲府市:甲斐奈神社 甲府市:甲斐奈神社 2柱の山の女神を祀る古社笛吹市:甲斐奈神社(春日居) 笛吹市:甲斐奈神社(一宮町)笛吹市:吾妻屋宮 式内小社:黒戸奈神社山梨市:黒戸奈神社 甲府市:黒戸奈神社 未甲府市:細草神社 未甲府市:穴切大神社 式内小社:金櫻神社甲府市:金櫻神社(御岳町) 甲府市:金櫻神社(御岳町) 鬱金の桜と金峰山祀る社山梨市:杣口金櫻神社山梨市:金桜神社(歌田) 山梨市:金桜神社(万力) 式内小社:松尾神社甲州市:松尾神社 甲州市:松尾神社 恵林禅寺周辺の総鎮守甲斐市:松尾神社式内小社:玉諸神社甲州市:玉諸神社 奥宮 未甲州市:玉諸神社 未甲府市:玉諸神社甲府市:柴宮神社 式内小社:大井俣神社山梨市:窪八幡神社 山梨市:大井俣神社 甲府市:二宮神社 北杜市:諏訪神社 未式内小社:山梨岡神社笛吹市:吾妻屋宮 笛吹市:山梨岡神社 山梨市:山梨岡神社 巨麻郡:5座 / 小5社山梨県の西側一帯、北杜市から南部町までの南北に広い領域を持っていたようです。巨麻とは駒のことであり、古来より馬産の地として名を馳せていました。甲斐源氏の入部地として、中世の甲斐国の歴史を語る上で外せない土地です。因みにこの郡のいずこか(南部町周辺だと思われる)が南部氏の発祥地であり、この地から陸奥国に下向した事で奥州の大名としての歴史を歩みだします。式内小社:神部神社南アルプス市:八幡神社 / 三輪神社南アルプス市:神部神社(下宮地) 北杜市:白山神社 未北杜市:神部神社 未北杜市:熱那神社 韮崎市:南宮大神社 南アルプス市:神部神社(寺部) 式内小社:穂見神社南アルプス市:高尾穂見神社 未韮崎市:穂見神社 中之社 韮崎市:苗敷山穂見神社 甲斐市:八幡穂見神社 未北杜市:穂見諏訪十五所神社 式内小社:宇波刀神社北杜市:宇波刀神社 甲府市:宇波刀神社韮崎市:宇波刀神社 甲府市:御崎神社 式内小社:倭文神社韮崎市:本宮倭文神社韮崎市:倭文神社 降宮甲斐市:諏訪大神社 式内小社:笠屋神社甲府市:熊野神社(国母) 甲州市:諏訪神社 甲府市:笠屋神社 未北杜市:五社神社 甲斐市:笠屋神社 北杜市:諏訪神社 (長坂町)南アルプス市:笠屋神社 八代郡:6座 / 大1社・小5社富士山麓の笛吹市を中心として置かれた郡。古代~上古の頃はここが甲斐国の中心であり、現在も一之宮である淺間神社が鎮座しています。丸山古墳・甲斐銚子塚古墳などの巨大な墳墓が造営されており、統治者は中央とのつながりが深く、且つかなりの権力を持っていたものと思われます。式内小社:佐久神社甲府市:佐久神社 未笛吹市:佐久神社 式内小社:弓削神社市川三郷町:弓削神社式内小社:表門神社市川三郷町:表門神社甲府市:五社神社 甲府市:表門神社 市川三郷町:一宮浅間神社 名神大社:淺間神社笛吹市:山宮神社 笛吹市:山宮神社 浅間大神の元鎮座地、山中に居わす古やしろ笛吹市:淺間神社 笛吹市:淺間神社 甲斐国一宮に鎮座する古淺間社富士河口湖町:河口浅間神社甲府市:青沼浅間神社 式内小社:中尾神社笛吹市:中尾神社 式内小社:桙衝神社笛吹市:桙衝神社 笛吹市:美和神社笛吹市:杵衝神社 尾張国愛知県の内、西半分を占める広大な領域を持っていました。古来より朝廷との結びつきが強く、古社も多い印象です。全121社の内、名神大社8社、式内小社113社で、1座1社です。愛智郡:17座 / 大4社・小13社現在の名古屋市の大半を含む領域が範囲とされています。大宝律令以前から”あゆち”などの呼称があり、相当古くからの地名であることが分かります。式内小社:日置神社名古屋市:日置神社 未式内小社:上知我麻神社名古屋市:上知我麻神社(熱田神宮境内) 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ式内小社:下知我麻神社名古屋市:下知我麻神社(熱田神宮境内) 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ名神大社:熱田神社名古屋市:熱田神宮 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ式内小社:御田神社名古屋市:御田神社(熱田神宮境内) 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ式内小社:高牟神社名古屋市:高牟神社(今池) 未名古屋市:高牟神社(高針) 未名古屋市:御器所八幡宮 未式内小社:川原神社名古屋市:川原神社 未式内小社:針名神社名古屋市:針名神社 未名古屋市:烏森天神社 未式内小社:伊副神社東郷町:富士浅間神社 未名古屋市:徳重熊野社 未北名古屋市:宇福寺天神社 未名古屋市:伊副神社(伊副八幡宮境内) 未あま市:伊副部神社 未式内小社:成海神社名古屋市:成海神社 未名古屋市:天神社 未式内小社:物部神社名古屋市:物部神社 未名古屋市:御器所八幡宮 未名神大社:日割御子神社名古屋市:日割御子神社(熱田神宮境内) 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ名神大社:孫若御子神社名古屋市:孫若御子神社(熱田神宮境内) 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ名古屋市:若宮八幡宮名神大社:高座結御子神社名古屋市:高座結御子神社 名古屋市:高座結御子神社 御井の社と子育ての神式内小社:八劔神社名古屋市:八剣宮(熱田神宮境内) 名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ式内小社:火上姉子神社名古屋市:氷上姉子神社 未式内小社:青衾神社名古屋市:青衾神社 未以上です。
2025年01月10日
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金木町の町中は道路が入り組んでおり、それに沿って住居がひしめいています。住宅と住宅の隙間を埋めるように幾つかの神社仏閣が配され、地域の信仰の起点となっているのですが、この朝日山 照蓮院もその内のひとつです。2024.11.9津軽八十八霊場八番札所:朝日山 照蓮院斜陽館から金木八幡宮へと向かいます。境内は静かで落ち着いた雰囲気が漂っていました。豪壮な社殿を横目に、参道に沿う形で走る小径を下っていくと、町を横断する様に伸びる県道2号に突き当たり、そこを西に向かい歩いていると、照蓮院の寺門が顔を出します。照蓮院の隣には金木愛宕神社が置かれています。拝殿です。”五所川原市の地名 178ページ”の記述を見てみると、建立年代は不明、延宝8年(1680年)に再建されているようです。神社名からして、祭神はおそらく火産霊命・加具土命でしょうか。鎮火の御神徳があると有名な神社なので、町内で火災が発生しないことを願って建立されたのではないでしょうか、知らんけど。照蓮院と至近であり、照蓮院の境内に置かれた地蔵尊と何らかの関係がありそうですよね。愛宕権現の本地は地蔵尊とされており、そのためか火伏の謂れを持つ地蔵尊は日本各地にあります。津軽では愛宕山 橋雲寺の勝軍地蔵尊や青森市の茶屋町延命地蔵尊が有名でしょうか。照蓮院の地蔵尊堂にはいくつもの地蔵尊像が収められています。金木周辺は特に地蔵信仰が根強いのか、こうした地蔵堂を持つ寺院が多く見られます。例として、津軽八十八霊場七番札所:金木山 雲祥寺や番外札所:川倉賽乃河原地蔵尊堂などが挙げられます。本堂です。早速ご由緒(一部加筆)を見てみましょう。朝日山 照蓮院浄土宗名越派 月窓山栄源院貞昌寺末寺開基:教誉浄頓本尊:阿弥陀如来 浄土宗名越派、貞昌寺末寺で本尊は阿弥陀如来です。 縁起によると、元禄7年(1694年)7月11日教誉浄頓が金木村中の地蔵堂跡地に庵を設け、念仏弘通(仏教の教えを広めること)の道場として開基したと言われています。 宝暦13年(1763年)正月17日弘前貞昌寺の隠居照教和尚が、貞昌寺の末寺とし浄土宗名越派に属し、安永2年(1773年)8月4日照蓮社として開創しました。 明治初年に寺号が許され照蓮社を喜三山照蓮院とし、後に山号を朝日山と改称しています。五所川原市の地名 179ページ より引用境内にはもともと地蔵尊堂が置かれていた様ですね。創建年の元禄7年(1694年)には既に廃堂となったのか、跡地とされていますが・・・。本寺の貞昌寺も津軽八十八霊場の四十一番札所として知られている名刹で、県指定名勝に指定されている庭園が有名です。扁額です。斜めから。金木の町に鎮座する寺院の一つということで、趣のある御堂が特徴的な札所でした。本尊の阿弥陀如来が札所本尊になっており、堂内に置かれています。蠟燭に火を灯し、線香を立て、合掌。線香の香りが漂う中で望む阿弥陀如来の顔は、いつも通りの仏頂面です。今年もこの仏頂面を拝み続けられるように、精進して稼いでいきたいと思います。御詠歌えんありて はるばるここにはいすれば だいひのちかい おもきあさひやま本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。以上です。
2025年01月18日
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十三湖北東に広がる十三湖高原、ここには現在広大な牧場が広がり津軽随一の牧草地となっていますが、中世にはかの十三湊を治めた津軽安東氏の居館(詰城)が置かれるなど、歴史ドラマの舞台となっています。今回の札所も安東氏の居館:唐川城跡の麓に置かれるなど、何らかの関連がありそうです。津軽三十三観音霊場十七番札所:春日内観音堂(相内竜飛宮)牧草地に立つ標高150m前後の御山の中腹に唐川城は築城されました。南部氏の勢力が攻め入ってきた際、ここより南方にある福島城よりこの城に引き揚げ、最後の抵抗拠点(詰城)としたと伝わります。この付近には安東氏が建立した山王坊日吉神社もあり、当時の安東氏根拠地であることは言うまでも有りません。俗に十三千坊とも呼ばれ、津軽三千坊(十三千坊・梵珠千坊・阿闍羅千坊)の一翼を担うとともに、朝夕に鐘の音や読経の声が山中より聞こえていたとされています。唐川城跡に近付くと、十七番札所:春日内観音堂の参道が見えてきました。この前に駐車し、歩いて観音堂→城跡をまわることができます。緩やかな坂道をのぼっていくと、一筋の小川の脇に観音堂が建っています。これが春日内観音堂なんですが、見た通り現在も神仏混淆の姿であり、相内飛龍宮とも呼ばれます。ここでもまた飛龍宮とありますが、これはやはり熊野那智大社の境内社:飛瀧神社と関連した名称だと思われます。飛瀧神社の御神体は瀧(那智御瀧)であり、その雄大な姿に神仏が宿るとされ信仰の対象になりました。津軽に散見する元飛龍宮の中でも、この相内飛龍宮は社殿後方に小瀧があり、特に飛瀧神社と景観が似ていたんではないでしょうか。このように飛龍宮が増加した背景には、明治前後に当地へ一気に熊野信仰が流入したことが考えられますが、これ以上は妄想となるため控えたいと思います。拝殿です。こじんまりとした社殿ですが、山中に建つその姿は美しいです。社殿脇の説明書きを見てみましょう。春日内観音堂 津軽三十三霊場十七番札所である。ここは竜興寺と春品寺跡と伝えられる。奥院は鞘堂で堂宇は飛龍宮といわれ、元和9年(1614年)に観音堂として建て直されたという。 明治初年、神仏分離にあたり、観音堂は廃堂となったが、まもなく聖観音を神体とする春日内神社として復元され、巡礼を迎え続けた。 大正時代になって、飛龍宮を廃し春日内観音堂と呼び戻して、現在に至っている。この通り、もともとは竜興寺または春品寺という寺院が置かれていたと伝えられています。もしこれらの寺院が存在していたとすれば、安東氏との関りは濃厚だったでしょうね。安東氏の居館:唐川城跡は十五世紀の居館とされますが、実は平安時代後期(10世紀後半~11世紀)の遺構も見つかっています。遺構は竪穴住居と製錬炉跡なんですが、焼土や鉄床の跡、多量の鉄滓などが出土しており、製鉄を生業とする人々が居住したことは確かでしょう。製鉄には多量の水が必要になるため、この観音堂の滝も水資源として重宝されたのではないでしょうか。また、後述しますが、唐川城跡からは北海道を初発とする擦文土器や、五所川原産の須恵器など同時期のものが出土しており、当時から周辺地域との交易が活発であったことを窺わせます。春日内はアイヌ語由来の地名とされますが、擦文土器の出土など、アイヌまたは前アイヌとの関りが分かるものが出土しており、当地の信仰はかなり古いものと言えそうです。観音堂の左脇には鳥居が建ち、ここから三十三観音霊場をまわることができます。おそらく西国三十三観音霊場の写しと思われますが、今回は草が生い茂りすぎて進めなかったため、馬頭観音は撮影できませんでした(重大)。以前は晩秋に参拝したこともあり、草が少なったんですが・・・。次に社殿裏手の”漱の滝”を見てみたいと思います。拝殿の右脇の道を進むと鳥居が一基建っており、その奥に滝があります。こちらが瀬の滝です。いかに日照りが続こうとも水が枯れることはなかったと伝わる銘滝です。斜めから。この通り、荘厳華美な社殿などは建立されていませんが、この観音堂の歴史はかなり古いことが分かります。生命の源である水を崇拝の対象とし、それが観音信仰などと結びついて現代まで伝わった・・・というのが、僕の脳内の妄想ですが、本当にそうだったと感じさせるだけの風格が備わっている観音堂です。因みに御朱印なんですが、以前は市浦町内の蓮華庵が授与所でした。ですが最近蓮華庵の老朽化に伴い、そこからすぐ近くの成田商店に変更となったようです。次に唐川城跡を見てみましょう。観音堂正面の道をそのまま登ると数分で到着です。唐川城跡には、現在展望台が建っています。祖の側にはかつての統治者を偲ぶ石碑が建てられております。奥州十三湊日ノ本将軍 安倍安藤氏 顕彰之碑!かつての王者を儚んでか、城跡には歌碑が建立されています。満潮の さしをる前潟あかつきの 茜の雲の 映ゆる静かさ藤田紫水唐川城跡はこの地図の北方となります。十三湖を見渡せる場所に作られたことが分かります。説明書きです。唐川城跡 唐川城跡は十三湖北岸の標高140~160mの独立丘陵上にあります。唐川城跡の中腹にある展望台からは、岩木山や日本海、十三湖の絶景を眺めることができます。ここからの景観は中世に西浜と呼ばれた地域を一望でき、岩木川水系や日本海の水上交通を押さえる要衝にあったことが分かります。唐川城跡は展望台裏の高い平場にあり、土塁と堀跡などが現在も良く残されています。 これまで唐川城跡は伝承に従って、安藤氏に関わる中世城館と理解されてきました。南部氏に追われた安藤氏が居館であった福島城跡を捨て、最後に立てこもった詰城と理解されてきました。いよいよ落ち延びる際に、今も残る井戸跡に宝物を隠して、北海道へ渡っていったという興味深い伝承があります。 平成11~13年度に富山大学がその実態解明のため発掘調査を行いました。その結果、安藤氏時代よりも古い平安時代後期(10世紀後半~11世紀代)に築城されたことが判明しました。高地性環濠集落と呼ばれる性格のものであり、その後、安藤氏時代(15世紀)に一部が再利用されていることが判明しています。唐川城跡は南北700m。東西200mの規模を持ち、他の環濠集落を圧倒する大規模なものです。山頂の平坦面には土塁と堀によって、大きく3つの郭(北郭・中央郭・南郭)が設けられ、その東側には帯郭状の堀を巡らす比較的単純な構造になっています。さらに、北郭と南郭には現在でも大きな井戸跡が残っており、南郭の井戸跡周辺には竪穴住居跡と考えられる窪地が多数確認されています。 調査の結果、井戸跡は上端幅10m、深さ2.5mに及び、岩磐を大きく刳りぬいて造られていました。また、周囲には竪穴住居跡2軒、製錬炉跡(鉄を溶かす炉)1基が検出されています。竪穴住居跡では床面が焼土で覆われ、金床石(鉄を打ち付ける台)や鍛冶関連遺物が検出されています。製錬炉跡では、フイゴ羽口(風を送る道具)や多量の流動滓(鉄くず)が伴っていました。 このことから、唐川城内で鉄製品を作る集団がいたことが判明しています。また、竪穴住居跡内からは平安時代後期にあたる土師器の坏・甕、五所川原産須恵器の長頸壺・甕、土錘(漁業用網のおもり)のほか、北海道を起源とする擦文土器も伴っていました。 一方、標高160mと最も高い中央郭では、南東部に連続した2つの平坦面(屋敷地)の存在が明らかとなり、安藤氏時代(15世紀前半)の小規模な掘立柱建物の柱跡や陶磁器が見つかっています。津軽でも相当に珍しい平安時代の遺構であり、何とも面白い史跡でした。やはり津軽でも北方は安東氏関連の史跡が多く、津軽氏統治以前の姿を伺い知ることができます。安東氏は交易に力を入れていた氏族であり、そのためか中世であっても当地には上方の分化が伝わったりしていたようです。津軽は奥州の北端であり、蝦夷跋扈する未開の地・・・といったわけではなく、実際は上方とのパイプを持つ地方豪族の根拠地となっていたんですねかれらは当地の住民(移民か蝦夷か、渡来人かは不明)達とうまく付き合い、力を蓄えていったんでしょう。最後に展望台からの景観を見てみましょう。画面に収めきれないほど視界がひらけております。北は小泊、南は岩木山まで、津軽平野の広大さを感じられる風景です。遠くにかすむ岩木山。津軽の霊峰を拝んだのはどのような人々だったんでしょうか。蝦夷の中には大陸からの渡来人もいたことでしょうが、彼らは製鉄の技術を持ち、当地でも製鉄を生業としていたんではないでしょうか。それがいつしか鬼の伝承と結びつき、当地の鬼信仰につながったとしたら・・・。奥州では広く蕨手刀が出土していますが、これは蝦夷達が使ったとされる片刃の刀剣です。その生産をかれら大陸からの渡来人が担ったとすれば、奥州はいろいろなルーツを持つ人々で溢れていたことになるでしょう。北から擦文土器や獣の皮をもたらす民族、鉄の扱いに長けた大陸人、馬を飼いならす牧畜の民・・・蝦夷とは何とも広いくくりであり、一言で表せるものではなかったと思っています。古代の東北の姿に思いを馳せることが出来る、当巡礼きっての古霊場でした御詠歌野をも過ぎ 山路に向かう雨の空 祈れば晴るる 峰の曇りも本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・十八番札所:無縁山 観音院 海満寺 観音堂 船人供養の観音堂
2025年06月28日
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村はずれの祠に男根の形をした石をまつっている。このようなものは陸奥にはたいそう多い。・・・菅江真澄遊覧記2 / 外が浜づたひ 冒頭菅江真澄がこう語るように、東北の各地で”金精様”や”子安様”として男根型・女陰型の石や木が祀られていることがあります。こうして性器を祀るのは、子宝を授かることや子孫繁栄を願ったためと思われますが、増田公寧氏の”青森県における生殖器崇拝資料”によると、必ずしも金精様は生殖器神とは断言できないとしています。信仰の起源は中世以前とも言われ、はっきりとしたイメージがない古い神格の様です。ただし同論文内にある通り、神体あるいは奉納物は生殖器を象徴する形態をとっているものが多いのも事実です。特に男根型の石棒に関しては、山梨県の釈迦堂遺跡にて縄文時代中期後葉のものが確認されており、信仰の源流がこの頃には既に成立していた可能性があります。しかし、↑の通り縄文の石棒がそのまま現代の生殖器崇拝に繋がっているかと問われれば、安易にそうだとは言えないでしょう。神体に関しては自然物のものも有れば、人工物のものもあります。特に山間部では、奇岩や怪樹の類が見つかりやすいからか、自然物が神体となっている例が多いように思います。さてこの記事では、境内にこうした生殖器型の神体を祀った小祠が見られる神社仏閣をまとめたいと思います。東北の・・・と銘うっていますが、圧倒的に青森や岩手の記事が多いのはあまり遠出できないからです・・・。また、神社仏閣としていますが、こうした生殖器崇拝が見られるのは圧倒的に神社が多いので、仏閣は殆どないかもしれません。生殖器崇拝が見られる神社仏閣青森県青森市:松ノ木神社 青森市:松ノ木神社 田んぼの中に祀られる根の神社青森市:金精堂 青森市:金精堂 八甲田山中の精力の社黒石市:浅瀬石羽黒神社 黒石市:浅瀬石羽黒神社 浅瀬石の地名の由来となった”汗石”十和田市:法量神社 十和田市:法量神社 村の奥地にある水神の社十和田市:十和田湖温泉神社むつ市:上町稲荷神社八戸市:諏訪稲荷神社八戸市:魚籃山 常現寺 二十七番札所:魚籃山 常現寺 外ツ国伝来の魚籃観音祀る寺院南郷村:高山神社 四番札所:島守高山観音 南郷島守に座す観音様南部町:諏訪神社(剣吉)岩手県二戸市:枋ノ木神社一戸町:御小性神社盛岡市:巻堀神社一関市:御嶽山御嶽神明社秋田県鹿角市:金精神社宮城県角田市:熱日高彦神社栗原市:音羽山 清水寺仙台市:秋保神社 仙台市:秋保神社 幟旗たなびく秋保の古社福島県いわき市:温泉神社 いわき市:温泉神社 いで湯の郷の古神社いわき市:大國魂神社 いわき市:大國魂神社 大国主神祀るいわきの国守の宮茨城県稲敷市:大杉神社 稲敷市:大杉神社 三本杉と天狗の社山梨県甲府市:夫婦木神社 甲府市:夫婦木神社 命生み出す自然の妙木祀る神社甲府市:夫婦木神社 姫ノ宮 甲府市:夫婦木神社 姫ノ宮 昇仙峡鎮座の生命力の社甲府市:八雲神社(弥三郎岳)笛吹市:淺間神社 笛吹市:淺間神社 甲斐国一宮に鎮座する古淺間社愛知県一宮市:真清田神社以上です。
2024年09月14日
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僕は定期的にネパールカレーを食べたくなる性分なんですが、津軽に住んでいた頃にその欲望を発散していた店があります。弘前から十和田までを結ぶ国道102号沿いにあるお店で、ネパール本国の方たちがやっている正真正銘のネパール料理店です。ポカラダイニングここはいつ来ても混んでいますが、その理由は単純においしいからだと思います。ネパールカレーを提供するお店は数あれど、本当においしいと心から言える店はそうそうありません。それに対して、このお店は心から”おいしい!”と言えるお店なのです。2024.11.17ガーリックティッカ と パラクマトンカレーセット良い事があった日も、嫌なことがあった日も、スパイスカレーは平等に私たちを受け入れてくれます。僕の人生においてスパイスカレーを食べるという行為は、心を鎮めてリセットすることと同義です。料理から立ち上る湯気とスパイスの香りを全身で味わうことで、自分の根源に立ち返ることが出来るのです。だいたいカレーセットと料理一品を注文します。今日はニンニク香るチキンことガーリックティッカと、ほうれん草ベースのマトンカレーを注文しました。ティッカはどの味付けでも好きですが、何よりもガーリックティッカが好きです。ジュウジュウという音と共に運ばれてくるだけで何だか嬉しくなります。噛みしめるたびに溢れ出すうま味が最高です。どうしてこんなにおいしいんでしょうか。パラクマトンカレーは言うまでもなく、ほうれん草のコクとマトンの風味が相性抜群の最高カレーとして知られています(自分調べ)。ナンですくい取って食べ、最後は皿に残らないように残しておいたナンでもってきれいに拭き取ります。きれいになったカレーの器を見るたびに、何とも言えない達成感が押し寄せます何て最高な瞬間でしょう・・・!カレーと言えば4月8日の花まつりですが、僕は年がら年中食べっぱなしです。自分のためにも、おいしいスパイスカレーを出している店を探して、いつもさまよい歩いているのです。以上です。
2025年01月05日
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白河市の東方、国道4号沿いにある麺処です。国道4号は白河に至る主要道で、福島県の他地域に遠征し、白河に戻る時はだいたいこの道路にお世話になっていました。遠征で疲れ果て、何か口に入れたい・・・そんな思いに支配された時、道路の脇に巨大な白河達磨が姿を現し、次いでこの店の看板が目に留まりました。急いで駐車し店に駆け込みます。※白河達磨は幻覚という意味ではなく、本当にこの店の手前に置かれています。麺家 大須賀 白河店暗闇の中、麺家 大須賀という文字が浮かび上がり、腹をすかせたラーメン好きを誘い込んでいます。今思い返すと、ここが僕の次郎系デビューの店だったと思います。2024.10.4辛味噌ラーメンもはや呪文は忘れてしまいましたが、たしか”ヤサイマシ”は付けた気がします。見た目通りの大食漢満足カスタムで、一発で満腹になれます。味は味噌の深みとダシが合わさって非常にうま味溢れる一杯・・・なんですが、どうも塩辛さが強い。僕は青森県出身故、濃い味は好きですが、これは中々にレベルが高い。もしかして”カラメ”を付けて、そのことを忘れているんでしょうか?真偽は分かりませんが、その分麺に味がしっかり絡んで最後までおいしく戴けました流石に汁完とまではいきませんが・・・。常人を次郎沼に引きずり込むアブナイ一杯、いかがでしょうか?以上です。
2025年02月12日
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大鰐の町からスキー場の方に向かうと、屏風型の一際特徴的な山容を見せる阿闍羅山と呼ばれる山があります。古くは山頂に、不動堂・観音堂・大日堂などから成る大伽藍を有していた大安国寺が置かれていたとされています。岩木山同様修験の山とされ、最盛期には阿闍羅千坊とも言われるほどの規模を誇ったとか。あくまでも伝説ですので、様々な異説なども存在しており、真実かどうかは不明ですが、今でも御山参詣が細々と行われるなど、当地域では信仰の中心地として機能していたのではないでしょうか。そんな阿闍羅山を山号にとる寺院が大鰐町にはあります。2024.11.17津軽八十八霊場六十二番札所:阿闍羅山 専稱院寺院は高台にあるんですが、その坂下には不動明王の両足型と地蔵尊像が置かれています。坂を登り切ると本堂と宝形造の御堂、石仏等が見られます。この小さな御堂には何が祀られているんでしょうか。扁額には阿闍羅堂と有りますね。内部はこんな感じです。5つの幣と厨子が置かれています。後の御由緒で出てきますが、阿闍羅山 専稱院は、旧暦の8月1日に阿闍羅山へ上り、山頂の祠にて祈祷を行うようなんです。その際に秘仏の聖観音像(もと百沢寺 岩木山山頂本尊)・十和田龍神明王像の2尊を背負って山頂まで運ぶのですが、ここにはそれらが収められている可能性があります。あと3つは何が収められているんですかねぇ、気になります。境内に戻ります。本堂前には片肘をついた如意輪観音像が置かれていますが、これは西国三十三観音の写しで一番札所の物。他は境内右手に固まって置かれています。今回の馬頭観音。表情が分かりやすいですね。本堂です。入母屋造の御堂で、新しめの外観です。御朱印などは、左手の社務所にて対応してくれます。陸奥新報の記事に載っている御由緒を見てみましょう(一部編集)。・引用元:陸奥新報 / 津軽の街と風景 / 阿闍羅山のお山参詣阿闍羅山 専稱院浄土宗 本尊:阿弥陀如来阿闍羅山観音堂 専称院の前身は、明治期に建立された阿闍羅山観音堂である。 「阿闍羅山観世音縁起」によると、明治16年(1883年)、湯殿山の井上弘運海という行者が阿闍羅山に登った。明治22年(1889年)、弘運海は、山田聖観(のちの専称院初代住職)と宮野諦忍という若い僧を伴って再び登り、お堂に籠って苦行を行った。その際、弘運海の夢枕に、聖観音がたびたび現れ、「阿闍羅山に勧請して信者で信仰せよ」と告げたという。 弘運海を信仰する地元の人々は、懸命に捜索し、最勝院(弘前市)にあることを突きとめたが、像は最勝院の隠居寺である横内村(現青森市)の常福院に遷(うつ)されていた。その後関係者の尽力により、明治24年(1891年)、聖観音を譲り受けることができたとする。 また「阿闍羅山専称院縁起」では、明治22年(1889年)、最勝院住職の鷲尾照堯(『大鰐町史』では「堯照」とするが『最勝院史』に従った)の弟子である山田聖観は、師から十一面観音の古像を譲り受け、大鰐に持ち帰って、稗田沢に阿闍羅山観音堂を建立した。この堂には、明治初年の神仏分離で廃寺になった百澤寺の四天王像や前述の聖観音像も祀られることになる。百澤寺と専称院 この稗田沢の観音堂は、明治35年(1902年)(もしくは明治33年・1900年)に、現在の専称院の地に移転した。1902年頃、地元有志のなかで観音堂を「百澤寺」に改称して、阿闍羅千坊を再興しようという動きが起こったが、県からは、廃寺になった百澤寺の再興と新寺建立は許可できないと通知された。 関係者は、観音堂を寺に昇格させたいと奔走し、明治37(1904年)1月、岩手県にあった専称院を大鰐に移転させることで、寺格を取得することができた。これが現在に続く阿闍羅山専称院である。このご由緒からは、阿闍羅山と岩木山、専稱院と百沢寺の不思議な縁が感じられます。阿闍羅山と岩木山は姉妹だとも言われており、そうしたイメージからか、百沢寺の再興のために専稱院は建立されたんですね・・・。再興はかないませんでしたが、岩木山山頂に置かれた聖観音像や百沢寺由来の十一面観音像もこの寺に運ばれ、いよいよ第二の百沢寺という感が漂い始めます。一応百沢寺の堂宇は岩木山神社の社殿として現存していますが、津軽の人々にしてみれば神仏混淆の姿が本来の姿として強く意識されていたんではないでしょうか。神仏分離が人々に与えたインパクトは、相当に大きいものだったようです。また、この記事では初代住職が最勝院より譲り受けた十一面観音についても記載しています。貴重な仏たち 明治初年に廃寺となった百澤寺(現岩木山神社)の仏たちが、廃棄されずに専称院にもたらされたことは奇跡といってもよい。 山田聖観が最勝院から譲られたという十一面観音(台座を除き4尺6寸)は、『最勝院史』では室町時代頃の作とする。寺では百澤寺の本尊だったと伝えるが、百澤寺大堂(本堂)の本尊は現在、長勝寺(弘前市)に祀られている。 かたや、百澤寺山門の十一面観音(像長6尺)は、小舘衷三が『岩木山信仰史』で、「行方不明」と記しているが、寺の伝承に資料的な裏付けができれば、この像は、山門の本尊仏であった可能性も秘めていることを指摘しておきたい。(元青森県史編さん執筆協力員・日本民俗学会会員 石戸谷勉)今でも岩木山神社の随神門として鎮座する百沢寺山門は、県内では並び立つ例がない程に立派な寺社建造物です。津軽の誇りといっても差し支えないでしょう。その山門に置かれていたかもしれない十一面観音像は、室町時代の作とも言われる美像です(現在は錆びていますが・・・)。すばらしい門にはすばらしい仏像を、長い伝統にはこの上ない宝を。ちなみに、グーグルマイマップによると札所本尊は↑の十一面観音とされているんですが、その紹介文には”元百沢寺(現岩木山神社)の岩木山山頂の奥宮に安置されていた御本尊で、岩木山三所大権現のうちの巖鬼山大権現(国安瓊姫命)として祀られていました”と書かれているんです。山門か山頂か、それともそれ以外に置かれていたのか・・・謎は深まるばかりです。一応記事上の札所本尊は、寺院本尊の阿弥陀如来としておきます。扁額です。力強く阿闍羅山と刻まれています。内陣です。中央の厨子には本尊の阿弥陀三尊が置かれています。これらは岩手県の専称院時代からのものだそうです。他には先の十一面観音像や四天王像が置かれていました。斜めから。津軽の霊山岩木山。その姉妹の阿闍羅山を信仰の拠点とする寺院でした。割と新しい寺院でしたが、そこに残されたエピソードや仏像は、舌を巻くほど極上のものです。阿闍羅千坊の伝説と共に、古くから仏教文化の浸透があったと思われる大鰐。そこかしこに面白そうな神社仏閣があり、これからもっと探索していきたいです。今回は本当に面白い信仰を残す寺院に巡り合えました。満足です御詠歌ちちははの めぐみもふかきせんしょういん となうるひとは ふかくなるらん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。秘仏:岩木山山頂聖観音阿闍羅山大権現阿闍羅山登拝記事については下のリンクからどうぞ!・津軽龍神霊場:十和田神社(阿闍羅山) 大鰐の霊山に祀られし十和田龍神明王以上です。次の記事・六十三番札所:古懸山 不動院 國上寺 碇ヶ関の古刹、國上寺調子に乗って撮った写真ギャラリー茶臼山からの専稱院
2025年04月06日
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禅輪街三十三ヶ寺の内、赤門の先の通りに境内を構えるのが今回紹介する金龍山 盛雲院。金龍山というと浅草の浅草寺を連想してしまいますが、特に関連は無いそうです。この山号は大鰐にあった金竜寺に因んだもので、盛雲院のかつての本寺だったようです。創建は13世紀と古く、沢山の末寺を抱える寺院だったようですが、18世紀には無住の状態となり荒廃します。それに伴い、盛雲院も本寺を宗徳寺へと変えています。さて、盛雲院は弘前東方の乳井を本拠地とする乳井氏と関りの深い寺院だそうです。乳井というとかつて毘沙門堂として名を馳せた乳井神社が鎮座している所。一説によると、本寺院は別当である福王寺玄蕃による創建という説もあり、何とも歴史の古い古刹でしょうか。毘沙門堂本尊が運び込まれたなんて話もあり、非常に興味をそそる寺院であります。津軽八十八霊場五十四番札所:金龍山 盛雲院禅輪街の細路地が彼岸の参拝者で埋め尽くされる中、山梨出張前の弘前遠征にて参拝。御堂の脇に山門がありますが、こちらは寺務所用でしょう。御堂の前は駐車場となっています。数台は停められそうです。近代的な建材を用いた立派な本堂です。現在の本堂は昭和51年から数年がかりで建て替えられたものだそうです。先代は老朽化にて、先々代は火災(明治37年・1904年)にて役目を終えています。ご由緒です。金龍山 盛雲院曹洞宗 長福山耕春院(現在の耕春山宗徳寺)末寺開山:性山善種和尚開基:乳井美作夫婦 または 福王寺玄蕃本尊:釈迦三尊・・・。 盛雲院は元亀年間(1570~1573年)に乳井氏がいまの弘前市乳井地区に創建したとされている。本寺は大鰐町三ツ目内にあった金竜寺で、金竜寺が無くなったあと、もとの耕春院の末寺になったと伝えられている。開山は性山善種和尚で、開基は乳井美作とその夫人だ。しかし、美作が寛文2年(1662年)、夫人が正保2年(1645年)に亡くなっているので、実際には乳井美作の祖父にあたる福王寺玄蕃の創建とも考えられている。 福王寺玄蕃は、乳井毘沙門堂(現在の乳井神社)の別当の嘉承山福王寺の修験で、猿賀山深沙大権現(現在の猿賀神社)の別当も兼ねていた。単に修験僧だっただけでなく、文武両道にすぐれていたため勢力をたくわえ、やがて乳井と猿賀を領地として権力をふるった。当時の人たちが地名と寺号をとって「乳井福王寺」と呼んだという。 そのころ、大光寺城には滝本播磨守重行がおり、福王寺といつも領地争いを起こしていた。天正2年(1574年)3月、福王寺が猿賀に出向いた際、滝本は腹心の後藤五郎左衛門にその帰途を待ち伏せさせて福王寺をやみ討ちし、領地乳井、猿賀を奪い取った。 福王寺玄蕃の子の大隅は、まだ若年だったので城を追い出された。大隅は父の敵を討とうとしたが、滝本の勢力が強大だっただけに、為信に事情を訴えて大浦に身を寄せた。そして天正3年の大光寺攻めの時、大隅は大浦勢の先陣として奮戦、ついに滝本を南部に落ちのびさせた。このあと為信は、大隅に父玄善の旧領地をつがせるとともに、大光寺城の守備を任せた。 のちに大隅の子美作が、父のあとを継いでいる。美作は津軽二代藩主信枚の長女を嫁にもらったため、津軽姓を名乗ることを許され、家老としても重きをなした。こうした関係があって、盛雲院が乳井地区からいまの茂森禅林街に移る際「出来れば移りたくない」と多少ダダをこねたという。つがるのお寺さん 上巻 30.31ページ より引用津軽初代為信の津軽一統に助力した乳井大隈夫婦によって創建された寺院だったんですねぇ。個人的には福王寺(乳井)玄蕃による創建を推したいですが、そこんとこどうなんでしょう。乳井玄蕃、なかなかの人物ですねぇ現在の乳井神社と猿賀神社の別当を務めて、平賀から乳井までの広大な範囲に勢力を誇っていたとは・・・。大名の身でありながら修験僧でもあるという玄蕃は、沙門大名とも称されたみたいですよ。乳井神社の別当 福王寺の宗旨は不明ですが、猿賀神社の方は天台宗が盛んな所と言う事で、玄蕃は本山派の修験だったんではないでしょうか、知らんけど。さらに元の本寺の金竜寺についてですが、なんと後裔の寺院が現存しているみたいです。青森市の金龍寺という曹洞宗寺院がそうで、公式サイトもあるのでご由緒と共にリンクを載せておきます。金龍寺について 当山は開創が1291年・正応4年(鎌倉時代)大鰐(おおわに・大阿弥(おおあみ))三ッ目内村に創建。 時を隔てて格式高い寺院となり、1563年・永禄6年、1570年・元亀元年と次々に末寺を増やすが、無住時代が続き1725年・享保10年、寺が荒廃し1880年・明治13年大鰐三ッ目内村に、正雲庵(しょうもあん)として再建、1894年・明治27年金龍寺と改め再興。 1953年・昭和27年、再度、曹洞宗寺院として金龍寺の称号を認可。(大鰐町史より抜粋) 平成17年、曹洞宗宗務庁、青森県知事、青森市法務局の認可を得、青森市仏教会の仲間入りと課し、青森市大字大別内字葛野305に移転し、さらに平成31年1月31日に青森市松原1丁目16-29に移転、曹洞宗宗務庁、青森県知事、青森市法務局の認可を得て檀信徒の為布教活動中。八甲田山 金龍寺 / 金龍寺について より引用津軽禅輪街三十三ヶ寺それぞれに、津軽三十三観音霊場の写し霊場石仏が置かれています。盛雲院は二十七番にあたるようです。院号額はこの通り、盛雲禅院。札所本尊はそのまま本尊の釈迦如来です。また、寺務所の方に乳井神社(毘沙門堂)ゆかりの仏像が現存するのかどうか尋ねてみたんですが、現在は失われているとのこと。代わりに位牌堂内の祠に縮小版の像が祀ってあるんだとか。これが乳井毘沙門堂の本尊・・・の縮小版です。像容は力強く、かなりの迫力です。この毘沙門天像が現存していれば、重要文化財の指定は必至でしょうねぇ・・・。とは言え、どのような像容だったのか分かっただけでもありがたいというもの。毘沙門堂の、中世以前からの長い歴史に思いを馳せました。斜めから。津軽には珍しい中世遺構を擁する乳井神社。それと所縁の寺院でした。本寺院だけでなく、禅輪街にはこうした古い由緒を持つ寺院がひしめいています。いつかはそれらもまとめてみたいと思っていますが、まだまだ先になりそうです。盛雲院のように、もとは弘前から遠く離れたところにあった名刹たちを集めて作ったのが長勝寺構こと禅輪街です。なんともまわりがいのある名所でしょうか御詠歌はるははな なつまたすずしぜんりんに だいひのみこえ きくぞうれしき本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि以前貰った御朱印です。今回貰った御朱印です。以上です。次の記事・五十五番札所:白花山 常源寺 弘前東方和徳に縁ある寺院
2025年10月19日
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令和5年2月12日~令和6年3月4日の期間で津軽八十八霊場を周りました。その時の御朱印の記録になります。特に二十一番札所の東福寺はいろいろな縁あって良くしていただいたので、一番印象に残っている札所です。無事結願したと伝えたいですね久しぶりに行ったら、三宝荒神の御朱印が増えていたので、近いうちに絶対また行きます!※1 21番札所:東福寺はご縁あって令和6年5月12日にもう一度参拝しました。※2 63番札所:古懸山國上寺は、私のミスで津軽八十八霊場と関係のない梵字の判を押してしまっているため、代わりに津軽三不動尊霊場の御朱印を載せています。以前は津軽八十八霊場の公式サイトやマイマップが公開されていたんですが、現在はサイト閉鎖に伴ってマイマップもダウンロードできなくなっています(自分調べです、どこかにはあるかも)。公式サイトでは、各札所の由緒・本尊・御詠歌・御朱印などが確認できたので、霊場を周るうえですごく助かっていたんですが・・・。ここでは鬼隠山海龍氏作成のマイマップをもとに、札所ごとに御詠歌と本尊を載せたいと思います。内容に間違いが無いように頑張りますので、巡礼のおともになれば幸いです2024.6.30津軽八十八霊場のガイドブック(御由緒の表記なし)を回収したので、札所の本尊部分をこちらのガイドブックに併せて訂正しました。津軽八十八霊場一番札所:円通山 光明院 専念寺御詠歌昔より 光絶えせぬ専念寺 導き給ふ この世あの世むかしより ひかりたえせぬせんねんじ みちびきたもふ このよあのよ札所本尊:聖観音(本尊脇侍) आर्यावलोकितेश्वर札所記事・一番札所:円通山 光明院 専念寺 打ち始め、津軽は広田の専念寺二番札所:梅田山 慈眼寺御詠歌くもはれて つきのひかりのいときよく てらしわたらん のちのよまでも本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事・二番札所:梅田山 慈眼寺 津軽は梅田の念仏道場、慈眼寺三番札所:東方山 如来院 薬王寺御詠歌へだてなき よのつみはふかくとも あらわれてすくう なむこんぴらさん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・三番札所:東方山 如来院 薬王寺 十川の岸辺に開かれた寺院四番札所:法性山 福峰軒御詠歌はるばると ながれながれていまここに なはふくやまの てらにおさまる本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事・四番札所:法性山 福峰軒 集落の仏を見守る釈迦如来五番札所:太伊山 長円寺御詠歌むかしより かねになをえしちょうえんじ しょうろうたかく まつかぜぞふく本尊:幸福観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事・五番札所:太伊山 長円寺 飯詰の大寺、幸せ祈る幸福観音六番札所:清涼山 大泉寺御詠歌きてみれば ここにいいづめのじょうどでら たすけるみだの ほんぐわん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・六番札所:清涼山 大泉寺 古い姿と伝説を今に伝える飯詰の古刹七番札所:金木山 雲祥寺御詠歌みほとけの ちかひはつきぬうんしょうじ まつふくかぜも のりをとくらん札所本尊:三十三観音像(本堂内左手に安置) (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩札所記事・七番札所:金木山 雲祥寺 金木の地獄絵擁する古刹八番札所:朝日山 照蓮院御詠歌えんありて はるばるここにはいすれば だいひのちかい おもきあさひやま本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・八番札所:朝日山 照蓮院 金木町中の念仏道場九番札所:富野山 般若寺御詠歌ありがたや ふしぎはいつかさるかさん ねがひはりやく あらたなりけり本尊:阿弥陀如来 अमिताभ十番札所:悟真山 光明院 善導寺御詠歌ただたのめ よくもあしきもおしなべて ほとけのちかひ ふこうだのさと本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・十番札所:悟真山 光明院 善導寺 円仁御作の阿弥陀三尊護持する寺院十一番札所:屏風山 正安寺御詠歌よしみづの きよきいづみもあみだぶつ やすくきえぬる しやりきのやま本尊:阿弥陀如来 अमिताभ※朱印所:蓮華庵十二番札所:権現山 光成院御詠歌にしきたの はてなきさとのごんげんさん みだのじひにて まいるひとびと本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・十二番札所:権現山 光成院 集落唯一の寺院、光成院十三番札所:小泊山 春洞寺御詠歌みほとけの おもきちかひにつみのみも やすくわたらん うへのなみぢを札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・十三番札所:小泊山 春洞寺 遥か南海からもたらされた聖観音祀る寺院十四番札所:無縁山 観音院 海満寺 観音堂他の巡礼:津軽三十三観音霊場十八番札所御詠歌たのもしや ふかきめぐみのかいまんじ たかきみのりを といてひろめん本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・十四番札所:無縁山 観音院 海満寺 観音堂 海満たす無縁仏を弔わん 津軽西浜ここは観音院十五番札所:龍馬山 義経寺 観音堂他の巡礼:津軽三十三観音十九番札所御詠歌みちのくの いわれをここにきてみれば なみうちぎわに こまぞいさめる本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・十五番札所:龍馬山 義経寺 観音堂 外ヶ浜の伝承の寺、義経寺十六番札所:始覚山 還洞院 本覚寺他の巡礼:津軽三十三観音二十番・二十一番朱印所御詠歌ともしびの つねにかがやくつきかげの ひかりをうけし のりのひとびと本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・十六番札所:始覚山 還洞院 本覚寺 陸奥外ヶ浜の大寺十七番札所:一向山 悟真院 専念寺御詠歌ごくらくの まいるこころはせんねんじ じひあるみだの みをばまかせて本尊:阿弥陀如来 अमिताभ十八番札所:龍沢山 正法院御詠歌こうやさん ちかひをたてしあみだがわ らかんのひかり みだのじょうどへ本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि十九番札所:仏法山 護念院 清岸寺御詠歌たぐひなき ふたねのまつはそとがはま ふくしほかぜに いくよへぬらん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ二十番札所:金台山 紫雲院 浄満寺御詠歌のちのよを ただひとすぢにじょうまんじ あみだにょらいの ひろきめぐみを札所本尊:三十三観音像 (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩札所記事・二十番札所:金台山 紫雲院 浄満寺 奥州街道の終点に座す油川の名刹二十一番札所:東方山 東福寺御詠歌かしこくも のこしてまいることのはわ まごころこめて よをおくるらん本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事・二十一番札所:東方山 東福寺 福館城主が納めた延命地蔵尊とかっぱの物語二十二番札所:無量山 引接院 正覚寺他の巡礼:津軽三十三観音二十二番札所御詠歌そとがはま たてしちかいのみだのふね のりおくれなば いつかわたらん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ(ガイドブック上の札所本尊)、聖観音 आर्यावलोकितेश्वर(グーグルマイマップ上の札所本尊)札所記事・二十二番札所:無量山 引接院 正覚寺 青森市街に立ち続ける古寺二十三番札所:一光山 摂取院 阿弥陀寺御詠歌ひたすらに みだにすがりただたのめ わがみのすえは にしへゆくまで本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・二十三番札所:一光山 摂取院 阿弥陀寺 青森市内屈指の美麗山門二十四番札所:鷲尾山 佛宝院 当古寺御詠歌明星の いでぬる彼方の野内寺 くらき迷は 松の光にあけぼしの いでぬるかたののないでら くらきまよひは まつのひかりに本尊:阿弥陀如来 अमिताभ(ガイドブック上の札所本尊)、聖観音 आर्यावलोकितेश्वर(グーグルマイマップ上の札所本尊)札所記事・二十四番札所:鷲尾山 佛宝院 当古寺 奥州街道沿いの古仏擁する寺二十五番札所:矢倉山 観音寺御詠歌あみだぶつ ひかるこころをくぐりざか ねてもさめても みなをとなえん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・二十五番札所:矢倉山 観音寺 奇岩取り巻く三十三観音二十六番札所:安養山 夢宅寺他の巡礼:津軽三十三観音二十三番札所御詠歌いやひろき むたくやくしのみしるしの くまなくあふぐ よものたみぐさ本尊:薬師如来 भैषज्यगुरु札所記事・二十六番札所:安養山 夢宅寺 眼病平癒の薬師様二十七番札所:行岳山 西光院御詠歌さんぶつの ちかいをたてしさいこういん やいばのぢごく たとひありとも札所本尊:十一面観音 एकदशमुख二十八番札所:紫雲山 金臺院 来迎寺御詠歌くろいしの くろくはあらでこのひかり しろきみちにぞ たのむこのてら本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・二十八番札所:紫雲山 金臺院 来迎寺 江戸初期創建の黒石の名刹二十九番札所:宝厳山 法眼寺他の巡礼:津軽三十三観音二十六番札所御詠歌みはくだけ かばねばのべにさらすとも のりのみちをば わすれまいぞや札所本尊:本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事・二十九番札所:宝厳山 法眼寺 古色残した黒石の名刹、法眼寺三十番札所:琉璃山 薬師寺御詠歌ゆあみして こころもみをもきよめつつ るりのせかいに あそぶうれしさ本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事三十一番札所:黒森山 浄仙寺御詠歌くろたにと くろもりとなはかわれども おなじこころの すみぞめのそで本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・三十一番札所:黒森山浄仙寺 黒石の山中にある常緑麗美なお寺三十二番札所:法隆山 長寿院 地蔵堂御詠歌あせいしの かわのながれのきよければ いのちながびく のりのよしみつ本尊:身代地蔵尊 क्षितिघर्भ札所記事・三十二番札所:法隆山 長寿院 地蔵堂 猫突き不動の伝説残る寺院三十三番札所:朝日山 浄土寺御詠歌みほとけの めぐみのつゆにうるおいて ひかりかがやく あさひやまでら本尊:阿弥陀如来 अमिताभ三十四番札所:猿賀山 蓮乗院御詠歌さるかわの かねのひびきにゆめさめて はすのうてなに のるぞうれしき本尊:阿弥陀如来 अमिताभ三十五番札所:金光山 源空寺 摂取院御詠歌しろしめし しちひゃくねんのふることを かたりほがなる まつかぜのおと本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事三十六番札所:檛木山 龍淵寺御詠歌むかしより たつのひそめるふちなれば みのりのあめは とわにふるらん本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事・三十六番札所:檛木山 龍淵寺 町に構える大伽藍、岩木河川の龍淵寺三十七番札所:無量山 功徳院 大善寺御詠歌うめのあめ みのりのとくにはれわたり ちかうねがいの てらもうでかな札所本尊:子孕地蔵尊 क्षितिघर्भ札所記事・三十七番札所:無量山 功徳院 大善寺 子授けの伝説持つ地蔵尊、大善寺三十八番札所:蓮池山 称光寺御詠歌いっしんに ほとけのみなをとなうれば ひかりてらさん このよあのよ本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・三十八番札所:蓮池山 称光寺 駅裏の名刹、称光寺三十九番札所:松虫山 浄林寺御詠歌のりのみち のぼりてみればはやしでら せっしゅのひかり うくれをみれは本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事四十番札所:護国山 観音院 久渡寺他の巡礼:津軽三十三観音霊場一番札所、津軽弘法大師霊場六番札所、津軽龍神霊場御詠歌ふだらくや めぐみもふかきかんぜおん つみもむくいも はらすみやだて本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・四十番札所:護国山 観音院 久渡寺 津軽真言五山の一、坂元の久渡寺四十一番札所:月窓山 栄源院 貞昌寺御詠歌ひろさきの てらへもうでるひとはみな げんせあんのん しょうごくらく本尊:阿弥陀如来 अमिताभ四十二番札所:緑亀山 真月院 徳増寺御詠歌やますその のりのひかりをうつしてぞ くどくいやます てらとこそなれ本尊:阿弥陀如来 अमिताभ四十三番札所:松林山 光勝院 西福寺御詠歌おもくとも つみにはのりのさいふくじ ほとけをたのむ みこそやすけれ本尊:阿弥陀如来 अमिताभ四十四番札所:行岳山 金光院 西光寺御詠歌のをもすぎ やまじにむこうさいこうじ ほとけのちかひ たのまぬはなし本尊:阿弥陀如来 अमिताभ四十五番札所:大福山 無尽蔵院 天徳寺御詠歌はなをみて いまはのぞみもてんとくじ ただまろかれと いのるなりけり本尊:阿弥陀如来 अमिताभ四十六番札所:光明山 遍照寺御詠歌むかしより おとにきこえしへんじょうじ ほとけのちかひ あらたなりけり本尊:阿弥陀如来 अमिताभ四十七番札所:一輪山 桂光院 報恩寺御詠歌いちりんさん きよひのくもはきえうせて つきかげたかく ひかりかがやく本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि四十八番札所:那智山 袋宮寺御詠歌みほとけの めぐみをうけてみをここに はこぶこころ やすらけきかな本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事・四十八番札所:袋宮寺 弘前市内見守る大仏像四十九番札所:金剛山 光明寺 最勝院他の巡礼:津軽弘法大師霊場一番札所、東北三十六不動尊霊場十五番札所御詠歌ありがたや はちじゅうはちのみのりいせきを おがむこころは だいなるらん本尊:大日如来 महावैरोचन五十番札所:太平山 長勝寺御詠歌あまがした おがまぬひとぞなかりけり めぐみあまねき なむくわんぜおん札所本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事・五十番札所:太平山 長勝寺 名実共に津軽一の名刹、長勝寺五十一番札所:桜庭山 陽光院他の巡礼:津軽三十三観音二番朱印所(二番札所:多賀神社脇のお宅でも貰えます)御詠歌みやこより はるばるここにきよみずの ながれにうかぶ のりのつきかげ札所本尊:岩谷観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事・五十一番札所:桜庭山 陽光院 花咲き松の千手観音が伝えられし古刹五十二番札所:観音山 普門院他の巡礼:津軽三十三観音三十三番札所御詠歌ふだらくや なちのたきよりたにぐみへ みちびきたまう やまのみほとけ本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・五十二番札所:観音山 普門院 杉鬱蒼と繁るお山の観音堂五十三番札所:耕春山 宗徳寺御詠歌ゆめさめて のちのそいじとおもうなよ よひからまもる じひのたまくら本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事・五十三番札所:耕春山 宗徳寺 禅林街に構える津軽曹洞宗の大本寺五十四番札所:金龍山 盛雲院御詠歌はるははな なつまたすずしぜんりんに だいひのみこえ きくぞうれしき本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事・五十四番札所:金龍山 盛雲院 乳井氏所縁の禅寺、盛雲院五十五番札所:白花山 常源寺御詠歌のりをきき まよいのゆめのさめぬれば はなやまこそは じょうどなるらん本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事・五十五番札所:白花山 常源寺 弘前東方和徳に縁ある寺院五十六番札所:貴峰山 月峰院御詠歌みほとけの みちびきたまいげっぽういん とうきさとより はこぶあゆみを本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事・五十六番札所:貴峰山 月峰院 火災逃れし十一面観音像五十七番札所:光明山 無量院 誓願寺御詠歌みだたのむ ゆかりもふかきせいがんじ まいるこころの たのもしきかな本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・五十七番札所:光明山 無量院 誓願寺 津軽の軍師の菩提が眠る弘前の古刹五十八番札所:無一山 専求院御詠歌よろずよの ねがひをここにおさめおく むいちざんの せんぐいん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・五十八番札所:無一山 専求院 有名な閻魔・奪衣婆の像有する寺院五十九番札所:津軽山 革秀寺御詠歌はなをみて いまはそのみのかよどうの つがるざん かくしゅうじ札所本尊:地蔵菩薩 क्षितिघर्भ札所記事・五十九番札所:津軽山 革秀寺 蓮咲き乱れる藩祖菩提寺六十番札所:巌鬼山 叡平寺 薬王院御詠歌ひにつきに やくしかんのんねんずれば げんぜあんのん ごしょうごくらく本尊:薬師如来 भैषज्यगुरु札所記事・六十番札所:巌鬼山 叡平寺 薬王院 弘前東照宮別当天台宗薬王院六十一番札所:神岡山 大圓寺他の巡礼:津軽弘法大師霊場二十二番札所、東北三十六不動尊霊場十四番札所御詠歌のちのよを おそるるひとはだいえんじ いつもとまらぬ しらたきのいと本尊:大日如来 महावैरोचन六十二番札所:阿闍羅山 専稱院他の巡礼:津軽龍神霊場御詠歌ちちははの めぐみもふかきせんしょういん となうるひとは ふかくなるらん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・六十二番札所:阿闍羅山 専稱院 信仰の山、阿闍羅山麓のお寺六十三番札所:古懸山 不動院 國上寺他の巡礼:津軽弘法大師霊場二十三番札所、津軽三不動尊、東北三十六不動尊霊場十三番札所御詠歌めぐりきて みればこがけのふどうさん だいしもここに おわしまします本尊:不動明王 अचलनाथ札所記事・六十三番札所:古懸山 不動院 國上寺 碇ヶ関の古刹、國上寺六十四番札所:顯臺山 唯称院御詠歌みほとけの ちかひのみふねかのきしに やがてつきなん ことぞうれしき本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・六十四番札所:顯臺山 唯称院 碇ヶ関の歴史を紡ぐ寺院六十五番札所:愛宕山 橋雲寺他の巡礼:津軽弘法大師霊場八番札所御詠歌とおくとも いちどはまいれあたごやま かみのしるしの あらたなりけり本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事六十六番札所:岩木山 求聞寺他の巡礼:津軽三十三観音三番札所、津軽弘法大師霊場九番札所、津軽七福神めぐり大黒天御詠歌のをもすぎ さとをもすぎてももざわの ほとけのちかい おもきこのてら本尊:虚空蔵菩薩 आकाशगर्भ札所記事・六十六番札所:岩木山 求聞寺 神仏習合の痕跡残る寺院六十七番札所:証誠山 護念院御詠歌ひとりきて ひとりかえるしでのたび めぐりまわりて みだのじょうどへ本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・六十七番札所:証誠山 護念院 大溜池の側の浄土宗寺院六十八番札所:亀井山 轉入院 荘厳寺御詠歌みほとけの めぐみもふかきかめいさん みずにこころも みをもきよめん本尊:阿弥陀如来 अमिताभ札所記事・六十八番札所:亀井山 轉入院 荘厳寺 安倍氏の菩提寺と伝わる浄土宗の古刹六十九番札所:深浦山 宝泉寺御詠歌みほとけの ちかいをてにしふかうらの ひとのこころに つきかげぞすむ本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事・六十九番札所:深浦山 宝泉寺 夕日を飾る撞鐘の寺七十番札所:岩崎山 龍王寺御詠歌よもすがら おわりびになすのりのみち みなほとけの こえとこころと本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事・七十番札所:岩崎山 龍王寺 津軽の西浜守りし武将が眠る寺院七十一番札所:西方山 願求院 浄安寺他の御朱印:幽霊画の御朱印御詠歌のちのよを ねごうこころはじょうあんじ ほとけのちかい たのもしきかな本尊:千手観音 सहस्रभुज幽霊画の御朱印七十二番札所:功樹山 臥龍院御詠歌ごくらくの たねまくさとはこのちなり みらいじょうぶつ はてのうてなに札所本尊:弘法大師 (御宝号)南無大師遍照金剛札所記事七十三番札所:赤石山 松源寺御詠歌まつかぜの おともたえなるのりのこえ ひがんどせいの ふかきちかいにて札所本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事・七十三番札所:赤石山 松源寺 津軽氏の家臣の菩提寺、赤石の松源寺七十四番札所:一乗山 究竟院 法王寺御詠歌やくそくの むかいのふねにのせられて すいろたのしく かえるうれしさ札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・七十四番札所:一乗山 究竟院 法王寺 鯵ヶ沢の浄土宗根拠地、法王寺七十五番札所:滝広山 高沢寺御詠歌うきなみの ちかいのふねにのりしみは すくいのつなも わがこころより札所御本尊:三十三観音像(本堂内左手に安置) (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩七十六番札所:石蔵山 浄業寺御詠歌ありがたや じぞうだいしのむかえにて もりたのてらへ まいるうれしさ札所本尊:地蔵菩薩(本堂手前にある地蔵堂内に安置) क्षितिघर्भ七十七番札所:高野山 薬師寺御詠歌めぐりきて みればあいののこうやさん だいひのみこころ ここにおさまり札所本尊:聖観音(本堂右手奥に安置) आर्यावलोकितेश्वर七十八番札所:出里山 無量院 観音堂御詠歌いづりさん いわきのながれきよければ むりょうしょぶつの むかえぞまつ本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・七十八番札所:出里山 無量院 観音堂 土手から臨む大伽藍と観音堂七十九番札所:瑞光山 全龍寺御詠歌うたかたの つゆのこのみもみほとけに すがりてのぼらん はすのうてなに本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि八十番札所:十方山 光照寺御詠歌ゆくさとを はなのじょうどとおもいなば だいひのみなを つねにとなえよ本尊:阿弥陀如来 अमिताभ八十一番札所:木造山 正法寺御詠歌めぐりきて そのなもたかきしょうぼうじ たてしちかいも かないこそすれ札所本尊:聖観音(本堂内左手から位牌堂に入り右手奥に安置) आर्यावलोकितेश्वर八十二番札所:廣長山 蓮光寺御詠歌よろずよを いのりいのりていまここに ほしのひかりも たのもしきかな札所本尊:地蔵菩薩(本堂手前にある地蔵堂に安置) क्षितिघर्भ八十三番札所:広須山 開地院 長福寺御詠歌のちのよを ねごうこころはうばしまの ほとけのちかい あたらなりけり本尊:阿弥陀如来 अमिताभ八十四番札所:広大山 知恩院 浄円寺御詠歌わすれずに おもうみなをわするるな かしわのさとも じょうどなりけり本尊:阿弥陀如来 अमिताभ八十五番札所:喰川山 龍泉寺御詠歌うすぐもの いわきのやまをよそにみて まづもうでなん たつのいづみに札所本尊:三十三観音像(本堂内左手に安置) (御宝号)南無大慈大悲観世音菩薩札所記事・八十五番札所:喰川山 龍泉寺 三十三観音居わす五所川原の寺院八十六番札所:千立山 願昌寺御詠歌ひとたびは かならずここにまいるべし みだのじひに すくわるるみは札所本尊:聖観音(本堂内左手に安置) आर्यावलोकितेश्वर札所記事・八十六番札所:千立山 願昌寺 徳本上人の念仏供養塔が残る寺院八十七番札所:成田山 大善院他の巡礼:津軽弘法大師霊場十三番札所御詠歌ここにまいりて きてみればだいぜんじ みらいもこのよを すくうごせいがん札所本尊:弘法大師(本堂内右手に安置) (御宝号)南無大師遍照金剛八十八番札所①:大沢内観音堂御詠歌しなのなる みひかりあまねくみちのくに くどくをわかつ つきかげのさと札所本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事・八十八番札所①:大沢内観音堂 善光寺と縁深い観音堂八十八番札所②:やすらぎ観音堂御詠歌ながたびの つかれをいやしいまここに こころやすらぐ なむかんぜおん本尊:やすらぎ観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर※朱印所:五番札所長円寺札所記事・八十八番札所②:やすらぎ観音堂 五所川原の街内にある小さな観音堂番外札所:川倉賽乃河原地蔵尊堂御詠歌?本尊:地蔵菩薩 क्षितिघर्भ札所記事以上旧札所旧十一番札所:十三山 天龍院 湊迎寺御詠歌?本尊:阿弥陀如来 अमिताभ旧二十一番札所:青森山 常光寺御詠歌なみおとの まつのひびきもみのりにて かぜふきわたる あまのはしだて札所本尊:聖観音(位牌堂内に安置) आर्यावलोकितेश्वर札所記事・青森市:青森山 常光寺 港街青森の禅刹 常光寺旧番外札所:高野山 弘法寺他の巡礼:津軽弘法大師霊場十一番札所、津軽七福神めぐり福禄寿、東北三十六不動尊霊場十六番札所札所本尊:?旧番外札所:福昌寺旧番外札所:袰月海雲洞釈迦堂他の巡礼:津軽三十三観音二十一番札所御詠歌?寺院本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि札所記事・二十一番札所①:袰月海雲洞釈迦堂 釈迦滝の脇に座す観音堂※津軽三十三観音霊場の記事津軽八十八霊場を周って、様々な出会いや出来事があり、事件があったり、理不尽にあったりと様々な思いをしましたが、無事結願できた喜びは大きいですね一年かけて各札所を周りましたが、ほとんど写真を撮っていないという体たらく。これは津軽に帰りし時にもう一度周れということですね。いつになるか分かりませんが、各札所記事も書いていきたいですね。目下奥州南部糠部三十三観音結願が目標ですが・・・。最後まで見ていただきありがとうございました!以上です。
2024年05月12日
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国道四号線を青森市街から浅虫方面に走っていると、左手に立派な山門が見えます。青森市内に素晴らしい山門は数在れど、木の色が出ていて楼門形式の素晴らしい山門は他にないんじゃないでしょうか。道路を走っていてもつい見とれてしまいそうです(危険)。必ず停車してから見る様にしましょう2024.5.25津軽八十八霊場二十三番札所:一光山 摂取院 阿弥陀寺この日はよく晴れて気持ちがいい一日でした。つい遠くまでドライブしてしまい、ここにたどり着きました。この寺の向い辺りにはある有名ラーメン店があるんですが、八戸に越してからは長らく行けていません。またあの味を味わいたい・・・そんなことを考えながら記事を書いています。見れば見る程すばらしい山門ですねこれが街中にドンと建っているんだから驚きです。門の内側には何体もの観音像が置かれています。全部で二十五体あるみたいです。地蔵菩薩:今この世界で苦しんでいる私達を優しく暖かく救って下さる菩薩白象王菩薩:慈悲の大きさを、象の大きな力で例えた菩薩三昧菩薩:心の働きを、正しい教えに照らし合わせる事の出来る菩薩龍樹菩薩:阿弥陀如来の本願の教えを、お釈迦様を通して私達に教えて下さった菩薩月光王菩薩:月光の様に清らかで汚れがなく、円滑な徳を持ち、一切の衆生を導く菩薩光明王菩薩:智慧の光で一切の衆生を導く菩薩金蔵菩薩:壊れることのない黄金の徳を持つ菩薩徳蔵菩薩:衆生の求めに応じて、功徳大悲の宝庫を開き、一生涯、衆生を救う菩薩陀羅尼菩薩:陀羅尼の言葉の力で仏法を保護して、悪法を防ぐ菩薩法自在菩薩:文殊菩薩の別名とも言われ、智慧を象徴する、お釈迦様の脇侍の菩薩薬上菩薩:薬王菩薩と兄弟で、諸々の良薬で、病に苦しむ人々を救って下さる菩薩大勢至菩薩:観世音菩薩と同じく阿弥陀様の脇侍で、人々の無知を救って下さる智慧の菩薩続いて・・・観世音菩薩:阿弥陀様の脇侍で、世の人々の願いを自由自在に救済する菩薩日照王菩薩:智慧の光をもって、衆生の明暗を照らし出し、仏道に励むよう導く菩薩普賢菩薩:文殊菩薩と兄弟で、智慧の文殊、定行の普賢といい、お釈迦様の脇侍の菩薩獅子吼菩薩:獅子吼は獅子が吼える様子を表した言葉で、堂々と悟りについて説法する菩薩虚空蔵菩薩:広大無辺の智慧と慈悲を持つ菩薩金剛蔵菩薩:堅固で絶対壊れることのない智慧を持ち、無辺の功徳を与える菩薩宝蔵菩薩:七種の珍宝を持つ大悲の菩薩で、願いに応じ蔵を開き、その宝を与える山海慧菩薩:深い海や高い山のような智慧と徳で衆生を導く菩薩薬王菩薩:薬をもって、人々の心身両面を治す菩薩珠宝王菩薩:七種の珍宝などを自由自在に集めることの出来る菩薩華厳王菩薩:華の様な美しい悟りの境地で身を荘厳し、因果の道理を説く菩薩無辺身菩薩:広大で限りないお慈悲を持った菩薩定自在菩薩:自由自在に変現出世して、何者にもとらわれない菩薩・・・以上です。境内には聖観音の石碑がありました。こちらは地蔵堂です。隣には何かの小祠があります。稲荷でしょうか?本堂です。修繕されながら現在まで鎮座し続けていることが分かります。最後に御由緒を見て締めとしましょう。一光山 摂取院 阿弥陀寺浄土宗 無量山引接院正覚寺末寺開山・開基:正覚寺丗三世 円蓮社竜弁和尚本尊:阿弥陀三尊 青森市栄町一丁目のバス停で降り、そばの果物屋さんで聞くと、一光山摂取院阿弥陀寺はすぐ後ろにあった。お盆のさなか、しかも間もなくお葬式があるという忙しい時だったが、二十代半ばの長尾隆道代務住職が快く迎えてくれた。 阿弥陀寺は明治19年(1886年)に、正覚寺三十三世の竜弁和尚の隠居寺として開山した”若いお寺”だ。現住職の三世聖心住職は病気療養中。その子息の聖道師が47年病没したので、お孫さんの隆道代務住職がお寺を守っている。 隆道さんは青東高から大正大学へ進み、宗教学を専攻しながら竹中信常同大教授(東京・品川、隆崇院住職)のもとで47年から50年まで小坊さんとして修行してきた。若さに似合わず落ち着いて一番忙しい時間にも、ありがたい”法話”を説いてくれた。 「仏教は死者を供養するのだけが目的でなく、先祖を弔うことで、生きている私たちの命の大切さを考えたい。後ろ(死)でなく前(命)をもっと見つめましょう」―。 檀信徒と日常的につながりを深めようと、この若い坊さんはガリ版刷りの「阿弥陀寺寺報」を定期的に配っている。四季おりおりの風物をさらりと描いたエッセーを散りばめ、法然上人ご一代記をやさしく説くなど、なかなかの名筆家でもあるようだ。 明治19年1月、正覚寺円蓮社竜弁が開基、二世聖顕、三世聖心と、歴史の浅いお寺だが、いろんな災禍があった。明治14年開山して間もなく、明治34年4月、大工町から出火した火事が堤町、栄町に延焼して類焼、翌35年に仮建築し大正11年9月再建なったが、昭和20年7月の青森空襲でまた丸裸同然となった。今の本堂は47年に建った。 「歴史は浅いし災禍に遭っているのでお見せする寺宝とてない。作者は不明だが善光寺の阿弥陀如来の分身と伝えられる、ご本尊の阿弥陀如来一体、昭和15年に本堂わきに建った高さ2m余の聖観音菩薩の石像ぐらい。これから寺宝を作っていきたい」という。 「この観音様の宵宮は6月23日で、近所の人たちで大にぎわいするのです。今度は宵宮にゆっくり遊びにおいでください」と送り出してくれた。つがるのお寺さん 下巻 18.19ページ より引用明治14年(1881年)に津軽八十八霊場二十二番札所:無量山 引接院 正覚寺三十三世 円蓮社竜弁和尚の隠居寺として開基し、明治19年(1886年)に山寺号を得て現在の形になりました。現在の本堂は昭和47年(1972年)に新しく建てられたものだそうです。青森の道路が広いのは空襲・火災の痕跡とよく言われますが、このお堂も被災。檀信徒の尽力によって再建されました。青森市街は焼け野原から復興を遂げた力強い街。それを実感できる札所でした。御詠歌ひたすらに みだにすがりただたのめ わがみのすえは にしへゆくまで本尊:阿弥陀如来 अमिताभ以前貰った御朱印です。こちらの寺院も山門が素晴らしいです(それ以外も最高ですが)。興味がある方は是非下のリンクから記事をご覧ください!・青森市:全仏山青龍寺 一息つくなら青龍寺以上です。次の記事・二十四番札所:鷲尾山 佛宝院 当古寺 奥州街道沿いの古仏擁する寺2026.3.28見納め詣出おほほほ、いつ見ても素晴らしい山門です。県内浄土宗寺院としては最高の山門でしょう。だんだんと木材の色合いが落ち着いてきて”アジ”が出てきましたね。境内の聖観音石像と鎮守社。本堂です。隠居寺としてはかなり大きめですよね。斜めから。見納めと思うと寂しいですが、これで悔いなく旅立てるというもの。あちらでも沢山思い出を作りたいですねぇ!以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー
2024年07月27日
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八戸市の新井田川沿いに岩淵という地域があり、そこに美女かん子の伝説が残されています。今回紹介する稲荷神社は、美女かん子を鎮めるために当地に建立されたものと言われているようです。2025.3.29かんこ稲荷神社満面の水を湛えた新井田川、もう少し進めば鮫町に突き当り、太平洋に注ぎます。いつの頃の話か、この新井田川に生きたまま沈められたかん子という美しい女がいたそうです。岩淵に住んでいたかん子は、沢山の男たちから求婚されますが、既に心に決めていた男がおり、全てはねのけていました。それに逆上した男たちがかん子を擦巻にし、新井田川に投じて殺してしまったのです。それからは夜な夜な火の玉が出るように・・・それは丁度八戸セメントのある辺りだと言います。かん子の怨念を鎮めるために、新井田川沿いに稲荷神社を建て、側に石柱を置いたとか。今その稲荷神社は”かんこ稲荷神社”と呼ばれています。とっちぱれ。かんこ稲荷神社の参道はかなり見つけずらいです。別雷神社(岩淵観音堂)と、(おそらく)八戸セメントおかかえの稲荷神社との間に、ひっそりと置かれています。※八戸セメントおかかえの稲荷神社には、一般の方は立ち入りできませんので、間違って入らないように注意しましょう。茂みの側に石畳が敷かれており、ここから参拝出来そうです。かんこ稲荷神社です。社殿は半壊状態で、あまり管理されていないようです。社殿の脇には石柱が建っています。もはや表面の文字は摩耗して判読できませんが、これが恐らくかん子を供養した塔だと思われます。社殿内陣には、まだ神棚が残っています。中には金属製の幣と稲荷の置物が収められていました。社殿を後ろから見てみます。本当に倒壊寸前、参るなら今の内です。ちなみに今立っている辺りに2基の墓が置かれています。片方は岩藤家の奥津城(神道式墓)、もう片方は岩淵家のものです。岩淵家のものは折れてしまっていて、痛ましい姿をしています。かん子の苗字も岩淵と伝わっていますが、これはもしや・・・。以上です。
2025年04月06日
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五所川原から青森に向かう途中、狼野長根という峠を越えます。峠の麓には福山という集落があり、その集落唯一の仏閣が福峰軒です。墓地に置かれた草庵のような仏閣で、明治初期ころの創建と伝わります。津軽八十八霊場では四番札所、駐車場が無いのが痛いところですが、境内や御堂を見ていきましょう。津軽八十八霊場四番札所:法性山 福峰軒墓地の側に御堂があります。墓地の端の方には石仏が2基。その内こちらは十一面観音でしょうか。そしてこちらは地蔵尊。花柄の着物を着せられています。御堂です。仏閣と言うよりは古民家の様な感じですが、しっかりと表札には福峰軒と刻まれています。御朱印は堂内に置かれており、自分でお金を納めて押印するタイプです。嬉しいことに御由緒付なんですよね、ここの札所は頂いたご由緒を見てみます。法性山 福峰軒浄土宗本尊:釈迦如来略縁起 寺の開山は新しく明治5年(1872年)と伝えられておりますが、その由緒はさだかではなく、村の共同墓地の墓守りの庵寺であったために、曹洞宗・浄土宗と一時は浄土真宗の僧が墓守りをしたと伝えられ、幾度かの曲折を経て今日に至ったのでありますが、中興開山は、二番霊場慈眼寺の六世良悟和尚といわれております。 昭和51年7月、近くの花火工場の火災により全焼したが本尊は難をのがれ、信者や檀家の力で再建されたのであります。住職 十世松原資亮由緒不詳ながら、様々な宗派の僧が管理していたことは確かそうです。今でも浄土宗ながらその本尊は釈迦如来です。その辺がなかなか面白い!堂内はこんな感じです。草庵というにはあまりにも荘厳な祭壇です。中央の厨子には美しい光背を背負った釈迦如来が鎮座しています。その脇には文殊菩薩?でしょうか、普賢の方もどこかに置かれていそうです。祭壇右手には地蔵尊と共に釈迦生誕像、左手には阿弥陀如来?が置かれていますねぇ何とも素晴らしい御仏像、見れた嬉しさで天に昇りそうな程。墓守堂は今日も管理が行き届き、美しい姿を見せてくれます。御詠歌はるばると ながれながれていまここに なはふくやまの てらにおさまる本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・五番札所:太伊山 長円寺 飯詰の大寺、幸せ祈る幸福観音
2025年05月14日
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五所川原から弘前に向かう旧道沿いに一際豪奢な山門が建っています。奥には桜と鐘楼堂、大きな本殿も見えます。板柳の町の中では一番の大堂で、参拝者を驚かせ、寺勢の強さを感じさせます。津軽八十八霊場三十六番札所:檛木山 龍淵寺旧道沿いに大きな駐車場があり、車でも安心。駐車場からは素晴らしい新築の山門が見え、境内はその先です。山門の左手には大仏殿が置かれています。その名の通り人の身をゆうに越す仏像が収められており、黒く錆びた姿から黒仏とも呼ばれます。享保17年(1732年)に板屋野木の商人若狭屋儀兵衛によって寄進されました。大仏殿の横には廓聖堂と呼ばれる鐘楼が置かれています。津軽地方でも一、二を争う勇壮な鐘楼堂です。特に壁面の彫刻類や石をメインにした土台などが、大陸風の雰囲気を放っています。手すりの所にも宝珠を加えた双龍が刻まれています。桜も相まって雰囲気最高です鐘自体も変わった形をしています。鐘の下端が波打っており、幽霊の様にも見えます表面には龍翔鳳舞鐘と刻まれ、イボ無しです。なんとも美しい響きなんでしょうねぇ。本堂です。入母屋屋根の大堂の前には四天王像が置かれています。左には増長天・持国天。右には広目天と毘沙門天です。何れも活き活きとした美像ですよ!ご由緒です。檛木山 龍淵寺曹洞宗 嶺応山梅林寺末寺開山:嶺応山梅林寺八世 不歩雲甫和尚・・・。 当時のたたずまいは知るすべもないが、龍淵寺の開山は、津軽為信が津軽統一を完成した翌年の慶長2年(1597年)と伝えられる。弘前・梅林寺八世の不歩雲甫和尚が隠居の庵として建てたといわれ、その後、慶安2年(1649年)、三世の節山雲貞和尚の代に寺院を建立、寺号を檛木山龍淵寺とした。今でも境内西方に岩木川が流れているが、当時はもっと迫り、大きな淵に竜神がいると信じられ龍淵寺と命名されたともいう。 藩政時代の板屋野木村は、津軽藩の岩木川流域の物資の集散地として隆盛をきわめ、豪商が輩出、龍淵寺とのかかわりも深い。”寺宝”の一つに”黒仏”と呼ばれる高さ約4m、青銅の大仏がある。板屋野木村の豪商若狭屋儀兵衛が寄進、享保17年(1732年)に建立された。 京都で鋳造、海路をたどり十三港から岩木川を上って運ぶ予定が大風に遭い、深浦で降ろさざるを得なくなった。その後、陸路で板屋野木村まで運んだが街道筋にはご利益を願う人々があふれ、お祭り騒ぎだったという。そして旧7月2日夜、無事安置したが、10歳ぐらいの迷子が見つかり大騒ぎ。これを見た津軽藩屈指の豪商・安田次郎兵衛が「この子は大物になる。きっと仏さまが導いてきたのだろう」と自ら引きとった。 この子供は、30歳まで大安田家に奉公、苦労の末、藩第一の豪商となった井筒屋忠兵衛その人である。 黒仏”のほかに万体仏、十三仏、地獄極楽御掛図など貴重な什物が残されているが、いずれも豪商、農民などとの興味深い伝説に彩られている。・・・。津軽のお寺さん 下巻 212.213ページ より引用堂内には至る所に仏像が置かれており、崇敬の篤さを感じさせます。特に初七日から三十三回忌までを守護する十三仏は壮観です。一部載せたいと思います。六十七日:弥勒菩薩百ヶ日:聖観音七回忌:阿閦如来御堂の左には鎮守の社殿も置かれています。ここに祀られるは秋葉大権現。おそらく御堂の火災除けに勧請されたんではないでしょうか。更にこんなものも。薬師三尊の木像が収められていました。光背には菩薩が舞い、なんとも荘厳です。これは平成9年12月16日、丗一世無聖能人和尚の代に奉納されたものです。斜めから。地域の有力寺院として、板柳の町中に鎮座する曹洞宗の寺院でした。ここは津軽八十八霊場の御朱印の中でも最も美しいものをいただけます。薄墨にて書かれた本尊と道元・瑩山両禅師はかなり気に入っています。ここも事前に電話などで訪問することを伝えておくとスムーズに対応していただけると思います。ぜひぜひご参拝を!御詠歌むかしより たつのひそめるふちなれば みのりのあめは とわにふるらん本尊:釈迦如来 शाक्यमुनि以前貰った御朱印です。以上です。次の記事・三十七番札所:無量山 功徳院 大善寺 子授けの伝説持つ地蔵尊、大善寺調子に乗って撮った写真ギャラリー
2025年06月07日
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山形県北東の最上地域と村山地域に広がる観音霊場を巡ります。公式サイトにある通り、結願には最短で3日はかかりそうです。今回三連休を利用して巡礼しましたが、かなりしっかりと見てあるいて、3日まるまるかかりました。ただ、札所の方の話だと、近年はツアーなどだと1泊2日でまわることもあるようで、その辺は予定の組み方次第だと思います。札所の配置が芸術的で、ちょうど時計回りに円を描くような配置になっています。逆まわりも順まわりもしやすく、その辺はかなり巡礼しやすさが高いんではないでしょうか。基本的には専用御朱印帳のページを差し替えていく感じです。一部札所では直書きもありましたが、全札所で行うのは難しいでしょう。差し替えな分、かなり対応にかかる時間が短く、ここも嬉しいポイント。是非、御朱印帳の紐をほどいた状態でお持ちください。一瞬で代わりのページを用意してくださいますよ!巡礼が終わってから、各ページを閉じていくと良いでしょう。発願:2025.9.13結願:2025.9.15最上三十三観音霊場一番札所:鈴立山 若松寺御詠歌かかるよに うまれあふみわかまつや おいにもたのめ とこゑひとこゑ本尊:若松観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事・一番札所:鈴立山 若松寺 霧立ち込める山の頂に建つ観音堂二番札所:宝珠山 立石寺 千手院御詠歌みほとけの ちかひはおもきりうしやくじ ねがふこころは かろくありとも本尊:千手院観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事未三番札所:守国山 吉祥院 千手堂御詠歌はなをみて いまやたをらんせんじゆとう にはのちぐさも さかりなるらん本尊:千手堂観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事未四番札所:大慈山 圓應寺 観音堂御詠歌おしなべて ほとけにむすぶゑんのうじ たかきいやしき たのまぬはなし本尊:圓應寺観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未五番札所:唐松山 護国寺御詠歌みなかみは いづくなるらんからまつの かぜにおとある やまかはのみづ本尊:唐松観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事・五番札所:唐松山 護国寺 川岸の岸壁に懸けられた紅白の大悲閣六番札所:清水山 耕龍寺 観音堂御詠歌ひがしやま ながれはおなじひらしみづ むすぶこころは すずしかるらん本尊:平清水観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事・六番札所:清水山 耕龍寺 観音堂 蔵王西麗、平清水の里の観音堂七番札所:新福山 石行寺御詠歌みなひとの あゆみをはこぶいわなみの ちかいはつきじ こけのむすまで本尊:岩波観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未八番札所:六椹山 宗福院他の巡礼:山形十三仏めぐり一番札所御詠歌おもくとも いつつのつみはよもあらじ むつのくぬぎに まゐるみなれば本尊:六椹観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未九番札所:金峰山 松尾院御詠歌このかみは いくよへぬらんたよりをば ちとせをここに まつのをのやま本尊:松尾山観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十番札所:水岸山 慈眼院 観音寺御詠歌のをもすぎ さとをもゆきてかみのやま てらへまゐるも のちのよのため本尊:上の山観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十一番札所:高松山 光明院御詠歌たかまつや やしまのほかのなみまでも しづかなるよに つきはすむなり本尊:高松観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十二番札所:長谷山 長光院御詠歌いくたびも まゐるこころははせどうの やまもちかひも ふかくなりけり本尊:長谷堂観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未十三番札所:観音山 常福寺 観音堂御詠歌いづいるや つきのゆくゑもみかはむら かねのひびきに あくるしののめ本尊:三河村観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十四番札所:金剛山 正法寺御詠歌けさみれば つゆおかむらのにはのこけ さながらるりの ひかりなるらん本尊:岡村観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事未十五番札所:京集山 観音寺 観音堂御詠歌ぎやくえんも もらさですくふぐわんなれは じゆんれいだうは たのもしきかな本尊:落裳観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未十六番札所:長岡山 長念寺 観音堂御詠歌ちちははの めぐみもふかきながおかの ほとけのちかひ たのもしきかな本尊:長岡観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未十七番札所:寒江山 長登寺 観音堂御詠歌やまをわけ きしをつたひてながのぼり はなのうてなに いたるなるらん本尊:長登観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未十八番札所:恵日山 慈眼院御詠歌よきみちに すすめばすすむよのならひ ひとのこころは いはきならねば本尊:岩木観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未十九番札所:東根山 秀重院御詠歌むかしより たつともしらぬくろとりの ほとけのちかひ あらたなりけり本尊:黒鳥観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未二十番札所:青蓮山 清浄院御詠歌ちちははの はなとそだてしこまつざは はるをまちえて みどりたつなり本尊:小松沢観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十一番札所:五十澤観音堂御詠歌ひとはいざ こころもしらぬいさざはの やまのおくにも つきはてるらん本尊:布引観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事・二十一番札所:五十澤観音堂 林の中の信仰の小堂※朱印所は五澤山 喜覚寺二十二番札所:祥雲山 龍護寺 観音堂御詠歌いのれただ ひとのよわひをのべざわの ほとけのちかひ ありがたきかな本尊:延沢観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十三番札所:光沢山 円照寺 観音堂御詠歌いまここに みのりのふねのをりをえて のちのよまでも うかぶなりけり本尊:六沢観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十四番札所:宝沢山 薬師寺 観音堂御詠歌たなはしの かみのはたよりながむれば あきのたおもて ぼさつなりけり本尊:上ノ畑観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十五番札所:弘誓山 養泉寺御詠歌をばなざは ほとけのみてのいとすすき てにとるからに ゆらぐたまのを本尊:尾花沢観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十六番札所:川前観音堂御詠歌おのづから みをきよめたるかはまへの わたりのふねは ぐぜいなるらん本尊:川前観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十七番札所:深堀観音堂御詠歌いはをたて みづをたたへてふかほりの にはのいさごも じようどなるらん本尊:深堀観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未二十八番札所:塩沢山 曹源院御詠歌みなひとの こころさしくるしほのさわ うみよりふかき めぐみなりけり本尊:塩ノ沢観音(千手観音) सहस्रभुज札所記事未二十九番札所:石水山 西光寺御詠歌つきもひも なみまにうかぶおほいした ふねにたからを つむこころせよ本尊:大石田観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未三十番札所:鷹尾山 般若院御詠歌あなたふと みちびきたまへにうむらの くわんぜおんにぞ はこぶあゆみを本尊:丹生村観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未三十一番札所:浪高山 東善院 光清寺御詠歌さとびとの ゆたかにすめるとみざはの のきばのはなも くちぬなりけり本尊:富澤観音(馬頭観音) हयग्रीव札所記事未三十二番札所:慈雲山 明学院御詠歌みやまぢや ひばらまつばらわけゆけば たろうだにこそ こまぞいさめる本尊:太郎田観音(十一面観音) एकदशमुख札所記事未三十三番札所:庭月山 月蔵院他の巡礼:山形十三仏めぐり八番札所御詠歌よろづよの ねがひをここにたのみおく ほとけのにはの つきぞさやけき本尊:庭月観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未番外札所:臥龍山 天徳寺御詠歌よをてらす ほとけのちかいありければ まだともしびも きえぬなりけり本尊:世照観音(子安観音) आर्यावलोकितेश्वर札所記事未以上です。
2025年09月16日
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八戸市博物館の近くに墓所があり、その近くに原っぱが広がっています。その原っぱの中心にあるのが十二番札所:根城隅ノ観音です。初めて行ったときは御堂も近くの集会所も開いていなく、判も用意されていなくて非常に面喰いました。ツアーではお堂の中を見ることができたんですが、いくつのも千羽鶴が吊るしてあり、非常に印象的でした。奥州南部糠部三十三観音十二番札所:根城隅ノ観音根城跡からまっすぐこの観音堂に向かってくると、一か所だけ木々に囲まれた場所が有り、簡単に観音堂だと分かります。着きました。石段からして古さを感じさせますね。参道の右脇には何かの石碑が有りました。酒が備えてありますが、ガイドブックにも特に記載はありませんでした。何の石碑なんだろう?境内には数個の石と祠が有ります。これはこの付近で起きたイノシシケガヅの供養碑らしいです。イノシシケガヅ(猪飢渇)とは、猪によって農作物が食い荒らされたことにより発生した飢饉のことです。南部の方では飢渇がなまってケガヅと呼ばれています。ツアーに誘ってくださったおばさまも、小さいころ食べようと取っておいた農作物が、猪によって食い荒らされた上に、更に糞までしていったとおっしゃっていました。今よりも食品の流通量が少ない時代では、害獣対策が一番の課題だったと思います。作物が取れなくては保存食の塩漬け類も作れませんし、冬を越すのがかなり厳しくなりますよね。猪飢饉の詳しい記述は八戸市博物館にあるので、是非足を運んでみてください。観音堂です。シンプルな造りですね。参道の左手にあるお宅の方が代々管理してくれているそうです。御朱印もそのお宅で貰うことができます。ツアーでも観音様は見ることができませんでしたし(秘仏のため)、ガイドブックにも由来などは載っていませんが、飢饉の頻発していた南部藩の只中にあり、被害者を弔うために設置された観音様なのではないかと思います。御詠歌根城なる すみの観音ふし拝め 種々重罪も 五逆消滅ねじょうなる すみのかんのんふしおがめ しゅじゅじゅうざいも ごぎゃくしょうめつ本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。以上です。次の記事十三番札所:坂牛観音 坂牛地区にある見事な造りの観音堂
2024年05月24日
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青森県の南部地方、上北郡に県内最大の面積を誇る湖があります。小川原湖というこの湖は、しじみやワカサギなどが豊富に捕れる県内有数の漁場としても知られています。小川原湖伝説小川原湖を舞台にした伝説として、”小川原湖伝説”というものがあります。様々な話型がありますが、概要としては以下の通りです。小川原湖伝説 白雉年間(650~654年)、橘中納言道忠という人物が世を儚んで出家し、関東から東北を巡り、今の小川原湖のほとりに庵を結び、自ら観世音菩薩の像を彫り、日々を送ったという。道忠には姉を玉代姫、妹は勝世姫の二人の娘があって、父を恋したう情に耐えかねて父道忠の行方を捜すため、家来二人を従え、東北の地、古間木まで辿り着いたが、「道忠は既に病死した」と聞き、悲しみのあまり夜密かに湖岸をさまよい、姉妹別れ別れに入水して果てたという。 一方、京都では、二人の娘が帰らなかったので、道忠の奥方と弟の二人は家来と共に道忠の庵を訪ね、ここに小寺を建て、道忠の菩提を弔ったという。 南北朝時代の戦乱の中、盗賊が境内に侵入した際、当時の住職が道忠の彫った本尊を背負い寺を離れたが、追い付かれそうになったため、近くにあった沼(後の仏沼)に本尊を投げ入れた。その後、仏像が二体岸にあがったので村民が拾いあげたという。同サイト 五戸町:一向山 無量院 専念寺 仏沼から引き揚げられし御仏像 よりさらにこのような話型もあります。こちらの話型は物語性が高めです。小川原湖伝説 今から1300年ほど昔、都には橘中納言道忠公という貴人がいた。道忠公には、玉代姫、勝世姫という二人の美しい姫がおり、日々幸福に暮らしていた。 ある日、屋敷を賊に襲われ重臣を失った道忠公は、世の無情であると感じ遁世されたのである。道忠公の妻は嘆き悲しみのあまり病の床につき、それを按じた二人は父のゆくえを探す旅に出ました。新堂織部・駒沢左京之進を供に従え、諸国を巡り探し歩いたがゆくえは知れず、尾張の国、熱田大社に37日間籠り願をかけた。満願の日、白髪の翁が夢まくらに立たれ、お告げをした。「汝らの父は、はるか北の国の清地の流れに住む。姉妹別れて探すがよい。」そのお告げを聞き、玉代姫は新堂織部と、勝世姫は駒沢左京之進を共につれ、奥羽をめざし別々に出発した。 玉代姫は武蔵から北上し古間木へたどり着いた際、旅の疲れを取ろうと休んでいるとどこからともなく父の呼ぶ声が聞こえてきた。声を追っていくと、そこは大沼という場所で、水底から聞こえてきたその声に我を忘れて飛び込んでしまった。 翌朝、玉代姫が居ないのに気づいた新堂織部は玉代姫を探して大沼に着いた際、急に嵐が巻き起こり、波の上に玉代姫の姿が現れ、こう言った。「私は大沼の主になります。父上は小川原という所で、沼崎観世音になられている。あなたは北へ行くがよい。妹や左京之進に会えるでしょう。」と示したのである。それからこの沼を「姉戸沼」と言うようになったという。 玉代姫の妹である勝世姫は、玉代姫と別れてから心細い旅を続け、村上という地にたどり着いた時、父上が沼崎というところの沼の主となったという噂を耳にしたため、旅を急ぎ鶴ケ崎から漆玉というところまで来て、ついには疲れ動けなくなってしまった。勝世姫はこの沼の主になろうと決め、このことを玉代姫に伝えて欲しいと、左京之進を姉戸沼へ向かわせた。 勝世姫が沼へ入ろうとすると、沼の主・鰐ざめが現われ、姫をめがけて飛びかかってきた。なんと姫は大蛇と化して三日三晩、闘い続けることとなったのだが、そこに道忠公が現われ、鰐ざめに縄をかけ、漆玉のうしろにあった小さな沼に投げ入れた。その事以来、勝世姫が沼の主となり、この沼を「妹沼」というようになった。 それが今の小川原湖である。一方、姉戸の沼に着いた左京之進は、玉代姫の霊と沼を守るためこの地にとどまったとされている。また勝世姫を探していた織部は、姫が主になった沼にたどりつくと、勝世姫の仰せを受けて、その沼の奉行となり、そこに住みついた。 その後、二人の姫は父の居る沼崎へと通われ、三尊仏となられたという。かの沼崎観音堂が霊験あらたかなことはいうまでもない。青森の魅力 / 小川原湖伝説 より引用後者の話型は今昔物語集のような言い回しがあって非常に好きです。南北朝時代のゴタゴタなども、ここでは語られておらず、ハッピーエンドとなっています。それでは、小川原湖伝説にゆかりのある所を見ていきましょう。一向山 無量院 専念寺道忠公の奥方によって、道忠公の庵跡に創建されたとされるお寺の後裔とされています。道忠公が彫ったとの由来がある千手観音像もここに納められており、五十年に一度の御開帳となっています。次回の御開帳は2039年です。詳細は下のリンクからどうぞ!・五戸町:一向山 無量院 専念寺 仏沼から引き揚げられし御仏像谷地頭神社専念寺が最初に創建されたとされる谷地頭の地に鎮座する神社です。近代になって出来た新しい神社で、小川原湖伝説に登場する橘尼の君(道忠公の奥方)を祀っています。それ以外にも南北朝時代の戦闘の犠牲者、小川原湖の主(龍神)なども合祀しています。詳細は下のリンクからどうぞ!・三沢市:谷地頭神社 小川原湖の龍神祀る神社沼崎観音堂道忠公が沼崎観音として祀られています。玉代姫を祀った姉戸大明神社、勝世姫を祀った広沼大明神社の間に位置し、まるで両者を見守るかのようです。詳細は下のリンクからどうぞ!・東北町:沼崎観音堂 都の貴人祀りし観音堂姉戸大明神社姉沼の主となった姉の玉代姫を祀っています。小さいながらも精巧な装飾がなされた社殿は見ごたえがあります。ナビ通りに行くと迷いやすいので注意です。詳細は下のリンクからどうぞ!・東北町:姉戸大明神社 姉沼の主を祀る神社広沼大明神社小川原湖の主となった勝世姫を祀っています。社殿のある高台からは小川原湖を一望できます。詳細は下のリンクからどうぞ!・東北町:広沼大明神社 小川原湖の主を祀る神社大沼大明神社(浜家苫)小川原湖畔に鎮座する小社で、かつて勝世姫の木像を御神体として祀っていたとされています。御神体は変われども、現在でも勝世姫を祀る社であることに変わりはありません。県内外から漁業の神として崇敬されています。詳細は下のリンクからどうぞ!・東北町:大沼大明神社(浜家苫) 勝世姫祀る湖畔の小社大沼大明神社(横志多)詳細は不明ですが、浜家苫の社と同名のため、こちらも勝世姫を祀っているものと思われます。集落のはずれの田んぼの中にひっそりと鎮座しており、細々と、且つ篤く地域の人々から信仰されていたのではないでしょうか。詳細は下のリンクからどうぞ!・東北町:大沼大明神社(横志多) 田んぼのあぜ道に鎮座する小社舘野熊野神社道忠公が都の奥方と不思議な石を使ってやり取りしたというエピソードが残されています。この時の道忠公の心情を察すると悲しくなってきます。詳細は下のリンクからどうぞ!・六戸町:舘野熊野神社 道忠公の願い届けた霊石がある熊野宮古間木薬師神社御神体として玉代姫のものとされる櫛が祀られているそうです。小川原湖に向かう途中のエピソードから派生したんでしょうか、伝説との不思議なつながりが感じられます。詳細は下のリンクからどうぞ!・三沢市:古間木薬師神社 三沢古間木のお薬師さま駆け足になりましたが、紹介はここまでになります。南部地域で長く親しまれてきた伝説なので、是非楽しんでいってください。本物の南部弁での小川原湖伝説朗読を楽しみたい方は、東北町歴史民俗資料館にて聞くことが出来ますのでご来館ください。また、小川原湖伝説はネブタの題材にもなっており、道の駅小川原湖に展示されていますので、そちらも見てみてください。おいしいバラ焼きも食べれますよ最後に、小川原湖畔にはこの伝説を語り継ぐ為に、玉代姫・勝代姫二人の像が建てられています。その表情は心なしか柔らかく、無事に二人が父と再会できたことを表しているように見えるんです。以上です。
2024年11月03日
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十和田市街から少々山手に走ると法量という地域に入ります。十和田湖もほど近く、自然あふれる土地です。この村には法量神社という神社が有り、地域の鎮守とされているようです。鎮座しているのは集落の奥の林で、まさに神域という雰囲気があります。2024.9.14十和田市:法量神社畑のあぜ道が表参道らしいですね。昔そのままの景色に思いを馳せながら神社に向かいます。立派な両部式鳥居が境内の入口です。境内には幾つか石碑・小祠が置かれています。これは二十三夜講の石碑と、三柱の神格を祀る石碑です。八幡大神・天照皇大神・春日大神の組み合わせは、当地域ではよく見られるものです。石碑の後ろ側に小さな祠が有りました。字が掠れて見えにくいですが、祠の扉には薬師**・金精*・子安*と書かれています。内部には幣と共に生殖器様の石が収められています。男性型が金精さまで、女性型が子安さまでしょうか。南部はこうした生殖器崇拝の痕跡が多く残っていますね次は拝殿右手の祠です。四角い石の構造物の中に神棚が置かれています。木札から分かる通り住吉神を祀っているようです。神棚の直ぐ後ろには湧水があり、これとも関連していそうです。拝殿です。境内の中でも一番高いところにドンッと社殿が置かれ、かなり存在感があります。御由緒です。法量神社祭神:高龗神由緒 宝永5年(1708年)6月に創建された。明治6年(1873年)に奥瀬村(現十和田市奥瀬)の新羅神社に合祀されたが、同8年2月に復社して翌9年12月6日に無格社に列し、昭和11年(1936年)9月10日に村社に昇格した。wikipedia / 法量神社 より抜粋祭神は高龗神なんですね。地域には畑が多く、雨乞いなどが盛んに行われていたのかもしれません。そうすると、水龍神である高龗神を勧請したのもそうした経緯がありそうですよね。祭神に併せてか、はたまたそうじゃないのか、蟇股には龍の彫刻がなされています。扁額です。相当に立派です。そして祭についての情報が書かれていました。法量神社 年間3代行事春 3月10日 午後2時秋 9月10日 午後冬 12月10日 午後2時斜めから。津軽でも、五所川原の周りなどでは稲作が盛んで、それに伴ってか闇龗神社が多く鎮座しています。ここ法量神社も、闇龗神と同一とされる降雨の神格:高龗神を祀っていました。神社の祭神を見ると、その土地の重要な産業は何なのかが見える時があって、そういうのが面白いんですこの神社はモロにそうで、法量地区の農業を支えるべく、当地に勧請されたんだと妄想して、今回は終わりにします。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー境内の杉林蟇股の龍の木彫アップ手挟内側の装飾左右で花の向きが異なる
2025年02月10日
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二度目の福島出張の時、一度目で行けなかった神社仏閣を周ろうと意気込んでおりました。特に行き残したのが茨城県の神社たち。両の手では足りない位に歴史の有る神社で溢れています。今回の出張中にどうしてもこの磯前神社2社は周りたかったんですが、ついにその願いが叶いました・・・!宿泊している白河の街を早朝に出発。国道349号をひたすらに南下し、途中で海側に折れ、虚空蔵堂・神明宮の前を走り抜けます(できればここにも参拝したかった・・・)。いつしか太陽に照らされた太平洋に辿りつき、海岸線を進んでいくと大洗の浜に到着です。大洗磯前神社先ほどの浜辺から徒歩数分。海に向かって建つ大鳥居が参拝者を迎えます。この他にも鳥居前の道路にも、跨ぐかたちで鳥居が建っており、そちらが一之鳥居でしょう。鳥居脇には石碑が建っています。何故か小石が積み上げられており、何かしらの願掛けかとも思われますが詳細は不明です。鳥居建設の碑 萬里の波頭巌を咬み、老松朝陽に映ゆ*処、大已貴命・少彦名命の両神東國の鎮護として神蹟を垂れ給ふ。時に、文徳天皇斉衡3年12月、爾来星霜茲に1129年、神威赫々として東國に光被し、延喜の制名神大社に列し、大洗磯前薬師菩薩名神の称号を賜う。明治の聖代國幣中社に列せられ、大洗磯前神社と称し國家の宗祀たり。 社頭正面に聳立する大鳥居は昭和12年深作貞治氏の奉献する処。年を経て損傷甚しく、依って其の再建を諮り建設委員会を結成し、資を氏子崇敬者に募り、工を大成建設株式会社に嘱し、茲に工成りて竣工の典を擧ぐ。依って資を献じ工を扶けし芳名を勒して後世に伝え、國運の隆昌と家門の繁栄を祈念する。昭和60年7月31日石碑と同じく、狛犬にも小石が積まれていました。狛犬:阿!狛犬:吽!海岸の小石を持ってきて積んでるんでしょうか、不思議です。参道を上がる前に、右手に折れて摂社を拝みます。こちらは”清良神社”といい、江戸氏によって謀殺された小幡義清の祟りを鎮めるために建立されました。小幡宥円命として祀られ、その姿は龍神だとも言われます。おそらくこれは近くに神池が有るためと思いますが、戦国時代の血なまぐさい争いの痕跡として、歴史を今に伝えます。祠はこんな感じです。清良神社の右脇には神池が広がっています。なんとなく鹿島神宮の御手洗池に似ていますね。もしかして磯前神社の閼伽井なんでしょうか。ここから採った水が祭神に捧げられていたりして・・・。詳細は不明です。参道を登り切ると右の方に手水が置かれています。そんで正面には随神門です。中には右大臣・左大臣が収められています。こちらの門もなかなかに美しい社殿です。町指定文化財に指定されています。木鼻の所には波頭の装飾がされているんですが、その造りの精密なこと・・・。なんともすばらしい職人技です!拝殿です。ギラギラとした装飾ではなく、落ち着いた厳かな装飾がなされています。平安の昔に創建された古社に相応しい風格を備えていました。御由緒です。大洗磯前神社祭神:大己貴神、少彦名神 平安時代の歴史書である『日本文徳天皇実録』によると、文徳天皇の斉衡3年(856年)12月29日、現在の神磯に御祭神の大己貴命・少彦名命が御降臨になり、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造りおへて、去りて東海に往きけり。今民を済すくわんが為、亦帰またかえり来たれり」と仰ったことから、当社が創建されたと伝わっています。 その後、国からお供え物をいただける数少ない神社の一社となり、更には「大洗磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。延喜式神名帳(平安時代の神社名鑑)では霊験あらたかな神社を表す「大社」とされ、明治時代には国幣中社という社格を賜りました。 御社殿等は戦国時代の兵乱によって焼失してしまいましたが、江戸時代になり水戸藩二代藩主徳川光圀公の命で元禄3年(1690年)社殿等の造営が始まり、享保15年(1730年)に完成したのが今の本殿・拝殿・随神門です。 本殿・拝殿は彫刻や建築様式が江戸初期の数少ない建造物として県の文化財に指定されています。 当社の創建について記されている「日本文徳天皇実録」には御祭神が降臨された時代は、天然痘が流行り、飢饉が起こるなど大変な時代だったことが記されています。特に御祭神御降臨の3年前には流行り病が猛威を振い多くの死者が出たとあります。薬も医者もいない時代に常世の国(不老不死の国)とも言われた常陸国に医薬の神が「今、民を救わんがために、また帰り来たれり」と仰り降臨されたのは、もう2度と同じような災難が繰り返されないよう、人々の願いを受けて二神が降臨されたと考えられています。 御祭神は平安の書物に「大洗磯前薬師菩薩明神」とも書かれた文字通りの医薬の神様です。 境内から涌く水は眼病に効くといわれ明治時代まで「目さらしの井」があり、神社前の海岸は潮湯治(病気治療のため、海水につかること)で江戸時代から御祭神の御利益をいただこうと賑わっていたようです。大洗磯前神社 / 御祭神・由緒 より引用出雲の神話の続きが、ここ常陸国で始まったのです。大洗磯前神社の主祭神は大已貴命こと大国主神で、相殿の神として相方の少彦名神が祀られています。この少彦名神はここより北方の酒列磯前神社より勧請されたもので、大洗・酒列の2社が揃うことで初めて1つの信仰となるようです。拝殿の外壁にはカラフルな彫り物が施されていました。それぞれに鳥が刻まれており、芸術的です。合計14面ありますが、外から見えるのは10面のみ。内側の4面は御祈祷などに呼ばれた方しか見ることが出来ません。拝殿は本殿と共に県指定文化財になっています。斜めから。海から来訪したとされる当神社の祭神たち。大洗・酒列ともに海岸にその降臨の跡があるんです。海からもたらされた物は受け入れる風土が日本には有りますが、それは大昔からのものだったようです。那珂川の河口を挟むようにして鎮座する2社は、今も変わらず当地の発展を見守っています。もう少しだけ続きます。ここからは摂社などを見ていきたいと思います。拝殿の向いには神馬舎があり、中には馬像が収められています。拝殿の左右奥には、末社がまとめられた合祭殿(正式には末社併合奉斎殿)が置かれています。それぞれ3つの神社が合祀されているようです。こちらは拝殿左奥の合祭殿。ここには右から・・・八幡宮:応神天皇・神功皇后・玉依比売命水神社:水波能売神大杉神社:大物主大神が祀られています。この合祭殿からは磯前神社の本殿が見えるんですが、なんと屋根は茅葺です!古くからの姿を遺しているんですねぇ反対側から見ても素晴らしい!茅は芸術的な整い具合です。右側の合祭殿です。こちらには右から・・・水天宮:天御中主神・安徳天皇・建礼門院二位尼静神社:建葉槌命・手力雄命・高皇産霊尊・思兼神大神宮:天照皇大神が祀られているようです。合祭殿から拝殿へ戻る途中にも摂社があります。こちらは御嶽神社、山岳信仰の社です。社はこんな感じ。扁額もこの通り豪華です。内部には金色の幣が置かれていました。祭神は国常立命・大己貴命・少彦名命の3柱です。他にも烏帽子厳社・茶釜稲荷神社・與利幾神社などの摂末社が有るようですが、今回は撮り忘れ・・・。次回参拝出来たらこちらも紹介したいと思います。帰りしなに神磯と呼ばれる、当神社の祭神が降臨したとされる場所を見に行きたいと思います。参道を登り切ったところの鳥居からは、大洗の海が良く見えます。参道の鳥居から徒歩2.3分。大洗の浜にある神磯に着きました。磐座を思わせる岩塊に鳥居が1基建っています。ここは神磯、大国主神降臨の地です。製塩労働者に神懸りしたとの言い伝えもありますが、大国主神を奉斎する部族が移り住んだ、とかならもっと面白いですよね。様々な説がありますが、いずれにしてもここが伝説の地と言うのは変わりありません。近くに歌碑が建っています。しかもこの詩は水戸光圀の詠んだもの・・・。磯月荒磯の 岩にくだけてちる月を ひとつになして 帰る浪かな徳川光圀大洗の浜は日の出の名所としても知られていますが、夜に見てもきっと美しいことでしょう。波に照りかえる月明かりを見ながら、ゆっくりとお酒を楽しんでみたいもんです隣には解説も!「磯月」について現代訳海に映る月が 荒磯の岩に砕けて散る その月を一つに戻して 帰る波なのだな 徳川光圀の歌集「常山詠草」の秋歌で、治世中の作に収められています。 光圀は元禄年間初頭に大洗磯前神社の再興に着手し、隠居後は水戸藩別荘の湊御殿(い賓閣)を基点に願入寺に通い祝町を振興し、大洗や磯浜・広浦で四季の行楽に興じました。令和6年立春 宮下町内会・大洗磯前神社・大洗観光協会鳥居から日輪が登る様子は撮影できませんでしたが、晴れ渡る空の下、どこまでも続く太平洋を背にして建つ鳥居は、何とも幻想的に映ります。大波に 洗われ続けた磐座は 神現われて 人や祝うや ということで、非常に見ごたえがありました。当に聖地巡礼、かねてより参拝したかった古社には、なんとも面白い由緒や伝説が残され、今でも参拝者を楽しませています今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・大洗磯前神社以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー随神門と樹叢美社殿大洗の浜
2025年06月04日
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大洗の浜から北方に進み、酒列磯前神社の鎮座する阿字ヶ浦を越え、村松虚空蔵尊を更に越え、久慈川を越えた頃に大甕の町に着きます。大甕のまた北方に水木町があり、その町に今回紹介する神社が鎮座しています。住宅地の中に鬱蒼とした社叢を持ち、その中央に清い水が湧く池があります。言うまでもなくその泉の神格を祀る神社です。泉神社注連縄が巻かれた神明鳥居が境内の入口です。参道にはいくつもの幟がたなびき、如何に崇敬されているかが示されています。幟はもちろん拝殿まで、更には境内社にまで続いています。先に境内社を見てみましょう。狼で名高い三峯神社です。祠はこんな感じです。秩父に総本社(もとは寺院だとか・・・)があり、日本武尊が伊弉諾大神・伊弉冉大神を祀ったことに始まるとされています。この祠の脇から更に奥に進んで行けそうです。進んでいくと泉神社拝殿の裏手に出ました。・・・戻りましょう。参道に戻り、更に進むと右側に御神木が祀られていました。杉の木を基にし、途中から桜が生えているという面白い御神木だったんですが、昭和初期の落雷によってこのような姿になりました。まだ息絶えてはおらず、耐蝕処理をされて生きながらえています。推定樹齢は450年。御神木の正面辺りに説明書きがありました。こちらは境内の樹叢についてのもの。茨城県指定文化財(史跡第二十三号)昭和44年12月1日指定泉が森 こんもりと生い茂った常緑樹に囲まれた区域、泉神社境内一帯が史跡として指定されています。 泉が森については、奈良時代に編さんされた、「常陸国風土記」に次のように記されています。此より東北のかた二里に密筑(みつき)の里あり。村の中に浄泉あり。俗(くにひと)、大井と謂う。夏は冷かにして冬は温かなり。湧き流れて川となれり。夏の暑き時、遠通(おちこち)の郷里より酒と肴とをもちきて、男女会集いて、休い遊び飲み楽しめり。(原文は漢文) 密筑の里は、いまの水木の呼称で、浄泉・大井とは、神社の北側に湧出している泉のことです。周囲が50mほどある泉のほぼ中央部からは、今も青白い砂を吹き上げながら、絶え間なく清水が湧き出しています。水温は夏冬ともに約13度で、「風土記」に記されているとおり、「夏冷冬温」です。 泉神社は、平安時代初期の編修である延喜式神名帳にも記載されている由緒ある神社で、天速玉姫命を祭神とし、古くは天速玉姫命神社、さらには泉大明神とも呼ばれていました。 神社には、「水木のささら」(県指定無形民俗文化財)や「当屋祭」 が伝えられています。 ささらは、泉神社の出社に際して、露払いとして神輿を先導し、 村の五穀豊穣、浜大漁及び住民の安泰を祈願する獅子舞です。 また、当屋祭は、専業の神職をもたず、村人だけで神事を行っていた、古い時代の名残りとみられる珍しい行事です。日立市教育委員会鎮座地の”みつき”という地名が如何に古いかが分かりますね。境内の泉も、記述を見るに上古の頃から人々の憩いの場だったみたいです。何とも歴史ある神社でしょうかその隣には先述の”ささら”についての説明書き。茨城県指定無形民俗文化財 第一四号指定年月日:昭和45年9月28日日立のささら(水木ささら) 水木ささらは、延喜式内社である泉神社が出社する際に、氏子が露払いとして五穀豊穣と浜大漁、そして住民の安奏を祈願して奉納する風流系の一人立ち三匹獅子舞です。 水木ささらは、古くから旧水木村内の向町に伝えられてきたものですが、現在では水本地区全体の郷土芸能として保存継承を図るために保存会を結成して活動しています。 構成は、大獅子、中獅子、雌獅子が各一頭と射子舞が2人から4人で、いずれも小学生の男子が演じます。笛と警護のほかに、日立地方では水木ささらだけにみられる女児が演じる金棒引きという役もつきます。 演目は、渡り、摺込み、庭見、鈴さがし、拝礼(歌舞い)、ほまち、獅子の入羽、まめいり、廻れや車、拝礼(弁歌踊)、ツヅチ踊、獅子喰い、獅子の仲直りです。 水木ささらは、これまでに幾度も中断の危機がありましたが、この郷土芸能に寄せる関係者の努力と地元住民の愛着に支えられて今日まで続いています。日立市教育委員会今回も動画を探してきました。茨城新聞動画ニュースの動画になります。子どもたちが「水木ささら」披露 日立・泉神社で大祭説明書きの隣には、泉のものにも劣らぬ程の清水溢れる手水がありました。いよいよ社殿が見えてきました。鳥居の基、柵の側面には狛犬が刻まれています。阿形!吽形?躍動感あふれる獅子たちでした。拝殿です。秋深まる頃に参拝したので、周囲は落ち葉でカラフルに!美しい社殿を更に更に飾り付けていました木彫装飾も見事なんです。どこの匠の手になるものか、口をポカンと開けたまま、しばらく眺めていました。ご由緒です。泉神社祭神:天速玉姫命(アメノハヤタマヒメノミコト) 泉神社は人皇第十代崇神天皇の御代、宇治49年(紀元前42年)にこの地方に鎮祀されたと伝えられている。延喜式内社の由緒深い旧郷社である。 久自國造船瀬宿禰(くじのみやつこ ふなせしゅくね)の奏請により、大臣伊香色雄(いかがしこおのみこと)が勅命を受けての久自の国に至り、天速玉姫命を祭祀して、久自の国の総鎮守としたことが泉神社の創立である。 社記に「上古霊玉此地に天降り霊水湧騰して泉をなす号けて泉川云ひ霊玉を以て神体とする」とある。 ご祭神はこの霊玉を神格化した天速玉姫命をお祀りしている。「東夷の荒賊を平討する」最前線基地としての地域性を反映し、古くから多くの武将が祈祷に参拝している。特に、後奈良天皇の御代、享禄3年(1530年)9月に書かれた棟礼には、佐竹義篤が泉神社を崇敬し社殿を修造したと記録されている。残念なことに、享和2年(1802年)社殿が焼失し、旧記録を始め宝物などが散逸してしまった。 現在の社殿は氏子らの浄財により昭和58年(1983年)5月に再建されたものである。常陸国 式内社 泉神社 / 泉神社について より引用扁額です。延喜式内常陸二十八社が一、泉神社!斜めから。湧き出る清水の如く美しい社殿・境内ですから、参拝者もかなりのもの。相当に賑わっていました。何とも素晴らしい神社かと、もうかなり満足してしまったんですが、境内にはまだまだ見所が幾つも有るんです。拝殿左手から裏をまわって、ぐるりと右側に廻り込めるんですが、ここには末社の祠などが置かれています。当然本殿も見えますよ。末社の内、拝殿左手にあるのがこの目洗いの泉です。眼病平癒の神徳を持つ清水というと、やはり薬師様でしょうか。公式サイトにも特に祭神の記載がないんですが、そこから考えるとおそらく祭神は少彦名神ではないでしょうか。拝殿右手には摂社4社がまとめて祀られていました。右から・・・・稲荷神社:稲荷大神・豊稔神社:月夜見大神・大国主神・富士神社:木花開邪姫命・鷺杜神社:天玉柱屋姫命となるでしょうか。社殿脇の柵から境内の下の方を覗いてみると、今まで見た事もない程透き通った泉に社が鎮座していました。あれが”みつきの大井”でしょう。中央に鎮座するのは厳島神社で、通称は弁天様。市杵島姫命を祀っているようです。大井に近づいて見ようと坂を降ります。大井の周辺には歌碑が幾つも置かれていますが、この池を見れば詩作の心も沸き立つというもの。才能ある詩人であればなおさらでしょう。この石碑は栗田寛泉が森詠歌というもので、↓に説明書きを載せたいと思います。栗田寛泉が森詠歌 明治31年8月栗田寛・勤親子は勿来・平潟を巡り、帰途泉が森に立ち寄る。 栗田寛の門下生として輔仁学舎に学んだ多賀郡坂上村水木の内山耕造・徳之介に恵贈された。栗田寛没後(1899年)100年記念としてこの碑を奉献する。池のおもに 浮かぶ光を玉と見て むす手にわける月はありけれ水を掬めば手に在りといふこころをよめる 寛「水を掬む」は古語の「掬ぶ(むすぶ)」で、「むす手」は手のひらで水をすくうを言う。『大日本地名辞書』は、「太之速玉とは蓋し泉井の美称にして涌玉・玉水の類にして之を女神とするは其の幽麗の性格に比擬せるならん」としている。栗田寛略歴・天保6年(1835年):9月14日水戸下町六丁目に生まれる。・安政6年(1859年):豊田天功に見出されて彰考館に出仕する。・明治13年(1880年):家塾輔仁舎を開設する。・明治23年(1890年):教育勅語発布に際し「神聖宝訓」1巻を奉呈する。それが教育勅語草案起草の参考に供される。・明治25年(1892年):東京文科大学(現東京大学)教授に任命される。大日本史編纂に従事する。・明治32年(1899年):1月25日逝去。65歳。文学博士の称号が贈られる。平成11年秋日こちらにも歌碑です。常陸にも またみかの原いづみ河 國こそかはれ名こそかはらね内藤義秦尋ねきて けふ見かの原いづみ川 名にながれたる浅瀬きよしも安藤朴翁いさぎよき 心のそこのみゆるまで 水に姿をうつしてもみむ栗田寛新編常陸国誌によるこちらには泉ヶ森についての説明が刻まれている石碑がありました。史跡泉ヶ森茨城県指定文化財 昭和44年12月1日指定 泉ヶ森は、この清い泉と泉神社の神域をふくむ総称で、**の美しい歴史的に価値の高い森です。常陸国風土記には「蜜筑の大井」として人々の憩いの場であったことが記されており、また嬥歌の場所としても有名であったようです。 泉神社は天速玉姫命を祀る延喜式内社で日立地方では最も古い神社です。鎌倉・室町時代から多くの武将が祈願に訪れたといわれております。 江戸時代には常陸十景のひとつに加えられており現在も茨城百景として名勝地にもなっております。泉の近くにインドの河の精を神格化したという弁財天が祀られております。厳島神社雨舎造営記念昭和58年12月10日そして泉の西側にはこんなものも。朽ち果てた巨木に見えますが・・・。説明書きによると"泉龍木"と呼ばれ、龍の形をしていることからその名が付けられたようです。確かに近くで見ると、思ったよりも龍にそっくりでした。大きく割けた口に牙まで覗かせています。泉に龍、これ以上に優れた組み合わせがあるでしょうか。大井の中央に鎮座する弁天社。泉神社を訪れた方は皆こちらも拝んでいきます。祠を近くで見てみると、かなり荘厳な造りである事が分かります。木彫装飾に着色まで・・・なんということでしょう。弁天社の左脇辺りから、水が湧きだしている様です。水底の砂を巻き上げながら、今も昔も清水は湧き出し続けるのです。千年以上の時を経ようと、尊い大井が憩いの場であり続けていることは言うまでもない(今昔物語集風エンド)。今回貰った御朱印です。公式サイトへのリンクです。・常陸国 式内社 泉神社以上です。
2025年06月16日
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ずっと行きたかった寺院があったんです。徳川家の菩提寺であり、江戸一の大伽藍を有した浄土宗の寺院、増上寺です。初めは書籍で、次に動画で、そんで直にこの目で、幾たび見てもその度に感動しっぱなしです。東京タワーを背後に背負う二重屋根の大堂は、今日の江戸(東京)の繁栄を表すようでもあります。江戸三十三観音霊場二十一番札所:三縁山 広度院 増上寺 西向観音堂地下鉄の大門駅から徒歩数分、芝大神宮の近くに、地名の由来となった大きな門が道路を跨いで建っています。かつてはこの門の先はもう増上寺の境内だったと言います。いかに広大な境内を持っていたのかが分かりますね今回はかなり長くなりそうなので、先にご由緒の方を見ておきましょう(開山の所をクリックすると浄土宗のWeb大辞典に飛びます)。三縁山 広度院 増上寺浄土宗大本山 開山:西譽聖聡上人本尊:阿弥陀如来札所本尊(観音堂本尊):西向聖観音家康が二十万坪の寺域を寄進 増上寺は浄土宗四大本山の一つで、正式には三緑山広度院増上寺という。寺伝によると明徳4年(1393年)、現在の平河町付近の貝塚にあった真言宗の光明寺を、浄土宗の八世西譽聖聡上人が改宗して増上寺と改め開創し、文明2年(1470年)増上寺三世の音譽聖観上人の代に、後土御門天皇の勅願所となった。そして天正18年(1590年)徳川家康が江戸入りしたとき、菩提寺として20万坪の寄進を受けて芝の現在地に移し、十二世の存応上人が紫衣と永代常紫衣の論旨を賜ったといわれている。また江戸時代は浄土宗の学問所である関東十八壇林の筆頭になっていた。 現在の上野公園が18万坪というから、20万坪という当時の寺域はその広大さが想像されよう。現在の東京タワーあたりから浜松町駅付近までが寺域であったのである。ところが、昭和20年(1945年)の戦災に遭って、一部を除いてすべてを焼失してしまった。 ・・・。廃仏毀釈の嵐のなかで 増上寺は、江戸時代には二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の将軍・夫人・子女たちが葬られている。また徳川家の庇護のもとに栄えて子院が50を超え、学僧が3千人もいたという。寺領もはじめは千石であったが、のちに1万石を超えた。他に蔵米4千俵ももらっていたというから、経済的にはかなり余裕があったと思われる。 秀忠こと台徳院の廟所は、本堂南にあった元芝ゴルフ練習場にあって、二千坪を超す広さをもっていたようだ。そばに五重塔が建ち、参道入り口には極彩色の惣門があった。また将軍家宣・家継らの廟所は、ほとんどが東京プリンスホテルとその前面の駐車場にあった。家継こと有章院の場所の参道入り口には、広目天と多聞天が祀られている二天門が建っていた。当時の写真を見ると、それら廟所の外観は日光東照宮のようにきらびやかで、屋内は石や青銅の宝塔を中心に奉安され、中尊寺の金色堂のようにまばゆいくらいであった。とりわけ台徳院の廟所が豪華であったという。 増上寺の境内にはこのような建物が大小七十もあり、江戸第一の名所としていつも参話者で賑わっていたそうだ。 明治維新の前後は混乱の時代で、大きな社会変革をもたらした。新政府は宗教界に対して神仏分離法を出し、「祭政一致」と「神仏分離」 を旗印として、神社にいた僧侶に蓄髪させ、仏像を神社から追い払った。日本全国で予想外の廃仏毀釈の暴挙が頻発し、寺は至るところで廃寺に追い込まれたり、打撃を受けたりした。江戸三十三観音札所のなかでも、特に徳川家と緊密な関係にあった傳通院、護国寺、金地院、そしてこの増上寺などがその最たるものであった。増上寺の境内の一部が芝公園になったのもこのときである。再建された徳川将軍家霊廟 ようやく世の中が治まって神仏が崇拝されるようになったが、第二次世界大戦の末期になると、残念なことに昭和20年(1945年)5月の空襲によって、三門、御成門、惣門、二天門を残し、すべて灰燼に帰してしまった。観音さまは、その地獄絵をどんな想いで間近に目撃されたのであろうか。お身体に傷は負わなかったのであろうか。御詠歌にあるように、参詣する人々の現世安穏・後生極楽という願いを聞き届けてくださる。まことに有り難い西向きの観音さまである。 昭和27年(1952年)に仮本堂が再建され、昭和33年(1958年)にはその裏手およそ300坪の土地に、8基の将軍と夫人たちの宝塔が徳川家霊廟としてまとめられた。この徳川家霊廟は有料での拝観ができる。私は桜が満開の一日と、バスツアーでの参詣のとき拝観する機会にめぐまれた。 奥の右手に秀忠の石の宝塔、左手に家宣の青銅の宝塔があり、それぞれの側に三基の宝塔が居流れるように立っている。空襲前とは比較にならないくらいに縮小されている。 ・・・。江戸三十三所観音巡礼 新妻久朗 著 140~145ページ より引用今でも十分に広大で豪華絢爛な伽藍を持っていますが、明治の神仏分離、昭和の大空襲などの影響を受けて規模が縮小、現在の形になります。最盛期の姿を見た日にゃ、感動と驚きで失神してしまうかもしれません大門をくぐり、せわしない芝の通りを横目に歩いていると、T字路の突き当りになんとも美しい朱塗りの山門が見えてきました。この門は通称”三門”、正式には三解脱門と呼ばれ、増上寺の伽藍の中では最古級のものです。国指定重要文化財に指定されています。三解脱門(三門) 増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門といいます。 煩悩から解脱した覚りを開くための三種の修行「空門」「無相門」「無願門」の三門を三解脱門といい、またこれを通称「三門」ともいいます。 慶長16年(1611年)徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和7年(1621年)大風により倒壊するも、元和8年(1622年)に再建。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。 建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せています。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。この門をくぐると、念仏を称えて阿弥陀様と親しく近しい縁を結び、「むさぼり、いかり、おろかさ」といった煩悩から解脱した安らぎの世界「極楽浄土」への往生を願う空間が広がっています。大本山 増上寺 / 宝物・文化財 より引用三門という名前を体現するように、門の両脇にはまた更に門が取り付けてあります。反対側もこのように・・・!三解脱門をくぐると、いよいよ増上寺の根幹エリアに突入です。正面を眺めるとあの有名な光景が広がっていました!ついにここまで来れたという感動でいっぱいですまずはこちら(公式サイト)から伽藍の配置を確認しておきましょう。それでは参道右手から見ていきます。この目立つ松は”グラント松”と呼ばれます。樹勢盛んなこの松は、米国大統領御手植えの物です。グラント松 米国第18代大統領グラント将軍は明治12年(1879年)7月国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣し記念としてこの樹を植えました。境内説明書き より引用松の奥の方に鐘楼堂が建っています。こちらも御堂から鐘からどちらも大きく、かなりの轟音を響かせそうですよ。中に人が数人は入れそうな位大きいです。東京住なら大晦日にはこの鐘の音を聞きながら・・・なんてのもオツですよね鐘楼堂(しょうろうどう) 寛永10年(1633年)の建立ですが、現在の鐘楼堂ほ戦後に再建されたものです。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元年(1673年)にあまりの大きさに7回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級)、江戸三大名鐘の1つに数えられています。 朝と夕べ、2回撞く鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす108の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いでもあります。 江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、庶民に親しまれました。大本山 増上寺 / 宝物・文化財 より引用鐘楼堂の周りは石碑エリアです。こちらは筆塚。文豪たちから町人まで幅広い方々が使用した筆を納めたものです。隣には芝大神宮に引き続き火消しに関わる石碑が置かれています。増上寺門前町の火消しを担当した”め組”の殉死者などの供養碑です。供養碑の後ろには境内社の熊野三所大権現宮が鎮座しています。手水舎には鳩が水浴びをしに来ていました。人だけでなく動物たちの憩いの場でもあるようです。水盤には熊野大神の使いである八咫烏が刻まれています。説明書きです。熊野三所大権現宮 由来記 増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う。縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。 御神体は・・・・熊野本宮大社:家津御子大神・熊野那智大社:大已貴命・熊野速玉神社:伊弉諾尊以上の三御神体を祀り、故錦貫次郎翁のご指導により「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、護持・奉賛しております。祭禮は毎年3月3日に古式にのっとり行われていましたが、近年は4月第三日曜日に定まる。大本山増上寺熊野みこし講先ほど見た大門から始まり、旧参道を進み、最終的にこの熊野神社の前まで神輿を運ぶようです。かなり熱気あふれる行事みたいで、動画を見てみましたが、沢山の人がわっせわっせと楽しそうに担いでおりました。江戸の風情が感じられる行事、いつか見られたらいいんですが・・・!下に動画を載せます。You Tube / tkyky3d 0354ch / 令和六年 増上寺 熊野みこし講神輿渡御熊野神社参道の右脇には、熊野神社創始者の錦貫次郎氏の記念碑が建てられていました。ほんでもって熊野神社の社殿です。宝形屋根に切妻屋根がかぶさっている不思議な造りです。全体的に新しく、相当な数の崇敬者がいるものと思われます。斜めから。この様な造りの祠は今まで見た事がありません。なんとも面白い!熊野神社から寺院の参道の方に戻ってくると、草葉の陰におーいお茶の石柱が建っていました。どうやら桜を植樹するキャンペーンみたいですが、記念すべき千本目はかの十一代目 市川海老蔵氏になどによるもの!お江戸の顔たる大傾奇者、粋だねぇ!参道の左側も見てみましょうか。こちらは手水舎です。相当な古めかしさですが、江戸初期に建立されたというからそれも当然です。説明書きを見てみましょう。水盤舎 この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光公三男甲府宰相綱重公)の霊廟にありましたが、明治時代の解体・昭和の空襲を逃れ、現在地に移築されました。 徳川将軍霊廟建築を伝える数少ない遺構のひとつです。境内説明書き より引用手水舎の側には聖観音像が立っていました。柔らかな衣の表現や、緩やかな体の傾きなどが良く現れている美像です。その隣には仏足石です・・・と言っても摩耗により見えずらいですが。仏足石 仏足石は仏の足うらの形(千幅輪相)を石に彫りつけたもの。インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれらを仏として礼拝した。 この仏足石は、当山第七十世福田行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年(1881年)5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている。境内説明書き より引用説明書き通り側面には大陸風の観音が刻まれていました。更にその隣、魚供養之碑が建っています。こちらは千代田水産株式会社によって建立されたものです。水産加工品に使用された海産物たちの御霊を供養するための石碑になります。先ほどグラント松という銘木もありましたが、こちらにはブッシュ槇も植えられています。四十一代ブッシュ大統領が昭和57年4月24日の来日の際にお手植えしたものです。更にこんな石碑も。詠唱発祥の地とありますね。これは吉水講に関係する石碑で、詳細は公式サイトの方でご覧になれます。まだありますよ、変わった光背を背負った聖観音ですが、何を意味する石碑なんでしょうか?説明書きを見てみましょう。聖鋏観音縁起 この聖鋏観音像は、昭和56年8月3日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって、大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。 願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、ハサミの中にみる己れを滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって聖鋏観音像造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々の心の依り処となり、お守りとなるよう願われて奉造された。 聖鋏観音像は、彫刻界の長老北村西望氏の制作である。 毎年8月3日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要が厳修される。ハサミは観音菩薩の御手そのものである。徹誉大僧正鋏塚的な側面も有るようです。それではいよいよ本殿おば。大本山ともなると、伽藍の規模が桁違いです。神仏分離や東京大空襲などで規模はかなり縮小されたはずなんですが、いやはや何とも見ごたえのある立派な本堂なことか・・・扁額です。この扁額の下あたりに賽銭箱が置かれており、格子の隙間から本尊を拝むことが出来ました。本尊は室町時代の作と伝わる古仏で、公式サイトにてその姿を見ることができます。説明書きも見てみましょう。木造阿弥陀如来坐像(本尊) 大殿の阿弥陀如来坐像は、昭和49年(1974年)6月、現在の増上寺大殿が再建された際に本堂に安置され、大殿の本尊として遷座(せんざ)・入佛開眼法要が行われました。 寄木造、金箔押、漆箔で阿弥陀定印を結んでいます。室町時代の作とされ、江戸期には華頂宮門跡・尊超法親王の念持仏であったものを明治42年(1909年)、旧大殿が火災に遭った折り、当時の総本山知恩院門跡山下現有猊下から寄贈されました。大本山 増上寺 / 宝物・文化財 / 都指定文化財 / 木造阿弥陀如来坐像 より引用本堂の地下は宝物館になっています。ここでは増上寺蔵の文化財が何点も展示されており、かなりの見ごたえです。特に超巨大且つ百幅もあるとされる”絹本着色五百羅漢図”は全て展示しきることは不可能であるため、月だったか週替わりだったかで5幅位ずつ展示されていたはずです。展示室中央には、かつて増上寺の境内南方にあったとされる、台徳院殿(二代秀忠公)霊廟の縮小レプリカが展示されています。現存していないことが本当に悔やまれるほど荘厳な霊廟で、かの日光東照宮のプロトタイプにもなったと言われています。この様に様々な宝物が展示されていますが、宝物館の受付ロビーには、さらにすごいものが安置されています。この立派な祭壇に置かれているのはインドのマハボディ寺院より授かった釈迦三尊(釈尊、ラーフラ尊者、アーナンダ尊者)の舎利です。説明書きを見てみましょう。釈迦三尊仏舎利縁起 1954年、東南アジア研究所長・大屋源幸は戦後事情の視察旅行中、インドのネルー首相、令嬢インディラ女史に謁見を許された。その折、ネルー首相から「更なる日印の親善と世界平和祈念のシンボル」として、インドの仏教聖地サンチー(アショカ王が開いた聖地)僧院所蔵の由緒ある仏舎利寄贈の話を戴く。その際「この仏舎利のお祀りは固着した旧来の考え方を脱し、一宗一派に偏ることなく、広く日印親善と平和祈願に寄与出来得る新時代的考慮のもとに計画されるべきものである。従って仏舎利の奉納受入は、日本中の大衆が気軽く参集出来る風光明媚な地に超派的・開放的・国民的・大衆的・観光的に奉納されるべし」とされた。 大屋はその祭祀者を探す途上、政治家・大野伴睦を介して1955年に藤田興業(現在の藤田観光)本社に小川栄一を訪ねた。小川はその仏縁と使命を厳粛に受け止めた。1955年9月インド・サンチーのマハボデ寺院管長パナティッサ大僧正が自ら仏舎利を奉持して来日し、日比谷公会堂にて盛大に奉迎式が行われた。各々がカスケットに納められた三体の御舎利は、釈尊自身と、その長男で出家したラーフラ尊者、親族従弟でもあり釈尊の側近にあったアーナンダ尊者のものであった。それは釈尊生前の人間的情景の一場面を彷彿とさせる様な「釈迦三尊」と称される希有なものであった。 奉迎式の席上で小川は「伊豆大島に大聖地公園を計画し、観光と大衆に直結した仏舎利塔建立」を誓願した。更に小川栄一の自己資産と政財界、各界各位からの寄付金によって「財団法人友愛会」 が設立された。 当時の増上寺法主・椎尾弁匡大僧正と深い信頼の絆で結ばれていた小川は、戦災で焼失した増上寺の本堂復興に協力を約束する一方、仏舎利塔建立が成就するまでの期間、増上寺がそれを仮奉安の形で預かる事を申し出た。 その後、増上寺大殿(本堂)は全国の浄土宗寺院及び檀信徒の熱い思いが結実し、昭和49年(1974年)に復興された。その復興の陰には、当時増上寺の飛び地(現東京タワーや芝公園)を不法占拠していた者達の立ち退きに対して、小川が長年にわたって根気強く整理に尽力した軌跡があった。 一方で仏舎利塔建立の為、1957年11月6日、大島三原山にて「聖地公園」の地鎮式が椎尾大僧正導師の下で行われた。しかしその後の「大島聖地公園」計画は、町としての発足まもない大島町にあって、一部住民の理解を得る事が出来ずに実現しなかった。 一方、聖地公園計画の地質調査過程では、それまで飲料水に苦しんでいた大島に水脈が発見され、当時の島民生活の向上に大きく寄与する事となった。更には温泉も堀り当てられた工程は、まさに釈尊の御遺徳であろう。 小川は大島の計画以降も、富士山を望む箱根外輪山を走る芦ノ湖スカイラインの隣接地に「箱根先祖の国」を計画し、そこに仏舎利塔建立を発願した。土地の収用、整地をして基礎を造成するも、墓地埋葬法等に関して自治体との折衝がはかどらずに中断が続いた。 1978年12月8日に小川栄一が死去する。その後、小川の遺志を継承した嫡子・小川光一は故人の悲願を実現すべく、藤田観光はじめ多くの関係各位と協議、努力を重ねてきたが、残念ながら今日まで仏舎利塔建立は実らなかった。 しかしながら現今、増上寺大殿と東京タワーの大景観を求めて境内に参集する参詣者の波は、国内外を問わず日々絶える事はない。そこにある「伝統と創造、古きものと新しきものとの調和美」こそ、まさに日本文化の真髄を象徴する現代日本の風光明媚に違いないとの強い確信を持った。そこで改めて本仏舎利の請来本旨を鑑みる時、今こそ長年の仮奉安を解き「親善と平和、大衆直結の聖地増上寺」に、由緒ある仏舎利を正式に奉納するという決断に至った。本堂と連結される形で、左手には光摂殿・増上寺会館が建っています。ここは行事やイベントなどで使用される御堂です。それらの左手には都有形文化財に指定されている経蔵があります。外からは分かりませんが、ここの経蔵も回転式で、かつては家康公が寄進した宋版、元版、高麗版の各大蔵経(国重要文化財)が収蔵されていたと言われます。そしてその隣、一際目立つ御堂がありますが、これは慈雲閣という御堂です。いわゆる開山堂で、開山:酉誉聖聰上人を中央に、その脇に師:聖冏上人・中興開山:聰観智国師が祀られています。こちらの慈雲閣は側面から見ると横長の造りとなっており、何かしらの開場として使われているのかもしれません。大堂の右手に向かいます。大堂のすぐ右隣には、仮本堂として使用されていた安国殿という御堂があります。増上寺の御朱印などの手続きはこちらで行えます。この御堂には家康公の御持仏であった、通称”黒本尊”と呼ばれる阿弥陀如来像が安置されています。御開帳は正月・5月15日・9月15日に行われるようです。黒本尊は恵心僧都作とされる古仏で、各地に恵心僧都作と伝わる仏像は数多く在りますが、こちらは本物なのではないでしょうか。安国殿には他にも徳川歴代当主・親族の位牌や皇女和宮の実寸大の像、家康公の肖像画などが収められており、見所の大い御堂となっています。そして安国殿の斜め向かいにひっそりと建つ、この小堂の中に江戸三十三観音霊場の札所本尊:西向観音が安置されています。西向観音は、金銅仏でも木仏でもなく石仏です。江戸三十三観音霊場の札所本尊の中でも、石仏であるのはこの西向観音だけとなります。石像の珍しい西向き観音さま・・・。 この石造りの札所本尊は、北条時頼が諸国回遊のとき、すぐ近くにある丸山古墳群(建立されたのは現在東京タワーが建っているところとする説も)の上に西向きに祀ったという。 当時は、古墳群の北に池などあって風雅な憩いの場所でもあり、辻堂に出家者が住んでいて街道を行く人々にお茶の接待をし、道中安全、子育て開運の信仰を集めていたそうだ。昭和50年に浄土宗開宗800年を記念してお堂をこしらえ、いまの場所に移されたのである。江戸三十三所観音巡礼 新妻久朗 著 142ページ より引用西向観音堂の前には千躰地蔵尊が置かれています。この千躰地蔵尊は境内の北端に沿ってズラリと奥まで続いています。これに誘われるかのように、安国殿の裏手まで行ってみましょう。安国殿の裏手には再建された徳川家の墓があります。往時の姿はかなりのものだったそうですが、現在は石塔が数基建つのみとなっています。墓の入口近くには数基の石仏が置かれています。徳川家の墓の入口にはどっしりとした石門が置かれています。これは鋳抜門と呼ばれ、もともとは文昭院殿霊廟(徳川六代家宣公)の宝塔前の中門でした。墓地の他の建造物と共に国宝に指定されていましたが、東京大空襲などで他の伽藍が焼失してからは、その指定が解除されています。墓地内を見ていきましょう。徳川一門の内、増上寺に祀られているのは二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公で、その他にも崇源院(二代秀忠公夫人)、皇女和宮(十四代家茂公夫人)ら5人の正室、三代家光公側室桂昌院(五代綱吉公実母)など5人の側室、及び、三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。まず左手前には合祀塔が置かれています。名前からして子女などの集合墓なんでしょうか。その隣には静寛院宮(十四代家茂公夫人:皇女和宮)。すぐ隣に夫である昭徳院殿(十四代家茂公)が祀られています。まだ続きますよ。文昭院殿(六代家宣公)。祟源院殿(お江の方)と台徳院殿(二代秀忠公)。有章院殿(七代家継公)。惇信院殿(九代家重公)。慎徳院殿(十二代家慶公)。これで全てになります。墓所から更に西側に行ってみます。登り階段の先に圓光大師堂と書かれた門が建っていました。圓光大師こと法然上人は浄土宗の開祖、つまりこの御堂は開祖堂という事でしょうか。御堂はこんな感じです。入母屋屋根と赤い外観が特徴です。背後には東京タワーも見えます。説明書きです。圓光大師堂 元祖法然上人800年御忌を記念し、総本山知恩院門跡第八十六世 中村康隆猊下と増上寺第八十七世法主 成田有恒台下との尊い結縁が実を結び、平成18年(2006年)11月25日、知恩院より法然上人御廟の御浄砂を拝領しました。 御浄砂を成田台下は「御身柄」と命名、この法縁を承け奉安する御堂の建立を発願し「圓光大師堂」として平成21年(2009年)9月に竣工しました。 御身柄は内陣奥の特別な厨子に経筒型の五輪塔に納められ奉安されています。 建築様式は木造平屋建、妻入入母屋造、軒唐破風付吹放し向拝の意匠を施した和様の伝統建築であり、身体と心を養う念仏道場として開放しています。大本山 増上寺 / 境内散歩 より引用扁額です。圓光大師堂の麓辺りには風光明媚な茶室が置かれています。この茶室は貞恭庵と呼ばれ、皇女和宮の法号である貞恭に因んだ命名です。別料金ですが、ここでお茶を楽しむことも出来るんだとか・・・。この日は時間が無く断念しましたがね・・・。貞恭庵の向いには、ひっそりと聖観音?が建っています。茶室に向かう風流人たちを見守ります。貞恭庵の裏手にも宝塔が建っています。こちらは大納骨堂と呼ばれるもので、いわゆる無縁墓・集合墓です。建立自体は昭和8年(1933年)と古く、空襲による被害を受けなかった貴重な堂宇です。墓守として狛犬が置かれているんですが、この日はカラスも引き連れていました。堂内には地蔵尊が置かれています。この地蔵尊は高村光雲氏の作品を基にした像だそう。扉内側の彫刻もかなり荘厳!斜めから。かなり長い記事になってしまいましたが、ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございます。この駄文では紹介しきれない魅力が溢れる寺院で、もし東京に住んでいるならちょくちょく通いたい寺院でもあります。ビルやオフィスが乱立する東京ですが、この増上寺の境内だけは、昔の雰囲気をそのままに、心落ち着く空間でした。日々の息抜きや東京観光の折には、是非ともご参拝ください御詠歌ありがたや 西向観音に詣る身は 現世安穏 後生極楽本尊:西向聖観音 आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。観音堂本尊・江戸三十三観音霊場 一行写経記念御朱印安国殿本尊:黒本尊宝物館:絹本着色五百羅漢図宝物館:台徳院殿(二代秀忠公)宝物館:皇女和宮公式サイトへのリンクです。・大本山 増上寺以上です。
2025年06月25日
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茨城県龍ヶ崎市の中ほどに”女化”という変わった地名があります。こうした地名には決まって元となる伝説や民話があるものです。女化の場合は、鶴の恩返しの様な”異類婚姻譚”かつ”見るなのタブー(禁室型)”に属する民話に基づいて付けられた地名だそうです。その民話の舞台となったのが、今回紹介する女化神社です。女化神社牛久の街なかから女化神社の北側を抜けるように伸びる女化街道。その道のからも境内に入れるんですが、せっかくなので表参道から参拝してみます。樹々に囲まれた参道を進んでいくと、三之鳥居と社号標が建っていました。社号標には女化稲荷神社と刻まれています。神社が創建されてからいろいろと神社名が変わってきたようですが、稲荷神社という呼称はより古く、その次に保食神社、神仏分離後は女化神社という風に変化していったみたいです。鳥居をくぐり、またくぐり、更にくぐると社殿が見えてきました。所々に金縁の装飾も成されてあり、全体的に荘厳な雰囲気が漂っています。社殿の前の狛狐には、民話になぞらえてか、三匹の子狐が寄り添っています。それでは地名の元となった民話と神社の由緒を見てみましょう。與福惣社 女化神社祭神:保食命大祭:旧暦2月初午女化稻荷緣起 昔、建久の頃、源頼朝公が富士の裾野に狩に行った時、夢の中に霊狐が現れ、「私は長い間この野原に棲んでいるが狩で命が危ない。願わくは命を助けて下さい。」と言って消えてしまった。翌日仮屋の頼朝公の前に白狐が現れ、非常に哀れな様子で首を垂れていたので、頼朝公が「ここから東にある常陸の国の高見が原という広い野原に稲荷の祠があるという。ここに移り棲め。」と言われた。 時が移って永正6年(1509年)。常陸の国 根本村に忠五郎という律義者がいて農業の合間に筳を織って商いをしていた。ある日土浦に商いに行って帰る途中、夕暮れ時に高見が原を通りかかった時一人の猟師が寝込んでいた白狐を弓矢で射ろうとしているのを見て、かわいそうと思い咳を1つした所、狐は驚き目覚めて草むらに逃げ去った。猟師はものすごく憤り咎めたところ忠五郎は筳を売った代価を差出し、ひたすらにその罪を謝り夜8時頃家に戻った。家に帰って柴の折戸を開けようとした時、側に老いた男と若い女が佇んでいたので、何処の者かと問尋ねた所、「我等は奥州の者で鎌倉に行く旅の途中です。今この家に泊めて下さいとお願いしたのですが、主人が留守だということでおばあさんから断られたのでどうすることも出来なくここにいました。」と答えた。 忠五郎は生来慈悲深くこの様子を見て非常に憐れみ一夜の宿を貸した。夜が明けて女だけが居るのでいぶかしく思い聞きただした。女は涙ながらに言うには「私は奥州の信夫の郷の者ですが、幼い頃父母を亡くし譜代の使用人に育てられ今年21歳になります。家が貧しいので一族を頼って鎌倉に行く途中でこの始末です。」 その後あの老僕がいなくなり、捜したがついに見つからなかった。女は毎日まめまめしく耕作など手伝いをしながら日を送り、いつか早三ヶ月ほども経った。里の人達がこの様子を知っていて、心も顔立ちも美しいので忠五郎の妻にどうかと老母にも勧め結婚させた。女は貞淑誠実で仕事に励み家業に大きく貢献し家運も大いに揚がった。夫婦仲も良く8年の間に一女二男をもうけた。 永正14年(1517年)仲秋のある時、末の子に乳を飲ませていた時、子供と一緒に眠気を催したが秋風が身にしみるので目覚め、乱れ咲く白菊を茫然と眺めていたところ、遊びから帰って来た長子がこの姿を見て自分の母親が狐だったのに驚き泣き叫んだ。自分の正体を子供に知られたのを恥じて歌を一首書き残していなくなった。みどり子の 母はと問はばをなばけの 原になく泣く ふすと答へよ ついに母親を再び見つけることができなかった。忠五郎はこれを知り非常に悲しみ嘆き、3人の子供を連れ跡を追ったが忠五郎の徳に恩義に感じて霊孤が若い女性に化けて恩に報いたこの神秘を語り伝えて人呼んで「女化原」といい、「女化稲荷」と称するようになった。神社由緒書き より引用男に命を助けられた白狐が、女に化けて男の恩に報います。3人の子供に恵まれ、親子仲睦まじい幸せな日々を過ごしますが、秋のある日にふと気が抜けて正体を見破られてしまいます。そのまま狐は”をなばけの原”に身を隠してしまうんですが、これが現在の奥の院だそうです。神社からも近いので、後から見にいってみましょう。拝殿には豪華に木彫装飾がなされた扁額が懸かります。額面には女化神社。そして本殿。大きな覆堂に囲われていますが、その訳はこの造詣の見事さからでしょう。これでもかと精密な彫り込みの木彫装飾がしてあります。相当に崇敬を集めていた様ですねぇ!斜めから。ひとまず社殿の方はここまでにして、周辺の祠と奥之宮を見てみましょう。本殿左奥には祠が置かれており、その中には3つの小祠が輪座しています。それぞれ祭神は不明ですが、おそらく全て稲荷ではないかと思っています。本殿の後ろには幣が置かれた石祠があります。これは何なんでしょうか?茨城の友人と共にかつての本殿ではないか、いやただの末社だろう、狐の夫の墓ではないか、などなど語ったんですが、結局のところ何なのかは不明です・・・。境内から女化街道に出ました。遠くを眺めていると、奥の方に鳥居らしきものが・・・!あれが奥之宮ではないでしょうか。茨城の友人と共に鳥居まで歩きました。僕が「結構遠いじゃないか、車で行ってはどうか」と愚痴ると、友人は「なに、これも趣があってよろしい」と答えます。こんな風にああでもない、こうでもないと言いあっていると、いつの間にか鳥居の前に着いていました。・・・そんなくらいの距離となっています。鳥居の奥には社は無く、ただただ林が広がるのみです。所々に鳥居なども見えますが、祠的なものは1つもありません。ここが"をなばけの原"でしょうか。林の奥の方に向けて狛狐が置かれています。白狐は最後の時まで、この林で過ごしたのでしょうか。家族の元を去った白狐、彼女の悲しみと後悔を表すかのように、冷たい秋風がさびしい音を立てて吹きすさんでいました。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年11月05日
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甲府の中心街から北へ向かう事、数十分。日本を代表する渓谷 昇仙峡に到着です。南北に長く伸びた荒川に沿って売店やら何やらが立ち並び、一日中ゆっくり過ごせそうです。昇仙峡はもともと金峰山(甲州御岳山)へと登拝する行者が準備をする場所でした。それが今や一大観光地と化しているのです。俗から離れた世界が、一気に俗へと近づいてしまったのです。・・・なんとも因果な話でしょうか。昇仙峡の北端には金峰山を奉斎する金櫻神社が鎮座し、武田氏の庇護を受けていました。今回紹介する神社は、金櫻神社の鳥居の近くに立派な社殿を構えています。夫婦木神社(みょうとぎじんじゃ)一風変わった鳥居が境内の入口です。参道を進んでいると、目を惹く不思議な形の木が生えていました。むんっ!・・・皆様は言わずとも分るでしょう。夫婦木神社は僕が熱心に追っているタイプの神社なんです。これも生命力の象徴、または生命の神秘を表したものだとされています。社殿が見えてきましたね。拝殿です。ここまでは何の変哲もない神社なんですが・・・。拝観料を払って本殿に進むと・・・。言い表せないほど面白い御神体が収められているのです。2025.11.21御神体はこちらからご覧になれます。説明書きです。夫婦木神社祭神:伊弉諾大神、伊弉冉大神神木:夫婦木(栃、樹齢約1000年以上) 古来、和合繁栄、特に縁結び・子授けに霊験あらたかな神と信仰され、多くの伝説を持つ。 周囲10m余り、直径3m余り、樹体の中心空洞にして男女両性をあらわし、夫婦和合の形をなす。実に雄渾壮大、視る者をして造化の妙に感嘆せしめ、天下稀なる奇木であり、霊木である。御神体の栃はもともと下黒平にあったようですが、昭和33年11月29日に境内に遷したそうです。太く逞しい幹には縦長の洞が口を開き、内部に入って見上げてみると上から気根の様に男根が垂れ下がっています。自然の神秘を表した素晴らしき造詣の御神体・・・。1つで両性を表すものはここくらいではないでしょうか。今回も良き巡りあわせに感謝です・・・!昇仙峡には別宮の夫婦木神社 姫ノ宮が鎮座しています。そちらも是非ご覧ください。今回貰った御朱印です。以上です。
2025年11月21日
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山梨最大級の禅の古刹 恵林禅寺。武田晴信の菩提寺であり、甲斐武田氏滅亡後は庇護者を失い衰退しますが、後に甲斐国に入部した徳川家康公によって再興を果たします。文句なしの大伽藍と広大な境内を見た後で、近くの松尾神社に詣でようと集落の小路地を進んでいると、恵林寺と宗派が同じ寺院があります。寺院名も院号、これは塔頭ではないかと寄ってみることにしました。大雄山 岩松禅院境内に入ってまず目に入るのがこの御堂。新しめの小さな堂の中には、六地蔵が刻まれた石塔が収められております。堂の脇に貼られた説明書きには、面白い由緒が書かれていました。咳止地蔵尊とは 1707年富士山の噴火「宝永噴火」の際、人々は、火山灰による呼吸器系の疾患、特に咳に悩まされていました。このお地蔵様の土台の石を削り煎じて飲むと咳が止まったということから、「咳止地蔵様」と呼ばれるようになりました。 当初は近くにある松尾神社様の参道の入口付近に置かれていたお地蔵様ですが、明治時代に行われた道路拡張計画により、岩松院に移設されました。土台の石を削り、それを煎じて飲むと不思議と咳が止まる・・・。不思議な霊験です。煎じられた石の粒が気管の粉塵を吸着し取り除くとか・・・実際に効果があったのかは不明ですが、やはり地蔵尊は様々な願いを託されるというのは確かでしょう。地蔵尊は仏教に取り入れられる前は、Pṛthivī プリティヴィーという地母神だったとされています。仏教が興る前から存在した神格であり、インド=ヨーロッパ語族に共通する母なる神格として知られているようです。伴侶はディアウスであり、天空を司る父神です。このディアウスという語彙は、他の地域でも最高神や天空神の神名などに派生していることもあり、インド=ヨーロッパ語族に属する言語を話す集団において、”父なる神”を表す共通の語彙だったと言われています。例としては deus(ラテン語:神)、Ζεύς(ギリシア語:ゼウス)などがありますが、こうした語彙の共通性を見ていると、やはり神話は民族の移動と共に拡散するということが実感できますね。さて、咳止地蔵尊の像容はというと、一般的な石仏ではなく、この様に六地蔵が刻まれた仏塔スタイルなんです。僕の地元 津軽では、地蔵と言うと石仏のイメージがあるんですが、山梨県ではこうした仏塔スタイルの地蔵がところどころで見られます。例としては甲府市川田町の冨田山 寿徳院などがあります。こうした地域による信仰の違いなどは、見ていて本当に面白いです手水舎は小さいながらも清水湧く龍の手水。そして本堂です。詳しい歴史などは不明なんですが、住職さんの話によると、自分が着任する以前は無住で堂もかなり朽ちていたんだとか。今でこそこうしてキレイになっていますが、その前はかなりの荒れ寺だったんですねぇ。そして気になる本末関係なんですが、乾徳山 恵林禅寺の末寺だとのこと。それが最近になってからのことなのか、それとも創建時からそうなのかは不明です。上でも書きましたが、宗派は恵林禅寺と同じ臨済宗妙心寺派、本尊は延命地蔵尊です。・・・臨済宗で本尊が延命地蔵尊、これが元塔頭でないなら、もとは違う宗派だったとかしか考えられません。塔頭だった可能性は相当高いんでは?祭壇には本尊の延命地蔵尊。円型の光背ややわらかな表情が見事な美像でした。いつどこで作仏されたのか、詳細は不明ながらも、きっと沢山の崇敬を集めていたことでしょう。御油印を書いてもらっている間、奥様に奥の間を見せてもらったり、夫婦でまわった霊場の話など、いろいろと楽しくお話していただきました。四国八十八ヶ所霊場の掛軸を指差しながら、ここの札所はこうだった、ここでは何があったなど、楽し気に語る住職。それにつられてこちらも思わず笑顔になってしまいました。帰る頃には沢山の下げ者や飲み物など、いたれりつくせりの御接待を受けて、本当に嬉しかったですその節はどうもありがとうございました!今回貰った御朱印です。本尊:延命地蔵尊咳止地蔵尊以上です。
2025年12月25日
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弘前というと、禅林街三十三ヶ寺を始めとして、津軽の主要な寺院が集められている仏都というイメージがあります。弘前城の南西の守りとして発展した禅林街に対して、もう1つ寺院が集められたエリアがあるんです。かつての堤跡のすぐ側に広大な境内を有する最勝院から、西の方にずーっと寺院が集中しているエリアがあり、これを新寺町と言います。津軽八十八霊場の札所の幾つかはここに集中しており、何れも歴史・伽藍全てが素晴らしい名刹ばかりです。今回紹介する寺院もこの新寺町に境内を構えています。禅林街は曹洞宗寺院だけなのに対して、新寺町はそれ以外の天台宗・日蓮宗・浄土真宗などの寺院もあるのです。このエリアはちょっとした京都感を味わえるので、お寺好きの皆さんは是非とも足を運んで見てください2025.9.21宝幢山 法立寺夏の暑さも治まる9月末、弘前の禅林街・新寺町の寺院をまわり、これで津軽でまわり残した所はほぼ無くなりました。後悔無く山梨に旅立てそうです。法立寺の境内に足を踏み入れると、入り口には曼殊沙華。弘前だと最勝院のものが有名ですが、花勢に関してはこちらも負けていません。少し進むと、奥の方に法立寺が見えていました。参道右手に建っているのは、末寺である本迹院。駐車場の方には南栄院もあります。駐車場の近くに説明書きがあったので少々見てみましょうか。境智窟 本迹院 当院は本寺 法立寺の第十世 本迹院日運が、正保2年(1645年)3月15日、寺内に隠居寺として開山、以来約350年、現在で第三十八世となる。南栄院 当院は寛文4年(1664年)本寺 法立寺の第十二世 日成の弟子 南栄院日浄によって創立されたが明治以前の歴世は不明。現在は第三十三世(法立寺副住)。由緒から察するに、独立した寺院というよりは僧坊の1つして存続していると思われます。本堂です。津軽では稀に見る荘厳な御堂で、格式の高さを物語っています。法立寺は津軽の日蓮宗寺院の中でも中核的な存在で、多数の末寺を有しています。どこかの寺の由緒書きで、津軽最古の日蓮宗寺院とあった気がしますが、もしそうだとすると、この寺院から日蓮宗の津軽布教が始まったことになります。御由緒です。宝幢山 法立寺日蓮宗 広宣流布山本願満足寺末寺開山:本満寺玉持院二世 日尋上人本尊:十界曼荼羅 日蓮宗法立寺の小野正光住職は、柴田高校の英語教師だ。お坊さんが学校教師という例は、少なくないが、担当教科はたいてい国語だ。英語と聞くと、珍しい気持ちが先に立つ。「大学を終えてブラジルへ布教に渡るなどしてきたのですが、こちらに落ち着いた時は父が現役で健在でしたし、私自身の生活もあり、就職してちょうど10年になります」と住職の話。 小野住職は50年7月、師父の威勇上人から後を引き継いだ。「寺は信仰でささえられ、また信仰は経営によってささえられる。現代はお寺といえども、あまりきれいごとばかり言っていては維持してゆけない」と住職は割り切っている。歴史の古い由緒ある寺だと檀家が多く、それなりの寺格の維持で費用もかかろう。法立寺は檀家とのきずなをがっちり維持してゆく手段として、43年10月から3ヵ月に1回、タブロイド判2ページのお寺の新聞「菩提樹」を発行している。若く現代感覚をもった住職ならではの着想だった。総本山や法立寺の諸行事をはじめ、法話、檀家の法事、法要など豊富な話題が読みやすく編集されている。住職1人の努力によるもので、毎号1,000部、52年2月で29号まで出している。「簡単に考えた寺報発行でした。これがなかなか骨の折れる仕事で投げ出したくなりますが、檀家が心持ちにしてくれるのにささえられてます。寺の記録を後世に残したいという気持ちでも、がんばっているんです」と住職は苦心談をポツリポツリ。このほか、檀徒の心得ともいうべき「信行手帖」も発行配布した。 また、28年に荒行を出て以来、52年で15年になるが、冬休みは返上、在方10数地区を巡回している。 法立寺は天文2年(1533年)に京都本満寺の玉持院二世だった日尋上人が大浦城下の賀田に創建したのに始まるといわれる。この寺も藩主の弘前への移転命令や類焼などで転々とし、慶安3年(1650年)、現在地に建てられた。 伝教大師(最澄)の真筆といわれる細字の写経など寺宝も多いが、裏話もあった。慶長17年(1612年)、八世日元上人が国外追放、寺禄没収廃絶を信枚公から命ぜられたのだ。美少年の小姓 八木橋専太郎をめぐって藩主と重臣との間に争いが起きたが、この間に巻き込まれた家臣 九里武兵衛は、寺に逃げ込んだ。上人は九里をかばったため信枚公の怒りにふれたわけ。後継八世は日正上人。末寺の弘法寺二世だったが、本寺の廃虚を憂え、津軽三代信義公に願い出て慶長19年(1614年)に再興したという。 明治17年、三十八世日諒上人は、京都本山本満寺へ栄進した。なお法立寺には末寺が6寺(中里町弘法寺、弘前市本迹院、同南栄院、藤崎町法光寺、大鰐町日精寺、金木町妙乗寺)あった。また、林崎新夢想流の居合術をはじめ武芸十八般を極め四代藩主信政に仕えた一戸三之介宗明の墓地、遺品がある。つがるのお寺さん 上巻 92.93ページ より引用日蓮宗本山 広宣流布山 本願満足寺の直末寺院です。県内では日蓮宗寺院は結構稀で、殆どが曹洞宗・真言宗諸派です。南部氏自体、曹洞宗・臨済宗を推していたため、日蓮宗寺院が増えにくい環境だったのは確かでしょう。そんな中でも、津軽・南部両地方に教線を拡大せんと京都から赴いたのが当山開山の日尋上人。彼無くして、津軽の日蓮宗繁栄は有りえなかったでしょう。斜めから。本当にうっとりするような美しさの御堂です。木材の下部だけ色が違うのは、長年の積雪によるためでしょうね。なんとも津軽らしい風情があるじゃぁないですか。こんな寺院に出会えた時の嬉しさは限り有りません以上です。
2026年03月16日
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坂東三十三観音霊場の札所の中で、唯一東京にあるこの寺院は、日本では知らぬものが無いというほどに広く知られた古刹です。東京浅草と聞くと真っ先に思い浮かぶのは浅草寺ではないでしょうか。千年以上の歴史を持ち、長く人々に愛された大寺院を見ていきましょう。坂東三十三観音霊場十三番札所:金龍山 浅草寺東京メトロ浅草駅から地下道を抜けて地上に出ると、浅草の商店街が広がり、その先に大きな提灯がぶら下がる山門が見えてきます。この雷門と呼ばれる門から先は全て浅草寺の境内になります。門の正面の道は雷門通りと呼ばれ、門を背景に撮影する参拝客であふれていました。説明書きです。聖観音宗総本山金龍山 浅草寺(あさくさかんのん)御本尊 聖観世音菩薩(御秘仏)・・・縁起(由来) 時は飛鳥時代、推古天皇36年(628年)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟は江戸浦(隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司土師中知(名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。 大化元年(645年)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。 広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(794~864年、浅草寺中興開山・比叡山天台座主三世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。 鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所とされてからは、堂塔の威容はさらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約3000万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地になっている。雷門は雷神・風神像が置かれ、仲見世通りに参拝者を誘います。仲見世通りの終端には、宝蔵門と呼ばれる楼門が置かれています。その姿美しきこと限りなく、浅草寺を詣でる参拝者たちを見守ります。内部に置かれた仁王像は巨大で力強い秀像です。宝蔵門の左手には五重塔が置かれています。浅草寺の荘厳な景観を形造る諸堂の1つです。説明書きです。五重塔 そもそも仏塔とは、遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利)を起塔供養したのがはじまり。アジア東漸を経て、さまざまな形となった。五重塔もその一形態。 浅草寺五重塔は、天慶5年(942年)、平公雅によって創建されたのをはじめとする。その後、数度倒壊に遭うも、その都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も、昭和20年(1945年)3月の戦災によって惜しくも焼失した(戦前までの五重塔は、今と反対側の本堂向かって右側にあった)。 以来、浅草寺は十方各位のご信徒を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏舎利」を勧請(五重塔最上層に奉安)し、昭和48年に現在の五重塔を再建するに至った。 地上からの高さは約53mある。(塔内非公開)金龍山 浅草寺宝蔵門を抜けるといよいよ本堂が見えてきます。大きな線香立ての前には参拝客が列を成し、煙を浴びようと手を伸ばしていました。参道両脇にはお札・お守の授与所が置かれ、その奥に宝形屋根の手水舎があります。御朱印はここではなく、本堂左手にある影向堂にていただけます。ここで公式サイト内の”浅草寺の歴史”を引用して、浅草寺について更に知識を深めたいと思います。浅草寺の歴史ご本尊の示現 浅草寺は、1400年近い歴史をもつ観音霊場である。寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代、推古天皇36年(628年)3月18日の早朝であった。 宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。 土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。 浅草寺に伝わる縁起には、観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されている。この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となった。また現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因む。慈覚大師による中興 やがて大化元年(645年)、勝海上人という僧が当山に立ち寄り、観音堂を修造した。ある夜、上人の夢に観音さまが現れ、「みだりに拝するなかれ」と告げられた。以来今日まで、ご本尊を厨子(御宮殿)深く秘仏として奉安している。 平安初期の天安元年(857年)、比叡山第三世天台座主慈覚大師円仁さまが来山した。秘仏のご本尊の前に奉安されている御前立は、この時浅草寺の中興開山と仰がれる慈覚大師が謹刻されたと伝わる。 その後、浅草の地は、宗教的な聖地として次第に発展していく。平安中期の天慶5年(942年)、浅草寺に参籠した平公雅が、武蔵(現在の東京都と埼玉県のほぼ全域に神奈川県の東部を含めた地域)国守への補任を祈願した。この願いがかない、公雅は報謝の印に大規模な七堂伽藍を建てた。このため浅草寺は近郡に比類なき霊場となり、一層の信仰を集めた。平安後期の災禍と再建 長久2年(1041年)12月22日に起こった大地震により、浅草寺の堂舎はあらかた倒壊し、境内が荒れ果ててしまった。寂円上人という修行僧が、この惨状を見て再建の志を起こす。隣境の山中で材木を伐採し、野で葺萱を集めてまわった寂円上人は、永承6年(1051年)ついに宿願を果たして本堂を落慶した。しかしこの本堂も、わずか28年後の承暦3年(1079年)12月4日、原因不明の火災によって炎上する。この折、ご本尊が本堂の西方にあった榎の梢に自ら避難されたとの故事が伝わる。 その後、仁安4年(1169年)、学頭(寺の学問を統轄する者)であった用舜上人が中心となり、浅草寺再建に尽力したことが記録に残る。このとき用舜上人が修した聖観音の秘法によって、轟然と大雨が降り注いだ。その勢いに助けられ、山で伐採した材木はつぎつぎと隅田河畔に流れ着き、数多くの用材を無事に確保できたという。浅草寺と隅田川との関係の深さを思わせるエピソードの1つである。源義朝ゆかりの榎観音 観音堂が焼けた承暦の火災から70年ほどのち、この折の霊験を聞いた源頼朝の父義朝が、浅草寺に観音像を奉納した。その像は、ご本尊が難を避けるために飛び移った大榎でつくられたものと伝わる。現在も「榎観音」として伝来し、毎年1月に執り行なわれる「温座秘法陀羅尼会」のご本尊として拝まれている。源頼朝の参詣と『吾妻鏡』に見る浅草寺 「浅草」という地名の確実な史料における初見は、鎌倉時代に編纂された歴史書『吾妻鏡』であるとされる。 鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、建久3年(1192年)鎌倉で営まれた後白河法皇の四十九日忌「百僧供養」に、浅草寺の僧侶3名が出仕したことが記されている。そのほか、建長3年(1251年)、浅草寺の食堂に暴れ牛が現れて怪我人を出したという記事もあり、当時の関東における大寺の1つであり、幕府とも関係を有していたことを示している。 少し前後するが、観音さまを篤く信仰する源頼朝は、治承4年(1180年)、平家追討の戦陣を進めて下総(現在の千葉県北部と茨城県の南部)から武蔵国へ入ったときに、浅草寺で勝利を祈願している。また、その後の文治5年(1189)、奥州平泉(現在の岩手県平泉町)の藤原氏征討の際にも、頼朝は戦勝を願って浅草寺に田園36町(約35万7000m2)を寄進した。 やがて源平の戦いで西上した武者たちは、西国三十三観音札所を見聞して信心を深めた。それが契機となり、鎌倉時代初期、坂東にも三十三観音札所が整えられた。このとき、第十三番霊場となった浅草寺は、東京都内では唯一の札所で、今も多くの巡礼者を迎えている。足利尊氏ら武将たちの庇護 室町時代から安土桃山時代にかけ、霊験あらたかな寺として、浅草寺の名は各地に知れ渡り、足利氏をはじめ、さまざまな武将の崇敬を集めた。 室町幕府初代将軍の足利尊氏は、観応3年(正平7年・1352年)に浅草寺へ参り、寺領を安堵した。 また応永20年(1413年)には、第四代鎌倉公方であった足利持氏が経蔵を再建して寄進している。これ以降も足利一族は浅草寺と深いつながりをもち、本堂をはじめ末舎堂塔の造営修復などに当たった。 時代が下った戦国の世、関東に勢力を拡げる小田原城主北条氏綱は、浅草寺を祈願所とし、天文8年(1539年)に川越城主大道寺駿河守を造寺奉行に任じて、堂塔を再建した。 浅草寺の別当職(住職)を勤め、中興第一世と仰がれる忠豪上人は、北条氏重臣の江戸城代家老遠山直景の流れを汲む。忠豪上人は、浅草寺内の僧侶のうち学僧を「衆徒」、祈祷僧を「寺僧」と号して区分した。そして衆徒12ヶ寺、寺僧21ヶ寺(のち22ヶ寺に増設)を制定。それまで坊中にあった100余の支院を60余に整理し、浅草寺運営の基盤を固めた。徳川家康も武運を祈念 天正18年(1590年)、徳川家康は江戸に入府した。家康が信任する慈眼大師天海の進言もあったとされ、浅草寺は祈願所に定められ、篤い庇護を受けた。 江戸城の鬼門に当たること、天台宗の古刹として名高いこと、源頼朝をはじめとする源氏一族に信仰されてきた由緒深き寺であることが、江戸に数ある寺院の中から選ばれた背景であろう。家康は、武家政治の創始者となった頼朝に尊敬の念を抱いていた。 天下分け目の関ヶ原の戦いを目前にした慶長5年(1600年)9月1日、浅草寺の中興第一世忠豪上人は江戸城に召された。頼朝が平家を追討したときと同様、今度も祈祷を修するよう家康に申し渡された忠豪上人は、古式どおり浅草寺で観音密供を修した。そして9月15日早朝に始まった関ヶ原の戦いで、家康の率いる東軍が見事に勝利をおさめたのである。これ以後、浅草寺の霊験は一段と天下に響き渡った。貴重な奉納絵馬 浅草寺の寺宝でとりわけ特徴的なものが、200余枚現存する絵馬である。谷文晁、鈴木其一、長谷川雪旦、歌川国芳、逸見(狩野)一信ら著名な絵師の作も多い。 江戸中期以降、さまざまな祈願や報謝の思いを託して、多くの人が絵馬を奉納した。そして数々の絵馬が、衆人の眼にふれる本堂や絵馬堂(額堂)に掲げられ、世の注目を大いに集めた。 絵師たちは願主から依頼を受けて絵馬を描いた。寺への奉納は、現代でいえば美術展へ出品するような側面もあり、それぞれが腕を振るって意匠や技量を競い合った。画題はよく知られた歴史の一コマや物語などから選ばれることが多く、巨大な大絵馬も人びとの話題をさらった。 かつては本堂の長押に架け並べていたが、昭和初期に行なわれた大営繕(昭和8年=1933に落慶)のときに外され、もとに戻されなかったため昭和20年(1945年)の東京大空襲の難をのがれた。現在は五重塔院に保管されている(非公開)。江戸時代の浅草寺 寛永2年(1625年)、江戸上野に寛永寺が建立された。徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するための寺で、第三代以降、歴代山主(住職)に皇室から法親王(輪王寺宮と称される)を迎え、仏教界に君臨した。 貞享2年(1685年)、時の浅草寺別当忠運上人が、五代将軍綱吉の不興をこうむったという理由で退寺の悲運に遭う。以来、浅草寺は寛永寺の支配下に組み込まれた。元文5年(1740年)からは輪王寺宮自身が別当職を兼ね、その代理人である別当代(副住職)が実質上の総責任者として浅草寺を統括した。寛永寺による支配は幕末まで続いた。当時の仏教界において最高権力を握る輪王寺宮のもとにあることは、浅草寺にとって様々な面でプラスとなった一面も見逃せない。 代々の別当代や寺内関係者の記録は、『日並記』等と呼ばれ、寛保2年(1742年)から明治期までの記録が現存し、浅草寺一山の歴史にとどまらず、広く江戸時代から明治時代に至る間を知るための貴重な史料となっている。 江戸幕府は次第に財政難となり、元禄の観音堂大修復以後、「お手許不如意」ということで、公儀普請(幕府が費用を負担する公共事業)がなくなってしまう。その後の営繕は庶民の浄財によって成されたが、このことによって浅草寺と庶民との結縁はより一層強まっていった。庶民文化の拠点 浅草は時代とともに拡大していく江戸市街地として吸収され、参詣・行楽・歓楽を目的とした人びとがあふれる江戸有数の盛り場になった。水茶屋の看板娘たちは、しばしば浮世絵の主人公にもなった。また、見世物小屋が立ち並ぶ観音堂の北西は「奥山」と呼ばれ、松井源水の曲独楽、深井志道軒の辻講釈、長井兵助の居合抜、柳川一蝶斎の手妻(奇術)など数々の興行が参詣人を喜ばせた。 こうした名人芸は江戸中の評判となり、「八代将軍吉宗が、鷹狩りの帰りに浅草寺へ立ち寄って曲独楽を見た」旨の記録も残る。将軍だけでなく、その家族、大名、さらには輪王寺宮も折にふれて参詣し、奥山の妙技見物を楽しむこともあった。将軍が参拝するときは特別に御前立ご本尊を開帳した。またその後数日間、一般の人びとに向けた「御成跡開帳」が行なわれ、将軍の恩恵が示された。 江戸後期の境内の諸相は、歌川広重の「名所江戸百景」「東都名所」などの錦絵や、町名主の斎藤月岑が刊行した『江戸名所図会』などによく表されている。境内地が公園にそして近代へ 明治維新後、時代の激しい波は浅草寺にも押し寄せて来た。浅草寺の寺領は太政官布告によって公収され、東京府の管轄となった。公園に指定された境内地は行政区画上、1区から7区に分けて整備された。 江戸期に奥山で興行していた見世物小屋は、旧火除地を埋めて新たに造成された6区へ移転した。 盛り場の流れを継いだ6区には、明治の終わり頃から映画館が林立し、東京屈指の歓楽街が形成されてゆく。また、明治23年(1890年)には、浅草寺の西側に、日本初のエレベーターを備えた凌雲閣(通称「十二階」)という展望塔がつくられて、世間の注目を集めた。 浅草寺を中核とする浅草は、明治・大正・昭和にかけ、時代を先取りする街として大いに活気を呈していった。信仰の力による復興 慶安2年(1649年)の再建以後およそ300年の間、浅草寺の本堂は不思議と火事を免れてきた。江戸時代の文献には、火が至近になると雨が降る、あるいは風向きが変わるなどの霊験が再三起きたと記されている。大正時代の関東大震災でも仲見世は全焼しながらも、主要堂宇は奇跡的に火難から逃れ、境内に5万人もの人が避難して救われたという。しかし、昭和20年(1945年)3月10日未明の東京大空襲では、諸堂伽藍もろとも本堂が烏有に帰した。 新本堂は、昭和26年(1951年)に起工。天皇陛下より金一封を拝領し、ご信徒の熱意あふれる協力も得て、7年後の昭和33年(1958年)、無事に落成を見た。また昭和35年(1960年)には、松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、慶応元年(1865年)の焼失以来95年ぶりに雷門が再建され、昭和39年(1964年)には大谷重工業・大谷米太郎ご夫妻の寄進により、宝蔵門が再建された。 五重塔は昭和48年(1973年)に再建され霊牌殿には永代供養のために納められた位牌が約3万基安置されている。 開創以来今日まで1400年の長きにわたり、浅草寺は多くの人びとの信仰心に支えられてきた。そして現在、日本全国は言うまでもなく、世界の各国からも、年間延べ約3000万人もの人びとが参拝に訪れている。これもひとえに、ご本尊観音さまによるお導きであり、今後も浅草の地域とともに新たな歩みを見せてゆくことであろう。浅草観音のご避難 火災が多発した江戸時代、大火の際は必ず、非常用のお輿にご本尊と御前立を奉安し、安全な方向の寺院に向けてご避難した。そして鎮火を確認すると、一刻の猶予もおかず本堂へご帰座していただくことが慣例であった。護衛には、寺の開創以来仕えている土師氏と檜前兄弟の子孫3人、寺侍数名など10人近くの人が当たった。また、どれほど混雑していても、浅草観音のご避難とわかれば道は開かれ、通り抜けられたという。 東京大空襲のとき、ご本尊は前もって本堂の真下、地中約3mのところに埋めた青銅製天水鉢(淡島堂境内に現存)の中に安置されていた。これにより本堂焼失にもかかわらずご本尊はご安泰であった。あさくさかんのん 浅草寺 / 浅草寺の歴史 より引用なんかもう、余りにも歴史のある寺院で全て追い切るのは相当大変でしょう。江戸が開拓されるよりも以前から当地で栄えていた寺院であるため、様々な謂れや伝説を持ち、読んでいて面白い由緒でした。当に江戸を代表する寺院です。朱印所が置かれているのは影向堂の堂内です。この御堂には大黒天と共に十二支守り本尊が収められていて、朱印の待ち時間にお参りするのも良いのではないでしょうか。因みに特に指定しなければ、本尊の御朱印は坂東三十三観音霊場の朱印になります。江戸三十三観音霊場を巡礼している場合は、その旨を伝えると朱印の判が江戸巡礼のものに変わる他、朱印帳の表紙に関しても江戸三十三観音霊場と書いていただけるみたいです。その為江戸三十三観音霊場の打ち始めとしてピッタリの札所であります。斜めから。余りにも有名な寺院で、僕が紹介する必要はあまりないんですが、それでも歴史や由緒を振り返ってみると知らないことばかりでした。ここは一度の参拝では物足りず、何度でも参拝したくなるような寺院です。次回は鎮守の浅草神社や、他の堂宇についても見てみたいと思います御詠歌ふかきとが 今よりのちはよもあらじ つみ浅草に まいる身なれば本尊:浅草観音(聖観音) आर्यावलोकितेश्वर今回貰った御朱印です。二回目公式サイトへのリンクです。・あさくさかんのん 浅草寺以上です。
2025年04月29日
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東北の中でも、早くから朝廷勢力の流入があった地域である水沢の地。中心街から東に行くと山塊がいくつも座し、平地とは違う山の世界が広がっています。山と平地の境界辺りには、二戸の天台寺に並ぶ古刹 黒石寺が境内を構えており、当地域のみならず東北一円で見ても古くからの由緒ある寺院です。奥州三十三観音霊場の札所にもなっており、広い境内と立派な伽藍には心奪われるばかりです。2025.5.5奥州三十三観音霊場二十五番札所:妙見山 黒石寺 釈迦観音堂黒石寺は大師山と呼ばれる山の麓にあります。この山は標高こそ高くはありませんが、頂上からの見晴らしは抜群で、水沢の街とその脇を流れる北上川とが一望できます。水沢には延暦21年(802年)に坂上田村麿によって胆沢城が築かれますが、当寺院はそれよりも70年程遡る天平元年(729年)に開山されたと言われています。その頃はまだ蝦夷達がこの地の主だった住人であり、後に首長を務めた人物としてはかの有名な阿弖流為や母禮などが挙げられます。蝦夷達との関りが本当に強い土地と言う事が分かりますね(これは水沢のみならず、北東北全体に言えることですが・・・)。境内の入口です。隣接して大きな駐車場や休憩所も有るので、車でも安心。休憩所の脇辺りには清水流れる沢があり、文字通り水のせせらぎに心洗われます。境内に進むと直ぐに、大きな御堂が見えてきます。これは本尊の薬師如来を祀っていた薬師堂で、当に黒石寺の顔とも言える堂宇です。近くで見てみましょう。苔生い茂る境内と、勇壮な御堂とが相まって非常に景観がよろしい!薬師堂の写真だけ何枚も撮ってしまいました。雰囲気的には坂東札所の獨鈷山 普門院 西明寺や出流山 満願寺と似ていますが、やはり東北出身勢としては、こちらの方が厳かな・重厚な雰囲気が感じられて好みですかねぇ薬師堂の右手には、これまた不思議な構造の堂宇が置かれています。これは寺門 兼 鐘楼 兼 神饌所の様な堂宇で、この奥に黒石寺の本堂?本坊?があります。御朱印などはそちらの方に書置きの物が有りますので、お金を納めていただきましょう。正面からです。いにしえの時代の景観が思い起こされます。説明書きも見てみましょう。黒石寺蘇民祭 御供所・鐘楼 一階は御供所といって、以前は、御本尊に供える供物を準備するところでした。 二階は鐘楼で、貞享3年(1686年)に山野目の豪商 阿部隋波・小平次親子が寄進した梵鐘がつるしてあります。 梵鐘には、黒石寺鐘銘として200字ほどの由緒書きが漢文で刻字してあります。 この梵鐘は、昭和17年(1942年)に戦争に使うために、大鰐口や香炉とともに供出しましたが、梵鐘だけはまもなく返還されました。 この鐘を撞くのは、旧正月7日から8日にかけて行われる蘇民祭、旧4月8日の薬師祭、そして除夜の鐘などです。 建物は、明治16年(1883年)花巻の名工 高橋勘次郎が建てたものです。奥州市境内説明書き より引用加えて蘇民祭についても見てみましょう。当寺院の冬に行われる行事で、”裸の男と炎のまつり”として知られています。黒石寺蘇民祭 「裸の男と炎のまつり」で知られる黒石寺蘇民祭は、旧暦正月7日の夜から翌朝にかけて古式にならい行われており、祭礼日に至るまでの行事も昔のままという、全国的にも原形を失っていない祭りとして注目されている。 災厄を払い五穀豊穣を願う民衆の予祝行事蘇民祭は、裸の男たちとそれに続く祈願者などによる「裸参り」で始まる。夜半にかかり 「柴燈木登」「別当登」、鬼面を逆さに背負った 「鬼子登」と続き、早暁まで繰り広げられる裸の男たちによる「蘇民袋争奪戦」で祭りはクライマックスを迎える。この争奪戦で最後まで麻袋を手にしていた者の地方の五穀豊様が約束されるといわれている。蘇民祭行事の内容裸参り(夏参り又は祈願祭) 厄年連中、一般祈願者、善男善女が角燈をもち瑠璃壺川(山内川)で身を浄め、「ジャッソー・ジョヤサ」の掛声で、薬師堂、妙見堂を巡り、五穀豊穣、災厄消除の祈願を行う。柴燈木登(ひたきのぼり) 本堂前に生松割木を井桁積にふた通り積み上げる。 若者達は裸になり柴燈木の上に登って火の粉をあびながら山内節をうたい気勢を上げる。別当登(べっとうのぼり) 別当(住職)並びに蘇民袋を捧げもった総代が守護役に前後を守られ、ホラ貝、太鼓等を従えて進んでくる。 薬師堂に登ると護摩をたいて厄払いと五穀豊穣を加持祈福する。鬼子登(おにごのぼり) 内子のものは、素裸で水垢離をとり身を浄める。鬼子は7才の男子2名で、麻衣をつけ鬼面を逆さに背負い丈夫な人におぶさり薬師堂に登る。蘇民袋争奪戦 将軍木(かつのき)で作った小間木(護符)を入れた麻袋を浮囚長(首領)の首に見たてて、裸の若者が奪いあいをする。小間木や麻袋の切りさかれたものを持っている者は、災厄をまぬがれると言われている。境内説明書き より引用この中で特に気になるのが蘇民袋争奪戦で、”麻袋を浮囚長(首領)の首に見たてて”取り合うというのは、やはりこの地で朝廷・蝦夷両勢力の激突があったことを今に伝えていると思いました。何というか、東北の歴史を反映したような祭りですよね。黒石寺蘇民祭は令和6年の開催を最後として、1000年の歴史に幕をおろしたそうです。最後の蘇民祭の様子は下のリンクからご覧になれます。・YouTube / 最後の一日に密着 黒石寺蘇民祭【Jチャンいわて動画】境内の様子です。この林の中の苔生した感じが何とも言えず、非常に好みです。境内の端には大師山に続く道も伸びていました。今回は大師山の中腹にある駐車場から登りましたが、ここから行くのも面白いかもしれません。この道の手前辺りに釈迦観音堂と言う御堂が置かれています。奥州三十三観音霊場・江刺三十三観音霊場の札所となっている千手観音はここに収められています。宝形屋根のスタンダードな観音堂でした。堂内には千手観音の他にも釈迦三尊が収められていました。千手観音の由緒は黒石寺にて販売している小冊子”みちのくの古刹 天台宗 妙見山 黒石寺”に記載されているものを引用したいと思います。黒石寺観音 安永2年(1773年)の「黒石寺書出」に、「奥州観音巡礼の二十五番の札所」であり、当時三間四面の観音堂があり、慈覚大師作といわれる千手観音が八体安置されていたという。 ご詠歌は”罪障の 黒石寺に罪消えて 山懐に 鐘ぞ聞こゆる”。 又、本木観音が薬師堂に安置されていた。この観音様はやはり慈覚大師が黒石寺の境内の樹木より八体を刻み、本木の一体は黒石寺に(刻まれぬままに)、他七体は胆沢郡の七ヶ所に配して、江刺七観音といわれた。 但し、寛永年中(1624~1644年)に江刺から胆沢に検地のために変更している。この観音様も明治の火災で焼失している。当時は本木観音様を「江刺観音七番札所」としていた。 ご詠歌は”松杉も 幾世経ぬらむ黒石寺 なほ奥深く 見ゆる山内”が残され、現在は釈迦観音堂に新たに釈迦如来・脇侍文殊・ 普賢菩薩と共に千手観音像が祀られている。みちのくの古刹 天台宗 妙見山 黒石寺 24.25ページ より引用前者にせよ後者にせよ、慈覚大師によって一木より作られた複数または1つの千手観音像が収められていた様です。それが黒石寺観音と呼ばれていた札所本尊なんでしょう。惜しいことに火災によって焼失してしまった様ですが、現在収められている千手観音像も何ともたおやかに衣装が表現されている尊像でした。江刺三十三観音霊場巡礼の折、また拝みたいと思います観音堂の隣にはセメントで建てられた耐火性宝物庫が建っています。この御堂には本尊の薬師如来坐像・伝慈覚大師坐像の2躰が収められており、どちらも国指定重要文化財に指定されている美像です。それぞれ小冊子内の説明を引用してみましょう。本尊 薬師如来坐像(国指定重要文化財) 桂材の一木造り、内刳を施した像内には貞観4年(862年)の墨書銘が記されている。像高126cm。菩薩の時に十二の願いをたて、それらすべてを達成し、悟りを得ることができたので仏になった。そして薬師如来を名乗り、はるか東方の瑠璃光世界の教主となった。 脇侍として日光・月光菩薩を従え、十二神将を眷族とする。薬壺を持ち、衆生の病苦を除き安楽を与えるなど現世利益をもたらす仏。行基菩薩の御作とされる本尊仏になります。伝 慈覚大師坐像(国指定重要文化財) 永承2年(1047年) 願主・仏師の墨書が膝裏にある。 僧形八幡神像、地蔵菩薩像ともいわれる。古くは寺域の大師山の山頂にある岩窟大師堂にあって慈覚大師像と伝わる。桂材。像高67cm。もとは大師山中の岩窟に置かれていたとされる伝 慈覚大師坐像ですが、宝物庫内の説明書きには”蝦夷含む当地に暮らした人々によって信仰されていた神の姿を(僧形で)表したものである可能性もある”とも書かれており、もしその通りであればこの地における仏教教化の過程がうかがえる大変貴重な像だと感じました。作られた年代からしてもう貴重なんですがね。因みに今回大師山にて、山頂付近に岩窟らしき巨岩を見つけたんですが、後から調べてみるとこれは座禅石というそうで、岩窟とは別物みたいです。こちらも慈覚大師が座禅したなどのエピソードを持っているんですが、探していた岩窟は、山頂北方、少し下ったところにあったみたいです。江刺三十三観音霊場巡礼の際は、そちらも見てみたいですねぇ!宝物庫の後ろには三十三観音像が並んでいます。こちら今回の馬頭観音です、お納めください。薬師堂と宝物庫の間には何やらもう一つ御堂が置かれています。こちらは妙見堂で、内陣には妙見菩薩と脇侍の北斗菩薩・毘沙門天?の計3尊が祀られています。参道手前には妙見菩薩のものと思しき利剣が逆巻きに建てられていました。妙見堂の狛犬は何ともおもしろい表情をしています。阿形!吽形!非常に個性的な狛犬たちでした妙見堂です。中規模の御堂ですが、伊達氏などの崇敬も篤く、大事に受け継がれて来たようです。小冊子の古地図を見ると、かつては山中に妙見堂奥之院があった様なんですが、現存するかは不明です。再び薬師堂です。こちらにはもともと本尊である伝行基菩薩御作 薬師如来坐像が置かれていました。薬師如来の脇侍と言えば日光・月光の両菩薩が有名ですが、こちらに置かれている日光・月光菩薩(岩手県指定文化財)はどちらも平安末期の作で、奥州藤原二代基衡公の寄進と伝わります。その他にも眷属の十二神将、四方守護の四天王像なども安置されていたようです。十二神将は平安後期~鎌倉前期の作で、頭上に十二支を配していることから干支の守り本尊として祀られていたようです。岩手県指定文化財となっています。四天王の方は薬師如来像と同時代に作られたものとされ、慈覚大師の作と伝わります。こちらは国指定重要文化財に指定されています。これまで紹介した仏像は、奥州市のサイトでもご覧になれるんですが、より隅々まで楽しみたい方は、黒石寺宝物庫にて販売されている小冊子(1000円)の購入をお勧めします。こちらの小冊子には仏像群の詳細な写真・解説に加えて、黒石寺の歴史と年表、明治期の古地図など見所が沢山詰まっています。価格以上の価値がある一冊ですご由緒です。妙見山 黒石寺天台宗 比叡山延暦寺末寺開山:行基菩薩中興:慈覚大師(円仁)本尊:薬師如来・・・。 人皇四十五代、聖武天皇天平元年(729年)、奈良法相宗 薬師寺五代行基和尚が東奥に行化し、この地に至り渓山の幽秀を喜び、一堂宇を造り、薬師如来像を一刀三礼のもとに手刻安置し、次年に寺を建立し、東光山薬師寺と号して開山した。 延曆21年(802年)、征夷大将軍坂上田村麻呂、鎮守府胆沢城を築き、城内に鎮守府八幡宮神社、城輪に石手堰神社を官寺として建立、当山薬師寺はその神宮寺的な存在となった。・・・。 延曆年間(782~806年)、蝦夷征伐の戦禍にあい、黒石寺薬師堂焼失。大同2年(807年)、将軍は威信を示さんがためにこれを域内の飛騨の内匠に一昼夜にて七間四面の堂を修築することを命じた。 しかし、東北隅の基板が出来上らぬうちに鶏が暁を告げてしまった。この故事をもって里人は鶏を飼うことをせず、薬師堂の東北側は土間のままであったという。 嘉祥2年(849年)、天台宗三代座主慈覚大師円仁が錫を東奥に曳き、堂背の大師山に至り、岩窟に座禅し、行基菩薩の霊夢を感じ、薬師寺を岩窟の蛇紋岩に見て黒石寺と、北の山中に妙見祠があることから山号を妙見山と号して再興、四十八宇を造った。 これにより全山天台宗とし、薬師如来を本尊とするが故に薬樹王院とも号した。 貞観4年(862年)、薬師如来像造立。永承2年(1047年)、 慈覚大師像造立。 それぞれに墨書があり、貞観銘は日本最古のものである。同時代の四天王像、平泉時代に寄進された日光・月光両菩薩、鎌倉初期の十二神将像はいずれも奈良や京の影響が見られ、宗風に於いても大きな関連があったことを偲ばせられる。 平泉藤原氏三代帰依最も篤く、仏餉灯油の地を寄進される。 天正年代(1573~1592年)、葛西氏より璽田(お墨付の田)を寄進され、伊達公もこれに習い、歴代藩公もしばしば妙見神と薬師如来参拝に訪れている。 元禄2年(1689年)、幕府が東叡山 寛永寺を菩提寺としたことにより黒石寺もその直末になった。幕府が亡び、明治3年(1870年)には再び比叡山 延暦寺の末寺となり今日に至っている。 また、旧正月7日夜半から8日早暁にかけて行なわれる 「黒石寺蘇民祭」は、東奥の奇祭として知られ、男性的壮観の絵巻物であり、古代の祭りの姿を今に伝える貴重な民俗遺産である。みちのくの古刹 天台宗 妙見山 黒石寺 0~8ページ より引用薬師堂の彫刻です。こちらは二代目高橋勘次郎の手になるもので、木鼻の獅子・蟇股の龍ともに躍動感が物すごいんですが、特に気になったのは虹梁の花でしょうか。いまにも風になびきそうな位リアルに花びらが彫られています。扁額です。薬師如来と刻まれています。斜めから。余りに歴史ある寺院で畏れ戦いています。何と言っても比叡山延暦寺直末というのがすごいですよね!東北の天台宗寺院の中でも特に有力な寺院なんでしょう。創建は天平元年(729年)とのことですが、同じく東北の天台宗の古刹 八葉山 天台寺の開創は神亀5年(728年)と伝わります。一年違いの両者ですが、共に行基開創の伝説が付随しており、何かしら関連がありそうです。個人的な意見としては、滝尻善英氏の意見と同じく、布教のために行基を騙った天台宗僧侶の一団が当地に赴き、各々寺院を開いて教化の拠点としたんではないかと思っています。いずれにせよ、残されている仏像や崇敬の篤さなどを見ても、各時代の有力者の後ろ盾を得ながら、今日における繁栄の礎を築いてきたことは間違いないでしょう。今回の岩手南部遠征、この歴史の塊である古刹に参拝出来て良かったと心から思います。またいずれ他の巡礼で伺い、再び感動を味わいたいですね御詠歌ざいしょうの 黒石寺に罪消へて 山懐に 鐘そ聞こゆるざいしょうの くろいしでらにつみきへて やまふところに かねぞきこゆる本尊:千手観音 सहस्रभुज今回貰った御朱印です。奥州三十三観音霊場本尊:薬師如来以上です。
2025年05月11日
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秋田県能代市、ねぶたに似た”ねぶながし”という祭で有名なところです。西の海辺には風の松原という広大な松林が広がり、人々の詩人心を刺激して一首詠みたくなるような気持にさせると言います。風の松原の北端に今回紹介する札所がひっそり鎮座しています。2025.6.15秋田三十三観音霊場二十五番札所:湯殿山 龍泉寺風の松原の北端は小高い丘になっており、能代の北の町を見渡すことができます。この丘の上には公園などが整備され、人々の憩いの場にもなっているみたいです。丘の西方には景林神社という明治期の地域の偉人を祀った神社があり、その北側に龍泉寺は境内を構えています。こちらは裏参道の様なものですが、表参道の方には駐車場がないそうなので、こちらからの参拝をおすすめします。とは言え、せっかくなので今回は表参道から参拝してみます。長い参道の先には既に御堂が見えています。階段を登り切ると六地蔵がお出迎え。御堂の左手です。こちらには開山:密雲院慈海上人と中興開山:龍印上人の石碑?が置かれています。密雲院慈海上人は密雲海上人とも呼ばれ、明治期の修験僧です。神仏分離によって廃絶しかけた当霊場を、秋田市の寺院と合併することで救い、今の世まで法燈を繋いだのです。本堂です。外見はよくある中規模の御堂という感じなんですが、内部には湯殿山と関連するすんばらしい仏像群で溢れています。扁額は面白いことに海亀の甲羅です。秋田三十三観音霊場巡礼中にもう一か所これと同じ扁額を懸けているところを参拝しました。秋田ではメジャーなんでしょうか。では気になるご由緒を見てみましょう。湯殿山 龍泉寺真言宗智山派開山:玉鳳(前身鳳凰庵開山)、密雲海上人(当寺開山)本尊:御沢仏(大日如来を始めとする湯殿山に祀られし諸神諸仏) 明治時代に独立した比較的新しい密教寺院ですが、その歴史は古く、仏教が日本に伝来して間もない頃(6世紀中頃)にまで遡るといわれます。 当時この地に布教にやってきた玉鳳という僧が庵を構え、鳳凰庵と名付けて終の住処としました。玉鳳の弟子により受け継がれた庵は、養老2年(718年)には名僧として崇敬されていた行基も逗留したと言われ、その後室町時代には縁あって湯殿山の傘下に入り湯殿山能代出張所とされました。 明治時代の廃仏毀釈の流れを受け一時は神社へと転じますが、修験僧・密雲海の尽力により、秋田市上新城にあった高倉山 観音院 龍泉寺と合併する形で『湯殿山 龍泉寺』と号し独立します。上新城の龍泉寺もまた、行基と所縁のある古刹でした。 歴史の長さ故に多くの寺宝があり、薬師如来像など3つの秋田県指定文化財を所蔵しています。パンフレット 秋田三十三観音めぐり 49.50ページ より引用6世紀中ごろに、玉鳳という僧が開いた鳳凰庵を前身とする寺院です。鳳凰庵の本尊は薬師如来(重文の1つ)とされており、天台的な要素が見られますが、室町時代には本格的に湯殿山の傘下となり、真言系の修験道場になったものと思われます。時代は下り明治初年頃、廃仏希釈の中で修験の祈祷所であった当寺は、還俗するか真言宗の寺院となるかを迫られます。信仰の場を守るために密雲海上人は思案を重ね、秋田市の大平山のお膝元に鎮座していた古刹:高倉山 観音院 龍泉寺の寺格を当寺に移し、寺院として存続。現在当寺に置かれている重要文化財の舞楽面と円空仏はこの時に運び込まれました。そして能代市の寺院:鳳来山 能代寺(現在の萬松山 鳳来院?)からは大日如来を遷して本尊としました。秋田市やその周辺には太平山を霊場と仰ぐ寺院や修験の霊場が多くあったようで、それらから諸神諸仏の像が移され、現在の御沢仏を形作ったとされます。龍泉寺の公式サイトでは、秋田市の寺院 高倉山 観音院 龍泉寺のご由緒も載っていました。高倉山 観音院 龍泉寺(廃寺) 高倉山 観音院 龍泉寺の由緒もまた古く、養老年間舎人(とねり)親王の御弟で阿彦三位浮房卿、行基菩薩の御跡を訪ねて諸国を行脚し漸く秋田市上新城石名坂で菩薩にめぐり会い、これを記念して館を作り出家せしと云う。今に残る阿彦の館跡、阿彦の池跡、黒染の桜跡は、その時代より伝わりし跡なり。 その後延暦21年(802年)慈覚大師もこの地に至れしと云う。ここに禁裏(きんり)御守護の高倉宰相永福卿という人あり、御代官として御下向のみぎり、阿彦三位の御徳を感じ御自身高楽の翁(おきな)、嫗(おうな)の両面を奉納せしと。現在の秋田県指定重要文化財『翁面』これなり。この翁面は羽鳥沼の生面として秋田の昔話に語られている。 この縁と高倉宰相の御依命により高倉山 観音院 宰相寺と三院称号せしころ、佐竹公御国替えみぎり、佐竹義宜公より寺号は龍泉寺と賜り、以後高倉山観音院龍泉寺と称せり。 その後円空大師が行基菩薩の遺跡を尋ねて当寺に入り、大いに仏徳を感じ、十一面観音菩薩を刻みて収めたり。秋田県指定重要文化財の一つこれなり。堂内に入ると、正面の暗がりの中に例の御沢仏が鎮座していました。祭壇中央最上部に本尊の大日如来が鎮座しています。これは湯殿山の山頂に大日如来が祀られているのを表しており、その手前には守護するように神鏡や厨子が置かれています。この厨子の中には龍神の御神体としてカキの殻が収められているそうです。この龍神は明治時代にカミサマ(ごみそ)と呼ばれていたおばあ様が後生大事に拝んでいたものだとのことです。これらの他にも本尊を取り囲むように様々な神仏が置かれています。この配置というのも、湯殿山のどこに祀られているのかというのを反映しているらしく、神仏分離以前、湯殿山の信仰の形がどのようだったかを表す良い資料と言えます。次に堂内右手を見てみます。こちらには重要文化財に指定されている3点の仏像・面が置かれています。右から見てみましょう。コチラは秋田県重要文化財で”二の舞咲面(にのまいわらいめん)”と呼ばれる舞楽面です。右が翁面、左が媼面で、どちらも鎌倉時代の作とされています。もとは秋田市の高倉山 観音院 龍泉寺に高倉宰相永福卿が奉納したものでした。この舞楽面の内、媼面の方には生面という伝説が伝わっています。龍泉寺の公式YouTubeチャンネルにてお話を楽しむことができます。・You Tube / 湯殿山龍泉寺 / 羽鳥沼の生面 はとぬまのいきめん 秋田の怖い話祝い事や神事に使われる舞楽面ですが、確かにおどろおどろしい見た目ではあります。その為か妖怪の正体とされてしまったんですね。ただ面白いことに、媼面の側面には縦に伸びる一筋の刀傷が残っているのです・・・。肝が冷えたところで、次に進みたいと思います。こちらも秋田県重要文化財の1つ、円空仏:十一面観音勢至菩薩です。御主人に確認したところ、勢至菩薩と十一面観音が融合したものでは無いとのこと。文書などの表記揺れの1つかと思われ、特に意味は無いでしょう。これも秋田市の龍泉寺に置かれていたものです。そんで御主人の受け売りなんですが、円空仏は宿賃の代わりの様なもので、円空が泊まったところに宿の御礼として納めていったそうな。滞在期間中に彫れるだけのものを作るため、像の大きさ=滞在期間の長さ なんだとか。つまりこの像の大きさ(192cm)からして、秋田市への滞在もかなり長かったんではないでしょうか。大平山に登り、修験のように峻嶮な山道を歩いていたかもしれません。秋田三十三観音霊場の札所本尊はコチラです。※ご由緒・札所本尊ともに高倉山 観音院 龍泉寺のものを受け継いでいるようです。そして最後が金銅薬師如来立像です。こちらも秋田県重要文化財に指定されています。鎌倉時代作の金銅仏で、重量はかなりのものだと思われます。鳳凰庵時代の本尊と言われていますが、定かではありません。表面が黒みがかっているのは錆ばかりではなく、漆を塗ったためだと言います。戦時中の金属供出を避けるために、表面に漆を塗って木像に見せかけたそうですよ。優し気な表情と、衣服のしなやかさなどが素晴らしい金銅仏でした。それでは堂内左手を見てみましょう。こちらはかつてカミサマ(ごみそ)と呼ばれていたおばあ様が崇敬していた龍神とのことです。詳しい話は忘れてしまったんですが、イタコのように神懸りになって、人々の相談を受けていたとか・・・。御神体は龍神の掛軸でしょうか。この龍神の御朱印もやってるみたいですよ。見開きでカラーの豪華な御朱印でした。次にこちら、位牌の両側に2つの木像が並んでいます。初めて見た時は、右は関羽かとも思ったんですが、どうやらまったく違うみたいです。これらの木像は即身仏に至る過程を表しているそうです。左の方が即身仏になる前の姿で、しっかりと剃髪して頬も膨らんでいます。右はというと即身仏に至る時の姿で、神と髭は伸び、頬もこけて顔が細くなっていますね。即身仏になるために桶の中で断食していると、当然身なりを整えることは出来ません。同じ人間でも入定前後でこんなにも違った相貌になってしまうのです。即身仏の信仰を伝える貴重な木像でした。斜めから。御堂の中に湯殿山をまるまる納め祀った形の面白い寺院でした。遥か仏教伝来の時代に霊場の基盤が造られたとされており、そこに出羽三山の信仰が流入し、現在につながっています。由緒などを見ていると、青森県の大鰐にある阿闍羅山 専稱院と来歴が似ているなと思いました。古来からの霊山を祀る修験・山岳信仰の霊場が、近代になって他の寺院から寺格を遷して独立するという流れが本当に似ています。修験道は明治の神仏分離の際に排斥の対象となったため、それに関連した寺院などは、かなり厳しい荒波を越えて現在に至っていると思います。修験道は神仏混淆が主であり、平地の仏教とはまた違った様相で、人々を魅了し続けます。御沢仏のように神仏織り交ぜた形で現存しているのは更に面白いですし、こうした寺院はいつまでも残っていって欲しいです。出羽三山の内、湯殿山の信仰をありありと感じられる霊場、龍泉寺でした御詠歌墨染の 桜も実入る高倉の 阿彦の池に 月澄るなり札所本尊:十一面観音 एकदशमुख今回貰った御朱印です。秋田三十三観音霊場秋田三十三観音霊場(秋田杉の台紙)鳳凰庵本尊:薬師如来本尊:大日如来公式サイトへのリンクです。・龍泉寺以上です。
2025年07月08日
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日本各地に素晴らしい神社仏閣があり、それらを巡ってお参りすることは精神的な癒しになると共に、私たちの生活になくてはならないことだと思います。巡礼はすばらしいもの、ただし何か所も周っていると、いつかは疲労し、足が動かなくなってしまうことでしょう。そんな時に私たちを支えるのが、おいしい食事と素晴らしい温泉です。このページでは、巡礼の助けとなる”めぇままかへるどご(食事どころ)”と”たげあずましいゆっこ(湯どころ)”の二つを、行った順で紹介したいと思います。そういう企画の福井県編ページです。美味ぇ飯食へる所(めぇままかへるどご)嶺北地方嶺南地方凄げ吾妻しい湯処(たげあずましいゆっこ)嶺北地方南越前町:河野シーサイド温泉 ゆうばえ 南越前町:河野シーサイド温泉 ゆうばえ 若狭の浦を臨む湯どころ嶺南地方以上です。
2025年12月14日
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帰省4か所目は胸肩神社、5か所目は岩木山神社です。弘前市の中心街から西へ西へと走ります。津軽は米どころゆえ、岩木川を超えると広大な田んぼがずーっと遠くまで続いています。どうにか岩木山の写真を撮りたかったんですが、黄砂の影響で白く霞がかかってしまいます。まあしょうがない。三つの頂点部があり、左から鳥海山、岩木山、巌鬼山となっているとか・・・。小学校の遠足で登って以来、ずっと山頂に行ってないですね。今年中に一度は登りたい。去年は百沢の方から登ったんですが、大雨で登山道がかなり削られており、途中で断念、引き返しました。2024.4.27岩木山神社夕方に行きましたが、ゴールデンウィークのためかかなりの人、人、人!すごい賑わいです。國幣岩木山神社とありますね。社各制度の名残りとか・・・。詳しくはわかりません。官社官社とは、祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社である。官社は神祇官が祀る官幣社と、地方官(国司)が祀る国幣社に分けられ、律令制の社格に倣ってそれぞれに大・中・小の格があり、「昇格」が行われた。官幣社・国幣社をまとめて官国幣社ともいう。主として官幣社は二十二社や天皇・皇族を祀る神社など朝廷に縁のある神社、国幣社は各国の一宮や地方の有力神社が中心である。官幣社・国幣社に実質的差異はないが、例祭について、官幣社へは皇室(宮内省 )から、国幣社へは国庫から幣帛が供進された点が異なる(祈年祭・新嘗祭はどちらも皇室から奉幣を受ける)。wikipedia 近代社各制度 より引用国庫や宮内省からの金銭的な援助があったということなんでしょうか?一の鳥居二の鳥居奥に岩木山と三の鳥居が見えます。苔や木々の緑がきれいでした。二の鳥居と三の鳥居の間に奥富士出雲神社への入り口があります。奥富士出雲神社の鳥居です。以前は拝殿を右に曲がり、右手に見える民家で御朱印をいただきました。由来が書いてあります。説明書き:百年記念碑抑奥富士出雲神社の創起は祖父寿海大人命明治6年百沢寺住職にてありしとき、明治天皇の維新更始の盛世に感激「神仏判然令」に遵ひ断然廃寺の願書を上申して之を廃し、而して土地は神社の境内に編入、樓門外高堂大廈悉神社の用に供すべき様願立、更に宝器什物等神器に成る可きは神社に寄付し、斯くして岩木山神社の根幹を作り上げし也、次いで数十戸の檀家をして悉く神祭の式を以て祖先以来の各霊を祭祀せしむべく数年間四方奔走して招致説諭し、ここに別社として出雲大神を主神に祀り、奥富士出雲神社の始歩を印せしもの也。これらの功績を奇特とし明治12年9月岩木山神社より多田寿海に対し慰労目録に添えて如上の意を含めし褒賞状一通贈られし也。斯くて壱百年の歳月流れ出雲神社の隆昌を今日に見るに至りしは偏に信徒の陰の力によるものにして、此処に百年祭を記念し建碑するもの也。管長宮司 多田昌雄 誌 昭和49年8月1日この石碑の脇には龍神様がおわします。白竜神とありますね。拝殿です。両脇に恵比寿様と大黒様がおります。恵比須様は少彦名、大黒様は大国主と同一だとされているようです。出雲の国造りを行った二柱が並んでいます。安彦良和先生の”ナムジ”でこの辺の神話は楽しみながら予習してきました。三の鳥居楼門が見えてきましたね。この橋の下の池に白いイワナ?ニジマス?がいたと思ったんですが、魚一匹泳いでいませんでした。どこへ行ったやら。楼門です。重要文化財に指定されています。朱塗りの壁が美しいですね。狛犬も心なしかシュッとしているように見えます。斜めから。神社に楼門・・・。神仏混稀の痕跡でしょうか。もともと寺だったなんて話を聞いたことがありますが。手水です。三頭の龍が水を吐いています。初めてここに来た時に、柄杓の長さに驚いたのを覚えています。お稲荷さまです。宇賀能賣神がおわします。お稲荷さんは特に別名が多いので調べるのも一苦労。こちらは多都比姫神の社で白雲神社というそう。宗像三女神の一柱で龍神・水神だそうです。ここでも水神が祀られていますね。本当に青森には水神が多い!拝殿が見えてきましたね。屋根だけ見えてる中門と拝殿が重要文化財に指定されています。ここからは見えませんが、奥門、瑞垣、本殿なども同じく重要文化財に指定されています。中門中門の額です。北門鎮護!拝殿です。注連縄が立派ですね。正月にはここで巫女さんが酒を振舞っていたような・・・。こちらも朱塗りの壁と、所々にある金色の装飾が美しい!帰りに楼門の手すりにくっついている獅子を撮りました。登っているものと降りているものがあります。調べてみると弘前市のサイトで説明がありました。下のリンクからどうぞ。いいかも弘前!! / 岩木山神社の狛犬岩木山神社の狛犬岩木山をご神体として祀る「岩木山神社(いわきやまじんじゃ)」。本殿や拝殿、楼門などが国の重要文化財に指定されており、「奥日光」とも称されます。パワースポットとしても知られている岩木山神社には、少し変わった狛犬がいます。楼門の前の玉垣にしがみついている狛犬と一緒に写真を撮ると、上向きのものは金運を、下向きのものは恋愛運を向上させると言われています。岩木山神社を訪れたときは、ぜひ探してみてください。上向き(金運、上がるもの)下向き(恋愛運、落ちるもの)最後に御由緒です。岩木山神社【祭神】顕國魂神うつしくにたまのかみ多都比姫神たつひひめのかみ宇賀能賣神うがのめのかみ大山祇神おおやまづみのかみ坂上刈田麿命さかのうえのかりたまろのみこと【由緒沿革】当社は昔から「お岩木さま」「お山」と親しんで呼ばれ、陸奥津軽の開拓の神、農海産物の守護神、また祖霊の座すところとして崇められてまいりました。神山・霊山である岩木山は津軽全土から仰望せられ、人々に慈しみの徳を授けたまい、郷土人の生活と心のよりどころであります。岩木山大神は太古より神霊岩木嶺にお鎮まりになられ、今から約1200年前、宝亀11年(780)に社殿を山頂に創建したのが当社の起りであります。延暦19年(800)に、征夷大将軍 坂上田村麿がこれを再建し、別に山麓である十腰内の里に下居宮を建立して、山頂を奥宮と称し、寛治5年(1091)神宣により、下居宮を現在地に奉遷いたしました。その後、世々の地頭・領主何れもがよく崇敬の赤誠をつくし、江戸時代には津軽藩主 為信・信牧・信義・信政により大造営が行われ、近代には崇敬者の熱意を集めて、建造物、諸施設とも整い、名実共にその偉容を誇り、畏き辺りも日本の北門鎮護の名社として、農業・漁業・商工業・医薬・交通関係、とりわけ開運福の神として、色々の宗派を超え、深い信仰の源として厚く崇敬されております。新しき時代に向かい、ご神徳のまにまに、日本人の心の絆としてひとしく拝し、ご神威ますます輝かしく仰ぎ奉られるのであります。大國魂鎮守 旧國幣社。北門鎮護 岩木山神社 / 由緒 より引用祭神の顕國魂神(大国主の異名の一つ)、多都比姫神、宇賀能賣神、大山祇神、坂上刈田麿命(坂上田村麻呂の父)を合わせて岩木山大神というそうです。奥富士出雲神社に顕國魂神、白雲神社に多都比姫神、稲荷神社に宇賀能賣神が祀られているということなんでしょうか。だとしたらあと二柱はそれぞれどこに祀られているんですかね?奥宮に大山祇神、本殿に坂上刈田麿命だろうか。とにかく、今回久しぶりに詣でることができてうれしかったです。次回はお山参詣に参加して奥宮まで行ってみたいです以前貰った御朱印です。奥富士出雲神社岩木山神社以上です。2024.8.3夏詣出お盆前に前乗りして津軽に遠征していたんですが、岩木山 求聞寺の参拝後に遠くから掛け声と囃子が聞こえて来たんです。”さーいぎさいぎ”という声に導かれて岩木山神社の方に抜けると、白い装束を着た保育園児と先生方が旗を担ぎ、演奏しながら参道を登っています。僕だけでなく周りにいた人たちまでもが、自然とその列にかだって拝殿の方に進んでいきます。佞武多囃子よりもゆっくりとした、不思議なテンポにノセられて、そのままお参りしてしまいました。本来のお山参詣はもっとすごいんでしょうねこの記事を書いた時には、”今年はお山参詣に参加して・・・”と言っていましたが、いろいろと都合が合わず、参加できないことが決定していました・・・。なので今回少しでもお山参詣の空気感を味わえて本当によかったです。菅江真澄も1785年の8月にお山参詣をする集団を見かけており、「外が浜風」にて次のように記述しています。十五日 笛、つづみがなりどよめいて、さんげさんげと大ぜいの声でとなえ、通り過ぎてゆくのは、この月のはじめからきょうを最後として、岩木山に詣でのぼる優婆塞(在家の山伏)たちであった。また注釈には・・・津軽平野の人たちが幣や幟を押し立てて岩木山へのぼる風習は、今でもさかんである。むかしは女人禁制であった。五穀豊穣を祈願し、また感謝するもので、登山者は一週間精進潔斎し、白装束に身をかためてのぼり、頂上の奧宮を拝んで下ってきた。とあります。昔から続けられているお山参詣ですが、当初は身を浄めて臨んだり、女人禁制だったりと、今より数段厳しい決まり事が多くあったようです。現在は誰でも岩木山に入ることが出来ますし、頂上付近へだって車で行けてしまいます。こんなにも岩木山を取り巻く環境は変わっているようですが、誰でも岩木山に親しむことが出来る様になっているというのもまた良い事だと思うのです。いつまでもお山参詣が続いていくことを願って終わりにします。以上です。2024.8.21こちらからも由来を確認できます。・新編弘前市史 / 通史編3(近世2) 473ページ / 下居宮この由緒では主に神仏混淆の百沢寺時代のものが書かれています。百沢寺の本尊などが移されたのは津軽八十八霊場五十番札所:太平山 長勝寺、山頂の聖観音が移されたのは津軽八十八霊場六十二番札所:阿闍羅山 専稱院みたいです。特に後者は津軽龍神霊場の札所にもなっています。以下全文です。下居宮 下居宮(おりいのみや・現岩木山神社・中津軽郡岩木町)は岩木山三所大権現を祀る。岩木山を神体として祀ることは古くから行われてきており、安寿と厨子王、田光沼(たっぴぬま)の竜女、赤倉の鬼神、坂上田村麻呂などの創建伝説を伝える(小舘衷三『岩木山信仰史』1975年 北方新社刊)。 寛治5年(1091年)、神託により北麓から100の沢を越えて南麓に移り百沢寺(ひゃくたくじ)と称した。天台系の密教(台密・だいみつ)の影響を受け、熊野三山を岩木山に充て、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説により中央の国常立命(くにとこたちのみこと)を阿弥陀如来とし、岩木山 百沢寺 光明院と左峰の国安珠姫(くにやすたまひめ・田都比姫)を十一面観音とし、十腰内の巖鬼山 西方寺 観音院と右峰の大己貴命(おおなむちのみこと)を薬師如来として松代の鳥海山 永平寺 景光院に配置し、岩木三所大権現とした(「津軽一統志」)。山頂に奥宮本宮、里宮として下居宮が建てられた。天正17年(1589年)の岩木山の噴火で諸堂が焼失したといわれ、津軽初代為信が慶長6年(1601年)に下居宮、同8年に大堂を再建、寺領400石を寄進し塔頭10院と神主 安倍を配した(資料近世1No.一七一、正徳元年の「寺社領分限帳」)。 享和3年(1803年)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)によれば、大堂(拝殿)の本尊:阿弥陀如来と脇立の十一面観音・薬師如来は津軽二代信政、本尊を納める「御宮殿」と呼ばれる厨子は津軽三代信義が寄進した。神仏分離で百沢寺は廃寺となり、本尊と厨子、棟札は長勝寺、山頂の聖観音は専称院(現南津軽郡大鰐町)へ移された。岩木山は止山(とめやま)で平常は入山を禁止されたが、8月1日(八朔)から15日までは「お山参詣」が許され、村落ごとに豊山祈願のための登拝が行われた(黒瀧十二郎『弘前藩政の諸問題』1997年 北方新社刊)。以上です。2024.12.31締詣出今年の津軽は異常な積雪で、どこもかしこも雪の山。毎年ではないにしろ、こんな量の雪が積もったら、鳥居も社殿も直ぐに潰されてしまいます。奥富士出雲神社に寄ります。恵比寿さんの竿にはおみくじがいっぱい。拝殿です。では山門。雪化粧というやつでしょうか、なかなかこの姿も素晴らしい・・・!白と赤の対比が映えます。山門の右大臣。左大臣。岩木山神社は奥日光と言われるだけあって、こうした像も作りが精巧です。拝殿から玉垣からモサモサの雪に覆われています。ただ最も恐ろしいのが、階段も凍ってしまっていることです。今年の干支は巳ですか。一代守護本尊で言うと引き続き普賢菩薩。拝殿です。雪が落ちてくる前にさっさと拝んで退散しました。今年は岩木山神社から山頂本宮までの登拝を予定しています。茨城の友達は登山経験者なので、彼にかだってわも上で拝みてんずや。今年絶対やるはんで!以上です。2025.8.13登拝 2025↑で宣言していた通り、お盆休みを利用して岩木山登拝を敢行しました。かなりの猛暑で中止も考えていたんですが、同道する予定の茨城の友人に一喝され、気を引き締め直して登拝に臨みます。導師は茨城県の友人。彼は登山勢であり、今回ペースメーカーを務めてくれました。僕は急いで登りがちなので、彼がいなくては登拝出来なかったでしょう。道中の名所やかかった時間などは、YAMAPの方の記事をご覧ください。登り始めは夜明け前、ぼんやりと東の空が白んでくる頃、岩木山神社の鳥居をくぐります。岩木山神社で道中安全を祈願し、友人の般若心経読経を聴きます。岩木山神社ももとは岩木山 百澤寺という真言宗寺院でした。神仏混淆の霊場であり、岩木山三所大権現を本地仏とする津軽の一大山岳霊場なのです。その歴史に想いを馳せれば、神前読経も自然なことでしょう。いろいろと儀式(?)を済ませて、山門脇の登山道を進んでいきます。途中百沢のスキー場に出るんですが、ここから眺める岩木山も近い様で遠く、今からあそこに登るのかと思うと、胸が高鳴り武者震いしてしまいます。ふと振り返ると、ポツポツと灯る町明かりと、山を覆う雲海が陽光に照らされていました。津軽の文化の中心地である弘前の街は、岩木山のお膝元に広がっているのです。序盤はまだカワイイもんですが、この鼻コクリという急坂は結構きついです。長い上に急で、ペースを間違えるとここで力尽きてしまうでしょう。登山道も中ほどまで来ると、姥石という巨石が置かれています。岩木山は、昔は女人禁制の御山であり、女性の方はここまでしか立ち入ることが出来ませんでした。成人の儀式として岩木山登拝を終えた息子さんを、沢山の母さま方がここでお迎えしたんだとか。更に山形県の宝珠山 立石寺・高瀧山 光明院 奥之院などに見られるんですが、古来霊場と現世との境には奪衣婆が置かれていた様なんです。もしかするとこの姥石も奪衣婆の代わりなんじゃないか、なんて考えてしまいました。山頂がほど近くなってきた頃、僕は力尽きそうになっていました。日もだんだんと高くなって、容赦無く体に照りつけてきます。茨城の友人は快適そうなんですが、僕は絞れる程びしょびしょになったシャツをはたきながら、息を荒げて足をよろつかせフラフラと登っていきます。暑さもひどく限界だと思っていると、天の救いかしゃっこい湧水が!錫杖清水と呼ばれるこの清水で顔と手を洗うと、気も高ぶり一気に元気が湧いてきます。かつての岩木山修験たちも、この清水に助けられたんではないでしょうか。鳳鳴ヒュッテの近くまで来ると、もう山頂に手が届くぐらいの距離です。ヒュッテのすぐ下には種蒔苗代という泉があります。かつてはここで”散供打ち”という供物の浮き沈みで吉凶を占う儀式が行われていたと言います。散供打ちは十和田神社の物が有名で、その影響か南部地方の小さな神社などでも散供打ちを行う場所が有ったり、当地域と深く結びついている風習と言えるのではないでしょうか。十和田神社は永福寺(現:宝珠盛岡山 永福寺)という真言宗寺院が祭祀を努めていた霊場で、かつては十湾寺と号する寺院だったそうです。霊場には熊野系の修験しか立ち入れなかったようで、そこから察するに系統不明の岩木山修験も、熊野系の修験の影響を受けている可能性があるのではないでしょうか。近代になって津軽地域に多数勧請された飛龍大権現も、熊野那智大社の飛瀧神社から勧請したものであり、熊野信仰が津軽地方にも深く浸透している事を示していると思います。ヒュッテのすぐ脇には御倉石という奇岩があります。ここには面白い伝説が残っております。なんでも「津軽の人たちは死後祖霊となってここに籠る」んだとか。雰囲気的に恐山や熊野三山に似た感じですよね。祖霊はその土地の最も有名な霊場に祀られることが多いと思うのですが、津軽においては岩木山がその役割を努めているのでしょうね。それではヒュッテから山頂を目指しましょう。数十分で山頂に着きます。もうひと踏ん張り!雲を突き抜けて屹立する岩木山。こんな素晴らしい山が信仰対象にならないことがあるでしょうか。遂に登頂岩木山!もう既にかなり疲労していますが、山頂からの景色を拝めばそれも吹き飛びます。腹ごしらえしたいところですが、先ずは奥宮を拝みましょう。軒下に人2人が丁度納まるくらいの大きさの石祠。これが岩木山神社奥宮です。祠の中には3つの幣と共に神鏡が収められています。岩木山信仰の根幹です。言い伝えでは、かつてこの祠に聖観音像が置かれていたんだとか。岩木山の本地仏は阿弥陀如来ですので少々妙ですが、観音信仰の篤い津軽地方であれば不思議はないでしょう。明治の神仏分離に際して、大鰐町の阿闍羅山 専稱院に移されましたが、こちらでも阿闍羅山に登拝する”お山参詣”で使用されているんだとか。祠の前はこの通り切り立った斜面で、この下には岩木山神社が境内を構えています。奥宮は岩木山神社の方を向いて建っているんですねぇ。祠の前にて茨城の友人と2人して般若心経を唱えます。故郷の霊山に登拝出来たことをこれほどまでに実感することは、これを除いて後にも先にも無いでしょうね。本当に最高の体験でしたぼちぼち下山するんですが、わがままを言って鳥海山にも向かいました。中央に見える御倉岩、その右奥のロープウェイ駅、そこから左にちょこっと行った所が鳥海山です。鳥海山の山頂には巨岩が転がっています。たげだ数のダラっこあげであってびっくりしたじゃ!こちらも篤く祀られていました。下山する途中、岩木山の火口前で一休み。直近では16世紀に一度火を噴いており、その際岩木山神社の社殿の殆どが焼失します。それを再興したのは、後に当地域に覇を唱える津軽氏一門です。下山も下山で相当にきつかったです。急な斜面のせいで、つま先と膝にかなりの負担がかかり、麓に着くころには比喩ではなく膝が笑っていました。一度食堂で登拝成功の打ち上げをしてから、再度岩木山神社を参拝しました。やはり参道から望む巨大な随神門は最高ですね!北の地に建つ最高の(元)仏閣です。津軽産のベンガラは遠く栃木の日光東照宮にも使用されています。奥日光とも称される岩木山神社も、赤く染められた社殿が本当に美しいんです!本当に無事登拝出来て良かったです。これで故郷にて思い残すことは殆ど無くなりました。新しい土地で新しい寺院や神社と向き合い、生活していく糧と成ります。この日の登山は、未来永劫忘れることは無いでしょう以上です。
2024年04月29日
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仏が浦の絶景で有名な宮古市。その山手の方に鎮座するは住吉大明神。近くには東北三十六不動尊霊場二十番札所の長根寺もあります。青猿神社、名前からして特別な御由緒が有りそうな神社ですね。では見ていきます。青猿神社細い上り坂を進んでいくと門が見えてきます。額には笑門とあります。笑う門には・・・というやつでしょうか?この奥に神社が有ります。左手の方には駐車場も有るので、車でも安心。境内には祠の代わりに小屋がいくつかあって、これもその一つです。大量の大黒天と布袋尊が並んでいます。中には諸刃の剣も有りますね。こちら拝殿・本殿です。日光でぼやけなければいい写真になったのに・・・。右側には鳥居付の裏参道と手水、左には舞台や池、小祠などがあります。厄割玉です。説明書きには、①悪い気や断ち切りたい思いなど、厄を厄割玉にフーっと吹き込めます、②エイっと厄割石に投げ割ります、③割れた玉は土に返ります。清々しいお気持ちでお過ごし下さい、とありますね。悶々とした時などにどうでしょう。結構スッキリしそうです石の表面が白くなっていて、何度も厄割玉を投げつけられたことが分かります。天照大神の小祠です。岩の上にカエルと共に鎮座しています。拝殿・本殿脇の池です。もう少ししたらカエルの鳴き声も聞こえてきそうです。フキやシダが生えていて雰囲気有りますね。後ろの竹林も良いですねぇ!池の脇にある祠です。三つ巴に大黒天、恵比須様でしょうか、いろいろ備えて有りますね。小さいながらも鳥居も見えます。鎮座するのは水の神、彌都波能賣神・御井神の二柱です。彌都波能賣神は伊弉冉が加具土命の出産の際に陰部を焼かれて、床に伏している時にした尿から生まれたとする神ですが、エピソードがものすごいですよね・・・!御井神は初めて聞く神名だったので調べてみました。 御井神は、井泉の神である。古来、水を汲むためのヰ(井)には、自然の流水・湧き水をせき止めたものや、地面を掘って汲み上げるようにしたものがあり、飲料や灌漑のため、生活の重要な拠点であったとされる。『延喜式』神名帳には「御井神社」という神社が各所にみられ、井の神は宮中でも、座摩の巫の祭る神五座のうちに生井神・福井神・綱長井神が祭られている。井戸が古来、神聖視されていたことが知られ、「御井」の「御」はそうした神聖さを讃えた語と考えられている。 木俣神という樹木の神が、なぜ井泉の神としての別名を持つのかについては、樹木が地下水を吸い上げて成長することによる結びつきとする見方がある。また、井泉のそばに樹木が生えていたり植えられることが多くあり、その形が二俣の場合があったことに由来すると捉える説もある。詳しくは「木俣神」の項も参照されたい。國學院大學「古典文化学」事業 / 御井神 より引用北上川の源流にある正覚寺御堂観世音や、浄法寺にある天台寺でも、木の根元から水が湧きだしているところが有ります。そういったものを神格化して崇敬したのが御井神のように感じます。知らんけど左が猿田彦神社、右が稲荷神社です。こちらが鳥居です。表参道は笑門の方ではなく、こっちだったかもしれないですね。古い鳥居と新しい朱塗りの鳥居が急接近中です。ここから見る拝殿もなかなか良いですね御由緒です。青猿神社寛永7年(1630年)頃、攝津国の住吉神社御分霊を勧請し、奉里厳の神霊に戴き、千徳の里に社を造りて鎮斎し奉る。御祭神天照皇大神・住吉大明神二柱の神様を斎き祀っておる神社であります。世界平和・国家安泰・郷内繁栄・海上安全・交通安全・進学成就・商売繁盛・家内安全の守護神としてご崇敬いただきたいところです。青猿神社社務所例祭日:7月2日(7月第一土・日)年越祭:12月31日元旦祭:1月1日斜めから。青猿神社は御前神社と同じく住吉三神を祀る神社でした。芸能や産業、海上安全など、多方面をカバーする不思議な神格です。この神格が成立するまでに様々な別の神格が取り込まれて、伝承が混ざり合って現在の形になっているかもしれません。こうした伝承の成立過程を考えるのは歴史などとも絡んでいって非常に面白いですよね!妄想は、一生できるすばらしい楽しみだと思うのです今回貰った御朱印です。以上です。
2024年05月22日
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突然ですが一息つきたくなったので、昭和大仏を見に行くことにしました。第二みちのく・みちのく有料を併用すれば2時間せずに青森に行けるんですね!僕にとって昭和大仏は日常から切り離されたリラックス空間なんです。青森市に異動できるなら迷わず年間パスポートを買うつもりです。寺の縁側で熱い茶をすするのが最高の癒しになるのです。2024.5.25全仏山 青龍寺青森の環状線は青森市を囲うように走っていますが、その南東に全仏山青龍寺はあります。駐車場に着くとまず目に入ってくるのがバス停の待合所です。雰囲気ありますよね!青龍寺の境内にいると感じさせてくれます。案内地図駐車場の真ん前には高野山青森別院があります。朱塗りの伽藍で津軽弘法大師霊場の十六番札所になっています。弘法大師霊場の札所記事については、以下のリンクからどうぞ!・十六番札所:高野山青森別院 朱塗りが美しい大師堂入り口は二階にあります。参道から右に逸れると小さな橋があり、そこから向かえます。山門です。何年間前に竣工しました。豪華なことに、仁王像ではなく四天王像が納められています。この四天王の御朱印もいただけるんです。正面側は左:持国天、右:多聞天です。裏側は左:広目天、右:増長天です。参道です。ここも何年か前に整備されてから、相当きれいになりました。右には高野山青森別院、左には枯山水が広がっています。これが高野山青森別院に至る橋です。説明書きです。高野山青森別院(大師堂)青龍寺伽藍の中で唯一朱に塗られた御堂です。本尊に真言宗の開祖、弘法大師空海をお祀りしているため、大師堂とも呼ばれております。昭和23年(1948年)に織田隆弘師が創建。元々は青森市茶屋町にありましたが、境内地が狭隘であったため、昭和53年(1978年)に将来の移転先としてこの桑原の地を譲り受けました。その後、青龍寺の境内地として昭和大仏、金堂、五重塔など伽藍整備をし、平成10年に旧茶屋町より本堂を移転修復しました。青龍寺伽藍が生まれる種となったお寺です。弘法大師御宝号「南無大師遍照金剛」を唱えてお参り下さい。こちらは開山堂。先の高野山青森別院(大師堂)を創建した隆弘大和尚を祀っています。全仏山 青龍寺真言宗易行派本山開山:織田隆弘大和尚本尊:胎蔵界大日如来開山堂二十尺四面、宝形造の小ぶりですっきりとした佇まいのお堂に青龍寺開山織田隆弘大和尚の木像をお祀りしております。開山主織田隆弘大和尚(大正3年弘前市生まれ)は、昭和16年東京四ツ谷の金鶏山眞成院住職を拝命するも東京空襲で堂宇を焼失してしまいます。そこで昭和23年、青森市茶屋町に高野山青森別院を建立し境内地に保育園、診療所、ユースホステルを併設して福祉事業、青少年育成に力を注ぎました。やがて昭和46年には四ツ谷の眞成院を復興、昭和57年に全仏山青龍寺を創建、続いて昭和大仏、書院、金堂を建立し、今日の青龍寺伽藍の基礎を築かれました。お加持によって癌をはじめ難病に苦しむ多くの人々を救い、著書は数十冊に及び、ひたすら仏法興隆に尽くされました。高野山真言宗の最高位、伝燈大阿闍梨大僧正に任ぜられ、平成5年金堂落慶を見届けて遷化されました(世寿80歳)。この開山堂をお参りしてふり返ると、その視界には右手に金堂、五重塔が、左側に書院が甍を連ねており、青龍寺伽藍が見渡せます。開山主は今も尚、伽藍を見つめ、参詣者を見守って居られるのです。昭和大仏青龍寺 / 開山堂 より抜粋これまで奥州南部糠部三十三観音で見てきた観音堂の造りは宝形造と言うんですね!今度から使いこなしていきたい言葉です。金堂です。結構横に広い造りになっています。中には諸仏と不動明王・愛染明王・見返り阿弥陀像が安置されています。その前で焼香できるんですが、何だか気が引き締まるような感じがします。本州最北端の青森県にこんなにも素晴らしい仏像がそろっているのは驚きですよね他にも様々な絵画類なども飾られています。斜めから。開山堂の右手あたりから撮りました。素晴らしい景色ですよね気分は小京都!金堂金堂は伽藍の中心となるお堂で、青龍寺で行われる多くの儀式がここで執り行われます。本尊は昭和大仏と同じ大日如来(胎蔵界)。「おんあびらうんけん」とご真言を唱えてお参り下さい。裏廊下には高野山に伝わる国宝を模写した「阿弥陀聖衆来迎図」、須弥壇西端には昭和大仏原型製作者、江里宗平仏師の手による「みかえり阿弥陀像」をお祀りしております。安置仏薬師如来、宝生如来、阿弥陀如来、釈迦如来、不動明王、愛染明王、虚空蔵菩薩、毘沙門天、真言八祖絵図、両界曼荼羅掛け軸昭和大仏青龍寺 / 金堂 より抜粋全仏山の額です。ここが金堂最高のポイントです。なんと五重塔を見ながら熱い茶を飲めるんですゆっくりしていると、誰かが付いた鐘の音がゴーンと聞こえてきます。本当に何時間でも居れますよ。五重塔です。青森県には弘前の最勝院にも五重塔が有り、非常にたくさんの名所がありますよね!この五重塔は柱を上から吊っているため、地震による揺れにも強いとのことです。五重塔の御開帳日には住職自ら説明してくれるので、非常に面白いです。近くに寄ってみると、銅鐸のカランカランという響きが聞こえてきて浄化されます(昇天)。五重塔青龍寺五重塔は、39,35mと木造五重塔としては京都の東寺、奈良の興福寺、香川の善通寺に次いで日本第4位の高さを誇ります。京都以北では最大の木造五重塔です。吊り心柱構造が採用されており、初重内部に設えてある須弥壇の中央に聳え立っているかのような太い心柱は、天井に空いている穴を突き抜けて五重目の土居から吊されています。地震の時に心柱が揺れることによって、地震の揺れを吸収する免震構造です。木造五重塔は台風などの大風による倒壊、火災による焼失は歴史上何度も起こりましたが、地震による倒壊は未だかつてありません。初重内部須弥壇には、胎蔵界曼荼羅に描かれる普賢菩薩・観世音菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩の四菩薩、壁面には真言八祖彫像が奉安されています。昭和大仏青龍寺 / 五重塔 より抜粋説明書きです。五重塔建立趣意仏塔の歴史は、お釈迦さまの入滅の時に舎利を納め供養するために建てられたのが始まりです。日本の仏教建築の中で世界に誇る五重塔は伽藍の中核をなし仏法興隆に功績大なるものがあります。思うに世相は繁栄の蔭に唯物自我の思想に立ち、無益な競争社会と犯罪社会を生み、権利のみを主張し、義務を怠り、小欲知足を知らぬ国民は感謝を忘れ、先人の意徳の広大さ、とりわけ護国英霊の大恩を忘れてしまっております。聖徳太子は十七条憲法の中で仏教をして国と民との模範として精神文化の大道を開かれました。仏教は人格教育であります。仏法なくして国の再生はなりません。「国民に仏心なくば人心乱れ、国に仏法なくば国荒廃す」の信念は正法興隆の大悲願となり、昭和大仏、金堂、そして五重塔建立の発願に至りました。境内の森を背景に屹立する五重塔は、仏教の精神美を表現し青い森、青い海、青い空の自然と調和して、人々の仏性に一層の輝きを与え正法の道しるべとして子孫の宗教心の涵養に役立つことを期待するものです。平成8年(1996年)10月10日 山主去年のいつだったか忘れてしまったのですが、五重塔のご縁日に内部を拝観することができました。確か月一で開帳していたと思うのですが・・・。その時に見た仏像です。これは普賢菩薩。こっちは弥勒菩薩です。書院です。何度も昭和大仏に行っていますが、ここには一度も入ったことはないです。分かることは素晴らしい建築物だということ!書院昭和57年、港区高輪の高野山東京別院新築に伴い、旧書院を拝受し青森の地に移築復元しました。昭和5年建立の深みのある風格を漂わせつつ、青龍寺境内の豊かな自然に溶け込んでおります。当初はこの書院の一階に本尊が祀られ、本堂として使用されておりましたが、平成4年に金堂が建立されると御本尊を金堂へ遷座し、以降主要な行事は金堂にて行われています。現在は精進料理やわんぱく小僧修行体験などを始め、各種行事、講演会場として使用されております。昭和大仏青龍寺 / 書院 より抜粋金堂から昭和大仏の方に進むと”大仏そば洗心庵”が見えてきます。蕎麦にあんみつ、五平餅など参拝の一休みとしていかがでしょう。僕は五平餅が一番好きですねセルフですが、ここでも茶を楽しめます。天気のいい日は傘の下で蕎麦をすすり、デザートにあんみつ・五平餅など最高ですね!大仏そば洗心庵洗心庵ではそば、うどんなどのお食事や甘物、お飲物をご用意しております。境内散策の合間に青龍寺境内の豊かな自然を感じながら、おくつろぎのひとときをお過ごし下さい。営業期間 4月1日~10月31日営業時間 11:30~16:30昭和大仏青龍寺 / 大仏そば洗心庵 より抜粋手水舎です。清瀧の滝の向いにあります。かっこいい龍ですね。清水が流れ出しています。裏には小さな滝がありました。四国八十八所お砂踏霊場の方に流れています。鐘楼です。二突き百円。昭和大仏に来たときは必ず打っています。清瀧の滝です。注連縄がしてあり、苔むした石に囲まれています。静かな山中に水の音が響いてリラックスできるんですよ、ここ。津軽龍神霊場の札所にもなっている場所です。津軽龍神霊場の記事については下のリンクからどうぞ!・津軽龍神霊場:全仏山青龍寺 唐国から来たりし清瀧大権現清瀧の滝水は命の源であり、滝の流れ落ちる様は命の躍動を感じさせてくれます。滝壺を打つ音は涼をもたらし、滝から生じる清澄な空気は心に落ち着きを与えてくれます。向き合うものに多くを与えてくれるこの滝を清瀧の滝と名付けました。龍は水中に住し雨や雲を司る神として古来よりインドや中国で信仰されています。仏教においても龍は仏法守護の善神として尊ばれます。仏伝には重要な場面に龍が登場します。お釈迦様誕生の際、龍王が天から甘露水をそそぎ、菩提樹下に座し七日間の瞑想の後に成道する際にも龍王がお釈迦様を覆って風雨や害虫から守ったことが伝えられています。また真言密教においても龍は重要な役割を担っています。弘法大師が唐に渡り密教を授かった長安の青龍寺(しょうりゅうじ)では、インド無熱達池に住む婆掲羅(沙掲羅)龍王の三女とされる善女龍王を勧請して密教守護の鎮守、「青龍」として奉祀されていました。弘法大師が恵果和尚から正統な後継者として密教を授かると、弘法大師の前にこの善女龍王が現れて三昧耶戒を受けたいと懇請しますが、大師はこれを許しません。帰朝する船中に再び現れて密教守護を誓ったため、帰朝後、大師は京都洛西の神護寺山麓に勧請しました。「青龍」が海を渡って来たので水編を加えて「清瀧権現」と改称し真言密教守護の鎮守となったことが伝えられています。当山でも真言密教守護の鎮守として勧請し、日々報恩感謝の祈りを捧げております。仏法、真言密教を信じ行ずる人には必ずやご加護が授かることでしょう。「南無清瀧大権現(なむせいりゅうだいごんげん)」と唱えて礼拝して下さい。滝の前の小さな池にはかわいらしい童(わらべ)地蔵が3体、蓮華の上に佇んでいます。中央の童地蔵が背負う光背は宝珠の形。風車の意匠が施されています。昭和大仏青龍寺 / 清瀧の滝 より抜粋延命地蔵尊です。半跏?のような姿勢で座り、黄金の宝珠を持っているのが印象的です。延命地蔵お地蔵さまは他の仏さまとは違い、仏堂に安置されるよりお寺の境内、村の入口、峠、あぜ道、四辻など野山や路傍に佇んでいる姿を目にする機会が多いと思います。これはそれだけ多くの人々から身近に親しみをもって拝まれてきた仏さまである証左といえます。右手の錫杖は各地の悩める者、助けを求める者の救済にくまなく巡行されていることを表し、その音は来訪を告げ、苦しみや厄を祓い、左手の如意宝珠は打ち出の小槌のように思うままに願いを叶えてくれます。『延命地蔵経』には地蔵尊を信仰すれば次の十種の福に恵まれることが説かれています。女人泰産 女性はやすらかなお産が出来る身根具足 身体が健康で丈夫になる衆病悉除 諸々の病気が回復する寿命長遠 寿命は長くなる聡明智恵 聡明で智慧が備わる財宝盈溢 財に恵まれる衆人愛敬 多くの人に愛される穀米成熟 穀物など豊作となる神明加護 神仏に守護を得る證大菩提 悟りを得る如意宝珠を持つ左手には紐が結ばれており、これが基壇に置かれた如意宝珠に繋がっております。お参りの際は、基壇の如意宝珠を撫でて所願成就をお祈り下さい。昭和大仏青龍寺 / 延命地蔵 より抜粋説明書きです。延命地蔵菩薩尊お地蔵さまは、他の多くの仏さまとは違い、仏堂に安置されるより、お寺の境内、村の入り口、峠、あぜ道、四辻など野山や路傍に立って手が届くところにおられるのは、それだけ庶民にとって、とても身近に親しみをもって拝まれている表れです。右手の錫杖は各地の悩める者、助けを求める者の救済にくまなく巡行され、その音は来訪を告げ、苦しみや厄を払う事を意味し、左手の如意宝珠は打ち出の小槌のように、思うままに願いを叶えてくれる事を意味します。「延命地蔵経」には地蔵尊を信仰すれば女人はやすらかに産み、諸々の病気は回復し、寿命は長遠し、聡明で智慧が備わり、財に富み、多くの人に愛され、神仏に守護され、悟りを得るなど十種の福に恵まれることを説いています。真言は 唵 訶訶訶 尾娑摩曳 娑婆訶更に道を進むとボケ除き観音が見えてきます。ぼけ除観音日本は平均寿命が80歳を越える世界最長寿国ですが、やはり年をとっても呆けに悩まされることなく長生きをしたいものです。観世音菩薩は人々の声にならない声を感じ取り、人々の苦しみを除いて下さる菩薩様です。このぼけ除観音は呆けを除き封じていただきたいという多くの人々の願いが込められた観音様です。ぼけ除けを念じお参り下さい。昭和大仏青龍寺 / ぼけ除観音 より抜粋ついに見えました昭和大仏です。大日如来を作像したものでここまでの大きさのものは無いんじゃないでしょうか。ここからのアングルも好きです。大日如来の前にある建物は護摩堂で、密教の護摩焚きが行われるそうです。御堂の陰になっていて見えませんが、大日如来とお堂の間に不動明王像があります。護摩堂この護摩堂は昭和大仏開眼30周年記念事業として平成26年9月に昭和大仏宝前に建立されました。間口2間、奥行6間という深い奥行きに唐破風銅板葺きという堂々たる威容は、巨大な昭和大仏の拝殿として存在感を充分に保ち、優美な曲線は昭和大仏の柔和な尊容と見事に調和しています。堂内最前の柱間には香呂を据え、昭和大仏の拝殿としての役割担っております。堂内最奥には護摩壇を設え、大日如来の教令輪身・不動明王を中心に降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五大明王を祀り、弘法大師が唐より伝来された秘法である護摩供(ごまく)が執り行われます。護摩壇中央の炉で願い事が浄書された護摩木を焚き浄め、仏の智恵を象徴する炎が高らかに燃えあがる炉に五穀や香などさまざまな供物を捧げ、内には煩悩を焼尽し本尊と不二一体となる観法を修して、災難消除、福徳円満、所願成就の祈りを捧げます。正月三が日に新年大護摩祈祷、毎月28日午前11時より護摩供を厳修しております。是非ご参列いただき、護摩の炎を間近で感じながら心中の願いをご祈願下さい。昭和大仏青龍寺 / 護摩堂 より抜粋不動明王像です。迦楼羅炎の意匠の細かさが、本当に燃えているかのような迫力を醸しています。昭和大仏の内部には一代様の守り本尊が安置されています。子:千手観音菩薩 सहस्रभुज丑・寅:虚空蔵菩薩 आकाशगर्भ卯:文殊菩薩 मञ्जुश्रीकुमारभूत辰・巳:普賢菩薩 समन्तभद्र午:勢至菩薩 महास्थामप्राप्त未・申:大日如来 महावैरोचन酉:不動明王 अचलनाथ戌・亥:阿弥陀如来 अमिताभ昭和大仏の胎内仏です。五大明王や脇侍の諸仏に守られているのが分かります。光の加減も丁度よく、非常に神々しかったです。まだまだ仏像はあります。昭和大仏の左奥にあります、馬頭観音です。馬頭観音は観音には珍しい憤怒相の観音様です。三十三観音があるところでは、馬頭観音だけは必ず撮るようにしています。馬頭観音平成23年3月11日午後2時46分、突如襲った東日本大震災、さらに大津波による濁流は人家を襲い瞬時に尊き人命、家畜や愛玩動物の命までをも呑み込み未曾有の被害をもたらしました。加えて地震による福島原発事故の大惨事は大海大地山川草木を悉く汚染し、住民に避難流浪の生活を余儀なくし、今尚汚染の恐怖におののき、復興帰郷の希望の灯火が灯る兆しがないばかりか原発事故は主なき多数の家畜生類を餓死に追いやり、或いは野生と化した諸動物は捕獲殺処理されています。又避難者達はお互い布施の心を持ち相互互助の精神をもって復興と帰郷の希望を持ち生活を続けられています。この状況を憂えた福島県浪江町出身の篤信者が、震災犠牲者及び動物達の冥福と故郷の復興を祈り、馬頭(ばとう)観世音菩薩を造立寄進されました。馬頭観世音菩薩は忿怒の身を現していますが観世音菩薩の変化身の一つで、頭上に戴く馬の頭がひときわ目を引きます。馬が一心不乱に草を食べ尽くすように私たちの心に立ち現れる煩悩を悉く喰らって恐れを鎮め、さらには畜生類の苦を抜き化益し菩提涅槃の浄土に導く慈悲を誓願としています。昭和大仏青龍寺 / 馬頭観音 より抜粋かわいらしい仏像もありました。童観音です。説明書きです。童観音住職夫婦が、戦災によって荒廃した日本、そして焼土化された青森の人々が立ち上がる為には、将来の国造りを担う子供たちに、仏教による幼児情操教育の必要性を痛感し昭和23年(1948年)高野山保育園を茶屋町に開設。私費を投じて40年間、1200余名の卒園児を育て、平成元年(1989年)3月閉園されました。卒園児は勿論のこと昭和大仏へお参りされる多くの子供たちが心身共に健やかに育つことを心から願い建立されました。童観音の隣に観音様がいました。名前は・・・何だったか、忘れてしまいました。確か慈母観音だったような・・・。坂を下ったところに不動尊と童子が2人。左が制吒迦童子で、右が矜羯羅童子だと思いますが・・・どうでしょう。ここが東北三十六不動尊霊場の十八番札所になっています。札所記事については以下のリンクからどうぞ!・十八番札所:全仏山青龍寺 厄を滅す不動尊説明書きです。東北三十六不動尊霊場 第十八番 厄除不動火生三昧に住し忿怒相の不動明王は、大日如来(昭和大仏)の使者としてこの世に現われ、剛強難化の諸人を救うという。不動経には「大智慧の故に大火焔を現じ、大智の剣をとって貪瞋癡を害し、三昧の索を持って難伏の者を縛す」とあるように、いかなる煩悩も焼きつくし、剣と索を以て人々を救うという大慈悲の御誓願をあらわされております。不動尊の脇には、手水舎からの水が流れ込む池があります。祠や観音像・弘法大師像などが見えますね。修行中の大師さまでしょうか。この池の周りには足型がいくつもあり、四国八十八所お砂踏霊場となっています。説明書きです。修行大師と四国八十八所お砂踏み霊場弘法大師は「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば我が願いも尽きん」とご遺告をされて御入定されました。今尚、大師の遺徳を忍び四国八十八ヶ所霊場の巡礼者が絶えません。「同行二人」の思想は、生まれてから死ぬるまで、否、死んだ未来の先まで常に大師と共に歩もうとするものです。有り難や 行くも帰るも留まるも 我は大師と 二人連れなり。仏足の中に四国八十八ヶ所の聖砂が納められております。青森に居ながらにして四国八十八ヶ所霊場を参拝できます。金剛杖をお持ちになり南無大師遍照金剛とお唱えください。斜めから。今回はふと思い立って青森まで行きました。身も心も癒されて、大変幸せな休日でした・・・。定期的にまた来たいと思います。以前貰った御朱印です。本尊:大日如来(昭和大仏)今回貰った御朱印です。山門:四天王像以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー池の中の観音像花まつり天上天下唯我独尊五重塔
2024年05月26日
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南部町の矢立観音堂に伝わる伝承で、慈覚大師円仁が一本の木から七体の観音像を作成し、それらが納められた七つの寺院を巡るというものです。このような慈覚大師が一つの木から七つの観音像を造ったという伝説は日本各地に存在する様で、これもその一つと言われています。札所の本尊の作成者・作成年代がそれぞれ異なることから、札所のハク付け目的に作られた伝承とされているみたいですが・・・。いずれの札所も奥州南部糠部三十三観音霊場の札所でもあり、名久井岳を囲むように位置しています。札所は以下の通りです。長谷七観音詣り一番札所:恵光院 長谷観音堂 本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事二十二番札所:長谷観音 修験の地の観音堂二番札所:野瀬観音堂 本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事二十一番札所:野瀬観音 旅の博徒の観音堂三番札所:観音林観音堂 本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事三十一番札所:観音林観音 主街道脇の観音堂四番札所:矢立観音堂 本尊:十一面観音 एकदशमुख札所記事二十番札所:矢立観音 矢に指し示された観音堂五番札所:作和外手洗観音堂 本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事十八番札所:作和外手洗観音 名久井岳の山裾にある観音堂六番札所:法光寺観音堂 本尊:千手観音 सहस्रभुज札所記事十九番札所:法光寺観音 三重塔と庭園美しい観音堂七番札所:相内観音堂 本尊:聖観音 आर्यावलोकितेश्वर札所記事十七番札所:相内観音 陸奥統治の足掛かりとした観音堂以上です。参考文献奥州南部観音霊場巡り 糠部三十三札所 滝尻善英著
2024年08月14日
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神社は主に特定の神格を祀っていますが、その祭神を最初に祀り信仰を形作った神社のことを総本宮・総本社と呼びます。例として、全国で八幡様は広く信仰されていますが、その総本社は宇佐神宮であり、それ以外の八幡宮は総本社やそれに準ずる大神社からの分霊を受けて創建されています。いわば出張所みたいな感じですよね※注意この記事では総本社と分霊社を並べてみたいと思います。ただし、主祭神が同じでも神社の宗祀の系統(名称など)が異なる場合は掲載しません。総本宮以外からの分霊(八幡宮でいえば石清水八幡宮からの分霊)により創建した所も分霊社に含みたいと思います。総本宮・総本社に詣でる機会はそうそうないのです。総本社の名称の後ろに未とあるものは参拝していない所となります。分霊社に関しては、参拝したものを随時載せていきたいと思います。いつものごとく、完全な自己満リストですので悪しからず。総本宮・総本社と分霊社神明宮総本宮神宮:伊勢神宮 未祭神内宮:天照皇大神外宮:豊受大神分霊社官幣大社愛知県名古屋市:熱田神宮名古屋市:熱田神宮 ①中心社殿 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ名古屋市:熱田神宮 ②境内諸社 御剣にやどる天照と熱田のかみやしろ府県社青森県弘前市:弘前神明宮宮城県仙台市:櫻岡大神宮福島県郡山市:開成山大神宮東京都港区:芝大神宮 港区芝大門:芝大神宮 大江戸の大神明宮静岡県磐田市:鎌田神明宮郷社青森県深浦町:神明宮青森県五所川原市:神明宮 五所川原市:神明宮 わんどの街のシメ様青森県七戸町:七戸神明宮 七戸町:七戸神明宮 城跡に座すしんめい様青森県三戸町:三戸大神宮岩手県久慈市:久慈大神宮秋田県大館市:大館神明社山形県山形市:印鑰神明宮福島県伊達市:天照神明宮村社青森県青森市:油川神明宮青森県五所川原市:広田神明宮青森県市浦町:神明宮 / アラハバキ神社 市浦町:アラハバキ神社 謎の神格あらはばき青森県市浦町:十三神明宮青森県中里町:神明宮 / 加茂神社青森県中里町:尾別神明宮 十四番札所:尾別神明宮 弘誓寺観音堂 松原の中の観音堂青森県中里町:今泉神明宮 十六番札所:今泉神明宮 今泉観音堂 山の頂に鎮座する神明宮と境内の観音堂青森県野辺地町:野邊地神明宮 野辺地町:野邊地神明宮 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未官幣大社:三嶋大社祭神大山祇神社:大山祇神三嶋大社:三嶋大明神(大山祇神、事代主神)分霊社県社神奈川県伊勢原市:大山阿夫利神社郷社宮城県美里町:小牛田山神社 美里町:小牛田山神社 陸奥国鎮座の安産の社神奈川県葉山町:森戸神社村社青森県つがる市:大山祇神社(車力)神奈川県平塚市:平塚三嶋神社社格不明青森県弘前市:大山祇神社青森県中里町:大山津見神社 十五番札所:大山津見神社 薄市観音堂 小高い山の観音堂青森県むつ市:大山祇神社(川内町)青森県八戸市:四本松神社 八戸市:四本松神社 八戸市鎮座の山の神のやしろ福島県白河市:大山祇神社長野県須坂市:亀倉神社浅間神社総本社官幣大社:富士山本宮浅間大社 富士宮市:富士山本宮浅間大社 天衝く美峰奉斎するかみやしろ祭神本殿:浅間大神(木花之佐久夜毘売命)相殿:瓊々杵尊、大山祇神分霊社国幣中社山梨県笛吹市:淺間神社 笛吹市:淺間神社 甲斐国一宮に鎮座する古淺間社国幣小社静岡県静岡市:静岡浅間神社県社山梨県富士河口湖町:河口浅間神社山梨県富士河口湖町:冨士御室浅間神社静岡県小山町:冨士浅間神社静岡県富士宮市:村山浅間神社郷社静岡県御殿場市:一幣司浅間神社静岡県裾野市:須山浅間神社静岡県袋井市:冨士浅間宮静岡県富士市:富知六所浅間神社 富士市:富知六所浅間神社 上古からの信仰の社、岳南の浅間神社村社山梨県市川三郷町:一宮浅間神社山梨県甲府市:青沼浅間神社山梨県南アルプス市:江原浅間神社 南アルプス市:江原浅間神社 古の浅間大神の姿を映す神像と古浅間社静岡県御殿場市:新橋浅間神社静岡県御殿場市:駒門浅間神社静岡県富士宮市:山宮浅間神社 富士宮市:山宮浅間神社 富士山遥拝の古浅間社静岡県三島市:浅間神社社格不明青森県五戸町:浅間神社 五戸町:浅間神社 北の地の富士山信仰山梨県山中湖村:山中浅間神社静岡県静岡市:用宗浅間神社日吉神社・日枝神社総本社官幣大社:日吉大社 未祭神東本宮:大山咋神西本宮:大己貴神(ここでは大物主神とされている)牛尾宮:大山咋神荒魂樹下宮:鴨玉依姫命三宮宮:鴨玉依姫命荒魂宇佐宮:田心姫神白山宮:白山姫神 ※以上山王七社に加えて、境内の全ての神々を併せて”日吉大神”として祀る分霊社官幣大社東京都千代田区永田町:日枝神社 千代田区永田町:日枝神社 お江戸の山王大鳥居県社秋田県能代市:日吉神社郷社福島県伊達市:霊山日枝神社村社秋田県大館市:日吉神社山形県山形市:日枝神社(香澄町)栃木県益子町:日枝神社山梨県甲府市:日枝神社(上曽根町)山梨県笛吹市:山王神社静岡県浜松市:日枝神社福井県福井市:大山咋神社 福井市:大山咋神社 林の奥の山神祀る社社格不明青森県市浦町:山王坊日吉神社 市浦町:山王坊日吉神社 日東流安藤氏ゆかりの古神社松尾神社総本社官幣大社:松尾大社 未祭神大山咋神、中津島姫命(市杵島姫神)分霊社郷社山梨県甲斐市:松尾神社山梨県甲州市:松尾神社 甲州市:松尾神社 恵林禅寺周辺の総鎮守社格不明青森県弘前市:護穀神社 / 松尾神社橿原神社総本宮官幣大社:橿原神宮 未祭神神武天皇、媛蹈鞴五十鈴媛命分霊社県社茨城県ひたちなか市:橿原神宮天満宮総本宮官幣中社:北野天満宮 未官幣中社:大宰府天満宮 未祭神天満大自在天神(菅原道真公)分霊社府県社秋田県能代市:七座神社山形県鶴岡市:鶴岡天満宮 鶴岡市:鶴岡天満宮 鶴岡の天神様東京都文京区湯島:湯島天満宮 文京区湯島:湯島天満宮 江戸湯島を代表する天満宮山梨県甲州市:菅田天神社静岡県磐田市:矢奈比賣神社村社青森県弘前市:弘前天満宮 弘前市:弘前天満宮 最高の津軽富士が見れる天満宮青森県八戸市:大久保天満宮青森県八戸市:長根天満宮 十八番札所:長根天満宮(雨覆横枕観音堂) 長根の元観音、天満宮青森県五戸町:切谷内天満宮神奈川県鎌倉市:荏柄天神社神奈川県横須賀市:久里浜天神社山梨県笛吹市:天神社山梨県富士川町:天神中條天満宮福井県福井市:北野神社社格不明青森県七戸町:七戸天満宮青森県おいらせ町:天満宮(下田)青森県六戸町:三十六天神社青森県八戸市:中居林天満宮青森県八戸市:石橋天満宮青森県八戸市:売市天満宮青森県五戸町:天満宮(天満)青森県新郷村:天満宮岩手県盛岡市:盛岡天満宮宮城県気仙沼市:北野神社(新町)福島県中島村:川田神社福島県白河市:天神神社長野県長野市:湯島天満宮 信濃分社 長野市:湯島天満宮 信濃分社 お江戸の天神、信濃にて斎く愛知県名古屋市:桜天神社東照宮総本宮別格官幣社:日光東照宮 日光市:日光東照宮 戦のない世を造りし東照大権現祭神本殿:東照大権現(徳川家康公)相殿:豊国大明神(豊臣秀吉公)、源頼朝卿分霊社別格官幣社静岡県静岡市:久能山東照宮府県社青森県弘前市:弘前東照宮 弘前市:弘前東照宮 北辺の地の日輪祀る社東京都台東区上野公園:上野東照宮 台東区上野:上野東照宮 江戸は上野の東照宮愛知県名古屋市:名古屋東照宮社格不明静岡県浜松市:元城町東照宮金峰神社・刈田嶺神社など総本社寺社:国軸山 金峯山寺 未祭神神仏分離以前:蔵王権現神仏分離以降:国之常立神、大国主神、日本武尊、安閑天皇(広国押建金日命)など分霊社県社宮城県蔵王町:刈田嶺神社(蔵王町宮)郷社宮城県蔵王町:蔵王刈田嶺神社(里宮) 蔵王町:蔵王刈田嶺神社 里宮 奥羽山脈の名峰祀る神社(冬期)宮城県蔵王町:蔵王刈田嶺神社(奥宮) 蔵王町:蔵王刈田嶺神社 奥宮 奥羽山脈の名峰祀る神社(夏期)村社青森県青森市:金峰神社 青森市:金峰神社 新城の修験道場社格不明山形県山形市:刈田嶺神社(半郷)十和田神社総本社村社:十和田神社 十和田市:十和田神社 北の果ての大霊場、十和田湖の主を祀る神社祭神神仏分離以前:十和田青龍大権現(南祖坊)神仏分離以降:日本武尊分霊社社格不明青森県鶴田町:戸和田神社 三十四番札所:白衣観音堂 打ち止めの観音祀る八角堂青森県浪岡町:十和田神社青森県大鰐町:十和田神社(阿闍羅山) 津軽龍神霊場:十和田神社(阿闍羅山) 大鰐の霊山に祀られし十和田龍神明王太平山三吉神社総本宮県社:大平山三吉神社 未祭神大国主神少名彦神三吉霊神(藤原三吉公)分霊社社格不明青森県八戸市:三吉神社 八戸分社出羽三山社(出羽神社、羽黒神社、月山神社、湯殿山神社など)総本社官幣大社:月山神社 未国幣小社:出羽神社国幣小社:湯殿山神社 未祭神・本尊月山神社:月山権現(月読命)・阿弥陀如来出羽神社:羽黒権現(伊氐波神、稲倉魂命)・聖観音湯殿山神社:湯殿山権現(大山祇神、大国主神、少彦名神)・大日如来分霊社月山神社県社秋田県鹿角市:月山神社山形県山形市:鳥海月山両所宮村社青森県八戸市:籠田山月山神社八戸市:籠田山月山神社 南部の家紋の由来となった御用神社十三番札所:籠田山月山神社(籠田山観音堂 または 鶴輪山 九星寺) 南部の向い鶴と月山の神祀る社岩手県軽米町:月山神社岩手県陸前高田市:月山神社社格不明青森県東北町:月山神社青森県三戸町:泉山月山神社 三戸町:泉山月山神社 名久井岳西麓の月山神社福島県福島市:月山神社出羽神社(羽黒神社)郷社福島県いわき市:出羽神社村社青森県弘前市:羽黒神社(宮地)青森県黒石市:浅瀬石羽黒神社 黒石市:浅瀬石羽黒神社 浅瀬石の地名の由来となった”汗石”福島県白河市:新地山羽黒神社福島県棚倉町:羽黒神社(堤)社格不明青森県浪岡町:羽黒神社福島県福島市:羽黒神社福島県中島村:羽黒神社湯殿山神社県社山形県山形市:湯殿山神社 里之宮社格不明宮城県石巻市:湯殿山神社 石巻市:湯殿山神社 石巻鎮座の湯殿山の社福島県福島市:湯殿山神社古峯神社総本社無格社:古峯神社 鹿沼市:古峯神社 深山幽谷の地の天狗の社祭神日本武尊分霊社社格不明山形県上山市:古峯神社三峯神社総本社県社:三峯神社 秩父市:三峯神社 山犬に 引かれていただく三峯の 遠吠えに混じる 法の御声が祭神伊弉諾大神、伊弉冉大神分霊社社格不明岩手県奥州市:三峯神社御嶽神社総本社県社:黒沢御嶽神社 未県社:王滝御嶽神社 未祭神国常立神大国主神少名彦神※以上三柱を併せて”御嶽大神”として祀る分霊社郷社山梨県大月市:葛野御嶽神社村社青森県南部町:御嶽神社総本宮の無い神社などここからは以下の様な神社についてまとめます。同名の神社が多数ありながら明確な総本宮がない神社同名の神社名ではあるもののそれぞれ祭神が異なる神社同じ神格を祀りながらも一定の神社名を持たない神社薬師神社・久須志神社祭神・本尊少名彦神薬師如来 भैषज्यगुरु同名の神社村社青森県青森市:久須志神社(戸門)福島県国見町:鹿島神社 / 医薬神社社格不明青森県青森市:久須志神社 青森市:久須志神社 烏頭安方中納言鎮まる古社青森県三沢市:古間木薬師神社 三沢市:古間木薬師神社 三沢古間木のお薬師さま秋田県鹿角市:大湯温泉薬師神社温泉神社祭神大国主神、少名彦神同名の神社県社福島県いわき市:温泉神社 いわき市:温泉神社 いで湯の郷の古神社郷社栃木県那須町:那須温泉神社 那須町:那須温泉神社 温泉街の奥に鎮座する那須温泉総鎮守の社栃木県大田原市:大宮温泉神社村社宮城県大崎市:温泉神社社格不明青森県十和田市:十和田湖温泉神社宮城県仙台市:湯神社福島県福島市:温泉神社(飯坂)福島県郡山市:温泉神社 / 熊野神社栃木県那珂川町:小川温泉神社磯前神社・磯崎神社大洗磯前神社神磯酒列磯前神社総本社※総本社と明言しているわけでは無いが、ここがもっとも初めに創建された磯前神社大洗町:大洗磯前神社 大洗町:大洗磯前神社 浜に建つ 荒波の中の 石鳥居ひたちなか市:酒列磯前神社 ひたちなか市:酒列磯前神社 波被る 逆連の岩 神渡り祭神大洗磯前神社:大国主神酒列磯前神社:少名彦神同名の神社村社青森県藤崎町:荒磯崎神社青森県市浦町:洗磯前神社兵主神社祭神八千矛神(大国主神)同名の神社県社滋賀県野洲市:兵主大社 野洲市:兵主大社 琵琶湖東岸のうつくしき古やしろ社格不明青森県むつ市:兵主神社・上町稲荷神社倭文神社祭神武葉槌命同名の神社・同一の祭神を祀る神社県社茨城県那珂市:靜神社郷社山梨県韮崎市:倭文神社 降宮村社茨城県日立市:大甕神社 日立市:大甕神社 荒ぶる星の神と織物司る猛々しい神の社寒川神社祭神寒川大明神(寒川比古神、寒川比賣神)同名の神社国幣中社神奈川県寒川町:寒川神社 寒川町:寒川神社 関東総鎮守に数えられる相州の古きかみやしろ村社千葉県千葉市:寒川神社 千葉市:寒川神社 海照す鎮守の社と嵐呼ぶ権現頭駒形神社総本社(とされる)国幣小社:駒形神社祭神天照大御神、天常立尊、国狭立尊、吾勝尊、置瀬尊、彦火尊※以上6柱を併せて”駒形大神”として祀る(諸説あり)同名の神社社格不明岩手県盛岡市:駒形神社(西仙北)岩手県遠野市:駒形神社静岡県御前崎市:駒形神社蒼前神社祭神蒼前大神(保食神と同一視される)同名の神社社格不明青森県十和田市:蒼前神社(大反)青森県十和田市:蒼前神社(中道)青森県十和田市:蒼前神社(三日市)青森県七戸町:蒼前神社青森県八戸市:蒼前神社(吹上)青森県五戸町:川原町蒼前神社青森県階上町:蒼前神社岩手県滝沢市:鬼越蒼前神社 滝沢市:鬼越蒼前神社 馬を連れての初詣、鬼越の蒼前さま大祐神社総本社(とされる)社格不明:大祐神社 八戸市:大祐神社 漁民の信仰伝える古神社祭神豊宇気比売命、大祐大明神(工藤大祐命)同名の神社村社青森県八戸市:大祐神社(陸奥白浜)社格不明青森県野辺地町:大祐神社真清田神社祭神として挙げられる神格天火明命、高照姫命同名の神社国幣中社愛知県一宮市:真清田神社郷社青森県田子町:真清田神社 二十六番札所:下田子観音 藩主御立寄の観音堂大国主神を主祭神として祀る社※温泉神社や荒磯崎神社は除く総本社?官幣大社:出雲大社 未同一の神格を祀る神社分霊社青森県弘前市:出雲大社 弘前分院神奈川県秦野市:出雲大社 相模分祀国幣小社静岡県森町:小國神社富山県南砺市:髙瀬神社 南砺市:髙瀬神社 越中国開拓の祖神祀る神社愛知県豊川市:砥鹿神社県社福島県いわき市:大國魂神社 いわき市:大國魂神社 大国主神祀るいわきの国守の宮茨城県常陸太田市:西金砂神社郷社岩手県奥州市:鎭岡神社福島県南相馬市:益多嶺神社茨城県常陸太田市:東金砂神社静岡県磐田市:鹿苑神社村社青森県五戸町:新山神社 五戸町:新山神社 山裾に鎮座する修験所縁の国造りの宮山梨県山梨市:出雲神社社格不明青森県五所川原市:白衣神社 五所川原市:白衣神社 元は観音、今は大国主を祀る神社福島県いわき市:國魂神社以上です。
2024年09月29日
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黒石の市街地の南を悠々と流れる浅瀬石川。その南岸に羽黒神社があります。この辺り一帯は浅瀬石という区画ですが、もとは汗石と呼ばれていたそうです。この変わった地名の由来となった一対の石が、今回紹介する羽黒神社の境内に置かれています。津軽の中でも南部に近い黒石には、津軽氏統治以前の当地域の歴史などが残されており、非常に面白いです。ここもそんな古い歴史を語り継ぐ神社でした。2024.11.17浅瀬石羽黒神社黒石から浅瀬石城跡に向かって走っていると、左手の方に見えてきます。境内に大きな銀杏の木が生えており目印になります。参道右手には庚申の石碑。そして狛犬の他に一対の神馬像が収められています。こちらの像も活き活きとした姿です。本当に津軽の神社は独自の慣習などが見られて面白い狛犬も面白い表情です。笑っているように見えなくもない・・・?こちらは完全にはにかんでますね末社の稲荷神社です。実はこの祠はもともと羽黒神社の本殿だったそうです。社殿の建て替えに伴い、末社の祠に用いられました。祭神は倉稲魂命・少彦名神です。今回のメイン、汗石です。雄石・雌石とも呼ばれ、雌雄一対の石として祀られていたようです。形からして、左が雄石、右が雌石でしょうね。恐らくこれも生殖器崇拝と見てよいと思いますが・・・。茨城県の大杉神社の境内社:相生神社でも、生殖器状の石を伊邪那岐大神・伊邪那美大神に見立てて、夫婦和合の神として祀っていましたが、これもそんな雰囲気がします。説明書きです。覚雄石・雌石の由来 その昔、浅瀬石城主:千徳氏は栄華の限りを尽くし、その繁栄は、この地方の独特の文化と信仰の聖地を形成したといわれております。慶長2年(1597年)、浅瀬石城が戦火で灰燼にきした時、浅瀬石城本丸の横の中庭に大事に保管され、浅瀬石の産土神として崇め奉られておりました汗石が、ここに安置されている雄石・雌石だといわれております。 本来、浅瀬石の呼称は「汗石」だということが「汗石御領内社宮調上書」に記されており、それによりますと、現在の浅瀬石川が汗石川であり、それが室町中期頃、名称が浅瀬石川に変えられたと言い伝えられております。落城の時、杳としてその行方がわからなかったのが今回(昭和62年より)浅瀬石羽黒神社造営工事の際、偶然に楓の根元から発見され、ここに再び世上の注目を浴びることとなりました。古よりの言い伝え通り、形体・風格は昔のままそのとおりといわれております。平成元年11月11日拝殿です。色づいた銀杏の落ち葉も相まって非常に美しい姿をしています。拝殿内はこんな感じです。ここで御朱印や御守りなどがいただけます。温湯集落の白山姫神社の御朱印(直書きのもの、津軽三十三観音の判のみのもの)もここでいただけます。奉納経ももちろんいただけますのでご安心を拝殿内右手にはオシラ様も祀られているようです。対応してくださったおばさま曰く、昔から祀られていたとのこと。本殿はこんな感じ。旧社殿よりもはるかに豪華ですねぇ。では御由緒です。パンフレットからの抜粋になります。羽黒神社御祭神:倉稲魂命・誉田別命(応神天皇)、素戔嗚尊御由緒及び沿革 文禄3年(1594年)に記された「田村羽黒宮由緒」では、坂上田村麿が蝦夷平定成就の謝恩を表す為延暦13年(794年)に勧請、羽黒大権現宮と称したと伝えている。 その後、前九年と後三年の役にて荒廃した奥羽地方を巡検した八幡太郎源義家が、寛治7年(1093年)兵を遣わせ社殿を修築し、国家安泰武運長久を祈ったとされる。 建長4年(1252年)、中世当地区に築かれていた浅石城の初代城主:千徳行重により再興。以後、千徳家代々厚い信仰を寄せ、折々社殿を修築、田村羽黒宮と尊称し、領内第一の大社として栄華を極める。 只、太平の世も続かず、慶長2年(1597年)、大浦為信が浅石城を攻め落城。領内の他社寺同様当神社も灰燼に帰した。しかし、為信は千徳家臣秋元為茂を社司に任じ、同5年に再建。浅石の氏神と定めた。 当時、鎮座地は山手であり、冬季特に参拝が困難な為、正月晦日に社司宅に神を遷す「山下り」をし、2月1~3日村人が米餅を供え豊作・村中安全祈願をし、3日夕刻神社に神をお還しする「山登り」を行っていた(現在も古例祭と称し旧正月に献米する行事が続いている)。 宝永5年(1708年)村中にて協議の上、村内の稲荷宮境内で集落の中央でもある現在地に奉遷した。 明治6年(1873年)、羽黒神社に改称、隣村の高賀野村八幡宮を合祀し、旧浅瀬石村の村社となる。同41年、皇太子殿下(後の大正天皇)行啓を記念し、社殿を改築した。 現社殿は、氏子崇敬者の奉賛により建立し平成2年に竣工。同14年には再興750年祭を斎行。参集殿の増築等記念事業を完遂。 平成30年(2018年)、古来地区内に鎮座し永年有志が護持してきたものの、高齢化により祭典執行も困難となった広峰神社を合祀した。また、同パンフレットには津軽じょんがら節の由来に関する内容も載っています。津軽じょんから節のふる里 「浅瀬石」地区について 津軽じょんから節の由来には諸説あるが、その中に、当地を発祥とするものがある。・・・浅石城落城の折、当時城下にあった神宗寺の辻堂住職:常椽(じょうえん)和尚は、攻め込む大浦勢が寺や墓地まで荒らすことに抵抗し、薙刀を持ち立ち向かった。しかし、孤軍奮闘むなしく捕らえられそうになると浅瀬石川に身を投じ没する。 数年後、川原で遊ぶ子供が砂の中に常椽和尚の亡骸を見つけると、村人達はそこに墓を造って手厚く葬り、その地を常椽川原(じょうえんがわら)と呼んだ。 それから毎年お盆にこの墓に集って供養し、浅石城が栄えた時代を偲び、盆踊りをしながら歌った唄が、じょんから節であると伝えられている。・・・斜めから。これらの由緒などから見えるのは、黒石の中でも浅石は南部勢力の拠点として早くから栄えていたという事です。白山姫神社の記事でも書きましたが、津軽において平安時代や室町時代ころの文書・記録・遺跡などが少ないのは、ちょうどこの頃に統治者の変遷があったからではないでしょうか。こうした13世紀頃の記録が残っている神社は津軽では少なく貴重です。最近でも同地域の神社が合祀されたようですが、それだけこの神社が、浅瀬石集落で信仰の中心地となっていることが示されているように思えます。今回もらった御朱印です。浅瀬石羽黒神社が兼務している白山姫神社の記事も有ります。興味がある方は是非!・二十七番札所:白山姫神社(袋観音堂) 木の梢から始まった観音堂以上です。
2024年11月30日
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洋野町の山手側、大野の地に鳴雷神を祀る神社が有ります。黄泉雷神の一柱として知られる鳴雷神ですが、この神社では大きく雷を司る神として捉えられている様なんです。雨を降らせることから、稲の成長とも関りがあるとされる雷ですが、当地では田んぼが多く、こうした神格に対する崇敬も篤かったんではないでしょうか。鳴雷神社大野の村を走っていると大きな鳥居が見えたので近くに停車、お参りすることに。二之鳥居です。隣には社号標も見えます。参道は一本道で拝殿まで続いています。まずは摂社などから見ていきましょう。参道脇の手水舎です。きれいな社ですが、現在はコロナ対策で消毒液が置かれるのみです。神楽殿です。その横には摂社の猿田彦神社があります。小さいながらも行燈や注連縄などのアメニティが充実しており、こちらも崇敬が篤いのかもしれません。文化財に関する説明書きがありました。右:洋野町指定有形文化財大日霊神社 文政8年(1825年)、文政9年(1826年) 俳諧献額一面指定日平成27年6月29日指定理由八戸藩・盛岡藩領内などの著名な俳人の句が掲載されている額(額が事情により鳴雷神社拝殿に掲示されております)洋野町教育委員会左:洋野町指定有形文化財鳴雷神社 文政6年(1823年) 俳諧献額一面指定日平成27年6月29日指定理由八戸藩七代藩主信房公の句が記載され、年号が入った額では初の確認である(拝殿に掲示されております)洋野町教育委員会今回どちらの額も写真撮りできませんでした・・・。大日霊神社の方も参拝しようとしたんですが(同大野村内)、参道の橋が壊れて通行禁止となっており、すごすごと退散するしかありませんでした。いつか参拝したいんですが・・・。神楽殿の脇に立派な木が生えており、根元には小祠が建っています。おそらく御神木でしょう。参道を挟んで反対側には、祓戸と書かれた額が下がる低い鳥居があります。この鳥居の横に説明書きがありました。それが言うことにゃ・・・祓戸大神祓えども祓えども なお足らざるは祓いなり私たちは、日々知らず知らずの内に過ちや罪を犯し、穢れに触れながら生きています。これはすなわち、生活環境の不安、心身発病の元始であります。日頃より「自祓い」をして心身を清め、感謝と慎みの心を持って心豊かな生活を送りましょう。神社の茅の輪くぐりと似たような方法です。あれも年越しや夏に行う大祓の行事だったと思いますが、なにやら関連がありそうです。鳥居をくぐると”祓戸大神”とかかれた石碑が建っていました。遂に拝殿です。割と大きく立派な社で、篤い崇敬を表しているように感じました。ここで御由緒を見てみましょう。鳴雷神社(洋野町大野)御祭神:鳴雷大神例祭日:8月17日由緒 宝暦8年(1758年)9月勧請という。京都上加茂の別雷神社(元官幣大社)の今宮として明治38年(1905年)3月村社に昇格した。 旧藩時代には、藩主(八戸藩主)南部公の尊崇も厚かったという。僻村の地方神社としては著名で、遠くは江戸の商人和泉屋甚兵衛は文化14年(1817年)4月、石造の狛犬一対を社前に奉納しご神徳をたたえている。 また隣接の八戸・久慈・中野村等の崇拝も厚く、幕末期に彼等より奉納された木製大形絵馬5、6枚が掲げられており、ご神徳がしのばれている。 自然現象を畏れ敬い、雷神(鳴雷)を祭神とする信仰は、荘厳な神格ある別雷神の威望を傷つけることなく熔合し、御神徳いよいよ昂揚し、我が大野村では大昔より天災・地災・火災等のあったことを聞かない。 祭典は毎年5月17日より3日間執行されているが、慶応2年(1866年)より、祭典に際し神輿の渡御の行列が荘重に執り行われ、多数の拝観者が沿道にならび、街はことのほか賑う。岩手県内 神社検索(岩手県神道青年会作成) / 鳴雷神社 より抜粋由緒を見る限り、元からあったのは雷を神格化して祀る信仰だったんだと思います。明治38年の村社昇格の理由が上加茂神社の今宮であることと書いてあります。この時には別雷命を祀っていたということを表しているのでしょうか?なかなかに謎が多い神社ですねぇ。ただどちらにせよ雷神ということで、雷の信仰と関係のある神社といえますこの通り木彫も素晴らしいです。蟇股の龍の更に上に、怪物と戦う侍の木彫がありますが、これは何の物語がモチーフになっているんでしょうか?扁額です。斜めから。鳴雷神社のある洋野町大野は、江戸時代には八戸藩領であり、そのためか八戸藩主からの崇敬も篤かったようです。現在でも大野の村は周囲を山に囲まれた僻地ではありますが、このような素晴らしい社殿の神社を擁する土地であります。18世紀の創建と、割と新しめの神社ですが、村の産業基盤である農業を守護するということで、村中はもとより周辺地域からの崇敬も限りないと言い伝えられております。今回貰った御朱印です。以上です。
2024年12月25日
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10月のはじめ頃、名取から秋保経由で蔵王まで廻りました。その時に、以前逃した秋保大滝の不動尊を参拝し、無事御朱印をいただくことができました。前に来た時もそうなんですが、仙台の中心街から秋保の不動尊に向かうまでに、異常な数の幟旗が収められた神社があったんです。ここも以前は参拝できず、今回やっと参拝出来ました。秋保神社名を秋保神社、聞きしに勝る幟の数、計り知れない歴史を感じます。参道脇の石碑は山の神の他、蔵王権現、湯殿山など東北の有名どころばかり並んでいます。その内の一つは天女の様な石刻の像で、おそらく淡嶋明神を象ったものかと思われます。他には天照皇大神のものなども有ります。一の鳥居をくぐるともう、おびただしい数の幟旗が参道沿いに立ち並び、異様な光景とも取れます。しかしこれは、幟の数だけ願掛けした者がいるという崇敬の証明なんです。勝負の神と書かれているので、何かしらの武神が祀られているのか・・・気になりますが、先を急ぎましょう。立派な山門をくぐります。山門内部には神輿と秋保神社名産の達磨が置かれています。社務所でもオンラインショップでも、ひとつひとつ手作りの小さな秋保達磨を買うことができます。僕も旅のテンションにまかせて買ってしまいました今年も様々な物ごとに負けじと頑張りますよ!達磨の購入は公式サイト↓から出来ます!・秋保神社 / 御札・御守山門をくぐると、絵馬に囲まれた木が立っていました。恐らく御神木でしょう。近づいてみると説明書きが建っていました。それによると・・・子育て若乳銀杏 当社の銀杏は古くから御神木として親しまれ、秋になるとたくさんの実を付け、その姿はまるで子供を抱えているかの様子で子宝・子育ての信仰が厚く、多くの母が我子の成長を祈った。 よく見ると枝の付け根に乳房の小さいものがついており「若乳銀杏」と呼ばれているが、災難除けなどのご利益もあると伝えられている。だそうです。垂乳根というやつで、よほど長い年月を生きた銀杏から垂れてくるみたいです。こうした古銀杏は、どの地域でも育児と関連した願掛けがなされる信仰対象となっているんでしょうね。青森県内でも深浦にはかなりの年より銀杏が生えていますが、それにも垂乳根がたくさんついています。更に奥には七福神が並んでいます。そしてその隣には末社群。右から・熊野神社:須佐之男命・稲荷神社:倉稲魂命・雷神社:別雷命・天神社:菅原道真命となっています。拝殿の方に進んでいくと、塀に囲まれ、表面がザラついた岩が置かれています。周囲には砕けた陶片のようなものが散らばっています。勝石という様で、これに玉を投げつけ割れれば厄払いできるというもの。いわゆる厄割玉です。勝石の隣には末社の奏神社があります。この末社は珍しく道祖神を祀っています。公式サイトでも、男性はこちらにお参りすると良いと書かれており、子宝に恵まれるようにという願掛けの場になっているようです。道祖神は時折、男根型の石や木が御神体として祀られることもあり、生殖器崇拝と関連する神格と言えそうです。では拝殿の方も見ていきましょう。まず特筆すべきは前面に置かれた大絵馬でしょうか。この年は辰年で、力強い表情の龍が描かれています。”勝負の神”と評される秋保神社にピッタリのデザインでした次は一ノ蔵でしょうか。4つの酒蔵が一体となって、宮城県に誕生した酒造会社です。まだ飲んだことのない銘柄なので、今置いているのが無くなり次第、飲んでみたいですねぇ!どんなタイプの味わいなのか気になります。そして今回のメインと言っても差し支えないものが、拝殿左手に祀られています。その名も子宝和合の神です。右は女性器型で山の神として、左は男性器型で道祖神として祀っているようです。菅江真澄ではないですが、東北には他の地域よりもこうした信仰が色濃く残されているようです。見つけた時嬉しい気持ちになりましたよ。説明書きです。和合の神御祭神:山の神(女神)、道祖神(男神)御神徳:夫婦和合、子宝、縁結び、豊穣由緒 御創建1200年に境内で発見された柿の奇木で、そのお姿から「山の神」としてお祀り致しております。 山の神とは生命を司り、恵みを生む事から夫婦和合・子宝・縁結び・豊穣の御神徳があるとされ、当社に於いては左手に鎮まる道祖神(別称:塞の神)と併せ「和合の神」とされております。扁額です。ご由緒です。公式サイト・宮城県神社庁のサイトを基にすると・・・主祭神:健御名方命合祀神:天照皇大神・豊受皇大神(神明社)、軻遇突智命(愛宕社)、大巳貴之命(湯神社・新川神社)・少名彦之命(新川神社)、日本武尊 (白山社)、應神天皇 (八幡社)、月讀之命 (羽山社) 大同3年(808年)に坂上田村麿が蝦夷平定に際して、当地に熊野神社を祀ったのが始まり。 明応9年(1500年)、秋保氏九代盛房は、名取の大曲城主長井晴信により楯山城を落とされ山形に逃避、最上氏の庇護下に入った。その約12年後(1512年、1513年とも)、力を蓄えた盛房は楯山城奪還に際して信濃国の諏訪大社に戦勝を祈願、それと同時に秋保の地にも諏訪大明神を勧請し、諏訪神社を建立(この時に熊野神社を併合している)。同年、村民との協力もあり、無事に楯山城を取り戻した盛房は、戦の神として当神社を篤く崇敬したとされる。 明治5年(1872年)村社に列せられ、明治40年(1907年)3月には供進社に指定された。明治42年(1909年)3月に馬場の愛宕神社をはじめ、長袋の神明社、新川の新川、湯元の湯、境野の八幡・羽山、新川の白山の各神社を合祀、諏訪神社の社号を秋保神社と改め今日に至った。参照サイト秋保神社 / 御祭神・御由緒宮城県神社庁 神社検索 / 秋保神社秋保・里センター / 秋保歴代当主と言えそうです。斜めから。秋保氏の命運をかけた勝負の際に建立された神社でした。勝負の神の正体は諏訪大明神こと健御名方命だったようです。武甕槌命と並び立つ武神で、信濃の諏訪大社を総本宮として全国で祀られています。なにか勝負事がある方は、お参りするのもまた一興ではないでしょうか。境内には生殖器崇拝の御神体も見られ、東北の古い文化を残しているようで面白い神社でした今回貰った御朱印です。紙ではなく、極薄の木板に御朱印が押されています。以上です。調子に乗って撮った写真ギャラリー辰年大絵馬秋保七福神巡り恵比須神大黒天弁財天毘沙門天布袋尊福禄寿寿老人
2025年01月13日
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東北に住んでいるとあまり聞きなじみのない名前の神社ですが、常陸国(茨城県)稲敷に鎮座する大杉神社は、全国に600社近い分霊社を持つ大杉神社の総本社です。茨城県と言えば内陸に食い込む形で広がる霞ケ浦が有名です。霞ケ浦は様々な水産資源をもたらし、今日の茨城県の発展の基礎を作ってきたと言っても過言では無い重要な内海です。そんな霞ケ浦の南岸で”あんば様”として古来より親しまれてきたのが今回紹介する大杉神社なんです。大杉神社香取神宮参拝後に利根川の土手道を牛久方面にひた走ります。ほどなくして右折し、利根川を越えて霞ヶ関方面へ。だんだんと道路が狭くなり、町の中を走っているとこれまた荘厳な鳥居が見えてきました。鳥居が見えたところで右折し、駐車場へ停車。さっきの鳥居の前に戻ります。町中に何気ない顔で鎮座していますが、端々の装飾が華やかすぎて異彩を放っています。鳥居脇の両天狗に睨まれながら鳥居をくぐり境内へ。二の鳥居はすんごいカラフルです。他では見ないカラーリング!燈籠の数も半端じゃないです。そのまま進むと本堂が、右に行くと末社群が置かれています。燈籠の後ろにはひっそりと大黒天が居わします。境内には七福神が祀られており、この像もその一つです。今回の記事を書いているときに気付きましたが、恵比寿さんを撮り忘れています。どこにあったんでしょうか?気づかなかったよ・・・。二の鳥居の横辺りに小さな社殿があります。扁額には”悪縁切堂”と書かれていますね。悪縁切りの作法はどのようなものなのかというと、”われおもふ きみのこころははなれつる われもおもはじ きみもおもはじ”という言を心中で三度唱え、土器(かわらけ)を叩き割るという風に行うようです。境内の所定の場所で割るか、自宅で割った破片を神社に言伝とともに送るという二つの方法があるみたいですよ。説明書きです。旧護摩堂 文化元年(1804年)完成。 桁行二間、梁間四間の寄棟萱葺風銅板葺建物。寛政10年(1798年)に焼失した社殿に代わって現社殿の完成まで仮社殿として使用された建造物。奥二間が当初本殿部、手前二間が祈祷殿(幣殿)として使用されていたとみられる。当初は茅葺屋根であったがその後瓦葺に改められた。 平成23年(2011年)に発生した東日本大震災により屋根瓦の落下被害が甚大であったため、当初の形状に近似する萱葺風銅板葺の屋根に改められた。 当初は社殿東側に並び立っていたとみられるが、その後数度に及ぶ移築を経て現在地に移された。これは現在の表参道に建てられた山門です。これとは別に昔の表参道の山門が有るんですが、道路を跨いでいるため、安全に配慮してか現在はくぐることは出来ません。こちらの門の非常にしっかりとした装飾がなされています。門をくぐると手水があります。双龍の手水は初めて見ましたよこちらが旧表参道の山門です。ここが”茨城の日光東照宮”や”元日光”と呼ばれる所以となった建造部でしょう。あまりにも豪華すぎて、初めて見た時は理解が追いつきませんでした道路側から見た山門表側。仁王像の代わりに両天狗が安置されています。この写真を見ながら一体何杯のお酒を飲んだことでしょう・・・最高の思い出です装飾もこの通り。近くで見ると尚凄いですよね!?日光東照宮に負けず劣らず、素晴らしい山門です。説明書きです・・・が、ほぼ全く未知の領域の中国故事の内容である為省略します。この分野の理解が深まった頃に見返すかもしれません。神社仏閣の木彫装飾としてはよく用いられる分野なので、見識を深めたいところではありますが・・・。山門横には神輿社があります。奥には鐘楼も見えますね。山門から拝殿の方を見ると北斗七星の形に足型が置かれています。いろいろ調べてみましたが、これは古代中国(夏王朝とあるので中国史の中でも原初に近い部分か)の聖天子”禹”の歩き方を模した禹歩というものだと思います。ここら辺はさっぱり知らない分野です。知らないけども、足型があると踏みたくなるもの・・・この通り進んでみます。するとあら不思議、脳内は小学校の時にやったケンケンパのことでいっぱいです拝殿です。もう言う事ないですね、素晴らしいの一言に尽きます。拝殿の装飾です。疲れ目には少々辛いカラーリングw斜めから見てみても、その美しさは留まることを知りません。説明書きです。社殿 本殿・幣殿・拝殿を繋ぐ複合社殿。 規模は県内最大規模で本殿は奥行二間、梁間三間。幣殿は奥行三間、梁間三間。拝殿は奥行三間、梁間五間。 本殿は三手先組の折衷様。側面及び背面に浜縁を廻らす。妻部は二重虹梁で中備を四霊(龍・鳳凰・麒麟・亀)彫刻が飾る他、多種多様な彫刻が施されている。 幣殿は鳴き龍の鏡天井となっている。拝殿向拝部の繋ぎ虹梁は龍の丸彫り彫刻となっている。西側の龍尾に(「信秀」磯部儀左衛門信秀)の銘が確認される。現在の社殿は寛政10年(1798年)、享和2年(1802年)の相次ぐ火災による焼失後に再建がなされたもので、文化13年(1816年)に遷座が行われた。棟梁は栃木県大平町下皆川の多兵衛。彫刻師は栃木県栃木市富田の磯部儀左衛門信秀一門。天井画および障壁画は磯部一門の五楽院法橋等随の手になる。本殿、幣殿に廻る瑞垣欄間彫刻は二十四孝題材のうち剡子・紅革・仲由を除く23話23面、および本殿腰組中備彫刻7面の彫刻は嶋村円鉄(円哲)作になる正徳社殿からの転用材。平成18年(2006年)完成当初の姿に復元。ただし本殿腰組中備の復元彩色は*暦時のそれに従った。また屋根は建立当初杉皮葺きであったが、文政5年(1808年)銅瓦棒葺きに改められた。平成18年これらに従い復元修復が完成。続けて説明書きです。天海大僧正と大杉神社 慈眼大師あるいは南公坊とも呼ばれ、徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍の参謀を務め、風水師としても知られた天海大僧正に奇跡の瑞雨をもたらしたのが大杉大神さま。関東一円を襲った大干ばつの年に、当時随風と名乗っていた天海が霞ケ浦に小舟を浮かべ、東方にあった龍神(大杉大神)を勧請して見事に雨を降らすという奇跡を起こした。以来随風は江戸で将軍の参謀を務め、家康は特に彼を重用し臨終の際にも彼を立ち合わせた。また家光は随風のために天皇から勅許を得て東叡山 寛永寺(上野寛永寺)を建立。神恩を賜った大杉神社のある安穏寺の住職となり、以降明治を迎えるまで大杉神社の別当であった安穏寺は東叡山 寛永寺、日光山 輪王寺の住職である輪王寺宮が住職を兼帯する特別な存在となった。 風水師であった天海大僧正は大杉神社を江戸の鬼門守護社と定めたため関東各地から参詣の人々が絶えることがなかった。 天海、輪王寺との関係から東叡山 寛永寺に在った家光の廟である大猶院が日光山へ移される際に、廟前にあった徳川本家奉納「大杉大明神宝前」の刻印の下から、消し潰された「大猶院宝前」の文字を確認することができる。 ちなみに天海大僧正は明智光秀とともに本能寺の変より先に稲敷市江戸崎の不動院に身を隠した織田信長であったと伝えられている。天海大僧正は寛政20年(1643年)に入寂。一般にはこのとき数え年108歳であったといわれる。信長は天文3年(1534年)に生を受けているので、仮に信長が天海であったとすると満109歳・数え110歳であったことになり、他の明智光秀説などと比べると信憑性が高い。ついでに御由緒も見てみましょう。大杉神社の歴史海上に浮かぶ大杉神社 稲敷市阿波の大杉神社は、全国に670社ほどある大杉神社の総本宮です。大杉神社の鎮座する場所は、『常陸風土記』に「安婆嶋」として登場します。霞ヶ浦、利根川下流域、牛久沼、印旛沼、手賀沼、小貝川下流域などを内包する常総内海(常総内湾)に突き出すような半島地形だったことから、古代においてこの地は内海に浮かぶ島のように思われておりました。 律令体制以前この一帯は、菟上之国(うなかみのくに)という霞ヶ浦東岸域(稲敷、行方、鹿島南部)と東総域(香取、海上、匝瑳)を治めていた国の一部と伝えられております。菟上之国は菟上国、海上国とも表記され、常総内海の交易、産物を中心として成立した小国で、ここに暮らす多くの人々は漁撈と農耕の両方を生活基盤としておりました。他にも、製塩や玉造(勾玉を中心とする信仰対象の装飾品の製作)も盛んで、当時の大切な交易物資であったと伝えられております。海河の守護神あんばさま 当時、菟上之国は広大な常総内海を支配域としておりました。その内海の航路標識の役割をはたしたのが、大杉神社の巨大な杉です。この地が「あんば」と呼ばれていたことから、巨杉に鎮座する神様は「あんばさま」と呼ばれました。この巨杉は常総内海の人々の信仰の対象として、また海で生活する人々の交通標識として役割を発揮していたと考えられます。後に舟運交通守護の神様として利根川水系、太平洋沿岸の舟運業に携わる多くの方々にも信仰され、交通安全の神様として篤い信仰を受けていました。 律令体制期に、菟上之国が内海の西にあった茨城国の一部に組み入れられるまで、大杉神社は菟上国造を祀るもっとも重要な神社でした。その後菟上之国の海上支配、交易権は、南下してきた仲国の一族が築いた鹿嶋、香取の両神社に移譲しましたが、一般民衆の間では依然として、海河守護の神様としての大杉神社の信仰は温存されつづけられました。※御神木かつて「あんばさま」と呼ばれていた「太郎杉」は、1778年に消失しました。現在の御神木は、樹齢およそ1000年・樹高40mの大杉「次郎杉」と、樹高28mの「三郎杉」です。あんばさま 総本宮 大杉神社 / 大杉神社の歴史 より抜粋実際に境内を廻ってみましたが、次郎杉の時点で大分大きく、太郎杉はいったいどれほどの大きさだったのか非常に気になります。日光の瀧尾神社、鹿島の鹿島神宮しかり、古代の信仰であればあるほど巨木を御神体として祀っている神社が多い気がしますねぇ。なにかそうする理由があるんでしょうか。本殿もこの通りきらびやかです。東照宮の様な赤さが特徴的ですね。拝殿の左手側には神楽殿と末社が置かれています。その内これは神楽殿。堂内には四神が置かれていました。説明書きです。これ以外の説明書きは、ページ最下部にあります。”醤油醸造と大杉神社”、”あんば囃子”についてのものです。神楽殿 毎年節分当夜に十二座神楽が行われる。本来庭上に四神幡を立て注連縄を張り巡らせて神楽場とした名残りの四神台石が境内に据えられている。 神楽殿は正徳社殿群以降幾多の火災に遭い焼失。天保13年(1842年)に再建された神楽殿も老朽化に伴い傾斜が著しかったため平成10年(1998年)に再建。元和元年(1615年)創業成功祈祷に訪れたヒゲタ醤油の創業者であった田中玄蕃がのちにこの十二座神楽を東総地域に拡めた。 演目は猿田彦命・素戔嗚命・住吉明神・八幡大神・手力男命・天鈿女命・三宝荒神・恵比須・鈿女・榊葉・田の神・稲荷大神の十二座。これに扇舞・鈴舞の巫女舞が付属する。神楽殿の天井にはこの通り極彩色の鳥が描かれています。これには神楽殿横の布袋尊もニッコリ!次に神楽殿脇の末社群です。鳥居には大国神社と書かれていますが、これ含め合計5社の末社が置かれています。各祠の前にはひさしが取り付けられ、熱い日差しが降り注ぐ時も、雨が強い日でも参拝しやすくなっています。末社は右から・・・・天満宮:菅原道真公・四柱神社:天之御中主神、高御産巣日神・神産巣日神、天照大御神、神直日神・大直日神・白山神社:菊理媛命・五十瀬神社:天照大御神・大国神社:大国主神、事代主神となっていて、それぞれ祠の造りが異なります。是非見比べて見てください。末社群斜めから。本殿の脇には三本杉の内、三郎杉が立っています。鳥居や注連縄で飾られ、御神木感たっぷりです。三郎杉の直ぐ近くには毘沙門天が睨みをきかせていました。毘沙門天の左隣は別当寺だった龍華山 慈尊院 安隠寺が置かれていますが、別記事で紹介したいと思います。基礎部分の壁には彩色画が描かれています。寺院を取り囲むように三面に描かれています。その内一つは天台宗総本山:比叡山 延暦寺を描いたものです。彩色画からすぐのところに葦船神社が置かれています。この社は蛭子命と大国主神を祭神とする社であり、更に水子供養の社でもあります。水子供養 大杉神社に葦船神社が再興 古来、数え7歳までの子どもは神の子とされ、7歳になる前にこの世から旅立っていった子は神のもとへ帰ったとして葬式をせず水子として祭られることが多かった。 大杉神社の鎮座する一帯でも、そうした子たちすべて水子として丁重に祭った。かつて常陸内湾(江戸時代初頭まで広がっていた利根川か流域、印旛、手賀、牛久沼流域、霞ヶ浦域)に面していた大杉神社には、水子供養のためこうした地域から多くの人々が参詣に訪れていた。数え7歳にいたらずにこの世を去ってしまった子らを祭ったのが、「葦船社(あしふねしゃ)」あるいは「蛭子社(ひるこしゃ)」と称された神社。 我が国で、水子の原型とされているのが蛭子命(ヒルコノミコト)と称される神様で、別名エビス大神。あの世へ葦の船に乗せたれて旅立った後、父・伊弉諾命(イザナギノモコト)と母・伊弉冉命(イザナキノミコト)のために富を宝船に乗せて帰ってくるという伝説があり、恵比寿像は必ずと言っていいほど宝船に乗り小脇に鯛を抱える図で描かれている。こうした伝承もあり、水子を祭ることは一家の繁栄と安泰をもたらすとして、江戸時代には多くの地域から大杉神社境内の葦船社に参詣したことも知られている。 大杉神社では、廃絶に近い形だった葦船社を「葦船神社」として再興、間もなく完成の時を迎える。御祭神は、水子を守護する蛭子命と冥界を守護する大国主命。実際の愛情を注いであげられなかった子を想う、水子を持つ多くの人の思いを取り入れた社殿になっている。慰霊のための落ち着いた雰囲気の中にも贅を尽くした作りを―社殿外部は黒に銀で模様が描かれ、内部は天井に様々な花が描かれ華やかな趣がある。あんばさま 総本宮 大杉神社 / 大杉神社に葦船神社が再興 より抜粋社の前には福禄寿と寿老人が置かれていました。葦船神社から少々歩くと、駐車場の奥の方に三本杉の一つ”次郎杉”が見えてきます。三本揃った姿を見て見たかったです・・・。次郎杉から拝殿方面へ。こちらにも末社群があり、扁額には合計7つの神社名が載っていますね。参道の途中には謎の祠が・・・。どうせだから稲荷から参拝することに。鳥居をくぐっていきます。稲荷神社です。何と言いますか・・・たくさん稼げるようになれそうです。祭神は保食神。ほんとすんごいですよね、装飾!お次は勝馬神社。競馬ファンの参拝が絶えないそうですよ。その名の通り馬を守護する目的で置かれた神社の様です。面白いことに、祭神は不明。上・下野国からもそれなりに近いため、もしかしたら上・下毛野一族が信仰していたとされる駒形大神を祀ったものかもしれないと妄想しています。祠の中には猿に引かれた勇壮な馬像が収められています。古来より神猿は馬の守護神とされていたとか・・・それに因んでいるんでしょうか。説明書きです。勝馬神社御祭神:不詳 もと馬櫪社と称し、貞観4年(862年)信太馬牧に祀られた馬体守護の古社。鎌倉時代ごろ大杉神社境内に遷座された。 4月8日は大杉神社の春の大祭で別名駒牽祭と呼ばれている。境内山奥に馬場(現駐車場)があり競馬が開催された。 旧来は馬場を見渡す地に石祠として鎮座。農耕馬の消滅とともに石祠の存在すら多くの人々から忘れ去られていた。平成14年篤志家の手によって現在の地に遷座、社殿を建立。JRA美浦トレーニングセンターが近いこともあり、馬主・騎手・調教師といった競馬関係者はもとより、競馬ファンの参拝も多い。本堂もありますよ!末社の中でも特に崇敬が篤そうです。つぎは摂社になるでしょうか、捄総社です。大杉神社・あんば様とも関係の深い菟上之国の国人を祀った神社のようですよ。計4つの神社が合祀されています。説明書きです。捄総社捄総社とは日祀社・鵜神社・梶鳥社・神護社の総称。・日祀社御祭神:日女大神 ウナカミの王の祀る太陽の神様。・鵜神社御祭神:鵜神大神 歴代のウナカミの王と、これに連なる菟上国造の御霊。・梶鳥社御祭神:鳥船大神 ウナカミの王のもと海上交通と交易を守護する神様。・神護社御祭神:鵜神大神の末裔、日奉部直神護命 菟上(海上)国造となった神護命が祖先を祭祀した神社。日祀社・鵜神社・梶鳥社を再建した功により祀られた。古代常陸の歴史に深く関わる内容で非常に面白いです説明書きを見る限り、日祀社では今の日本神話とは別系統の太陽神が祀られているということなんでしょうか?天照皇大神の別名はオオヒルメであり、ヒルメ部分が共通しています。系統が異なったとしても、太陽神=女神という共通認識があったということなんでしょうか。これ以上考えると寝れなくなりそうなので、ここらへんで切り上げます。最後は相生神社です。ここは何と生殖器崇拝の社で、祭神は伊弉諾大神と伊弉冉大神の二柱なんですが、御神体はどちらも生殖器型の石碑です。おびただしい数の木札が掛けられているのが見えるでしょうか、これは願いの数を表しています。相当に崇敬の篤い社だと分かりますね説明書きです。相生神社御祭神:伊弉諾大神、伊弉冉大神 男女和合の神社で、子授け(子宝)の神社として知られている。 男根石に願い紐を懸けて月参りする。子供が授かったら女陰石に叶い紐を懸け、お礼参りの祈祷を受ける。御神体をよく見てみます。もはや形が分からないほどに札でおおわれてしまっています。大杉神社の末社は面白いものばかりでした・・・!神社を去る時、駐車場の入り口に弁財天を見つけました。明日からの筑波周辺の散策が楽しめればいいなと思いながら、友人の運転する車内から眺めていました。実際すごく楽しめたのですが、筑波山に登りたいという思いも強くなってしまい・・・。これは登りにいくしかないようです。いつになるか分かりませんが、絶対に。今回貰った御朱印です。大杉神社の御朱印末社:勝馬神社の御朱印摂社:捄総社の御朱印これら以外にも摂社・末社の御朱印がいくつもありました。以上です。公式サイトへのリンクあんばさま 総本宮 大杉神社wikipediaへのリンクwikipedia / 大杉神社補足情報コーナー神楽殿の近くに説明書きがいくつも有るんですが、醤油並みに内容が濃すぎて進行に支障をきたしそうだったので、ここに載せたいと思います。醤油醸造と大杉神社 一般に関東での醤油醸造は元和2年(1616年)の千葉県銚子市での田中玄蕃による醸造が早いとされる。玄蕃は後のヒゲタ醤油の創業者であるが、千葉県野田市で天文年間に飯田市郎兵衛によってすでに醸造が手掛けられていたという。 しかし飯田市郎兵衛は茨城県稲敷市上君山出身で野田に移住したとされている。市郎兵衛の出身は上君山の飯田藤右衛門家ですでに天文年間(1532~1555年)に土岐原氏に納める醤油を醸造しており、天正2年(1574年)に家業としたといわれている。関東醤油醸造の初期の創業者は藤右衛門家に創業の折には挨拶に赴くのを慣例としていたとみられ、その折に藤右衛門家が信仰していた大杉神社での祈祷を受けることも恒例化していたとされる。田中玄蕃もそうした中の一人であり、高梨兵左衛門(キッコウマン)、国分勘兵衛(大国屋、のちの国分)などが代表例である。 醸造家とともに廻船問屋や諸々の商いをする商人たちが多く大杉神社を参詣するようになった。盛時には神社周辺に20軒ほどの参詣宿が軒を連ね、参詣人の多さは「蟻のあんば詣で」と称された。また参詣人の増大と信仰の隆盛は豪奢な社殿群の建設を可能にし「あんば日光」の異名をもって称されるほか「あんば参れば日光みることなし」と称されるほどであった。※1. 大杉神社鎮座地の地名「阿波」は「あんば」と称されてきた。旧村合併の際「阿波村」となり村名は「あば」大字名は「あんば」であったが後に混同されることが多くなり、現在は「あば」と発音されている。大杉大神さまの鎮座地が「あんば」であったことから、大杉大神さまを「あんばさま」「あんば」と一般には称していた。あんば囃子 これまで元和元年(1617年)にヒゲタ醤油の創業者田中玄蕃によって上方からもたらされたとされたと言われていたあんば囃子は、すでに天正年間(1573~1592年)に境内で踊られており、初源は天文年間(1532~1555年)に遡る。 その後下火となったものの享保10年(1725年)隣村須賀津の若衆が大杉神社内の幣束を持ち出し、悪魔祓え囃子を奏し踊ったことに端を発し、翌享保11年(1726年)には水戸市および千葉県市原市に及ぶ広域に流布。さらに享保12年(1727年)永代寺境内で出開帳が行われた。この際悪魔祓え囃子と称していたあんば囃子が大流行となった。江戸市中を席巻した囃子は、市中の混乱を招くとするほどに盛況であったため江戸町奉行大岡越前守忠助により禁令を受けるほどであった。 その後も各地に伝播、佐原囃子・潮来囃子・成田祇園囃子など関東近郊の多くの囃子の源流となった。
2025年01月20日
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